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応天門燃ゆ 3.巻き返し

2011.03.01 09:15

 良房と反良房の対立は、律令を捨てるか律令を守るかの対立でもある。

 両派とも現状が良くないことは認識できていた。ただし、現状が良くない理由を、良房派は律令そのものに原因があるとし、反良房派は律令を守っていないことから起こるとしている。これでは議論が平行線をたどるばかりで落ち着くわけなどない。

 良房が圧倒的権力を持っていた頃であれば律令派などただやかましいだけの権力無き野党に過ぎず、国政に何ら影響を与えてはいなかった。しかし、善男が裁判に勝ち、蔵人頭となった現在、律令派は決して無視できる存在ではないし、相応の権力を持つようになった。

 政策の少なからぬ部分は律令派によるものであるし、どんなに悪い結果に終わることが明白でも、悪意ではなく善意からその政策を進めようとするのだから、その政策に反対する良房は彼らにとって悪人でしかなくなる。

 良房にできることは、律令を推し進めようとする者の生み出す被害を最小限に食い止めることだけであった。

 表面上は特に問題のない日々が流れていた。

 政策上の対立も、権力争いも、血を見るようなものとはなっていない。論争は激しく繰り返されているが、殴りかかっていったり武器を手にしたりといった物騒なものとはならなかった。

 これは良相が黙っていたことが大きい。

 時代最高の武将である良相が兄に逆らって律令遵守の姿勢を打ち出したものの、兄を打倒するような動きは何ら見せていない。もっとも、これは当然のことと言える。兄があるからこそ今の自分の地位があるのだし、良相は兄の敵ではあっても後継者筆頭でもあるのだ。死ぬにせよ、引退するにせよ、兄が居なくなったと同時に一滴の血も流れることなく自分に権力が転がってくるのだから、良相は何一つ無理する必要などなかった。

 善男はこうした良相の姿勢を裏では軟弱と非難したが、表だっては非難していない。当然だ。善男は良相を必要としているが、良相は善男を必要としていない。ここで良相を怒らせ良相との関係を断ち切ってしまったら、善男の権勢はその瞬間に終わりを迎えるのだから。

 相手方が動きたくても動けずにいるこの状況は良房に有利に働いた。

 そして、律令派が権力を盛り返してきたことへの噂を流すことにも成功した。ついこの間は自分が噂のターゲットであったのに、今では噂の創造者になったのである。

 承和一四(八四七)年三月一三日、一羽のキジが宮中にやってきた。宮中に不意にやってきたキジはたまたま警備をしていた六名の近衛府の武官たちによって保護され、翌日には羽ばたいていった。この、ありふれた日常の光景のはずの出来事を良房はあえて伏せた。

 大々的に発表したのは三月末になってから。具体的な日付は残されていないが、無数のカラスが西からやってきて京都の空を覆い尽くしたのである。この不気味な光景に京都の民衆は恐れおののいた。

 というタイミングで良房は噂をばらまいた。

 律令制に戻そうとしたことに対する天の怒りがこのカラスの大群だという噂である。そして、律令制を打倒するために使わされたキジがカラスの大群に恐れおののき去ってしまったとした。

 この噂は成功した。現実的でこういったオカルティックなことを否定してきた良房が手を出した、人生初のオカルティックな行動である。

 その噂は、翌月、前回以上のカラスの大群が京都上空を覆い、真昼なのに夕方であるかのような暗さになったことで頂点を迎えた。

 このカラスの大群は、法隆寺の財物や人々を守ろうとした正躬王らを追放したことに対する天罰であり、この天罰は正躬王らを追放した者、特に伴善男を処罰しない限り終わらないと考えた民衆は自然と応天門の周囲に集まり、善男への処罰を下すよう求め、騒然となった。

 カラスの大群の襲来から二日後、八〇〇名の僧侶を宮中に集め、仁王経の読経を始めさせた。人間にとってはありがたいお経ではあってもトリにとってはただの雑音である。当然のことながら効果ははなかった。

 承和一四(八四七)年四月二三日、小野篁が騨正大弼に出世する。ただし、小野篁の皇太子の教育係としての地位は次第に失われてきていた。この出世も、長年の教育係に対する褒賞ではあり、教育のスペシャリストに対する褒賞ではなかった。

 承和一四(八四七)年五月一〇日には、時宗王が大学頭に、菅原是善が東宮学士、すなわち皇太子の教育係に就任した。

 騨正大弼というのは皇太子の教育係からすれば相当な出世であるし、菅原是善が東宮学士に就いたと言うのも、前任者が騨正大弼に出世したことに伴う後継者の選定だというのなら何の不満もない出世であった。

 良房が篁を見限ったのはいつかわからない。しかし、この頃にはもう篁を見限っていたと思われる。

 他者を圧倒する知性の持ち主であり、遣唐使を勤めたほどの美貌の持ち主でもある篁だが、知性や美貌が個人の幸福に繋がるとは限らない。

 貴族としての篁の不幸は、自らの職務ゆえに恩人を裏切らなければならなくなったことにある。実際、篁と良房との関係は京都復帰を頂点として日々失われつつあった。

 篁の立場にとってはわからない話ではない。財産も、家族も、地位も失ってから隠岐に追放された経験を持つ篁にとって、財産や家族を取り戻すことは可能でも、地位を取り戻すには良相の教育を、次いで皇太子道康親王の教育を引き受けることでしかあり得なかったのだから。

 その教育の対象者が、恩人である良房と袂を分かつようになった。篁個人の心情はむしろ良房に近いものがあったし、善男と篁の関係もお世辞にも良好なものではなかった。だが、自分の教育者としての役割が、良房ではなく善男を選ばざるを得なくさせた。

 それにしても、敵を容赦しない性格だった良房なのに、篁については、敵になったことが明白になって以後も出世街道を歩ませていることには注目させられる。

 いかに敵の派閥になったとは言え、良房が篁の才能を認めていたということか、あるいは、篁を自派に引き入れることはまだ可能だと考えたからか、普段は冷徹な良房も、篁に対しては冷徹になりきれなかった。


 承和一四(八四七)年五月二七日、律令派に対する良房の反撃が始まった。

 四人の元弁官のうち、藤原岳雄を除く三名を、一等降格させた上ではあるが中央政界へ復帰させるとの勅令が出た。藤原岳雄も本来なら復帰が検討されたのだが、本人から健康悪化を理由に政界を引退するとの進言が出たため、名誉回復が行われたのみに留まった。

 これは何の前触れもなく行われた決定であり、蔵人頭である善男すら知らないうちに起草され、仁明天皇の名で布告された。

 この布告を知った善男は最後まで抵抗したようであるが、凶兆に対する市民の恐怖と、善男への市民の怒りを目の当たりにしては無意味であった。それに、善男が知ったときにはもう既成事実になっていた。

 それに良房は妥協もしている。追放解除時に一等降格させることがそれである。通常、こうした追放解除は元の地位に復帰させるものなのに、降格させた上での復帰とさせたのは、善男の告訴が有効であるということを認めたことを意味する。

 また、善男の地位は何一つ手を着けていない。蔵人頭もそのままであるし、弁官局から追放されたわけでもない。

 ただし、良房はこの処遇を行うことで、元弁官の三名を自派に引き入れることに成功したのみならず、京都市民の支持を獲得している。劣性になりつつある良房にとって、新たな人材と京都市民の支持の獲得はかなりのプラス要素となった。

 律令派と、今は亡き藤原緒嗣との関係は、一度断絶しているため、集団として直接つながっているわけではない。ただし、反律令を掲げた良房に対抗したということで緒嗣に対してシンパシーを感じていたのは確かなようで、緒嗣の政策の肯定を彼らはしている。

 その代表的な例が遣唐使。誰が見ても失敗でしかなかった遣唐使派遣を彼らは評価し、遣唐使の継続まで考え、真剣に討論されたのである。

 もっとも、この一点に関しては篁が猛反発を示している。

 無理もない。遣唐使とは無関係なところで冒険行を眺めていた者たちと違い、篁は実際に遣唐使船に乗って一〇人中四人が亡くなるという惨劇を目の当たりにしているのみならず、その遣唐使が何の結果ももたらさなかったことを知っている。また、自身が貿易に携わっていることもあり、海を渡ることの現状を熟知している。

 遣唐使の理想に熱狂する者も、現実の遣唐使であり、かつ、対外事情に詳しい篁の前には黙るしかなかった。

 承和一四(八四七)年七月八日、唐に渡っていた留学僧の円載らが、四七人の唐人を伴って帰国した。この突然のニュースが遣唐使が思い出させるきっかけにもなったのだが、遣唐使の熱狂に冷や水を浴びせる決定的な打撃にもなった。

 彼らも篁と同様に実際に海に出た身であり、また、一足先に帰国した遣唐使たちと違って唐の最新文化を吸収した身でもあるため、海を越えて唐に渡る危険性と、その見返りについても熟知している。

 実際に唐に渡って帰ってきた彼らの回答は、もはや命がけで渡らなければならない物事など無いというものであった。

 唐には質量ともに特筆すべき品などなく、薬品を除けば、物珍しさ以外に唐からわざわざ輸入する必要などなく、国内産で充分需要を満たせる。船を行き来させるのも民間の船のほうが優れており、莫大な費用を掛けながら、安全でもなく、特に得るものもない遣唐使船はその役目を終えている。唐の国力も既に最盛期を過ぎ、あとは衰えるのみである。外交を考えるのであっても、唐との関係を維持することのメリットはなく、今ここで唐との関係を絶ったところで日本の安全に影響が出ることはない。

