摂政基経 3.対新羅戦
新羅との戦線は膠着していた。
一方的に侵略を食らっているわけだが、上陸を許しておらず海の上での戦闘に終始している。また、海の上での戦闘も最近は行われることなく静まり返っている。
新羅の立場に立てば当然だろう。
侵略しようとしているのに、侵略されている側の抵抗にあって目的が果たせず、隙をみようにも警戒を解いていないのだから動くに動けない。新羅が頼みとした日本国内の海賊の動きは静かなもので、活動がゼロというわけではないが、武士たちが手強くてこちらも動くに動けない。
戦争を決意したものの、予想していた結果、すなわち、日本の降伏など考えるだけでも今となっては無駄な願望。かといって、侵略をなかったことにするのは国のメンツに関わるというわけで、新羅としては黙り込むしかなかったのだ。
一方の日本国内はどうだったのか。
対馬や壱岐への上陸は押しとどめていたが、被害はゼロではなかった。
それまで新羅から来襲してきた海賊に拉致された人は多かったが、それが新羅軍になっても状況は同じだった。
日本は拉致された日本人の救出を試みていたが、外交交渉においても、実力行使においても、どちらもうまくいっていなかった。
ただし、一つだけ日本の有利な局面があった。
新羅の孤立化である。
渤海も、唐も、新羅の日本侵略を正式に批判した。なぜなら、これまでの歴史で新羅が侵略を展開したのは日本に対してだけではなかったからである。渤海にも侵略しようとしていたし、唐へも海軍を派遣して海賊行為をさせたことがある。
その矛先が日本に向いたからといって、自国が侵略から免れるというわけではない。唐も、渤海も、新羅の侵略に被害を被っているだけに、このときの日本の抵抗のほうを支持し、新羅を公式に批判したのである。
とは言うものの、新羅に対する反抗とまでは至っていない。侵略されたから侵略し返すという形で被害者国が加害者国に攻め込むことはあるが、このときは、唐も、渤海も、そして日本もそういった行動を起こしていない。
起こさないのには理由がある。
まず、新羅に攻め込むメリットがない。
新羅が執拗に侵略を繰り返すのも、国外の敵を作ることで不安定な国内を一つにまとめるためである。逆に言えば、そうでもしなければ新羅という国は国内がバラバラになってしまうのだ。仮に攻め込んで新羅を滅亡させたとしても、そのバラバラな新羅国内を治める能力はどの国にもなかった。
しかも、そのバラバラを覚悟の上で新羅国内に手を出しても、攻め込む側には得られるメリットがない。農作物の出来も悪ければ、衣料や日用品の品質も低い。これでは税収の増大どころか、支配する国のほうが持ち出さなければ新羅の統治をできないのだ。それでも統治に乗り出すとどうなるか? これから一〇〇〇年後、日本は朝鮮半島を日本領として統治したが、日本は毎年国家予算の一割を朝鮮半島の維持に費やなければならず、それは大きな負担として国民生活にのしかかっていた。それは日本が朝鮮半島から得られる収益をはるかに越える莫大な支出であった。
貧しいところが豊かなところに攻め込んでいくのは意味がある。二世紀から三世紀にかけては日本が朝鮮半島に攻め込んでいたが、その当時は朝鮮半島に攻め込むことに意味があったからである。だが、この時代、意味があるのは朝鮮半島から日本に攻め込む方で、逆は全く意味がなかった。
人をさらうにしろ物資を奪うにしろ、侵略者の立場に立ってみると、人の少ない貧しい地域を攻撃するより、人の多い豊かな地域を攻撃するほうが、人道的立場はともかく効率としては良い行動となる。
この時代の日本でそうした地域を求めるとなると三ヶ所しかない。京都と難波と太宰府である。
その中で最上位に挙げられるのが京都。日本国内でもっとも豊かな地点であるし、何と言っても首都である。ここを攻め落とせば日本全土が手に入ったも同然になるのだから、新羅からすれば最大の攻撃目標となる。しかし、京都は海から離れているので、侵攻するとなると陸路を長距離移動しなければならない。
次に来るのが難波。こちらは海に面した港町で、この当時の日本の最大の動脈幹線である瀬戸内海の東端にあり、事実上京都の外港として機能している。そのためか、京都ほどではないにせよ富が集っており、攻め落とした場合に得られる利益は計り知れない。だが、この港に行くとなると、その前に瀬戸内海を横断しなければならない。これは、いかに海賊を手なずけていようと、海賊に対抗する武士を全て破らなければたどり着くことはできないということである。
ところが太宰府はそうではない。
玄界灘を超えて渡ればそこはもう博多港。そして、博多港から二〇キロ奥地に行くだけで太宰府の都市にたどり着く。新羅にとっては最も手っ取り早い攻撃目標であり、侵略するメリットのある地点でもあった。
新羅の襲来は対馬や壱岐を経由し、まずは博多にやってくるというのがこの当時の人の一般認識であり、五月の侵攻開始からこのときまで、新羅の軍勢の圧倒的大多数が博多を攻撃目標としてやってきていた。博多はあくまでも出入り口であり、真の攻撃目標はその奥にある太宰府である。
貞観一一(八六九)年一二月、日本国内での対新羅対策がさらに展開された。
攻撃目標とされることがわかっていて、何の手も打たないなどあり得ない。
ゆえに、太宰府の守りを固めることが最優先であり、太宰府の守りをさらに強めるために博多の守りを固めることが次に来て、玄界灘の安全を確保することがさらにその次に来る。
太宰府に務める者、そして、太宰府に住む者にとっては自らの生活のかかった大問題である。そのため、新羅対策としての太宰府防衛も太宰府からの陳情が主となっていた。
まず、かつては日本に帰化した蝦夷を指す言葉であった「俘囚」を博多に派遣するよう要請が出た。法の上での平等を謳って以後、日本の公的史料に「俘囚」という言葉は出てこなかった。
弘仁二(八一一)年の本州統一から五八年を経ている。世代交代も進み、かつて蝦夷であった者の子孫という意味で「俘囚」という言葉を陰で使う者はいたが、それは口にしないほうが良いとされる下品な差別語と考えられていた。
ところがここに来て「俘囚」という言葉が登場した。
意味するところは二つ。
一つは、新羅と接点を持っている可能性が少ないこと。
太宰府を守る人員を集めるのはいいが、その者が新羅と密通していたら元も子もなくなる。ところが、新羅と接触を持った海賊がいたように、一般庶民の中にも新羅と密通する者が少なからずいた。
現在でも、養ってもらっている日本に文句を言い、恩も義理もない隣国の利益を日本の利益よりも優先して、それで「進歩的」「国際的」と考え、自分は隣人に理解のある人間だとアピールするのがいるが、それはいつの時代も変わらない。
これは新羅にとって絶好のターゲットであった。こうした売国奴を利用すれば侵略もより容易に果たせるし、うまくいけば一滴の血も流すことなく攻撃目標を手に入れることができる。
それをさせないためには、新羅との接触の少ないと考えられる者を採用するのがより安全だった。
そしてもう一つ。こちらのほうが重要だが、この時代の史料に「武士」とか「侍」とかいう単語は存在しない。闘う者がいたことならば記されているのだがその者を特定する単語がないのである。武装して新羅に抵抗した者であっても「農民」とか「百姓」とかしか記されていないのだ。そして、「俘囚」というのもそれと並列の単語に過ぎなかった。
しかし、俘囚というのは祖先が蝦夷であった者を指す名詞であり、職業ではない。職業として記すとなるとやはり「農民」とか「漁師」になるはずである。
と考えて研究書を見てみると、面白い記録にぶつかった。
日本に帰化した蝦夷のうちの多くが、地域の警護役に武芸専門で雇われていたというのである。蝦夷は生活のために馬を操ることが多く、狩猟のために弓矢を操る能力も高かった。農耕生活に移行してもなかなか順応できない俘囚は多かったが、だからといって日本の外に出て行く俘囚は極めて少なかった。どんなに確認してもそうした俘囚の存在が確認できないのである。
となると、農耕生活に順応できなかったとしても日本国内で生きて行けたということである。無論、強盗や海賊など褒められたものではない方法で生活していた者もいたであろう。だが、わざわざ犯罪に走らなくても生活できる手段が用意されているとしたらどうか。
日本国内で生きていけるではないか。
本州統一を果たしたところで、蝦夷の侵入を食い止め続けられているわけではない。北海道に逃れた蝦夷の侵入も危惧しなければならないし、本州に残り一度は日本に同化することを選びながらも、やはり自由を求めて再び蝦夷となり、京都の朝廷に逆らう者が出ることも、そうした彼らが反乱を起こすことも危惧しなければならない。それでいて、東北地方に展開されている国の武力は少ない。一〇〇〇人単位に達することもまれで、通常は数一〇〇人単位であった。
これでは守れない。
国を守るだけではなく、村を、集落を、家族を守ることもできない。
にも関わらず、守れている。東北地方は他のどこよりも蝦夷の侵入を危惧しなければならないのに、少なくともこのときの治安の悪化や反乱と言った情報が残されていないのである。
これは、東北地方に暮らしを守る存在があったということである。ただし、オフィシャルな存在ではない。オフィシャルな存在なら史料に残っていなければならないわけで、残っていないということは、オフィシャルではない「力の組織」があったということである。
太宰府が求めたのは、そうした「力の組織」であった。ただし、オフィシャルではないから要請に対してその名称を記すことができない。ゆえに、東北地方で治安維持にあたっている「力の組織」である「俘囚」の派遣を求めるという形とならざるを得なかった。
このとき何名の俘囚が太宰府に派遣されたのか不明である。また、太宰府に派遣された俘囚たちが交代制で博多湾の二四時間途切れることにない警備にあたったことは記録に残っているが、どのような交代制であったのかの記録は残っていない。
ただし、俘囚を博多湾に配備させたことのメリットは大きかった。
それまでの日本の武力は、海上ではともかく陸上では歩兵が普通であった。馬を操る武人もいないわけではなかったが、それは主力ではなかった。ゆえに、徒歩や走りが移動手段となるが、それではどんなに頑張っても時速二〇キロが限度。侵略の連絡を受けて応援に駆けつけたとしても、博多から侵略の連絡を受けた太宰府が援軍を派遣し、援軍が博多に到着するまで最低でも二時間は必要となる。
しかし、このとき配備された俘囚たちは馬を操り、馬に乗って警備している。馬上の武人は歩兵よりも有利に戦えるし、素早く行動できる。現在の競馬では競走馬たちが時速六〇キロで走っているが、この時代の日本の馬はサラブレッドではない。しかし、それでも時速四〇キロは計算できるため、人間が移動するのと比べて半分の時間で行動できる。
単純に言えば、同じ兵力でありながら、馬を利用することで二倍の効率で稼働させることができるのだ。
侵略する側からすれば、これは厄介としか言いようがない。闘いづらい相手が陸上に増えただけでなく、その機動力もこれまでの倍なのだから。
新羅もただ闇雲に侵略を繰り返していたわけではない。日本の情報は逐次手に入れようとしていたし、内通している者、現在の感覚で言えばスパイからの情報収集も可能であった。そして、日本には「武士」という新たな武人たちが登場していて地域を守っていること、東北地方で活躍していた騎兵達は九州に集結していること、日本は新羅の侵略に徹底的に抵抗する意志を見せていることを知った。
これを知ったら結論は二種類しかない。侵略を諦めるか、侵略の質を高めるかである。
新羅が選んだのは後者だった。
俘囚を派遣した後、日本は切り札を投入することとなる。
