小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑬ ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下一部に暴力的な描写があります。
ご了承の上お読み進め下さい。
タオが微笑んで、皿の上の、煮込んだ鶏肉を指差して、…あなたはわたしを愛していますね?
タオの眼差しはささやきかける。
ハオはその音声を、はっきり耳に聴いていた。
食後に、ハオはタオを連れて、階下に下りた。一階の居間は、居心地がよかった。日当たりはよく、そして、タオたちベトナムの熱帯の女性たちが、すがすがしい日当たりをなどかならずしも求めていないことも知っていた。
死体が、そこにあることを、ハオに告げられていたわけでもないのにタオは、中庭を見せ付けた壁一面に広く開かれた窓から眼をそらした。恥らうように。
ソファのうえで、座った自分の膝の上にハオを抱きかかえて、やがて、…あなたは、と。タオのその眼差しはハオに探りを入れていた。あきらかに、あなたは、…「何を、して欲しいですか?」
と、それ。
逡巡が、無造作に曝されていた。
彼女は、明らかに、眼の前の男が、何もしないでいる自分に添い続けていてくれるものだという確証を、獲られないでいる事態に倦んでいた。
彼には、なにかが与えられるべきだった。…そう。
と。そのあまりにも短い、一音節なのか二音節なのか、長音のせいであいまいに引き伸ばされて仕舞った音声が、ハオの耳の中だけに木魂して、彼女が、なにもできはしない事など知っている。
なにも知らず、そして、ただ、ハオのためだけに彼女はおびえていたに違いなかった。
ハオが自分を棄てることが、自分が生きていけなくなって仕舞うことだという、そんな事は自覚されてさえしない。タオは、何の見返りもほどこしてやらない自分が、いつか、ハオに見棄てられるに違いないことを確信し、そして、そうなって仕舞ったときの、ハオの余りの孤独を歎いた。そうなってはならなかった。だから、彼は何かを、どうにかし自分から受け取るべきだった。
さまざまな、いくつもの、自分の飢えを満たすために捧げられていた屠殺の、その代償として。
ハオが腕に自分を、いきなり容赦もなく抱いたときに、タオは、彼女が数日前に眼にしたハオの胸の、あまりにも女性的で、ひたすら懐かしいふくらみを想った。彼女は想起した。いまだに自分には与えられておらず、そして、懐かしく、美しいそれ。
それは美しくなければならない。
海も。空も。なにもかも。…与えるもの。そこに生み出されたものに、お前は生きているのだと、その命の自覚を与えて仕舞うもの。
咀嚼され、咬みちぎられる屠殺された鳥ふくめ、あらゆるすべて。口に含まれた、それら、あらゆるすべては。
直腸類の営み。口から、肛門までのびた一筋の生存の根拠。内庭の横の、窓に開かれた空間は上空からの光をやわらかく、かつ、鮮烈に引き込むので、そこは美しかった。
その床の上に寝そべった、仰向けのハオの身体に、馬乗りになってタオは微笑んだ。…命?
口付けた。その、男性の
…それは、
唇に、…と。そして
…なに?
まばたく。タオは、息をひそめて、なにを?
…ささやきつづけるもの
と。…自分をあえて見つめようとはしない、その
…ぶんれつしつづけるもの
内庭に投げ棄てられたハオの
…わななきつづけ
それ。うち棄てられた
…ふるえつづけて
眼差しに、タオは、…なにを?
…からまりあう
して欲しいですか?と、その答えなど
…きょうぼうする
知っている。すでに
…きかくし
彼女は、あるいは
…はつげんさせる
そして、ハオの上半身を隠したそのTシャツを
…せいせい
めくると、タオは、その
…ふくせい
豊かなふくらみから眼をそらして、やがて
…さい
脱がせたハオの、
…たようせいのせいさん
ショートパンツの中から現れたものの、その
…あるいは
形態に戸惑う。あきらかに
…けっかてきな
それは隠されていなければ、…と。
…しっぱいさくのむれとして、そこに
隠さなければならないものなんだよ。…こんな
…めざめてしまったさまざまな
こんなもの…ね?
