摂政基経 1.清和天皇
芥川竜之介の作品の中に『芋粥』という短編小説がある。そのあらすじを簡単に記すと、『平安時代初期のとある貴族に仕える侍の中に、好物である芋粥を一度でいいから腹一杯食べてみたいと普段から考えていた貧しい侍がいて、その侍が敦賀にまで足を運んで地域の有力者に芋粥を大盤振る舞いされる機会を迎えると、かえって芋粥をほとんど食べることができなかった』という話である。
芋粥はこの時代の最高のご馳走の一つであった。と言うのも、普通の人ではなかなか食べることのできない甘味料である甘葛(あまづら)を大量に使った料理だからである。甘葛の甘さは砂糖からはほど遠く、甘味料が大量に安く手に入る現在ではむしろ甘さを控えたジュースといったような甘さに感じられるが、甘いものが貴重で甘味料イコール高級品であったこの時代では、甘葛の甘みでもなかなか手に入れることのできない高級品だった。当時と現在とでは金銭感覚が違うので簡単な比較はできないが、五〇〇ミリリットルの甘さ控えめのジュースが一〇〇円で買える現在と違い、甘葛五〇〇ミリリットルは現在の金銭感覚でいくと五〇万円ほどになる。
そのため、甘葛を大量に使う芋粥というのは庶民の想像できる料理ではなく、この侍が芋粥を食べることができたのも、雇い主である貴族が自分に仕える者たちに今年もよろしく頼むという意味を込めての正月料理として特別に振る舞っていたからである。満足行く量でなく、数口食べて終わりという小鉢料理であったが、芋粥が出るというのはそれだけでもその人の権勢を推し量れる一点であった。
しかも、この侍は物語の中で五位と呼ばれている。国に仕える者はその全員に位が与えられており、六位以下はどんなに有能でどんなに血筋が良くても役人留まりで、その記録も余程のことがない限り歴史書に記されることはないが、五位以上となると貴族となり歴史書に記される。つまり、貴族に仕える侍ではあるが、侍自身が貴族の一員としてカウントされるまでにその地位を上げており、それだけの地位を手にした者を振る舞うからこそ芋粥が用意されたのである。それでも、数多くの家臣たち、その家臣たち一人一人もまた貴族であるのだが、その貴族でもある家臣たちに分配するとなると、かなり物足りない一杯になってしまう。
それが芋粥というものであった。
芥川竜之介は全くの無からこの作品を生みだしたわけではなく、他の王朝物と呼ばれる一連の作品群と同様に『芋粥』にも底本がある。『今昔物語』巻二十六「利仁将軍若時従京敦賀将行五位語第十七」と『宇治拾遺物語』第一「利仁芋粥の事」がそれで、何れも後世になって編纂された物語集なので同時代史料として扱うわけにはいかないが、それでも語り継がれてきた話を収録しているという意味での資料的価値はある。
その語り継がれてきたことを斜めから眺めると、次のようなことが読みとれる。
その時代には侍がもういたこと。
侍が五位の地位になっていたこと。
侍を仕えさせる貴族がいたこと。
五位の侍を仕えさせるだけの権勢をもった貴族でも芋粥を満足に与えられなかったこと。
こうした、国の定めた公的な歴史資料には記されていない時代の光景が、伝承より生まれた物語集には残されている。
国家を操り、貴族にカウントされるだけの侍を家臣とするだけの権勢を持ちながら、家臣たちに芋粥を満足に供することもできない一方で、国家の権勢とは遠い地方の有力者は芋粥をこれでもかと用意できる。これは何も、この貴族がケチだからではない。ただ、権勢に対応するだけの財産がなかったのだ。逆に、権勢とは無縁の敦賀の有力者は、貴族としての地位こそ低いが、莫大な資産を持っている。
これがこの時代の現実だった。
この、権勢を持ちながら芋粥を満足に提供できなかった貴族こそ、この物語の主人公、藤原基経である。
応天門の変により伴善男らが追放され中央政界から姿を消したが、姿を消したのは伴善男らだけではない。
まず、右大臣藤原良相が姿を消した。応天門の変は律令派の敗北であり、律令派に身を置く良相にとっては、右大臣の地位であることも中央に残る意味を持つことではなかった。それに、この時点でときの武力のナンバー3にまで出世していた長子の常行のことを考えると、この敗北の状況下では、抵抗するよりもおとなしく身を引くほうより高いメリットがあった。
そして、左大臣源信も自宅に閉じこもりがちになった。こちらは政務を全く執らないわけではないが、内裏に足を運ばなくなったというのは、左大臣として充分な職務を果たしているとは言えない状況である。もっとも、良相が長子常行を考えて姿を消したのと同様に、源信も弟である源融を考えて姿を消したとも考えられる。
だが、左右の大臣が姿を消したことなど誰も見向きもしなかった。それをはるかに上回る大ニュースが京都市中を駆けめぐったからである。
摂政太政大臣藤原良房、隠遁。
摂政の地位も太政大臣の役職も手放してはいないから権威はある。だが、その権威に付随する権力を良房は自ら封じたのである。事実上の政治家引退であり、良房の姿は宮中から消えたのだ。
しかし、今や誰もが認める良房の後継者である藤原基経は、この養父の行動を全く不可解に考えていなかった。
元より、良房の摂政就任は、応天門放火事件の責任をとらせるにあたり、自らが汚名を着ることを拒んだ清和天皇が考え出した妙策である。
これほどの大規模な事件の責任をとらせるというのは簡単に済む話ではない。何しろ、二つの派閥に分裂しているうちの一派を物理的に消滅させるのである。それができるのは天皇が直々に行なうぐらいしかありえないことであり、それ以外に一滴の血も流さずに解決する方法はない。だが、それは同時に、清和天皇の治世に大きなキズとなって永遠に残ることとなる。
とは言え、このキズを避けるためであろうと、誰にも責任をとらせないという選択肢はあり得なかった。より適切に言えば、善男に何ら責任をとらせないという行動はあり得なかった。
以前から庶民の怒りを集めていた善男である。応天門放火事件の直後から始まった善男の不可解なまでの左大臣源信への攻撃で生じていた疑念は、事件から数カ月を経て突如現れた善男こそ真犯人とする告発で一気に爆発した。
善男こそが真犯人だとする声は、本人がいかに否定しようとも事実となって京都市中に広まり、善男に責任をとらせよという市民の声が高まっていた。それが本当かどうかなど関係ない。とにかく善男を抹殺することを民衆は求めたのである。
民衆の声を無視できないが、かといって、自らがキズを負うのもためらいがある。
そう考えた清和天皇の出した答えが摂政という役職の応用であった。本来ならば天皇の職務が遂行できないときに置かれる臨時職であるが、職務遂行可能でも摂政を置くというのは先例のないことではなく、聖徳太子という例がある。聖徳太子が虚構の存在であるというのは現在の学説のうちの一つに過ぎず、この当時の人は実在したスーパースターだと考えていた。このスーパースターの先例がある摂政の地位に、清和天皇の祖父にして太政大臣という血筋と地位のある者を任命してもおかしくはなかった。
史上例をみない人臣の摂政を考え出したのは清和天皇の執政者としての冷徹な判断であり、当初は反対していた良房も、人生最後の役割だと心得て自らがキズを負うことを引き受けたのである。
ゆえに、善男追放と同時に、良房は政敵追放という事実に対して一言も弁明することなく、役割を終えたという自負と共に自ら宮中を去っていった。
さて、この良房の摂政という地位であるが、終わってみれば清和天皇にとってこれ以上なく便利な称号だと気づかされた。何しろ、天皇に代わって政務を行う権利と権力がそこにはあるのだ。
ということは、必要だが悪評も浴びる政策を、自分の名ではなく、良房の名でできるということである。無論、好評を得る政策は自分の名で実施するから、良房が必要なのは悪評を浴びるときだけで良い。
清和天皇は、施(せ)(食料の無料支給)の実施を初めとする福祉のばらまきについては自分の名で実施したが、その財源を確保するための増税については良房の名で実行したのである。
いつの時代の者も、自分が直接の利益者となる政策には支持をするし、それがどんなに重要なことであるとわかっていても負担が増えるような政策には批判するものである。このあたりの批判をどう回避するかが執政者の腕の見せ所と言えよう。
清和天皇が選択したのは、支持が得られること間違いないとわかっているときは最初から自分の名で政策を展開するし、得られないとわかっているときは良房の名を使うという方法であった。ちなみに、微妙なときは自分の名にしておいて、悪化したら良房の責任にしている。
それまでの天皇であれば、いかにその地位がお飾りであろうと、執政者としての責任は常について回っていた。どんなに自分が無関係なことであっても、さらには、自分の反対を押し切って展開されたことであっても、天皇に限らず、執政者はその責任から逃れることが出来ず、責任を引き受けてもなお政策を推し進めるか、政策のほうを引っ込めて責任を軽くするかの二択しか存在しない、はずだった。
だが、史上はじめて清和天皇は責任から逃れることに成功したのだ。それも、政策を展開しながら責任から逃れるという、それまでの執政者の誰もが夢見ながら出来ずにいた形で。
もっとも、これは権力を握って以後の良房の政策にも起因することでもあった。
税の考え方には二種類しかない。
先に税収があり、その税収で政策をやりくりするという考え方。これは良房の財政に対する考え方で、この場合だと、負担を少なくできる代わりに支出も少なくなるので緊縮財政になる。それでもどうにかなったのは、税収が少ないところをやりくりして赤字転落を免れていたということである。
一方、先に政策を掲げ、後に税収を決定するという考え方もある。これは例外なく税負担が増える。なぜならば、実施したい政策の全てを実現するための予算など、いつの時代にも、どんな社会にも、ただの一度も存在したことなどないのだから。
その上、人間は常に、自分に課せられている税負担を大きいと感じている。仮に税負担がゼロであっても自分は不公正に高い負担を押しつけられていると考えるし、常に負担を減らせと主張する。
この声を受け入れなければ政権の危機だというときは、減税を展開し、あるいは、声の小さいところ、負担させやすいところに負担を押しつけることで、声を受け入れ、政権を延命させる。これが政治家の人気というものであり、また、責任の軽減でもある。
ゆえに、まともな人気を持った政権であるとき、展開したい政策の全てを実現できるような予算が存在することなどまずない。
ところが、清和天皇はまず先に政策があり、その必要に応じて税収を上げる考えの持ち主であった。
ただし、それが不評を呼ぶことを理解できぬわけでもなかった。
というところで、摂政藤原良房の名の活用を考え出したのである。
結果、これまでにない規模の増税となった。
それも、税負担させやすいところに集中しての税負担となった。
それまで庶民の味方であったはずの良房が、庶民にさらなる負担を求めるようになったと考えられてしまうようになったのだ。
その上、清和天皇は増税の理由を良房の展開してきた政策の穴埋めとしたのだ。しかもこれは、全くの嘘なわけではなかった。
良房はこれまで、国民の負担を少なくすることを考えて政策を遂行してきた。律令に定められている諸々の義務のうち、労多く益少ない義務については容赦なく切り捨てているし、好評を得ること間違いない政策であっても国として得策ではないと判断すれば遠慮せず削減してきた。
これは、少ない負担に応じた福祉に留めているということでもある。低福祉ではあるが低負担でもあることから、国家財政はプラスマイナスゼロの水準に留まっていたのが良房の時代であった。
だが、それにも限度はある。
負担を減らす代わりに福祉を減らしたが、それが治安悪化をも生む原因になってしまったのだ。
「働かざる者食うべからず」は理想であって現実ではない。働かずに国に寄生する者の排除を試みた執政者は多いが、成功した者はいない。いくら排除したところでまた新たな者が生まれてしまうのが人間社会の現実であり、働くことなく生きようとする者がどのようにして生きるかを考えたとき、それは褒められる内容でないことだということもまた、人間社会の現実である。
犯罪に手を染める少なくない理由は、働くよりも楽に生きていくことを選んだ結果である。しかし、犯罪の被害者にとってみれば、犯罪者の悪意の有無など何の関係もない。重要なのは、被害者に存在する「奪われた」という結果である。本来ならば、こうした犯罪者から命と財産を守るのは国の役割であるべきであったし、税も本来ならそのための予算でなければならなかった。
ところが、良房は税を減らした。その結果、治安維持に関する予算も減り、人員も減ったことで、治安が悪化したのである。
良房とて、治安の悪化に無策であったわけではない。
治安の維持、つまり、明日も生きているのが当たり前な暮らしを維持するという最低限の福祉をしなければ、社会そのものの維持もできないことを理解できていないわけではなかったし、それどころか、良房自身は治安悪化の対策に終始していた。だが、犯罪者を取り締まって厳罰を与えるのに終始しながらも、犯罪の芽は増えこそすれ減ることがなかった。
理由はいくつかあるが、間違いなく言えるのは、実力主義を徹底させたということに尽きる。
実力主義にはメリットが数多くあるが、デメリットもある。その最たるものが、実力で生きていけない者の排除。
まったく、良房の政策は、自らの力で生きることのできる者には天国であっても、それができない者には生き地獄であったろう。生活が困っている人を良房は救おうとし、成功もしていた。ただし、それはあくまでも自助努力の援助であり、働かずに生きようとする者を助けるものではない。
毎日懸命に働いている者が報われる社会は、そうでなければならない当然の姿である。だが、働きが常に報われる社会は人類史上ただ一度として存在しなかったし、今後も絶対に存在しない。