 唐は日本が考えているような大国ではないし、そこに住む人も豊かではない、というのが彼らの結論であった。

 それまでずっと唐のことを仰ぎ見る存在と考えていた者にとって、実際に唐で生活した者の言葉、そして、日本にやってきた唐人たちの姿は、唐を憧れではなく現実として思い知ることとなった。

 確かに、この主張は幾分か割り引かなければならない。この当時の唐で吹き荒れていた反仏教政策を、僧侶である円載らが快く思うわけはなく、それが原因となって円載らがアンチ唐となっていた可能性は高い。

 また、唐人の日本人観を考えても、アンチ唐にさせる要素は充分だった。すなわち、東方の海の彼方に住む背の低い野蛮人というのが、唐人の日本人観である。円載らは唐でそうした差別を受けながら生活をしていた。無論、遣唐使たちがそうした情報を知らずに海を渡ったのではない。日本は劣っており優れた唐に学ぶことこそ自分たちに課せられた使命だと考えていたから、差別も覚悟できたし、実際の差別にも耐えらるはずであった。

 しかし、割り引いたとしても、円載らはかなりの割合で真実を語った。

 それは、承和一四(八四七)年一〇月二日に、円載らから三ヶ月遅れで帰国した留学僧の円仁らの言葉からも明白であった。円仁はこののち、『入唐求法巡礼行記』を著述して、遣唐使の出航から帰国までの詳細を残すこととなる。

 実際に唐に渡って気づかされたのは、日本より劣る生活水準にとどまり、これといって学ぶべき対象もなく、窮地に追い込まれると歴史の古さを持ち出しては日本を見下してかろうじて自尊心を保つ人々である。市場に流通する品々も、それが唐製であることを隠したなら日本国内では販売できないであろうレベルのものしか無く、その数も少ない。実際に唐に渡った者が、わざわざ唐に渡るより日本に留まったほうが良い暮らしをできるのではないかと考えるのに、さほど時間はかからなかった。

 それでも、唐の国力を考えての外交という使命を考えれば、唐に渡ることに対する自負心を支えられるが、目の当たりにした唐の現状は、国外からの侵略が相次いでおり、敵を打ち負かすどころか貢ぎ物を捧げて侵略から逃れようとするのみで、その軍事力も、対外的な影響力ももはや風前の灯火である。これでは、唐の国力を恐れることも、唐と友好関係を築くメリットも生じない。

 唐に対する期待が高ければ高いほど、現実の唐との格差に落胆し、唐に失望する。

 ついこの間まで唐への憧れを隠さず、律令の完成形は唐にあると考えていた者の中から、唐だけではなく一切の対外関係を絶つべきとする一派が生まれた。

 もっとも、こういった対外関係を拒否する感情は緒嗣も持っていたのだから、原点回帰と言えばそれまでだが。

 律令派が唐との関係を含めた一切の国外関係を拒否するべきか否かといった問いで分裂したこともあり、反律令派の権勢は再び勢いを盛り返してきていた。

 事実上のトップである良房は未だ大納言ではあるが、制度上のトップである左大臣源常も、第二位である右大臣橘氏公も良房派に所属する。

 これといった役割を果たさなかった前任の左大臣と違い、この二人はなかなか真面目に働いていた。が、評伝が少ない。大臣としての職務をこなしていたことは間違いないし、大臣である間の一般市民の生活水準だって緒嗣の頃からは向上しているのだから政治家として合格点である。だが、大臣として何をしてきたかという記録が残っていない。

 大臣たちが日々の業務を目立つことなく処理しているということはニュースになりにくい。特に、大臣に反感を抱く人間にとってのニュースとは大臣の失敗であって、日々の政務をそつなく処理していることには何の関心も抱けない。現在の日本で例を探すと、麻生首相が首相としての責務をどんなに果たしてもニュースにしなかったのに、漢字の読み間違いなら大々的にニュースになったことを思い浮かべれば良い。

 この時代の基礎史料となるのは『続日本後紀』である。名前からすると仰々しいが、中身は仁明天皇の即位から崩御までという、非常に短い期間を扱った資料である。

 それだけの時間しか記していないのは当然で、仁明天皇の後を受け継いだ道康親王こと文徳天皇が命令して作らせたのが続日本後紀だから。仁明天皇以前、すなわち、淳和天皇の治世となると既に日本後記として編纂されている以上、文徳天皇の記せるのは仁明天皇の治世しかなかった。

 こうした国の正史を記す理由は二つある。

 一つは対外的に日本の主張を展開する根拠として。これは、対新羅関係のために続日本紀を記させ、途中であっても公開させた桓武天皇という例がある。

 もう一つは、時代が変わったことを明言するため。中国では王朝が変わったときに先の王朝の歴史書を記しているが、その意味は日本にも伝わっていた。先に記した続日本紀も、奈良時代が終わって平安時代が始まったこと、より正確に言えば、天武天皇の王朝が終わって天智天皇の王朝が始まったことをアピールする効果があった。

 文徳天皇の場合は後者に当たる。国の命令で歴史書を作って、時代はリセットされたのだと宣言することが重要であった。そして、時代が変わったのは歴史の必然であり、悪が倒され善が勝ったという視点で歴史を記さねばならなかった。

 となる以上、前代は悪であり、特に記すまでもない善は記録に残さない、ということになる。

 それが史料の情報量の乏しさに繋がる。

 ただし、情報量が乏しいと言うことは、取り立てて大騒ぎするほどの大事件が起こらなかった、つまり、平和な日々が続いたということにも繋がる。

 確かに、天候不順や不作といった記事は見えるが、それはどこと無くのんびりしていて切羽詰まった様子ではない。冬嗣の頃の大飢饉を経験しているからこの時代の人たちが大したこと無いと感じたという捉え方もあるが、そもそも大騒ぎするほどのものでもなかったという捉え方のほうが正しい。

 天変地異にしろ、大不作にしろ、前の時代を攻撃することで現在を評価しようとする歴史書を記すのには絶好の攻撃材料である。それでこの程度なのだから、左大臣源常と右大臣橘氏公からなる政権は、飛び抜けて素晴らしいとまではいかなくても、充分合格点を与えられる政権であったのだろう。例えるなら、一〇〇点満点で合格が六〇点以上という試験で七〇点が付くぐらいの。

 しかし、この二人の政権は承和一四(八四七)年一二月一九日、何の前触れもなく終わりを迎える。

 この日、右大臣橘氏公死去。享年六五歳。

 五〇歳にもなれば高齢者とされるこの時代、六五歳まで生き、かつ、死の直前まで右大臣として活躍したことは特筆に値する。

 かつては姉の嘉智子の権勢を利用する俗物と見られていた氏公だが、自分の息子ぐらいの年齢の左大臣が君臨している状況下で右大臣となってからは、かつての評判を一掃する誠実な大臣に変わった。若い頃は権勢を利用してトップである左大臣に立つという野心を抱いたこともあったが、右大臣となって以後はその思いを消し去り、若き左大臣を支えることに専念することにしたのである。

 たまに、大企業の社長に世襲の若者が就くと発表されることがある。その若者の能力は高いのかも知れないが、これだけでは一見すると血筋だけでその地位に就いた無能者と考えられてしまう。そして、こう考えられる。無能者が社長ではこの組織も長くはないな、と。

 ところが、その考えが外れて、組織が意外と健全な発展を見せることもある。そして、このときになってはじめて、実力主義ではなく世襲を選んだことの理由、そして組織が採った対策が明らかとなる。

 確かに実力主義にはメリットも数多くあるが、同レベルの実力者が複数いるときには派閥争いを招き、時には組織そのものを破壊してしまうというデメリットもある。そして、世襲にはこの派閥争いを食い止めるいうメリットがある。

 とは言え、不満は当然ある。実力があるのかどうかわからない若者を単に血筋だけでトップにすることは、自分を実力者だと自負する者にとっては苦痛であり不満である。こういう部下がいたら、世襲の若者がどんなに素晴らしいリーダーシップを持っていてもそのリーダーシップを発揮できない。

 こういう組織をまとめあげようとするときに有効なのは、経験豊富で老練なベテランをトップのすぐ横に就けることである。ここで重要なのは、あくまでもトップは若者であり、老練なベテランはトップに立たないということ。トップに立つ若者がトップとしての職務に専念できるよう睨みを利かし、トップの職務を軽くすることがベテランに与えられた使命である。

 氏公は完璧だった。年齢も実績も申し分ない右大臣であり、場の雰囲気を和らげる温厚な性格は右大臣を慕う者を大勢生み出した。自らが目立つことはないが、若き左大臣を支えるために宮廷内での調停役を一手に引き受け、平穏な宮廷を築いた功績はあまりにも大きかった。

 惜しむらくは、その大きさに気づくのが亡くなった後だということ。せめてもの救いは、左大臣が経験豊富な実力者に成長したことと、後継の右大臣の恵まれたことか。


 承和一五(八四八)年一月一日の朝賀に、皇太子道康親王が欠席した。欠席の理由は病気だと言うが、誰もがその理由を理解していた。

 それはこの年の迷走を表しているかのようであった。

 一月四日、身長六尺(約一八〇センチ)以上の者を貢上させるよう命令が出た。なぜこんな命令が出たのかはわからない。記録によれば、日本全国に身長六尺以上の者を探し出して京都に連れてこいという命令が出たというのみで、誰が、何のためにこうした命令を出したのかは不明である。

 もしかしたら、兵士の募集を掛けたのかも知れない。

 徴兵制としての防人制度が縮小し、志願兵制として地方の郡司の子弟らが兵士となる健児制が桓武天皇により創設されたものの、その法定定員はわずか三一五五名。しかも、その任務は常勤ではなく、年に六〇日。残る三〇〇日は兵士ではなく役人や農民としての暮らしであった。防人と加えても、この人数では役所の警備をする面々を出すだけで終わる。

