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中納言良房 6.承和の変

2010.04.30 11:35

 常嗣、淳和天皇とこの年は死者が相次いでいたが、七月七日、また新たな死者が出る。

 右大臣藤原三守死去。享年五六歳。

 就任する直前まで大臣になるなど想像せぬ人生であったが、右大臣に就任してからこれまで、左大臣が左大臣だけに右大臣の活躍が求められる場は多く、三守はその全てに誠心誠意応えてきた。就任当初は長良や良房の傀儡と考えられたこともあるし、右大臣としての職務も良房の影響が現れているが、それが三守の評判を下げる要素にはならなかった。

 確かに清野の頃のほうが豊かな生活であった。この年の六月には飢饉対策として、冬嗣の頃頻繁に見られた免税が布告されている。だが、その責任は緒嗣にあると見る市民は数多く、三守は良くやっていると見る人のほうが多かった。

 その三守がいなくなったことは、緒嗣にとってチャンスだった。ここで左右の大臣を占有できれば緒嗣の権力は盤石になる。緒嗣には右大臣に推せる人材がいたのだ。

 復帰した吉野。

 だが、これはさすがに躊躇われた。確かに大納言なのだから右大臣になる資格はあるのだが、淳和上皇への忠誠を誓うために宮中を離れ、ついこの間復帰したばかりという身では右大臣となるのに疑問を抱く者が多かった。

 何より、仁明天皇が疑問を抱いた。

 自分ではなく叔父を選び、叔父が亡くなってから自分のもとにやってくる。これは、吉野の淳和天皇に対する忠誠心の堅さを示したが、仁明天皇を軽んじているという見方もできた。

 それに、吉野が、自分の師である三成や良房をいかに軽く扱ったかを仁明天皇は知っている。これは吉野の性格だろうが、自分より立場の弱い者に対して必要以上に尊大な、簡単言えば意地悪。これは、仁明天皇にとって、このタイミングで名が出た吉野を快く迎え入れるのを難しくさせることだった。

 一方、良房は誰もが考えなかった人材を見いだす。

 大納言なのだから右大臣の資格は充分。それに、吉野と違って性格も問題ない。それに、前任や前々任の右大臣と違い、若い。

 その者は自分が右大臣候補になったことに驚きを見せ、しばらく考えた後に決意した。仁明天皇はその意志を確認した後、その者を右大臣に任命した。

 八月八日、嵯峨上皇の子の一人で仁明天皇の弟、源常(みなもとのときわ)が右大臣に就任。

 同日、良房が正式な中納言に就任。左兵衛督・陸奥出羽按察使との兼任は継続された。

 たしかに源常は大納言であった。しかし、大納言の中で最も右大臣に遠い人材と見られ、候補の一人と考える者など誰もいなかった。

 若すぎるのだ。

 この年、藤原緒嗣、六六歳。

 藤原良房、三六歳。

 源常、なんと二八歳。

 緒嗣も良房も若くして出世を重ねたが、源常にはかなわない。一七歳で従四位下、二〇歳で従三位、二一歳で参議を経験せずに中納言、二六歳で大納言という異例としか言いようのないスピード出世である。

 これは、嵯峨上皇の実子で仁明天皇の弟という点に加え、皇族出身者向けの特別枠とでもいうべきルートでの出世でもあるのだが、源常は断じて無能な人材ではない。 

 そのことは自身が教育係であったことからも良房には理解できていた。良房が源常の教育係となったとき、源常はすでに従四位下として貴族デビューしていたが、当初は単に嵯峨上皇の子というだけの存在としか見られていなかった。その源常が時とともに立ち居振る舞いも艶やかな凛々しい貴族となり、その深い教養と気品を漂わせるようになったのを見て、嵯峨上皇は目を細めていた。

 その源常が大納言となったのは皇族ゆえの特別扱いであったろうが、大納言は大納言であり、右大臣たるに充分な資格がある。ゆえに、言いたいことはあるかもしれないが、何ら文句の言えない人選だった。

 もっとも左大臣の緒嗣は文句を言っている。正式な文句ではないが、八月一五日と二一日の二回、抗議のための辞表を提出している。

 緒嗣にはわかっていた。これが、教育者としての良房の本領発揮、すなわち、教え子を利用しての勢力構築だということを。

 それにしても、弟の人間教育に失敗しておきながら、若き貴族のタマゴにとっては最高の教師。世の中とはこういうものなのかも知れない。


 右大臣に就任した源常がまず行なったのが、それまで停まっていた「日本後紀」の続きの作成だった。国としての公式な歴史を完成させる必要性は誰もが認識していたが、冬嗣が始めた事業ということもあり、緒嗣は意図的に事業の継続をボイコットしていた。

 冬嗣が日本後紀の途中を公表して以後の歴史の中で、緒嗣はその存在を良くない意味で発揮してきた。それを国の公式見解として残すことを緒嗣が承知するはずがない。

 夏野や三守もその必要性を認識していなかったわけではない。だが、緒嗣の猛反対もあって頓挫していた。

 源常が日本後紀の編集に手を出したのは、右大臣として左大臣に対抗するという宣言に他ならなかった。あくまでも大義名分は日本後紀の完成を目的として。そして、この日本後紀の編集はまるで同窓会のような雰囲気であった。かつて良房のもとで学んでいた元大学生たちが資料を集め、良房を教師とした源常らが執筆を担当した。

 これだけならば左大臣として拒否権を発動できるはずだった。だが、良房は左右大臣が協力して歴史書を書いていると公表し、源常がこれを公表したのだ。

 これに緒嗣は激怒する。しかし、源常はその怒りを無視し、緒嗣の悪行も欠かさず書いた歴史書の編纂をはじめた。

 緒嗣は右大臣が暴走し歴史書の改竄をしていると公式な非難声明を出すが、良房は緒嗣のその発言も歴史書に残すとした。

 「先の帝(=淳和天皇)までは書き記すのが後世に生きる我々の役目、そして、主上御即位以後の歴史を記録に残し、後世へと伝えるのもまた我々の役目。後世の歴史書は我々にお任せください。」

 これは良房からの嫌みでもあった。緒嗣がもう六六歳になりいつ死んでもおかしくない年齢であること、そして、派閥の継承に失敗していることをあざけっているのだ。

 「何と言おうと、歴史の捏造は許さぬ!」

 「では、真実を記すのはお許しいただけるわけですね。」

 緒嗣は良房が時代をかなり掴んできているのを実感した。そして、このまま何もしなければ遅かれ早かれ時代は良房のものとなる。

 これにいかにして抵抗するか、緒嗣は考え続けた。

 その頃、海の向こうの新羅から不穏な雰囲気が漂ってきていた。

 前年の六月二七日、新羅の新たな国王に就任した神武王を慰問するために唐から派遣した使者は、新羅の船に乗って移動した。

 このとき使われた新羅の船は「交関船」と言い、新羅人張保皐(ちゃん・ぽご 名の漢字表記は「宝高」とする説もある)の所有する船だった。

 現在の韓国の全羅南道莞島に根拠地を置いた張保皐は、新羅南部の群小海上勢力を傘下に収め、唐・日本と手広く交易活動を行ない、中国沿海諸港に居住するイスラム商人とも交易を行なった。

 いつしか張保皐の名は広く知られるようになり、張保皐の勢力は新羅王室の権勢を超える事実上の独立勢力となっていた。

 この一大勢力が新羅王室に手を出してきたのがこの頃。張保皐は誰もが認めざるを得ないキングメーカーとなり、神武王が即位できたのも張保皐のおかげだった。実際、神武王は張保皐の武力を頼った軍事クーデターで王位を掴んでいる。

 日本にとっての張保皐は、信頼できるビジネス相手であった。張保皐は自らの勢力の中に海賊を迎え入れているが、彼らの海賊行為は厳しく処罰した。とくに、奴隷貿易に手を出す海賊は厳しく処罰し、奴隷として拉致された日本人を送り返している。そして、海賊や奴隷貿易より安定して高収入が得られる海運業や造船業に元海賊を投入した。

 ただし、これで新羅の海賊がなくなったわけではない。張保皐の勢力下にない者は相変わらず海賊を続けていたし、日本も海賊対策は必須だった。

 その張保皐と日本との接触がどのようになっているのかはこのとき明らかになっていなかった。これまで海賊が圧倒的多数でまともな貿易商人がごく少数だった新羅が、張保皐の登場以後海賊を減らし、まともな貿易を行なっている。ということは何らかの形で日本との通商で利益をもたらしているはずなのだが、そのカラクリがわからなかったのだ。建前は一商人として博多にやってきているということになっていたが、張保皐は日本と何らかの接点を持っているはず。そして、接点があるからこそ張保皐に関する情報が日本に伝わっていると考えないと辻褄が合わない。

 という状況下で新羅からもたらされた情報というのは、この年の七月、神武王が急死し、神武王の子文聖王が即位したという情報である。

 新羅に何かが起こっている。そして、日本にもその影響が出ている。誰もがそう考えた。

 九月二六日、遣唐使の最終報告が朝廷から出された。

 入唐廻使判官以下水手以上の三九一人に階位を与えたという記録である。しかも、通常であれば位とは無関係であるはずの僧侶にも、仏教界における位が与えられている。おそらく、下級船員ほど大量の階位が与えられ、上級貴族は少しに留まったと推測される。その内訳は、九階の昇進が一二人、八階が三九人、七階五九人、六階一二九人、五階一三四人、四階二人、三階一人、そして既に昇進しているため今回での昇進が見送られる者五人。九階の昇進が一番下の少初位下の船員に対して与えられた場合、従七位上という役人としてまずまずの地位になる。サラリーマンの感覚で行くと、昨日入社ばかりの新入社員がいきなり入社一〇年目の課長クラスに出世したようなものである。