なぜなら、得られる結果には限りがあるから。
その限りのある結果を公平に分配しようとして失敗したのが、この時代では律令であり、二〇世紀では共産主義である。理論上は素晴らしいのだろうが、現実は理論と食い違っていることは歴史が証明している。
しかも、公平に分配するということは、努力しようと、懸命に働こうと、望み通りの結果が得るのが困難になるということであり、一方、努力や懸命さに関係なく、ある程度の結果が得られるということでもある。
働いても実りのない社会は例外なく労働生産性が低下する。働きに応じた結果が手に入らず、働かなくてもある程度の結果がもらえる社会で、誰が懸命に働くというのか。
日本に稲作が伝わったのは紀元前四〇〇〇年頃。当初の一五〇〇年ほどは食料の一種に過ぎなかったコメであったが、紀元前二五〇〇年頃には主食となった。それから一二〇〇年間は農民一人あたりの収穫量が年々増え、人口の増加にも寄与した。
ところが、この二〇〇年間については農民一人当たりの収穫量が減っていたのである。
理由は簡単で、収穫しても手元に残らなくなったから。
人間の歴史の中には、良かれと思ってやったことのせいで取り返しのつかない大惨事を招くことが珍しくもないが、律令もそのうちの一つである。何しろ、耕しても耕しても、収穫は自分の手元に残らず貧しい暮らしを余儀なくされる。一方、耕さなかったところで他人が耕して得た収穫を国から分けてもらえる。
これが律令の精神である。
これで収穫が増えたらそのほうがおかしい。
深刻だったのは収穫の低下よりも労働意欲の低下であり、それを理解しない執政者はいなかった。無能な執政者と言われようと、この一点については誰もが問題視して対策に当たっていたのである。歴代の執政者はあの手この手で収穫を増やそうと努力をし、それまで断固として認めてこなかった土地の私有まで認めた。そして、農民に働くことを促したのだが、土地の私有はともかく、労働の喚起は労働意欲を削るに役立つだけで何の効果もなかった。
良房はこれに対処すべく、負担を減らし、福祉を削ったのである。治安の悪化はその副産物にすぎず、収穫の増加は治安悪化というマイナスを埋めるほどのプラス要素として存在していた。
負担を減らしたことで、収穫が手元に残りやすくなった。懸命に働いてより多くの収穫をあげればより多くの財が手元に残る社会を作り出しただけでなく、貧しさから逃れるチャンスも作ったのである。結果、豊かな農民は豊かになったし、貧しさから逃れることのできた農民も現れた。これは治安悪化というマイナスを埋めて余りあるプラスである。
だが、働く意欲を失った者にはそれも無意味だった。他者から恵んでもらうことで生きてきた者に向かって労働を促しても何の効果もなかった。その恵みを絶っても彼らは働こうとしなかった。そして、彼らは目の前の飢えに対応すべく、簡単な手段に打って出た。
強盗である。
良房は武士を認識していた。
自分たちの命、そして周囲の田畑と収穫を守るために武装した結果が武士である。良房は農民たちに武器を与えて自分たちの身を自分たちで守らせようとした。
その、あくまでも守るための存在が武士であった。
武士は、武士道から誕生した存在ではない。生活を守るという必要から誕生した存在である。そして、その多くは守るときだけが武士であり、守らなくてもよいときはあくまでも農民であった。だから、この時代の人に自分の職業を訊ねても「私の職業は武士です」と答える人はいない。鎧や兜を身にまとい、武器を手にして戦っている間に同じことを訊ねたとしても、彼らは「私の職業は農民です」と答えるであろう。
ただし、これは諸刃の剣でもあった。
守るための武力ならば何の問題もない。
だが、それが攻めに使われたらどうか。
問題の根の深い理由はこれだった。
守る技術の向上は攻めの技術の向上にもつながるのだ。そして、武装の質を上げ、武力を向上させてさらに守ろうとしたとき、攻める側もまた向上を果たしているのだ。
しかも、攻める側は一〇〇パーセント強盗であるとは限らなかった。時に農民であったり、時に強盗であったりと、そのボーダーラインはあやふやだったのだ。自分たちが耕している田畑で充分な収穫が得られたときは農民であり続け、不充分な収穫に留まるときに強盗団へと変わるという集落も珍しくなかった。
襲われた集落が生き残るために別の集落に襲いかかることも頻出した。そして、もはや攻撃する意欲も失った者が都市へと流れるようになった。
だが、都市でも状況は似たり寄ったりであった。殺人も追い剥ぎも珍しくなく、着の身着のままで日々を過ごし、遺体が往来に散乱する光景も日常になった。ごくまれに行われる施(せ)だけが、彼らが犯罪に手を染めることなく生きられる手段になった。
痛めつけられてもなお律令派が勢力を持っていたのは、律令こそ治安回復の特効薬と考える者が一定数存在し続けたからであり、律令の定める最低限度の保証が社会を安定化させると考えた者も居続けたからである。
もっとも、律令という理想は過去の社会を美化していたにすぎない。かつての律令派は唐への憧憬を持っていたが、唐が没落しいつ滅んでもおかしくない状態になっている現在、憧憬の対象は理想の中にある過去にしかない。
しかし、治安悪化からの回復のために律令への回帰を考えた者も、律令が生み出した貧困については口を閉ざしていた。そして、貧困の理由を律令のせいではなく、律令を守らないことによるせいだとした。
良房派は貧困を打ち破るために反律令を掲げ、律令派は治安を回復させるために律令を掲げる。
こうなると議論は永遠にかみ合わない。
貞観八(八六六)年一〇月一日、清和天皇は日本全国に向けて治安維持と回復を実施するように命令を出した。この時点では命令したというだけで、詳細については何も述べていない。ただ治安の維持と回復をせよと命じているだけである。
具体策を掲げたのは一〇月八日になってから。まず、各地の失業者の情報を把握するように通達を出し、崩壊しつつあった医療を再建すべく乗り出した。律令に従えば無料であるはずの医療が医師不足から事実上の有料となっていたことは、貧困層への医療機会そのものを奪うことであり、生活の破壊にもつながることであった。
しかし、医療の改善のためには医師の待遇改善が必要となる。それなのに、この時代の医師の社会的地位は低く、収入も多いものではなかった。それでも医療に従事する者がいたのは、命を救いたいという使命感を抱く者がいたからである。
だが、その使命感を平然と踏みにじる者はもっと多かった。
まず、医師というのを恥ずべき職業と考える者が多かった。娘を医師と結婚させたがらない親は珍しくなく、医師と一緒に酒席で酒を飲んだというだけでスキャンダル視する者がいたほどである。下手すれば、医師を酒席に招いた貴族はそれが原因で失脚させられるほどであった。
次に、医師が報酬を手にすること自体を否定する者が多かった。律令に従えば、この時代の医療は無料報酬であり、医師は国から給与を貰う役人というのがオフィシャルな見解であった。闇に流れれば報酬が待っているが、正式な医者となると役人としての給与しか手にできない。ところが、役人としての地位が低いのである。後世になると、地位の低さを挽回すべく、剃髪をして僧籍に入り、僧侶としての地位向上を以て代替とするケースが出てくるが、この当時はその行動をとる者がまだ現れていなかった。
懸命に医師としての職務を果たしても、何ら評価されることなく、出世もせず、安月給に甘んじなければならないのがこの時代の医師であった。
清和天皇はこの点を改善することなく医師に医療を命じるだけであった。
となると、医師の態度も期待できないものに終わる。
結果、医師が報酬を求めて闇に流れることが多くなり、正規の役人として医療に従事し続けるのは和気家と丹波家の二家のみという、世襲の業種となった。
時期は前後するが、貞観八(八六六)年一〇月三日、太宰府より連絡が来た。九月一日に唐の商人である張言ら四一人の乗った船が太宰府に到着したという連絡である。到着から一ヶ月経ってからの連絡は遅いと感じられるかも知れないが、特に緊急を要する連絡でもない限り、太宰府から京都までの連絡で一ヶ月を要するのは珍しいことではない。
このときの京都からの返答は、現在の迎賓館にあたる鴻臚舘の開放である。
当たり前の連絡に対する当たり前の返答だが、一つ面白いところがみえてくる。
それは、九州の、特に福岡県の衰勢の由来。鴻臚舘は太宰府を管理する建物であるが、太宰府の敷地にはない。鴻臚舘があるのは博多港のすぐそばである。
承和六(八三九)年に藤原常嗣らが帰国してから二七年、太宰府を介する正式な外交は途切れ、太宰府に限定されない民間交流がメインとなっていた。無論、太宰府のもう一つの側面、すなわち、九州最大の都市という側面は存在し続けていたし、民間交流の少なくない数が太宰府を利用している。
だが、太宰府を利用しないケースが急増した。正式な外交においては太宰府が必要不可欠な場所であったが、民間交流においては太宰府が必要不可欠な場所でなくなったのである。
福岡県の地図を見て意外に感じるのが、太宰府跡が海から離れていること。イメージで行くと、玄界灘を行き来する船の管理監督をするのだから博多湾のすぐ近く、少なくとも博多湾から見えるぐらいのところに太宰府の建物があったのだろうと考える者は多いが、実際には博多湾から二〇キロ離れているところに太宰府は存在していた。
ゆえに、港の機能を使いたいだけの者は必ずしも太宰府を必要としなかった。港に寄って瀬戸内海を経て五畿に向かうのに、わざわざ港から二〇キロも内陸に向かった場所に向かう必要はないのである。
この結果何が生まれたか。
都市としての太宰府の価値低下と博多の地位向上である。
博多港の周囲に都市が広がるようになった一方で、太宰府周囲が衰退していった。
そもそも、太宰府の歴史はそんなに長いものではない。
玄界灘を行き来する船、そして、博多湾沿岸の港町。この歴史は古い。おそらく日本に人が住むようになったときにはもう存在していたであろうと考えられているため、博多という街の誕生がいつなのかを知ることは誰にもできない。
しかし、太宰府が確立されたのは大宝律令である。法に基づいて建物の建設が始まり、都市としての建設が始まり、九州全体を統べる都市として生まれたが、太宰府はあくまでも人工の都市であり人工の役所であって自然発生した都市ではない。
自然発生ではない都市は、必要が失われればその瞬間に衰退がはじまる。奈良がそうであったように、太宰府も例外ではなかった。
応天門の変のあとの政権は、太政大臣藤原良房と右大臣藤原良相の兄弟がともに朝廷から姿を消したこともあり、閉じこもることの多い左大臣源信だけが残っているような状態である。
しかし、左大臣源信は太政大臣藤原良房の脇を固めることにおいては問題なくても、トップとして政権を担うには難があった。その上、伴善男追放直後から内裏に姿を見せなくなり、最低限の職務しかこなさなくなった。
となると、大納言が人臣のトップということになるのだが、その大納言の一人である伴善男が追放された。そのため、その他の人材が清和天皇の政務を支えることとなる。
その筆頭となるのが、権大納言兼右近衛大将の藤原氏宗、左近衛中将の藤原基経、左近衛少将の藤原良世といった朝廷内の実働部隊を率いる者たち。それと、源信の後継者として着目されだした源融、そして、良相の長子である藤原常行らとなる。
この中でも群を抜いているのが三〇歳の基経。
何と言っても太政大臣の正式な後継者であり、藤原家の権力と財力を一手に引き受ける身であり、一五歳の若き清和天皇の叔父にあたる。
この基経を支える存在としてにわかに脚光を浴びるようになったのが、左近衛少将の藤原良世。このとき四三歳である。良房の年の離れた弟であるが長良や良房とは母親が違うため、藤原兄弟と一括りされる中にカウントされることもなく、当初から藤原家の権力を継承する立場とは認識されずに一貴族としてこれまでやってきた。
というところで起こった権力の空白。基経に権力を継承させようとしている過程での応天門の変、そして、良房の摂政就任は良房自身の権力継承を不鮮明なものにさせた。三〇歳ともなれば権力の継承者として申し分ないし、善男らを追放したことで反対派の一掃にも成功しているから良房登場時と比べればはるかに有利なところからスタートできるのだが、それでも安心とは言えない。
良房が一九歳の年齢差のある母親違いの弟のことを特別扱いしてきたことはない。藤原氏ということで普通の貴族ではない教育を受けさせたが、善にしろ悪にしろ目立ったところはなく平凡な貴族というのが兄から見た良世だった。
しかし、この人は健康だった。風邪一つひかないし、天然痘の災厄とも無縁でいた。そして、良相と違って兄を追い抜いて自分が権力を握ろうという意志を見せなかった。それに、この人は兄の考える反律令の考えに同調しており良房派に属してもいる。
自分における長良の存在のような形で良世は基経を支える役を果たすだろうと良房は考え、生まれてはじめて脚光を浴びることとなった良世は兄の申し入れを受けて基経の補佐役を引き受けた。
問題は一五歳の清和天皇。
大人びた少年であったのが、元服したことで名実共に大人となり、悪事は良房に押しつけて自分は名声を得る快感を知った。
となると、天皇親政による若き清和天皇の独裁政権がはじまる。
何しろ、天皇を諫めるべき大臣がいないのだ。
もっとも、清和天皇は悪事を成そうとしているわけではない。自分が正しいと思っていることを遠慮なく実行しているのみであり、それが天皇として正しい行いであれば、誰も何も言わない。
貞観八(八六六)年一〇月一四日、天智天皇の眠る於山階陵と、父である文徳天皇の眠る田邑等山陵に使者を派遣して祝詞を捧げたことなどは、天皇としてごく普通の行為であると同時に、父の墓に詣でる息子の当たり前の行動として映った。