 それなのに、兵士に対する需要は増えていた。治安の悪化もあるし、国外からの侵略の危険性もあった。本州がいくら統一されたと言っても、俘囚や新羅人による反乱の火種はまだ残っていた。

 無論、常設の軍事力はその他にもある。本州統一から間もないこともあり、陸奥と出羽の両国には軍団と基地が常設されていたし、九州にも同様の常設の軍隊があった。だが、それでも兵士の不足は問題であり続けた。

 こうした国の軍事を一手に担っていたのが良相である。良相は今の日本の軍事力を他の誰よりも熟知していた。そして、兵士の絶対数が足らないという現状にも気づいていた。ただ、どうすれば兵士が増えるのかというアイデアがなかった。

 何もわかってない人は、兵士など徴兵すれば好きなだけ集められるではないかと言うが、無理矢理集めさせられた兵士をどんなに訓練しても兵力にはならないことを良相は知っていたし、貴重な労働力を奪うことによる産業へのダメージも知っていた。一〇人を徴兵するより一人の志願兵を雇うほうが軍事力も上がるし、産業効率も上がるのである。

 これはあくまでも推測であるが、有能な兵士になる素質を持った者に、官界への道もあるというアメを用意しての、兵の勧誘をしようとしたのではないだろうか。

 ただし、成功したのであればその成功を記していなければならない。そして、成功を記していないということは、失敗に終わったということであろう。

 もしかしたら、このあたりが良相の政治家としての限界だったのかも知れない。

 一月七日、中規模な昇進が行なわれた。六名の役人が新たに貴族入りし、三名の皇族と、一四名の貴族に新たな位が与えられた。このタイミングで伴善男に従四位下の位が与えられる。この結果、善男は篁と同格になった。

 一月一〇日から一三日にかけては、空席となった右大臣職を埋めるところからスタートする大規模な人事刷新があった。

 まず、一〇日には空席となった右大臣職に良房が就任。事実上の最高権力者の大臣就任は誰も驚かない人事であった。前任者に比べれば若いが、朝廷内の最高権力者として長いあいだ君臨してきただけに、その若さを意識させることはなかった。

 そして、良房の右大臣昇格によって発生した大納言の空席には中納言の源信が昇格。源信の大納言昇格によって生じた中納言の空席には参議の安倍安仁が昇格、安倍安仁の中納言昇格による参議の空席には藤原良相が就任という、典型的な玉突き人事が起こった。

 一三日には、篁が左大弁兼信濃国司兼勘解由長官に就任。また、藤原長良が参議兼任のまま左衛門督に就くなど、二六名の貴族に新たな役職が示された。うち、一六名が地方の国司である。もっとも、兼任の国司となったために、自身は京都に留まり、代理の者を担当国に派遣するということもあったため、実際に派遣された者は少数に留まる。

 右大臣に就任した良房はその権勢をアピールした。

 承和一五(八四八)年一月一七日、良房主催の射礼(=弓道大会)が開催された。儀式的な行事ではあるが成績を競うため、なかなかの盛り上がりを見せた。また、このときは京都市内の民衆も招かれ、冬の最中の娯楽として大にぎわいとなった。

 注目を集めたのは良房が集めた貴族の数。およそ一〇〇名。その大部分が良房派であるが、中には律令派もいた。良房が彼らにも招待状を出したからである。この招待を善男は拒否し、皇太子道康親王にいたっては招待状を破り棄てているが、それでも、仁明天皇と、そのすぐ側に侍る左大臣源常をはじめとする朝廷首脳の大部分が集結したことは、京都市中の話題を集めることとなった。

 それだけであれば自己の権勢をひけらかす嫌味たっぷりな人間に見えるが、良房はそんな人間ではない。

 承和一五(八四八)年一月二二日、良房が突如大臣を辞職したいと申し出た。これを仁明天皇は却下する。同様の上奏文は一月二四日にも提出され、このときも仁明天皇は却下している。

 これらは本意からの辞意ではなく、駆け引きによる辞意であった。

 もともとこうした駆け引きは緒嗣が得意とするところであった。とは言うものの、緒嗣は成功したことがない。成功したことがないどころか、かえって自分の評判を下げる結果につながったことしかない。緒嗣は自分の主義主張が受け入れられないときの主張の手段として辞意を利用したからである。自分の意見が受け入れられないなら辞めると示すわけであるが、緒嗣の辞意に慌てふためくのは緒嗣の味方のみで、緒嗣の敵にとっては辞意を歓迎してさえいる以上、緒嗣の作戦は失敗だと言うしかない。

 一方、良房は成功している。

 上奏文の中身は長いが、突き詰めると、自分は無能だから大臣職に就くべきではない。また、すでに右近衛大将にも就いているため、要職二つを兼任するのは国政上問題があるという主張だった。

 これに対する仁明天皇の回答が辞表の却下である。どういった理由による却下なのかは記録に残っていないが、次世代が良房の元から離れること確実だとは言え、今の政権の屋台骨を支えているのは何と言っても良房である。仁明天皇にとっては良房が居ることが現政権の絶対条件であり、良房がいなくなるというのは断じて考えられないことだった。

 しかも、良房は良房自身を無能者と呼んでいる。しかも、律令派の言う良房批判をその通りであるとし、その批判ゆえに辞意を示したとしている。

 これでは律令派は何も言えない。これまで繰り広げてきた良房批判の全てを受け入れた上で、良房は右大臣を辞めると言っているのである。その上、良房無き政権はあり得ないからと、仁明天皇の手によって却下されてもいる。これは、批判するだけしておいて対案を出さず、良房が居なくなればそれで全てが解決、後は律令に従った自分たちの政権が自動的にできあがると考えていた律令派に対し、「君たちは良房がいなくなった後の政権のデザインも描けていないのだ」という現実を突きつけたということになる。


 承和一五(八四八)年二月二日、伴善男、参議就任。通常こうした任官は複数人まとめて発表されるものであるが、このときは善男一人だけが任官されている。

 善男の参議就任はかなり揉めた。

 タイミングとしては一月一三日の人事発表で参議になっていてもおかしくないのだが、このときは見送られている。そして、二〇日ほど経て、一人遅れて参議就任。

 今や誰の目にも明らかとなっている律令派のブレインの善男に公的な地位を与えるか否かは、政権のパワーバランスに関わる。

 善男の参議就任については道康親王が強く主張した。単に自派の人間だからというだけではない。理由はどうあれ有能であることは間違いないし、弁官としての実績を見ても参議就任は妥当ではないか、というのが道康親王の意見だった。

 これに対する反論は多かった。

 善男が有能なのは否定しないが、自己主張が激しく強欲でもある。それに、善愷の裁判を見ればわかるが、この人は異常に執念深い。自分が正しいと思うことを疑うことなく、敵への攻撃は容赦ない。こんな人物に参議が務まるだろうかというのがその中身だった。この主張の中心となったのは、新たに大納言となったばかりの源信である。

 良房はこの件に対し、賛成も反対もしていない。これまでも、主義主張は別として、有能ではある善男に対し相応の地位を与えてきた良房である。弁官としての働きを見た良房が、善男の能力を買って参議就任に賛成したとしてもおかしくない。あるいは、数多くいる参議のうちの一人というだけならば、さほど影響はないと見たのかも知れない。

 結局、議論の末に道康親王の意見が採用され善男は参議となったが、これは単なる一貴族の任官に留まらなかった。このとき、自分の参議就任に賛成した者への感謝と、反対した者への憎しみを善男は終生忘れなかったのである。

 承和一五(八四八)年二月三日、河内、和泉、山城などの班田使の任命が行われた。参議となった善男はこれに対して何の反論もしていない。

 その目的が反律令であり班田の否定であろうと、律令に則った手続きでは文句の言いようがなかった。

 しかし、二月一〇日に上総国(現在の千葉県南部)から届いた緊急連絡については、善男の批判精神が最大限に発揮された。

 上総国から届いた知らせ、それは、俘囚の集団が暴動を起こしたという知らせである。首謀者の名は丸子廻毛(まるこのつむじ)。

 丸子廻毛がどのような人物かは不明だが、こういう暴動の首謀者のパターンは一つしかない。社会はその人への正当な評価を下しているのに、自分自身は不当に低い評価しか受けていないと考える者である。今回の暴動も参加者がたまたま俘囚であるというだけで、俘囚であることそのこと自体が暴動の理由になったわけではない。

 この時代、日本に組み込まれた元蝦夷の人たちのことを俘囚(ふしゅう)と呼んでいたが、その名は便宜的なもので、少なくとも制度上は元蝦夷だろうがそうでなかろうが差異はない。無論、人々の意識の中には元蝦夷に対する差別感情もあっただろうし、差別とまではいかなくても特別な感情で接することもあっただろう。何しろ、ついこの間まで日本人の集落を襲っては農作物と住人の命を奪い去っていた人たちなのだから、いくら日本に同化したと言ってもそれをすんなりと受け入れることはできなかったし、だからこそ俘囚という呼び名が使われていた。だが、俘囚であるからといって将来が閉ざされていたわけではない。それどころか、俘囚出身の貴族や役人も珍しくもなかったのである。

 丸子廻毛には、上に立って威張りちらしたいという思いはあっても、朝廷を倒して新たな政権を築くとか、俘囚を率いて日本から独立するとか、そういった構想はなかった。不平不満があって不平不満の解消をもくろんだのかも知れないが、それは無謀な願望だった。シーシェパードをはじめとする現在のテロリストと同様、重要なのは将軍様気取りで暴れることそのものであって、自分の意志を表現することに主眼はない。

