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摂政基経 6.元慶の乱

2012.04.01 01:30

 日本が干害に襲われて大変なことになっていることを理解して渤海使たちは帰国した。

 朝廷はこれで干害対策に専念できることとなった、はずであった。

 しかし、現在の科学でも干害はどうにもならないのに、この時代の科学ではもっとどうにもならない。できることと言えば神仏への祈りだけなはずであった。

 ところがここで、基経が一つのアイデアを出した。

 神仏への祈りを捧げる代わりに、神社や寺院の施設に組み込まれている池の水を川に放流しようというのである。祈りを捧げても効果無いなら池の水を干害対策に使ったって構わないではないか? 池の水を使うことに天が怒りを見せるのであれば、それは執政者たる自分の責任であるのだから、自分を摂政から罷免すれば良いではないか? そう主張したのである。

 元からして基経という人は神仏への祈願を信用していない。だから、神とか仏とかいうものが利用できるものならば利用するが、利用する価値がないと考えたらその備品を平気で利用する。それに、基経は自分に押しつけられている摂政という地位を疎ましく思っている。

 神社や寺院の池の水は神聖にして手をつけるべきではない水だと考える人が多いことは知っている。だが、今は農業用水の確保のほうが重要。ならば、祟りがあろうとそうした池の水を使うべきであり、祟りがあるというなら自分一人が引き受ければ良いというのである。

 一つ一つは間違いでは無い。

 だが、当の寺院や神社にしてみたらどうか。何しろ、他の農地が水不足で困っているさなかであっても所有する荘園は水不足に困っていなかったのである。理由は簡単で、所有する農地に所有する池の水を供給していたから。寺院や神社でなくても有力者の荘園は水の確保に恵まれていることが多く、干害に苦しんでいても少なくとも収穫に影響が出ない程度の水は確保できることが多かった。

 基経はその水をよこせというのである。しかも、神聖不可侵という考えを持ち出しても基経は受け入れないし、祟りがあると言い出したら責任をとって摂政を辞めると言い出した。これは苦虫を噛みつぶすしかなかった。

 元慶元(八七七)年七月一〇日、まず第一弾として神泉苑の水が開放された。これにより、周囲の田畑の水不足が少しではあるが解消された。


 神仏の水を使うことはその場しのぎでしかない。しかし、自分が干害で苦しんでいるのに、他のところで水に困らないところがあるというのは愉快なことではない。池の水の開放は、干害の対策としては焼け石に水である。しかし、不愉快な感情を消す効果ならばあった。

 願い続けていた雨が降ったのは元慶元(八七七)年七月一五日になってから。雷をともらう雷雨は干害に苦しむ農地に恵みの水をもたらした。雨は翌一六日になっても已むことは無く、苦しめられていた農民たちは外に出て騒ぎまくった。

 そんな中、国外から情勢が一つ届いた。

 元慶元(八七七)年七月二五日、唐の軍勢が黄巣の乱で優位に立ったというのである。日本にやってきた唐の商人が伝えるところでは、唐の軍勢が、王仙芝を沂州城下で大破したのである。この結果、王仙芝は殺害された。この情報を聞いたほとんどの日本人は、唐の内乱は唐の勝利に向かって大きく進展しだしたと誰もが考えた。

 雨が降り、渤海との同盟が延長し、唐の政情不安が解消に向かって動き出した。これは長い苦しみが終わりに向かいつつあるのだと誰もが感じた。

 この祝福が国内を包み込んだのか、元慶元(八七七)年は七月、八月と平穏無事な日々が続いている。


 その律令派に亀裂が入ったのが元慶元(八七七)年一〇月一八日。式部少輔であった従五位下の菅原道真が文章博士に命じられたのである。そのほかにも数名の者がこのタイミングで新たな役職を獲得したが、注目を集めたのは何と言っても道真だった。

 道真はすでに、当代最高の学者としての名声を集めており、最高の学者が就くとされる文章博士に道真が就くのはおかしな話ではない。しかし、道真は他の学者たちと距離を置いていた。つまり、反基経の律令派ではなかった。親友の源能有が今や摂政右大臣基経の右腕をつとめるまでになっており、道真はこのとき、律令派からは反律令派と目されていたのである。

 もっとも、道真自身は律令派でも反律令派でもない。文章博士に就いた道真は、大学の教育が政治的イデオロギーばかりで肝心の教育がないがしろにされていることを危惧し、ノンポリティークの実学を教育カリキュラムの主軸にしたが、それは律令派と距離を置く行動だったのであった。しかし、同時に、実学のカリキュラムの中に律令を組み込むことで、知識として律令を学ばせたのである。反律令派の中には律令を知らずして律令に反発する者も多かった。その中で律令を知識として身につけさせることは、道真を反律令派から距離を置かせることであった。

 これで律令派は重要な牙城を一つ失うこととなった。


 文章博士としての道真の功績の一つに、正式な歴史書では消えてしまっている歴史を残してくれていることがある。

 国が残す正式な歴史書でも、編纂者の私情が絡んだり、執政者の思いが刻まれたりするのは普通のことである。この結果、本来ならば歴史書に残ってなければならない出来事が抜け落ちたり、重要な出来事なのに簡潔にまとめられたりする。優秀な史料というのはこうした私情を挟むことなく、必要な記録を必要なだけ残した歴史資料のこととも言えるが、そういう記録はそう簡単には存在しない。その簡単には存在しない史料を残してくれたのが道真で、「類聚国史」と呼ばれるこの歴史書は物の見事に私情が消えているだけでなく、必要な記録が必要なだけ残っている。

