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応天門燃ゆ 5.トロイカ体制

2011.03.01 09:25

 良房は自宅を開放し、天然痘の災厄を逃れようとする者を収容した。もっとも、いくら良房が裕福であると言っても、この時代の医学水準を超えるような医療を提供できるわけではない。つまり、良房の屋敷に足を運んでも天然痘が治るわけではなく、天然痘に罹る可能性を低くできるというだけである。

 この良房の行動は評判となり、仁寿三(八五三)年二月三〇日(当時のカレンダーには二月三〇日があった)には、良房の邸宅に収容された避難民を文徳天皇が見舞いにくるほどであった。

 ただ、文徳天皇が足を運んでも、それで天然痘が収拾するわけではない。

 伝染病の流行を食い止めることは、どのような政治的立場にあろうとも政治家である者ならば必ず全力を尽くさなければならないことである。だが、天然痘の原因のわからぬこの時代に、いかに天皇と言えど何ができるであろう。

 良房のように自邸を開放して避難民を収容するもいい。だが、それよりも先にしなければならないことがある。生活を作ることである。

 天然痘が流行したというのに、いつもの年のような収穫が得られるわけはない。天然痘に罹った者はそのぶん生活が苦しくなるし、本人が罹っていなくてもその家族に影響が出る。

 三月二二日、文徳天皇にとってはのいつものことであるが、一〇〇名の僧侶を大極殿に集め、三日間の大般若経の転読が行われた。天然痘の終息を願ってである。

 文徳天皇のこの神仏に頼る姿はさすがに良房を呆れさせた。そして、神仏に頼るのではなく、罹患者と家族の救済に当たるべきとの叱責が飛んだ。その上で、罹患者救済のために国庫を開けるべきとの上奏文が届いた。

 三月二七日、文徳天皇は穀倉院に保管されている塩を、京都在住で天然痘に罹患した者とその家族に無料で供出した。当時の民間療法で塩が天然痘治療に効果有りと考えられていたことに加え、インフレが歯止めのかからなくなっている経済を考えれば、現金になりうる価値のある塩の配給は、罹患者と家族の生計を成り立たせるのに効果があった。ただし、この配給は一度で終わる。いかに国庫と言えど、塩がそれほど豊潤に保持しているわけではないから。

 天然痘の被害はついに宮中に及んできた。

 仁寿三(八五三)年四月一八日、文徳天皇の弟である成康親王が天然痘で死去。

 同日、嵯峨天皇の子で、左大臣源常の弟の一人である源安も天然痘で死去。

 四月二五日、天然痘流行のため、平安遷都以前から山城国(平安遷都以前は山背国)で行なわれ続け、平安遷都後は国家行事となった賀茂祭(現在は「葵祭」と呼ばれることが多い)の中止が発表される。雄略天皇の即位の年(四五七年)から歴史に登場する賀茂祭が中止になるのは、歴史上これがはじめてのことである。

 翌二六日、天然痘の被害が甚だしいため、未納となっている税のうち承和一〇(八四三)年以前の未納税の免除と、天然痘罹患者への医薬給付を発表。

 同時に、これまで規制対象外であった孫王(天皇の孫)の五畿外への外出を禁止するとの発表もされた。貴族は五畿の内部にしか留まることが許されず、それがたとえ京都とは目と鼻の先である比叡山であろうと五畿の外であるため、許可無く赴くことが許されないのは天然痘の蔓延するこの時でも同じであった。ただ、皇族のうちの一部の者はその適用対象外のため、天然痘を逃れて五畿の外に出て行くことを選ぶ者が多かった。

 京都でその日暮らしをしている庶民は、京都を出て行くことも、出て行った先での生活の術もないのに、一部の皇族だけが五畿の外に出て天然痘から逃れるというのは民衆の怒りを買うことであった。

 もっとも、怒りの矛先は皇族だけだったのではない。貴族にも矛先は向けられていた。特に、天然痘流行の前は国司などの地方官に選ばれながら京都に留まっていたのに、天然痘が流行しだしてから慌てて地方に出て行く者も続出していたので、怒りの矛先は皇族だけとは限られていない。

 ところが、京都を脱出して地方に向かった貴族が目の当たりにしたのは、京都以外の土地でも天然痘が流行しているという事実だった。

 特に、東日本での天然痘の流行が甚だしかった。仁寿三(八五三)年五月四日には、相模、上総、下総、常陸、上野、陸奥の六ヶ国に一切経を写させ、天然痘の沈静化を祈らせたほどである。当然というか、それで被害を少なくできたわけではない。それどころか、田畑を耕す壮年男性が次々と天然痘に倒れ、農業に壊滅的危機をもたらすことにもなる。また、母体は無事であったり、天然痘に罹っても命を取り留めたりしたものの、お腹の子が天然痘に冒されてしまったという事例が続出した。

 一方、京都でも天然痘の猛威が街中を席巻していた。関東地方や東北地方に比べればマシだが、それでも次から次へと天然痘に倒れる者が現れた。

 貴族の中にも天然痘に倒れる者が続出し、命を取り留めても、その顔に天然痘の痕跡を残す者が出てきた。顔に発疹の跡が残り、眉が抜け落ちるのである。彼らの中には、厚化粧をし、眉を墨で描いてその痕跡を隠す者も現れた。平安貴族としてイメージされる白塗りかつ眉描きの顔はこのときより登場する。

 厚化粧も眉描きも律令の服飾規程に違反する行為であり、善男はこれを激しく非難したが、善男の批判よりも自らの顔に表れる天然痘の痕跡を消すことのほうを優先させる者が続出したため、善男の批判も弱いものに留まった。

 これだけであれば天然痘罹患を隠す行為として黙認される一部の風習に留まったであろう。だが、周囲を驚かせる事態が起こったのはその直後、何と、天然痘に罹ったという知らせを全く受けていない良房が、眉を剃り落とし、厚化粧をし、代わりの眉を描いて宮中に姿を見せたことである。さらに、兄の長良まで良房と同じ格好をして姿を見せた。こういった外見的な物とは無縁と思われていた長良と良房の兄弟の姿に宮中はどよめいた。

 しかし、その場で良房は言い放った。天然痘罹患の有無に関係なく誰もが同じように眉を剃り、厚化粧をし、眉を描けば、顔に表れた天然痘の痕跡を誰もが気にすることなくなる、と。

 この良房の言葉は宮中の貴族を黙らせ、決意させるに充分だった。

 天然痘に罹った自分を恥ずかしく思い、何とかごまかそうとしていた者にとってはこれ以上ない援護射撃であり、天然痘に罹っていない者にとっては、たとえ口に出してはいなくても、天然痘罹患者への差別感を抱いていたことを気づかせるに充分だった。

 そして、天然痘に罹っていようといなかろうと関係なく、同じようなメイクをすれば誰もがそれを気にしないようになると考えたのである。

 この結果、天然痘罹患の有無に関係なく、そして、男女の関係もなく厚化粧をして顔を白くするのが宮中で流行し、貴族社会を目指す役人や大学生にとっては貴族の厚化粧が憧れのステータスとなり、貴族世界をかいま見ることのできる庶民の中でも豊かな者は、貴族のするような厚化粧を始める者も出た。

 そして、天然痘に罹った者を差別することがみっともないことであり、天然痘に罹ったことで生じる外見を気にせぬことが正しいことであり、それを気にさせなくする格好が正しい格好であるとの風潮を広めることとなった。

 善男はこの風潮を嘆いたが、これは、民衆の不満を集めるのみならず、善男が天然痘患者を差別する者であるという評判を生んだだけだった。

 天然痘の流行はさらに勢いを増し、家族全員が天然痘に罹り空き家となってしまった家や、住民全員が天然痘に罹ったため全滅した集落が続出した。

 文徳天皇は京都市内だけではなく、日本各地の天然痘対策に追われた。仁寿三(八五三)年五月一一日、一七の寺院に対して大般若経の三日間の転読をするよう詔が出す。一三日には太宰府にも同じ命令を下し、一四日には武蔵と信濃の二ヶ国に対して一切経を写させることで天然痘の沈静化を祈らせ、二二日には、美濃国の二一〇〇斛を天然痘患者に給付させた。

 それからも天然痘で多くの皇族や貴族が倒れた。

 五月二九日、良房の叔父に当たる藤原助(たすく)が天然痘により死去する。

 六月二日には遣唐使一人として唐に渡ったこともある、この時代最高の医師と言われた菅原梶成も天然痘に罹って亡くなる。

 六月四日、後の平氏の始祖となる平葛原こと葛原親王も天然痘で死去する。

 天然痘対策のための国家予算消費が大きいこと危惧した文徳天皇は、皇族を減らして出費を抑えることを試みる。祖父の嵯峨天皇や父の仁明天皇と同様、文徳天皇も自分の子に「源」の姓を与えて皇族から外した。このときは能有親王をはじめとする男女あわせて九名の皇族が源氏となった。源氏二十一流の一つ、文徳源氏の誕生である。

 文徳源氏の誕生は貴族の数を増やすこととはつながらない。最年長の源能有でさえこのときはまだ八歳である。いかに後に右大臣として権勢をふるうこととなる源能有であろうと、八歳では貴族としてカウントするわけにはいかない。