 この反乱を聞きつけた善男は、現在の政策だけではなく、冬嗣の代にまで遡っての本州統一まで批判した。本州を統一して蝦夷を日本に組み込んだことが今回の反乱の原因であり、律令の精神に立ち返らなければならないと主張したのである。ただ、律令に立ち返ることを主張はしたものの、その具体的な方策は何一つなかった。

 承和一五(八四八)年二月一二日、上総国から第二報が届いた。暴動に参加した俘囚、五七名。

 たった五七名である。

 大騒ぎしたわりには大したこと無いと考えた者が多かったのか、反乱発生を聞きつけた直後の緊張感は薄まり、宮中には安堵の空気が流れた。

 しかし、ここで雰囲気に流されなかった者が一人いる。良相である。

 良相の考えは違った。

 たしかに、五七人という人数では、暴動ではあっても反乱ではなく、少人数が武器を持って暴れ回っているだけでしかない。とは言え、五七人が束になって農村に襲いかかってきたとしたら、その村を村民自身が守れるとも考えられないというのが良相の考えだった。

 たかが五七人だと考えて暴動を放っておいたら、暴動の犠牲者は確実に増え続けるし、暴動の参加者が増える可能性だってある。

 問題は早い段階で消滅させなければならないと考えた良相は、上総国と周辺の国々四ヶ国、計五ヶ国に兵の出動を命じるよう進言した。

 敵対する派閥になったとは言え、軍事においては良相を信頼していたのが良房である。良房はこの軍事の専門家の意見に賛同した。

 ところがここで横槍が入った。善男である。善男のいつもの批判の言葉である律令違反が、この場でも展開された。

 これに良相は怒りを覚えた。善男は確かに同じ派閥であるし、善男の知能を良相は買ってもいる。だが、軍事についてだけは善男の口出しを許さなかった。それでも良相が納得できる口出しならば受け入れられようが、今回の口出しは何一つ納得できないものだった。

 善男の意見が却下され、兵士の派遣が決まった。

 この暴動の顛末は残されていない。記録には討伐されたとあるだけである。

 律令を前面に掲げ、危急案件である軍勢派遣にすら反対する善男の行動はさすがに考えさせられるものがあった。


 承和一五(八四八)年二月一四日、善男が右大弁に就任した。一見すると出世だが、これは体裁の良い左遷である。参議でありながら参議として会議に顔を出すことが事実上できなくなったのだから。

 弁官としての働きを期待しているからと弁官局に行くよう命ぜられるが、いざ弁官局に顔を出すと、自分が右大弁に就任したと同日に右中弁に就任した藤原諸成(もろなり)が実務のかなりの部分を握っている。

 それが報復人事ならば怒りをぶつけられようが、善男にはそれもできなかった。善男や藤原諸成と同タイミングで新たな職に就いたのが二五人いる。こうした大規模な人事は一月に行なわれるのが一般的であり、実際、一ヶ月前には今回と同規模の人事が行なわれている。それも、名目上は全員がこれまでの功績に応じた出世となっている。これでは文句の言いようがない。

 藤原諸成はこの年で五五歳。三七歳の善男が上に立つのだから諸成からすればかなりの屈辱に感じることではあったが、諸成はそれを乗り越える熱意を見せて、この役割を引き受けた。

 若い頃の諸成は極めて優秀で、大学をかなり高い成績で卒業している。おまけに傍流とは言え藤原家の一門でもあることから、通常の卒業生ではあり得ない高い地位で貴族の出世競争をスタートさせた。

 ところが、諸成はそこで止まってしまったのである。出世の歩みが遅く、気が付けば大学の後輩に次々と追い抜かれる始末。おそらく、ペーパーテストでは優秀でも、政治家たるに必要な発想力やリーダーシップに乏しかったのだろう。だが、それを諸成自身が認めることはなかったし、出世レースで敗れているという現状の悔しさを常に抱いていた。

 特に、スピード出世を果たしている善男が自分を追い抜いて参議にまで進んだのが気に入らなかった。善男は世間一般では優秀で通っても、大学時代の成績ならば自分のほうが優れていると諸成は自負している。

 良房はそこに目を付けた。右中弁であれば諸成の出世として申し分ない。その上で、諸成に善男を押さえつける役割を担わせようとしたのである。

 この良房の期待に諸成は充分に応えた。年齢的にもこれが最後のチャンスだからと頑張ったのか、弁官という職務が諸成に向いていたのか、右中弁藤原諸成は高い評判を呼び寄せたのである。特に、かつての善男は杓子定規に職務を進めるため政務を滞らせたのに対し、諸成は政務をスムーズに進めるために杓子定規のほうを否定したことが大きかった。

 善男はこれに苦情を述べたが、弁官としての地位では下でも、その下の者が上官を差し置いて弁官としての職務に邁進するという前例はある。他でもない善男という前例が。

 承和一五(八四八)年二月二二日、京都を地震が襲う。カミナリのような地鳴りがし、犬の遠吠えが市中で聞こえた。ただし、被害の状況は伝わっていない。

 二月二六日、仁明天皇が病に倒れる。同日、五日前の地震でゆるんでいたのか、宮城の屋根の一部が崩落。

 三月五日、永安門の西側の廊下で火災発生。直ちに鎮火させたため大事には至らなかった。

 三月六日、今度は神泉苑の東垣の瓦が崩落。

 三月八日、地震。

 これだけろくでもないニュースが連続すると、人々は何か良くないことの前兆ではないかと考える。これは理屈ではない感情の問題だから、科学的根拠を示して単に自然災害が偶然続いているだけだと言い聞かせても決して納得はしない。ましてや、嵯峨天皇の時代の大飢饉や侵略はついこの間の出来事であり、その時代を思い出させる上総から届いた反乱のニュースまで加わる。

 そして、人々は考えるようになった。

 橘氏公が右大臣であった頃は何もなかったのに、藤原良房が右大臣になった途端、これだけの天災や人災が噴出した。

 これは右大臣藤原良房に対する天の裁きではないか、いや、良房の父である冬嗣が大臣であった頃も持ち出して、この一族自体に裁きが下っているのではないか、と。

 良房はこうした噂を聞きつけたが、打ち消すことはしていない。そんな暇がないと考えたか、無視しても構わないと考えたか。とは言え、市民感情を無視して超然とした態度で終始した緒嗣と違い、良房の支持基盤は一般市民にある。ここで民衆の声を無視することは、良房個人だけではなく、良房派全体の問題に発展する。

 承和一五(八四八)年三月一三日、京都近郊の山埼明神へ田畑の奉納が行われたと同時に、飢饉発生のためとして、伊豆と淡路の両国への施が行われた。こうした政策は、良房が民衆のことを決して忘れていないというアピールにつながった。

 ただ、このアピールは役に立たなかった。大騒ぎはなかったが、これ以後も天変地異の記録が連続するのである。

 例えば、承和一五(八四八)年三月二八日と四月三日に地震があったという記録が残っている。もっとも、特に被害は記されていない。五月一日には日食の記録もあるが、これも何か騒乱を呼んだという記録はない。

 しかし、五月七日に仁明天皇が再び病気で倒れたことは少なからぬ騒乱を生んだ。仁明天皇はいまだ三〇代にも関わらず、命が残り少ないのではないかと考える者が続出したのである。これは、表面張力で何とかこぼれずにいるコップに注がれた最後の一滴となった。

 誰かが命令したわけではないのに多くの者が寺院に足を運び、健康回復を祈る読経が繰り広げられた。そして、仁明天皇の健康を害しているのは右大臣良房に対する天の怒りの現れだという考えが広まるようになった。

 これに対し、右大臣に対する天罰ならば右大臣に向かっていなければおかしいのに、そうした兆候がないことに対する疑問も広まっていた。そして、今は天罰どころか、逆に天の恵みがあるのだとする考えも広まった。

 承和一五(八四八)年五月一四日、太宰府から白い亀が献上された。珍しい動植物が中央に献上されるのは日常の光景であってとりたてて特筆されることもなかったが、このときは特筆されている。

 ウサギやツルなど元々白色なのが当たり前の動植物は別だが、そうではない動植物が白くなった状態で見つかることは吉兆とされてきた。また、亀も長寿を呼ぶ幸運の動物であり、この二つが重なることは今の時代に対する天の恵みであるとの考えの根拠となった。

 民衆は合理的な根拠を求めていた。今まで熱狂的に支持してきた良房が大臣になったことは喜ばしいことであり、大臣となった後は輝ける未来が待っているはずだった。にも関わらず、現実は天災と人災の連続。かといって、これらが良房の政策によって起こった結果ではないということはわかっている。だから、神とか仏とかそうした超自然の存在を考え、超自然の存在が自分たちに影響を与えているのだとしなければ説明ができなかった。

 凶兆は天からの天罰。

 吉兆は天からの祝福。

 そうでもしないと現状の説明ができなかった。

 承和一五(八四八)年六月一日、連日の雨が止まず、洪水が起こる。翌日には晴天を願う祈祷が命じられた効果はなかった。

 そして、六月三日、良房は決断する。

 越中国で飢饉対策としての施を実施するよう上奏したのち、良房が右大臣からの辞任を再び申し出た。自分に対する天罰があるから現在の問題が起こっているのだとし、辞任すれば問題は解決すると主張してのことである。

 これを仁明天王は却下した。却下しただけではなく、従四位下以上の一三名の貴族を集めた。現状を分析し対策を練らせるためである。

 続日本後紀にはこのとき集められた一三名の貴族とその役職、そして、貴族の序列が乗っている。序列と言っても誰がトップで誰が最下位かの数字を記しているわけではないが、その貴族の姓名の記された順番で序列がわかる。

 トップは当然ながら左大臣の源常。二番目に右大臣藤原良房が来て、大納言の源信が三番目、中納言の源弘が四番目に来る。参議の源定が六番目。良房の兄の長良が九番目。小野篁が一一番目に来て、一二番目が藤原良相、最後となる一三番目に伴善男が来る。