 それにしても気がかりなのはこの人数。

 最初の渡航では四艘の船の総乗員は大使から船員に至るまで合計すると六五一人。このとき把握された人数は三九一人。篁ら五人が途中でリタイアし一部の僧侶で入れ替えがあったなど六五一人全員が最後まで遣唐使と運命をともにしたわけではないが、一〇人中六人しか生きて帰ることのなかった大冒険行であった。

 無論、全員が航海の途中で命を落としたわけではない。唐の地で亡くなった者もいるし、常嗣のように帰国してから命を亡くした者もいる。また、この時点でもまだ唐に残っていた者がいるし、行方不明なわけであって命を落としたわけではない者もいる。

 それにしても、生存率六〇パーセントの航海は危険以外の何物でもなかった。

 それでも唐との交易で得られる物があったのならばまだ救いはあるが、何もなかったのだからなおさら救いは失われる。

 このタイミングで緒嗣が企画した遣唐使の大量昇格は、一年前の熱狂を思い出させる効果があったが、同時に、これほど多くの命が失われたのかと憤激させる効果もあった。そして、緒嗣が遣唐使に懸命になっている間は遣唐使が終わればいい暮らしが戻ってくると考えていた者も、遣唐使が終わった現在になっても生活が良くならないことを実体験で感じていては、遣唐使の「成功」を高々と訴える緒嗣を冷たく見るのも当然であった。

 一二月二七日、不穏な動きを見せていた張保皐がついに動き出した。

 大宰府から、張保皐からの使者が派遣されたことを報告してきたのである。通常こうした使者は新羅国王の名義で派遣されてくるが、今回は張保皐個人からの使者。それでいて、外交手順としては正式な外交手順を踏んでいる。

 これに対する対応は真二つに割れた。

 良房の言い分は、何と言っても新羅の実力者からの直接の連絡であり、正式な通商とするには難があるだろうが、無碍に追い返すわけにはいかないだろうというものである。この意見に右大臣源常が賛成した。

 しかし、所詮は海賊を束ねた一商人でしかない。いくら実力者でも国賓として接するわけにはいかないだろう。これが緒嗣の回答だった。緒嗣が断固として反対した理由は後に判明するが、この時点ではあくまでも国の体面を前面に出しての反対であり、いつものことと誰も不可解に感じなかった。

 議論は平行線をたどり、答えが出せないまま承和七年が終わりを迎えた。

 翌承和八(八四一)年一月一日、新年恒例の朝賀を中止した上で議論が繰り返されるがなおも結論は出ないまま平行線をたどった。

 このとき、とんでもない情報が飛び込んできた。このとき大宰府に留め置かれた張保皐の使節と、筑前国司文屋宮田麻呂(みやたまろ・文屋綿麻呂の弟)が接触をはじめたのである。これは重大な職務規程違反だった。

 大宰府を抱える筑前国をはじめ、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後の六ヶ国は直接の外交交渉を禁じられていた。その筑前国司が大宰府の目をくぐり抜けて国外の使者と接触したのである。

 どうやら筑前国司が大宰府とは別に張保皐と独自の関係を持とうとしていたのは宮田麻呂に始まったことではないようである。遣唐使として唐に渡った僧の円仁は、著書『入唐求法巡礼行記』の中で、「筑前大守」より「書一封」を預かり張保皐へ献じるつもりであったが、遣唐使船が唐に着いたときの座礁で書が流出してしまったと述べている。このときの筑前大守=筑前国司は小野末嗣だから、張保皐は宮田麻呂以前から筑前国司と接点を持っていたこととなる。

 一月一三日、文屋宮田麻呂、解任。張保皐の日本との接点の正体が判明した朝廷はただちに文屋宮田麻呂を筑前国司から免職させ、京都に召還することとした。宮田麻呂に代わる筑前国司としてこれまで参議であった南淵年名が任命されるという異例な対処をしただけでなく、周防、長門、筑後、肥前、豊前の国司を変更するという、張保皐と接点を持ちうる面々の総取り替えに及んだ。

 しかし、宮田麻呂の資産調査については緒嗣が強硬に反対している。そのため、宮田麻呂は国司として得た資産を取り上げられることなく京都に戻っている。

 なぜ緒嗣が反対したのかの理由は後日判明することとなる。

 二月一三日、出羽国から要請が届いた。前年の収穫が乏しいため、免税を願い出るという要請である。

 張保皐への処遇を巡っている最中に届いたこの要請は、普通なら議論百出するところであったが、このときに限ってはスムーズに決まった。出羽国在住の農民のうち二万〇六六八名の免税を一年に限って認めるという許可である。この中途半端な数字は、おそらく収穫の乏しい地域に住んでいる者の総数であろう。

 同日、信濃国で群発地震発生。一晩で一四回の揺れが観測された。

 不作の知らせと天変地異は、何かが起きている。それも良くない方向への動きが起きていると考えさせるのに充分だった。

 大飢饉に大勢の人が苦しんだ冬嗣の時代がまたやってくるのかといった恐怖が京都市中に蔓延。庶民は生活を守るために買い出しに走り、ただでさえ進んでいたインフレは一層加速して市場(しじょう)からは物が消えだした。経済危機を予期したとき庶民がどう動くかは古今東西変わることのない法則を持つ。

 この動きを聞いた緒嗣は、二月二五日、西市の北東にある空き地に、官営の金融機関である「右坊城出挙銭所」を設置するよう命じた。無担保でカネを貸し出す、言わば国営のサラ金である。

 手持ちのカネでは市場(いちば)に行っても何も買えないのだから、買えるだけのカネを貸し出せば物が買えるはずと考えるのは、インフレの仕組みを理解していないということ。事実、この処置は一瞬だけ懐を潤した後、さらにインフレを加速させた。

 どうやら緒嗣は死ぬまで経済の原理を理解できなかったらしい。今の時代に生きていたら亀井静香といい勝負をしていたであろう。

 そんな中、張保皐への処遇を巡って二つに分かれていた両者の妥協点を探った長良は、双方の言い分を飲んだ形での回答を提示。両者ともそれを受け入れ、二月二七日、回答が公布された。

 まず、張保皐は新羅の一家臣に過ぎないということで今回の使節派遣はあくまでも民間交流とする。そのため、正式な国交時に献上される進物は受け取らない。

 ただし、使者は大宰府に滞在することを許し、持ち込んだ品を売ること、また日本の品を買うことは許可された。

 新羅の政治紛争に巻き込まれないで済むにはこれが最上の方策であったろう。仮に張保皐が失脚することになった場合は張保皐を受け入れなかったという過去を主張できるし、張保皐が全権力を握った場合は張保皐を受け入れる動きがあったという過去を持ち出せる。

 ところが、日本にとっては最大の妥協の結果であろうと、日本のこの対応は新羅国内での張保皐の立場を怪しいものにさせる。キングメーカーとして君臨してきた張保皐が、格下に見ていた日本に一商人と扱われ追い返されたことは、張保皐のメンツを傷つけ立場を危うくさせるのに充分だった。

 張保皐は今でも韓国の英雄の一人である。韓国海軍の所有する潜水艦にはチャンポゴ級と総称される艦があり、その生涯はドラマやアニメで取り上げられるほど。それは、いつ崩壊してもおかしくない新羅という国家を立て直し、治安回復にも実績を残したことによるものでもあるのだが、この外交の失策は張保皐の人生だけでなく、新羅の命運をも左右する大事件となった。

 張保皐への対処は当然新羅最高の勢力となった張保皐を怒らせる。しかも、それまで筑前国司との間に築いていた日本との関係は宮田麻呂の更迭により途絶えた。

 これは、張保皐の面子だけでなく、張保皐のビジネス上の利益を失わせることであった。もともと海賊をしていた面々が略奪や人さらいをしなくて済むようになったのも、日本側に自分達の利益の共有者がいたからである。そうした存在がいなくなったということは、以後、これまで受け取っていた利益が受け取れなくなるということである。

 では、そもそも日本と関係を築くメリットは何か。

 商売の基本は物を売ること。できるだけ安く仕入れ高く売れば利益が出る。新羅で安く手に入るが日本では高値がつく物を売ることができれば利益は大きいし、その帰路は日本で安く仕入れてから新羅に戻って高値で売ればさらに利益が出る。

 しかし、新羅に売る物はなかった。新羅でなければ手に入らない物などないし、新羅ブランドなど市場では全く評価されていないのがこの時代である。だが、張保皐には唐とのルートがあった。唐で物を仕入れて日本に運んで日本に売る。日本で仕入れて唐に売る。これならメリットがあった。

 だが、正規ルートで売ると税がかかる。本来なら大宰府に持っていって売らなければ処罰されるが、大宰府に持っていくと関税が課せられるのだ。ゆえに、同じ利益を求めるなら売値を高く設定しなければならないし、売値を同じにすれば利益が減る。