 それどころか、天然痘の流行により貴族の絶対数が減ってしまったのである。各役職を務める貴族が病に倒れ命を失ったことで、空席が続出しただけではなく、政務に支障を生じることとなったのだ。これを埋めるため、今までであればより下の役職に留まっていた貴族を引き上げることとなった。

 自らの出世を考え、時代は律令派になると見込んで善男の元に足を運んだ若手貴族の中から、このタイミングで望み通りの出世を果たした者が出た。と同時に、律令派と出世とが無関係であることに気づく者も続出した。

 今回の天然痘大流行で文徳天皇が梨本院に移り、未だ東雅院に残る律令派と距離を置くようになっている。その代わり、文徳天皇は内裏との連携をとっており、その政策には律令派ではなく良房の影響が出るようになっている。

 律令派にとって小野篁の存在はやはり大きかった。篁一人が亡くなったことで律令派は無力な政策集団となり、この天然痘の前に何もできなくなっているのである。仮に篁が生きていたところで天然痘の前にどうにかなったとは思えないが、律令派の貴族達は篁が亡くなったことが大きいと感じた。文徳天皇が律令派から距離を置くようになった現在、篁亡き律令派でリーダーとなるべきは良相や善男だが、二人には強力なリーダーシップを感じなかった。

 東雅院は一人また一人と貴族が消えていった。

 天然痘の流行に追い打ちをかけるような災害が仁寿三(八五三)年八月一日に発生した。右京(平安京の西部)で大火災が起こり、およそ一八〇件の建物が焼失、数多くの死者が出た。また、右京に放置されていた天然痘患者の遺体もこのとき焼けた。

 大火が伝染病の病原菌を焼き殺すため、大火のあとは伝染病の流行が収まるといった事例は存在するが、このときはその例に含まれない。右京に残っていた天然痘ウィルスが焼けたことは焼けたが、すぐに外から天然痘ウィルスが入ってきて、右京はまた天然痘の流行地帯に飲み込まれた。


 一方、京都市外では意外なことが起きていた。

 仁寿三(八五三)年という年はたしかに天然痘が日本全国に蔓延した一年であった。だが、天候は安定していたのである。降水量も日照も農業にとって最適であり、天然痘に罹患していなければかなりの可能性で豊作が見込めたのだ。

 無論、天然痘に罹患してしまった農家は収穫に影響を及ぼす。それでも、農村というものは一家庭で全てをこなすわけではない。集落単位での相互扶助が農村の鉄則である。天然痘に罹った者の看病を集落で行ない、耕す者が居なくなった田畑を代わりに耕すのが当たり前であった。

 天然痘により集落が全滅したところはどうにもならなかったが、全滅ではなかった集落からは豊作の知らせが飛び込んだ。この収穫による税収が国家財政を好転させる要素となり、文徳天皇は天然痘の被災者に対する大規模な援助を開始する。

 手始めとして、仁寿三(八五三)年九月一四日、太宰府管内の天然痘罹患者に対し、合計三万八七〇〇石もの穀物支給を決定した。

 一〇月一六日には安芸国(現広島県)に対して天然痘罹患者救済を前提とした免税を決定。二二日には、以前より計画されながら予算不足から実行できずにいた遠江国と駿河国の境となる大井川の渡船の二艘増置を実行するとの決定が出た。これにより、東海道の交通事情で最大の障碍である大井川の渡河の効率が向上した。

 豊作により財政は改善されたが、天然痘の猛威はなおも続いていた。

 せめて年末年始ぐらいは天然痘の猛威が鎮まるようにと、仁寿三(八五三)年一二月八日、諸国郡の国分寺・国分尼寺に陰陽書法を行わせたが、効果はなかった。

 天然痘は年が明けても終息せず、仁寿四(八五四)年一月一日の朝賀も中止となった。

 それでも、天然痘がまるで無かったかのような一年の始まりとしようとする努力は見られた。一月七日、二二名の貴族が昇格し、一八名の役人が新たに貴族に加えられた。人数も日付も仁明天皇の頃と変わらない。一月一六日には三三名の貴族が新たな役職を得る。これも仁明天皇の頃と変わらない。

 ただ、その努力も天然痘の猛威の前には無駄であった。

 人事に続き、年中行事も例年通りの開催しようとした文徳天皇であるが、人が集まることでの天然痘の拡大防止が優先だとの意見の前に、行事の開催は断念せざるを得なくなった。平安京の民衆にとっては数少ない娯楽の中止であるが、天然痘対策であるという説明の前には誰もが納得した。

 その代わりにと言うべきか、文徳天皇は各寺院や各神社に、天然痘鎮圧の祈りを捧げるよう命令している。

 二月一三日、災疫を除くため、大和国に灌頂経法を行わせた。

 二月一六日には五二名の僧侶を集め、三日間の大般若経転読をさせた。

 こうした祈りの様子は公開とされ、娯楽に飢えていた民衆は、争うように寺院や神社に押し寄せた。お参りすることで天然痘から逃れられると考えた者もいたことまでは特に問題ないのだが、そうしたお参りをする民衆相手に、天然痘よけの妖しげな呪符やグッズを売る者が出るとなるとさすがに問題となった。まあ、人間のやることというのは、現在も一二〇〇年前も変わらないということか。

 仁寿四(八五四)年四月一三日、それまで平安京北東の梨下院に避難していた文徳天皇が、平安京内の冷然院に住まいを移した。相変わらず内裏ではないが、平安京の内部に住まいを移したというだけでも進歩であった。

 文徳天皇の戻った平安京であるが、天然痘の蔓延する状態であることに違いはない。四月一九日には、前年に続き賀茂祭の中止が命令されたほどである。これも平安京に住む民衆にとってはやむを得ぬこととして受け入れられていた。

 しかし、日本中が天然痘に苦しんでいる最中の四月二八日、陸奥国から届いた知らせはどうあっても受け入れられないことであった。

 陸奥国から届いた知らせは、凶作により困窮者が続出しており、陸奥国に常駐している兵士が逃亡。その動きに農民も同調し、反乱の恐れがあるという知らせである。

 京都とその周辺では豊作だったが東北地方では不作であったというだけであれば、それは同情できることであるし、援助だってしようという気にもなる。だが、兵士がその職務を放棄し、周囲の農民と連携して反乱を起こそうというのだから、これは同情できることにはなれない。

 天然痘に苦しんでいるのは東北地方だけではない。平安京だって天然痘に苦しんでいるし、地方各国からも天然痘の苦しみの連絡が届いている。家族を亡くした者もいる。友人を亡くした者もいる。恋人を亡くした者もいる。天然痘に罹り一生消えることのない痕跡が顔に刻まれた者もいる。だけど、誰もがその苦痛に耐えている。

 それが、東北地方だけ天然痘に耐えることなく反乱を起こそうとしている。これは民衆の怒りを呼び起こすのに充分であった。

 反乱の恐れありとして二〇〇〇名の兵士を陸奥国へ派遣することが決まったが、うち一〇〇〇名は反乱鎮圧の呼びかけに呼応し名乗りを上げた平安京の民衆であった。

 無論、主目的は反乱の鎮圧ではなく、反乱そのものを起こさせないことである。

 飢饉だというのだから、食料を配布すればいい。そして、このときの京都には配布できるだけの食料の余力があった。

 五月一五日、兵士が陸奥国に派遣されたと同時に、一万斛の穀物の輸送も始まった。派遣された兵士達に課せられた使命は一つ。反乱鎮圧ではなく、反乱そのものを起こさせないこと。

 仁寿四(八五四)年六月。天然痘の猛威が内裏に現れた。

 左大臣源常が天然痘に罹って倒れたのである。

 良房の傀儡と言われようが、二八歳で右大臣に就き、三二歳で左大臣となってからこれまで、人臣の最高地位者は源常であった。

 たしかに源常が左大臣であったこの一〇年間、権力は良房の手にあった。だが、決して凡庸な左大臣ではなく、その権威はときに良房を凌駕することもあった。何と言っても仁明天皇の実の弟という一点は良房には超えることのできないプラス要素であり、同じ言葉でも、良房が口にするより源常が口にするほうが重く感じられた。

 その源常が天然痘に罹り内裏から姿を消して自宅に籠もった。藤原氏の邸宅と路を挟んで建っているため、良房ら藤原家の者にとっては気軽に訪問できる邸宅であったが、源常はその訪問を拒んだ。いや、良房ら藤原家の者だけでなく、一切の訪問を断ったのだ。その上で、邸宅で働く使用人のうち、天然痘に罹患した経験のない者を一人残らず解雇し、そうした者達の処遇を良房に任せた。全ては天然痘の拡大を防ぐために。