ただし、そのための人選となると一癖も二癖もある。
派遣した使者は確認できるだけで三名。
藤原氏宗は権大納言兼右近衛大将という重職であり、こうした使者として相応しい地位にある者だから問題ない。問題は残る二名。中納言兼陸奧出羽按察使の源融と、参議左大弁兼勘解由長官の南淵年名である。
つまり、選ばれていなければおかしい基経が選ばれていない。たしかにこの二人も重職にある者であり、相応の地位に就いている。だが、国家行事でもある参詣に基経が除外されているというのは普通ではない。
清和天皇はかなりの可能性で基経を疎ましく思っていたと考えられる。おそらく、義理の兄であり義理の伯父でもある以上全くの他人扱いはできないが、この人に養父と同じだけの権威を与える気にはなれないとでも考えたのであろう。
基経の政治的見解と良房の政治的見解はかなり似ている。完全に一致しているというわけではないが、基経はその政治的信条の大部分を養父良房より始まった現実主義の反律令に寄っている。
一方、清和天皇の政治的見解もまた、父である文徳天皇に近い。文徳天皇ほど凝り固まっているわけではないが、律令を信奉する理想主義と言える。
基経と清和天皇の距離は、良房と文徳天皇との距離よりも近い。
だが、近いだけで、つながっているわけではない。ましてや、天皇ですら敵わぬだけの権力を身に集めた良房と違い、基経は理論上、他と同様の一貴族でしかない。その一貴族でしかない基経を、なぜ太政大臣の養子であるという理由だけで厚遇しなければならないのか。
そう考えた清和天皇にとって、基経は目障りな存在だった。
もっとも、文徳天皇よりは現実主義に近い清和天皇である。基経を目障りには感じても、失脚させようという気は全く起こさなかったし、全くの無接触で通したわけではない。
それは基経個人が他の者より有能な貴族であるということもあるが、基経の背後、すなわち、国民世論も考えてのことであった。
冬嗣から良房を経て基経へとつながる権力の流れは自動的ではない。各々が一貴族であるところからスタートしてのピラミッドクライミングを成し遂げるのが前提となった権力継承である。
ゆえに、不安定はあるが成功もした。
自動的に最高権力を身につけるのではないため権力を身につけるために権謀術数の限りを尽くさなければならず、権謀術数の限りを尽くすためには否が応にも現実を目の当たりにしなければならず、現実を目の当たりにすれば自然と国民の意見を身に受けるようになる。なぜなら、他の貴族を敵としたところで命に関わることはないが、国民を敵にしたら政治家生命のみならず、文字通りの生命に関わるのだから。
国民を見放した政治家の末路は、伊豆に流された伴善男という例がある。流されていく善男に浴びせられた民衆からの心ない罵声、善男の邸宅に押し掛けた民衆の狼藉、さらには「善男」という言葉そのものが民衆の間で最大の侮蔑語となる屈辱、これを知らない清和天皇ではないから基経との関係を最後まで絶つことはなかったし、これを知っているから基経は民衆の意見を律儀に聞き入れていたのである。
貞観八(八六六)年一〇月二五日、一つの議案が宮中に届いた。
議題は讃岐国で展開された刑事裁判の判決の妥当性である。
発端は殺人事件であった。容疑者は讃岐国に住む無職の江沼美都良麿。被害者は香河郡に住む農民の縣春貞。被害者の妻である秦浄子の訴えによると顛末は以下の通りであった。
加害者と被害者の二人がともに被害者宅で酒を飲んでいたところ、理由は不明だが言い争いになり、ケンカに発展。被害者が「美都良麿に刺された」と叫んだのであわてて駆け寄ると、夫は左の脇腹を刺されており間もなく亡くなったという。近所に住む秦成吉らも二人と一緒に酒を飲んでおり、ケンカとなっても誰も止めようとしなかった。
痛ましい事件ではあるが、状況自体は現在でも新聞でよく見られる状況である。
だが、その後は極めて特殊とするしかない。
この事件を裁くこととなった讃岐国司は、加害者である美都良麿を処罰したのみならず、律令に基づいて、二人のケンカを止めなかった者、傷を負った被害者を助けなかった者、犯人を匿って逃がした者も罪にあたると断定し、各々ムチ打ち一〇〇回の刑にするとしたのである。
この判断を清和天皇は問題にした。
まず、訴えが被害者の妻の証言に限られており、その他の証拠を集めていない。さらに、律令に基づいてのムチ打ち刑であるが、これは律令の拡大解釈である。さらに、その拡大解釈が認められたとしても、ケンカを止めなかったのも被害者を助けなかったのも、酔いが激しい状態で身動きがとれなかったためである。ゆえに、ムチ打ち刑は認められず無罪であるとした。
その上で、清和天皇は、判断を下した側を罰したのである。
讃岐国司がなぜこのような厳しい判断を下したかだが、この理由は応天門の変にまで遡ることができる。
讃岐国というのは、ついこの間まで紀夏井という名国司が治めていた国である。応天門の変で数多くの貴族が追放されたが、その中でただ一人、庶民の同情を集めたのが紀夏井であったのも、紀夏井の名国司としての評判の高さから来るものであった。
讃岐国では特にその感情が強かった。いかに放火事件の共犯であったとは言え、生活を豊かにしてくれた恩人を罰したことへの怒りは強く、追放解除を訴えるデモが暴動に発展する直前に達しており、国司は民衆の矢面に立たされていたのである。
というところで起きた今回の事件。
厳しく罰することとなったのも、被害者に対する同情の強さが民衆の間に広まり、簡単な刑罰では納得しないレベルに達していたことによる。民衆の望むがままの刑罰を執行する以外に、国司は民衆の感情爆発を抑えることができなかったのだ。
だが、そのままでは困った先例になるのである。
律令に定めた以上の刑罰は誰であろうとも受ける義務などないし、その刑罰を科す権利もない。それを逸脱したらどうなるか。
生活が悪化する。
なるほど、治安は良くなるかも知れない。少しの法令違反も見逃されることなく厳罰が待ちかまえているのだから、これで犯罪を起こそうという気は起きないだろう。だが、それは、多少の違反も許されず、互いが互いを監視しあう社会である。社会の活力もなければ、生活の創造もない。ただ律令に従うだけの苦痛で乾燥した日々が繰り返されるだけ。
その社会ではただ前例を踏襲することしか存在せず、収穫も、労働生産性も、法令に違反しないことだけを前提とした低調なものになる。ゆえに、経済成長率は、良くて現状維持、そうでなければ確実に落ちる。
その行為自体は法令違反であっても、それがごく普通の日常における光景であるというのに、そのことで刑罰が待ちかまえている社会が過ごしやすいわけがない。いかに国民が望んだ刑罰であっても、待っているのは国民が最も望まない暮らしである。
文徳天皇よりは現実主義的な清和天皇である。讃岐国司の行為はすぐに理解できたし、この件については基経も清和天皇と意見を同じくしている。
民衆の支持を基盤とする基経にとっては苦悩するジレンマであったろう。民衆のための最良を考えた結果と、民衆の意見とが正反対なのだから。
実際、讃岐国司の方を罰することで刑罰をなかったことにするという決定は、暴動を引き起こしかねない決定でもあった。その暴動を食い止めるために、基経は、同日にもう一つの裁判を結審させている。
その裁判とは、応天門放火事件のきっかけとなった生江恒山の処遇である。
これは放火事件よりもはるかに悪質な犯罪であった。自分と、自分の主君を訴えた大宅鷹取にケガを負わせ、鷹取の娘を殺したのである。
理屈の上では権勢きらめく伴善男に逆らうことの恐ろしさを広めることで世論を静かにさせようとしたのだが、結果は、世論のさらなる反発と同時に、律令派全失脚の呼び水となった。
その律令派の貴族たちはこぞって失脚させられていたのだが、殺人犯である生江恒山と、その共犯者である占部田主らはまだ結審していなかった。
あるいは、意図的に遅らせていたのかも知れない。世間の注目を集めること間違いないこの裁判に注目を向けさせることで、別の重要事を展開させるために。
世間の注目を集めた裁判の結果は、主犯の生江恒山、共犯の占部田主ら、被告人全員死刑と決まった。ただし、清和天皇の恩赦により減刑され、遠流と決まった。これは事実上の死刑廃止となっていたこの時代での最高刑である。
なお、犯人たちがどこに追放されたかの記録はないが、遠流(おんる)とある以上、簡単に都に戻れるようなところではなかったであろう。
ここで国外に目を転じてみると、東アジアはロクでもない時期であったことが伺える。
かつて東アジアで絶対的な地位を有していた唐も今は過去の栄光のみで、今や各地で反乱が勃発し、朝廷がその体を成していない状態にある。首都長安とその周辺はまだ皇帝の権力が届いていたが、それ以外の地域では各地の豪族が軍勢を率いて暴れ回る光景が展開され、各地で死者と飢餓を出し、それまでは国外の難民を受け入れてきた側であったのが、今では難民を国外に出す側に転じていた。
唐と日本との貿易が縮小してきたのも、日本が唐との関係を断ったからではなく、唐にはもはや日本に輸出できるモノを作る製造力も日本のモノを購入する財力も失われていたからである。日本人の意識の中から唐への慕情が消滅してきていたのも、唐に対するナショナリズム的な反発心が芽生えてきたことより、唐の利用価値が失われたからに過ぎない。
唐の混乱は国境を接する渤海にも影響を与えていた。日本と同様に経済における唐の利用価値が縮小し、日本との交易は継続するものの、基本的には国内完結の自給自足の経済となりつつあった。しかし、渤海は日本と違って国境を接する国がある。それは、国外との接触を強める反面、国外からの侵略の可能性という危険をはらんでもいた。ましてや、国外には飢餓に苦しむ人が大勢いて、救いと、略奪を求める集団となっている。国内の安定は、国の繁栄と同時にこうした集団のターゲットとなりやすい。
渤海の軍備増強も、他国への侵略でなく、国外から襲いかかる武器を持った強盗集団から自分たちの身を守るための手段としての選択であった。渤海はまだ軍事力が健在であったために唐の混乱を食い止めていたが、西南の唐だけでなく、北東の黒水靺鞨、南の新羅の侵略を常に受け続けており、結果、渤海はその国力を衰退させざるをえなくなっていた。
最悪だったのが新羅。ただでさえ群盗の頻発により国家滅亡寸前の状態にあったのに加え、反乱と疫病が続発して生活が崩壊してしまっていた。その結果、国外への難民を大量に発生させ、日本や渤海はその対処に苦悩していた。いや、難民ならばまだいい。問題はその難民の少なくない数が、武器を持って船を操る身となったことであった。
日本の北、今では蝦夷と呼ばれるかつての縄文人たちの末裔の住む北海道からの侵略の声はまだ届いていない。坂上田村麻呂の孫である坂上当道が軍勢を率いて東北地方を統治していたからである。しかし、北海道の蝦夷たちは、少しでも天候不順となれば、躊躇せずに津軽海峡を渡って日本に攻め込もうとしてくることには変わりがなかった。彼らに言わせればかつての自分たちの土地を取り戻しに来ただけということになるのであろうが、彼らの襲いかかる対象とされたのは元を正せば彼らの仲間。日本国内に住むことを選び、それまでの狩猟・採集から農耕に生活の基礎を移した俘囚(ふしゅう)と呼ばれる人たちの暮らしを彼らは狙っていたのである。坂上当道はその動きを常に抑え続けていた。
これらを日本の立場から見るとどうか。
唐から日本は遠いし、戦乱となってもその勢いが海の外まで来ることはない。
渤海はまだ国としての体裁が成り立っているし、戦乱が日本海を越えて来ることは考えづらい。
北は坂上当道が健在のため北海道の蝦夷たちを津軽海峡で食い止めることに今のところ成功しているし、俘囚は蝦夷としての生活を捨て日本に溶け込んできている。すでに法の上では俘囚への差別が禁止され、俘囚出身の貴族まで登場しているのだから、少なくともここまでの同化政策は成功であったとするしかない。
問題はやはり新羅なのである。
新羅が国家としての体裁を成さず、人々が生きるために武器を持って四方八方に飛び散る惨状とあっては、日本は被害者を受け入れるのではなく身を守るのに全力を尽くさねばならなくなる。なぜなら、ここで救済を優先してきた結果が日本の治安悪化の一因なのだから。
日本国内で暴れ回る盗賊団を捕らえてみると日本語の全く通じない新羅人だったということなど、当たり前すぎてニュースにもならない。中には真面目に農民として日本に暮らすことを選んだ新羅人たちもいたが、それでも、日本を格下に見る感情が、自分たちは新羅人であるがゆえに日本人よりも格上で、全ての日本人は新羅人につき従わねばならないと平然と公言しているとあっては穏やかではない。
それに、新羅から来る者は避難民である者より海賊であることが多かった。日本に来る目的も生活を求めてではなく、「人」を求めて。ここで言う「人」というのは、奴隷として酷使し、あるいは売り飛ばせる相手という意味である。日本人がかの土地に拉致されるというのは何も二〇世紀に入ってから起こった現象ではない。日本に人が住むようになってからこれまでの間ずっと存在し続けてきたことである。
しかし、いくら存在し続けてきたことであろうと、それを易々と受け入れることは権力者ならば許されない。
貞観八(八六六)年一一月一七日に、新羅の来襲に備え、能登、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐、長門の各国の国司、および、太宰府に対し、諸神への奉幣と、兵士の訓練を行うようにとの指令が飛んだのも、権力者として当然の判断とするしかない。
良房の隠遁以後の清和天皇は、増税以外は権力者として充分合格点を付けられる政務をしている。
何しろ大臣が三人とも同時にいなくなったのだから、否が応でも現実を直視した政務とならざるを得ないし、人材の選り好みなどしてはいられない。