 日本三代実録では失われている記録の穴を「類聚国史」が埋めるようになるのは道真が文章博士になってからで、例えば、元慶元(八七七)年一一月二一日に大規模な位階の昇進が行われたが、正式な歴史書である日本三代実録では源能有をはじめとする一部の者しか昇進の様子が残っていないが、道真はこの日の昇格の様子を、私情を交えることなく、その上だれ一人漏らすことなく、誰が何から何に昇格したかを記してくれている。

 ただ、惜しむらくが一点。正式な国の歴史書ではないため、現存していない巻が多い。応仁の乱で三分の二が失われており、このことが、平安時代初期の歴史を学ぶ上での痛恨事となっている。


 基経は少なくともこの時点まで摂政としての権力を発揮していない。あくまでも右大臣として政治を行っており、右大臣としての権力を行使するときは、上司である左大臣源融に問い合わせている。そして、左大臣の承認を確認した後、左右の大臣が合意した政策として発表している。

 だから理論上、左大臣源融は、右大臣藤原基経の政策をひっくり返すことだってできたのである。あくまでも理論上は。

 だが、摂政でもある基経の政策を誰がひっくり返せようか。基経自身がいくら右大臣として行動しようと、それは天皇の代理である摂政の行動となってしまうのだ。こうなったら最後、理論上はいかに認められていようと、現実の上ではいかに左大臣と言えど政策をひっくり返すことはできない。

 摂政藤原基経の誕生により、時代が自らの手を離れてしまったこと、自分が無力な存在なのだと実感した者は多かったが、左大臣源融もその一人だった。

 元慶元(八七七)年一二月四日、左大臣源融が左大臣辞任を発表する。辞任理由については公表されておらず、また、辞任がただちに却下されたため、その真相は闇の中であるが、想像は誰にでも思いつく。

 権力争いを繰り広げ、敗れ、今やその権力争いの敵に利用されるだけの日々。これを誰が快く受け入れるというのか。

 元慶二(八七八)年は雨で始まった。一月一日は雨のせいで朝賀が中止となったが、朝賀中止は毎年恒例のことなので誰も驚かない。

 通常であれば新年は一月七日前後に昇格があるのだが、前年に昇格が行われているのでこの年はない。

 その代わり、除目は例年通りに行われた。これまでであれば新たな役職を得た者の総数しか史料に残されていないが、この年は菅原道真のおかげで記録が全て残っている。

 除目は役職の高い順に発表されると決まっている。だから、いちばん最初に出てくるのは地位のいちばん高い人、つまり、いちばん偉い人なのだが、このときのトップに記されたのは従五位上の藤原房雄。そして、その役職は民部大輔。大臣でも納言でもなく、「大輔(すけ)」であり、その位階も従五位上と、貴族としては下から二番目である。

 これがトップなぐらいだから、新たに役職を手にした貴族にとっては特別な人事であっても、世間ではさほど注目される除目ではなかった。

 一人を除いて。

 その一人とは在原業平。陽成天皇の母藤原高子のかつての恋人として、また、名うてのプレーボーイとして、あるいは一流の文化人として名を馳せてはいても、出世とは無縁であった男である。平城天皇の実の孫という高貴な血筋もあってこのときは従四位上まで昇っていたが、すでにこのとき五三歳。人生五〇年と考えられる時代にあっては、もはや高齢者の一人である。その在原業平が相模権守になったことがちょっとした注目を浴びた。


 干害による前年の不作が、この頃、飢饉となって日本中を席巻していた。京都市内も激しい飢饉であったが、もっと激しかったのが和泉国と河内国の二カ国。

 元慶二(八七八)年一月二七日、この飢饉の激しい二カ国に対する緊急食料援助が行われた。また、京都市内のコメの値段が高騰しているため、常平司を設置してコメの廉価販売を開始した。

 ただし、これらの政策はコメの在庫に左右される。そして、コメが高値を付ける商品になったことは、飢饉に苦しむ人を横目に、コメの転売で儲ける者が続出したということである。

 基経は、コメの供給量を増やすべく、藤原家所有の倉庫のコメを市場に流したが、いかに摂政にして右大臣であるという高位の者であっても、一個人の財産でどうこうなるほど飢饉は軽いものではなく、基経の行動は、飢饉に対しては焼け石に水であった。もっとも、飢饉に対して私財を提供したというアピールは政治家としての支持を集めるのに役立つ。我々を見捨てない右大臣というイメージは基経にプラスになって動いた。

 一方、荘園を持つ者は、免税と引き替えに荘園で働く者の保護が義務づけられる。保護の最たるものは、何と言っても治安対策、つまり日々の安全だが、飢饉のときの食料支援もまた、荘園を持つ者の義務である。

 一人一人の貴族はそれぞれ執政者として国全体の保護に全力を尽くす義務を持つが、荘園所有者としては荘園で働く者を守る義務を持つ。極端なことを言えば「他の人よりも自分を守ってくれ」「他の人は飢え死にしてもいいから自分にはコメをくれ」という要求を飲む義務があり、その要求を飲まなければ荘園を維持できないのである。

 こんな要求を簡単に飲む者はどのような者か?

 出世をあきらめた貴族である。彼らは、国全体の利益など何一つ考えず、ただ自分たちの荘園だけが豊かになることだけを考えた。

 この結果、何が生じたか?