貞観一一(八六九)年一二月一三日、かつての名将坂上田村麻呂の弟の孫であり、武芸に長けた武人である坂上瀧守を、右近衛少将、阿波国司、大宰少弐の三つの職に任命し九州に派遣。俘囚たちの監督に当たらせることにした。
先に、坂上家が輩出したのは、前線を駆けめぐるだけの武人と、武力とは無関係の文人であると記したが、坂上瀧守は前線を駆けめぐるだけの武人のうちの一人であった。自ら武器を操って前線を駆けめぐるのが得意で、軍を率いるのもこなせないことはない。しかし、貴族の一員でありながら中央での出世レースには何の関心も示さない。
こういうタイプは平時であれば扱いづらい存在だが、今は戦時である。
職業軍人が確立されておらず、軍事力を行使するには相応の貴族としての地位が求められる時代だが、障害はそれだけだった。基経は坂上瀧守に三つの役職を与えたが、それは全て、坂上瀧守が九州の前線に立って活躍できるようにという配慮であった。
右近衛少将となると国のオフィシャルな軍事力を扱えることとなる。扱うためには上司である左近衛大将藤原基経の許可がいるが、その点について問題はなかった。実際、坂上瀧守が九州に赴く際に、近衛府の兵士達を連れて行っている。
阿波国司であるが、これは阿波国に実際に派遣されるわけではなく、阿波国司としての給与を国から受け取れるということである。この給与は軍事費として活用できた。
最後の大宰少弐だが、これは太宰府のナンバー2になるということであり、こちらは阿波国司と違って実際に九州に派遣される。派遣されたあとは太宰府の中でかなりの権力を行使できる立場になる、具体的に言えば、太宰府管轄下の全ての軍事力を一手に率いることができるようになる。
これは全て、律令の既存の制度を流用しただけであり、戦時だからと言って特別な地位を用意したわけではない。これには律令派も黙り込むしかなかった。
貞観一一(八六九)年一二月二八日、坂上瀧守、九州へ向け出発。
翌年は新羅との決戦を片付ける一年になると誰もが考えていた。
新年の祝賀ムードもなく、貞観一二(八七〇)年の一月は全てが対新羅戦に向けて展開された。
一月一日、朝賀中止。天候が問題でも、喪中であるわけでもなく、新羅との戦争に専念するための自粛ムードの影響である。
一月七日、昇格発表中止。こちらもやはり自粛ムードの影響である。
ただし、一切の人事が止まったわけではない。一月一三日には、空席となっていた左右の大臣職のうち右大臣が埋まった。大納言藤原氏宗である。源融と藤原基経の二人が新たに大納言に昇格し、基経の補佐役である藤原良世がこのとき参議になった。朝廷中枢部の陣容が戦時体制へと移り変わったということであり、それは同時に、左右の大臣が不在というイレギュラーな体制から、少なくとも右大臣はいるレギュラーな体制へと移り変わったということでもある。
同日、人材だけでなく警備用の武具が現地に運ばれた。武具は太宰府だけではなく最前線ともなっていた壱岐にも届けられた。
停止されていた昇格と役職の付与は一月二五日にまとめて行われた。
このときの昇格、わずか二名である。少なくとも二〇名は昇格するのが通例であるのに比べれば異常なまでに少ない。
しかし、役職となるとこれが五五人に急増。しかも、うち四六名が地方官である。新羅からの侵略に対処し、前線を指揮する地域の責任者としての派遣であった。重要視されたのは地方官としての能力ではなく軍勢を指揮する能力。
このとき、前線中の前線である対馬に小野春風が抜擢された。
小野春風は家系図の上では小野篁の従弟にあたるが、互いの面識はさほど無かったと考えられている。小野春風の生年は不明だが、略歴を見る限り篁よりかなり歳下である上、東北地方に生まれ育ち、俘囚たちとともに武人としての訓練を積んだ青春時代を過ごしたために、貴族でありながら京都を知らずに育っていた。蝦夷の言葉も自由自在に話せるようになっていたことで東北地方の軍勢を率いることに関しては文句なしの経験を積んでいたが、貴族としての地位は全くない。
基経はその春風を貴族に昇格させ、対馬国司に抜擢したのである。
同じく貞観一二(八七〇)年一月二五日、貞観永宝の鋳造開始が決定された。
本心から言えばやりたくなかった政策であるが、このときの財政を考えたとき、戦争という現実を目の前にしては、一時凌ぎだろうと予算が必要だった。
そのため、新しい通貨を発行することが決まり、新貨幣鋳造毎の恒例行事である前の貨幣の一〇倍の価値での流通が定められた。
ただし、いつものように饒益神宝一〇枚で貞観永宝一枚であると決定され、即日流通が始まったのであるが、これがどれだけ流通していたかは少し怪しいところがある。これまでの新貨幣と違って、戦争という緊急事態に向けてという裏事情が表に出ていたのだから
急遽対処したのであろう、貞観永宝はデザインが稚拙である。表面は普通の貨幣のデザインに見えるが、裏面は何のデザインも施されていない。
そもそもの流通枚数自体が少なかったのではないかとする説もある。現在の古銭市場での貞観永宝の価値は、実は高い。ただし、それはデザインの素晴らしさからではなく、古銭市場に流通している枚数の少なさからである。
現存する枚数が少ないということは、当時の流通枚数も少なかったということを意味する。
それで困らなかったのかと考えても、都市の民衆と役人以外は困らなかったとしか言いようがない。
貨幣に頼れないと考えた者は以前より存在しており、平安京や難波、太宰府といった都市では貨幣経済が通常であったが、地方に出ると貨幣経済ではなく物々交換が広く展開されていた。物々交換でうまくいかないときであっても、コメや布地を貨幣代わりに使用する例が多く見られるようになっていた。
荘園においてはそれが顕著で、そもそも荘園は生活用品が全て自給自足できており、交易の必然性は低い。交易がないわけではないが、そこで使われる取引は物々交換であり、交換できないときの貨幣の代わりはコメや布地であって、銭を持っていっても何も売ってくれなかった。
荘園の持ち主に納める年貢だって物納が基本である。生産物を銭に変えて納めるケースも無いわけではなかったが、基本はあくまでもコメや布の物納。わざわざ銭に変えて納めるより、物納であるほうが確実で、かつ、税負担も少なくて済んだ。
貴族や寺院といった荘園の持ち主にとっても、価値が下がる一方の銭で納められるより、常に需要があり、価値も一定以上が保証され、貨幣であるかのように市場で取り扱われるコメや布地のほうが受け取ってありがたかった。
荘園の持ち主の元に仕えて給与を受け取る者も、銭で給与を受け取るより、コメや布地で受け取るほうがより確実だった。文字通りの食い扶持であるだけでなく、市に持っていって売ることができる。それも、銭では買えない品であろうとコメや布地でならば買えるのだ。
納める側も、受け取る側も、給与を受け取る者だって物納のほうがありがたいのに、わざわざ銭を仲介させる必要はなかった。
結果、このインフレの波を荘園に関わる者はやり過ごすことが出来たのである。やりすごすことができず被害をまともに被ったのは、給与を銭でもらう役人と、銭で生活している都市生活者である。しかし、彼らから不満の声は挙がっていない。何しろ、今のこの状況は新羅との戦争のせいだと誰もが知っていたのだから。
貞観一二(八七〇)年二月一二日、新羅との戦争で一つの局面を迎えた。
対馬に赴任した小野春風が拉致された日本人の救出に成功したのである。ただし、全員を救出成功させたわけではなかった。
小野春風は、救出した日本人の一人である卜部乙屎麻呂から新羅軍の様子を聞き取り、その内容を報告した。京都に届いたのが二月一二日なので、救出作戦はそれよりも前のこととなる。具体的に何月何日なのかを伝える史料はない。
聞き出した結果は以下の通りであった。
新羅軍の軍船建造が急ピッチで進んでいること。
軍船に乗る兵士たちの訓練も大規模に行われていること。
兵士たちはラッパも音色を合図に統率された行動をとれるよう訓練されており、この軍勢が相手となると日本にとって驚異となること。
この軍船の第一攻撃目標は対馬であること。これは、博多湾を直接攻撃するより中継地点として対馬を利用するほうが効率よくなるため、まずは対馬の領有を狙っているというものであった。
この知らせを受けた朝廷は、因幡、伯耆、出雲、石見、隱岐といった山陰諸国に武器を供給し沿岸警備を当たらせることに決まった。
さらに、二月一四日には、軍事費を捻出するために、一四人の皇族に源姓を与えて臣籍降下させた。このときは親王の地位に就いていない皇族を源氏にして皇族から外すというものであったが、これに文徳天皇の弟である道康親王が乗った。自分と自分の子も皇籍から外して源氏にしてもらいたいと申し出たのである。理由は同じで費用削減。ただし、この申し出は却下された。
貞観一二(八七〇)年二月一五日、清和天皇は八幡大菩薩への祈りを捧げた。
八幡大菩薩は天照大神に次ぐ格式を与えられていた信仰であり、元々は大和朝廷の守護神としてあがめられていた。国難にあったときこの国を救ってくれるという言い伝えがあり、清和天皇が八幡大菩薩に祈りを捧げたのも、この国難からこの国を救ってくれることを願ってのことである。
清和天皇の祈りの言葉をまとめると、新羅の侵略に加え、東北地方の地震や肥後国の水害、国内の海賊の跋扈、作物の不作といった問題を列挙し、ただちに沈静化するよう願い出るものである。そして、「日本は神の国であり、いかなる侵略も許したことはない」「新羅はその誕生から日本の敵である」「敵の船は海の藻屑と消してくれよう」とも述べている。日本は神の国であるという考え方、そして、神風により日本は守られるという考え方は、何も元寇の時に誕生した考え方ではなく、このときには既に誕生して広く使われていた考えである。また、新羅が日本の敵であり続けたというのもこのときの日本人に一般的に広まっている感情であり、清和天皇はその一般的な考えに乗って言葉を捧げたに過ぎない。
ただし、この言葉を新羅がどうとるか。
間違えても歓迎するような言葉ではないだろう。
侵略している相手が全く怯むことなく抵抗する意志を示すのみならず、自分たちを神の庇護のある国と考え、こちらを海に沈めてやると言うのだから。
とは言え、新羅がそれに反発を示そうにもまだ動けなかった。今のまま日本に攻め込んでいったら確実に負けるのである。拉致した日本人が奪還されたということは、奪還された日本人から情報が漏れてしまったということであるだけでなく、日本から攻撃を仕掛けられたとき、その攻撃が食い止められずに終わるということを示す行動でもあった。
貞観一二(八七〇)年二月二〇日、軍事費のさらなる捻出のため、皇族に与えられる給与の受給者数が定められた。その数、男子が四二九名、女子が二六二名。
この数に該当しない者は給与の受給対象者から外され、その分の給与が対新羅戦の軍事費に回された。
同日、商用で太宰府まで足を運んでいた新羅人に対し国外退去命令が出され、太宰府管内に住む新羅人については陸奥国への移転が命じられた。
これは新たな法を持ち出しての政策ではない。
まず、新羅の海賊が商人のフリをして日本にやってくること自体よくあることであった。また、海賊でもあり商人でもあるという者も多かった。ビジネスが成功すれば商人として取引をするが、失敗したら海賊となって略奪するのである。
それまでは明確に海賊と区別できたときだけ取り締まっていたが、これは頭を悩ませる問題であった。ボーダーラインが不明瞭で守りづらいのである。しかし、今は新羅との戦争中。新羅との交易そのものを断つというのは戦争状態にあっては当然のことであり、これで新羅海賊の対策はより容易になった。
また、日本への亡命を希望する者は日本国内への居住を許すが、その居住地は亡命元の国より遠い地域に限られるというのは弘仁格にも記載されていることでもあり、陸奥国への移転は既存の法の再確認という形を取っている。この法はかなり有名で、太宰府も厳密に守らせていた。その太宰府の命令を無視して太宰府管内という新羅に近い地域に住んでいる者の多くは、良くて新羅との密貿易、場合によっては海賊のダミーや新羅軍のスパイとなる。