対立する存在と認識していた基経でさえ清和天皇はその実力を買っており、貞観八(八六六)年一二月八日には従三位に昇格させ中納言に任じている。
なお、この日はあと二つニュースがあった。
一つは、この日、追放された伴善男の私有財産のうち、仏像と図書が没収され、国庫に納入されたこと。
二つ目は、藤原良相の辞表提出。良相は自分の持つ右大臣と左近衛大将の二つの官職の両方ともその職務を辞めたいと申し出たのである。
良相の辞表提出の理由は表向き病気のためということになっていたが、その理由を信じる者は誰もいなかった。
良相のブレインであった善男はすでに追放されている。
良相の頼みの綱であった武力も今では封鎖されている。
良相の長子である藤原常行は応天門の変まで同い年の基経と出世レースを争っていたのに、今では大きく水を開けられている。
応天門の変で権力を失い、その地位は飾りとなり、事実上の謹慎状態に置かれていた良相にとって、辞表はただ一つ許された意思表示であった。
ただし、その意志は却下された。
清和天皇は辞表を握りつぶしただけでなく、応天門の変以降内裏に出仕しなくなった良相に対し、直ちに職務を遂行するように命じたのである。
良相の辞表は一二月一三日にも再度提出された。
理由は前回も記した病気に加え、自己の高齢も挙げている。
良相はこのとき五三歳。現在では現役世代にカウントされる年齢だが、人生五〇年と考えられていたこの時代では立派に高齢者と見なされる。
かつての良相派は、これからの時代を担う若者たちの集団であった。律令に崇高な理想を感じて熱狂することが若さであり、善男は彼らに理論を与え、良相は彼らのリーダーとして君臨していた。
それが今では、良相派とは、派閥争いに敗れ、時代に取り残された高齢者たちの集団になっている。律令に熱狂するのは老いを感じさせることであり、善男は犯罪者として追放され、良相は誰一人として従えることができなくなっている。
自分の若さを武器に支持を集めてきた良相にとって、一本、また一本と歯の抜けていくことで感じる老いとは単なる苦痛ではない。自分の存在価値を全否定する現象だったのである。
この、自らの老いを理由とする辞表を受け入れるよう基経は進言した。ただし、二つの職の両方ではなく、左近衛大将のみである。
軍勢を率いて国を守る職務とされてきた左近衛大将が自らの老いに苦しみもだえているのは国の安全に関わる問題である。病気ならば、治る可能性がある以上、辞表を受け付けないという行動も納得できる。しかし、老いが理由とあってはどうにもならない。
老いは治ることがない。老いるスピードが遅くなることはあっても、前の若さを取り戻すことなどできない。若き良相だから可能であった軍勢の指揮も、今では五三歳の語る過去の栄光でしかない。
貞観八(八六六)年一二月一六日、良相の左近衛大将辞表を受理。右近衛大将の藤原氏宗が良相の後を受けて左近衛大将に就き、右近衛権中将でもあった藤原常行が右近衛大将に上がった。人事の手順としては順当と言えるし、何と言っても自分の息子を国の武力のナンバー2に就任させたのだから、良相の行動は特に間違ってはいなかったと言える。
ところが、その一〇日後の一二月二六日、左近衛大将になったばかりの藤原氏宗が辞表を出したのである。兼任している権大納言職に専念するために、左近衛大将を辞めたいというのが理由であった。
これで宮中は混乱した。
トップの抜けた穴を次席の昇格で埋めるのは珍しいことではないごく一般的な形であるし、人事でもめる要素ともならない。しかし、その次席がトップ昇格を拒否するとなるとそうはいかなくなる。
とは言え、表だった理由はともかく、本音は理解できなくもない。
政治学者のマックス・ウェーバーは、国の持つ警察権や軍事権など、武力を用いて国の安全を守ることを「力の組織」と定義し、国において必要不可欠な組織であるとした。一方、ロシア革命成立前のレーニンはこうした国の持つ権力を「暴力装置」と定義し、この装置が共産党を取り締まるのを非難した。ただし、それは革命前までのことであり、革命後は共産党政権の行う「力の組織」に関しては沈黙し、その用語を、非共産主義国の警察と軍隊に限定して使うようになったのみならず、その用法に対する非難が出た際には、マックス・ウェーバーの用語のことだと言い逃れするようになった。
政治用語で「力の組織」と呼ぼうが、左翼から「暴力装置」と非難されようが、警察権や軍事権は国の安全を守る上で必要不可欠な存在である。
ところが、その必要不可欠な存在を指揮する人材が枯渇してしまったのだ。それも、良相自身の手でこれを証明してしまったのだ。
良相は三〇年以上もの長きに渡ってこの国の「力による組織」のトップに君臨し続けてきた武将でもある。その武将がいなくなった後、それまで軍事とは全く無縁できた人材が、単にナンバー2の地位にあるからという理由だけでトップに祭り上げられてしまった。しかも、高齢を理由に辞表を出した良相の後を受けたのは、良相より三歳上である五六歳の氏宗。文人としては充分な実績を持っていても、軍を率いた経験も軍を率いる知識もない年齢も上の人間が、良相の三〇年以上のキャリアを引き継げるわけがない。
しかし、このとき、氏宗以上の適任者はいなかった。より正確に言えば、この時代の日本に良相の地位を引き継げる武将はいなかった。武将がいれば抜擢して穴を埋めることができたのであり、武将がいないから次席の昇格という無難な線で行くしかなかったのだ。
良相は後継者の育成に失敗していた。
良相の長子の常行は武力に何の関心も抱かない典型的な文人貴族だった。その他にも子はいたが、やはり兄と同様の文人貴族であり続けた。このあたりが、藤原良相と、息子や孫も武人たることを選んだ坂上田村麻呂との武人としての資質の違いなのかも知れない。あるいは、良相の藤原氏としての誇りが、武人ではなく文人を育てさせたのかも知れない。
だが、こうなると、良相の最大のアピールポイントである武力の後継ができなくなる。誰もいないのだ。
それでも常行は父の威光を受けて右近衛大将とまでなったが、武人たちは良相の息子としての礼儀ならば示しても常行自身を武人として眺め尊敬することはなかったし、常行本人も、一方的にライバル視している基経との対抗上の地位ならば求めても、武人たることを求めはしなかった。
それは常行だけではない。この時代の日本に、武人であること選ぶ貴族がいなくなってしまったのだ。だからこそ、基経は氏宗の辞任に猛反発し、中納言としてだけではなく、長良の娘の一人を妻としていることから義弟としての反発も見せた。それでしか誰かを地位に就けようがないのだから。
かつての坂上田村麻呂や文屋綿麻呂のように、第一線で軍を指揮する武人でありながら貴族としても高い地位を有するという人は、藤原良相を最後に日本の歴史からいったん消える。後に残ったのは、武人のトップの職務でさえ文人の役職の一つに過ぎなくなるという時代、武人そのものが重視されないという時代である。
おそらくこの時代の貴族の脳内には、武力というもの全般が、「力による組織」ではなく「暴力装置」という概念となってしまったのであろう。
貞観九(八六七)年一月七日、清和天皇は新年恒例の昇進の場で、左近衛大将の辞表を出した藤原氏宗を正三位に昇格させた。
昇格は氏宗だけではなく、合計すると、皇族一名と貴族二一名が昇格を果たし、新たに二三名の役人が五位の地位を得て貴族に加えられた。応天門の変による大規模な追放で人材の空洞化を起こしていたことによる人材の穴埋めである。
人材の穴埋めは役職の付与にも現れた。
貞観九(八六七)年一月一二日、四二名の皇族と貴族が新たな役職を得た。うち、三五名が地方官である。
一般に、応天門の変は藤原氏の他氏排斥の一環と見なす向きもあるが、少なくともこのときの官職付与で藤原氏の他氏排斥を見ることはできない。なぜなら、この四二名の中に藤原氏は一〇名しかおらず、このときの任官者の経歴を見る限り、藤原氏優遇どころか、藤原氏逆差別とまでなっているのだから。
この藤原氏逆差別の人事も、清和天皇にしてみれば考えうるベストチョイスなのであろう。基経や良世の権力を抑えつつ、国政に支障をきたさぬようバランスをとるためには、藤原氏にある程度の権力を与えながらも藤原氏以外にも権力を与えるのはバランスがとれる。父の文徳天皇がしていたような拒絶反応ではなく、凝り固まらずに妥協を見せるこのあたりのバランス感覚が、執政者としての文徳天皇と清和天皇の違いである。
ただし、そのバランス感覚も、結果を伴っていれば、という条件が付く。
貞観九(八六七)年一月一七日、桓武天皇の子である 仲野親王が亡くなった。七六歳の死である。
さらに一月二四日には神祇官として神道の有力者として君臨していた中臣逸志も亡くなった。こちらは七四歳での死である。
平均寿命が五〇歳という時代での七〇代の死であるから、偶然の連続と考えられなくはない。
だが、これは偶然ではなかった。
かつて良房をも倒れさせたインフルエンザ、当時の史料によれば「咳逆病(がいぎゃくびょう)」が再び流行を見せたのだ。高齢者二人が亡くなったのは加齢からくる抵抗力の低下に過ぎない。
清和天皇は緊急事態と判断した。
この時代の医療の質は現在と比べ物にならない低いものであるのに加え、唐の混乱により、この時代の日本が唯一唐に頼らざるを得なかった輸入品である薬がほとんど輸入できなくなっていた。その上、医師不足から医療崩壊を招いており、結果、罹患イコール死という無惨な姿を招いていた。
清和天皇は改めて医師たちに対して患者を治療するよう命じたが、医師たちからの返答は否。薬もなければ治療法もないのに、患者を治すことなどできないというのが回答である。
基経は自費を投じて治療法と薬品の入手に奔走しようとしたが、これは良世に止められた。まず、治療薬が存在しない以上、唐に出向いて薬を手に入れたところで効果はない。また、近年、薬が入手できなくなっているのは唐の混乱によるものであり、唐の国内での薬の生産量が落ちているため輸出に回らない。それでも財をつぎ込んで無理して輸入しようとしても、国内の需要には全く足らず、基経の恩恵を受けた一部の者しか薬を届けることはできず、届けることができた者も薬石効無く命を落とすしかない。
その上で、良世は日本国内の動揺を抑えることを企画し、清和天皇に上奏した。
貞観九(八六七)年一月二六日、清和天皇は日本全国の寺院に対して般若経の転読を命じると同時に、災厄を祓う陰陽道の儀式である「鬼気祭」を執り行うよう陰陽師たちに命じた。
陰陽師が歴史に名を刻むのは大和朝廷の頃に遡る。
古くは朝鮮半島からの亡命人が就くことが多い職であり、当時の日本人には謎であった神秘的な言葉を操り、当時としては最先端の知識を駆使することで着目されたが、謎の神秘的な言葉は単なる外国語であり、最先端の知識も特に着目するほどのものではないと見抜かれてしまってからは、陰陽師も役人の一人に過ぎなくなっていた。
さらに天智天皇が陰陽師の行動を迷信の一括りにするといよいよ陰陽師への需要が減り、奈良時代には星空を観測する役職にまで幅を狭められる。
そして、この時代となると単なる役人のポストの一つに過ぎなくなり、陰陽道に詳しい者自体が減ってきていた。高度な数学知識を必要とする宣明暦を使用する時代であるため、天体観測のスペシャリストである陰陽師にはある程度の需要があったが、あくまでも需要は天体観測に限定され、何年何月何日に日食が、あるいは月食が起こるかという計算のときだけ重宝され、あとは重要視されなかった。
何しろ、陰陽師のトップである陰陽頭でさえ従五位下という下から二番目の貴族の地位にしかなれない上、陰陽師自体が役人としても異端扱いされていたため、陰陽師という役職そのものが、他の官職で役人になれなかった者の滑り止めぐらいにしか見られていなかったのである。
ゆえに、陰陽師という人たちがいたこと、そして、陰陽師たちを束ねる機関である陰陽寮という組織が存在し続けたことは記録に残っているのだが、現在の知名度に反比例して、国の正式な歴史書における陰陽師たちの記録は驚くほど少ない。
ちなみに、安倍晴明をはじめとする著名な陰陽師たちが活躍するのはこれから一五〇年ほど後になってから。菅原道真の怨霊に人々が脅えるようになってから陰陽師たちは注目を集め、平将門のニュースを耳にするようになって陰陽師たちへのオカルティックな需要が高まり、源氏物語の時代に陰陽師たちを求める意識はピークを迎えるようになったために、安倍晴明らがヒーローとしてもてはやされるようになったのだが、そうではないこの時代、陰陽師たちは、落ちこぼれの役人と見なされていた。
という時代に陰陽師たちに登場を願った理由は二つ。
一つは、何と言っても安上がりだから。陰陽師は国家公務員であり、国は陰陽師たちに毎月の給与を払っている。つまり、国としてはいつもと違った仕事をしろと命令するだけでよく、経費はともかく特別な国家予算などいらない。
もう一つは、陰陽師が無名だから。陰陽師という人たちがいることは知識としてなら知っているが、何をしている人たちかを知らない人は多かった。というところで、深く知らない人からすれば神秘的に見えなくもない儀式をするのである。また、陰陽師たちの呪文の言葉の内容を知っている人にとっても、陰陽師たちが訴える内容は病気の沈静化に対する祈りだからおかしなことではなかった。
陰陽師の祈祷自体はおかしなことではないし、朝廷が祈れと命じるのもこの時代の政策としてはごく普通のことである。
問題はその結果。
効き目が全くなかった。
貞観九(八六七)年一月二七日、地震が起きた。
貞観九(八六七)年二月一日、また地震が起きた。
その二日後には伊勢神宮で火災が発生し、一二戸の殿舎が焼失した。
こうなると陰陽師の威力も信頼の置けるものではなくなる。大地が揺れ、神々の住まう場所が焼けたのだ。これで民衆の動揺が沈静化したとすればそのほうがおかしい。