…たようなるぞうしゅく
あなたのものだってそうでしょう?だって
…ふえる
穢くもなければ美しくもない。ただ
…はんらんする
いびつなに過ぎない。要するに、
…みちあふれる
ね?
…もっと
ただのどうしようもない異物。なんで
…むごたらしいまでに
そうならなければならないのだろう、たかが
…いきていた
出来損ないの複製の製造のために、なんで
…わたしは、いま
愛のうちに目覚めなければならなかったのだろう?たぶん
…いきている。おびただしい
ぼくたちは劣っているのだ。哺乳類のすべては
…さいぼうの群れ、それらとともに、と、
他者の欲望を好き放題に利用する植物、あるいは樹木たちに
舌をふれた
その、舌が、ふれた瞬間に、タオはそれに舌をふれて仕舞ったことに後悔した。
彼は見つめていた。その
眼を閉じもせずに
庭の真ん中に棲息していたココナッツの、その
タオは、それを
それ
その形態を
樹木。その翳りの中に放置されたその
触れて仕舞いそうなほどに
みっつの
近付けられた
死体に、鳥たちが
眼差しのなかに
ほんのわずかな鳥、ほんの
タオは、それを、そっと
三羽の小さな鳥が、上空の差し込んだ光のなかに
確認して、ふれた。舌は
好き放題に、自分の
そこに、すでに
羽撃く体が意図もなくわななかせた
ふれていた、その、舌の
翳りを空間に、その
先端に感じて、自分が
瞬間ごとに穿ちながら、…舞い降りた
タオは
気まぐれな、その
永遠に穢れて仕舞った気がして、それ
鳥たち。見ていた。彼は
たしかに、それは救済だった。もう
その鳥たちのくちばしが、それら
迷わなくてもいい、と
死んだ肉片をついばんで、やがて
なぜなら
一瞬の迷いさえもなく飛び立っていくのを、いま
あなたは
…と、彼は、いま、
もはや、あなたは
いま、…と、葬られた。いま。…と、そして
永遠に、すでに
彼は、
薄汚れ、そして
想う。…いま、と、すでに
破滅し、もはや
つに、と、彼は、
あなたに未来などない。もう
…いま、と
完全にあなたは、破滅したのだと、そして
想う。あなたちは、…と
滅びた
いま…と
あなたは、その、いとおしい
彼は、…いま
男の肌にふれながらいま、あなたは
葬られた、…と、いま
失われた。永遠に
弔われたのだった、…いま
もはや
あなたたちは…と、いま
救いようもない。いまままさに
想う、いま、…と
わたしは救われた、と
あなたたちは、…と、そして
すべてが、いまや、ついに
…いま、庭は光を浴びる。それを、ハオの眼差しははっきりと捉えていて、感じられたそこにふれた、舌と、唇と、口蓋の、その、触感。
タオのために、ハオはそれを赦し、刺激に**していくもの。その、いたいけない少女の唇にふれるもの。
出産どころか、懐妊さえできない少女が、あえて口に含んだもの。声を立てて、ハオは笑いそうになる。チャンを乗せて、バイクに乗った。
ハオは、自分の背中にへばりつくように、身を預けきったチャンの体重を感じ、そしてその後ろにはタオが、華奢な体躯でチャンを押さえつけて、バイクにまたがっている事は知ってる。タオが体を拭いてやり、そして着替えさせたチャンの両眼に、引き裂いた白いTシャツで眼帯代わりに目隠しを撒いてやったのはタオだった。生地の、青い英語のラインの断片が、片一方の眼にだけ、青い涙を流しているような、そんなデザインをチャンの顔に与えていた。
チャンの手を引いて、クイの家を出るタオを、人々はかならずしも咎めはしなかった。サンは彼に群がった彼の友人たちに、タオ以外の何かについて盛んになじっていたし、警官にとっても、その日の地元の惨殺事件などもはや些細な田舎の出来事に過ぎなかった。