 そこで筑前国司の登場となる。

 海外貿易を管理し、その出入り口である博多津を管理するのは大宰府の仕事だが、博多津自体は筑前国にあり、その周辺に展開される市も筑前国司の管理下にある。

 もし、博多津を通らず筑前国司に荷を売ったらどうなるか。

 課せられる税がゼロになる。裏でワイロを渡さなければならないが税に比べれば安くて済む。

 物を受け取った筑前国司は博多の市でそれを売る。実際はともかく、名目上は日本人が日本の品を売るのだから税がかからず安く済ませられる。

 よって、正式に大宰府を通した品と同じ物が安くなり市場に流れる。

 また、本人が直接買い物をするわけではないにせよ、国司が市で買い物をしたって何らおかしなことではない。そうして買った品を張保皐に、大宰府を通さずに売る。

 ここに、法を逸脱することを前提としたビジネスモデルが成立した。

 張保皐や筑前国司にとっては利益をもたらすビジネスだが、国にとっては入るべき税収が失われ、国内産業にとっても売り上げの減少という打撃をもたらすビジネスであった。

 この状況下で、「法に違反していますから以後はお断りします」と言われて、すんなりと受け入れるだろうか。

 何しろ生活がかかっているのだ。

 法に違反するということは理屈ではわかっていても、法を守っていたら生活に支障を来す以上、簡単に受け入れられるわけがない。それでも法を守れと言うなら、もう一度海賊に戻って略奪や人身売買に走らなければならなくなる。

 良房が張保皐を受け入れるべきとしたのはそこに理由がある。

 国としての体面を考えれば一商人の派遣する使節を断るのが筋だろうが、その体面のために失われる安全と負わなければならない負担を考えると、単純に緒嗣に賛成できない。

 だが、張保皐の使節を断った。たしかに大宰府での取引を認めたとは言え、それは法に基づいた取引を認めると言うことであって、張保皐がこれまでやってきた非合法の取引を認めるわけではない。

 それに気づいたときにはもう遅かった。良房はかつて渤海使に対して宣言したように自費で張保皐を歓待することを考えたが、そのときにはもう使節追放の指令が大宰府に届いて実行されていた。

 張保皐は、そう遅くはない時期に、武力に訴えてでもかつての利益を取り戻しに来ると考えた良房は、対新羅の防衛強化を訴えるが、人手も予算もない上に緒嗣がそれを認識しないまま時間を経ることで動けなくなった。良房は自費で兵を雇い九州各地や対馬壱岐に配備することも考えたが、いかに良房が裕福でもその余力はなかった。それに、張保皐に対抗するには、一個人ではなく、国として侵略から守るとする姿勢を打ち出す必要もあった。

 良房は交渉を重ね、八月一九日に、大宰府在勤の兵士一〇四名を対馬の防人として派遣することが決まった。たった一〇四人でも緒嗣の発した不平不満は大きく、予算もギリギリしか割かず、良房は私財からの持ち出しをしている。

 九月一日、京都を洪水が襲った。

 予感は前からあった。天候が悪く雨が多い。八月三〇日には集中豪雨が京都を襲い、雨が止むようにとする祈祷をしたほどである。

 だが、祈祷は効果が無く、洪水は京都の右京を襲った。

 平安京を記した図というのはたいてい真上から見た構図になっている。これでも上が北で下が南で、三方を山に囲まれているぐらいは読み取れるが、これだと、平安京として囲まれていく区画は水平なように見えてしまう。だが、実は平安京というのは東が高く西が低い、微妙に斜めになっている。そして、京都でもっとも地表面が低くなっているのは桂川周辺、いわゆる右京。

 右京が左京と比べて寂れてきたのはこうした洪水が右京では頻繁に起こっていたからである。京都に大量の雨が降ったとき、東から西へと水が流れ出してしまい、桂川周辺の一帯が水にあふれることとなる。そのため、初期計画では左右関係ない都市計画が成されていたのに、時代とともに右京がだんだんと寂れ、都市機能は事実上左京のみに存在するまでになった。

 この時代はそこまで右京が寂れてはおらず人も住んでいたが、それでも高級住宅地は左京に集まり右京は地価の安い地帯として庶民の住む地域となっていた。

 右京の水害を聞いた良房は、大学頭であった頃であれば自分が災害救助に向かっていたが、このときは自宅にいて動いていない。しかし、何もしていないわけではない。

 弟の良相、そして、弟の教育係となっていた篁を動かしたのである。

 やったことは大学頭だった頃の良房と同じである。炊き出しを行なう上皇の娘はさすがにいなかったし、救助にあたったのも良相一派を成す元不良たちであって大学生ではないが、国より先に動いて被災者の救援にあたったことでは同じである。

 もっとも、謙虚なアピールをした良房と違い、良相はもっと図々しいアピールをしている。

 「我々はあなた達に嫌われている。それは我々に課せられた運命だとも理解している。だが、嫌われるだけでなく非難まで受けている人が一人いる。無位無冠となった人が。それでも先生はあなた方を助けるために動いている。」 

 横を向いた良相の視線の先にいた篁は、何ら役職を持たない一市民として、その高身長を生かし溢れた水の中に身を投じて黙々と救援にあたっていた。かつて遣唐副使を務めたほどの人物とは思えないその姿は、それまで篁を非難していた人たちを黙らせるのに充分だった。

 助けられた側としてみれば、恐れている良相と、憎しみをぶつけている篁が自分たちのために動いているのである。複雑な感情としか言いようがない。嫌って、憎んでいる相手が褒め称えるしかないことをしているのだから。イメージとして思い描いている人間がイメージと真逆の行動をして、イメージのほうが正しいとするのか、いま見ているのが正しいとするのか。

 被災者は後者を選んだ。

 かつて良房が受けた絶賛を、今度は良相と篁が受けるようになった。

 災害救助の功績を考えれば、篁は何らかの形で官位を復活させなければならなかった。とは言うものの、嵯峨上皇の怒りもあったし、緒嗣もまだ篁への怒りを持っていた。

 良房は災害救助の功績を主張し、役職は後回しにしてもまずは官位の復活を求めた。

 九月一九日、今回の救援の功績が認められ、剥奪されていた篁の官位が復活する。正五位下。ただし、この時点ではまだ役職がない。

 官位を手にした篁は朝廷に再び足を運ぶようになったが、緒嗣派とは完全に関係が途切れ、ともに過ごす相手が良房や良相になった。

 ところが、朝廷に戻った篁はすぐに当代最高の文筆家としての才能を発揮しだした。文を書くのも、古典を引用するのも、朝廷内の誰もが篁に勝てず、良相や良房だけでなく、右大臣源常まで自らの文書の作成を篁に任せるようになり、ついには仁明天皇も勅令の作成を篁に任せるまでになった。

 嵯峨上皇の怒りはまだあったが、仁明天皇は父の怒りを無視する行為に出た。

 篁に役職が与えられたのは一〇月一五日になって。適切な役職がなかったのか、刑部少輔という正五位下から二階級下の従五位下相当の職が与えられた。その上、刑部省は本来なら犯罪者の取り締まり、裁判、監獄の管理、刑罰の執行を役目とする役所であるが、検非違使が設置されて以後有名無実化し、役職は閑職の一つとしか見なされなくなってきていた。

 これでも何の役職もないよりはマシだった。五位になっても何ら役職のないまま無職の五位である者など珍しくもない。

 一二月二二日、長門国から渤海からの使者賀福延ら一〇五人が到着したという報告が来た。

 前回の来朝から一四年を経ている。一二年に一回という渤海使の来朝期間を違反しておらず、今回は緒嗣が拒否する理由がなかった。しかし、やはり本心では歓迎していなかったのか、一二月二六日に緒嗣が任命した渤海客使の二名は、式部大丞であった正六位上の小野恒柯と、少外記であった正六位上の山代氏益(やましろのうじます)の二名。ともに重要な役目を果たしてきた官僚で能力も問題はなかったが、この時点ではまだ貴族ではない。

 小野恒柯は小野篁の従弟である。式部大丞になる前は地方官を歴任していたがどうにも目立つところのない人物と見られていた。職務は真面目に務めるのだが、性格はあまり良くなく、何だか頼りないといった感じである。ただし、この面は従兄に似たのか書道では絶妙の才能を発揮し、数多くの者が恒柯に代筆を頼んだという記録が残っている。

 山代氏益は常嗣とともに唐に渡って帰ってきた遣唐使の一人で、その語学力はなかなかのものがあった。後々勘解由次官をつとめたことと、仁明天皇が没した後に陵墓作成担当をつとめた以外、この人に関しては評伝がない。

 渤海客使は通常、その時代ナンバーワンの文人が登場する。それは、日本にやってきた渤海使たちと詩を作るのを競い合うからで、最低でも相手を感服させられるだけの漢詩を作る能力がないと渤海客使はつとまらない。

 この時代のその人材となれば、誰が何と言おうと、嵯峨上皇、橘逸勢、小野篁の三人である。だが、三人とも全く声がかかっていない。

 嵯峨上皇は体調を悪化させている。

 橘逸勢は緒嗣派の一人であり、渤海を快く思わない緒嗣が渤海使から遠ざけた。

 小野篁は一度遣唐使を途中リタイアしたという過去があり、こういった国外交渉の舞台には全く声がかからなくなるのもやむを得なかった。

 そのため、小野恒柯との山代氏益の二人が抜擢されたということとなる。

 小野恒柯はただちに渤海客使として長門国に書状を送り、渤海使にはそのまま船に乗って瀬戸内海を経て京都に赴くよう伝えた。

 承和九(八四二)年一月一〇日、新羅人李少貞らが筑紫大津に来着したとの報告が大宰府から届いた。

 これだけであれば日常の光景として何ら気にとめないことであったろう。だが、彼らのもたらした情報はそれだけではなかった。

 張保皐死す。

 続日本後紀によると、前年の一一月、張保皐が死に、軍勢の副将であった李昌珍らが反乱を起こしている状態だという。この時点では張保皐がどのように死んだかも、そして張保皐自身が本当に死んだのかも不明であったが、少なくとも新羅が不穏な状態にあることは明らかだった。