民族だけを基準とする居住地からの追放という、現代社会では非難を受けること間違いないこの政策も、新羅との戦争を考えれば有効な政策であった。
何しろ、これを期に新羅軍は情報入手が閉ざされてしまったのだから。
貞観一二(八七〇)年三月一六日、対馬の前線で新羅と対峙している小野春風から連絡が届いた。
軍需品の不足である。
防具、衣服、食料の不足が顕著であったが、中でも、弓矢をよけるための防具である保侶衣と、食料運搬用の皮袋については一〇〇〇人分の不足という緊急事態であった。
この訴えに対する朝廷からの回答が届いたのは三月二七日。早急に必要とした保侶衣と皮袋に関しては太宰府に命じてただちに届けるようにさせ、その他の物資については春風自身に用意させるとした。そのため、小野春風を肥前国司とするという命令も飛んだ。無論、対馬を去って肥前国に向かえという命令ではなく、形の上で肥前国司を兼任させて給与を与え、その給与を対馬で不足している物資の購入費に回せという命令である。
さらに、小野春風の兄である小野春枝を陸奥国司に、同じ小野家の小野国梁を日向国司に任命した。これらは、春風が必要とする物資の供給元として、その土地に赴任している者に権限を与え、対馬の不足物資の供給を促すためである。
例えば、三月二九日には、小野春風から陸奥にいる兄に対し、陸奥国で使用している鎧甲を送るよう要請が出ている。この時代の鎧甲は牛や羊の皮で作られており、戦闘をすることが多かった陸奥は、同時に、鎧甲の一大生産拠点でもあった。
こうしてみると、このときの朝廷は、新羅との戦争であっても特別な法律を用意することなく、あくまでも現行法で対処しようとしている。法律の運用としてはイレギュラーな運用だが、法を特別に用意するわけでも、法を無視して行動するわけでもない。
これは基経なりの律令派対策であったろう。
律令派は戦時であろうと原理原則を徹底させていた。今が戦争状態にあることは理解していたが、戦争状態であろうと、自らの権力を弱めることは絶対に許さなかった。
戦時において迅速な対応をするには、現行法を無視してでも、即時に行動する必要がある。だが、それを認めては権力が弱まる以上、律令派の面々は絶対に認めない。だからといって、律令派を説き伏せていたのでは時間がかかりすぎるし、説き伏せるのに成功したとしても国内世論の一致は見られない。
だが、徹底的に律令を守り、律令の範囲内で行動するならば律令派は黙り込む。文句は言いたいが、文句の付け所が無くなるのだ。基経の養父である良房は史上はじめて律令を否定したが、その行動はかたくなに律令を遵守する行動であった。それは基経も同じ。律令の否定を叫ぶだけなら危険な考えではあっても何ら処罰の対象とはならない。処罰の対象となるのは律令に違反する行動をしたときである。
戦争をしているその最中は、いろいろと自粛ムードが広まることがある。それは国内に今がまさに戦争中であることを訴え、戦争のために国民生活の窮乏を受け入れてもらいたいという図々しい統治者側の願いからくるものと、今は戦争中なのだから我々国民が率先して窮乏生活を受け入れなければならないという、自分は特別であり他者の上に立つと自惚れているプロ市民的庶民の行動から来るものとがある。
この自粛ムードは、メリットもある反面、デメリットもある。
メリットは何といっても予算。
平和なとき、予算はなかなか必要なところに回せない。予算には限りがある以上、どこかに予算を回すためにはどっかの予算を削らなければならないが、それは既得権益を侵害することになるので簡単にはいかない。だが、国家存亡の危機を掲げ軍事費の不足を訴えた後であれば話は別になる。既得権益を掲げる者も黙り込むようになるし、声を大きく荒げたとしても気にすることなく、抵抗したら非国民と一括して黙らせることもできる。
どの国でも、どんな社会でも同じなのは、予算削減で最も効率的なのが福祉予算の削減であるということ。福祉予算は全ての予算の中で経済効果が最も薄く経済発展にはつながりにくい。極端なことを言えば、福祉を厚くすればするほど経済はより一層悪化する。だが、自分が権利として受け取っている福祉を喜んで手放す者はいない。削れば最も効果が出るのに、最も削りづらいのが福祉予算というものである。
ところが、戦争を大義名分にすると話は別になる。今まさに侵略を受けている真っ最中であり、この戦争に勝たなければ命の保障はないと述べることで、自粛というタイトルで福祉予算の削減を堂々と実行することができるのだから。こうして浮いた予算を、戦争中は軍事費に、戦争が終わったら福祉以外の予算に回すことで、戦争だけでなく、戦後経済に成功した国は多い。
ただし、デメリットも大きい。
戦争だからということで自粛をさせるということは、国民生活を悪化させるということでもある。自粛というのは、要するに生活水準を意識して低下させることに他ならない。戦場はもっと苦労しているのだからと考えて自分一人が我慢するのは勝手だが、苦労している戦場を考えろと赤の他人に命じられて我慢させられたのではたまったものではない。
侵略を受けている最中だと言ったって、以前より不便になった暮らしを耐え続けろと言うのは統治者として失格である。だから、まともな統治者であれば、戦争中であろうとも平常な生活が維持できるよう、福祉予算を削った上であれこれと対策を練る。たとえば、年中行事やイベントの開催予定を変更せず、その通りに開催するというのはその好例で、戦争を理由にしてスポーツの大会や祭りといったイベントを中止にするのは、戦争にあるときの統治者としては失格の行動というしかない。なぜなら、こうしたイベントは戦争中でもこなせるだけの予算負担で済むし、投入する税に比べての経済効果も高いからである。
ましてや、基経は御霊会という大規模なイベントを開催することで市民の支持を掴んだ貴族である。その基経が、イベントの重要性を理解していないわけがない。
おまけに、イベントはその様子が国内のみならず国外にも絶好の宣伝となる。侵略され戦争状態に陥っていても、平和時と変わらないイベントが開催されるということは、国内には自信を与え、敵国には余裕という圧力をかけることとなる。
歴史書は、貞観一二(八七〇)年四月一四日から一五日にかけて、いつもの年と同じように、賀茂祭が開催されたと記している。
間違いなく、このときの日本の先陣に立って、対新羅戦の指揮を執っていたのは基経である。文官としては大納言だが、武官としては左近衛大将という武力のトップの地位にある。基経には良相のように武人としての経験もなければ能力もないが、政治家として、この戦争状態においてどうすればいいのかは理解している。
その結果が、あくまでも新羅に抵抗するという国の姿勢と、新羅から侵略を受けていても日常生活を継続するという判断である。
この判断自体は立派なものであるが、たった一つ問題があった。
それは、このときの右大臣、藤原氏宗の存在である。基経はあくまでも左近衛大将として活動していた。しかし、こうした行動はことごとく右大臣をさしおいての行動となってしまったのだ。基経に言わせれば、氏宗が拒否した左近衛大将の役割を自分が担っているのだから文句を言われる筋合いではないであろう。だが、氏宗に言わせれば、国家の命運を担う一大事にあって、大納言である基経が、右大臣である自分を無視して行動していると映ってしまったのだ。
かといって、氏宗に基経に取って代わって国を担うだけのプランもなければ行動力もなかった。つまり、自分の無力さを突きつけられてしまったのだ。今ここで右大臣としての権威を示しても、あるいは権力を発揮しても、誰も氏宗についてこない。この現実を目の当たりにしたとき、氏宗は、一つの決断をした。
あれだけ渇望していた右大臣職の辞任である。
貞観一二(八七〇)年四月二七日、自らの高齢を理由に氏宗が右大臣職の辞任を申し出る。確かに年齢も六〇歳になっているから、高齢というのは間違いではない。
だが、それでは困るのだ。戦争の最中にあって求められるのは政権の安定。それが、全くの個人的な理由で瓦解させてはたまったものではない。
結局、猛反対にあって氏宗の辞表は握りつぶされた。
貞観一二(八七〇)年五月九日、五月一六日の二度にわたって氏宗は再び辞表を提出する。このときも長々と辞任の理由が述べられているが、その中身は四月二七日と変わらない。そして、握りつぶされたことも前回と変わらない。
氏宗が辞表騒ぎを起こしている最中も、基経は対新羅対策に奔走していた。
まず、出雲に弓兵隊を配備した。鉄砲のないこの時代、弓矢は火器に相当する。
現在の島根県は県民人口が少ない県であるが、この当時の出雲は、京都、難波、太宰府に次ぐ大都市であった。特に出雲大社は高さ九〇メートル以上の威容を誇るという、この時代には類を見ない超巨大建築であったことから、国内だけでなく国外からも観光客が訪れるほどであった。
と同時に、海の向こうには新羅があり渤海がある。つまり、太宰府を経由しない貿易のときは九州ではなく出雲を目指すこともあり、経済の一大拠点でもあった。
対馬の守備隊を増強し、太宰府の守備を固めたという連絡は新羅にも届いていた。そのため、日本への攻撃のポイントを、太宰府から出雲に移すことは充分考えられた。
結論から記せば、このときの出雲の弓兵隊配備は配備しただけで終わり戦闘には参加してない。新羅が出雲に攻めてこなかったからである。ただし、これは決して無駄ではなかった。日本の徹底抗戦は九州北部だけではないということを示すこととなったのだから。
基経の対新羅対策はさらに続き、左近衛大将としての権力を前面に生かし、対ゲリラ訓練を積んだ特殊工作部隊の兵士五〇名を対馬に派遣した。
このときの史料には「選士」と記されている。文字通り解釈すれば選ばれた兵士だが、どうやらこの五〇人は、後の忍者の原型らしい。
忍者が歴史に登場するのはよくわからない。一説によれば聖徳太子が忍者を活用していたと言われており、その時代の史料に「志能備(しのび)」という名称も伺える。真贋は不明だが、戦闘が日常であった時代である以上、闇工作を得意とする専門家がいてもおかしくはない。
また、平安時代に藤原千方という者が怪しげな妖術を駆使して朝廷に対して反乱を起こしたという伝承もある。伝承に出てくる天皇は天智天皇だから伝承がどこまで真実を表しているのか怪しいものもあるが、伝承からは、後世の人が、忍者が平安時代から存在しており、そのときから既に伊賀国で訓練を積んでいたと考えたのであろうことが伺える。
貞観一二(八七〇)年六月一三日、筑前、肥前、壱岐、対馬に在住する新羅人三〇名を追放するとの命令が下った。
新羅人に対し、国外退去か陸奥国への移住を厳命したことで、大宰府管内の新羅人の数は減っていたのだが、それでも残っていたのは、日本にいることのメリットが多かったのだろう。ただし、それは褒められた理由ではない。なぜなら、日本に滞在する理由が、一つは拉致して奴隷として売り飛ばすとためであり、もう一つは新羅に情報を伝えるスパイとしてであるのだから。
この三〇名のうち七名は命令が出たときには既に逃亡してしまっていた。
しかし、この三〇名を失った痛手、そして、対馬に派遣された五〇名の特殊部隊が新羅軍に与えたインパクトは大きかった。
奴隷の供給が閉ざされたことは船を操る者がいなくなることを意味した。
船を操る重労働を望んでやりたがる者は少ない。あるとすればそれが名誉と実利のある職業と認知されたときぐらいであるが、新羅軍ではその逆、最下層の者の仕事とされていた。そのため、船を操るために重宝されたのが拉致した日本人。新羅軍は日本人を奴隷として扱った。つまり、新羅に拉致された者は、自分を拉致した者どもとともに、自分の故郷を襲う軍勢に加えさせられていたということとなる。