 貴族の間での貧富の関係が逆転したのだ。

 これまでであれば高位の貴族が裕福な貴族で、低位の貴族は貧しい貴族だったのに、この頃から、低位の貴族でも裕福さならばひけをとらない、さらには高位の貴族を上回る財力を持つ貴族が登場したのである。

 貴族として権威と権力を持てば持つほど、国全体に対する義務も増えていく。基経のように私財を差し出して飢饉対策にあたるのも、その地位と権力を考えれば当然とも言うべき義務。

 一方、地位も権威も低い貴族は期待される義務も少ない。国全体を考えることも期待されないし、私財の提供だって期待されない。自分の財産をため込むのに熱心になったら、軽蔑はされても政治家人生を終わらせる致命傷になるわけではない。

 中央での出世をあきらめて地方に住み着き、財力を蓄え、勢力を築き、権力を握る者が増えてきたのである。彼らは飢饉と無縁であった。


 この年の飢饉は京都とその周辺だけの悲劇ではなかった。日本中、いや、海を越え、国境を越えた先にも広がる大災害だった。

 唐では、天候起因による不作に加え、戦乱が農地を荒廃させて数多くの餓死者を招いていた。その上、王仙芝を捕らえてもなお戦乱が続き、黄巣の乱は終わるどころかますます泥沼にはまっていた。

 新羅は日本以上の不作による飢餓が起こり、食料を求め土地を離れ、国境の外に向かう者が続出していた。そのうちの少ない数が日本海を越えて日本を目指していたことが、この年に起こる悲劇の理由の一つとなる。

 元慶二(八七八)年二月五日、備後国から飢饉の連絡が届く。飢饉によりおよそ二〇〇〇戸が空き家となったと記録にはある。餓死もあったろうが、それより多いのが食料を求めての放浪。

 元慶二(八七八)年二月一〇日には京都で食料の無料配給が開始されたが、その受給者の少なくない割合が、地方の非荘園の農民だった。彼らは生きるために食料を求め、土地を捨てて京都に流れ込んできた者であった。

 この飢饉への対処を考えた基経は時事の大幅な入れ替えを考える。

 荘園ではない農地への増税が地方で不満を招いていることもあり、地方官を入れ替えることは地方の不満をそらす効果があった。ただ、決定的な対処とはならない。

 それどころか、事態はより悪化するのである。

 元慶二(八七八)年二月二七日、盗賊が内裏に忍び込んだのだ。それも紫宸殿という内裏の中心部。紫宸殿に忍び込んだ盗賊は軟障(ぜじょう・貴族の邸宅で用いられた布製の間仕切り)を奪い取り逃走しようとした。宮中で使われていう軟障だから普通に売られているようなものではなくかなりの高級品。出所不明の盗品であることを差し引いても闇市場では高くし、成功すればしばらく食べていける。

 この盗賊は近衛舎人によって捕らえられたが、強盗が宮中にまで忍びこんだというのは、飢饉の深刻さが治安の不安定さにつながっていることを知ら示すこととなった。


 飢餓と飢饉とはどう違うのか?

 飢餓は個人の問題である。一個人として食料を手にできず空腹である状態が飢餓であり、食料が手に入れば飢餓は解消できる。

 だが、飢饉となるとそうはいかない。人口を満たすだけの食料が社会に存在しないのだから、その少ない食料を奪い合う事態となる。食料の余っているところから食料が不足しているところに食料を移すことができなければ、飢饉は解決しない。

 しかも、飢饉は一過性の問題ではない。今ここで来年の食料を獲得する手段を立てておかないと、来年もまた飢饉になってしまうのだ。

 ところが、この時点ですでに来年の収穫が怪しくなっていた。田畑に農民がいないのである。いるとすればそれは荘園で、荘園ではない田畑の農民が劇的に少なくなってしまっていたのだ。

 清和天皇の始めた増税は不作でも容赦なく襲いかかっていた。税を払ってしまったら後には何も残らず、最低でも一年は食べていけるだけの食料が手元になければならないのに、そんなものないという事態になってしまった。

 そのとき農民が選んだ行動が、逃亡だった。自分たちの暮らしを維持するために税の支払いを拒否し、持てるだけのものを持って逃亡したのだ。

 税が払われないということは国家の運営ができないというだけの話ではない。飢饉に苦しむ人に食料を分け与えることができないのである。この時代の税は現金ではなくコメ、そして、飢饉の支援に使われるのも税として払われたコメである。

 個々人の行動は自分の生活のためであっても、全体で見るとより貧しい人を苦しめる行動になるというのは珍しくもない。貧しい人のための行動と考えられている労働運動によって労働者に対する手厚い保護が誕生したことで、安定した暮らしを送れる労働者と、安定さなど考えるだけ無駄の派遣労働者という勤労者の二分化が起こっているように、自分の暮らしを優先させた結果、社会全体で取り返しの就かない惨事を招くことはよくある話である。

 元慶二(八七八)年三月一五日、基経は、父良房が否定した班田を活用することとした。放置された田畑をいったん収容し、京都とその周辺に流れてきた逃亡者に強制的に配ったのである。そして、配られた田畑で働いて自分の食い扶持を自分で稼げと命じたのだ。

 ただし、清和天皇の増税は適用させなかった。税は納めさせるがその税率はあくまでも律令によるとしたのである。

 班田を実施すること、税率を律令に基づかせること、この二つは律令派も何ら文句を付けられない政策であった。

 これにより、都市部の貧困、失業、そして、来年度の飢饉対策の道筋がついたと考えていた基経のもとに、出羽国からとんでもない報告がもたらされた。



 出羽国秋田で反乱発生。


 元慶二(八七八)年三月一五日に発生した反乱の知らせが京都にもたらされたのは三月二九日。当時としては異例のスピードである。

 報告によると、反乱の中心となっているのは「夷俘」たち。つまり、日本人ではなく、北海道に住む蝦夷と、かつて東北地方に住んでいた蝦夷の子孫の手による反乱である。蜂起した彼らは手始めに秋田城を襲い、三日後に秋田城を陥落させた。秋田城司は脱出に成功したが、城に務めていた兵士や周囲の民家で少なくない被害が生じた。