 源常は高熱にうなされ、激しい頭痛と関節痛に悩まされて身動きができなくなった。

 手に紅色の斑点が現れ、鏡を見ると同じ斑点が顔にも現れていた。

 斑点は次第に水ぶくれとなり、皮が破れ水が出た。

 熱はいったん引いたものの水をはき出したあとの斑点が化膿し、黄色い膿が溜まった。同時に咳が激しくなり、呼吸困難を伴った。源常はこのとき死を覚悟した。

 再び高熱が源常を襲い、呼吸も苦しくなり、ついに身動きができなくなった。

 そして、六月一三日。

 左大臣源常死去。

 翌一四日、文徳天皇は亡き源常に対し正一位を贈った。


 源常の死によってポストが一つ空いたことで、出世を望む貴族たちは色めき立った。何しろ人臣最高位のポストが空いたのである。一つずつポストが昇格するのは間違いないし、自分の地位も上がること間違い無いと考えたのだ。

 文徳天皇も当初、良房をそのまま左大臣に昇格させようとしたのだが、当の良房がそれを拒んだ。不祥事を起こしての退官ならばともかく、病によって命を失った者の地位を即座に埋めるのは失礼にあたるというのが良房の言い分である。

 その結果、左大臣の地位は空席のままとなった。人臣のトップの地位が名実共に良房のものとなったが、その地位はあくまで右大臣である。

 ポストの移動があったのは源常の死から四ヶ月後になってからであった。その四ヶ月間、史料に出てくるのは天然痘鎮静化を願う神仏頼みと天然痘による死者の記録がほとんどである。

 四ヶ月後の記録、それは左大臣ではないが、なかなかの高い地位であった。仁寿四(八五四)年八月二八日、生前の源常が左大臣とともに兼任していた左近衛大将に良房が就く。そして、それまで良房が兼任していた右近衛大将には、大納言の源信が就任。良相が大納言に登り、長良が権中納言となった。

 同日、源融が伊勢守に、源多が参議に昇る。何れも良房派の若手であり、これを見ると、このときの文徳天皇は律令派と距離を置いていたことが読みとれる。もっとも、良房派だからというよりも、自分の従兄弟である面々の優遇という側面もあるが。

 この天然痘の流行のおかげで、いつ、誰が、命を失ったとしてもおかしいとは思わなくなったし、その誰かというのが自分であったとしてもおかしいとは感じなくなった。

 文徳天皇も左大臣の突然の死という現実を目の当たりにしては、自らの命を考えざるを得なくなる。そのことが現実となったとき、皇位は皇太子である惟仁親王の手に渡る。だが、やっと文字を学びだしたばかりの幼子に天皇が務まるだろうか。それを考えたとき、文徳天皇が頼りに考えたのは、それまで自分の周囲を固めていた律令派ではなく、やはり良房だった。

 それまで中止されることの多かった年中行事の中から、良房は重陽節の定例通りの実施を上奏し、仁寿四(八五四)年九月九日、予定通り重陽節の儀式が執り行われた。重陽節は天皇が臨席するが、その中身は音楽を奏でる中での宴でしかない。それでも、たった一日でも、政治信条に関係なく、身分の差も関係なく、天皇も、貴族も、役人も、一般庶民も、天然痘のことを忘れることができた。

 仁寿四(八五四)年九月二三日、一ヶ月前に就いたばかりにも関わらず、右近衛大将の地位が源信から藤原良相に移される。源信も良相も大納言であることに代わりはないのだから、大納言職にある者が兼任することの多い右近衛大将職に良相が就くのは不合理ではない。

 だが、一ヶ月前に就任した者を罷免して新たな者を就けるのである。これは不合理な話としか言いようがない。

 一見すれば、良房が左、良相が右と、藤原兄弟が左右の近衛大将の職を占めるのだから、藤原家の権勢を示す要素になりうる。しかし、この時代の者がそんなことを考えるはずがなかった。良房と良相は、その政治信条の違いから異なる派閥となっている。この二人の間にあるのは対立であって協力ではない。

 おそらく、良相がこの右近衛大将職を渇望した結果であろう。忘れてはならないのは、良相がこの時代最高の武将だという点である。後の武士は、後と言っても征夷大将軍が権威を持つようになる前であるが、その時代の武士は、近衛大将を武人に対する最高の栄誉と考えた。おそらく良相も似たような考えだたのではなかっただろうか。

 これまでは左大臣が左近衛大将、右大臣が右近衛大将を兼任していた。大納言である自分よりも目上の役職にある者が兼任しているのだから、近衛大将になりたければより出世しなければならない。

 ところが、良房が左に転じたことで右の近衛大将が空席となった。これを知った良相が、大納言である自分にはこの空席に就く資格があると考えたとしてもおかしくない。自分より上には良房ただ一人がいるのみであり、武人としての実績を見ても右近衛大将は当然の結果であろうという理由で。

 そう考えていたところで知った源信の右近衛大将就任。良相は落胆すると同時に怒りに身を任せた。

 その上、源信は良房派の貴族として時代をリードしていた。兄である源常が亡くなった後、兄弟たちをまとめていたのはこの源信である。ただでさえ源氏は律令派と敵対する存在と見られているところに加え、良相が渇望していた右近衛大将を横取りしたと考えられた源信は、この後、律令派と激しく敵対することとなる。

 一方、念願であった右近衛大将の地位を手に入れた良相だが、結果から言うと、良相個人だけではなく国にとって最高の選択であったことが翌年判明する。


 仁寿四(八五四)年一〇月一一日、良房の後継者に指名された藤原基経が従五位下の位を得る。この瞬間、基経は貴族となった。

 貴族となった基経であるが蔵人であることには変わらない。着る服が役人のそれから貴族のそれになったが、あどけなさの残る少年という見られかたは相変わらず続いている。

 ただし、基経は良房派の若手のホープとしての頭角を現しつつあった。

 一一月二日、基経が侍従に出世する。蔵人と同様文徳天皇の補佐をする仕事であるが、蔵人より文徳天皇と接する時間は長い。また、文徳天皇の命令を伝達する仕事はなくなり、その代わりに文徳天皇の身の回りの世話をする時間が増える。これは典型的な貴族の子弟の出世コースであった。

 文徳天皇は基経を信頼するようになっていた。周囲がみな歳上ばかりという環境にあって、自分を兄のように慕い、誠実に職務をこなす少年である。女性を引きつける美貌や可愛らしさはないが、この少年には何とも言えない愛嬌があった。

 だが、文徳天皇は一つ大切なことを忘れていた。この少年は良房から帝王教育を受けているのである。愛嬌のある幼い少年と思っていても、その中身は良房派の一貴族であり、その行動は良房派の行動であった。

 仁寿四(八五四)年一一月三日、文徳天皇は最後の手段を選んだ。

 天然痘対策として改元をするというのである。

 ただし、この改元には賛否両論あった。凶兆での改元は珍しくない。ただ、それを明言することは珍しい。誰が見ても凶兆でしかない理由での改元であろうと、些細なことでも見つけだして吉兆ととするものなのだから、それを打ち出さずに凶兆を理由とすることに反発が起きたのである。

 過去二回の改元は、それがどんなに実状を伴ったものでなくても、名目上は吉兆による改元とされた。それが今回は、はっきりと凶兆による改元と明言している。

 実際に改元が行われたのは一一月三〇日になってから。改元を打ち出してから一七日経ってようやく、元号は「仁寿」から「斉衡」へ変更された。

 斉衡元(八五四)年一二月三日には、改元を告げ、天然痘を鎮めることを祈る使者が、文徳天皇の祖父でもある嵯峨天皇の陵墓に派遣された。

 ただ、改元も、嵯峨天皇への陵墓への参詣も、天然痘を鎮める効果はなかった。

 年の明けた斉衡二(八五五)年一月一日の朝賀も中止となった。もっとも、このときは天然痘流行に加え、京都の都市機能を麻痺させる大雪が降ったためでもある。

 一月七日、位の付与が行われ、良相が正三位に昇る。また、善男が従三位となり、四位に留まっている正躬王を位で追い抜いた。

 正三位となった良相であるが、その八日後の一月一五日、これまで就いていた陸奧出羽按察使の職を降りている。代わりに陸奧出羽按察使に選ばれたのは中納言の安倍安仁。安倍安仁に課せられた使命は、二〇〇〇名の兵を率いて陸奥国に向かい、反乱を未然に防ぐことである。既に二〇〇〇名の兵が陸奥に向かっていたから、安倍安仁の手元には四〇〇〇名の兵がいることとなる。

 この一月一五日は、安倍安仁の他にも数多くの貴族が新たな役職を手に入れている。安倍安仁の他に三九名の地方官が任命され、八名の貴族が武官に組み入れられた。

 彼らに託された共通の役割、それは治安の安定化である。

 天然痘による死が日常の光景となり、人々に絶望感が漂ったことは既に述べた。

 問題は、その結果である。

 明日にも死ぬかも知れないと考えながら生きなければならないとき、それまでの平常の暮らしをできるだろうか。明日がわからない。未来が見えない。頑張っても、頑張っても、その成果が見られる前に自分は死ぬかも知れない。そんな毎日を過ごさなければならないのだ。

 どうせ死ぬならその前に欲望を満たしたいと考えるのは、犯罪ではあるが、本能でもある。もし、それがどう頑張っても手に入れることのできない欲望なら最初から諦めもつく。だが、一杯の白いご飯、新しい服一着、こんな些細な欲望ならどうか。誰でも市に行けば手に入れることだってできるのだ。ただし、資産さえあれば。