そして、日本が今どうなっているのかを伝えるスパイもまた新羅軍にとっては有効な存在であったのに、それが失われてしまったため、攻撃目標の把握は不可能になったばかりか、逆に日本側の抵抗も想像できないものになってしまったのだ。
それでも新羅は日本への侵略を諦めてはいなかった。攻撃態勢は整え続けていたし、訓練も、船の建造もすすんでいた。
戦争のために福祉を削ったことの影響が現れたのは貞観一二(八七〇)年六月一七日。この日、京都で飢饉が広まったため、施を実施したと史書は記している。
本音で言えば施などしたくはなかった。しかし、侵略という現実の前に福祉予算を削った結果、失業者の生活に悪影響を与えることとなったのだ。
失業者なのだから、食料を与えるより職業を用意するべきなのである。そして、このときの日本は彼ら失業者を大量に吸収できる職業もあったのである。
兵士。
好き好んで軍隊に行きたがる者は少ない。この国の危機だと使命感に燃えて前線に赴く者もいるが、より多いのは、それが職業だから。訓練は厳しいし命の危険もあるが、食事が保証され、生活が保障され、そして何より、社会的地位もある。だから、失業者を兵士として雇い入れるというのは失業対策の一つとして非常に有効な政策である。
基経がそれを理解していないわけはない。しかし、基経はその方法を選んでいない。
新羅からの侵略を受けていても、このときの日本は大規模な徴兵制を展開してはいない。律令には防人として徴兵制が定義されているのだから、失業者を兵士として雇って前線に派遣したとしても、それは何ら律令違反とはならない。しかし、それができない大問題があったのである。
このときの朝廷には兵士を雇い続けるだけの予算がなかったのだ。
このときの基経は、予算をやりくりしながら、かつ、平常と変わらぬ日々を展開しながら、新羅の侵略をくい止めなければならないという厳しい制約を課されていた。もし潤沢な予算があれば失業者を兵士として雇い入れて九州に派遣し、数にモノをいわせて一気呵成に新羅を倒しているところである。それが出来ずに少数精鋭でどうにかやりくりしているのは、何と言っても予算不足につきる。
今の企業でもそうだが、経営が苦しくなって人件費に手をつけ、その言い訳として社員一人当たりの生産性の向上を謳い文句にするところがある。基経も同じだった。兵士の量が無理である以上、質でどうにかするしかなかったのだ。
それがたとえ失業対策を後回しにするのであっても、基経には今の兵の質でどうにかするしか選択肢がなかったのである。
夏になり、新羅の軍勢は静かになった。
新羅の軍勢の恐ろしいところはその船を操る技術力にある。日本の船ならば航海を諦めるような荒れた天候であろうと新羅軍は船を操り、日本へとやってくる。
しかし、それは船を操る技術力が意味をなすときだけに限られる。船を操る技術が劣っていようと航海が可能だというときは、船を操る技術が対して意味をなさない。
大砲などないこの時代、海の上での戦闘は二種類しかない。自分の船を相手の船にぶつけるか、相手の船に乗り込んで戦うかである。日本の船の先方は後者であった。相手の船に乗り込むことさえ考えるのであれば、求められる操船技術は必ずしも高くない。
その上、日本の武士の戦闘力は、新羅軍の兵士五人ぐらいに相当する。武装のレベルも違うし、個々人の戦闘技術も違う。ましてや、基経の派遣したのは特殊部隊の兵士。こちらは一人で兵士一〇人程度であれば余裕で立ち向かえる。
さらに、日本軍は新羅の船への夜襲をためらわなかった。夜寝静まった新羅の船に燃えさかる松明を満載した小舟を寄せ付けるのである。この小舟には誰も乗っていない。よって失敗したとしても日本軍の人的被害はゼロである。新羅軍は闇討ちを卑怯ではないかと非難したが、日本に言わせれば侵略してきたことのほうが卑怯なのであり、卑怯な仕打ちを受けたくなければ侵略を全否定し、日本に全面降伏しろということとなる。
新羅と日本との間で、このときまで正式な折衝は行われていない。ただし、非公式な折衝はあったようである。
ただ、その要求するところは双方全く相入れるものではなかった。新羅は日本の無条件降伏と定期的な上納金(正式にはコメ)を納めるよう要求するのに対し、日本側の要求は新羅の無条件降伏と賠償。これでは平行線になるのも当然である。
しかも、この交渉の直接窓口となっている太宰府の態度は煮えきらないものであった。特に、太宰府のナンバー3である太宰少弐の藤原元利万呂は新羅に対して柔軟な姿勢を見せるばかりか、朝廷に対し、抵抗の中止と新羅の要求の受諾を訴え出たほどであった。
貞観一二(八七〇)年八月二八日、対馬国司小野春風からの要請により、出雲に派遣したのと同じ弓兵隊を対馬に派遣することが定められた。
対新羅戦の前線にいる小野春風は、少ない人数ながら対馬を完全に守りきっていた。特に派遣された特殊部隊の面々の活躍はめざましく、新羅の軍勢は日に日にその勢いを弱め、対馬上陸を断念していた。
ただし、今は、である。
攻撃そのものが止まっていても攻撃の意志が消えたわけではない。前線基地として対馬を狙う新羅軍の作戦は変わることなく、対馬は、兵士も、民間人も、休むことなく新羅に対峙させられる日々であり続けた。
春風が弓兵隊を呼んだのも、より防御を高めるためである。新羅軍が対馬に攻め寄せるとき、港だけに襲いかかってくるとは限らない。港から離れたところに襲いかかることは実際何度かみられた。そして、その都度撃退するのに人的被害と時間の浪費を生み出していた。弓兵隊はその対策である。この時代の弓矢は現在のライフル銃のような役割を持っている。しかも、このとき春風が弓兵たちに支給した弓は、通常の弓ではなく、通常より射程距離も長く、威力も強めた弓である。現在の感覚でいけば軍縮条約の対象として各国とも削減目標に掲げられるような大量破壊兵器であるが、侵略を受けている真っ最中に、卑怯だの、非人道的だなどと言っていられる余裕はない。
大切なのは新羅軍に対抗することなのである。卑怯な作戦や非人道鉄器な兵器が展開されたことで新羅の兵士がどれだけ死のうと、そんなことはどうでもよかった。
貞観一二(九七〇)年九月一五日、新羅のスパイに対する処遇が決まった。三〇名に逮捕命令が出て、うち七名が逃亡して捕まえることができなかったため、処遇を命じることが出ているのは二三名。そしてこのときは、二三名のうち二〇名の処遇が決まった。
すでに陸奥国に移住させられるように命じられた新羅人は数多くいたが、それは移住の命令であっても、移住先でどのような暮らしをするかは自由であった。第二次大戦中のユダヤ人収容所や日系人収容所と違い、一般市民として生活する自由はあった。
だが、今回の場合は、この当時の日本の最高刑である流刑である。ゆえに、自由はある程度制限される。本来であれば死刑となるところであるが、この時代、反国家的活動で死刑が命じられても、特赦により刑一等減となって死刑にはならないのが普通であった。死刑とはならない代わりに、自由が制限されるだけで。
この二〇名のうち、一〇名は他の新羅人の住む陸奥国への流刑、残る一〇名は五名ずつに分けられて、武蔵国と上総国へ流された。
今回何ら判決の出なかった三名についてはどうなったか不明である。もしかしたら、判決が出る前に命を失っていたのかもしれない。新羅の侵略に対する民衆の怒りはすさまじいものがあったのだから。
対馬では前線の戦闘が繰り広げられ、京都では捕らえた新羅のスパイに対する処遇が決まっていた頃、九州で大問題が発覚していた。
それが何月何日のことなのかはわからないが、朝廷にその情報が届いたのが貞観一二(八七〇)年一一月一三日なので、現地ではおそらく一〇月のことと思われる。
その情報を報告したのは筑後国衙に勤める史生で、役職も正七位上という中級の役人である佐伯真継である。この佐伯真継が、太宰府のナンバー3である太宰少弐の藤原元利万呂らが新羅と密通していると訴えたのだ。
新羅からの侵略を受けている最中に、国外との交渉窓口である太宰府のナンバー3が敵国と接触したのみならず、その敵国から援助を受けて謀反を起こすという話に誰もが驚愕した。
そして、新羅の侵略計画が、朝廷の想像以上に日本国内に根深く突き刺さっていることを悟った。
あれだけ新羅からの侵略を徹底的に防いでいるのに、新羅は侵略を諦めようとしないばかりか、日本に対し戦勝国であるかのように振る舞っている。
そして、藤原元利万呂が新羅に対して見せる軟弱な姿勢。こともあろうに、新羅の侵略を受け入れ、日本の抵抗を中止するよう求めているのである。
しかし、この進言によって全てがつながった。
太宰府の中枢部にまで新羅の手は入り込んでいるために、日本がどんなに抵抗を見せても新羅との交渉が頓挫してしまうのだ。
新羅と繋がっている勢力は太宰府の内部で一定の勢力を築いており、太宰府から朝廷への定期的な連絡でさえ、彼ら新羅に通じた勢力が介在するおかげで新羅の息のかかったものになってしまっている。それは、太宰府を要する筑前国にも波及しており、今回の上告が筑後から届いたのは、筑後国が太宰府と一定の距離を置いているからに他ならない。
新羅は、新羅の求める最大限の利益を求めて行動し、それに太宰府の中枢部が乗っかっているというのが今の日本の対新羅関係だった。
これでは戦争の解決どころか、さらなる泥沼に入り込む一方である。
貞観一二(八七〇)年一一月一七日、朝廷は太宰府の人員一掃を命令し、藤原元利万呂ら五名の逮捕を命じ、同時に、太宰府の調査のために阿倍興行を九州に派遣した。
阿倍興行はかなりの強行軍で九州に向かったと見え、一一月二八日には太宰府で、今回の訴えを申し出た佐伯真継と面会している。
朝廷はこれで新羅との戦争が収束に向かうと考えたようである。戦闘で勝っているのも日本だし、交渉にしても日本の立場を正しく伝える者にしたのだから、少なくとも新羅が日本国内で勢力拡大を企むなどなくなるだろうと考えた。無論、新羅が降伏したわけではないから戦争が終わったわけではない。だが、山場は越えた、と朝廷にいる誰もが考えていた。
ところが、新羅はまだ諦めていなかった。
新羅のスパイ二〇名を逮捕し流刑にしたこと、そのうち五名は上総国に流刑となったことはすでに記した。その五名が行動を起こしたのだ。
貞観一二(八七〇)年一二月一日、上総国より、俘囚が暴動を起こしたという連絡が届いた。名目は、日本に侵略された蝦夷たちの手による日本からの独立運動であり、実際に暴動参加者の中には俘囚もいる。だが、実際は、上総に流刑となった五人の新羅人たちが、その地にいる俘囚たちをそそのかして起こした暴動であった。
目的は日本からの独立ではなく、暴れ回ることそのものにある。
暴れ回る理由は二つ。
一つは食べていくため。凶作であったこの年、手持ちの食料では年を越せない者が数多くいた。
そして、もう一つの理由。このほうが重要であるが、それは、日本の軍勢を弱めること、特に新羅に向かっている軍勢を少しでも新羅から遠ざけることであった。日本国内で軍勢を要しなければならない事態というのは、日本にとっては痛事であっても、新羅にとっては喝采である。
この苦境に対するため、貞観一二(八七〇)年一二月二五日、それまで進めていた清和天皇の増税政策が一部緩和された。
まず、増税ゆえに税を滞納せざるを得なくなっていた者の納税義務の残りを不問とした。とは言え、これでは真面目に税を納めてきた側にとっておもしろくない。俺は生活が苦しくなっても真面目に税を払ってきたのに、何であいつは税を払わないでお咎めなしなのか、と。
そこで、真面目に税を払ってきた者には、毎年課される労働義務の軽減を命じた。つまり、税の物納ができないならば、その分、労働義務を他者より果たせということであるが、税を払っていない者でも現状維持、真面目に払っていたら減税ということで、これで文句は消えた。