 現在の秋田市は秋田県最大の都市であるが、東北地方最大の都市ではない。しかし、この時代の秋田は東北地方最大の、そして、東日本でも有数の都市であった。

 秋田城は日本海に近く、すぐ近くには秋田港がある。秋田港はこの時代の日本海沿岸航路の重要拠点であり、本州と北海道を結ぶ航路の中継地点として秋田は発展していた。また、日本海に面しているため、日本海沿岸の航路だけではなく、日本海を横断する航路も存在しており、日本海の向こうの新羅や渤海との交易も盛んだった。

 その上、秋田城の周囲に広がる農地は生産性が高く、河川にも恵まれているため、前年の干害でも被害を少なく抑えることができていた。

 さて、東北地方最大の都市があり、その都市は発展していて、飢饉の被害も少ないというとき、周囲の人はどう感じるだろうか?

 最初に思いつく感情は移住だろう。今の暮らしでは生活が苦しいが、秋田に行けばどうにかなる。そう考えて、それまでの農地を捨てて秋田にやってくる者が多かった。秋田にとっては「来てください」と願ったわけではないが、まあ、移住であれば問題なしとして受け入れるであろう。

 だが、中にはそういう考えを持たない者がいる。

 自分たちの暮らしが貧しいから、奪う。そう考える者たちである。襲いかかっている側にしてみれば正当な行為であり、これは戦争であると強弁できるだろうが、被害を受けた側からすれば冗談では済まない。奪われ、犯され、殺されるという犯罪であり、どうあがいても受け入れることなどできないことであった。

 秋田には前例があった。貞観一七(八七五)年一一月一五日、北海道の蝦夷が船に乗って秋田に襲いかかってきたという事例である。あれから三年しか経っていなかった。


 のちに「元慶の乱」と呼ばれることとなるこのときの秋田の反乱は、計画的に始まった反乱と考えられている。目的は今の自分の飢えを解消するためであり、反乱の首謀者もわかっていない。ただただ、集団で無秩序に暴れているだけであるが、そのタイミングは絶妙であることから何かしらの首謀者がいて、計画を立てての一斉蜂起であると考えられている。

 研究者の中には、この元慶の乱を、日本に支配された蝦夷たちが起こした民族運動であると考え称賛する者がいるが、その考えには納得できない。

 百歩譲って民族運動であったとしても、その行動には称賛などできない。

 このときの反乱の参加者は史料上「夷俘」とされている。つまり、秋田にいる蝦夷が暴れていると記されており、日本人が暴れているとは記されていない。ゆえに民族運動であるとの見方はできる。

 だが、民族運動ならば何でも良いのだろうか。やっていること殺人であり強盗であり強姦。そこにあるのは犯罪以外の何物でも無い。

 民族運動だというのならば民族アイデンティティに訴えて、民族一丸となって立ち上がるべきである。だが、このときの反乱の被害者も元を正せば蝦夷である。日本に恭順し日本人として生きることを誓った者の子孫だから、自分に蝦夷の血が流れているということは知識としてはあっても意識には無かったであろうが。

 この時点で、本州統一から六〇年以上を経ている。本州全土が日本の領土となった後、蝦夷には二つの選択肢が与えられた。北海道に渡ってこれまでの暮らしをするか、本州に留まって日本の暮らしをするかである。本州に留まった蝦夷たちは日本の支配を受け入れ、日本の文化を受け入れ、日本の言葉を受け入れた者である。日本は彼らを差別することなく、日本人として扱っている。日本人として生まれ、日本人として育ち、日本語を生活言語としている以上、自分は蝦夷だと思わない者は多かった。

 しかし、それは全員ではない。特に、現在の暮らしが厳しいことへの不満を蝦夷としての民族アイデンティティに求める者はいつの時代にもある程度はいる。ただし、それは少数派。圧倒的多数は蝦夷の血を引いていても日本人であろうとした。

 蝦夷としてのアイデンティティに立った者にとっては、蝦夷の血を引いていても日本人であろうとした者は敵である。敵であるがゆえに容赦なく襲いかかる。もっとも、それは理屈であって正論ではない。目的は奪って自分たちの不足を補うことであって、その対象が日本人ならば民族運動を名乗れるし、日本に帰順した蝦夷であっても裏切り者として処遇するが、そんな者は後付けの理屈で、主目的は略奪にある。

 略奪を求める集団を、犯罪者として認識するか、戦争の敵として対等に扱うか。

 普通に考えれば前者である。

 攻め込まれている秋田城サイドとして、真っ先に扱わなければならないのは人命の保護。秋田城とその周囲に広がる都市に住む者の人命を守ることを最優先し、残された戦力で抵抗を開始した。戦争ではなく、暴れ回る犯罪者から市民の命を守るためである。出羽国府は反乱鎮圧のために兵を出動させたと同時に、陸奥国に二〇〇〇名の兵士の援軍派遣を要請した。


 朝廷にとってこの反乱は絶好の材料であった。

 飢饉というのは極めて厳しい社会状況である。中央政府に対する不平不満も高まるし、それが爆発することだってある。何しろ生きるか死ぬかという瀬戸際なのだ。瀬戸際に立たされた人間は多少なりとも過激な行動を引き起こす。個々人で行動するなら強盗で済むが、集団で行動したらそれは暴動になる。しかし、出羽国で反乱が起こったことを大々的に宣伝すること、そして、反乱の参加者が日本人ではなく異民族であることを主張することで、今は他国から侵略を受けている最中なのだと思わせることができた。いま自分たちが被害を受けており、そのせいで日々の生活が苦しくなっていると考えさせることで、国民の不満を逸らすことができるのだ。