 この一三人のうち、上から一〇番目までは良房派、下の三人が律令派としても良い。

 特に、トップの四人のうち三人が仁明天皇の弟であり、残る一人、すなわち良房がその三人の師匠であったことを踏まえると、現時点での良房派は安泰以外の何物でもない。

 ところが、良房から下に良房の後継者が居ない。良房派の若手ならばいるし、派閥は違うが良房の弟もいる。しかし、派閥と家系の両方を継承できる後継者が居ない。

 間違いなく良房の右大臣辞任宣言は本意ではない。慰留され、却下されることがあらかじめわかった上で、良房が居るから現在のパワーバランスが維持できていることを示すために行うデモンストレーションであり、良房派には結束を、律令派には力のなさを訴える内容であった。

 とは言え、これで世間が納得するわけはなかった。良房を支持する人にとっては喝采を浴びせる行為であっても、現状が良房に対する天罰だと考える人にとっては、良房が辞任を訴えたのに、辞任が無くなり現状が維持されたことが容認しづらいことであった。

 そこで、良房は再びスタンドプレーに打って出る。

 承和一五(八四八)年六月七日、良房が給与の返上を上奏し、仁明天皇がこれを許可した。

 権力を握ってもやはり良房は良房だった。

 人々の暮らしを良くするにはどうすれば良いかを考えて行動しても、相手が地震や大雨では良房の権力でどうこうなるものではない。施にしたって今の空腹はどうにかなっても、食糧不足そのものを解決するわけではない。

 だが、苦労を無くすことはできなくても、自分も苦労することはできる。

 給与の返上は、大臣自ら苦労を分かち合うことと同時に、無駄な税の削減をイメージさせる。実際には自分の所領からの収入もあるのだからいきなり生活苦に陥ることはないし、大臣一人の給与を無にしてその税を他に切り替えても、一人当たりの税の福祉はコメが数粒増えるかどうかなだけなのだが、アピールにはなる。

 やはり良房は民衆の心を掴むのに長けていた。天災や人災の猛威が止むことはなかったが、良房に対して向けられていた悪評はこの日をきっかけに姿を消すのである。

 ただ、良房が給与返上という手段を使って自分への不満をかき消したことと、不満そのものが消えることは同じではない。

 良房個人への不満が消える代わりに政権全体に対する不満が起こったのである。仁明天皇に対する批判はゼロではないが多くはない。しかし、身を削って苦労を引き受けた良房と違い、き給与を満額得ている貴族全体に対する不満が強く起こった。

 ここでの不満は民衆の考える貴族の一般的なイメージであり、誰か特定個人を具体的にイメージしてはいない。良房への非難が止まったのは、民衆が持つ貴族に対するイメージとは真逆の行動をしたからである。もしここで貴族全員が、全員とは言わなくても仁明天皇に呼び出された一三人の貴族が、何らかの形で痛みを伴う姿勢を見せれば、民衆の不満そのものが和らぐことになったであろう。

 だが、良房のスタンドプレーを堂々と批判する者がいた。善男である。給与返上は愚かな行為であり、いかなる理由があろうとも容認できないものであるとした。

 ただし、なぜ愚かな行為であり、なぜ容認できないのかといった具体的な中身がどこにもない。ただ単に反対しているだけである。

 善男が反対した理由は容易に想像できる。それも二つ。

 一つは、この人が現在でいう野党、それも、政権とは無縁の万年野党の政治家と同じだということ。どんな政策であろうと反対するが、それは理由があって反対するのではなく、理由はないが与党が気に食わないという理由で反対する。そこに国益や公共益という考えはない。あるのは自分の自尊心、特に、反対することで自分は偉いのだと思い違いをさせてくれる自尊心である。

 もう一つは、給与の引き下げに応じること、つまり、自分の財産が減ることへの嫌悪感が強いから、と格好つけて書くとこうなるが、要はドケチなのだ。飲み会の支払いになると姿をくらましたり、給食費を払わなかったり、年金を納めなかったりするくせに、自分が受け取る利益については一円単位でこだわり、それがどんなに多くてもまだまだ少ないと文句を言うのが現在でもいるが、善男はこの類の人間であった。

 もっとも、そんな理由が他者に理解されるか否かという分別はあった。分別はあったが、それ以外のもっともらしい理由も思いつかなかった。

 だから、理由を表すことなく延々と反対した。

 承和一五(八四八)年六月八日、改元についての意見が登場した。

 現在、改元とは天皇の代替わりだけで行われることであるが、当時は、吉兆や凶兆といったことでも改元されたかと思えば、天皇が替わっても改元されなかったりと、改元についての明確な基準は存在しなかった。とりあえず、何か大きな時代の移り変わりをアピールするタイミングであると判断したら、改元されるというのがこの時代の考えである。

 ここで改元の意見が登場したのは、名目上は太宰府から贈られてきた白い亀という吉兆、実際は相次ぐ天災や人災への対処である。こうしている間も天災は続いており、六月一〇日には長雨を鎮めるためとして、一〇〇名もの僧侶を招いての祈祷が行われたほどだったのだから。

 改元に対する意見は賛否両論続出したようだが詳細は不明。それでも結局は改元と決まるのだが、意見登場から五日を経ていることを考えるとすんなりとはいかなかったようである。

 六月一三日、元号を「承和」から、「嘉祥」へ改元するとの発表がなされた。改元の名目はあくまでも白い亀という吉兆があったがための改元であり、そこに相次ぐ天災や人災に対しての改元だという宣言は一切無い。

 また、改元を祝すための恩赦も行なわれると決まった。ただし、殺人、偽金作り、国家反逆罪といった大罪については恩赦対象から除かれる。

 さらに、正六位以下の役人のうち、実子がいて、その子も役人となっている者に対しては一律一階級昇進、子のいない者にはプレゼントが贈られた。プレゼント対象は役人に限らず、八〇歳以上の者、母子家庭、病気やケガなどの理由で働けない者、親孝行な子や祖父母へ孝行する孫、良き夫や良き妻にも贈られた。

 嘉祥への改元は国家の一大祝祭となるよう企画され、実践された。

 しかし、実状は祝祭とはほど遠かった。

 改元から間もなくの、嘉祥元(八四八)年六月二四日。京都を地震が襲うと同時に、仁明天皇が高熱を出して倒れた。地震は翌二五日にも発生している。

 仁明天皇の体調は六月二七日に回復するが、翌二七日には数一〇戸の家屋を焼き払う火災が発生。

 改元前と変わらぬ、いや、下手すれば改元前より悪化している改元直後のこの状況は、新しい元号も良くない時代であろうという思いを抱かせるのに充分だった。

 それでも地震は一過性のものであるし、火災は火の用心を強めるという対策がとれる。だが、天候となるとそうもいかない。長期に渡って生活を苦しめるし、何より収穫に影響する。

 この年の天候は一頃で言うと多雨だった。来る日も来る日も雨が降り続き、日照時間が極端に少ないというのがこの年のここまでであった。

 相手が雨では政策云々でどうにかなるものではない。七月六日には改元直前と同様に僧侶を集め、大般若経を転読させて雨足が収まるよう祈ったが、何の効果もなかった。それどころか、七月七日には京都市中を突風が襲い、数多くの建物を破壊する始末。

 改元から一ヶ月を経ないにも関わらず、この改元は失敗であったと考える者が続出した。

 この状況に対し、七月一七日、ついに勅令が出た。太宰府より献上された白い亀は時代を祝福する良い印である。この事実を各国の神々伝えよ、と。さらに、七月一九日には、白い亀が献上されたことを十二諸陵に報告するに至った。先祖の霊威を頼んでのことである。

 あくまでも吉兆にこだわる様子は、後世の我々からすれば喜劇でさえあるが、当時は悲劇でしかない。それまで決して低くはなかった仁明天皇の支持率が悪化し、良房に対する評判も下がったのだから。


 嘉祥元(八四八)年七月二六日、中務省の敷地内に住み込んでいたホームレスの死体についての記録が登場する。一人や二人の死体ではもはやニュースにならなかったということか、それとも、人の死に対して鈍感になっていたのか、数多くの男女の区別も付かない死体が散乱している現状に対し、敷地にホームレスが入り込まないようにせよとの命令が飛んだ。

 京都の道に倒れる貧しい人を助けていた良房はもう居なかった。いや、助けようとはしたのだ。だが、助けても助けてもキリがなかった。

 地方の生活の苦しさから京都に流れ込んだ人を救済すべく田畑を耕させ、農地を与えて生活を助けるのはもう限界だった。田畑は収穫を生まず、収穫を生んでもそれは盗賊に狙われるだけだった。そんな彼らが選んだ手段は二つ。一つは自衛、もう一つは逃亡。

 都市が人を集めるのは都市が魅力的だからではない。故郷で暮らせなくなったから都市に出るのだ。都市に人が流れ込んでくるのは古今東西変わることのない現象だが、その大部分は貧しい者であり、都市に出て生活する手段を持ってはいない。

 それでも都市なら何とか生きていける可能性がある。恵んで貰うことがそれである。裕福な人だけとは限らない。ギリギリの生活の人でも目の前に困っている人がいれば助けるぐらいはする。だが、それで助かるのは現在の空腹だけで、人生そのものではない。

 良房は彼らに職を与えようとし、実際に多くの者が良房の誘いに乗って再び農民として田畑を耕す道を選んだが、少なくない者が良房の誘いを拒否した。その代わりに、都市でのその日暮らしを選んだのだ。

 何故か?