 その資産が無いという現実、欲望が目の前にあるという現実、そして、明日にも死ぬかも知れないという現実が合わさったとき、待っていたのは犯罪の増加だった。

 平安時代全体を見渡しても治安の良い時代とは言えない。だが、今回の天然痘発生以後の治安の悪さは異常だった。街には盗賊がうろつき、昼間でも一人で歩くなどもってのほか。その上、犯罪者を捕らえても反省することなく、死刑になるべき犯罪者でも追放刑に留まるため、いつの間にか戻ってきては再犯者となる。

 何しろ、内裏や、文徳天皇の住む冷然院ですら盗賊が忍び込むのである。最大の警備が成されているはずの建物でこの有り様なのだから、他の建物がどうなのかなど容易に推測できる。

 八名の貴族が武官となったのも、安倍安仁を含む四〇名の貴族が地方官となったのも、全ては力ずくで犯罪を取り締まるためだった。

 そして、これらの全てを統べるのが、右近衛大将である藤原良相であった。

 良相の指揮はさすがだった。

 全ての命令は良相から発せられ、全ての情報は良相に届く。部隊の編成も派遣も一手に引き受け、良相の指揮する軍勢は日本国内の各地で犯罪者を捕らえていった。

 その中で、死刑となった者はいないことになっている。だが、戦闘で死んだ犯罪者は数知れなかった。また、犯罪者を動けなくさせた上でその処遇を被害者に任せることもした。

 治安回復をさせつつあることで、良相の評判は目に見えて上がった。

 緒嗣政権下での良相は兄に操られる武人であり、良房政権下での良相は善男に操られる武人であった。何れにしても、誰か別な人間に操られる武人であって、自分で考えて動く武人ではなかった。

 ところが、今の良相は上に誰もいない。治安回復についてならば良房と意見の一致を見ていたし、この重要事についてはさすがに善男の反対もなかったが、あくまでも賛成であって指揮ではない。この治安回復の指揮は良相が握っているのである。

 これは良相にとって大きな自信となった。自分の権力者としての自信である。だが、その成功は武人としての成功であって、政治家としての成功ではないことに気づいていなかった。


 一方、文徳天皇はその頃、現在しかできないと考えた事業に乗り出した。 

 斉衡二(八五五)年二月一七日、藤原良房、伴善男、春澄善繩、安野豊道の四名を呼び出した。

 そこで出た命令に良房は驚愕した。

 仁明天皇の即位から死去までをまとめた勅撰の歴史書を作れというのである。

 この時点で完成していた勅撰史書は三冊ある。天智朝の終了までを記した「日本書紀」、天武朝の終了までを記した「続日本紀」、桓武天皇から淳和天皇までの歴史を記した「日本後紀」の三冊である。現存する歴史書としては他に「古事記」もあるが、こちらは勅撰、すなわち、国の命令により作成する国の公式な歴史書ではない。また、現存しないが、この時代は他に、帝記、旧辞、天皇紀、国紀といった歴史書があったことが判明しているが、これらもやはり勅撰ではない。

 国が主導する勅撰の歴史書を作る理由は二つある。

 一つは国として歴史に対する公式見解を表明すること。

 もう一つは、時代が変わったことを表明すること。

 これまでの勅撰の歴史書は三冊とも、一つの時代が終わったことをアピールするときに編纂され、公開された。

 日本書紀は、天智天皇の権力が終わり、天武天皇のもとへ権力が移ったことをアピールする目的もあった。

 続日本紀は、その天武天皇の系統が途絶え、再び天智天皇の系統に権力が戻ったことをアピールする目的もあった。

 では、日本後紀はどうか。

 日本後紀の編纂を命じたのは嵯峨天皇である。嵯峨天皇が藤原冬嗣らに命じて編纂させたが、その完成は嵯峨天皇が退位し、淳和天皇も退位し、仁明天皇となってから。結果として、嵯峨天皇の治世の終わりどころか、淳和天皇の治世の終わりまで歴史として記すこととなったが、スタートはあくまでも嵯峨天皇だった。

 嵯峨天皇は争いによって権力を掴んだ天皇である。それは、自分の権力が成立したことによって一つ前の権力が終わったことを意味する。奈良の反乱が鎮圧され、藤原仲成が死刑となり、藤原薬子が自殺し、平城上皇が出家し、平城京という都市が終わりを迎えたことは、嵯峨天皇にとって、天智朝の終わり、天武朝の終わりに匹敵する大事件だった。だから歴史書の編纂を命じ、自らの治世が新たな歴史の始まりであると宣言した。編纂に時間が掛かったため、嵯峨天皇の治世のみならず淳和天皇の治世までを記すこととなったが、これも、続日本紀を編纂させた桓武天皇という前例があったことを考えればおかしな話ではない。

 さて、文徳天皇が命じた歴史書の編集であるが、文徳天皇は何を以て時代の始まりと考えたのか。首都が変わったわけでもなく、時代の転換期となる大事件もない。だが、一つだけ大きな転換があった。

 律令派の権力奪取。

 それまで良房が握っていた反律令の権力が終わり、律令に基づく政治が復活したことは、文徳天皇にとって歴史の転換期となった大事件と言えた。

 しかし、何故このタイミングなのか。

 この答えは一つしかない。

 善男である。

 天然痘大流行の頃から善男が姿を見せなくなっていた。無論、善男がこの世から消えたわけではない。政治家として目立つ業績を残さなくなったのである。

 これまで善男は律令派の重要人物として存在感を見せてきたが、篁が亡くなり、天然痘の流行で文徳天皇が離れたことで、律令派の規模が弱まったところに加え、治安悪化対策に良相が実績を見せるようになった結果、律令派の内部における善男の地位も低下した。となると、ここで行動を示さないと善男はこのまま埋没してしまう。

 そこで文徳天皇に入れ知恵をした。

 新しい歴史書を作るということは、新時代の始祖になるということである。これは文徳天皇の自尊心に響いた。

 その上、四名の貴族が史書編集に召集されたが、この人選は善男の手による。四名のうち良房だけが明らかに系統が異なる。史書の編集に人臣の最高地位者が呼ばれることは何らおかしくはないが、良房以外の三人は何れも律令派の知識人として名を馳せていた以上、これが善男からの良房派に対する宣言なのだろう。

 歴史の編集は国家事業であるため、命じた者も、関わった者も、ともに歴史に名を残すし、その編纂の過程も歴史に残る。

 いかに良房に権力があろうと歴史編纂においてはその権力を発揮できない。それどころか、権力を発揮したことが歴史に残される。その悪評を受け入れることができないなら、あくまでも一知識人として編纂に関わらなければならない。

 ところが、良房は今やただ一人の大臣である。多忙を極める日々であり、歴史書の編集にそこまで深入りすることができない。多忙なのは善男だって同じだが、善男には春澄善繩と安野豊道という、自分の手足となってくれる手下がいる。

 つまり、善男の望んだ歴史書が記される。それも、敵対する良房が編者に名を連ねた上で。

 淳和天皇の退位までが既に公開されているため、仁明天皇一代のみを扱う歴史書、『続日本後紀』の編纂が始まった。

 善男が歴史書の編集を打ち出したとき、良房は反対することだってできたのである。

 だが、それをしなかった。したくてもできなかったのだ。

 治安悪化と天然痘の流行がもたらした混乱に追われていたのがこのときの良房である。軍を指揮し、目に見える形で犯罪者を取り締まって治安を回復させていた良相が目立っていた裏で、良房は目立たぬ対応をしていた。

 その一つが、平安京に流入し続ける流民対策である。古今東西、田舎で生活できなくなった貧困者が都市に流れ込んでくるのは変わらない。都市の貧困対策を行なって都市の貧しい人を救済することでその人が貧困から脱出できたとしても、都市の貧困問題は終わらないことも変わらない。まるで空席を埋めるかのように次々に新しい貧困者が流れ込むのである。

 これを解決する方法は一つしかない。都市に流れ込ませないことである。都市に流れ込まなくても生活できるなら流れ込まないが、これには時間がかかる。かと言って、都市の貧困対策を行なわなければ治安悪化につながる。

 良房はまず、現行法で平安京に流れ込む者を減らすことができないかと考えた。その結果、斉衡二(八五五)年三月一三日、五畿内に住むことができるのは、五畿で生まれた者か、五畿に住む者と結婚した者に限るとの布告が成された。厳密には再布告である。これが、これまで法により定められていながら守る者が少なく死文化した法を掘り起こした結果だった。

 本来なら律令を無視してでも対策をしたかった。だが、距離を置いたとは言え文徳天皇はまだまだ律令派の人間であるし、勢力が弱まったとは言え律令派は無視できる存在ではない。律令派を納得させるためには律令に従った上で政策を展開するしかなかった。

 ただ、これは布告としては弱かった。

 そもそも、人が平安京に流れ込むのは、地方で生活できなくなったからである。いくら平安京に流れ込むなと命令しても、犯罪に手を染めることなく生きていくにはそれしか方法がないのだから、生きる方法を整えることなく人の流れを止めることなどできなかった。

