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部室デス

食旅!(しょくたび!)第3話『水餃子』

2019.05.15 23:28

このエッセイはぼくが2016年ごろの世界をフラつきながら食べ歩いた時の記憶である。 

もう数年前のことなので、細かい記憶は正直定かではない。残っている写真と何よりも脳に刻まれた味の記憶でなんとなく筆をとってみた。 旅先で食べる異国の味は、その気候のなかで味わうと格別にうまいものだ。

生きることは食べること。

生きることが=旅することである私には、旅すること=食べることだ。 食べることは、もちろん大好きである。


ここでご紹介するのは、どれもぼくの心を打った食事の数々。

とはいえ、一人旅バックパッカーの貧相な食生活のなかの話だ。

スパイスがわりに少し他のエピソードを交えて合えておいて、グルメな皆さんにはちょうど良いかもしれない。

少しでも皆さんに「世界の舌触り」を感じてもらえれば、嬉しい。


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中国の四川省の山奥に東チベットと呼ばれる地域がある。 

いまや少しずつ伝統文化が姿を消しつつある本場チベットよりもチベットらしさを残していると言われる場所。

幼い頃から思い描いていた魅惑と憧れのチベットに足をむけた僕は、正直興奮していた。

四川の中心都市 成都から飛行機にのり標高2500mの高地にある康定(カンディン)に飛び、 そこでおもいっきり高山病にかかった友人をつれて、やや高度をさげてたどり着いた町 丹吧(ダンパ)。

慣れない高山地帯の乾燥した空気に身体と心を揺さぶられながら大きな荷物を背負い、酸素の薄さに戸惑いながらぼくらは町を歩いていた。



標高が高いところにくると、もっと天が遠く感じるのはなぜだろう。

赤やピンクの髪飾り、明るい発色の帽子を被った民族衣装に身を包む人々が道のわきで露店を開いている。

にこやかな少年たちがそのわきを走りまわり、たまに僕らに目があうと恥ずかしそうに去ってゆく。

一緒に旅をしていた中国語を話す友人は、少年たちは中国語で会話をしているのだという。

年配の方が話す言葉はチベット語も混じっているようだが小さい子供達が話す言葉は中国語のみなんだとか。

ことばは精神の乗り物だ、といわれる。

宿で出会ったこどもの持つ教科書はすべて中国語だった。

失われてゆく心のあり方のことが、僕たちの頭の端っこにふわりと残った。


ずいぶんと町を歩き回ったぼくらの小腹がへってきたころ、タイミングよく『水餃子』の文字を掲げた看板が目に入った。

油っぽい料理が続き嫌気がさしていたぼくらは吸い寄せられるようにその店にはいる。

そこは表通りに面した路面店で、どうやら水餃子以外のメニューは無いようだった。

道路にむかってドアひとつない店からしばし街の情景をながめる。灰色の土埃をあげながら走ってゆくトラック。


乾いた高地の空気と連日の長距離移動が知らずに旅人の身体を蝕んでいたんだろう。

皿に山盛り運ばれて来た水餃子の爽やかさをぼくは忘れられない。

立ち上がる湯気。プリプリの皮。ひとくちほおばると中から溢れ出る肉汁。そして香草の香り。

皮の水気が、四川の油っぽい料理に疲れていた舌をやさしく癒してくれるようで 「おつかれさま」と労ってもらっているような気分になった。

付け合わせのタレが舌先だけピリリとさせて、熱々の水餃子を口に運ぶ箸をとめられない。


水餃子屋ではこばれて来たのは、「安心」だった。

旅先で食べたことがないものや、名前からまったく内容がわからない料理に挑戦する日々も楽しいが、食べ慣れたやさしい味に心洗われるときもある。


皿に残る水餃子からあがる湯気。その向こうにたゆたう、活気を取り戻した友人の顔。

「救われるような、親しみやすさ」こそが中華料理4000年の真髄のひとつなのかもしれない。