 楽だから。

 全くこんな楽な生き方があろうか。働くことなく他者の恵みを受けてその日をとりあえず生きる。先のことは考えず今の楽な暮らしだけを考える。困ったら助けてくれと叫び国に助けて貰う、そんな生き方が。

 失業問題やワーキングプアの問題は断じて自己責任ではない。経済情勢がもたらした結果であったり、病気やケガが原因であったり、家庭環境のせいだったりする。だが、就業するチャンスがありながら、そして、それを強く勧められながら、働く意志を全く示さず、チャンスを自分で断って安楽な暮らしを選んで起きながらの失業は完全に自己責任である。

 良房はそれでもなお彼らを救おうとはしたのだ。だが、田畑の開墾には何ら興味を示さず、ならば都市での仕事をと工事を計画するがそれにも興味を抱かず、彼らが興味を示すのは食料の無料配給である施のみ。

 それでも何度か施をしたが、それがかえって、京都に行けば良房が無量で食料を恵んでくれるという評判を呼び、施の対象者が増える始末。真面目に働いて納めた税が、働かずに自堕落な生活をしている者のその日暮らしに使われると聞いて怒りを持たない者が居るだろうか。

 良房は反発を避けるために私財を持ち出しての施までしたが、焼け石に水だった。

 焼け石に水と知ったとき、良房は自腹での施を捨てた。飢饉に対する国家としての施は残したが、良房自らが率先することは無くなったのである。

 後に残されたのは、最後の綱であった良房の施が失われ、生きていけなくなった者達。

 京都の民衆は彼らに冷淡だった。

 嘉祥元(八四八)年七月二九日、京都市内を雷雨が襲い、朝廷が確認できただけでも、落雷で一一ヶ所の建物が損壊を受ける。

 雨足はいったん収まるが、八月三日、今度は豪雨が京都市中を襲う。豪雨は翌八月四日になっても続き、八月五日にはついに洪水となって京都市中に溢れ出す。この洪水で、河陽橋、宇治橋、茨田堤(まんだのつつみ)が損壊し、都市機能に大ダメージを与える。水量はおよそ一メートル二〇センチから五〇センチほど。

 水害の引いた八月六日には、左大臣源常が自ら検非違使を率いて水害状況を視察。直ちに被災者への救援を開始した。

 八月八日には、摂津と河内の両国に使者を派遣し、両国での水害被害を調査させた。結果は両国とも要救援。

 ところが、救援しようにも救援するだけの物資がなかった。

 食料を求める人は群れをなして市に押し寄せたが、市には食料が無かった。たまにコメやムギが売り出されたかと思えばこれがとんでもない高値。

 かつてのインフレが復活してしまった。

 承和昌宝はもはや役に立たず、本来なら承和昌宝一枚でコメ一升が買えるはずなのに、一〇枚でも見向きもされぬ有り様となった。

 これは何も承和昌宝自体の価値低下だけではない。本物の承和昌宝自体が市場から姿を消し、その代わりに偽金が溢れるようになったのである。銅を溶かして固めるだけの火力があれば偽の承和昌宝は簡単にできた。

 偽物を掴まされた人は、その偽金を届けなかった。届け出ても冷たくあしらわれるだけだったから。その代わり、手元のある偽金を減らそうと、市に出かけては偽金を一刻も早く使おうとした。手元に本物の承和昌宝があっても使うことはなく、家の中にため込まれる。その結果、偽の承和昌宝が市場に出回り、本物の承和昌宝は市場から姿を消した。

 悪化するインフレ、溢れる偽金、この対策は一つしかなかった。緒嗣がやって大失敗した政策である、新貨鋳造である。

 良房は最後まで躊躇した。インフレである上に市場に出回る貨幣も少ないのだから、貨幣そのものを増やさなければならない。しかし、新しく貨幣を鋳造しても市場からすぐに消え、市場に出回るのが偽金ばかりとなることに違いはない。

 無論、偽金は厳しく取り締まっている。だが、偽金があまりにも多すぎた。偽金の出所を抑えることも難しい以上、偽金が偽金ですらなくなる手段を執らねばならない。

 それが、新貨鋳造である。

 今までの銅貨を否定して新しい銅貨を作り、新しい銅貨だけを流通させれば今の偽金は消える。理屈は。

 だが、緒嗣が承和昌宝を作らせたときだって同じなのだ。承和昌宝は悪化する財政の救済がメインであり、インフレの救済がメインではないかもしれないが、どちらも新しい貨幣を造って流通させるという流れであり、やっていることに違いはない。

 嘉祥元(八四八)年九月一五日、新貨幣の鋳造が開始される。新貨幣の名称は「長年大宝」。そのデザインであるが、基本路線はそれまでと同じ、円形で中央に四角形の穴が空いている。承和昌宝は見るからに安物という感じが漂っていたが、長年大宝は見たところもう少し立派であるが、大きさは長年大宝より多少小さくだいたい二〇ミリ。現在の貨幣で言うと一円玉とほぼ同じ大きさ。もっとも、質量は現在の一円玉の二倍以上ある。

 この長年大宝は、一枚が承和昌宝一〇枚と同価値とされたが、これも緒嗣の行なった対策と同じだった。緒嗣とは目的が違うと考えたのかも知れないが、手段は同じである。

 となると結果も同じである。

 確かに市場から承和昌宝が消えた。それも、偽物の承和昌宝だけでなく本物の承和昌宝も消えた。ただし、偽金そのものが消えたわけではなかった。

 承和昌宝よりデザインが立派だと言ってもマネのできないものではなかった。しかも、材質が承和昌宝と同じだった。

 となれば、承和昌宝を溶かして銅にし、長年大宝に加工し直せば、手持ちの銅貨が一〇倍の資産価値になると考えるのは誰も同じである。

 瞬く間に長年大宝の偽金が市場に流通しだした。デザインが立派なおかげで偽金を見つけだすのは承和昌宝より容易だったが、それでも偽金作りは可能であったようで、承和昌宝を長年大宝に加工する闇商売の手数料が多少上がった以外、結果は承和昌宝発行時と同じだった。

 新貨幣発行以後、記録の絶対数が少なくなる。そのため、何があったのかを記すことは難しくなる。ニュースの無いのは良いことという考え方もあるが、この年のこれまでを考えるとそう悠長なことは考えられない。

 その上、その数少ない記録も一つを除いて暗いニュースばかりである。

 嘉祥元(八四八)年一〇月二日、地震。

 一〇月七日、地震。

 一〇月一四日、仁明天皇が再び倒れる。回復したのがいつかはわからないが、一〇月二二日には行幸に出ているので、その間に回復したと思われる。

 一二月二日、地震。

 一二月四日、刑部少輔である和気齊之が大不敬罪を犯したため、いったん死刑判決が下された後、罪を一等減らされ伊豆国へと流されている。後に土佐へと流罪地の変更が行われるが、流罪に変わりはない。どのような言葉や行為が不敬罪となったのかは不明だが、自分への批判どころか天皇批判すら容認していた良房が権力を握っていながら不敬罪となったのだから、よほどの行為だったのだろう。下手すれば国家反逆罪に相当する罪、例えば天皇暗殺未遂ぐらいの大罪。

 一二月二〇日、唯一の例外としても良い、明るいほうに分類されるニュースがやってくる。能登国からの緊急連絡で、王文矩を大使とする渤海国からの使者およそ一〇〇名がやってきたという知らせである。朝廷は縣犬養氏河(あがたいぬかいのうじかわ)と良岑宗貞(よしみねのみねさだ)の二名を能登に派遣した。

 最後の最後に明るいニュースがあったが、一年を通じて暗いニュースの連続だった承和一五年=嘉祥元年は幕を閉じた。


 嘉祥二(八四九)年一月一日、通例なら元日に行われる朝賀が中止と決まった。前年の洪水の傷跡がまだ残っていることに対する自粛が理由である。

 ただし、新年恒例の新人事は滞り無く行われている。

 先に行われる位の昇進については、皇族二名、貴族一四名が新たな位を獲得するという点では通例より少ない数だが、二六名の役人が貴族入りするという大盤振る舞いも同時に行われている。なお、このタイミングで、それまで正三位であった良房が従二位に進んでいるほか、小野篁が従四位下から従四位上に登っている。また、平城天皇の孫である在原業平が、二四歳で貴族デビューをしたのもこのときである。

 続いて行われる役職の付与についても、これも大盤振る舞いであった。特に、地方官の大盤振る舞いが行われた。三七名の貴族に新たな役職が付与されたが、そのうち三四名が地方官である。

 新元号という一大イベントよりも、新たに貴族になったことのほうが、そして、新たな役職を獲得したことのほうが、貴族たちにとっては希望であった。

 その影響かどうかは不明だが、前年のような自然災害の記録も飢饉の記録もなく、この頃は、続日本後紀によれば平穏無事な日々であったようである。

 二月までは。

 嘉祥二(八四九)年二月二五日、太宰府より緊急連絡が飛び込んできた。

 対馬の警備に支障が生じているという連絡である。

 もともと対馬の警備のために徴兵制である防人を配備していたのだが、前年の災害の連発の影響で兵士が集められなくなったと伝えてきたのだ。

 対馬は対新羅の前線であり、対馬で防衛することが対新羅の軍事政策の第一だったのである。

 この時代の日本人に対する新羅への感情は最悪だった。それは、ナショナリズム云々ではなく、新羅の存在そのものが自分たちの命に関わる大問題だったから。海沿いの集落に新羅の海賊が襲いかかってきて、身を守るための戦いが繰り広げられる光景は日常となっている。強盗団を捕らえてみれば、その正体は生活苦から日本に逃れてきた新羅人が定職に着かず群を成して暴れ回っているものだったというのも当たり前になっている。

 おまけに新羅政権はもはや体を成さず、各地域や各村が独自に行動している、と言えば聞こえは良いが、大小の強盗団が群雄割拠し、互いが互いから奪い合う日々になっており、これでは新羅と国と国との関係を期待できない。