 その上、朝廷は一つの情報を掴んでいた。それは、出羽の反乱に新羅が荷担しているという情報である。新羅の対馬侵略を断念させたのは貞観一八(八七六)年三月だから二年前、つまり、ついこの前のことである。日本にしてみれば降伏させ賠償金を得た勝利の過去であっても、新羅にとっては屈辱の過去でしかない。その屈辱を晴らす方法は一つしか無い。日本に勝つことである。

 その日本への勝利の方法の一つが、日本国内での反乱の荷担だった。特に、日本に侵略された民族として蝦夷を規定し、蝦夷アイデンティティに訴えて日本に叛旗を翻させることは、新羅にとって有効な手段だった。

 秋田は港町であり、新羅との通商を行う港のうちの一つでもある。外に対して開かれているということは、外から入り込むのも容易だということ。そして、出羽国には新羅人コミュニティがあった。

 さらに、北海道に住む蝦夷も利用できた。彼らは三年前に秋田に攻め込んだばかりである。彼らに言わせれば東北地方は蝦夷の領地であり、東北で栄える秋田の富は蝦夷の物である。三年前は失敗したが、それは諦めを意味するものではなかった。この北海道の蝦夷に対し、新羅は武器を輸出し援軍を派遣したのである。

 これは蝦夷の蜂起ではなく、日本が蝦夷と新羅の二つから侵略を受けているということだった。


 新羅の攻撃は秋田だけでなく他の場所でも起こった。軍勢を派遣しての大規模な侵略というのはそう簡単にできるものではない。しかし、少人数を派遣してのテロであればそれは可能である。

 元慶二(八七八)年四月八日、大和国にある興福寺が放火された。首都京都ではなく、奈良にある興福寺が燃やされたのは、興福寺が藤原家と密接につながっており、かつ、かつての百済王家との関係も持っていたからである。また、この頃には東大寺を越える奈良の最大勢力の寺院となっていて、比叡山延暦寺と仏教勢力を二分していた。

 その興福寺が燃やされた。

 新羅の考えに基づけば、神仏の加護もないという絶望を日本に与えることであった。

 ところが、新羅の思惑は外れる。日本はこの蛮行にさらなる怒りを増しただけであった。

 テロリストがバカなのはこういうところである。攻撃は確かに恐怖だし、その攻撃をするテロリストそのものにも恐れを抱く。だから、少人数によるピンポイントの攻撃は、恐怖を抱かせる手段としては有効である。だが、それと要求が満たされることとは絶対に一致しない。攻撃されるということは、相手への憎しみを増し、善良な一般庶民ですらテロリストへの制裁も厭わなくなるということである。

 新羅への恐怖は確かに起こった。だが、それは一般庶民の新羅への怒りを増すだけであった。


 戦争のとき、通例のイベントを自粛させるのはメリットがない。イベントの自粛は戦争によってただでさえ落ち込んでいる景気を悪化させるのみならず、戦争に動揺していることを敵に知ら示すこととなってしまう。

 逆に、戦争などないかのようにごく普通にイベントを開催すると、景気の悪化を抑えられるし、何より戦争に動じていないという姿勢を打ち出せる。

 元慶二(八七八)年四月二〇日、基経は、賀茂祭をまるで何事もなかったかのように開催させた。

 これが国内外に与えたインパクトは大きかった。

 テロへの恐怖など感じていないし、戦争に動揺もしていない。京都では何事もないかのように当たり前の日常を過ごしているというニュースは、侵略している側には絶望を、侵略されている側には希望を与えるものだった。

 戦争でも変わることのない日常、これが基経の基本スタンスであったし、他の貴族たちにも共通認識として受け入れられていた。

 ただし、放っておいて事態が解決するとは誰一人考えていない。

 元慶二(八七八)年四月二八日、出羽国司の藤原興世から最新情報が届いた。

 攻め込んでいる蝦夷、およそ一〇〇〇名。迎え撃つ出羽国の兵士は六〇〇名ほど。この戦力差があって現在は応戦も難しい状況であり、六〇〇名の兵士のうち五〇〇名あまりが戦死。その中には、少ない兵士を率いて善戦していた伴貞道も含まれる。

 軍勢の崩壊した秋田は無秩序が支配するようになり、数多くの家や村が灰燼に帰し、多くの者が殺された。

 陸奥からの援軍もあるが、同時に、上野、下野の二ヶ国からそれぞれ一〇〇〇名ずつの援軍を要請したいと同時に、出羽国の兵糧が蝦夷に奪われたため、飢饉に悩まされた民衆を救援するための物資も支援していただきたい。

 朝廷はこの要請を聞き入れ、物資の支給と兵の派遣を命じた。飢饉のために国庫からの物資支給は困難となっていたが、興福寺をはじめとする荘園所有者からの寄付によってまかなわれることとなった。


 元慶二(八七八)年五月四日、従五位上右中弁藤原保則を正五位下に昇格させると同時に、出羽国司に任命して派遣した。

 藤原保則は藤原家の人間だが藤原北家の人間ではなく、藤原南家の人間である。藤原北家全盛とは言え、良房にしろ、基経にしろ、北家だけを優遇すると言うことはない。優秀な人間であれば抜擢するし、最良のポジションを用意して最良の活躍をするように配慮している。