それともう一つ改革が押し進められた。国司交代のタイミングである。律令に従えば国司の任期は六年であるが、これを四年へと短縮した。一部の国では五年まで任期を認めるが、それでもこれまでよりは短い。
これは、貴族になったもののなかなか職にありつけず、京都で不遇を味わう者が多かったために採られた政策である。現在の感覚でいけばワーキングシェアと言うべきか、一人あたりの仕事量を本来の三分の二に減らし、職に就ける者を一・五倍にするということである。実際、律令派に走る者の多くは職に就けずにいる貴族であるし、さらに過激になると朝廷に対して反旗を翻しかねない。藤原元利万呂という実例がある以上ここで何らかの対策を打たねばならず、それが、国司就任のチャンスを一・五倍に増やすという政策となった。
ただし、国司に就任しても任国に向かわない者、また、任国に赴任しても任期を待たずに帰京する者については、その瞬間に国司免職と決まった。これは、国司に就任しても代理の者を任国に派遣し、自分は京都で都市生活を満喫している者が多かったからである。
無論、遣唐使の給与捻出のための便宜上の国司就任や、小野春風のように戦費捻出のための国司兼任などは例外として除かれる。あくまでも問われるのは京都に留まって都市生活を満喫している者に限られる。
国司になることの最大のメリットは、任国で得られる財にある。一度国司を勤めれば一生暮らせるだけの財産を築けるとも言われており、強欲な国司になればなるほどその国の臨時税が増えていた。多くの国司がその圧政を弾劾されているのも、任国の生活を向上させることより自分の財産を向上させることを狙った者が多かったからである。
目的が財ならば、わざわざ不便な地方にまで出向く必要もないと考えた貴族は多い。自分は京都に留まって、任国から上納される財を受け取るだけの暮らしは何とも気楽なものであろう。
だが、それを問題なしと考えるようでは執政者失格である。
任国に出向かず楽をしていることは確かに問題だが、もっと問題なのは、その国と京都とのつながりが切れてしまうこと。京都の命令が届かぬままその国が勝手気ままな行動をするぐらいならば目をつむることもできるが、太宰府で起きたように、その国が国外と手を結んで京都に反旗を翻したら、それは内乱になる。つまらぬ内乱のせいで失われなくてもよかった命をどれだけ失ってきたか、人類の歴史は物語ってくれる。
それを理解できない清和天皇ではない。地方と京都のつながりを切ってはならず、京都から派遣する国司の力で地方が発展するという姿を構築しなければ、いつまた、太宰府で起きたような、あるいは上総で起きているような悲劇を生み出すかわからない。
清和天皇はこのとき、実に、合計二九箇条の命令を発布している。どれもこれも、混乱続く社会を何とか立て直そうとするものであり、これは切実な話であった。だから誰も文句が言えなかった。
ただ、人を理想的に考えすぎてもいた。
任期が三分の二に減るということは得られる財も三分の二に減るということでもある。
倍率が一・五倍に増えるということは、自分と同格の貴族が一・五倍に増えるということでもある。
任国に向かわなければならないということは、便利な都市の暮らしを捨てなければならないということでもある。
この命令と同タイミングで、清和天皇は位に応じた服を身にまとうよう貴族に命令しているが、そういう命令を出さざるを得なくなったのも、貴族たちが一つでも上の位の服を身にまとうことで出世を疑似体験し、見た目の優越感に浸ることが多かったからである。
このときの貴族が求めていたのは平等ではない。自分が恵まれた人間になることである。
いや、これは貴族の本性ではなく人間の本性とすべきか。平等だの公平だのを求めるときの本音は、自分が恵まれた人間ではないとする感情である。だから、どんなに平等を実現させても、平等だの公平だのを求める者の不満は収まらない。不満が収まるのは、その者が恵まれた特権階級になったときである。
まれに特権階級でありながら平等を唱える者もいるが、自分が手に入れた特権を手放してまで平等を計画する者はいない。自分よりも格下の者が平等になることは望むが、格下の者が自分と同格になることは絶対に認めないし、自分を追い抜いて格上になるなどが起こったら全力で阻止する。ましてや、自分がその格下に降りるのはどんな手段を用いてでも抵抗するのが人間の本性である。思い浮かべていただきたい。貧困撲滅を訴えて不特定多数から寄付を募る者はたいがい平等を声高に主張するが、訴える者自身の暮らしは豪華絢爛な暮らしであることを。
これは貴族に限らず、人というものの本性である。人は、少しでも楽な暮らしを計画するし、少しでも豊かな暮らしを求めるし、少しでも格上の地位を手に入れたがる。なぜなら、求めているのは「自分は他の奴らよりも上なのだ」という感情を満たすことなのだから。
人類はいろいろなシステムを考えてきたが、ただの一つとして、人間の上下関係を無くすシステムを生み出すことはなかった。共産主義という、上下関係を無くしたという名目のシステムならば生み出したが、それが身分を固定化させ、生活を悪化させ、何一つメリットのないまま失敗に終わったことは歴史が証明している。
貴族たちが国司という職務に求めたのは自分の暮らしと自分の将来であり、財を手に入れると同時に、国司をきっかけとして立身出世を果たすことを狙っていたのである。そのための行動と任国の生活向上とが一致すればそれが名国司となるのであって、清廉潔白とか滅私奉公とかは全く関係ない。清廉潔白をそのまま具現化したような紀夏井が讃岐国司として絶賛されたのも、清廉潔白さはメインではなく、あくまでもメインは生活の向上である。
国司に限らず政治家の全般に言えることだが、政治家の評価に腐敗を悪だとする考えはない。政治家の評価はただ一つ、どれだけ生活が良くなったかである。どんなにワイロを貰おうと、どんなに汚職にまみれていようと、庶民の生活の向上が果たせれば政治家として合格である。腐敗しない、ワイロを貰わない、汚職しない、こういう姿勢は立派だが誉めるほどのものではない。どんなに立派な姿勢を貫こうと、庶民の生活の向上がなかったらそれは政治家失格なのだから。
ところが、清和天皇はそれを評価基準としてしまった。それも、貴族が国司になることによって得られる要素を薄めた上で、である。
清和天皇は良かれと思って始めたのであろうが、善意から始められた政策が無惨な結末を招いたことなど、人類の歴史で一度や二度では済まない。
この命令の反対は強かった。特に文章博士の橘広相は、この二九箇条が律令に違反しているとして手厳しく批判した。
貞観一二(八七〇)年一二月二九日、貴族の不満を和らげるためか、一八名の貴族が昇格する。その中には、最も激しい批判を展開していた橘広相の名もあった。
貞観一三(八七一)年は大雨で始まった。
一月一日、もはや恒例ともなった朝賀中止。もっとも、早朝からわざわざ参内していた貴族は少なかったこともあり、中止と知ってがっかりして帰った者は少ない。大晦日から雨が降り続いていることから中止と睨んでいたのもあるが、もっと大きな理由は前年末の二九箇条。出席しようと欠席しようと貴族としての評価に影響を与えることはないとわかっているときに積極的に行動するかどうかは意欲に左右される。これが乏しいというのは意欲を失っていたということ。真面目を求める命令は貴族たちの意欲を削ぐのに充分であった。
しかし、毎年恒例の昇格の発表となると貴族は内裏に殺到する。誰もが自分は今年こそ出世すると思っているから、発表されるまで押し合いへし合いになる。このあたりの行動は現金なもの。
前年末に一八名が昇格しているから多少は少ないものになるだろうが、それでも期待はできる。少なくても三〇人ぐらいの貴族の昇格は当たり前になっているのだから、残る一〇名ぐらいは空席があると誰もが考えていた。
ところが、清和天皇の返答は違った。昇格はたった三名、しかも、うち二名は皇族だから、事実上はただ一人の昇格と言うことになる。それも、その一人というのは、太宰府にあって対新羅の指揮を執っていた太宰大弐の藤原冬緒。太宰府のトップである大宰帥の職が空席であることに加え、太宰少弐の藤原元利万呂が逮捕されたとあって、前線の指揮と、太宰府の管理と、九州全土の監督を一手に引き受けていることを考慮しての昇格であった。それはつまり、藤原冬緒ほどの働きを見せた者でなければ昇格はなく、結果も示さなければ意欲も見せていない者には出世も与えないというのが清和天皇の回答であった。
このとき、清和天皇と貴族の対立は先鋭化した。
この対立の最中、基経は何をしていたのか。
対新羅戦に専念していたのである。対新羅の「戦闘」の指揮は対馬の小野春風や太宰府の藤原冬緒がとるが、政略を含めた「戦争」となると、その総指揮は基経の手に委ねられることとなる。
藤原元利万呂の逮捕以後の朝廷は、新羅と戦争をしている最中だというのに、よく言えば剛胆、悪く言えば脳天気に構えていたと言っても良い。確かに京都だけをみれば、貧困や治安悪化はあるが、日々の暮らしの中に戦争の気配を感じることはできない。それどころか、外国人の姿を感じることもない。つまり、日本語の通じない異文化の人間が生活の中にいないのである。これでは外国に関する関心を薄まってしまう。
最後の遣唐使派遣から三〇年以上が経過し、平安京にとどまる貴族たちにとって、外国というのは古典の中だけに登場する理想郷であり、現実の世界であるという認識はなくなっていた。特に、ただでさえ現実を軽視して理想主義に萌える律令派の貴族たちの対外意識の希薄さは、もはや説得でどうこうなるものではなかった。
彼らに言わせれば、国賊を逮捕したのだからそれで戦争が終わるだろうということなのだろう、律令派からは戦争に対する言論が消失する。だが、実際に前線から届く情報はそんな暢気なものではなかった。実際、一月一五日には新羅が壱岐に侵略してきたことを伝える報告が届いてきていたのである。
基経は、戦争の現実を理解している者に現実を託すしか残されていなかったのだ。
一月二九日、藤原冬緒を前線指揮に専念させるために、知恵者で知られていた賀陽親王を太宰府のトップである大宰帥に任命して太宰府に派遣した。すでに七七歳とこの当時では例外的な高齢であり、しかも治部卿との兼任という緊急事態であったが、人材を捜すとなると治部卿の賀陽親王を担ぎ出すぐらいしか残されていなかったのだ。
さすがにこの兼任は高齢の賀陽親王には酷であり、二月九日、治部卿からの辞任を申し出ている。
それともう一つ、基経に課されていた課題があった。
左近衛大将という地位にある以上避けて通れぬことであるが、基経には、海外からの侵略だけでなく国内の治安維持も厳命されている。
ところが、それが正常に機能していなかった。京都の治安が極限まで悪化していたのである。
貴族に限らず、平安京に住む裕福な者は、自らの身を自らの力で守るのが通例になった。自費で警備を雇うのである。そして、そのための武力として、地方で土地を守っている武士に目が向けられるようになった。
名目上は、私的に雇われたその家の使用人であったり、あるいは役人としての職務でその家の主人の部下となっていたりする者であるが、事実上は、その家に雇われたボディーガードであった。
自分たちの命と財産を守るために武装した存在である武士が、その守る力を見いだされて、平安京に普通に姿を見せるようになった。それは基経も例外ではなく、名字こそ藤原を名乗っているが、武人としての訓練を積み、荘園に住む者の命と財産を守っていた者をスカウトしてボディーガードに就けている。