世界は、それ以上の惨禍につつまれていて、それ以降、人々の生活がどうなって仕舞うのか、彼らはいまだに何も知らなかった。唯一つ、彼らが知っていたのは、もはや彼らがかつて住み馴れた世界にいるのではい、と、そのたった一つの事実に外ならない。ハオは、ちいさくサンに手を振ってやったが、サンの眼には留まらずに、空は晴れていた。
澄み渡って青く、いまだに、見上げられたここの空には破滅の兆候など一切現れない。もちろん、やがてすべてを、飲み込んで仕舞うに違いない。北京、ニューヨーク、それら、いたるところに炸裂した核弾頭の群れ。よくも、と。
ハオは想った。いまだに地球がこうやって、まがりなりにも存続しているものだ、と。
バイクを飛ばす。
人気は無い。
学校も、会社も、休校になるか自宅待機になっているようだった。そして、人々は無造作に家の前に赤いプラスティックの椅子とテーブルを出して、暇つぶしにビール缶を開けていた。
明るい、なんの曇りもない風景だった。まるで、テト休暇の中の、ありふれた一日のような、と、そして、ハオが断りもなく、フエの家とは反対の方にハンドルを切るのを、タオはあえて沈黙のままに赦した。
時間なら大量にあふれかえっていたのだから、ハオの気まぐれをいまさら咎める必然性など何もない。タオは自分の額の辺りに、チャンの目隠しのしっぽが風にはためくのを、うざったく想いながら風の、耳にこすれて抜けていく間近な騒音のわななきを聴く。
海辺を走って、そして、岬の山の上の仏教寺院の下を通り過ぎて、見出される海の風景。
それなりのスピードを出してはいたが、対向車も何もないので、ハオは自分の速度に気付かなかった。そのまま、バイクを飛ばし、次第に上昇して行く岬にそって、そして粗雑なアスファルトがときにタイヤに与えた衝撃が、なぜか背後でチャンの喉をひくくうならせた。口にくわえていていたそれを、やがて力尽きるように、ふいに口から放したときに、タオの眼差しがあからさまな後悔を浮かべていたのを、ハオは見なかった。
その、傍らの中庭に、自分が見なかったことにしてやり過ごして仕舞ったみっつの遺体が、ときに鳥の小さなつばさに傷付けられながら、日差しを浴びている事は知っていた。
唇と、舌と、口の中に違和感があって、タオは一度咳払いをしたが、その音声さえハオの耳には届かない。タオは見ていた。あお向けて、そして、中庭の反対側、開け放たれた入り口の先の、路上、向かいの家の樹木が作った日陰を、ハオの眼差しが見るとも泣くうつろなままに捉えていたのを、あるいは、…なに?
と。
なにが見えますか?
と、そうつぶやく代わりに、タオは
あなたのその
唇に違和感を残したままに彼の横に寄り添って
見開いた眼差しにはなにが、いま
気付く。タオは、やがて
見えていますか?あるいは
自分がこの男に惹かれて仕舞うに違いないと、とはいえ
あなたは
たしかに、年齢は不釣合いすぎた。でも
何を見ていますか?なにを
…と。かならずしもおかしいわけではないに違いない。世界中
あなたは見出そうとして、そして
探せばいくらでも、こんな、親子以上に年を離れさせた
なにを?
恋人たちなどいるに違いない。女のほうが
なにを見ようとしていますか?あなたの
劣化して仕舞うのが早いから、と。
見出したいものはなんですか?まだ
想う、タオは、
まだあなたには、これ以上
女のほうが年下であるに越したことはない。たぶん
見たいものが在るんですか?
そんなことはだれもが
なにを
知っている、と、
見たいの?
つぶやく。
「どうしたの?」
どしまったか
その、しずかなタオの声に、ハオは、タオが自分に話しかけていたことに不意に気付いた。