 藤原保則がその能力を発揮したのは地方統治能力であった。貞観八(八六六)年に備中国司に任命されると、備中国内で大規模な農地改革を行い、備中国内の生産性を向上させて失業者を激減させ治安を向上させた。

 さらに備前国司に異動すると善政はさらに評判を呼び、任期満了を迎えて京都に戻るときは備前の国中から人々が集まって泣いて別れを惜しんだ。

 地方の善政で評判を呼んだ藤原保則だが、京都に戻ると行動が一変する。検非違使佐として京都の治安維持の副官に就任すると、犯罪者に対し容赦しない厳しい態度が京都の盗賊を恐怖に陥れた。

 地方官としての善政と検非違使としての厳しい態度は、このときの出羽の問題を考えるにあたり重要な判断材料となったであろう。だが、このときの藤原保則は従五位上。正五位下に昇格はさせたが、それでも貴族としてはかなり低い地位である。ゆえに出羽国司という地位での赴任となったが、誰が見ても藤原保則が今回の出羽の反乱に対する最高責任者であった。

 また、藤原保則は自ら副官を選んでいる。貴族ではなく役人であり地位は低いが能力は申し分なかった。左衛門権少尉に清原令望(きよはらのよしもち)、右近衛将曹に茨田貞額(まんだのさだぬか)と抜擢した。二人とも蝦夷の子孫であり、蝦夷の言葉を話すことはできた。しかし、日本人として役人世界に足を踏み入れており、その能力でここまで活躍してきた。

 そしてもう一人、藤原保則の推薦で一人の人間が脚光を浴びた。対新羅戦で対馬に留まり前線を指揮した小野春風である。ただし、この時点ではまだ派遣の対象に数えられてはいない。


 元慶二(八七八)年五月五日、出羽からの情報が届く。反乱軍に対し防戦一方となっており、戦線は膠着している。兵糧不足から蝦夷の動きも乏しいがこちらも兵糧不足で満足に行動できない。

 これだけを聞いた朝廷は反乱鎮圧も時間の問題と考えた。

 蝦夷は食糧の確保に失敗し、いずれ撤退せざるを得ないだろう。撤退するタイミングと援軍到着を合わせれば蝦夷軍の壊滅は時間の問題のはずだった。兵力も違うし、援軍は充分な兵糧を運搬している。この時代の軍事は太平洋戦争の時と違い、精神力ではなく物資の保証により兵の志気を上げていた。

 しかし、およそ一ヶ月後の元慶二(八七八)年六月七日に届いた報告は朝廷の予想を簡単に裏切るものだった。

 敗戦。

 蝦夷軍の前に日本軍が破れ、秋田城が完全に陥落したのである。

 陸奥国より派遣した騎兵一〇〇〇、歩兵二〇〇〇。ここに出羽国に待機していた兵士二〇〇〇名があわさり、歩騎合わせて五〇〇〇名の軍勢で蝦夷軍に対峙したのだが、この五〇〇〇の兵士が敗れ去ってしまったのだ。しかも被害はそれだけではなく、秋田城内に運び込まれていた甲冑三〇〇、米七〇〇石、寝具一〇〇条、馬一五〇〇匹が蝦夷軍の手に落ちた。

 さらに、この蝦夷軍の戦火は秋田城から北へと拡大し、秋田城の統治下にあった一五の村のうち、上津野、火内、榲淵、野代、河北、腋本、方口、大河、堤、姉刀、方上、焼岡の一二の村が蝦夷の支配に落ちた。残る添河、覇別、助川は日本の勢力下にあったが、このままでは落ちるのも時間の問題であった。

 その上、津軽の蝦夷も反乱に加わるようになっただけでなく、北海道の蝦夷も海を渡って秋田へと上陸。さらに新羅からの軍勢も秋田に集結し、一大軍事勢力が秋田の地に誕生してしまったのである。

 一方、五〇〇〇の兵士を指揮する立場にあった藤原梶長は山道を逃げて命からがら陸奥国に戻る有様であった。


 元慶二(八七八)年六月八日、小野春風を鎮守将軍に任命した。出羽国司の藤原保則が政務の担当なら、小野春風は軍務の担当である。

 さらに、小野春風の副官として、坂上田村麻呂の曾孫である坂上好蔭を任命。精鋭の兵士五〇〇名を派遣してのゲリラ作戦を展開することとなった。

 一方、蝦夷軍からこのとき、初めて朝廷に対する要求分が突きつけられた。

 秋田以北の領土割譲。

 彼らに言わせれば、かつて侵略して日本領とした土地を蝦夷に変換せよという要求であった。

 とてもではないが受け入れられない要求であるとして交渉はただちに決裂した。

 しかし、これは敵の姿が明確になったと言うことでもある。

 食べていくためには攻め続けなければならないが、攻め続けるだけの対象がなくなってしまっただけでなく、いかに日本軍に勝っていようと蝦夷の犠牲も大きい。こうなると、増えてしまった集団をどうにかして維持しなければならなくなる。

 もともと食料を求めて暴れ出し、奪い、犯し、殺しまくった結果、廃墟となってしまったのが秋田城の周辺であったし、周辺の村々も同じこと。それを支配することになったというのは、今度は、蝦夷のほうが保護者として生き残った者を保護する義務を持つ。そうしなければ集団を維持できないのだ。

 となれば、集団として形作られた蝦夷軍と対処すれば良い。

 蝦夷軍の恐ろしさは何と言ってもその無秩序のゲリラ戦術にある。いつどこでどのように攻め込んでくるかわからないから正規軍同士の戦いよりもやっかいになるし、人命を顧みず人海戦術で襲いかかってくるから、殺しても殺してもきりが無い。勝敗も明確にならないまま自分たちの被害が増えているというのが蝦夷との戦争だった。