それに、民衆は地震や火事、そして疫病なんかよりもはるかに大きな問題に直面していた。
貧困と治安である。
自分たちで集落を守れている農村はまだ良かった。
問題は都市生活者、特に平安京在住者の貧困と治安悪化である。
飢餓に苦しむ民衆が多く、平安京の中の治安の悪化はどうにもならないものになってしまった。ストリートチルドレンが道にあふれ、ホームレスが道で眠っているのか死んでいるのかわからないほど身動きせず静かに横たわっているのも日常の光景。動ける者はと言えば、道ばたで人を襲っては身ぐるみを剥ぎ、奪えるもの全てを奪い去ってから家に火を放つ強盗集団と、その被害者。
これが「暴力装置」を軽視した現実だった。
単に次席であった者や、かつての指揮官の息子を昇格させただけでは「力による組織」が機能しなくなる。かといって、「力による組織」を機能させる人材はいない。自らの身は自らで守るというのが良房の基本的な考えであり、また、この人は誕生しつつあった武士という存在を認識していたが、平安京に流れ込んだ人たちは自助努力できるような人たちではなく、自らの身を守ろうとする意欲を欠いている。彼らを助けようとした良房は、彼ら自身が動かぬことに業を煮やし、ついには見放した。
もっとも、理屈は理解できなくもない。彼らは職を失い、ただ一杯の食事を求めて街をさまようまでに追い込まれた人たちである。希望もなく、将来もなく、ゆえに、守るものがない。守るものがないのに守るために戦うなどできない。良房はそうした彼らにも職を与えようとしていたが、その応募に応えた者はとっくに平安京を出て、藤原の農園で働いて生活を再建している。
つまり、ここに残っているのは生きる意欲を欠いた者たちである。この人たちに生活を得る手段を勧めても、また、守ることの意義を説明しても、何のリアクションもない。彼らが望んでいるのは今の飢えを満たすことだけであり、強盗も、放火も、今の飢えを満たす手段に過ぎなかった。
貞観九(八六七)年二月一三日、清和天皇は一つの声明を出した。
民衆の間に飢饉が広がり盗賊が群を成し、強盗や放火といった犯罪が繰り返されている。特に五畿の内部でその度合いが激しいため、各国の国司たちはただちに取り締まりにあたるように、という声明である。
さらに、二月一七日には、平安京在住者に対し、合計でコメ三百二十石、種籾二千石、塩三十五斛、新銭一百貫の配布をした。ここで、コメではなく種籾の配布を増やしているのは、平安京を出て農村に向かい耕作に励むようにというメッセージも含んでいる。
貞観九(八六七)年二月二二日、今度は左大臣源信が辞表を提出してきた。
応天門の変で政治生命を残したはずの源信であるが、徐々に姿を見せることもなくなって自宅に閉じこもりがちになっていた。こちらは良相と違って政務と無関係なわけではなく、大臣の決裁を要する案件には律儀にサインをしているとは言うものの、内裏に姿を見せないというのでは、左大臣としての職務を果たしているとは言えない。
辞表に記されていたのは自らの能力では左大臣としての責務を果たしきれないという内容であるが、無論、本意ではない。本意は、自らの政治家としての命運と、嵯峨源氏の勢力を考えてことである。
嵯峨源氏は藤原北家と強く結びつくことでこれまで権力を握ってきた。特に良房と嵯峨源氏たちとの関係は密接なものがあり、藤原北家の人間以上に良房の政務を支え続けていた。
ところが、その良房がいなくなった。後に残っていたのは、良房が後継者に任命した基経と、基経の後見人として良房が指名した良世。二人とも嵯峨源氏との関係は希薄である。源信にとって重要なのは藤原北家そのものではなく、藤原良房個人である。良房が宮中から姿を消した現在、いかに良房の後継者であろうと、嵯峨源氏にとっては有用と感じられない状態で、良房ではない人間につき従うつもりはなかった。
とは言え、源信が良房個人の忠実な右腕であることは周知の事実であるし、また、源信自身、自分はトップに立つ器量ではないと自覚している。その上、源信はこのとき五七歳になっていた。今ならばともかく、この時代では、一時代を終えてあとは隠居するべしと考えられていた年齢である。ここで自分がトップに立つことは、良房を裏切るという簡単な話では済まない、これまでの人生と嵯峨源氏全体の全否定につながるのだ。
もっとも、良房との個人的なつながりを頼りとし、良房を影で支えることで、自らの勢力と、嵯峨源氏の勢力とを作り上げてきていた源信だが、嵯峨源氏全体が未来永劫藤原北家の影であり続ける気は毛頭無かった。源信個人は永遠のナンバー2でも、嵯峨源氏の中にはナンバー1になれる器量の人間がいる。
源信の弟である源融(みなもとのとおる)である。源融このとき四五歳。地位も中納言にまで登っていた。
貞観九(八六七)年二月二三日、右大臣藤原良相より上奏文が届けられた。
貧困が激しく飢餓に苦しむ民衆が多いこと。不作のため税を納められぬ者が多いこと。その結果、役人の給与支給が遅れていることを訴える内容である。
そのため、良相はここで、右大臣としての職務ゆえに受け取っている田畑のうち、五〇〇戸の返上を申し出た。
このタイミングでの良相の思いはわかる気がする。
良相は自分を特別な存在と考えていたが、良房にとって良相は特別な存在ではなく、手足の一人に過ぎなかったことに気づかされたのは、良房が基経を後継者として指名したとき。良房にとっての特別な存在は皇族のみ。皇族以外で特別に近い存在は、兄の長良、妻の潔姫、後継者の基経の三人しかおらず、あとは利用できるか否かだけが価値基準であり、利用できるとあればたとえ敵対する勢力にいる者でも地位と権力を与えるし、利用できないとあればその両方を取り上げる。それは弟の良相とて例外ではないことに気づいてしまったのだ。
今は確かに良房も身を引いている。だが、良房の後継者である基経が宮中に君臨している。その基経が、もはや何の利用価値もなくなった良相を考慮するだろうか。基経も養父と同様、敵対するとわかっている相手でも有能とあれば相応の処遇をしているのである。あれだけ一方的なライバル心を向けている常行ですら、その力量を買って相応の地位を用意している。
良相は、今はもはや飾りだけの右大臣となり、あとは死を迎えるだけとなっている。藤原氏の権力も財力も兄の家系の元に移り、自分も、自分の子供たちも藤原氏のその他大勢の一人に過ぎない。ただし、右近衛大将にまで出世した藤原常行という後継者がいる。年齢は基経と同じで、その地位も基経に拮抗できている。
となれば、兄の良房がしてきたようにスタンドプレーに走って世間の評価を獲得し、世間の評判を追い風にして常行の後ろを後押しするのもおかしな話ではない。それまで奴隷の売買で利を得ていた人間とは思えない清廉潔白な貴族を演じれば、自分の代では無理でも、子や孫の代に、今は失われてしまった藤原の権力を、祖先の高名ゆえに呼び戻すことができるかも知れないのだから。
でも、それが世間に認められるだろうか。
見え透いた清廉潔白さはいかにも怪しすぎる。それまでの良相の行いの中には確かに一般市民のための行動もあったが、賄賂を受け取ったり奴隷売買に手を出したりするなど、非難を浴びても当然の行いのほうが多い。武人としての能力も抜きんでたものがあったが、最後の最後でその後継者を作り出せずに軍事組織を壊している。
それに、常行の評判は高いものではなかった。父の威光をカサに威張り散らしている凡人というのがこのときの常行の評判であり、現在の地位も、常行自身の能力を買ってのことではなく、右大臣に対する温情措置と見られていたのが現状である。
貞観九(八六七)年二月二六日、大宰府から緊急連絡が届いた。豊後国の鶴見山の噴火である。
鶴見山というのは大分県の別府温泉の側にある鶴見岳のこの当時の呼び名で、このあたりは古くから温泉が湧き出ることで有名であった。ただし、今の別府温泉の活況とは真逆で、この時代の別府温泉が観光名所になることはなかった。鶴見山の噴火が相次いでいて危険だったからである。この一帯は、溶岩のせいで農地開墾こそ進まないものの、気候の温暖さと海産資源の豊富さもあって漁業と交易を主とする集落が展開し、それなりのにぎわいを見せていたが、そこに観光という産業はなかったのである。
温泉はそうした地元の人たちの間だけで広まっていた地域限定の娯楽であった。とは言え、火山の危険さよりも温泉の快適さを選んだ人たちは数多くおり、宝亀二(七七一)年には鶴見山の二つの山頂を、男神である火之加具土命、女神である火焼速女命として奉る火男火売神社も創祀されるなど地域に根付いた社会が成立しており、鶴見山は恐ろしくもあるが豊かさももたらすシンボルとして地元で存在していた。
その鶴見山が噴火した。
太宰府からの緊急連絡によれば、鶴見山の噴火がこれまでにない規模であるという。噴火が始まったのは一月二〇日。この日、山頂にある三つの池が大音量とともに沸騰して熱湯となって流出して山を駆け下りたために集落は孤立。山を仰ぐと黒煙が天へと舞い上がり、夜には猛烈な火炎が空に吹き上げていた。この鳴動は三日間続いており、太宰府の記録を信じれば、この噴火で数万人規模の死者が出たという。これはかなりの誇張であろうが、この噴火でかなりの死者が出たことは間違いない。
この情報を聞きつけた直後の清和天皇の行動は記録に残っていないが、何の対処もしなかったとは考えづらい。
武人を束ねる存在の人材不足は一朝一夕では解決しない。
噴火対策の最中の貞観九(八六七)年二月二九日、清和天皇は一つの妥協をした。それまで権大納言であった藤原氏宗を大納言へと出世させた。大臣が三名とも不在である現状においての大納言職は、事実上のトップを意味する。
さらに、清和天皇は藤原氏への歩み寄りを見せた。
氏宗の大納言就任に加えて一二名の貴族に新たな役職が与えられたが、うち七名が藤原氏である。
前回の逆差別で地位を得られなかった藤原氏が多いことはやはり藤原氏の不平不満を生んでいた。そこで、このタイミングで藤原氏の七名、氏宗を加えれば八名を出世させた。全ては武力の安定化のためである。左近衛大将を辞そうとしていた氏宗であったが、この処遇を前にしては何もできなくなった。
子供たちや孫たちは田村麻呂と同様に武人になったのだが、彼らは田村麻呂のように、中央にあっては有力貴族として君臨し、前線にあっては馬上で縦横無尽に駆け回るという完璧な武人にはなれなかった。
その代わりに坂上家が輩出したのは、前線を駆けめぐるだけの武人と、武力とは無関係の文人である。前者は良相から必要不可欠な武人と賞賛されたが、後者はどこにでもいる三流貴族の一人に留まった。
その必要不可欠な武人の一人と絶賛されていた坂上当道が亡くなったのは貞観九(八六七)年三月九日のことである。田村麻呂の孫でこのとき五五歳の坂上当道は太政大臣就任直後の良房が抜擢した人材で、もともとは良房が良相ら律令派に対抗するために選んだ武人であったが、今では良相も認めざるを得ない武人に成長した。
オフィシャルな職務こそ陸奧国司でありその地位も従五位上に留まっていたが、実際の職務は前線を駆けめぐって治安維持をつとめる司令官であり統治者であった。東北地方だけでなく北関東も管轄下に置いており、この地域に多く住む俘囚たちを日本に同化させ、反乱の火種すら消し続けていたのが当道の生涯である。
その穴を埋めるためか、貞観九(八六七)年三月一二日には、右近衛大将となっていた藤原常行を従三位に昇進させて武への権威を与えようとしたが、それは常行個人の出世欲を満たす以外に何ももたらさなかった。当道がいなくなった東北地方は静かなままであったが、これから一二年後、当道不在の東北地方で激震が走ることとなる。
貞観九(八六七)年三月二七日、清和天皇の命令により、海賊を捜して捕らえるため、五家に一人の割合で保長を置き、市場、港、要路など人が集まる場所に偵邏を置くことが定められた。同様の制度は貞観四(八六二)年三月一五日にも出されているが、今回はそのさらなる拡充である。
海賊の恐ろしさは、海をゆく船を襲いかかることではない。交通の便の良いところに襲いかかることである。人が多く集まるところには自然と賑わいが生まれ、豊かさが生まれる。ということは、その豊かさを誉められる手段ではない方法で奪おうとする者が現れるということでもある。港の近く、道路の交わるところ、そして、定期的な市の立つ場所。これら人の多く集まる場所は、盗賊にとって絶好のターゲットである。一般市民にとって便利なところというのは、盗賊にとっても便利なところなのだから。
彼らは海からやってくるから「海賊」と呼ばれるだけで、そうでなければ「山賊」と呼ばれるし、イデオロギーを身につければ「反政府ゲリラ」と呼ばれるが、その中身は例外なく「武装強盗集団」。人類誕生の瞬間から彼らはこの世に存在していて、その被害を体験しないでいいというのは恵まれた例外とするしかないほどである。歴史を紐解けば、中にはそれが絶大な勢力を持ち、国を築くこともあるが、国を築いたところで彼らが話し合いの通じる人間であるわけではない。襲いかかることを何ら恥じぬばかりか誇りとすることもあるのだから、文明人が信じる『話せばわかる』も、彼らにとっては笑い飛ばすしかない内容である。
ただし、話し合いを笑い飛ばす彼らでも、殴り合いを笑い飛ばすことはできない。それどころか、殴り合いとなったら尻尾を巻いて逃げ出すのが通例。ゆえに、強盗から身を守るには、強盗が強盗であることすらできないようにこちらも力をつけるしかない。
このときの清和天皇の命令は、二重の意味で現在の日本社会には受け入れられないであろう。互いが互いを監視しあって海賊であるかどうかを見つけだそうとし、襲いかかってくる海賊に対処するための『暴力装置』を常時配備し続けるのだから、『進歩的知識人』を名乗る集団から拒絶されるであろう。