 その上、この年は天災が再び多発するのである。これでは、生活苦から都市に人が流れるのを抑えるなどできない。

 斉衡二(八五五)年三月一七日、暴風雨が京都を襲ったのがこの年の災害のスタートとなる。

 四月には、春とは思えぬ寒い気候が毎日のように続き、農作物に霜が降りた。また、雨天も続き、脳作物の発育に影響が出ることもこの段階で明白となった。そして、一五日にはゲリラ雷雨が京都を襲う。

 天気の次にやってきたのは地震だった。

 五月一〇日、一一日と連続で地震が起こる。このときの揺れの大きさを伝える記録は一つしかないが、そのたった一つの記録が地震の規模を教えてくれる。

 地震から一二日を経た五月二三日、東大寺から、大仏の頭部が落下したとの連絡が届いた。

 首都でなくなってから七〇年、奈良の反乱からも四五年を経ている。かつての国家最大の都市であった頃の面影はなく、今はただ廃墟の連なるゴーストタウンと化した奈良であったが、東大寺だけは別だった。日本全国に散らばる国分寺は東大寺の元に連なるし、学問にしても東大寺のそれは京都の大学に匹敵する。そして何より、国家最大の建造物である大仏が東大寺にはある。

 国分寺をまとめる寺院が京都にできようと、京都の大学の学問水準が他を圧倒することになろうと、大仏だけは奈良の人々の誇りであり、心の支えであり続けた。

 その大仏が崩れた。

 単に銅像が一つ壊れただけではない。奈良に住む者の最後の誇りが壊れたのだ。

 大仏崩壊。

 東大寺が懸命になってこの情報を隠そうとしたのは、単に観光資源を失いたくないという感情からではない。

 大仏は奈良に住む者の支えであると同時に、この国全体の支えでもあった。どんなに苦しい日々が続いても、どんなに世の中が乱れようと、東大寺の大仏だけは永遠に輝き続けるというのがこの時代の人々の感覚だった。

 その、永遠のシンボルでもあった大仏が、頭部だけとは言え崩れ落ちた。この知らせが日本全国に響きわたったとき、人々の脳裏によぎったのは『天がこの世を見放した』『この世はもうじき滅びる』という感覚だった。

 その上、斉衡二(八五五)年六月一日には日食も起こった。

 永遠のはずの大仏が崩れ、太陽が欠け、地面が揺れる。

 これではどんなに平静を装うとしても装えるわけない。

 文徳天皇も良房も市民の動揺を鎮めるのに懸命になったが、一度堰を切った動揺は収まらない。天然痘にも耐えてきた人々もこれだけ災厄が続けば世が滅びると考えるようになる。結果、真面目に働くより、今を生きることだけを考えるようになった。

 良相が始めた治安の回復が無駄に終わったのだ。少しなりとも蓄えを持つ者は強盗に奪われた。蓄えを持たぬ者は盗人になった。欲望は、耐えるものでも、努力して満たすものでもなく、手っとり早く満たすものなった、牢に人が溢れ、数多くの罪人を追放に処しても、次から次へと犯罪者が生まれる。犯罪者にならなければ犯罪者に財産を奪われ、貞操を奪われ、命を奪われる社会になってしまった。

 その上、天然痘の流行はまだ続いている。それなのに、朝廷がしていることは祈りを捧げることだけ。これまでは神仏の加護を期待していた人も、大仏の現状を見れば、この世には神も仏もないと思うようになるし、朝廷は何の成果も出ないことに懸命になって、病人を救おうとしないと考えるようになる。

 斉衡二(八五五)年六月七日、参議の藤原氏宗を東大寺に派遣するも、朝廷の期待した報告、すなわち、大仏の損壊は大したことなく、すぐに修復できるという知らせは得られなかった。藤原氏宗からの報告は、東大寺の力だけではどうあがいても大仏を修復できそうにないという内容だった。

 大仏の惨状は噂に尾ひれの付いた結果ではなかった。

 この知らせを受けた朝廷では、修復とすべきか、放置とすべきかで論争となった。

 これが純粋に大仏の修復を巡る是非ならばまだ問題はなかったのだが、良房派と律令派の派閥争いの道具となってしまった。良房派が修復を主張し、律令派が放置を主張したのである。そして、このときの意見は律令派のほうが強い論調であった。

 大仏を再建すればこの国の動揺を抑えられるが、再建するとなると莫大な国家予算を投入することとなる。今の朝廷にそんな予算などなく、再建するには増税しなければならない。ところが、今の混乱極まる社会状況では増税による税収アップなど考えるだけ無駄であり、どんなに努力しても前年度の税収が得られれば御の字という有り様だった。

 さらに、対策しなければならないのは大仏だけではなかった。大仏を破壊したほどの大きさではなくても、地震が頻発し、その都度対策に追われる状況となっていた。

 文徳天皇は鎮静化を願い、元正天皇や聖武天皇の埋葬されている佐保山陵に使者を派遣した。

 これまでも歴代の皇族の陵墓に参詣して国家の安寧を祈らせることは多かった。だが、その対象は嵯峨天皇や桓武天皇といった天智天皇系の皇族か、神武天皇や神功皇后といったはるか昔の皇族に限られていた。平安京という都市自体が、奈良時代、すなわち、天武天皇系からの脱却をもくろんで造られた都市であり、桓武天皇からこれまで、天武天皇系の皇族は、歴史上の存在であることは認めても、公式の場ではタブーであった。タブーに挑んだただ一人の存在である平城天皇は身の破滅を招き、最愛の女性を失うという結果を招いている。

 それがここに来て、天武朝系の陵墓への参詣である。天武朝の功績である大仏の崩落という事態があったにせよ、天武朝からの脱却を前提としていたはずの平安京の朝廷が、その前提を捨てなけれなならないところまで追いつめられたのだ。

 その後も歴史書には凶兆の記録が相次ぐ。

 この頃のニュースは地震しかないのかと言いたくなるほど、記録は何月何日に地震が起こったのかという記録しか出てこない。

 また、斉衡二(八五五)年八月二五日には、長門国より、二つの頭を持った牛が生まれたとの報告が届く。数年前は天が祝福している証拠とされた白い亀の報告が届いたのに、今届くのは天の祝福など全く感じられない凶兆の報告である。

 ただでさえ天災の連発で意気消沈しているところで届いた凶兆は、傷口に塩を塗るに等しい。

 それでも、所詮は単なる自然現象と考える合理的な考えの持ち主もいたが、九月七日に起こった事件はそうした考えの者も震え上がらせるに充分だった。

 夕方、皇太子惟仁親王のもとに強盗が押し掛けたのである。これまでにも盗賊が、内裏や、文徳天皇の住む冷然院に忍び込んだことはある。だが、それらは闇夜に乗じての犯行であり、今回のようにまだ日の沈まぬ時間に押し掛けてきたものではない。それが今回は武器を持った上での、日もまだ沈まぬ時刻の、正面からの堂々たる乱入である。

 武装した兵士との戦闘が展開され、犯人は弓矢で射殺された。この時代、死刑はなくなったが、犯人確保の過程で犯罪者が殺されることはあった。だから、犯人が射殺されたことは珍しいことではない。しかし、いまだ幼い皇太子の面前で戦闘が繰り広げられ、目の前で殺されたのである。

 この知らせを耳にした者は誰もが驚いたが、誰もがおかしなこととは考えなかった。

 どこにも安全はない。

 どこにも救いはない。

 どこにも希望はない。

 あるのは、皇族ですら身の危険を感じなければならないという現実だと知っていたから。

 斉衡二(八五五)年九月二八日、文徳天皇はついに決断する。東大寺の大仏の修理を、である。

 それには莫大な国家予算が必要となるが、人々の命に関わる危険極まりない日常を打開することのほうが何よりも必要だとした。

 律令派の反発を抑えて大仏修理を決心させたのは、律令派の重鎮でもある良相が修理賛成に転じたからである。厳密に言えば、転じたと言うより、治安対策の最前線に立っている良相には修理すべきか否かの議論に参加する余裕がなく、大仏修理の可否の議論を聞きつけたときに、自身の現在の経験を踏まえて賛成を表明したと言うことである。良相が修理賛成と即答したのは、良相が他のどの貴族よりも治安問題の原因を理解できていたからである。

 全ては生活である。

 働いても働いても生活が楽にならない。平安京にやってくるのもそれまで住んでいた村では生活ができなくなったからであり、これはいくら平安京移住を禁止してもどうにもならない。仮にその禁止を受け入れて故郷に帰ったとしても、真面目に田畑を耕したところで収穫は少なく、その少ない収穫も強盗団のターゲットになるのでは、田畑を耕す気になどなれない。

 良相が向かい合ったのはその現実に絶望している人々だった。だから、希望が必要だった。大仏を修復することは、ただ単に銅像を直すことを意味するわけではない。永遠のシンボルである大仏を蘇らせることは再び永遠と安寧を手に入れることを意味する。これは充分に希望となることだった。

 この良相の意見に善男は真っ先に反対した。これまで延べてきた予算不足、そして、大仏修理以外にも費やさねばならない政務があるというのが最大の論拠であり、反対するに充分な中身でもある。だが、それは本音ではない。