 ところがこれからは敵の姿が見えるのである。これはわかりやすい。


 元慶二(八七八)年七月一〇日、出羽国から、国司藤原保則が到着し、直ちに対策を開始したとの報告が届いた。着いてすぐに行動を開始できたのは、出羽への移動の課程でも出羽の情報を常に得続けていたからであろう。

 保則には一つのプランがあった。

 蝦夷の武力は出羽の正規軍を打ち破るものがあり、秋田城下の一五の村のうち一二もの村を陥落させたが、肝心の村の統治能力はない。武力で支配下に置いたと言うだけで、支配を維持するビジョンがないのだ。

 それでも秋田を支配に置いたということで、秋田周辺から蝦夷を自認する者や、北海道の蝦夷を呼び寄せていた。そして、日本への反逆ということで、日本的な文化を捨て蝦夷アイデンティティに基づく生活をするように迫った。だが、秋田の豊かさは日本的な農業文化による結果であって蝦夷の生活に基づくものではない。自然からの恵みに大部分を期待するような暮らしをしては秋田の豊かな暮らしを手にはできないのだ。そう気づいたことで、アイデンティティを無視してでも、今までのように日本の暮らしをして、その収穫を求める以外に方法がないと悟った。

 これは蝦夷の不満を招いた。豊かさでいけば日本の暮らしのほうが豊かであるところは蝦夷たちも認めてきた。その暮らしをせずこれまで通りの蝦夷の暮らしをしているのは、それが自分の蝦夷としての誇りに関わる問題だからである。彼らの考えでいけば、日本人が日本の暮らしをし、その収穫を蝦夷である自分たちが奪うのが正当であり、誇りを捨ててまで自分たちが働いて収穫するというのは納得できないことであった。

 それでも中には、現状を理解して日本の田畑を耕す覚悟を持った蝦夷もいたが、襲撃して破壊の限りを尽くした結果、農地は破壊され、農民はいなくなっていた。呼び寄せていた蝦夷は日本人の代わりはできず、産業の回復は困難になっていた。

 つまり、秋田を支配したといっても、当初の目的である生活苦の解消にはつながらなかったのである。これではいったい何のための反乱であったのかという自問が蝦夷の間に生まれていた。

 これが保則のプランの答えであった。

 元を正せば生活苦から起こった反乱である以上、解決するには生活苦を解消するしかない。蝦夷の生活苦が解消されれば、かなりの確率で反乱は無意味となり、今後の反乱の可能性も消滅させられるのだ。蝦夷と戦うのではなく、蝦夷を内部に取り込んでの発展解消。これが保則のプランであった。

 蝦夷が村を支配下に置いたといってもそれは武力で押さえつけているだけ。村人を多数殺したが皆殺しにしたわけではない以上、何名かの村人は生き残っている。蝦夷の支配する村に残った者もいるし、脱出して他の村に逃げ延びた者もいるが、彼らに共通しているのが、蝦夷の支配を喜んで迎え入れているわけではないということ。つまり、犯罪者が暴れ回っているので困っており、一刻も早く助けてほしいと願っているということ。そのためには武力を手にすることも厭わなかった。

 蝦夷をくい止めることのできている三つの村で、兵士を集めての訓練が始まった。

 と同時に、保則は被災者の生活の保障をしたのである。ただし条件が一つ。日本に従い蝦夷に抵抗すること。それさえ守れば、日本人だろうが、北海道から渡ってきた蝦夷であろうが差別はなかった。

 朝廷は保則のこの政策を認めると同時に、援軍のさらなる派遣を決定。常陸、武蔵の二カ国から二〇〇〇名の援軍が派遣された。

 それにしても二〇〇〇名である。坂上田村麻呂の頃は数万人規模の派兵が当たり前だったのに、この頃になると数千がやっとという時代になってしまっていた。


 元慶二(八七八)年七月一七日、それまで従二位であった基経が正二位に昇進した。摂政の職務ゆえの昇格であることが公表されると同時に、秘書役である内舎人が二人、ボディーガードをつとめる近衛が八人、基経に就けられることとなった。

 いずれの栄誉も前代未聞のこと。昇格はともかく、秘書役とボディーガードの配備というのは過去に例がない。

 無論、これまでの執政者に秘書やボディーガードがいなかったわけではない。ただ、国からの配属ではなく、自費で雇っていた。摂政としての前例となると良房しかいないので良房のことを記すしかないのだが、良房は秘書役もボディーガード役も自分で選んでいる。その身分は民間人であり、官職は、無いか、あっても低いものであった。給与や生活の保障といった待遇はそこいらの役人よりも上だったが、その待遇は国から保証されたものではない。

 一方、このとき基経に就けられた一〇名はいずれも貴族であった。地位は低いがそれでも五位以上の位階を得ていたのである。

 ここで注目されるのは、このとき就けられた八名のボディーガードたち。どうやら彼らは武士であった。武士という存在の定義が不明瞭ならば、官職として命令を受けたがゆえに武装する武人ではなく、土地と住民を守るために自分の意志で武装して戦う者とすべきか。

 武将であり貴族でもあるという者は藤原良相を最後に朝廷から消えていた。しかし、武人であり貴族であるという者はいた。だが、それはあくまでも官職としての武人であって、自ら進んで武器を手にしたわけではない。自らの意志で武器を手にする武士であり、五位以上の位階を持つ貴族でもあるという存在が確認できたのはこのときがはじめてである。