だが、一般市民にとってはどうか。何よりも大切なのは目の前の安全であって、崇高な理想を掲げようと、素晴らしい理論を唱えようと、奪われ、犯され、殺されるのを我慢できるわけがない。暮らしにくい社会になることと、命を奪われることとどちらを選ぶか。その答えで後者を選ぶ者は常に極端な少数派である。
そしてもう一つ、『進歩的知識人』が反対する、盗賊対策の手段がある。
それは、公共事業。どんなに必要な事業であろうと税金の無駄遣いのターゲットとなるのは、それが目立つ税の使い方であると同時に、すでに恵まれた暮らしをしている者にとっては、自分とは無関係の赤の他人が潤うだけにしか感じられないからである。そして、彼らはこう言う。『開発よりも福祉だ』と。
ところが、福祉と公共事業では経済効果が全然違う。福祉にどれだけ注力してもすでに恵まれた暮らしをしている者の預金残高を増やすだけで経済効果など全くないのに比べれば、公共事業は、個人ではできない大規模な開発となるためできあがった成果は誰とも共通する利益となるし、工事を展開することで数多くの労働者を雇い入れ、安定した生活を保障することとなる。
これは、失業対策や経済対策だけではなく、盗賊対策としてもかなり有効であった。
盗賊として生まれ育ち、盗賊であることを誇りとする者は別として、もはや盗賊になるしかないと追い詰められた末に盗賊になるような者の裏には、盗賊をせずに働いても苦しい暮らしが待っているという現実がある。必要を満たすために盗賊になるのであって、盗賊より安定している豊かな暮らしがあるなら、わざわざリスクの高い盗賊などに身をやつしたりはしない。
公共事業の建設にあたる労働者というのは楽な仕事ではない。朝早くからずっと身体を酷使し続けることはつらいし、無茶な要求を突きつけられることもある。だが、自分の仕事は他者に充分誇れる仕事であるし、市で何を買おうと、あるいは酒場で酒を飲もうと、それは正々堂々働いて得た給与を使うだけであって何ら咎められるものではない。
こうなると、疲労はあるが盗賊に比べればはるかに楽であると言うしかない。
盗賊を職業として考えると、これはハイリスクミドルリターンの職業である。命がけで襲いかからなければならないし、返り討ちを喰らったらそこで死ぬし、勝ち取ったとしてもそもそも盗むほどの豊かさもなかったとすれば骨折り損のくたびれもうけになるし、何より、被害者から死ぬまで恨まれる。
特にこの最後が一番恐ろしい。
盗賊のほうが若く勇猛であり、被害者のほうが幼き子供であったら、復讐の時を迎えたとしても返り討ちにできるだろう。だが、年月を経たらどうなるか。盗賊は老い、被害者のほうが勇猛果敢な若者に成長している。この状態で復讐をまともに喰らったら単に殺されるだけでは済まない。これ以上ない残酷極まりない方法で殺されるに決まっている。かつて海賊や山賊として荒らし回っていた老人が、かつての被害者や遺族に復讐される光景は珍しくなかった。山賊親子が捕らえられ、村まで連行され、かつて襲った村の中央に埋められ、村人の嘲笑を浴びせられる中、山賊の息子の手で首をノコギリで切り落とさせたという話が残っているが、それは盗賊の被害を受けた村からの回答であり、そこに同情はなかった。
こうなると盗賊というのは職業として極めてリスクが高い代物となる。
盗賊になるか否かを躊躇している者に対し、盗賊より楽で、盗賊より安定して、何よりも正々堂々と今の自分を宣言できる仕事があると伝えたらどうか。
盗賊などやらずそちらに流れていく。
良房が公共事業を数多く展開したのはそのためであるし、かつての右大臣清原夏野が前代未聞の大規模公共事業を計画したのも同じ理由だった。
そして、その清原夏野が建設した播磨国魚住泊の港湾設備に対する大規模修復工事が計画されたのが貞観九(八六七)年三月二七日である。主催するのは元興寺の僧侶の賢和。元々は寺院の慈善事業の一環として実行する予定であった修復工事であったが、失業対策に有効であることに目を付けた朝廷により、魚住泊を管理する播磨国衙への資金援助と、播磨国司への工事資金供出が命じられた。
貞観九(八六七)年四月三日、鶴見山の噴火の沈静化を祈願し、豊後国司に、鶴見山に奉られている二柱の神への祈りを捧げる祭りを執り行うよう命令。また、大般若経の転読も同時に行うように命じた。
この火山を神とする祈りが効果を持ったかどうかはわからないが、少なくとも、鶴見山の噴火はこれを最後に収束する。ただし、火山はともかく、火そのものへの効果まではなかった。
翌日、京都で大規模な火災が起こったのである。
貞観九(八六七)年四月四日の夜、大内裏と道を挟んで建っている民家で火災が起こり三〇軒以上の建物が消失した。内裏への飛び火は食い止めることができたが、内裏の目の前で起こった惨劇に、応天門炎上の記憶を呼び起こした者は多かった。
火山の神を鎮めるよう祈らせたら火災となったということは、天の何かしらの印が現れた結果と考えた者が多かったのである。特に、律令派の残党は、善男らに向けられた「冤罪」に対する天の裁きであると主張した。これは律令派の権力回復にとって絶好の口実であった。
この動揺を抑えるために清和天皇が目をつけたのは、現在『葵祭』と呼ばれることもある『賀茂祭』である。
賀茂祭自体は平安京が誕生する一〇〇年以上前から続いてきた祭であり、この当時も毎年開かれている恒例の祭であった。ゆえに、賀茂祭が例年通りに開催されたことなどわざわざ記録に残らない。記録に残るとすれば開催されないときのほうである。
御霊会(ごりょうえ)に民衆の動揺を鎮める効果があることを清和天皇は知っている。そして、御霊会の開催に見事な手腕を発揮した基経もいる。そして、時期はちょうど賀茂祭のタイミング。しかも、賀茂祭は御霊会と比べものにならない歴史と伝統と格式を持っている。
となれば、賀茂祭にかつての御霊会のような動揺の沈静化を期待することもできる。
この結論が貞観九(八六七)年の賀茂祭である。四月一六日に開催された賀茂祭は、これまでにない規模のものであった。現在の賀茂祭の諸々の行事のうちのいくつかは、このときの賀茂祭を主催した基経のアイデアに由来する。
清和天皇の政策は高負担高福祉に主軸を置いている。
良房が福祉を切り詰めてでも低負担にこだわったのは、負担を減らすことが国民経済を上昇させるのに有効であると確信していたからであり、治安の悪化もやむを得ない副産物であると考えていたからだが、そのための低福祉を喜々として受け入れる者は少ない。自分の利益が増えることを望まない者はいない。ただ、その裏返しである高負担をより嫌悪しているから低福祉を受け入れているだけである。
だから、負担が変わらない、あるいは、自分とは関係ない赤の他人の負担が増えるだけであると判明している状態で、自分の利益が増えるならば、高福祉を誰もが歓迎する。
その最も簡単な形が物価。
貞観九(八六七)年四月二二日、清和天皇は京都に常平所を設置した。常平所とは、国で備蓄しているコメを安値で売る施設である。
清和天皇が定めた常平所での販売価格は、コメ一升で八文。ただし、支払いは饒益神宝に限るとするものである。
公定価格ではコメ一升を一四文する決まりであったが、需要と供給のバランスはそんな価格を許さず、この時代の市ではコメ一升が四〇文にまで値上がりしていた。その状況下で一升八文でのコメの供給である。支払いに用いる貨幣が限定されるという制約はあるものの、定価のおよそ半分、市場価格と比較すれば五分の一という超大幅値引きでコメを買えるとあって、この知らせを聞いた民衆は常平所に殺到した。
清和天皇の想定していたのは、凶作でコメの値段が上がっているため貧しくてコメが買えない人でもコメを買えるようにするというものである。
だが、これは清和天皇の考えた成果をもたらさなかった。結果から言うと失敗したのである。
コメがいかに重要な農産物であろうと、貨幣で売買される商品である以上、価格は需要と供給のバランスから逃れることはできない。
需要と供給のバランスで決まっている価格を政策でもって無理矢理下げたとき、恩恵を受けるのは誰か? 一般的な考えでいけば、高すぎるために買えずにいた貧しい人ということになるであろう。理論上、それまでは値段が高くて買えなかった人でも買えるようになるのだから、物価の引き下げは貧困向けの福祉として実にわかりやすいように見える。
ところがこれは間違っているのだ。
物価が下がって喜ぶのは働いていない者だけで、額に汗して働いている者の場合、むしろ、物価は上がるほうが喜ばしい。それは、物価の上昇が売上額の向上も意味するからであり、売上額の向上は収入の増加と連動するからである。逆に、物価が下がるということは売り上げが減ることを意味し、売り上げの減少は収入が減ること、つまり、より生活が苦しくなることに直結する。物の値段が上がったとしても、収入も同様に増えているならば生活を苦しめることにはならないが、収入が減ってしまっては、いかに物価が下がっても生活は苦しくなるのは今の日本を見れば理解できる。今の日本を襲っているデフレでの物価安で喜んでいるのは働くことなく一定量の収入が保証されている者だけあり、まともに働いて、売り上げが収入に連結している者にとっては、物価安などという現象は喜んでいられない現象である。
コメの値段が上がっているということは、コメを買う者にとっては生活が苦しくなることを意味するが、コメを栽培する者にとっては生活の向上を意味する。作れば作るだけ利益が増えるのだし、天候という運の要素もあるにせよ、より多く働いた者がより多くの利益を得られるということである以上、ここで物価を力ずくで下げさせられるということは、懸命に働いた結果を無に帰させられてしまうこととなる。
それでも国に出すコメというのはそもそもが税であるから値段に関係ないし、納めた税が正しく使われ、その結果、生活に困る人が楽になるというのならば許容できよう。
だが、物価の強制的な低減はそんな喜ばしい結果など用意してくれない。
コメの値段が高いので買えない人がいるのは事実であるし、コメの値段を下げればこれまでは高くて買えなかった人が買えるようになるというのも事実だが、安くなったコメを買おうとするのはこれまでコメを買えなかった人だけではない。これまでもコメを買えていた人にとっては、より多くのコメを買えるチャンスが到来したということである。
コメの市場価格がコメ一升につき四〇文であるとき、八〇文持っている人は二升買えるが、一〇文しか持っていない人はコメを買うことができない。しかし、清和天皇の定めたコメ一升につき八文という物価になると、一〇文しか持っていない人でもコメを買えるようになるだけではなく、八〇文持っている人は一〇升も買えるようになる。
食料としてのコメの需要は、金持ちだろうと貧しかろうと大差ない。一〇文の人も八〇文の人も同じ家族構成であり、両家ともコメ一升で家族一日間の食事がまかなえるとした場合、一〇文しか持っていない人は買えたコメを食べるだけであり、手元に残るのはコメを買った余りの二文のみである。一方、八〇文持っている人は、コメ一升を食べて、残る九升を手元に置いておけることとなる。八〇文の人は今まで二升買えていたので、もともと一升を食べて、残る一升を貯蓄に回していたのが、常平所のおかげで今までもより多くのコメの貯蓄ができるチャンスとなる。
それでもコメが無制限に存在するならば問題ない。だが、残念ながらコメは無限ではない。売れるコメが一升しかなく、持てるカネの全てをコメ一升の購入のためにつぎ込めるとすれば、まともな商売人ならば、一〇文しか出せない人ではなく四〇文を出せる人に売るであろう。逆に、コメが一〇〇升あり、このまま売らないでいたら丸々大損になるというとき、四〇文出さなければコメを売らないなどと考える商売人もいない。一〇文しか出せない人でもコメを売ろうとするし、他のところでは一升を五文で売っているからそちらで買うと言われてしまったら、今度は一升を四文で売るといった対策をとらなければならない。
物価が上がるということは需要に対して供給が少ないということであり、それは不足という現象で目の前に現れる。共産主義社会では店の前に人が行列をなすという光景が展開されていたが、それは供給量が少ない上に物価を低く抑えていたからである。結果、物不足が常態化して、ただでさえ少ないモノがよりいっそう買えなくなったというのが共産主義の犯した失敗の経済政策の一つである。
常平所で起こったのも同じことであった。
コメが安く買えるというのはあくまでも制度であって、コメが無限に安く買えるわけではない。需要に見合うだけのコメがないのだから、コメが尽きた瞬間、コメの廉価販売は終了する。
それは誰もがわかっているから、終了する前にコメを買おうと尽きることのない行列が延々と続いた。それも、貧しさから買えない者だけではなく、市場価格でもコメを買える者が行列に並んだ。
これは何も、ケチだからという理由だけではない。転売を考えた者が多かったのだ。
常平所以外でもコメの売買は存在する。常平所以外では自由価格なので需要と供給に基づいてコメが売り買いされる。
こうなれば、常平所でコメを買っておいて、常平所のコメが尽きたら市に出向いてコメを売ろうと考えた者が出たとしてもおかしくない。先ほど例に挙げた八〇文の人は、余った九升のコメを持って市に出向いて、七二文で買ったコメを、その五倍、三六〇文で売ったであろう。そして、やはりコメは高いままであり、貧しい人には手が出ないままという状況が続く。
このあたりも今の社会と同じである。品不足は生活に不便をもたらすだけではなく、誉められたものではないビジネスが登場する。コンサートや試合のチケットをネットで転売するのがいるが、それは一〇〇〇年前のこの時代でも同じだった。
清和天皇はコメの買えない貧しい人のことを考えて常平所を設置したのだが、待っていたのは、コメの買えない貧しい人はやはりコメを買えず、コメの買える余裕のある人がさらに儲けるという、もっとも望まない結果だった。
清和天皇のこの政策に基経は何もしなかったのだろうか?