 最大の理由は良相が自分を差し置いて政策を提言したことにある。善男にとっての良相は、現時点での役職や位が自分より上であることは認めるが、あくまでも自分が利用すべき存在、すなわち、善男の意志によって動く道具であって、良相自身が自立的に行動する存在であってはならなかった。

 その良相がこのところ自立的に行動していることが我慢ならなかった。歴史書の作成を持ち出して善男もポイントを稼いだが、治安対策に注力を注いでいる良相との差は開く一方である。

 この結果、律令派は足並みの乱れを起こした。

 一方、良房は弟の提案に積極的に賛成した。善男の掲げた財源不足についても藤原の私財を持ち出すことを提案することで、反対意見を封じることに成功した。

 良房が賛成したのは何と言っても大仏再建のもたらすメリットの大きさである。

 それは何も良相の掲げた人心の安定とか希望の創造とかの理由だけではない。大規模工事のもたらす雇用、これが大きかった。

 平安京に流れ込む人は暮らしの宛があって平安京にやってくるわけではない。生活ができなくなったから都市に出てくるのであるが、都市に出てきたあとどうやって生活するかまでは考えていない。

 こうした人々に職を与えてきたのがこれまでの良房である。あるときは大農園を築いて農民に戻し、あるときは工事をして賃金を払った。ただ、インフレと治安悪化がその全てを台無しにしてしまっているのである。工事をして給金を払っても、インフレがその給金の価値を下げた。大農園は強盗団の略奪のターゲットになり、終わり無き自衛の戦いを続けるか、農園を放棄するかしなければならなくなった。

 だが、大仏の再建となると話は変わる。

 まず、平安京に流れ込んだ人々を平安京の外に出せる。しかも、その行き先は衰退著しい平城京跡。これは奈良の衰退を食い止める効果も期待できた。

 次に、ある程度の長期間の雇用となる。頭部の破損だけとは言え、一年や二年で済むような工事ではない。

 そして、大仏という仏教関係の国家行事となるため、その賃金も銅銭ではなく穀物の現物支給が許される。穀物の支給であればインフレを気にしなくてもいい。

 大仏修復はたしかに国家財政の負担は大きいが、それを上回るメリットがあった。その上、大仏修復のためという臨時税を課すこともできた。実際、九月二八日の布告では、銭一枚、コメ一合でも構わないから、誰もが大仏修復のために協力するようにとの願いが出ている。あくまでも要望であって命令ではないが、これは事実の納税であった。なお、これに対する反対は特に出ていないどころか、積極的な寄付まで出ている。やはり、今のこの惨状をどうにかしてほしいという願いを持つ者が多かったのだろう。

 ただ、納税する側は純粋な救いを求めての寄付であっても、それを使う側は全てを大仏の修復に使うわけではなかった。不足している国家財政を埋める絶好の財源となったのである。

 大仏修復の動きは正解だった。

 平安京で明日の宛もなく絶望の日々を過ごす失業者に、臨時とはいえ職業を与えたことで平安京の失業問題が劇的に解決し、同時に京都の治安回復が進んだ。

 無論、犯罪の心配が皆無になったわけではない。都を離れて廃墟となった奈良に移り住むことを拒否する者もいたし、働いて得られる食料より犯罪で手に入れる欲望を優先させる者もいた。

 それでも犯罪者の絶対数が減ったことは治安回復の大きな成功であったし、失業者の絶対数が減ったことは社会の安定化に大きく寄与した。

 その影響もあって、斉衡二(八五五)年の残る三ヶ月はニュース自体が激減する。

 もちろん、豊作に恵まれて平穏無事な三ヶ月を過ごしたわけではない。一〇月一八日には山城国乙訓郡山埼津(現在の京都府大山崎町のあたり)大火が発生し三〇〇戸が消失。一〇月一九日には不作のために出羽国の農家のうち一万九千戸を免税とせざるを得なくなったほどである。

 地震は相変わらず続いているし、天然痘だって終息する見込みがまだ立っていない。それでも、この年の前半の混迷に比べればこれでも安寧であった。

 その安寧の状態で翌斉衡三(八五六)年を迎える。


 一月一日の朝賀が中止になったが、その理由は大雨。これで三年連続の中止だが、過去一〇年間で七回中止になっていることを考えると、むしろ朝賀のあるほうが珍しいぐらいで、大雨により中止になったのは例年通りと言える。ただ、相次ぐ中止に対するお詫びとしてか、一月三日、皇太子惟仁親王を朝見させるという名目で貴族を集めている。

 一月七日の昇格も目立ったものはない。二名の皇族と一三名の貴族が昇格し、一八名が貴族入りしているが、何れもが順当な出世であり特に目立った抜擢はなく、その人数も天然痘による死去が相次いでいることの穴埋めを考えれば当然至極と言ったところか。

 新たな役職の付与に関しても目立つものはない。一月一二日には三三名、二月八日には一八名の貴族に新たな役職が付与されているが、天然痘による死去の空席を埋めているのと、良相の進めている治安安定化のための地方官赴任がほとんどで、その他に目立つ要素はない。

 前年から続く地震や一昨年から続く天然痘は年が変わってもなお続いている。

 その対策としての神仏頼みも相変わらずである。文徳天皇の住む冷然院に一〇三名の僧侶を招いての読経を行なったのは例年にはないイベントであったが、行動パターンとしてはいつもと同じ。

 しかし、三月に起こった事件はいつもの年と違った。

 三月九日、三〇人の新羅人が太宰府管内に漂着した。新羅人の不法入国は毎年のようにあったが、太宰府管内に流れ込むのは珍しいことだった。

 彼らからの訴えは、新羅も天然痘の流行が激しく、新羅国内にはもはやどこにも逃げようがないというものであった。治安も、収穫も、日本の比ではない劣悪さであり、貿易商人から日本の惨状として聞き及ぶ内容も新羅からすれば天国と思われる内容だった。

 彼らが太宰府に赴いたのは偶然である。本来であれば太宰府の目をかいくぐっての強行上陸を目論んでいたのだが、発見されてしまったために太宰府に赴いて亡命を申請することとなった。

 太宰府に流れ着いた三〇名に対する朝廷からの回答は、入国を許さず食料を与えての国外追放と決まった。

 大仏修復による失業の救済は軌道に乗ってきたが、天然痘の被害と地震の連発は今なお続いている。これについては良房も良くやっていたとするしかない。

 しかし、良くやっていることと、良房個人がそれに見合った結果が得られることととは別である。

 日本国内の混乱が沈静化しつつあるのと反比例するかのような不幸が立て続けに良房に襲いかかった。

 妻の潔姫が倒れたのである。

 この年で四六歳となる潔姫は良房の妻となってからこれまで夫を支え続けてきた。良房には律令派からの執拗な攻撃もあったし、民衆からの批判が良房の元にダイレクトに届くことも珍しくなかった。弟の良相との関係も悪化していたし、この国の現実は良房を苦しめた。だが、潔姫は何があっても良房の味方であり続けた。

 潔姫は男児には恵まれなかったが娘の明子をもうけ、明子は文徳天皇の妻となり皇太子を生んだ。天皇の義父で皇太子の祖父という血縁は、良房に権威を生み出す源泉にもなった。

 公私ともに良房に協力し続けた最愛の妻に対し、良房は何もできなかった。潔姫が天然痘であったかどうかはわからない。突然倒れたと記録に残るだけである。良房は起きあがれなくなった妻にもできる限りのことをした。医者も呼んだし祈祷もさせた。病に効く薬があると聞きつけたらどんなに高価でもその薬を手に入れた。

 それでも、妻の元に付き添うことは許されなかった。相変わらず冷然院に籠もって内裏に足を運ばない文徳天皇に代わり、ただ一人の大臣として内裏を統べる義務があった。

 五月には京都市中を水害が襲い、六月にはまた地震が起こった。

 文徳天皇は合計二六五人の僧侶を、東寺、西寺、延暦寺、崇福寺、梵釋寺、天王寺、東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、藥師寺、西大寺、法隆寺、新藥師寺の一四の寺院に分置し、七日間の祈祷を命じた。この一四の寺院には五位の貴族が一名ずつ派遣され、読経の監視にあたった。これまでは、祈祷を命じられた寺院がそれに伴う費用を請求しておきながら祈祷をせずに済ませたということがあったが、今回はそれが許されなかった。

 この五位の貴族の派遣は誰が命じたのかはわからないが、良房が命じたのだとしたら、ひょっとしたらこれが良房の見せた妻への愛情表現だったのかも知れない。

 しかし、その愛情表現に応えることはなかった。潔姫の体調が戻ることが無いばかりかよりいっそう悪化したのである。

 その上、倒れたのは潔姫だけではなかった。

 超廷内における良房最大の味方である長良も倒れたのだ。天然痘ウィルスが長良の身体を蝕みだし、源常と同じように苦しみ廻るようになった。

 六月二三日、文徳天皇は天然痘に苦しむ長良に従二位の位を与えた。権中納言でしかない者へ与える位としては異例の高位である。

 長良が二位になり、一度は抜かれた良相を位で抜き返したとしても、それは長良の命が長くはないことを意味するものであった。このように病に倒れ生死の境をさまようようになった者に位を与えることは珍しいことではない。