ところが、彼らが死ぬまで武士であり続けることは保証されていなかった。彼らの平安京における存在価値は雇用主の身を守ることであり、それができない者は早々にクビになった。それも、命を守るというのは必要不可欠な要素ではあるが費用もかかる。もし、一人の優秀な武士が三人の普通な武士に匹敵する武力を持っているとすれば、たとえ普通の武士の倍の費用を出さなければ雇えない武士であっても、一人の優秀な武士を雇用して三人の普通の武士をクビにする。何しろ費用を三分の二に切り詰めることができるのだ。
ところが、クビになった武士がかつての仕事である荘園の守備に戻る保証はどこにもなかった。いや、かなりの可能性で京都に留まった。何しろ、戻ったところで仕事が保証されているわけではないし、何と言っても快適な都市の暮らしである。自ら選んで農村に出て田畑を耕す暮らしを選んだ者は農村に赴くことが豊かな暮らしをもたらすことであったが、荘園を捨てて京都に出た武士にとっては、農村を出ることのほうが豊かな暮らしを意味することとなるのだ。
だが、京都で彼らを必要とする仕事は限られる。どこかの金持ちが雇ってくれない限り、彼らは失業者となってしまうのだ。それも、武器を持った失業者に。
これで治安が良くなるわけはない。
犯罪をしたくて犯罪をする者を取り締まるのは簡単である。だが、犯罪に走るしか生きていけない者を取り締まるのは極めて困難である。なぜなら、いくら厳しくしようと、生きていけないという現実のほうが勝ってしまうのだから。
これが現実である以上、治安を良くする方法は二つしかない。犯罪が成立しないだけの武力で守り続けるか、あるいは、犯罪に走らなくても生活できるように社会を整えることである。
傍目には後者のほうが優れているように見える。だが、それは極めて難しい。なぜなら、犯罪に走らなくても生きていけるということは、誰かがその者に生活を与えなければならないのだから。「貧困者の救済のために税を投入せよ」と主張する者は多いが、そのためであろうと税を増やされて喜んで応える者は少ない。ほとんどの者は自分の納めている税は過大であると考えていて、国に求める税制というのは、極論すればどうすれば自分の税負担を減らせるかということにつきる。ゆえに、税負担は税を負担できる資産を持つ者ではなく、税を負担させやすい者に押しつけられる。これは何も現代社会の話ではなく、いつの時代も変わらない人類普遍の法則である。
無論、失業者が増えていることは社会問題であると認識しているし、この時代はそれが治安悪化の要因となっているのも、この当時の人自身は理解できていた。ただし、その問題と、自分の税負担が増えることとは、全くの別問題である。何しろ、荘園という半合法的脱税の仕組みが整備され、裕福な者はこぞってそちらに流れていたのである。こんな社会状況で増税を打ち出しても、より一層の荘園化を加速するだけで、結果はさらなる税収減となる。
裕福な者が武士を雇ったのは、そのほうがはるかに簡単で安上がりだからである。ただし、それで守られるのは自分と家族と関係者の命と財産であり、市井に住む一般庶民の命と財産ではない。
基経はこれをわかっていた。わかっていたが、今の朝廷の財政ではどうにもならなかった。
基経ができたのは二つ。一つは、左近衛大将として、近衛府の者に治安を守るよう命令すること。もう一つは、藤原の財産を投じて、失業した武士を雇うことである。
歴史の教科書では、良房も基経もごちゃ混ぜにして語られることが多い。何しろ、このあたりの時代は軽く流されている。応天門の変のような事件の羅列がなされるだけで、下手をすると一〇〇年分を一ページにまとめてしまうこともある。良房の養子が基経であることぐらいは記されていても、どういう経緯で権力を持つに至ったかという流れは全く記されていない。
その上、良房も基経も、政治家としてのキャリアが似ているし、意図してそうなったのであるが、政策という点でもこの二人に大きな違いはない。
こうなると、どっちがどっちだかわからなくなる者が出てもおかしくはない。というわけなのか、平安時代を扱った歴史書のなかには、良房がやったことと基経がやったことを取り違えて記しているケースさえある。つまり、この二人の区別がついていない。
ところが、この時代はそんな話など悪い冗談である。良房の存在感は圧倒的であり、基経は、対新羅戦を一手に引き受けているし、イベントのプロデュース能力は高いし、その地位も大納言にまで至っているのだが、世間の評判はあくまでも良房の後継者というだけである。
噂話の好きな者の中には、基経が一手に引き受けている対新羅戦も、裏で良房が尽力していて基経は何もしていないのだと口にする者さえいた。良房はそれほどまでに絶対な存在だったのである。
その良房が応天門の変を最後に姿を消して四年目になる。だが、良房の威光は姿を消してもなお絶大だった。今では良房が絡んでいないこと明白となっている清和天皇の命令に摂政藤原良房の名があるのも、清和天皇の出す命令だけでは威力が弱いと感じたからに他ならない。
貴族たちと疎外感を感じるようになった清和天皇にとって、良房の威光は頼りになる最後の砦でもあった。
そして、清和天皇はこのとき、誰もが考えつかなかった命令を出したのである。
貞観一三(八七一)年四月一〇日、摂政太政大臣藤原良房を准三宮とするとの命令が下った。
三宮とは、太皇太后、皇太后、皇后の三名の総称である。必ずしも皇族であるとは限らないが、この地位にある者は皇族と同じ扱いを受けることが定められていた。
良房はこの三宮に准じる地位にあるとされたのである。確かに清和天皇は良房の孫であるが、良房自身は皇族ではないし、自分を皇族扱いさせたこともない。
にも関わらず、良房はこれ以後、皇族として扱われることとなったのである。
これはさすがに良房をためらわせる行動だった。
貞観一三(八七一)年四月一四日、清和天皇に書状を届けて准三宮の地位の付与を停止するように要請した。ただし、清和天皇はこの申し出を却下している。
四月一八日、良房が自らの高齢を理由に准三宮を再度辞退する。
五月六日、良房は手段を変える。准三宮にプラスアルファされた警護役の増員と辞退すると申し出た。だが清和天皇はこれも拒否する。准三宮に対する当然の配慮だという理由である。
五月二〇日、国家財政の危機を理由に、准三宮に伴う給与の返上と、警護役の減員を申し出る。これに対する清和天皇からのアクションはない。
清和天皇が求めているのは良房の権威を借りることであり、良房が准三宮に伴う資産の返上を申し出ようとそれは気に止めることではなかった。摂政としての良房の権威は頼れなくなったが、清和天皇が摂政藤原良房の名を自由に使えることは変わっていないのである。その良房の名にさらなる権威を与え、さらには誰も考えつかなかった准三宮なる地位を創造し、清和天皇の権威にさらなる箔を加えるのが重要なのであった。
そして、五月二三日には摂政にして太政大臣であり、さらには准三宮でもある藤原良房の名を利用して七名の貴族を出世させた。
人事権は誰が持っているのかを貴族たちに示すのが重要なのであって、出世させてどういう役職を用意したのかは記録に残っていないほどである。
夏が近づくにつれ、貞観一三(八七一)年は大雨に悩まされるようになった。一年の計は元旦にありとも言うが、まさに元旦の雨は、雨だらけのこの一年を暗示してもいたのである。
良房に権威を与えて貴族たちを力でねじ伏せた清和天皇であるが、天候相手には力ずくなど通用しない。
かといって、科学技術が発達した現在でも天候を自在に操るなどはできず、できるのはあらかじめ天候を予測して事前に対策を練ることだけである。
雲行きや鳥の飛ぶ高さで明日が雨か晴れかを言い当てるぐらいならばできても、全国的な天気予報などできなかったこの時代の天候対策は、現在より非科学的なものであったと言うしかない。神頼みである。
神々に位を与え、祈りを捧げる日々となった。
清和天皇は元来、こうしたオカルティックなことを好まない性格である。しかし、他に手段がない上に、国民が求めてもいる以上、天皇として実施しなければならない。
五月から六月にかけ、歴史書の中に登場する記事は、雨足が収まることを願う儀式の記録に絞られていく。それ以外に何もなったのかと言いたくなるほどに。
それでも雨足が収まったならば問題はなかったのだろうが、問題は、雨足が収まるどころか、かえって悪化してしまったことである。
梅雨のシーズンが本格化するにつれ、次から次へと雷雨の記録がでてくる。
それと同時に、新羅の侵略の記録が歴史書から消えていく。このあたりの記録だけを目にすれば、まるで国外との関係は何もないかのように錯覚してしまうほどである。
どうやらこのあたりで新羅が日本への侵略を中断したらしいのである。だが、あくまでも侵略を中断したというだけで、日本からの反撃があったわけでも、ましてや日本の戦勝に終わったわけでもない。
戦闘が無くなったというだけで、公的には新羅との戦争がまだ続いている。ゆえに、対新羅対策は継続しなければならなかったし、前線への兵力配備も続けなければならなかったのである。
貞観一三(八七一)年八月二五日、右大臣藤原氏宗らの名で「貞観式」が上奏される。すでに「貞観格」は上奏されており、これで格式が揃ったこととなる。
「式」は律令の施行細則を定めたもので、すでに出ている命令をまとめればそれで完成となる「格」と違い、編纂にそれなりの時間がかかるし、量も莫大なものとなるのが普通。これは日本だけの現象ではなく、中国でも同じだった。
ところが、この貞観式、前に出された弘仁式とも、後に出される延喜式とも違い、編纂期間も短ければ、その量も少ない。つまり、普通ではない。
短期間で完了し、分量も少なくなったのには理由がある。これは貞観格とも共通しているのだが、貞観式は貞観式だけで独立しているわけではない。貞観式は弘仁式を補完する式なのである。弘仁式以降の法令は当然載っているが、それ以外に載っているのは弘仁式から変更があった箇所のみで、弘仁式と重複するようなことは書いていない。
つまり、律令のある事柄について調べたいと思えば、まずは貞観式を読み、そこに載っていればいいが、載っていなかったら弘仁式を見なければならないのである。
これは不便極まりない。
かといって、これが国の定めた律令の施行細則なのだから、表立って非難するわけにはいかない。
この貞観式に対する評価がどのようなものであるかは現在の残り具合を見れば一目瞭然である。
実はこの貞観式、他の文書の引用でしか残っておらず、原本はどこにもない。応仁の乱で京都が灰燼に化したときに多くの文典が焼けてしまったというからそのせいだとする人もいるが、それより前にはもう無くなっていたのかも知れない。
なぜなら、この後に完成する延喜式が、弘仁式以後の施行細則の変更だけではなく、それまでの二つの式の内容も全て記載しているからである。律令を知りたければ延喜式を開けばよく、貞観式は全く不要の法典になってしまった結果、ほとんど省みられることのない式となってしまったのである。
貞観一三(八七一)年閏八月七日、京都を豪雨が襲う。
この年はいかに雷雨が激しいといっても、生活が不便になるだけで命に関わるわけではなかった。凶作の危険はあったが、死を覚悟するには至っていないのである。
ところが、このときの豪雨はそれまでの比ではなく、命の危険性に絡んでいた。
平安京は東に加茂川、西に桂川が流れる地点にある。生活用水の都合があるので川の近くで都市計画をする必要があったからだが、それは同時に、水害の危険性をはらんでいるということでもある。実際、平安京の西半分である右京は度重なる水害に悩まされたあげく、平安遷都から五〇年も経た頃にはすでに、右京の都市機能が停止するに至っている。
いつもならば右京が水害に悩まされても、左京はさほどの被害でもないのが普通。しかし、このときの豪雨は右京だけで済ませられる問題では済まず、平安京全体が水没する水害となったのである。道路という道路は濁流が流れ、橋という橋は崩落し、平安京は陸の孤島と化してしまったのだ。