 李少貞らは張保皐の部下であることは日本側でも把握できていた。そして、日本に彼らが来たのは貿易ではなく身の安全を求めてのことであった。

 これより三〇〇年後に記された韓国史上初の歴史書『三国史記』の新羅本紀によると、張保皐は暗殺されたのだという。先の新羅国王神武王との盟約により張保皐の娘との婚姻を予定していた文聖王であったが、張保皐の身分が低いことから群臣が猛反発し、婚姻話が破談に終わったことをきっかけとして張保皐が反乱を起こした。張保皐の武力に打ち勝てるほどの軍事力を持たない文聖王は、閻長という剣客に張保皐の暗殺を依頼。閻長は張保皐にいったん投降し張保皐の部下として反乱に参加した後、宴会の席で張保皐を暗殺したとある。

 ところが、この暗殺がいつ行なわれたのかわからない。

 続日本後紀だと承和八(八四一)年のこととなっているが、『三国史記』新羅本紀には文聖王八年(八四六年)と記されており、『三国史記』のさらに一〇〇年後に記された『三国遺事』によると神武王の時代にはもう殺されていたとある。

 同時代史料としては続日本後紀のほうが正確性の高い史料と考えられているが、いかんせん張保皐に関する資料の記載量が少ないため、現在の韓国の歴史学会では張保皐の死を『三国史記』に基づいて文聖王八年(八四六年)としている。しかし、日本などの韓国以外の研究者は続日本後紀に基づいて承和八(八四一)年に暗殺されたという前提で研究をしている研究者が多い。

 三月二七日、渤海からの使者が入京してきた。

 瀬戸内海沿岸の各地で歓迎を受けての航海であったため、通常なら半月もあればたどり着く道のりを三ヶ月かけたゆっくりとした足取りになった。ただし、季節的に航海に向いていなかったとする考えもあり、一概に遅いとは言えない。

 京都に就いた渤海使たちは鴻臚館に入り、小野恒柯と山代氏益の歓待を受けた。

 実際にはまだ貴族ではなかったのだが、無名の若い貴族が自分たちを出迎えたこと、その若者二人がなかなかの歓待を見せたことに渤海使たちは感謝を述べた。

 翌日には右大臣源常が鴻臚館を訪問。歓待した二人と大して歳のかわらぬ若者が右大臣で、かつ、天皇の弟だということを聞き、渤海使たちは、この一四年の間に日本の政権がかなり若返ったのだと考えた。

 この日の夜には小野恒柯の主催する歓迎レセプションが行なわれた。仁明天皇は出席しなかったが、右大臣源常、中納言藤原良房、蔵人頭藤原長良といった面々に加え、小野篁も日本側の一員として参加。酒と料理が振る舞われ、題を示しての作詩が行なわれたとあるが、そのときどのような詩が作られたのかは残っていない。

 渤海使が仁明天皇に拝謁したのは四月二日になってから。国書と方物を献上し、仁明天皇からも贈答の品が渡された。

 この間、緒嗣は渤海使と何ら接触を持っていない。それどころか、一切の国事行為に欠席し、自宅に引き籠もっていた。

 そしてもう一人、出てきてもおかしくない人が自宅から出ることなく、渤海使と接触しなかった。

 嵯峨上皇。嵯峨院から一歩も出ることなく渤海使が帰国するまで、いや、帰国した後も嵯峨上皇は姿を見せなかった。

 病状が悪化して寝たきりとなり、姿を見せたくても見せることができなくなっていたのだ。

 嵯峨上皇の病状悪化は各方面に波紋を投げかけた。

 嵯峨上皇の死が近いことは各地で自粛ムードを呼び起こし、様々な行事が順延されたり中止されたりした。

 市中の暮らしにおいては自粛ムードに留まるが、朝廷内に関しては、嵯峨上皇がいなくなることイコール朝廷の微妙な権力バランスを壊すことを意味する。天皇の実父として圧倒的な存在感を持つ嵯峨上皇がいることで成立していた皇室のパワーバランスが、いなくなることでどうなるかわからなくなる。

 仁明天皇の皇太子は、今は亡き淳和上皇の子の恒貞親王。嵯峨天皇は自分の子を皇位に就けず弟(=淳和天皇)に皇位を譲った後、長男の正良親王(=仁明天皇)を皇太子に就けた。そして、淳和天皇が退位をしたとき、淳和天皇の子である恒貞親王を皇太子にしたのも嵯峨上皇である。

 このまま皇位継承が実現し、恒貞親王即位後に仁明天皇の子が皇太子に就けば、嵯峨朝派の貴族と淳和朝派の貴族が朝廷内に併存することとなる。嵯峨天皇と淳和天皇が兄弟であっても、その子の世代となり、さらに孫の世代となったときまで友愛が貫けるのかどうか。天智朝と天武朝の関係を考えるとその可能性は低い。

 仁明天皇の即位後、緒嗣は左大臣としての職務を果たせなかった。仁明天皇の教育係をつとめ、いまは右大臣も支配下に置く良房と比べると、緒嗣は淳和天皇の時代に乗り遅れたままといった感じを抱いていた。

 というタイミングで訪れた皇室の権力の空白。

 これは緒嗣にとって一発逆転のチャンスに思われた。

 権力をひっくり返すチャンスである。

 緒嗣は橘逸勢(たちばなのはやなり)を通じて、皇太子恒貞親王の身辺に仕える伴健岑(とものこわみね)との接触を試みた。

 「先の帝(=嵯峨上皇)亡き後、恒貞親王の御身をお守りすること叶うかいささか不安を感じる。」

 健岑は左大臣に呼ばれたことを不安に感じていた。自分のような者が左大臣から直接呼び出しを受けるなどあり得ないことだと考え、呼ばれるとすれば自分ではなく皇太子のことで余程のことがあるのだろうと思っていたところで聞かされたのが、恒貞親王の身の心配。

 嵯峨上皇に何かあったとき恒貞親王がどうなるか健岑は不安に感じていた。自分の身よりも恒貞親王の身を大事に考える忠臣にとって、恒貞親王の身に何かあると言われることは相当な恐怖を感じることだった。

 四月一一日、内裏の修繕という名目で仁明天皇を嵯峨上皇の住む冷然院に、皇太子恒貞親王を大学内の寮である直曹に移すことに成功した。このときは誰も不可解なことと考えていなかった。

 ただ一人を除いて。

 健岑が何かをたくらんでいる。

 そのただ一人である良相は、相当に早い段階でこの情報を掴んでいた。

 「兄上、お気をつけなさいませ。伴健岑が何かを企んでおります。主上や殿下を内裏より移したること、不可解と言わざるをえません。」

 「健岑……? ああ、皇太子殿下の側に侍る男か。何か企むとは、殿下の御身に何かあると言うことか。」

 「先の帝に何かあることはもはや免れますまい。その機会を狙い、殿下を利用して何かをたくらむこと、これは断じてあり得ぬことではございませぬ。」

 「だが、あの男が一人で何かをすると思うか?」

 「わかりませぬ。しかし、何かを企むような男が事をしでかすことより、企む予期を感じさせぬ者が何かをしでかすことのほうが恐ろしいことです。」

 「たしかにな。とは言え、今はまだ何もしていないのだろう。できるとすれば、監視をつけることぐらいか。良相、動いてくれるか。」

 「承知。」

 このあと、良相の指令により近衛府の者が大学寮内の直曹にいる皇太子恒貞親王のもとに足を運ぶケースが増えた。名目はあくまでも大学への立ち寄りであり皇太子の身辺警護であるが、少なくない視線が健岑の周囲に配置された。

 ところが、この配置がかえって健岑の思いを増幅させることとなる。

 恒貞親王に対して動いているのは良相であり、その後ろにいる良房だと考えるようになってしまったのだ。

 健岑からの親書が逸勢を通じて緒嗣の元に届き、緒嗣からは逸勢を通じて健岑のもとに指令が飛んだ。

 橘逸勢はこのとき五八歳。嵯峨上皇、空海と並ぶ書の名家として知られ、専任ではないにせよ皇太子の教育担当も務めていた。そのため、この時点において東宮御所(皇太子の居住場所)となっていた大学内を自由自在に出入りできる数少ない人間であった。

 逸勢が健岑に賛同したかどうかはわからない。しかし、健岑に協力すれば緒嗣に抜擢され、新しい時代で権力を掴むチャンスだという認識はあった。

 そして緒嗣から来た指令。

 文筆家として名を馳せるようになっても文筆家というジャンルで現時点のトップの地位に立っているのは小野篁であって、自分はもう過去の人になっている。

 貴族としての逸勢にいたっては見るまでもなく無惨なもの。空海らとともに遣唐使を経験し勇んで日本に帰ってきたのに、これといった役には就けず、この年にやっと但馬国司に任命されたのが貴族としてのピーク。年齢も五八歳とあっては、余程大きなチャンスを手にするのでもない限りゴールが見えてしまう。