 長良は覚悟していた。影に徹すると決意し、我が子を養子にまで差し出した良房と一度も顔を合わさない日はこれまで一度もなかったと言っても良い。その長良が良房との接触を絶っただけでなく、天然痘の完治経験のある従者だけを引き連れて屋敷を出ていったのである。それが天然痘をこれ以上広めないための手段であった。

 良房は兄と妻との別れを決意し、来るべきときを覚悟した。

 先にそのときが来たのは妻だった。

 斉衡三(八五六)年六月二五日、源潔姫死去。遺体は賀楽岡白川地に埋葬された。

 良房ほどの貴族であれば、複数人の女性を妻としていてもおかしくないし、妻でなくても愛人をもうけていてもおかしくない。そして、数多くの女性との間から自身の後継者となる男児をもうけていてもおかしくない。

 だが、良房にはそれがない。どんなに資料を読み返しても、さらには伝説のたぐいに手を伸ばしても、良房と接する女性が潔姫一人しか見つからないのである。

 嵯峨天皇の娘という生まれは死ぬまでつきまとった。男児を産まなかったという悪評から逃れることもできなかった。それでも、潔姫は夫を支え続け、良房は妻を愛し続けた。スタートが政略結婚であったのは事実だが、それが必ずしも不幸を招くとは限らない。一人の女性として見たとき、愛し続ける人が側にいて自分を愛し続けてくれていたのだ。潔姫の運命は間違いなく幸せであったと言えるだろう。

 妻を失ってから一〇日も経たない斉衡三(八五六)年七月三日、さらなる悲劇が良房を襲う。

 従二位藤原長良死去。

 天然痘に罹るからと自らの死に弟たちを立ち会わせなかった兄は、弟たちに遺言の手紙を記した後、源常と同じ苦しみの過程を経て命の火を消した。

 生涯を弟の影となることを選んだ男は、その遺言もまた弟の影であることを徹する遺言であった。

 良房の実子は文徳天皇に嫁いだ明子ただ一人であり、男児の後継者として基経を養子にしたものの、その他の子どもはいない。

 また、長良の子たちの中には成人を迎えた者もいるがまだ幼い子もいる。

 長良の遺言、それは、自分の幼子を良房に託すことであった。一見すると我が子を心配する父の思いやりに見える。しかし、政略結婚が当たり前のこの時代、子どもを多く抱えることは政略結婚の駒が増えることを意味する。そして、その駒は男より女のほうがありがたかった。嫁として天皇家に差し出す駒が多いほうが皇室につながるのだから。

 このとき良房のもとに預けられることとなったのは基経の実の妹である高子(たかいこ)であった。長良には他にも子がいたが、未だ成人を迎えていないのはこの高子だけであった。また、これも基経と同様であるが、他の子と比べて高子は母の生まれが良かった。

 この高子を皇族の誰に嫁がせるかで、自身と藤原家の運命が決まるというのが良房の考えであるが、高子にとっては悲劇の始まりでもあった。

 最愛の妻と頼れる兄を失った良房のことを、自然は冷たく突き放す。七月に入っても地震は頻発し、豪雨が京都を襲った。

 良房は自分の私生活には何事もなかったかのようにその都度対策に向かった。内裏にも姿を見せずに冷然院に籠もったままの文徳天皇や、歴史書を書いて時間を潰しているだけの善男と違い、良房は喪中であろうと休むことを許されなかった。

 斉衡三(八五六)年八月八日、安房国から、空から黒い灰が強風とともに降ってきたとの連絡があった。おそらく、どこかの火山噴火がもたらした火山灰が、風に乗って房総半島に届いたのだろう。これを聴いた良房はただちに、灰の除去と農地再生を命じ、それに要する費用の国庫負担を表明した。

 そしてもう一人、休むことの許されなかった者がいる。良相である。義姉の死も、実兄の死も、良相の目の前に立ちはだかる問題、すなわち治安対策を休む口実としては許されなかった。

 八月一九日には再び内裏に強盗が入り込んできた。記録には『狂者』とあるから強盗ととは少し違うかも知れないが、刃物を持って暴れ回っている以上、取り締まらなければならない。良相はこの強盗を捕獲を試みるが頑迷な抵抗にあい、逮捕の過程で犯人は弓矢で射殺された。

 この時期は明らかに、派閥が分かれようと、良房と良相の兄弟が朝廷を支えていた。これにもう一人加えるとすれば、良房の右手となりつつあった大納言の源信(まこと)か。兄の源常亡きいま、嵯峨源氏のトップとして源氏をまとめる源信は、実務力において兄の穴を埋める活躍を見せていた。

 左大臣源常が亡くなり、従二位の藤原長良が亡くなった。これは普通に考えればその穴を埋める人事が行われるはずということであるが、それは全くなかった。

 出世がないということは、喪に服す暇もないまま働いている者からすれば何ら評価を獲得できないこととなる。

 無論、文徳天皇はそれをわかっていた。空席となった左大臣のポストに良房を昇格させることを考えていたのである。しかし、その後に問題があった。

 いったい誰を右大臣に上げるのか。

 大納言の中から右大臣を選ぶのが決まりだが、大納言の中にも序列のようなものがあって、上奏文や布告文など貴族の署名が求められるとき、まず右大臣である良房が最初に署名し、その直後に署名するのが大納言の筆頭となる。これは名文化されたものでなくその場の雰囲気で決まるところがあるが、慣例として、より格上とされる者が先に書き、格下が後回しとなる。

 この署名の順番を巡る争いが激化していたのである。

 大納言のうち、この筆頭の署名をしている者は二名。藤原良相と源信である。右大臣に昇格させるとするとこの二人のうちのどちらかとなるのだが、文徳天皇はこれを決めかねていた。

 順当にいけば右近衛大将でもある良相であろう。右近衛大将が右大臣に昇格することはよくある光景である。しかし、本来、右近衛大将は源信だったのである。それがわずか一ヶ月で良相に交替させられたという経緯があった。

 良相は確かに目立っているものの、源信が何もしていないわけではない。現在の治安対策でも目立った活躍を見せているのは良相であるのは事実だが、源信がこれに荷担していないわけではないどころか、積極的にサポートしている。ただ目立ってはいないだけで、言わば、縁の下の力持ちに徹しているのだ。

 懸命になって働いていると自負する良相は、自分が右大臣になることこそ正しいと考えている。一方、源信にとっては、自分だって働いているのに、右近衛大将に加え右大臣まで譲れというのは納得がいかない。

 それが、大納言の間の序列争いとなり、派閥争いを巻き込んでいたのがこの頃だった。

 人事の問題が解決しないまま、年末を迎えた。

 地震も天然痘も止まることはなく、かえってこれが日常となっていた。丸一日地震が起こらなかったらそのほうが珍しいほどに。

 ところが、年末となった斉衡三(八五六)年一二月二七日と翌二八日の二日連続で、これまでなかった吉兆が現れた。

 一二月二七日に届いたのは常陸国から『木連理(もくれんり)』が発見されたという知らせである。木連理は「連理木(れんりもく)」と記すこともあるが意味は同じ。成長途中で複数に分かれた木の幹が、上の方で一つにくっついている木のことである。古来より吉兆とされ、信仰の対象となることも多かった。

 木の生長の結果だから一日や二日でできるものではない。このときの発見も、それまで見つからなかった木連理が見つかったというだけであろう。あるいは前もって発見されていたのをこのタイミングで報告したのか、何れにせよ、文徳天皇の治世を祝した結果いきなり現れたというようなものではない。

 ただ、吉兆であることは間違いないので、これを喜ばしい知らせとして報告し、文徳天皇もこの知らせを喜んで受け入れた。

 翌二八日に届いたのは美作国からの献上物である。単なる連絡だけであった木連理と違い、こちらは本物である。

 白い鹿が献上されたのだ。

 白い亀も極めて珍しくかなりの吉兆であったが、白い鹿はもっと珍しい。生来の色素異常と思われるが、そのようなことはこの当時の人は気にしない。要は白いことが重要なのである。この白い鹿は瞬く間に京都市中で評判となり、鹿の放たれた神泉苑はしばらくの間、見物客が大挙して押し寄せるようになった。

 こうしたにぎわいを見せて迎えた翌斉衡四(八五七)年一月一日。前年は最後の最後で吉兆があったのだから、過去三年連続で中止になった朝賀も今年は行われるだろうと出仕してみたら、内裏で受けたのは今年も中止になったという知らせ。しかも、今年の中止はその理由が明確にされていない。

 前年からの懸案だった人事についても当たり障りのない内容に留まった。昇格については皇族三名貴族九名の昇格だから、貴族以上の昇格は例年に比べると少ない。ただし、一九名の役人がこのとき貴族に昇格しているので、そこまで合計すると少ないとは言えない。なお、このときに善男の長男である伴中庸が貴族入りを果たした。

 新たな役職の付与も、三〇名の貴族に付与されるに留まる。その大部分はやはり良相指揮の下の地方官派遣が主である。なおこのとき、後に名国司として名を馳せる紀夏井(きのなつい)が播磨国司に就任している。