閏八月一一日、この水害の被害報告が挙がった。左京の被害、家屋の損壊は三五戸に留まるが、死者・行方不明者あわせて一三八人。右京に至っては、六三〇戸の損壊に加え、三九九五人の死者・行方不明者を生んだ。
これは平安京の構造的欠陥というべきものでもあった。桓武天皇はなにも水害に起こりやすい都市として平安京を造ったわけではない。都市を造っているまさにその途中で工事が止まってしまったために、水害に弱い都市となってしまったのである。
歴史にifは許されないというが、平安京の災害の記録を目にする度に思うことがある。もし藤原緒嗣が平安京建設中止を上申しなかったら、あるいは桓武天皇その上申を却下して平安京が完成していたらどうなったであろうかと。おそらく、平安京は都市として完成し、自然災害をかなりの割合で少なく抑えることができたのではなかったか。
藤原緒嗣が平安京建設の中止を上申したのは、建設に対する国民への負担の大きさが理由である。それは労働力もさることながら、税負担の大きさのほうがより強い理由であった。現在でもよく使われる「税の無駄遣い」である。
しかし、ここで税の無駄遣いを強く訴えて工事を取りやめた結果が、自然災害に弱い都市である平安京ではなかったかとさえ思う。税の無駄遣いという批判は実にわかりやすい言葉であるし、工事というのは実にわかりやすい税の使われ方である。だから、工事を減らせば自分の税負担を減らせるのではないかと誰もが考える。
税負担を逃れるためにとる行動は、ときに、子孫の命を奪う結果を招くことにつながる。
貞観一三(八七一)年閏八月一四日、今回の水害を教訓とする平安京の復興計画が布告される。
まず、今回水害を起こした川のうち、より人口密度の高いところを流れる加茂川の堤防建設を命じた。桂川については特に記されていない。平安京建設当時の潤沢な予算が使えれば桂川の堤防も作れたのだが、今はそれだけの予算の余力などない。ゆえに、堤防建設は加茂川に限定された。
次に、加茂川周辺の田畑は放棄が命じられ、代替地として右京の一角が与えられた。今回の被害の最も多かったのは加茂川のすぐ側で田畑を営む者である。これまでは黙認していたが、今回の水害を目の当たりにしては黙認などできない。
そのため、加茂川周辺よりは安全度の高いと見られ、かつ、都市計画が放棄されて田畑を営むことも認められるようになっている右京に移転させるということである。
加茂川周辺はいかに京都に近いと言っても平安京の区画ではない。一方、右京は堂々たる平安京の一部である。田畑の所有者にとっては郊外から都市の真ん中への移動なのだから一見するとより便利な場所への移動と見えるが、当時の人はそうは考えなかった。
大都会である左京のすぐ側で田畑を営むことで得られる利益は大きい。加茂川周辺の田畑の所有者は、都市生活を満喫しながら、市に持っていけば高値で売れる野菜を栽培することが多く、平安京に飢えに苦しむホームレスがあふれても、本人は豪華な暮らしを満喫していることが多く見られた。
しかも、平安京を一歩離れれば、その管理監督は平安京内の管理監督をする京職ではなく、山城国の国衙である。京職は朝廷の睨みがあるため買収に応じるケースは少なく、従って、脱税に成功することは困難であったが、いかに平安京を抱える山城国であろうと、朝廷の睨みから離れた山城国衙が納税先となると、脱税もより容易になる。
左京同然の都会の暮らしを満喫し、莫大な利益をあげ、しかも脱税している。これは当然のことながら憎しみを買うが、法の上では完全なブラックではない以上、何もできない。
それが、水害対策を理由としての、左京から離れた場所への移転命令である。しかも、それまでの田畑は放棄を命じられた。新しい田畑を与えられたと言っても、これまでの田畑に投じた努力はすべて無に帰し、ゼロからのやり直しとなる。
当の本人はこの処分を快く思うわけはなかったが、水害に苦しめられた京都の庶民は、自分たちの苦しい生活を横目に豪奢な暮らしをしている者たちに処分が下されているのを見て溜飲を下げていた。自然災害の時に起こりやすい政権批判を繰り広げることなく、その代わりに、それまで憎しみを抱いていた相手が苦しめられている姿を見て喜んだのである。
貞観一三(八七一)年九月二八日、仁明天皇后であった太皇大后の藤原順子が亡くなった。享年六三歳。
良房はこれで、同じ母から生まれたきょうだいの全員を亡くしたことになる。
妹の死を良房がどう感じたのかを伝える史料はない。もっとも、応天門の変を期に隠遁生活に入った良房のことを伝える史料からして少ない。
史料だけで言えば、太政大臣である良房よりも、太皇大后であるがゆえに、順子の方が多いぐらいである。
良房にしろ、基経にしろ、権力者であったことは誰もが認めても、美男子であったとは誰一人認めていない。小野篁や菅原道真が絶世の美男子として名を馳せていたのとは真逆とも言ってもよく、藤原氏でなかったらどこにでもいる一般庶民の風貌をしていたともいう。
ところが、その良房の妹である順子はなかなかの美女であったらしい。また、かつては天真爛漫な若さあふれるお姫様という感じであった順子も、夫を亡くし、息子を亡くしてからは、落ち着き払った太皇大后としての名声をあげており、貴族の女性の規範ともなっていた。
天皇の生母でありながら政治にはいっさい口を出さず、息子である文徳天皇が、兄である藤原良房と対立していている最中も沈黙を守っており、皇室と藤原氏の関係を考えた場合、順子は最良の女性であった。
貞観一三(八七一)年一〇月一日、藤原順子の葬儀を控え、日本中が喪に服すよう命じられた。貴族も庶民も喪服の着用が義務づけられ、やむを得ぬ事情がある者を除き、仕事は中止された。日曜日という概念のないこの時代、国民全員が一斉に休むというのは極めて限られている。
一〇月五日、亡き順子の遺体が山城国宇治郡後山階山陵に埋葬された。
ここまでであればごく普通の国葬であったが、ここから先が良くない。
律令派が口出ししてきたのである。
名目がないわけではない。
何しろ、天皇の祖母の葬儀というのが日本史上初の出来事なのである。神話の世界にさかのぼれば出てくるかもしれないが、少なくとも律令施行以後では、天皇の祖母の葬儀というケース自体がない。そのため、礼節としてどうすればよいか、服装はどうすべきか、追悼文はどうすべきか、埋葬はどうすべきか、誰もわからない。
太皇大后の葬儀自体がないわけではない。太皇大后とは先々代以前の天皇の妃を指す言葉だから、仁明天皇の実母である橘嘉智子は先々代の天皇である嵯峨天皇の皇后であったために、天皇の母であっても太皇大后であった。
ところが、天皇の祖母となると例がないのである。
若くして天皇に就いたために、清和天皇の生涯は先例のないことだらけである。しかも、清和天皇自身に先例はなくても、後世からすれば清和天皇が先例となる。そのため、適当なことはできない。
そこで律令派の登場となる。清和天皇は葬儀の次第を律令派に問い合わせた。より厳密に言えば、問い合わせてしまった。
律令派は、現実には対応できないが、儀礼ならば役に立つ。また、日本国内に先例はなくても、国外の先ならばあるかもしれない。
ただし、律令派はたくさんいるが一枚岩ではない。一〇人いれば二〇通りの答えが出るのが律令派である。
これに問い合わせるとどうなるか?
次から次へと意見が出て収拾がつかなくなる。
まず返答したのが、大学頭で文章博士でもある巨勢文雄であった。巨勢文雄は中国の歴史書に皇帝の祖母の葬儀の記録があるのを持ち出し、三日間の国事行為の停止と三年間の服喪とすべしと上申した。この上申の文章は長い。
次いで発言したのが橘広相。広相は国全体が五ヶ月巻の服喪とすべしとした。来年の春まで国の公的活動を停止すべきとしたのである。やはりというべきか、こちらもまた文章が長い。
そして、三番目に登場したのが菅原道真である。道真は多くの伝記が残っているので生涯を追うことは可能だが、国の定めるオフィシャルな歴史書に登場するのはこれがはじめてとなる。
このときの道真は大学に身を寄せる若き学者に過ぎず、貴族ではないため権力もまだないが、その才能はこのときすでに目を付けられており、律令派の若きホープと見なされてもいた。ただし、道真は律令派が考えているほど律令派ではない。学者であることは間違いないのだが、学者イコール律令派ではないということである。
道真は服喪期間が国の経済に与える影響を述べた上で広相を批判し、国全体が喪に服するのではなく、清和天皇が三年間の喪に服せばよいと結論づけた。天皇の行う国事行為についても禁止ではなく制限で良く、死者に礼節を尽くせばそれでよいとしたのである。
これは広相を激怒させた。
律令派の若手と期待をかけていたのに、ここで自分を批判したことに我慢ならなかったのである。
広相にとって、批判というのは、自分が他者に対してするものであって、自分がされるものではない。それでも敵と考えた者の批判であれば譲ることもできなくもないが、広相に言わせれば、道真が若き学者として脚光を浴びているのも自分のおかげであり、その“恩人”に対する態度ではないと広相は考えたのだ。
一方、道真はそんな考えなど持っていない。広相を“恩人”だなどと考えたこともないし、広相が批判の許されぬ神聖不可侵な存在だとも思っていない。それに、道真は自分のことを学者であることは認めるが、律令派ではないと考えているし、広相の派閥に属した覚えもない。
だいいち、道真が広相に対し恩義をいだくわけなどなかった。
先に道真は貴族でないと記したが、道真が貴族でない理由、それは広相にある。
道真はこの前年、この当時の国内最難関の試験である「方略試」を受験し、「中上」という成績ではあるが合格している。
この方略試という試験は、日本の歴史上、合格者は道真を含めて六五人しかいないというおそろしく難しい試験である。
これだけ難しいのには理由がある。
何しろ、合格イコール貴族任官なのだ。大学生は役人の一人としてそれなりの位を貰っているから、全くの無位無冠からの貴族任官というわけではないが、それまでは単なる一大学生であったのが、いきなり先人たちをゴボウ抜きして貴族になれるのだ。
大学生になるのも、卒業して役人になることだけを目的としているのではない。役人になったあとで出世し、貴族の地位を手に入れることが目的なのである。その貴族任官を一足跳びにできるとあって方略試は受験希望者が多かったが、合格者が出るのは三年に一度あるかないかという頻度でしかない。また、合格までに何度も挑戦するのが当たり前で、合格したときにはすでに定年を迎える年齢になっていたという、本人とっては悲劇、周囲にとっては喜劇も珍しくない。
この何度も挑戦するのが当たり前の試験に道真は二度目の挑戦で合格した。しかも二六歳という史上最年少記録での合格である。口の悪い者の中には方略試に合格したと言っても大した成績での合格ではなかったと罵る者もいたが、その罵る者が道真より優れた成績で合格したわけではない。
それ以前に、方略試を受験できるというだけでも一つの資格であり、国がその人の知性を保証するというものであった。合格できなかったとしても、方略試に挑戦したということはその者の役人のキャリアにプラスになって働くし、時間はかかるが、かなりの確率で貴族になれるのである。数多くの大学生にとっての方略試とは、極めて限られたトップエリートだけが挑戦を許される試験であり、挑戦できるというだけでも夢の彼方の話であった。
その夢の話を実現させた道真は、本来なら前年に貴族入りしているべきであったのである。
ところが、これに広相が異を唱えた。本音は、方略試に合格したことで道真が自分より上の位になることへの嫉妬心であるが、そんなことは表だって言えるわけはない。