 七月一三日、嵯峨上皇容態悪化。時は近づいてきたと誰もが感じた。 


 そして、誰もが予期していたことが七月一五日に起こった。

 嵯峨上皇死去。

 ほとんどの貴族が宮中に集結し事態の推移を見守る中、緒嗣がついに行動を起こした。

 大納言藤原愛発、中納言藤原吉野、参議文室秋津の三名を集め、クーデター計画を公表したのである。

 緒嗣の考えた計画とはこうである。

 まず、橘逸勢と伴健岑の二人が恒貞親王を連れ出して東国に逃れる。

 その地で恒貞親王をメインとする軍勢を組織し京都に攻め上がる。

 その上で右大臣源常や中納言藤原良房を捕らえる。

 これは何とも杜撰な計画であるが、ここには一つ成功要素があった。挙兵に必要な武器である。

 文屋宮田麻呂が筑前国司を務めていた頃に新羅との貿易で不正をしていたことは既に咎められていたが、国司をクビにはなってもその資産が没収されたわけではない。

 その宮田麻呂の資産の中に大量の武器があったのだ。

 間違いなく緒嗣は宮田麻呂とつながっている。だから、宮田麻呂の免職は止むなしとしても、資産没収には手を出していない。張保皐の使節を断じて受け入れないとしたのも国のメンツというより自分と張保皐の関係を知られることの恐ろしさではないだろうか。

 宮田麻呂に武器を輸入させていたときから計画を立てていたのかは怪しいが、緒嗣は相当に早い段階で良房一派の追討を企画していたはずである。これまではなかなかチャンスが巡ってこなかっただけで、チャンスが巡ってきたらすぐに動けるようにしていた。

 このクーデター話を聞いた三名は、戸惑いは感じながらも、各々賛同者を募ることとした。右大臣や良房に反感を持つ者をいかに集めるか、その数次第ではクーデターも不可能ではないと考えたからである。三人とも何れも時代に取り残された者といった感覚を抱いており、これは人生を一発逆転させる大チャンスだと考えた。

 ただし、三人とも自分自身は深入りしないことにした。このクーデターは、ダメでもともと、成功すれば儲けものといったレベルである。

 緒嗣は真剣になっていたが、他の者は冷めていた。

 ここで賛同者を募る中で大きな誤りを彼らはした。

 平城上皇の息子であることから、嵯峨上皇、そして、冬嗣の子である良房に反感を抱いているであろうと考えられた阿保親王を計画に加えようとしたのである。

 しかし、阿保親王はこのクーデター計画に関わるのは人生を狂わせると判断した。平城上皇の子という理由で反乱参加者の烙印を押され、地方を転々とさせられ、京都に戻れたのは父平城上皇が亡くなってから。おまけに戻れたと思ったら閑職に回される不遇の日々。天皇の位も狙える皇族であったはずがいつの間にか臣籍降下の対象となり、姓を与えられて一臣下扱いを受けるまでになる。

 これがクーデターに失敗するということの現実である。そして、このときの緒嗣の計画は父平城上皇の計画と驚くほど似ている。

 緒嗣は言うだろう。あのときは坂上田村麻呂という名将がいたから早々に終わったが、今回はそんな名将などいないと。だが、今の良房には、弟の藤原良相という勇将がいる。品行方正で礼節を重んじる田村麻呂と違い、素行も悪ければ礼節も疑問符がつく若者だが、軍勢を率いる能力ならばある。

 阿保親王はこのクーデターが失敗すると確信した。

 クーデター失敗の恐ろしさイヤというほど知っている阿保親王は、この計画が伝えられたことを亡き嵯峨上皇の妻である太皇太后橘嘉智子に相談する。そして橘嘉智子はその内容を義娘の仁明天皇妃順子に伝え、順子は兄の良房に情報を伝えた。

 ここにクーデター計画が良房のもとにも伝わった。

 良房はクーデター首謀者の拿捕を考えるが、計画なだけで動いていない状態では手出しできない。

 良房は良相に対し、嵯峨上皇の葬儀に参加することなく、いつでも行動を起こせるように指令を出した。

 翌七月一六日、嵯峨上皇の葬儀が行なわれる。仁明天皇も、皇太子恒貞親王も、そして良房も緒嗣も当然のように参列するが、良相はここに参列せず、近衛府に待機していた。

 それでもこの日は何ら動きを見せないで終わる。上皇の葬儀に相応しい厳粛な一日は嵐の前の静けさかのように陽が沈んで終わった。

 ところがその日の夜、橘逸勢が大学に入ってきた。教育者でもある以上、東宮御所となっている大学にいるのはおかしな事ではなかったが、この時間というのは異例のことである。これは何かあると見た良相は近衛府に待機した。

 七月一七日、良房が近衛府に対して動くように命じた。

 良相は大学から出てきた者(姓名は不詳)を捕らえ大学の内部の情報を聞き出した。

 当初は何も知らないと言っていたその者も、クーデター計画のことを良相から聞かされると、計画が漏れていると観念したのか知っている限りのことを喋りだした。

 その結果判明したのは以下のような内容である。皇太子恒貞親王を連れて東国へ向かう準備は完了しており、いつでも出発できる状態にあること。ただし、まずは近江国への移動を考えていたがそれ以後の移動計画はまだ立てていないこと。まずは出発するのが先だとする意見と、後々の行動計画を立ててから出発するべしとする意見とが対立し、意見の統一とはなっていないこと。そして、自分たちの計画が外に流出していると考えている者は誰もいないこと。

 何れにせよこれは皇太子誘拐計画である。

 良相は直ちに大学の中にいる伴健岑、橘逸勢の二名に対し、御所の外に出るよう指令を出す。

 両名とも当初はこの指令を拒否していたが、未だ姿は見えぬとは言え、良相の後ろには近衛府の軍勢がいるのは、京都にいる者ならば知らぬ者はいないことだった。

 良相がここに来たことでクーデター計画が周知のものとなってしまったと考えた伴健岑は、このままでは皇太子の命に関わると考え御所の外に出た。

 「どうか、どうか殿下のお命だけは……」

 泣きながら懇願する健岑をまずは捕らえた良相は、次いで橘逸勢の出頭を命じる。

 逸勢は最後まで出頭を拒否したが、出頭しなければ軍勢を率いて大学に攻め込むと良相が宣言したことで直曹内での逸勢の立場が怪しくさせるものとなり、逸勢も出頭。

 しかし、逸勢は良相の無礼を延々と糾弾し、クーデター計画も知っているとは言ったが、計画そのものについて自分は無関係であると宣言した。

 皇太子恒貞親王を利用しての謀反計画が京都市中に公表され、京都市内は騒然となった。

 良房は、伴健岑と橘逸勢の二名の逮捕を公表すると同時に、六衛府の全兵士を動員し京都市中の警備にあたらせた。

 これはただ事ではないと見た民衆ではあったが、わりと冷静でもあった。今のうちから勝てるほうに味方しておこうとする者ならまだしも、この隙に一儲け企む者や、どちらが勝つか賭をする者まで出る始末。この市民の態度は、今回のクーデターが自分たちとは無関係のところで展開されて終わると悟っていたからであろう、京都市中に軍勢が押し寄せる危険性があるにも関わらず、市民は冷静に状況を見ていた。

 一方、朝廷内は冷静さが少なかった。特に緒嗣は、良房のやっていることのほうこそ謀反計画ではないかと激しい口調で良房を罵っていたが、良房は緒嗣をあえて無視した。今までこうした対立の仲介役を務めてきた長良に話を持ちかけても、今回ばかりは長良も緒嗣を相手にしなかった。

 とは言え、伴健岑と橘逸勢の二名の逮捕については証拠があるが、それに緒嗣が参加しているという証拠はこの時点では掴めていない以上、緒嗣を逮捕することはできない。また、ここで緒嗣を逮捕するとかえってクーデター計画の参加者の行動が停まってしまい、単に二人の貴族が勝手な行動を起こしただけとなってしまう。

 そのため、緒嗣については手出ししないこととし、緒嗣には好きなだけ罵らせることとした。

 ところがその後、緒嗣は黙らざるをえなくなる。仁明天皇は実母からクーデター計画を聞かされ、それが誰の指図によるかを理解していた。そして、クーデターに関わった者全員の逮捕を天皇自らが要請したことで、緒嗣は何も言えなくなったのだ。

 この日、恒貞親王が皇太子辞任を申し出る。だが、仁明天皇は、謀反の旗印に勝手にされただけだとして、この辞任を却下した。

 翌一八日、桓武天皇の孫で仁明天皇とは従兄弟にあたる左大弁の正躬王と、参議の和気眞綱の二人による取り調べが左衛門府で行なわれた。ただし、この日は橘逸勢も伴健岑もクーデター計画について何も語らなかった。この時点ではまだ拷問が始まっていない。

 一九日になっても二人からは何の供述も得られないが、この状態で伴健岑の弟の伴氏永が逮捕される。兄とともに皇太子の側に仕える身であった。証拠については何も記されておらず、弟の逮捕についても兄は何も語っていない。

 二〇日、大極殿に一〇〇名の僧侶を集めての三日間の大般若経の転読が始まり、その読経の声が聞こえる中、逮捕者への拷問も始まったとされた。どのような拷問が行なわれたのかも、そもそも拷問自体が行なわれたのかもわからない。また、どのような言葉が口にされたかもわからないが、結果なら判明している。近親者への拷問を聞きつけた橘永名、橘時枝、橘三冬ら、橘逸勢の親戚が揃って自首した。

 二一日、読経の二日間延期が決まる。

 暗闇の中、経を唱える僧たちの声が宮廷内に響き渡った。

 良房は謀反の鎮圧だと主張する。たしかにそうだろう。それにクーデターが企画され実行されようとし、そのターゲットとして自分の命が狙われているのだから、動かなければ殺されるし、動いたとしてもそれが遅ければ内乱を招く。