結論から述べると反対はしていた。
反対していたのは基経だけではない。清和天皇と会見を許される上位貴族のほとんどは清和天皇の政策に反対であった。実効性が乏しく清和天皇の述べるような結果など得られないと一丸となっていたと言っても良い。
しかし、常平所は清和天皇自らが立案して展開した政策である。貴族がどれだけ反対しようと握りつぶされ、強引に挙行された。
それがこの結果である。
清和天皇は現実から目を背けることはしなかった。失敗は認めたのである。しかし、現実を素直に受け入れる勇気まではなかった。失敗した理由を他に見つけようとし、常平所は正しい政策であったと最後まで主張。基経ら貴族の反対が正しかったことは最後まで認めなかった。
こうなると議論が成立しなくなる。
貴族全員の意見を募っても天皇の意見が優先されるのだ。その上、天皇の意見でも足りないというとき、清和天皇は太政大臣藤原良房、左大臣源信、右大臣藤原良相の名を出した。三人ともここにいない以上、本当に清和天皇と意見を同じくしているか証明のしようがない。
基経は自分の養父が清和天皇と同じ意見を持っているとは全く考えなかったが、それを養父に訊ねることはしなかった。より厳密に言えばできなかった。
良房は基経を後継者に任命し、応天門の変を期に、事実上の藤原のトップの座を基経に譲って、自分は藤原の住まいを離れたところで静養している。清和天皇が自分の名を使った政務をしていることは知っていたが、それを咎めることはしていない。その代わりに、基経に基経自身の政治家としての力量の発揮を求めた。
良房の名を使えば無限の権力を行使できるだろう。だが、良房が求めていたのは自分が死を迎えた後にも続く権力構造であって、良房の名を利用しての権力行使ではなかった。
良房の名を利用するということは、良房が亡くなった瞬間に権力が瓦解してしまうのだ。そうさせないためには、良房ではなく、基経自身が権力を握って権力を行使できる体制を作ることが必要だった。
この基経が目を付けたのが陣定(じんのさだめ)である。天皇や大臣の出席の許されない陣定であれば、清和天皇の意見に左右されることもなければ、大臣の権威や圧力を気にする必要もない。その上、陣定の議決は一般公開されるので、政策に対する自分たちの意志を公開できる。つまり、政策の実施を朝廷という顔の見えない法人の意志ではなく、朝廷内の誰の意志なのかを示せるということとなる。
ただし、陣定の議の詳細が公開されるということは、それまでは朝廷全体への支持であったのが、これからは、民衆が天皇を支持して貴族を批判するようになるということもあり得るということである。民衆の支持を失った貴族の末路がどのようなものか、善男という例を挙げればすぐに理解できる。
民衆の支持をバックボーンとする者にとってはさほど問題とはならない。しかし、民衆の意志に反する態度で終始する貴族にとっては痛事である。自己の考えがいかに国民のためを思ってのことであろうと、政策実施の前段階から民衆の意志に反した発言したとなれば、民衆の猛反発を食らうこととなり、第二、第三の善男となってしまう。
それでも基経は陣定を選んだ。今の基経が実行できる最大の権力機関だから。
コメの値段が上がっているのは、カルテルでも結んでコメの値段をつり上げようとしているからではない。
コメの量そのものが少ないからである。
とは言え、安い外国産のコメを輸入できる現在と違い、コメの供給量を増やすには国内のコメの生産量を増やすしかないのだが、肥料とか、より災害に強い品種とか、そういう農業技術のない時代である。
その結果が神仏頼みであった。
前年の不作はもはやどうにもならないことであるが、今年こそは不作にならないようにするというのは執政者に求められること。清和天皇に求められたのは、この年の長雨対策。より正確に言えば、雨がやむよう祈ることであった。
清和天皇は文徳天皇と違い、神頼みや仏頼みに関心を持っていない。仕事だから仕方なくやるが、文徳天皇のように一心不乱に祈るようなことはなかった。だが、清和天皇は単なる若者ではなく、この国を統べる天皇である。神仏の加護を求める民衆の声を無視して自身の現実主義を貫くようでは執政者として失格。それがどんなに効果のないことであると考えていても、民衆がそれを求めているなら、その要求に応えるよう努力するのは執政者の義務である。
貞観九(八六七)年五月三日、清和天皇の主催する祈祷が執り行われた。主題は雨の止むこと。ただし、これは効果がなかったようで、翌五月四日には大雨による洪水が起こっている。そこで、五月一〇日には六〇名の僧侶を紫震殿に集めての三日間の大般若経の転読が行われた。
貞観九(八六七)年五月一〇日という日は、大般若経の転読以上に重要な命令が出された一日でもあった。
きっかけは通貨供給量の不足という報告である。
市場に出回る貨幣の絶対量が減ってきているという報告が挙がってきたのだ。そして、その理由は貯金であると結論づけられていた。そのため、以後は貯金を禁止するというのである。要は、カネを貯め込まずに使い切れということ。
もっとも、この命令は失敗している。と言うのも、これより後の時代でも、大金を積んで役人や貴族の地位を買った者がいたからで、このときの貯金禁止令が以後も有効であったらこんな行動など起こせない。
ちなみに、この時代、ある程度の地位までであれば現金で買うことができた。現在の感覚で行けば賄賂だの裏金だのといった犯罪だが、この時代は法でも認められた正当な手段であり、役人がさらに出世すること、役人からステップアップして、外従五位下という最下層ではあるが、貴族となること、さらには無位無冠からいきなり高い地位の役人になることも、現金さえあれば可能であった。ただし、そのための額は一定ではない。あらかじめ空席を用意した上での競売になるので、自然と金額はつり上がる。
一見すると、これはとんでもない悪法に見える。だが、ちょっと視点を変えればそんなにひどい悪法には見えなくなる。
それは、この時代に大量の現金を持っているのは誰かということ。宝くじなんてある時代ではないから、何もしないで大金を一瞬にして手にできるわけなどない。誉められる方法か否かという違いはあるにせよ、金儲けを計画しなければ大金など手に入らないのがこの時代である。ということは、この時代に大金を持っているのは一流の経営者しかありえない。
一人でカネを集められるわけなどないから数多くの使用人を雇わなければならないし、雇う以上、使用人の生活を守らねばならない。つまり、経営者としてある程度の能力を持っていることというのは、人を率い、人を操る能力を持っているということである。こうした才能を持った人材を採用できる、それも、予算をかけるどころか向こうからカネを持ってきてくれるのだからありがたい話であろう。
おまけに、地位に就いたあとに得られるのは名誉であって実利ではない。なぜなら、役人として受けとる給与以上の金銭を積まなければその地位が手に入らないのだからビジネスとしての旨味は少ないし、権力を笠に着て暴利をむさぼろうにもそこまでの権力が得られるわけではない。五位以上になれば貴族に加えられて地方官となれるチャンスもあるし有形無形の見返りも期待できるが、六位以下ではその特権もたかが知れているのが現状なのだから。
最終到達地点は確かに貴族であろう。だが、それは現実問題として極めて難しい。貴族になるための空席は滅多なことでは空かないし、空いたとしてもそれは有能な役人のために使われ、金額だけでどうこうできる代物ではない。それに、売り出される可能性があるのは外従五位下という貴族として最下層の地位だけ。この地位は、役人として四〇年以上懸命に勤め上げた者が定年間際の名誉のために就くか、あるいは、親が既に有力者である若者が貴族デビューのために就くかという地位であり、この地位のままでは、莫大な収入が期待できる地方官など無理である。外従五位下として数年間職務をこなし、地位を上げ、他の貴族との競争を勝ち抜いてはじめて地方官になれる可能性があるだけで、財力だけで外従五位下に就いたばかりの新人貴族が簡単に地位を掴めるほど甘くはなかった。うまくいけば有力者にとりいって未来を作り出せる可能性もあるが、同じことを考えている者は掃いて捨てるほどいるとあっては、財力の持つプラス要素など埋没してしまう。
朝廷が求めていたのは、権力を持った貴族ではなく、有能な役人であった。最悪、仮に無能であったとしても、大量の現金を納めさせるメリットは大きかった。
しかし、奇妙な現象である。
普通、通貨の供給量が減れば、貨幣そのものの価値が上昇するため、物価はさほど上がらないかむしろ下がる。無論、貨幣の価値以上にコメの価値が出ているという考えもできるので何とも言えないが、現象としては珍しい。
だが、この報告の訴えの中身を見ると、あっけなく結論が導ける。
「貨幣を溜め込む者が多く、市場に貨幣が出回らないため、役人の給料が払えない。」
これが今回の報告だった。
何のことはない、朝廷の財源不足である。貨幣そのものが減ったのは遺跡から発掘された通貨の絶対量の少なさから、そして、希少価値ゆえに饒益神宝が現在の古銭市場でかえって高値で取引されていることから事実として認めるにしても、それは役人に支払う給与不足の正体ではない。
それより問題だったのは予算不足のほうである。
良房の頃はそんなことはなかった。ギリギリではあるにせよ最低限の支出は保証していたから、役人たちは日々の勤務にも安心できていた。
ところが良房がいなくなり、清和天皇の大盤振る舞いが始まり、財源不足を埋めるための増税も始まった。
と同時に、役人の給与が遅れ始めた。
どんな企業でもそうだが、経営が怪しくなってくるとまず給料が怪しくなる。人件費削減のために採用を控えたり、人を解雇したり、給与を据え置いたり引き下げたりするといった思い切った手段をとることもあるが、思い切った手段ができないところだと、人件費が捻出できなくなるから給料が払えなくなる。
この時代の朝廷は、貴族の人数については流動的であるが、役人の人数については厳密に定められている。確かに最適な人数とは言い切れないが、朝廷の業務を遂行するのに必要な人数が決まっていて、死亡による欠員があるものの、基本的には一定の人数が役人として勤務している。その給与の額は決して少なくはないが、税でまかないきれない額ではない。
となると、二つのことが伺える。
一つは、清和天皇の財政が失敗したということ。支出を増やしつつ収入も増やそうとしたが、支出が増えただけで収入は増えなかったのだ。
二つめは、一時的な収入として見込まれていた地位の販売が減少した、あるいは無になったと言うこと。
考えてみれば清和天皇のこれまでの行動を考えれば不可解ではない。いかに法で認められていようと、カネで地位を買うなど不正としか考えられない。ゆえに、官職の販売が、少なくなるか、あるいは無くなる。また、あったとしても、それは大金をつぎ込んだだけの見返りが期待できる地位ではない。朝廷が求めているのは、現金と、権力の一端を担う有能な手足であって、権力を操る頭脳ではない。しかし、出資者が求めているのは権力に操られる手足になることではなく、権力を操る頭脳になることである。
これでは、カネを出そうなどという気を起こすわけがない。いかに名誉であろうと、金持ちというのは実利がなければ動かないものである。
財政危機が役人の給与遅延に及ぶぐらいであるから、その他の必要支出が満足行くものであったなど考えられない。実際、日々の安全を守るような支出ですら出なくなるという現実がこの直後に起こっている。
簡単に言えば、治安問題のさらなる悪化。