 唐から帰ってきた者の伝える最新の唐の情勢を考えても、対新羅政策に唐を利用することはもはや不可能だという結論しか出なかった。友好国である渤海との関係は文化交流だけでなく対新羅という政策でも一致していたが、渤海にできるのは新羅の侵略に抵抗するところまでで、新羅の侵略行為そのものを抑えることまでは期待できなかった。

 新羅に対するには自分たちの力でどうにかするしかなかった。

 嘉祥二(八四九)年二月二七日、人事の刷新があった。

 新羅と対するのに、国内の派閥争いをしている余裕はないと判断した良房は、役職のインフレを起こしてでも派閥間の反発を抑える必要があると主張。

 その結果、二四人の貴族が新たな役職を手にした。特に、伴善男を抑えるために、右大弁兼任のまま、右衛門督というかなり高い位を与えたことは特筆に値する。右衛門督は名誉職に近いものがあるとは言え、律令の上ではある程度の武力を持つ組織のトップに立つということにもなる。律令派は善男の頭脳と良相の武力という住み分けだったのが、これで善男個人が武力を持つことにもなった。

 無論、良房はこれへの対抗も考えてある。参議としての善男を抑えるために刑部卿で阿波国司も兼任していた源明を参議に昇格させ、弁官としての善男を抑えるために、藤原諸成に代えて藤原氏宗を右中弁に抜擢した。

 この藤原氏宗は、良房の父の藤原冬嗣と対立していた藤原葛野麻呂の子であることを考えれば律令派の一人と考えられなくもなかった。だから、善男にとっては自派の若者が一人弁官に加わったのだろうという考えを抱けた。

 しかし、遣唐大使として唐に渡った藤原常嗣の年の離れた弟でもある。そして、兄の思いをこの弟は受け継いでいた。右大弁である伴善男の対抗だけではなく、左大弁小野篁への対抗に全力を尽くしだしたのである。

 それまでどんなに異なる派閥になっていようと小野篁だけは手をつけずにいた良房もついに動いたということか。

 嘉祥二(八四九)年四月五日、諸国の穀物価格を時価に従って改めるよう指示が飛んだ。

 公定となっている穀物価格が需要と供給のバランスと合わない額になっていた。いくらで売れと命令され、その通りの額で売ったとき、穀物の絶対量が少ないのに、穀物を買おうとする人がたくさん居たらどうなるか。

 穀物がすぐに無くなり、全ての欲しい人の元には届かない。

 どうしても欲しいと考えるとき、仮に一升につき長年大宝一枚であるところを、長年大宝二枚出すと言い出したらどうか。

 穀物を持つ立場なら、定価で売るより定価の二倍のほうが儲かるから、法に触れてもそちらに売る。あっちが二枚ならこっちは三枚だと言い出す者が出てきたら、三枚出すほうに穀物を売る。これが四枚になり、五枚になる。

 やがていつかは、これ以上の額を出せる者がいなくなる、あるいはそこまでの額を出す価値もないと判断できるところまでくる。こうして物価は決まる。

 これがどうしても欲しいと考える人たちとの取引だけならまだ見ないふりもできるが、穀物が欲しいのではなく、穀物を転売して儲けようとする者が現れると見ないふりなどできなくなる。

 ネットオークションの中には、観覧するつもりのないコンサートや観戦する気のない試合のチケットを手に入れた者が転売する光景が展開されるが、それと同じだった。

 倉に穀物が溢れる富裕者でありながら、穀物を転売目的でさらに仕入れ、値上げさせて売っている者が続出した。

 こうした者を取り締まることもしたのだが、取り締まったところで同じことを考える者が次から次に現れる以上、取り締まりではなく、転売を失敗させるほうが有効だった。

 公定価格を闇市場と同額にして流通する穀物量を増やせば、高値ではあっても、値上がりはおさまる。

 これ以上値が上がらないとなると、買い占めていた側は利益を少しでも出そうと、一升につき長年大宝九枚のところを八枚にするとやる。これでもかつてよりは高値だが、少なくともこれ以上のインフレを抑えることはできる。

 しかし、これはインフレによって高騰した闇市場での穀物価格を後になって黙認したにすぎない。結局、長年大宝の発行は失敗だったということである。せめてもの救いは偽金の量の減少か。

 前年末に来朝した渤海使が入京したのは嘉祥二(八四九)年四月二八日のことである。京都に着くまで丸四ヶ月を要しているが、この時代の渤海使としてはごく普通のことであった。真冬という気候のせいもあるし、今回の渤海使は定例の渤海使であって緊急を要する使節の派遣ではない。

 京都に入った渤海使の王文矩らは、渤海使の供応役に任命され、能登まで渤海使を出迎えに行っていた良岑宗貞らに案内され、鴻臚舘に入った。

 このときの渤海使との歓待の責任者に任命されたのは参議の小野篁であった。文人として名を馳せ、その名が大陸にも届いている篁が登場しての歓待は渤海使を満足させるに充分、しかも、参議の地位にある者の歓待はそれまでの渤海使と比べても遜色ない歓待だった。

 翌二九日、渤海使らの歓迎セレモニーの一つである騎射(馬に乗って弓を射ること。流鏑馬(やぶさめ)とは少し違う)が仁明天皇臨席のもと行われた。現在でのイメージとしては軍事パレードのようなものと言える。

 五月二日、渤海使が国書や信物を献上。これで渤海使は日本派遣の役目を果たしたこととなる。かといって、即座に帰国するわけはなく、しばらく日本国内に留まることとなっている。

 五月三日、仁明天皇が豊楽殿に足を運んでの渤海使歓迎レセプションが行なわれた。

 同様のレセプションは五月一〇日には貴族が集合して再度開催され、五月一五日には仏教界を招き、五月二五日には文士を招いて開催された。

 渤海との友好関係を確認したことで、改めて対新羅政策に乗り出せることとなったこの頃の日本であるが、この頃の国内事情がよくわからない。記録がまた少なくなるのである。

 その少ない記録から判断すると、おそらく、あまり芳しいものではなかったであろう。

 嘉祥二(八四九)年六月一日に、京都の飢民の状況を調査。値上げを容認することで対処しようとしたインフレ対策が失敗していることを認めた上で、国倉は空となりこれ以上の救済は不可能であるとの宣言もなされた。

 八月五日には、京都在住の皇族のうち、一七名に清原の姓を与え皇族から貴族へと移すことで財政の改善を図っている。

 そんな中、一つの人事異動が起こっている。

 伴善男がついに弁官から離れたのだ。と言っても、藤原諸成、藤原氏宗と二人続いた自分に対する刺客に音を上げたわけではない。式部大輔(しきぶのすけ)に昇格したのである。しかも、後任の右大弁に就いたのは藤原良相。

 式部大輔と言えば、奈良の反乱を鎮めた直後に藤原冬嗣が就き、役人の人事権を握ることで権力を握るきっかけとなった職である。その重要な職に善男を就けることを良房は快く了解したのだろうか。

 あるいは、弁官を離れるにあたって善男の出した条件であった可能性もある。式部大輔は正五位下相当の職。すでに従四位下である善男にとっては二階級下の役職である。権力はあっても降格であることを前面に押し出した可能性もある。

 一見すると謙遜に見えるこの行為は、憎たらしくはあっても文句の言われる筋合いのものではなく、また、資格要件を全て満たしたものであった。そして何より、従四位下にも関わらず式部大輔についた先例というのが藤原冬嗣、良房の父である。これは良房にはどうにもできない要素だった。

 嘉祥二(八四九)年一一月二二日、皇太子道康親王から上表文が届いた。

 仁明天皇四〇歳の祝賀である。

 この年末のタイミングでなぜ皇太子がいきなり仁明天皇の四〇歳の祝賀を持ち出したのかはわからない。

 ひょっとしたら一一月二二日が仁明天皇の誕生日なのかも知れない。仁明天皇の生年が弘仁元(八一〇)年であることは判明しているが、弘仁元年の何月何日に生まれたのかという記録が残っていない以上、可能性はゼロではない。また、こうした記録は現在に残ってはいなくても、当時は普通に残っていただろうという想像はできるから、皇太子が天皇誕生日を祝った、それも四〇歳という切りの良い数字の誕生日を祝ったと考えれば何らおかしな話ではない。

 とは言え、この時代に誕生日という概念はほとんどない。ゼロではないが一般的ではなく、年齢の数え方も一定ではなかった。仮にこの日が誕生日だとしても、生年から数えれば三九年であって四〇歳ではない。もっとも、この時代は生まれたときが一歳とする数え方をすることもあったから、三九年でも四〇歳という数え方もできる。

 ちなみに、誕生日のはっきりしない一般人は正月に年齢を一つ加えることで自分の年齢を把握する者が多かったが、前後三年ぐらいの違いは普通にあった。また、貴族の中にも箔をつけるため、生年のはっきりしないことを逆手にとって年齢をごまかすものがわりといた。ただし、これは現在とは逆で、歳上にごまかすのである。より年齢の高いほうが出世において有利であったからで、自称三〇代なのに、実際は二〇代という者もいた。

 そのため、この時代の年齢の記録はあまり信頼できず、どうしても年齢を記すなら生年が判明している場合は生年を元に再計算したほうがいい。

 父の四〇歳の記念祝賀を息子である道康親王が祝うのだから何らおかしな話ではない。しかし、そこに政治的思惑が絡むと話はややこしくなる。

 道康親王が律令派であることはもはや誰の目にも明らかな事実であり、篁や善男、良相といった律令派とは積極的に接する一方、良房や、源兄弟らの反律令派への態度は冷たいものがあった。