 だが、良房のしていることだってクーデターであった。計画的な行動ではなく偶然の産物であったが、良相という武力を操る良房は、今のこの時点で国家最高の勢力になっていた。

 良房に従うか、良房に逆らうか。これだけが貴族に与えられた選択肢であり、選択が正しければ栄華が、誤りがあれば破綻が待っている。これは貴族たちに参加義務を課せられた生か死かの選択だった。

 良房の残酷な行動に朝廷内では戦慄が走った。ある者はやはり冬嗣の子であったかと考え、ある者は抗議のためと称して朝廷への出仕を控えるようになった。

 一方で、積極的に良房に協力する貴族も現れた。それまで仲介役であることが多かった長良は、ためらうことなく良房の行動を支持すると公表。同時に、良房の教え子たちも率先して良房のもとに集った。また、それ以外にも良房のもとに集った者がいたが、それらは良房の理念に同意したというより、そのほうが勝つ可能性が高いから。

 だが、最も多かったのは、黙り込むという選択。良房を恐れ良房に従うという意思表示をした貴族が大勢現れ、次は自分の番かと恐れおののく貴族が続出した。

 そう、全ては貴族の権力争いなのだ。皇太子を前面に建てての反乱は名目に過ぎず、誰もがこれは良房派と緒嗣派の抗争であることを見抜いていた。

 そして、良房派はこれ以上ない援軍を味方に迎えていた。京都在住の一般庶民という援軍である。

 処罰されているのは貴族であって庶民ではなく、近衛府の兵士が京都市中に張り巡らされていても、庶民の中に特に身の危険を感じる者はいなかった。それどころか、兵士が市中に張り巡らされているおかげで、夜道でも気兼ねせず歩ける平和が実現した。

 皇太子を先頭に掲げての謀反には興味もないし、逮捕された貴族がどうなろうと知ったことではない。それより、嵯峨上皇が亡くなったタイミングで国家転覆を企み、さらには内戦を起こそうとする者への怒りが強かった。

 それに、これまでずっと自分たちの生活を壊し、多くの命を奪ってきた緒嗣派に対する怒りは根深いところにあった。

 それが緒嗣派に対抗する良房派への援軍となって、後ろで操る良房を、そして実際に兵を操る良相を支持することとなった。

 そして、一日の空白を経て、運命の七月二三日を迎える。

 反良房派としてもいい面々はかなり追い詰められていた。特に、クーデターに参加するはずでありながらまだ動かないでいた文室秋津、藤原吉野、藤原愛発の三名は限界まで追いつめられていた。どこから漏れたのか彼ら三人がクーデターに参加しているとの話が広まり、彼らは自宅に戻ることはおろか、朝廷内に籠もることすら危険な状態にあった。

 彼らの自宅は民衆が出入り口を封鎖し、そして、中にいるであろう彼らを外に連れ出せという民衆と、彼らは中にいないと言う家人との諍いが頻発した。京都市内の民衆は完全に良房支持に回っており、外を歩いたとき、クーデター参加者とされた彼らの身の安全は保障できなかった。

 この状態では、遅かれ早かれ自らの命運が破綻するのは目に見えている。そして、運命を取り戻すためには、クーデターを計画通りに実行するしか残されていないと考えたのである。これはあまりにも迂闊だった。

 大学に三人が入ったことを伝える使者が派遣された。

 「報告します。藤原吉野、文室秋津、藤原愛発、以上三名、大学直曹に入りました。」

 「そうか。よし、良相に伝えよ。直曹内にこもる反逆者を拿捕し、皇太子殿下をお救いせよ、と。」

 「はっ。」

 良房は間もなく全てが終わるといった様子で空を眺めた。

 「ついに終わるのか。良房。」

 「ええ、兄上。これで全てが終わります。最後の敵は残りますが、奴には一人でどうこうできる余力などありません。」

 「長かったが、いざこの時を迎えると、あっという間だな。」

 長良は弟とともに、父冬嗣が亡くなってから今までのことを思い返していた。

 「あっという間にしたのは向こうです。私は反乱を鎮圧しているに過ぎません。」

 「自滅に助けられた、か。」

 「ですが、遅かれ早かれ来ることではありましたでしょう。」

 最後を迎えたことへの感慨に浸る二人をよそに、実際に動く良相は着々と行動を起こしていた。

 近衛府の兵を率いた良相が大学直曹を包囲。その周囲に藤原岳雄率いる左衛門府の兵士と、佐伯宮成が率いる右衛門府の兵士が配備された。

 この状態で良相は内部にこもる者に出て来るよう命じる。

 一方、クーデターを起こすしかないと考えた面々は、クーデターどころではないことを思い知らされた。武器を持った兵士達に建物が隙間なく包囲され、身動きできなくなってしまったのだ。直曹はもともと大学生たちの寄宿舎であり、食堂も併設されているからこの建物から出ることなく生活できるようにもなっている。だが、防御力の優れた城ではない。どこにでもあるごく一般の建物で、皇太子が生活するのに相応しい豪華な設備も持ってはいたが、皇太子の身を守れる構造にはなっていないのが直曹である。

 クーデターを実行するどころか多勢に無勢で閉じこめられる側になってしまったことを悟った直曹の中では、いろいろと意見が出たようである。だが、共通していた認識もある。このまま直曹にこもろうと、良相に投降しようと負けなのは同じだということ。その上、何しろ相手はあの冬嗣の子である。敗者を平然と殺した男の後継者の前に敗者として身を投じることになったら命を落とすこととなるだろう。

 そう考えた結果が最後の抵抗だった。

 その考えは立派だが、配下の家臣達とともに一群となって恒貞親王を連れ出そうと大学から出てきたところで良相率いる軍勢に捕まり、抵抗の末連行されたのは、彼らの現実だった。貴族自らの失態に都の人たちは笑ってこの光景を眺めていた。同時に皇太子恒貞親王の身柄も確保。ここで嵯峨上皇崩御をきっかけとするクーデター計画は終了した。

 後にこの事件は「承和の変」と呼ばれることとなる。

 身柄を確保された恒貞親王は、翌二四日に再び皇太子辞任を願い出る。仁明天皇はこの願いを受理。この日、恒貞親王は皇位継承権を持たない一皇族となった。

 同日、犯罪者への審理が始まる。

 このとき、大納言となった良房が意外なことを口にした。

 「誰一人死罪とするべきではない。」

 この瞬間まで、クーデターに参加していた者は一人残らず死刑になるものだと考えていた。どんなに懇願しようと、良房は犯罪者を容赦なく殺すと信じて疑っていなかったのだ。

 その良房が申し出た死刑回避は誰もが耳を疑ったが、反対することではないと考えたのか、それとも良房の権威を恐れたのか誰からも反対は出ず、最高刑は追放刑とすると定められた上での審理となった。

 まず二八日には橘逸勢と伴健岑の二人を追放刑とすることが早々と決まり、追放場所は、橘逸勢が伊豆、伴健岑が隠岐となった。

 ところが、そのあとの審理がストップする。逮捕された貴族たちの追求も行なわれないまま次々と釈放され、最後に残ったのは藤原吉野、文屋秋津、藤原愛発の三名だけとなった。そして、彼らは京都からの追放と決まった。藤原愛発は京都からの追放でどこへ向かったのは不明。藤原吉野は大宰員外帥という大宰府常駐の貴族の臨時職、文室秋津は出雲員外守という出雲国の臨時職にそれぞれ移ることとなった。

 しかし、何月何日に彼らが京都を追放されたのかはわからない。

 後の記録に、地方勤務となっている彼らが登場しているので、おそらく七月末から八月初頭にかけて追放となったのだろうとは推測できるが、続日本後紀にはこのあたりの記録が抜け落ちている。

 ところがここに不可解な疑問が生じる。

 なぜ大宰府と出雲なのか。吉野にしろ、秋津にしろ、全くの無人島に追放されたのではない。それどころが対外折衝窓口の大宰府であり、新羅や渤海との接点を持つ出雲である。位階が減っているのだから懲罰の意を込めた左遷ではあるだろう。だが、これらの地域は間違いなく人手を、それも優秀な人手を欲している地域であった。

 隠岐に追放された篁が隠岐の運営にたずさわったように、大宰府や出雲に向かった彼らもその地の運営にたずさわるようになった。

 その中でも吉野は、これが追放された人間のすることかと言いたくなる活躍を見せることとなる。

 審理と同時進行で進んだのが人事の大幅な刷新である。

 二五日には一七人の貴族が、二六日には六〇人以上の役人が昇進し、その動きの中で、長良が左兵衛督に、良房が大納言に昇る。良房が大納言になったことで空席となった中納言には、右大臣源常の弟の源信が就任した。

 また、橘逸勢や伴健岑の親族でも、この二人の追放が影響を与えることはなかった。伴成益が従五位上から正五位下へと出世し、橘海雄が刑部少輔に任命されている。

 同時に、地方人事の再編が行なわれ、駿河、安房、上総、飛騨、下野、加賀、能登、越中、越後、佐渡、丹後、因幡、伯耆、石見、備後、安芸、周防、伊予、肥前、筑後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、壱岐、対馬に合計六〇人の新たな役人の派遣が行なわれた。そのほとんどがかつての良房の教え子たちである。

 八月一日、恒貞親王の辞任に伴い空席となった皇太子位をただちに埋めるよう、左大臣の緒嗣と右大臣の源常をはじめとする貴族一二人が連名の請願を送る。

 緒嗣がこの請願に名を連ねたのはまだ完全に諦めたわけではないから。恒康親王はたしかに皇太子位を降りたが、新しい皇太子に自分が影響力を発揮できる人物が就く可能性もある。そして、それが実現すれば、クーデター失敗により一気に危うくなった自派の地盤も元に戻る以上、皇太子空位の現状からの回復は緒嗣にとってもメリットのあることだった。