そこで、表向きの理由として、まだ役人としての実績のない者を貴族入りさせるのはいかがなものかという理由を述べた。これは方略試の根幹を全否定する言葉であるが、他はともかく、学者の間の人事ならば広相はかなり幅を利かせることができる。
結果、道真は方略試に合格したものの、正六位上という、貴族まであと一歩という地位に留めさせられてしまったのである。
これで恩義に感じるとしたらその方がおかしい。
もっとも、口やかましい中年に逆らったのは認めるにしても、道真は個人的な理由ではなく、政治家としてのセンスで発言している。国全体が五ヶ月もの長きに渡って喪に服すという行為が経済に与える影響を危惧しており、広相の主張が通った場合、国民生活に与えるダメージが大きすぎると判断したのである。
そして、道真の主張には他の者と違って、中国の古典からの引用がない。
しかし、中国の古典に対する道真の知識は誰もが認めるものであった。何しろこの人は方略試に合格している。方略試で出される問題は中国の古典に限定されていると言っても良く、そのレベルも中国の科挙ですら子供だましにとしか感じられぬハイレベルなもの。当然ながら、生半可な知識では太刀打ちできるわけがないから、方略試の合格はそれだけでも中国の古典に対する知識を証明できる。
にも関わらず、古典からの引用がない。
引用がないのは当然で、道真は日本経済を考えて発言しているのである。
中国の古典には、どのようなときどのような政策を採ったかという記録ならばあっても、それが庶民の暮らしにどう影響を与えたかは載っていない。このことを知っている道真にとって、中国の古典は特に手本とするほどの存在ではないし、時間をかけてわざわざ議論するほどの代物でもなかった。
この道真の発言に律令派たちは騒然となった。
あの広相を批判して平然としているのが驚きだったのである。しかも、先例や古典ではなく、現在の経済問題を口にする道真の発言は、否定することイコール国民軽視となるのである。
かといって、何の意見も述べずに道真に賛成したのでは、自らの権威に関わる。
勘解由次官の安倍興行は、道真の意見に賛成した上で、清和天皇の服喪期間を五ヶ月に短縮するよう上奏した。この意見なら、国民軽視とならない上に道真に全面賛成するわけではないという意思表示をできる。
明法博士の桜井貞相は、あくまでも律令に基づいて、服喪期間を一ヶ月とするよう述べた。しかし、それは周囲の者からかなり苦しい法解釈であると見なされた。
明法博士というのは現在で言う法学部の学部長だから法律全般に詳しくなければならないのだが、それでもかなり苦しい法解釈とならざるを得なかったのは、律令にも、格式にも、太皇太后の葬儀に関する規定がないからである。
議論百出の末、朝廷は、服喪のため日本全国一斉に三日間の休日とし、天皇の国事行為については五ヶ月間の制限とすることとした。
たったこれだけのことに名だたる貴族たちが議論に議論を重ねただけでなく、貴族ですらない二七歳の若者の意見で場が一変する。これは、元々高くはなかった律令派の人気を落とすに役立つだけだった。
そして、良房が前面に立ってくれていれば、それがだめでも、せめて、叔母の死ゆえに喪に服さざるをえなくなっている基経がいればこんなことにはならなかったはずだという国民の期待を持たせることに繋がった。
貞観一三(八七一)年一〇月八日、大宰帥として対新羅戦の指揮をとっていた賀陽親王が亡くなった。このとき七八歳。桓武天皇の子であり皇位継承権も持っていたが、皇位を早々と諦め、親王として歴代の天皇を陰で支え続けた末の死である。
記録をたどってみても、賀陽親王は歴代の執政者たちから便利に使われ続けたことが見て取れる。
適切な人材がいないとなるとかり出され、権威を持った人材の派遣が求められると真っ先に派遣された。壊れた奈良の大仏を再建するのに奈良に向かわされ、奈良にずっと留まって大仏再建を指揮し、やっと迎えた完成式典を伴善男に台無しにされても耐え続けた。日本中が新羅との戦争で蒼然とする中、七七歳にして太宰府に派遣されてもその命令に従い、新羅との戦争の指揮を太宰府でとり続けた。
ここまでいいように使われながら文句一つ言わず、親王であることに徹しきった賀陽親王の死について、日本三代実録は何も記さない。藤原良相や藤原順子ですら略歴を記されたのに、親王でありながら何も記されず、ただ亡くなったと記されただけである。
これではあまりにも冷たすぎる仕打ちとするしかない。日本三代実録を編纂させた宇多天皇や、実際に編纂した源能有はいったい何を考えていたのかと疑いたくもなる。
だが、こうも考えられる。
記録そのものが失われたのではないか、と。
実は、貞観一三(八七一)年あたりから日本三大実録の記述が不明瞭になってくる。それまでであれば詳細に経歴が記されるべきところが省略されたり、律義なまでに誰がどんな地位に昇ったかを記したりしているのに、貞観一三(八七一)年あたりになると省略が増えてきて、死に伴う略伝がまるまる省略されたり、地位・役職といった人事も「誰が何に就いた」ではなく「このときに何名が昇格した」になるのである。
日本三大実録を記すにあたっての基礎となる資料が失われてしまい、日本三大実録が完成した時にはすでに省略が起こっていたのか、原本は省略されていなかったのに写本を書き写した者が重要ではないと判断して省略したかはわからないが、現存する史料には賀陽親王の略伝が丸々省略されて残されていない。
残されていない以上、賀陽親王の略歴は史料の他の記録に頼るしかないのである。
貞観一三(八七一)年一〇月二一日、応天門の再建が決議された。
ここで一つの問題が出た。
名をどうするかである。「応天門」のままとするか、それとも別の名前にするかで議論が起こったのだ。
順子太皇太后の葬儀であれだけ議論をしながら何も生まなかったことの教訓が生きていないのか、このときもまた議論は無駄に白熱した。
先陣を切ったのは、またも文章博士の巨勢文雄である。巨勢文雄はここでもまた、中国の歴史書から引用しだした。かつて中国で起こった火災の後の改名がどうだとか、洛陽や長安の名前がどうなっているかとか、長々と結論を述べた上で、応天門の名を変えるべきではないと結論づけた。
同じく大学博士菅野佐世は、部下の善淵永貞や船副使麻呂らとともに、すでに応天門の名で庶民の間に広まっているからと、長々と説明づけた上で、応天門の名を変えるべきではないと主張した。
結局、応天門の名は残った。
これもまた、いったい何のための議論であったのかと言わざるを得ない混乱である。
文徳天皇は律令に心酔し、律令派と行動をともにしている。周囲を律令派の面々に囲まれた暮らしをしていたため生涯内裏に足を運ぶことなく、おかげで、天皇としての暮らしの様子が少ししか残っていない。
一方、清和天皇は内裏で生活している。そのため、どういう暮らしを送ったのかの記録が詳しく残っている。天皇である以上、普段の政務で貴族と接することは必須であり、結果として、この当時の貴族がどんなものだった記録が残ってしまう。
貴族たちの発言は記録に残っている。残っているがそれは何の意味もない発言でしかない。無駄に議論を重ね続け、それでいて何も生み出さないのだから。
貞観一三(八七一)年一〇月二二日、貞観式施行。律令の施行細則が定められたことで、法はより明確になった。と同時に、叔母の服喪期間を終えた基経が内裏に戻ってきた。
その翌日、越前国の民衆が元国司の弘宗王を訴えた。律令の詳細が定められたこと、そしてその内容を知った民衆が、基経の復帰と貞観式施行開始を待って訴えたのである。
告発の内容は不正蓄財。不正に税を徴収し、不正に税を着服したというのがその内容である。
しかし、ただの不正蓄財では訴えても勝つ見込みがない。税の徴収自体は国司の正当な職務であり、徴収した税から自分の給与や国衙の予算を引いた残りを国に納めれば良かったのだから、道義的にはともかく、律令の文面だけでは「疑わしきは罰せず」に該当してしまうのである。
ところが、弘宗王の徴収を、税ではなく、出挙とすると話は変わってくる。実際、弘宗王はコメの貸付を行い、利子をとって回収している。
良房によって事実上消滅した出挙であるが、律令から完全に削除されたわけではない。そして、出挙の最高利率も法として無効になったのではない。となると、出挙の最高利率違反で訴えることもできるのである。
基経は難しい判断に迫られていた。
本音を言えば民衆の味方をし、ここで弘宗王を断罪して政権の支持をアップさせたい。しかし、貞観式施行の直後である以上、いかに律令を無視する態度を隠さないできた基経であろうと、律令に逆らっての処断はできなかった。
民衆の告発を受けた基経は、検非違使ではなく刑部省にこの件を任せた。何しろ弘宗王は、親王ではないとはいえ皇族に属していたのだから、人臣と同様に検非違使で処断させるわけにはいかないのである。また、施行間もない貞観式の運用テストケースにもなる以上、慎重な判断が求められた。
「皇族に属していた」と過去形で書いたのには理由がある。実はこのとき、弘宗王はすでにこの世の人ではなくなっていたのである。つまり、越前の民衆は故人を訴えたのであり、朝廷は故人を裁かねばならなくなったのである。
刑部省に任せたのはこうした事情を踏まえてのことであった。
これより二日後の貞観一三(八七一)年一〇月二五日、亡き弘宗王に判決が下った。
このとき議論されたのは、応天門放火事件のときの生江恒山の殺害事件との対比である。自分を訴え出た大宅鷹取の娘を殺した生江恒山と、その殺害を命じた伴中庸はともに死刑判決となり、温情処置で流罪になっている。
弘宗王は殺人容疑で審理されたわけではない。出挙の利率違反、今でいう闇金の取り立てすぎによる訴えであり、犯罪でないわけではないが、殺人罪と同罪とするわけにはいかない犯罪でもある。
それを殺人犯と同列に扱ったのだから、不可解と言えば不可解である。
しかし、越前国の民衆の気持ちに立ち返ると殺人罪と同列でもおかしなことではなかった。過剰な取り立てで追いつめられ、逃亡ならまだしも、自殺に追いやられる者や、我が子を売りに出す者まで現れたのである。これは、殺人事件に等しい大罪である。
しかも、弘宗王には前科があった。讃岐国司をしていたときにもその過酷な統治が民衆に訴えられ、斉衡四(八五七)年には牢に入れられているのである。このときは良相の取りなしによって釈放されたが、皇族でありながら牢に入れられたというのは極めて珍しい。
前科があろうとも、犯罪を悔い改めたのであれば何の問題もない。牢から釈放されたあとでまるで前科などなかったかのように真面目に日々を過ごし、逮捕される前の仕事に復帰して活躍するというのはむしろ賞賛されるべきことである。
ところが、再犯となるとそうはいかない。前回の入牢が何の意味もなかったことになるし、悔い改めの意志も全て嘘だったということにもなる。初犯以上に厳しい世間の目が向けられるのだ。
しかも、権力者として権力を振りかざす再犯である。納めても納めても税を搾り取られるのだから、一瞬の苦しみではなく、苦しめられ続ける犯罪をしでかすということになる。これは越前の民衆にとって、仕方のないことだなどと言ってやり過ごすことなどできない。
弘宗王は死んだ。しかし、それで犯罪をなかったことにするなど受け入れられることではなかったのだ。
この意志を汲み取った刑部省は、弘宗王に、考えられる最大の刑罰を下した。
過剰な取り立てによって自殺に追い込んだことは殺人であり、取り立てのために我が子を売りに出さなければならないところまで追いつめたのは人身売買に当たるとした上で、最高刑である絞首刑とし、恩情措置として一ランク刑罰を落として流刑とし、既に亡くなっているため刑の執行を停止するという判決である。
越前の民衆は、考えうる最高の刑罰が下されたことを受け入れた。