 律令派は勢いを盛り返してきているとは言え、時代はまだ反律令派のものだった。ただし、良房の次がないことは明白であり、そのあとは律令派に権力が戻ってくるというのもこの時代の人の共通認識であった。ただし、それは良房が死んだ後という認識である。

 だが、良房の死ではなく、父である仁明天皇の死をそのタイミングと考えたらどうか。

 息子が父の死を考えるなど言語道断であるが、前年から何度も病に倒れている仁明天皇の死を意識したとしてもおかしくないし、仁明天皇自身が自分の死を考えたとしてもおかしくない。

 ここで仁明天皇が亡くなったら、待っているのは皇太子道康親王の即位である。律令派に属する道康親王が果たして良房ら反律令派を重用するであろうか。その答えは限りなくNOに近い。

特に犯罪をしていない以上、良房らを失脚させたり降格させたりといった手段はとれないが、左右の大臣や大納言を名誉職にするぐらいならば天皇の権限一つで可能である。

 ただし、ここで一点問題が生じる。良房らから実権を奪って政権を築くことが可能なのか? 実際、一度は失敗している。

 一度生まれた疑念を消すには実際に証明するしかない。何を? 派閥の実力を。

 父の四〇歳の祝いに道康親王が用意した父へのプレゼントのは質・量ともに目を見張るものがあった。

 まず量であるが、机二前、御厨子四前、御裝束机十前、黒漆棚厨子四基、赤漆韓などが記されているがその具体的な中身は不明。他にもあるのだが、史料の欠損があって全文は読みとれない。ただし、高級な調度品や山海の珍味が大量に用意されたことはわかっており、その珍味を並べたパーティーが何度も開催された。

 これに圧倒されたのか、あるいは影響を受けたのか、嘉祥二(八四九)年一一月二七日には仁明天皇の子一三名が揃って献物を捧げた。各種の料理が並べられ、音楽が奏でられる中のパーティーが清凉殿で開催された。天皇の実子でも一三名分の資産を集めてやっと皇太子道康親王一人が主催した一回分のパーティーになるというのが、道康親王ら律令派の権勢を示す指標になった。

 だが、それよりも目を見張ることとなったのはその質である。特にプレゼントの一部である奉賀の詔が注目を集めた。道康親王が大胆極まり無い発言をしたのである。

 道康親王は、この国の歴史は唐よりもはるかに古く、その歴史が永遠であること他国の追随を許さないものであるとしたのだ。

 これはまるっきりの嘘ではない。唐は建国してからこの時点までせいぜい二〇〇年程度しかない。それに比べ、日本の歴史はこの時代の人の感覚では一〇〇〇年以上に達していた。魏志倭人伝に登場する邪馬台国はこの国の古い姿であり、卑弥呼とは伝説の女帝とされる神功皇后のことで、卑弥呼より前から天皇家は存在していると考えられていたのがこの時代である。

 実際、遣唐使が唐に向かったとき、遣唐使たちは日本の歴史の古さを唐内で主張していた。我らが皇室は三国志の時代から続く皇室であり、歴史の古さは唐もかなわないとする主張である。唐も日本のこの主張だけは受け入れざるを得なかった。

 歴史の古さで行けば新羅だって充分古いではないかとなるのだが、新羅も一点だけ日本にかなわないところがあり、日本の主張を全面的に認めざるを得なくなっている。それは、始祖が日本からの亡命者であるという点である。信憑性のほどはわからないが、当時の人は新羅王室の歴史は日本から来たと考えていたし、それは現存する最古の韓国史の史料である「三国史紀」にも記されている。

 自国の歴史の古さを唱え、そのために他国より優れていると考えたら、ナショナリズムは目と鼻の先である。もともとが律令という理想を求めていた人間たちであり、律令の理想形が他国ではなく過去の自国になれば、律令を信奉したまま左から右にぶれてもおかしな話ではない。

 当時の人には右とか左とかの思想の概念はなかったが、感覚ならあった。ついこの間まで「日本はこうだが唐はこうじゃない。だから日本は間違っている」としていた人間が、「現在はこうだが過去はこうじゃない。だから現在は間違っている」とする律令派の主張の違いを感じ取っていた。

 道康親王の発言は波紋を投げかけた。

 これまで唐をはじめとする大陸こそが理想で日本はそうならなければいけないと考えていたのが、日本が日本のままで良い、それも日本的であることのほうが良く、無理して唐に合わせようとしている現在が間違いだとしたのだ。日本的なものが良くてそうでないのが駄目なら、大陸で生まれた律令という概念だって間違いではないかと考える者はいなかった。

 このときから日本独自の文化が見直されるようになる。漢文を書き漢詩を詠むことが教養であったのが、万葉仮名で文章を書き和歌を詠むことが教養とされるようになったのだ。ここまで来ればひらがなやカタカナの登場まであと少しである。

 また、衣装も日本的なものが良しとされるようになった。貴族や役人の衣装は律令で決まっているが、それはオフィシャルな場であってプライベートまでは及ばない。だから、オフィシャルな場では唐風の衣装であってもプライベートではそうでなかったのだが、そのプライベートの衣装がオフィシャルに進出するようになってくる。現在の感覚で行くとスーツでなくカジュアルファッションで出勤するといったところか。

 この感覚は真新しい感覚となり、まずは若者を虜にした。前の世代には理解しがたい流行が突然生じて若者を虜にするのは、何も今に始まった話ではない。それまで唐風の衣装をして漢文を操り漢詩を読むのが最先端だったのに、和装をして和歌を詠むのが最先端になった。

 こうした流行の感覚を後押しするのは、自分たちが最先端で、自分たちと異なる者は流行遅れであるとする観念である。時代に取り残されることが恥ずかしく、それまで普通であったことが否定される。否定されるのを覚悟の上で最新を批判しても、若者は耳を傾けない。それらは騒音でしかなく、何を言おうと時代に取り残された中高年の戯言と受け取られる。

 かつては若者のシンボルであった良房派が、時代の最先端から取り残された中高年のシンボルへと変化したのは少し前からであるが、それでも現実的な者、特に立身出世を考える者は、律令を否定するという良房の考えを受け入れていた。言うなれば、現実主義の良房派と理想主義の律令派である。

 だが、時代が律令派へ移る確率が極めて高くなったのに、流行に逆らってまで良房派にいることを選ぶだろうか。

 それまでは理想主義者の心情だけを掴んでいた律令派が、現実主義者の心情も掴んだ。現実主義者、それも若い現実主義者が律令派へと流れたのだ。

 派閥争いは、主義主張ではなく世代の争いへと変わった。

 しかし、律令派も新たなイデオロギーを獲得して時代を掴んだわけではない。特に、律令派の行動として認識されている善愷訴訟事件によって一度は有罪になりながら、伴善男の力で名誉を回復した登美直名(とみのただな)はこのとき豊後国司になっていたが、嘉祥二(八四九)年一二月一三日、その登美直名が豊後で謀反を起こしたとの報告が太宰府から届いたことは律令派にとって大ダメージであった。

 どのような謀反であったかは不明だが、刑罰は判明している。

 流罪。律令に従えば死刑であるところを一等減らしての流罪。

 このような犯罪者を擁護したとあっては律令派にとっては大ダメージであろう。実際、律令派に走った若者のうち何人かはこれをきっかけとして律令派を去り、良房の元に向かっている。惜しむらくは、このとき流れた若者が理想主義者であること。理想主義者と現実主義者とでは、かなりの可能性で現実主義者のほうが知性も教養も上回っている。

 嘉祥三(八五〇)年一月一日、前年に続いて朝賀が中止になっている。前年は水害の被災者を考えての自粛であったが、この年の簡単は大雨による中止であった。

 この大雨は、嘉祥三年という年の混乱を示す第一弾だったのかも知れない。

 嘉祥三(八五〇)年一月三日、地震発生。もっとも、地震程度であればもう日常茶飯事になっており、誰も驚かなくなっている。しかし、同日起こったこの事件は、断じて日常茶飯事ではなかった。

 流れ星が落ちた。流れ星自体は珍しいものではないが、このときの流れ星は普通ではない。その大きさは月のようで、赤と青に光りながら東へと流れていった。夜空に突然現れたこの怪奇現象は、この時代の人々を驚愕させるに充分だった。

 一月四日には暴風雪が京都を襲う。

 同日、左大臣源常と右大臣藤原良房の二名が仁明天皇に呼び出される。太皇太后(仁明天皇の母で、嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子)が住む冷然院を実子である仁明天皇が訪問することを拒絶されているため、親王だけでなく左右の大臣の引き連れての国家行事として太皇太后の訪問をするためである。一見すると何とも大げさな理由に思われるが、当時はこれが当たり前であった。それどころか、こうした訪問に同伴できることはごく一部の限られた貴族だけに与えられた特権であり、そうでない貴族たちは羨望の目で左右の大臣を眺めていた。

 嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子はこの年で六四歳。六四歳という年齢は、現在の感覚ではまだ定年退職も迎えていない現役世代であるが、人の一生が五〇年と考えられていた時代の六四歳は、いつどこで何があってもおかしくない年齢であると考えたとしてもおかしくない。

 そして迎えたこの天変地異。

 新年の息子の訪問を断り続けたのも、それが天皇としての国家行事でなければ会おうとしなかったのも、自らの終わりを悟ったからである可能性がある。

 いや、終わりを悟ったのは橘嘉智子だけではない。

 世代間の断絶は若者と中高年との間だけで起こったのではない。若者が日本的な物に新しい希望を見いだした頃、高齢者は時代に絶望していた。生活は苦しくなり、天変地異は相次ぎ、自らの命は間もなく終わると考えられる。これでは、過去を懐かしむことはできても、明日に希望を抱けと言うほうが無茶であろう。