 しかし、この希望はもろくも崩れる。八月四日、仁明天皇の子、一五歳の道康親王が皇太子に即位。道康親王の母は藤原順子。良房の妹である。良房は自分の甥を皇太子とすることに成功したのだ。それは同時に、もう完全に緒嗣は時代を失ったことを意味した。

 同日、小野篁が皇太子道康親王に儒教を教育する東宮学士に就任する。かつて良房が就いていた春宮亮は皇太子の教育全般を受け持つ職であり、東宮学士はその下に位置する。一度追放された身としては破格の出世であった。

 八月一一日、さらに二〇名の貴族に対する新たな人事が発令された。このとき、藤原愛発が追放されたことで空席となった民部卿に良房が就任。同時に陸奥出羽按察使を辞任する。租税関係の総責任者である民部卿の地位を手に入れたことは、良房が朝廷内に大納言の権限を越える発言権を持つことを意味する。古今東西、予算を手にする者の発言権は持たぬ者の発言権より強い。

 これで承和の変の後片づけは完了したことになる。

 なお、この最中、橘逸勢が伊豆への配流の途中で死去したという知らせが飛び込んできている。

 さて、この承和の変であるが、現在では藤原氏による他氏排斥事件のスタートとして認識されることが多い。

 結果を見れば良房にとって最良の結果であったろう。

 自分との関係の薄い恒貞親王が皇太子の地位を降り、次の皇太子となるのが妹の子、すなわち甥の道康親王。

 さらに、橘逸勢と伴健岑という、古くから続く名門貴族の者が追放できた。

 そして、同じ藤原家でも北家でない者にダメージを与えることができた。

 最後にこの事件をきっかけとして、位はともかく実質上は良房が朝廷内の最高権力者になった。

 学説の中には、この事件自体が良房の自作自演だとする考えもある。

 だが、果たしてそうなのか、とも考える。

 恒貞親王がこれまで皇太子であることを拒否したことは一度や二度ではない。皇太子に選ばれたときも辞退しているし、皇太子になった後も、何度も辞任しようとしては、嵯峨上皇や仁明天皇に慰留されている。

 また、伴氏と橘氏にいる者を流罪としたが、二人とも氏に所属する一人ではあっても、氏の命運を左右するほどの重要なファクターではない。所属する貴族の一人がいなくなったことは事実だが、大きなダメージとはならず、この後も橘氏や伴氏は朝廷内の有力貴族であり続ける。

 藤原氏の北家以外の者に対するダメージについても同じことが言える。確かに追放した藤原姓の者は北家ではないものの、同様に今後も有力貴族の一員であり続けることとなる。

 ただ、緒嗣に対する大ダメージであることは間違いない。自分の息のかかった貴族が追放され、高齢の身でただ一人宮中に残されることとなったのだから、自派の命運は終わったと考えてもおかしくない。

 良房はこの事件を計画的に起こしてはいない。掴み取ったクーデターの情報を生かし、それを鎮圧するという名目で行動を起こしただけである。

 事件発生前の段階で良房の地位は中納言にまでなっている。家臣の序列で行けば六番目にまで至っており、右大臣源常は例外中の例外で、三八歳で中納言というのは年齢を考えればかなりハイスピードの出世であった。その上、自ら派閥を構成して朝廷内に一大勢力を築いている。ここまでくれば、後は時間をかければ何もせずとも権力を掴み取ることができたはずである。何しろ対立する緒嗣派は人材が枯渇してきたのであるから、あとは緒嗣がその高齢により死ぬのを待てばいいだけだった。

 これでは自作自演を行なう必要性などない。


 八月一五日、大宰大弐として大宰府に赴任していた藤原衛(まもる)から大宰府の現状を報告する緊急上奏文が飛び込んでいた。

 筑前国司経験者のうちの少なくない数が筑前に根拠地を持って新羅との密貿易を行なっているということが判明したのだ。そして、この事実を見つけたのが大宰府に来て間もない吉野だった。

 カラクリはこうである。

 まず国司が交代となって新任の国司に事務を引き継ぐ場合は「解由(げゆ)」という引継資料を作成し、それが完成して後任が受け継ぐまで、国司としての権限を持つこととなる。

 後任が全てを受け継いだ後は京都へ帰らなければならないが、まだ引継が完了していないとなると、京都と元の赴任先の両方を行き来することが許されるようになる。

 国の許可なく五畿の外に出ることの許されない貴族は本来、いくら元の赴任先であろうと、京都に戻ったら最後、縁が切れなければならない。しかし、赴任先が莫大な利益を考えられる地域で、国司としてその地域でビジネスを手にしていた場合、簡単に縁を切るなどできない。というとき、堂々と五畿の外に出ることのできるこの仕組みのメリットは大きかった。わざと引き継ぎを完了させず、縁を持ち続けるのである。

 上奏文を書いて送ったのは確かに藤原衛である。だが、この告発をしたのは吉野だった。

 クーデターに荷担したとは言え、有能な貴族でもあった吉野は、大宰府に着任してすぐに大宰府の抱える問題を見いだし、それを上司となった藤原衛を通して上奏したのである。

 上奏文は四つの要望からなっていた。

 第一条、新羅人を今後一切入国させず、入国しようとした新羅人は永久国外追放とする。

 第二条、帰京した国司が「未得解由」を理由に前任国との関係を維持するのは一切禁止する。

 第三条、官符を乱用し不正に徴発することを禁止する。

 第四条、大宰府警備を理由とした私的開墾を禁止する。

 何れも大宰府と国外通商の抱える不正を禁止する内容であり、特定個人を狙った要望ではない。

 要求の内容を見るとそれが緒嗣の普段からの主張にあまりにも似通っているのに驚かされる。

 第二条から第四条は問題であると認めざるを得ない内容であるが、問題は第一条、新羅人追放の部分。

 新羅との関係を使わない国外関係を築こうと遣唐使にこだわったのがついこの前。張保皐からの使節も追い返したし、ここには挙がっていないが渤海との接触だって絶とうとしてきたのが緒嗣である。この人は本質的に閉鎖的なのだ。

 緒嗣派の一人であった吉野が緒嗣の考えをそのまま具現化したような主張を展開した理由は二つ。一つはそれが本心だから。もう一つは、自分の主張を緒嗣が目にし、その左大臣としての権限でもって京都に呼び戻してくれるのではないかと考えたから。

 位階も官職も全てが剥奪され隠岐に追放されながら、京都に戻り、再び役職を手にした小野篁という前例もあった。それに比べれば、位階も官職持っている吉野が京都に戻ることなど造作もないこと。

 吉野は確かに京都から追放された。追放されたが京都に戻る機会を狙っていた。それも強引に戻るのではなく、正々堂々と戻る手段を探っていた。

 それに、京都にはクーデターの真の主犯である緒嗣が左大臣としてなおも君臨している。緒嗣が自分のことを思いだし、京都に呼び寄せる手はずを整えてくれるのではという希望を吉野は抱き続けていた。

 ところが、この上奏文を受け取った朝廷は真逆の反応を示す。

 新羅商人の来航を引き続き認めるという決定である。

 鴻臚館は国家間の正式な交易のみに使用することが再確認され、民間交易で来日した新羅人が鴻臚館に入るのは禁止されたが、民間交易は問題無しとされた。

 この上、民間交易の管理監督は大宰府にあることも再確認され、大宰府の官僚が交易を通じて財を得ることはそのまま認めるとなった。

 これは新羅との通商に関わる不正の芽をつみ取るどころか、かえって悪化させるに等しい。

 この知らせを聞いた吉野は怒り狂った。

 そして気づいた。

 もはや今は良房の天下であり、緒嗣は黙り込む貴族の一人となってしまったのだということを。

 一〇月、東西の市から相反する要請がのぼってきた。

 東市からは専売制の中止を、西市からは専売制の復活を要請してきたのである。

 平安京の都市計画において、商業施設は二箇所と限定されていた。この二ヶ所はともに国営の市場であり、ともに平安京の南部に設置されていた。現在の地図で言うと、龍谷大学や西本願寺のあたりに東市(ひがしのいち)があり、西七条中野町や北西野町のあたりに西市(にしのいち)があった。

 市の内部は細かく小分けされており、小さな店舗が軒を接して並んでいた。どの店でどのような商品を販売するかは決まっていたから、市はスーパーマーケットというよりショッピングセンターの様相を呈している。また、市の中にはちょっとした広場も設けられており、市民の憩いの空間となっていた。

 市場は何も商人と買い物客が集まってくるのではない。大勢の人混みが日常化しているので、出会いを求め女性をナンパして歩く男や、懐の中を狙うスリ、路上パフォーマーに物乞いもいる。不良が奇抜な格好をして練り歩くのも日常の光景であるし、暇だから人通りの多い所に行くかといった感じで気軽にやってくる者もいる。

 東西両市とも都のかなり南部にあるため、貴族の多く住む北部の住民は買いに来るのも困難なこともあってか、平安貴族の趣味の中にショッピングはまず存在しない。良相が奇抜な格好をして不良仲間と市の中を練り歩いていたらしい記録はあるが、これは貴族としては限られた例外であった。