治安問題というのは警察力を強くすれば解決するというものではない。一人二人の強盗であれば警察力でどうにかなるが、数百、数千となると警察力ではどうにもならない。だいいち、海の外からの侵略勢力となると警察でどうこうできるものではない。たとえそれが強盗と同じ行動を伴うものであっても、戦争は全ての犯罪を許してしまうのである。ゆえに、国の安全を確保するためにはある程度の武力、「暴力装置」とか「力の組織」とかいった集団が必要となる。平和を求めるために「暴力装置」を無くしてそれで平和を満喫できるとすれば、それは周囲が理解ある文明国だけで囲まれているケースに限られる。日本という国は二〇〇〇年以上の歴史において、ただの一度としてそのような恵まれたケースに巡り会えたことなどない。
良房は決して潤沢とは言えない財政の中で、治安の安定と侵略からの回避を模索すべく、武士という新たに誕生した集団に目を付けていた。この時点ではあくまでも武装した農民であり明確な身分ではなかったが、集落に欠かせない存在であり、決して異質な存在ではないと認識していた。武力が全ての集落に配備されていることは、集落の治安を安定させるだけでなく、国の外からの侵略を食い止める効果を持っていると考えたのである。
一方、清和天皇は武士を認識していたかどうか怪しい。後の清和源氏の始祖なのに、武士という存在を大して重要視していなかったのではないかとさえ考えられる。新羅からの侵略計画があると聞かされた清和天皇がしたのは、武士の活用ではなく、清和天皇らしからぬ神仏頼みであった。
本来ならば国の武力で解決すべきところなのに予算がそれを許さない。
予算不足で対応するために良房が活用した武士も清和天皇は考慮していない。
結局は、とれるべき手段が神仏しかなかったということである。
清和天皇が頼りにしたのは四天王。貞観九(八六七)年五月二六日、清和天皇は四天王像を五セット造らせ、それを、伯耆、出雲、石見、隱岐、長門の五ヶ国に置かせた。これらは新羅に最も近いところである。
この時代の治安問題はやはり新羅なのである。新羅を抑えることができなければ安全もないし、日々の生活の保障もない。新羅対策は新羅が滅亡するまで日本の最大の懸案事項であり続けた。
なお、治安悪化の責任をとるとして藤原氏宗が左近衛大将の辞意を表明しているが、これは却下されている。
治安の悪化とは言うが、厳密に言えば今年も去年と同様の悪い状態が続いているのであり、去年と比べて今年が悪化なっているわけではない。つまり、治安の状態という点では一定している。
そしてもう一つ、京都に住む庶民の生活も、良くなっているわけではないが、去年と比べて悪化しているというわけではなく、やはり一定している。
貧困を減らす方策を全く実施していないわけではないし、治安の改善の方策だって実施している。問題は、それが結果を生まないこと。
この時代、貧困と治安悪化は無限に再生産されていた。
一般に、平和で発展した社会になればなるほど、一人の女性が生涯に産む子供の数が減る。セックスよりも楽しい娯楽があるし、少なくとも働いている間は、子を産まなくても、さらには独り身であっても生活に困らない。
一方、この時代の農村はそれと真逆の社会である。セックスより他に娯楽はないし、そもそも独り身ではまず生活できない。夫婦となり、子を産まなければ、それも数多く産まなければ田畑を耕す暮らしが成り立たないのである。耕作機械などないし、農業技術にしろ肥料にしろ現在よりはるかに乏しいこの時代、頼れるのは人間の労働力しかないのだ。田畑に数多くの労働力を投入してはじめて収穫が期待できる以上、ある程度までであれば労働力は多いほど良い。
この時代は一人の女性が一〇人以上の子を産むことも珍しくはない。こうなると、幼児死亡率が高いとは言え、これだけの子を産めば成人にまで育つ子もたくさん現れる。そして、成長した子を労働力としてカウントすることではじめて、両親は田畑を耕す生活を期待できる。
しかし、いかに労働力が多いほど良いとは言え、田畑の数には限りがある。いくら新しい田畑を開墾しようとそこには限度がある以上、田畑の収穫で養える以上の労働力が誕生してしまったら、とれる手段は二つしかない。全員で不足に耐えるか、一部の子には田畑を継がせずに追い出すかである。
こうして、生活できなくなる者が数多く現れる。生活できないゆえに、都市に流れて貧困生活をおくるようにもなるし、生きるための犯罪に手を染めるようにもなる。村人全員で強盗となり不足を満たそうとすることもあるし、村から追い出された者が流浪の強盗となって各地を荒らし回ることもある。
生活するための多産が、生活を壊す元凶にもなっているのだ。
だからと言って、多産を止めさせることはできない。何しろ農民には生活がかかっているのだ。特に、自分たちの村を守れているおり、生活もできているところでは、その村を追い出された者が村の外で問題を起こしていようと気にも止めなかったし、このままではさらなる治安悪化と貧困を生むと説得しても無駄であった。
なぜか?
治安悪化と貧困は日本全体の問題ではなく、都市部に偏在する問題だったからだ。
古今東西、貧しい者が流れ込むのは都市と相場が決まっている。それは、都市であれば貧しくても生きていける可能性があるからである。
そして、一般的なイメージとは逆に、豊かな者は都市を出ていく。同じ財を持ち同じ収入が保証されているのであれば、都市に住むよりも郊外や地方に住むほうがより上質の暮らしを過ごせる。物価も安いし、住まいも広く作れるのだから、都市の中に住み続けることに意味はない。都市であればあるほど何でも手に入るし自由な空気も体験できるが、その代わり、狭い住まいと高い物価に苦しまなければならない。今の日本でも、東京の都心に住むよりその周辺の郊外に住む者のほうがより安定した暮らしをしている光景など珍しくないが、これは古今東西よく見られた一般的な光景が展開しているだけのことで何ら珍しい話ではない。
ところが、この郊外の暮らしを軽く考えている者が多い。この国のおよそ歴史書に分類される書物には、それがどんな時代について扱った作品であろうと、貧しい農村に住む貧しい農民という決まり切った姿が描かれており、そうでない歴史書を捜すのは極めて難しい。つまり、都市のほうが豊かで、農村、すなわち郊外や地方が貧しいと一括する。
だが、果たして本当にそうだったのかと考える。
『北家起つ』でも記したが、その地域の歴史が千年以上もの間に渡って連綿と続いている集落というのは日本中のいたるところに存在する。ということは、貧しい暮らしであろうと、乏しい収穫に苦しもうと、そこに暮らす人がいたのだし、世代は延々と受け継がれ続けてきたことを意味する。貧しかろうと、苦しかろうと、その集落が存在し続けたということは、その集落で生活でき続けたということ。贅沢三昧ではなかったにせよ集落に生活ができていた農民は存在し続けたのだし、苦しかろうと集落に残って生活ができた農民がいて、集落が成り立っていたということである。
この農村の暮らしに耐えきれなくなった者の逃れる場所が都市だった。逆に言えば、農村で生活できなくなった貧しい者が都市に逃れてきたのであり、農村には比較的豊かな者が残っていた。
貧困問題と対策が都市に集中していたのは、貧しさが都市に偏在していたからである。たしかに農村には最先端の都会の流行はなかったが、農村は都市ほど貧しくなかったし、貧しくなった者を淘汰することで農村全体の質を維持できていた。つまり、農村で働き続け、農村に住み続けている限り、都市では体験できない豊かな暮らしを安定的に確保できていたのである。
これでは都市に貧困を押しつけるだけではないかと考えたならば、都市と農村とに関する大問題を一つ提示しなければならない。その上で、貧困の押しつけとなお考えるのか、と。
それは、農村が都市のための生産も行なっているという一点である。
実際、農村は都市が無くても困らないが、都市は農村無しには成り立たないのである。第二次産業、第三次産業が隆盛を極める現在であれば、都市にも産業があり、都市の生産を農村が受け取るという光景も当然のようにあるが、第一次産業が圧倒的大多数のこの当時、都市は農村の生産を受け取るのみで何も提供してはいなかった。
これは農村の立場からすれば奪われているということである。税という形にせよ、市での売買という形にせよ、農村は都市に渡すのみで、都市からは何も受け取ってないと考えた。我々は都市のために日々働いているのだから、貧困も都市が引き受けるべきではないかというのが農村の言い分であり、この一点は決して譲れるものではなかった。
朝廷としても、地方からの貧困の押しつけを快く思っているわけはなかった。その回答が、都市に貧困を押しつけることの責任をとらせるための農村に対する課税強化である。農村が放り投げた貧困対策を実施するのだから、農村に相応の責任を取らせるというのが清和天皇の理屈である。
ただし、結果から言うと失敗した。
『応天門燃ゆ』でも記したが、国司というのはだいたいが五位の貴族、まれに四位の者が国司となることがある程度である一方、土地の所有者は三位以上の貴族や、それに匹敵する寺社であることが多い。となると、国司は土地の所有者から税を取り立てることができない。
善男はたしかに追放されたが、律令派の貴族が全滅したわけではない。伴氏や紀氏の貴族を大量に追放したことはたしかに律令派の貴族にとって大痛手であったし、藤原良相の事実上の引退は最後の砦も突破された感もある。しかし、律令派の貴族が一人残らずいなくなったわけではないのである。ゆえに、律令派の有力な資金源である土地の名義はなお残っていたし、国司に圧力を掛ける貴族だって多く存在した。
いや、問題は律令派だけではない。良房派の貴族もまた、律令派の貴族と同様の資金源確保に乗り出していたのである。こちらは少なくとも自分で開墾した土地の所有であったから堂々と土地の所有権を主張できたし、上限がないために莫大な土地の所有者ともなれた。そして、こちらもまた国司に圧力を掛けるという一点では律令派と変わらなかった。
律令派とも良房派とも与しない貴族もまた、この流れに乗った。こうした貴族は中央での出世を諦め、その代わりに地方で裕福な暮らしをすることを選んだのである。後の武士の名字に「源」や「平」が多いのも、貴族となった元皇族が、ただ皇族と連なる家系であるというだけでは中央での出世が果たせず、出世を諦めて地方に流れた者が数多くいたからである。
こうなると、律令派も良房派も、そのどちらでもない者も同じ結論を呼ぶようになる。
荘園の成立。
国にとっての荘園の最大の問題点は税が納められなくなることである。
荘園とは一にも二にも税から逃れるための仕組みであり、税を納めるようでは荘園ではない。
律令で定められた税率は低い。しかし、支出に対応する税収を求めるとなると律令で定められた税率ではどうにもならなくなる。ゆえに、律令以上の税の徴収となる。
だが、税を徴収しようにも、大量の収穫を得ている農村は有力貴族の所有する土地を耕す農村であることが多い。
そのため、貴族の庇護を受けていない土地、例えば今なお残る班田などに負担を背負わせるしかない。
以前より上がった税率に頑張って耐えてもいつかは限界が来る。そのとき、班田であれば土地は放棄され、私有地であれば土地の持ち主はその土地を有力貴族に差し出すこととなる。
清和天皇は税率を上げた。だが、返ってきた答えは税収の減少である。増税をして税収が下がってしまうことは珍しいことではない。
増税をして税収が上がるのは、増税することによってこれまで納税から逃れていた裕福な者に税が課されるときのみであり、今まで負担を引き受けさせられていた人、つまり、とりやすい人に対してさらなる増税を課すと、例外なく失敗する。