 名国司が誕生している裏で、迷国司も誕生している。

 迷国司と言うべき人は讃岐国司であった弘宗王(ひろむねおう)で、このときは任期を終え京都に戻っていたが、そこで讃岐の民衆から訴訟を起こされたのである。

 無茶苦茶な統治をしていたために起こされた告訴であるが、その訴訟の内容はわからない。おそらく、税を高く搾り取ったか、強制労働を課したかといったところであろう。と言うのも、この告訴を受けた結果、弘宗王が入牢させられているからである。皇族が牢に入れられるのは別に珍しいことではないが、それは権力闘争の結果であることがほとんどで、このときのように統治そのものが告訴され、有罪となって牢に入れられるというのは珍しい。

 このときは良相が裏から手を回して間もなく釈放される。たしかに讃岐国司としての統治は失敗だったのだろうが、治安対策の一翼を担う国司としては成功だった。良相としては、その功績を称えるためにも有罪にするわけにはいかなかった。

 これに噛みついたのが源信である。治安対策に功績があったことを加味しても、住民から激しく反発を買い、訴訟まで起こされたということは讃岐の統治が失敗であったということである。民衆を苦しめる統治をした者を無罪放免としなければならない根拠はなく、裁判で有罪と決まった以上、法に基づいた処罰は受けなければならないとするのが源信の主張だった。

 これにさらに噛みついたのが善男であった。善男には前歴がある。善愷訴訟事件のそれである。善愷訴訟事件では、明らかに被害者である善愷が、その訴訟の手続きによって逆に有罪とされたのみならず、裁判を執り行うことを決めた正躬王らまで有罪にされている。善男の手に掛かれば黒を白とすることなどたやすいことであった。

 安全を優先させるか、市民生活を優先させるか、両派とも国のためを思っての行動であっても、治安対策より庶民の訴えを重要視する良房派と、庶民の訴えより治安対策を重要視する律令派とで相互に対立する内容であり、これもまた派閥争いの材料となった。

 ただ一人の大臣として絶大な権限を振るえるはずの良房であるが、このとき、弘宗王に対しては特に動いておらず、牢から釈放された自由の身であることをそのままにしている。ただし、国司の選定は慎重に考えなければならないと考え、それまで良相が治安向上の名の下に行ってきた国司の推薦に対し、良房が介入するようになる。

 とは言え、良房もすでに五三歳になっていた。

 貴族デビューが二二歳だから、三〇年以上、良房は貴族として朝廷に存在し続けたこととなる。うち、一六年間が時の権力者藤原緒嗣に逆らう反乱分子として存在し、緒嗣亡きあとの一五年間は事実上の最高権力者として君臨している。

 これだけの長期間、権力を握り続けていることの重圧はどれほどのものであったかは、当人以外には想像しがたいものであろう。

 斉衡四(八五七)年一月二一日、良房が突如引退を申し出る。全ての役職を返上し、内裏を去ると文徳天皇に告げたのだ。

 何故このタイミングで告げたのかはわからない。ただし、名目上の理由は既に記した通り、権力を握り続けていることへの重圧から解放されることを望んでのことである。ただ、誰もそれを真実とは考えなかった。

 良房のことだから何か考えがあったのかも知れないし、最愛の妻や信頼できる兄を失い、孤独に悩む日々を過ごさねばならないことへの苦悩、すなわち、良房の元々の名目に近い理由もあったのかも知れない。

 いずれにせよ、律令派と良房派の派閥争いが繰り広げられてはいても最後はどうにかなっているのは、最後に良房がいるからだという点では、律令派も良房派も意見を同じくしている。良房は年齢こそ五〇代に達してはいるが、まだまだ現役でもおかしくない。その良房がここで姿を消すことは、政治的にあまりにも大きなダメージである。

 文徳天皇はこの申し出を直ちに却下する。その上で、五日後の一月二六日には、良房の役職継続の理由を長々と述べた宣言を出して、良房が今の政界に必要不可欠な人材であることを明示。二月一六日には後継者の基経を少納言に任命している。律令上は重要な職務を担う事となっていた少納言も、この時代はその職務の大部分を蔵人に持って行かれてしまい名誉職となっていた。ただし、蔵人を経験した者が少納言になるというのは出世コースの王道であり、基経を少納言に任命したということは文徳天皇自身が基経の将来を約束したこと、すなわち良房派が今後も継続することを認めたことを意味する。

 だが、現在の異常な状態を継続させるわけにはいかないのも事実であった。本来なら両者とも存在しなければならない左右の大臣のうち、上位である左大臣が空席で、右大臣に全権力が集中しているのは通常の形式ではない。

 かといって、良相と源信のどちらか一方を右大臣とするには問題がある。

 この問題に迫られた文徳天皇は、斉衡四(八五七)年二月一九日、それまで誰も考えつかなかった答えを出す。

 良房を太政大臣とし、左大臣に源信、右大臣に藤原良相を就けると発表したのである。

 この発表に誰もが驚いた。

 おそらく良房はこの発表に絡んでいるであろう。だが、太政大臣というのはあまりにも大それた大胆な提案であった。

 太政大臣が左大臣より上の地位であることはこの時代の人も知識としては知っている。だが、太政大臣というのは、生前に格別の功績を残した故人に与えられる称号であり、生きている人間に与えられる称号であるという認識は誰もが抱いていなかった。

 ただ、これまで太政大臣の位を与えられた者を調べてみると、一つの共通点が見つかる。それは、天皇の祖父であるということ。この点で良房は不充分ながらも資格を満たしていた。未だ幼い皇太子惟仁親王の母方の祖父が良房である。ということは、良房が時期天皇の祖父であるということでもある。天皇の祖父に与えられる称号である太政大臣の地位に、いずれ天皇の祖父となること確実な良房が就くことはおかしな話ではない。

 とはいえ、これは理屈である。

 では、実際はどうか。

 良房が頭を悩ませていたのは、良相と源信の二名のうち、どちらを大臣に就けるかということである。二人のうちどちらか一人を選んだら、その瞬間に、選ばれなかった者、そしてその支持者を内裏における敵に回すこととなる。

 だが、二人とも大臣としたらどうか。これは両名とも望み通りの地位を手に入れることとなる。大臣が二人しかいないというのはこれまでの慣例であって、律令の上ではもう一人、左右の大臣のさらに上に立つ人物がいても構わないこととなっている。そして、良房はそこでいう“上に立つ”人物の資格を持っていた。

 その上で、空席となった左右の大臣の両方の地位を、源信と藤原良相の二名に与える。既に右近衛大将の地位を持っている良相を上席としてはこの二名の差が大きくなりすぎてしまう。ゆえに、大臣だけを見たときは源信を上席にして、右近衛大将の地位を加えることではじめて釣り合いのとれるようにしなければならない。

 ここに、史上三人目の、皇族でもなく故人でもない太政大臣が誕生した。過去の二度の例は「太政大臣」という名ではないから、「太政大臣」としては良房が第一号となる。

 その二日後の斉衡四(八五七)年二月二一日、文徳天皇は再び行動を起こした。改元である。

 名目は木連理と白い鹿という二つの吉兆を祝してというものであり、実質は凶事の連続からの脱却と、先例のない太政大臣設置に伴う時代の移り変わりの宣言である。

 この日、元号が「斉衡」から「天安」に変更された。

 この慶事を祝うため、吉兆を報告してきた常陸国と美作国の民衆はこの年の労働義務が免除され、吉兆を発見した者は昇格が決まった。昇格が決まった者は他にもおり、子のいる役人と、貴族の子でまだ貴族になっていない者のうち二〇歳以上の者が一階級昇格。また、子のいない役人はプレゼントが用意された。このプレゼントの中身は不明である。

 さらに、民衆でも、一〇〇歳以上の者は穀物を四斛、九〇歳以上なら三斛、八〇歳以上で二斛、七〇歳以上で一斛がプレゼントされたほか、母子家庭や身体障碍者にもプレゼントが用意された。

 しかし、元号が替わったという点は新しい時代の誕生を意識させるものではなかった。ここ一一年間で四度目の改元であり、改元のニュースを聞いても「ああ、またか」とぐらいしか思われなかったのが実情である。プレゼントはありがたいが、だからといって新時代に希望を見いだす要素はなかった。

 その代わりに新時代をイメージさせることとなったのが良房の太政大臣就任である。

 それまで人が入れ替わることがあっても、貴族のトップは左大臣であり、左大臣が空席なときだけ右大臣がトップに立つというのがこれまでの常識だった。それが、左右の大臣が存在しているその上に、その二人を凌駕する大臣がいるというのは斬新であった。

 その斬新な政治システムがこの国の苦境をどう変えてくれるのか。民衆の視線はそこに集中していた。それは、太政大臣という他に例を見ない地位を手にした良房ならば、その権力を大いに発揮してこの国を変えてくれるものだと考えたからである。無論、ここで言う変わることというのは良くなることという意味である。

 良房はその期待に応えようとした。しかし、良房はその期待に応えることができなかった。一瞬にして良くなる方法など無いのだから。