 言うなれば、こうした東西の市は貴族の入ることのない庶民の最高の娯楽施設であり、当初からそうなるよう計画された場所であった。

 市には市司(いちのつかさ)という役所が東西にそれぞれ置かれ、市の運営と物価の調査をしていた。このトップである「市司正」は役人の就く職としてはかなり高く、この職をうまく務めることができると貴族になるチャンスが広がるため、役人にとって人気職となっていた。

 さて、この二つの市から相反する要請が登ってきたのはどういった経緯に寄るのか。

 市が二ヶ所存在すると言っても、二つあるうちの好きなほうを選ぶようにはできていない。一ヶ月のうち、一日から一五日まで東市が開かれ、一六日になると東市が閉ざされ西市が開く。そして月が変わると西市が閉じて東市が開く。

 その販売商品は東西で厳密に決まっており、錦綾、土器、染物、絹冠、調布、牛厘(うしのみせ)、縫衣、染皮、帯幡、綿、糸、紵(からむし)、針、続麻、絹、油、櫛は西市での専売商品と決まっていた。

 この時点で東市のみの限定販売品は確認されていない。

 これは東西の市のうち西市の勢力が低下してきたからである。限定商品を扱わなければ埋没するほど西市の周辺の人口が減って来たのだ。

 これは市に限った話ではなく、平安京全体の人口分布が東高西低となっていた。これで東西両方の市の条件を同じにすると、西市は開店休業状態となってしまう。

 こうした東西両市の明暗は発掘調査の結果からも明らかになっている。東市の跡地からは麻、瓜、稲、桃、胡桃、栗など、市で売られていたと考えられる植物が検出され、雑草類は見つかっていない。一方、西市の跡地ではからもシソ、ナス、ウリなどの栽培植物が検出されるだけでなく、ハコベ、イヌビエといった家の庭や畑に存在する雑草、さらには、タデ、カヤツリグサといった湿地や水田の植物が多量に発掘された。

 つまり、東市は雑草も生えぬほど整備され使用されてきた証拠が出てくるのに対し、西市からは市としてまともに機能していなかった証拠が出てくるのである。

 この市の東高西低は既にその兆しが見えてきていたが、西市の関係者が手をこまねいてそれを受け入れるわけではなかった。そのために訴えたのが専売制である。

 これが定められたのは承和二(八三五)年であり、平安京誕生からそのときまでは全ての品が東西の市で共通して売られていて、単に開催日が違うのみであったのに、以後は専売品を買うには一六日以降まで待たなければならず、しかも西市まで行かなければならなくなったのである。その代わり、西市は没落を免れた。

 この不便さへの反発から、承和七(八四〇)年にはこれらの品を東西両方で売っても良いという許可が出ている。専売が決まる前に戻ったのだ。そして、西市は再び没落しだした。

 さて、相反する二つの決まりがあり、東西の市が対立し、特に営業成績の良くない西市が何か主張するとしたとき、どちらの決まりをベースとするかはあえて言うまでもない。

 首都の経済の根幹に関わる問題である。

 現在のようにコンビニの乱立する社会と違い、半月交替であるにせよ毎日開いている店があるというだけで平安京は特別であった。

 この二つの市の双方を維持させ競争させることで企業価値を高め、質の意地と向上を果たすと同時に、西市を維持させることで、平安京の西側、すなわち右京の衰退を食い止めようというのが良房の考えだった。

 緒嗣は違った。この人の貴族デビューは、桓武天皇の生涯をかけた二つの事業、蝦夷の平定と平安京建設の両方を途中で中止させるよう進言してである。

 緒嗣にとって、右京の衰退は無理して食い止めようとする種類のものではなかった。衰退しようと気に止めるものではなく、衰退を食い止めようとする意志もなかった。桓武天皇時代の財政危機をそれまで進んでいた平安京建設を打ち切ることで成し遂げようとした緒嗣にとって、更なる建設を要する西市の維持のための方策など考えるまでもなかったことである。

 これまでのように緒嗣が権力をはびこらせている状況であったら、文句なしに西市の言い分を取り下げ、東市に経済を集中させる策をとったであろう。

 だが、今は良房の時代となっている。

 「西市の衰退を食い止めて右京を活性化させ、失業を減らす。」

 一〇月二〇日、承和二(八三五)年の決まりが正統であるとし、承和七(八四〇)年の決まりを廃棄するとした。

 これにより西市の衰退に歯止めはかかった。

 ただ、右京の衰退は地勢的なものである。

 平安時代初期は右京にも建物が建築されていたのに、時代とともに建物は減っていき、平安時代末期となると水田が広がる光景となった。

 それもこれも右京の湿気が高すぎ、たびたび水害に見舞われていたからである。いくら工事をしても、この時代の土木技術ではどうにもならないことだった。

 良房とてそれを理解していないわけではない。ただ、良房はその地勢に抵抗しようとしたのである。抵抗することで職を増やし、職を増やすことで経済の好転を呼び込もうとしたのだ。

 緒嗣は、自分の生涯のデビューとなった平安京建設中止が、良房の手によって白紙撤回されるのを黙って見守るしかできなかった。

 クーデターに成功していれば、こうして頂点の全権を掴んでいたのは緒嗣になっていたはずである。だが、クーデターは失敗し、緒嗣は良房の権力の前に黙り込む一人の貴族となっていた。

 良房はもちろん許せる相手ではない。恐ろしいから黙っているが、機会さえあれば打倒する気に満ちてはいる。

 良房派の貴族たちも許せる相手ではないが、今の朝廷内では多勢に無勢の状況。いくら左大臣とは言え、もはや飾り物でしかなくなっている。

 そしてもう一人、どうしても許せない相手が生まれた。クーデター発覚のきっかけとなった阿保親王である。自分たちの仲間だと思っていたのに、裏切って良房側に荷担し、自身と、自派の壊滅を招き入れたことがどうしても許せなかった。

 自分の無力を悟った二日後の一〇月二二日、何の前触れもなく阿保親王が亡くなる。

 死因はわからない。

 わかっているのは、皇族の死でありながら左大臣が葬儀に参列しない異常事態であったということ。

 都の人たちはクーデターに失敗したことへの恨みから、緒嗣が阿保親王を殺したのだとする噂も流れた。

 ただし、あくまでも噂であって、真相はわからない。

 その後も緒嗣は姿を見せることが少なくなり、次に姿を見せたのは、一一月一七日に仁明天皇が内裏に戻ったときである。

 その後も緒嗣は自らの命運を悟ったかのように姿を見せなくなる。宮中で最高の地位である左大臣でありながら取り巻く者は姿を消し、重要な決済を緒嗣に求めることも少なくなった。

 仁明天皇の父の嵯峨上皇の喪中ということもあり、新年の儀式が執り行なわれなかった承和一〇(八四三)年の一月、新人事は発表された。ことごとく良房の息の掛かった人材である。

 かつて権勢を誇っていたことが嘘であるかのような孤独な老人と化した緒嗣は、一月五日、そして、一月九日の二度に渡って辞表を提出する。しかし、それらはともに却下されただけでなく、朝廷に足を運ばないことを叱責される始末となった。

 一月二一日には、高齢と病気を理由に緒嗣が再度辞表を提出し、受理されなくても今後一切の政務には参加できないと宣告するが、その両方とも却下された。朝廷に戻って左大臣としての職務を遂行せよという命令である。

 しかし、朝廷に戻ったところで緒嗣には何もできなかった。追放された自派の仲間を京都に呼び戻すことも、政治家として自分の意見を主張することも許されず、良房の意見に風格を与えるために左大臣も賛成しているという意思表示をすることしかできなかった。

 もう緒嗣の政治家としての命運は終わっていたのである。

 良房に頼み込んで何とか左大臣を辞めさせてくれと頼み込もうとしたが、良房は国事多忙につき左大臣とは最後の決済の場以外で会うことができないとの返答が戻って来るのみ。

 実際、この年は難問が山積みだった。

 各地から前年の収穫悪化に伴い緊急の食料援助を求める声が殺到していた。

 新羅から不穏な空気も漂ってきていた。

 クーデター終結に伴い兵が引き上げたことで、京都の治安が再び悪化しだしてきた。

 東西の市からは物価が必要以上のインフレにあるとの報告も届いてきた。

 良房はこの全てに対処しなければならなくなったのだから、国事多忙につき会えないというのは嘘ではない。

 しかし、緒嗣のことを忘れなかったわけではない。それどころか、緒嗣に対して何度も朝廷に足を運ぶよう嘆願している。

 高齢で病ににかかった孤独な老人に対し、これはあまりの仕打ちではないかと思う。

 だが、その仕打ちがわざとだとすればどうか。

 良房は確かに緒嗣を追放していない。クーデターの主犯なのに証拠が無い以上手出しはできなかったから。しかし、緒嗣派の重要人物、特に、緒嗣自らクーデターに誘った人物は追放している。これにより緒嗣は地位だけはあるが仲間のいない孤独な存在となり、朝廷内で左大臣であるというだけの飾り物にさせられることとなった。しかも、その飾り物を辞めることは許されない。

 これは良房が人生最大の敵に与えた恐ろしく陰湿な仕打ちだった。

 そして、緒嗣はその仕打ちに反抗する手段も意欲も失われていた。

 七月一四日、嵯峨上皇一周忌の場で緒嗣の容態が急激に悪化し、身動きできなくなっていることが伝えられた。

 寝たきりの状態が九日間以上続いた七月二三日、左大臣藤原緒嗣の死去が伝えられた。これに対する良房の感情は伝わっていない。

 しかし、誰もが緒嗣と良房の対決、いや、親の代から続いていた対立が良房の勝利に終わったことを悟った。


-中納言良房 完-