 良房は武士を認識していたが、認識していたというだけで、武士に自分自身を守らせてはいないし、役人として有能であるという理由で位階を与え貴族に列することはあっても、武士であるという理由で官職を与えてもいない。

 ところが、基経の周囲を守るのは、武士であり、同時に貴族でもあるという者である。こうした者は、個人としての武力もさることながら、武装した集団を率いる能力に長けてもいる。確かに基経個人のボディーガードは八人だが、藤原家全体を守る武士団という存在が誕生したのだ。しかも、それが国の職務の一つとして。

 ただし、基経自身はこの処遇に反対している。摂政であるがゆえの人材配備など不要であるし、国費の浪費であるとしたのである。そして、どうしても摂政としての処遇を行うのであれば、自分を摂政から外してもらいたいとしたのだ。

 基経のこの申し出は清和上皇によって却下された。


 元慶二(八七八)年八月四日、出羽から戦況が伝えられてきた。

 日本が優勢であるという知らせである。

 本能のまま暴れた蝦夷たちを待ち受けていたのは生活苦が改善されないという事実だった。襲って奪った食料が底をついただけでなく、食料を生み出すはずの田畑は荒れるがまま放置され、この年の収穫は期待することすら無駄になった。

 というところで日本側からの反撃である。日本軍には食料があるし、次から次へと援軍がやってくる。蝦夷は個々の戦闘で日本軍に勝っても、日本軍は勢いを増すばかりであった。

 空腹に耐えて戦闘に挑んでも、待っているのは敗北のみ。戦うたびに仲間が減り、生きて自軍の陣地に戻っても、食料もなく、ケガの手当てもできないまま。

 その上、藤原保則は蝦夷たちに投降を呼びかけていた。日本に投降すれば、食料と、当面の生活を保障するという呼びかけである。

 蝦夷たちは、皆が集まるところでは、日本の誘いに乗らずに戦い続けることを誓い合っていたが、一人になったときには日本への投降を考えるようになっていた。作戦会議を開くべく仲間を集めるたびに、一人、また一人と仲間が減っているという現実を目の当たりにしては、自らの決心も揺らいでしまう。


 元慶二(八七八)年九月五日、出羽からの最新情報が届いた。

 蝦夷の反撃である。

 秋田城が炎に包まれ燃え尽きたとあるから、軽い反撃ではなかったろう。

 蝦夷の立場に考えれば理解できなくもない。

 仲間が毎日減っている。

 戦闘でも負けている。

 奪った村が次々と奪い返されている。

 食料は尽きた。

 このままでは、自分たちが迎えることになる運命は二つしかない。日本軍に投降するか、死ぬかである。日本軍と戦えば戦いで死ぬし、戦わなければ飢え死に。新羅からの援助と言ってもそれは武器だけで、援軍もなければ食料支援もない。ただ焚きつけただけであり、もはや新羅を期待することもできない。

 蝦夷の援軍もまた期待できない。蝦夷の民族アイデンティティに揺さぶられた若者がやってきたのも、もはや昔話。援軍を求めても言を左右にのらりくらりとかわされるばかりで、たまに話に応じるところがあったかと思ったら、それは反乱を起こしたことへの激しい罵倒だった。日本相手に反乱を起こし、それで生活が改善されるどころか前より悪化しているとあっては、いかに民族アイデンティティを訴えようと無意味である。このままでいれば勝者の一員になれるのに、誰が好き好んで負け組に荷担するだろうか。

 秋田で反乱を起こした蝦夷たちは、日本だけでなく、仲間であるはずの蝦夷さえ敵に回してしまったのだ。周囲の全てが敵という現実に反乱軍は絶望した。かといって現実から逃げることもできなかった。北の津軽や海を越えた北海道に逃げることを考えた者はいたが、待っていたのは日本軍による拿捕である。この時代の日本は死刑が執り行われなくなってはいたが、戦闘での死や、捕らえられてからの処刑は日常だった。

 この絶望を前にした最後の抵抗が、秋田城の炎上だった。秋田のシンボルとして君臨する秋田城を灰にする。これならば蝦夷のプライドだけは維持することができた。


 出羽の反乱はこの時代の日本が抱えている問題を一瞬にして吹き飛ばす効果があった。無論、飢饉が解決したわけではないし、飢餓に苦しむ人がいなくなったわけでもない。ただ、その危機を受け入れ、耐えることを決意したのである。

 出羽の反乱が日本の勝利に終わりそうだということは、都に住む者の最後の自尊心として有効に働いていた。飢饉に苦しむ最中にあってもその飢饉を受け入れ、不満を口にすることなく飢饉に耐えていたのである。これが、戦争というものの持つ麻薬のような効果である。通常であれば食料を求める暴動が起こってもおかしくないし、食料を巡っての窃盗や強盗が頻発するところでなのに、今は戦争中であるというニュースだけが治安を好転させ、暴動を未然に防いでくれる。貧困にあえいでいる国が国外の敵を作り出して、懸命に戦争を口にするのもこうした麻薬的効果を狙ってのこと。ただし、自分のほうから戦争を口にして危機感を煽っている現在のこうした国に対し、この時代の日本は予期せぬところで起こった反乱を移用したという違いがある。

 この時代の考えで行けば、自然災害というのは執政者に対する天からの裁きということになるのだが、ここでもまた出羽の反乱は有効に働いた。天災に対する不満ではなく、戦争の最中なのだから耐えようとする考え、そして、戦争の最中にもかかわらず救援に当たってくれることの感謝の声が上がったのである。

 元慶二(八七八)年九月二一日、大雨が京都を襲って水害寸前となったが、住民避難を徹底させることで被害を未然に食い止めた。

 元慶二(八七八)年九月二六日、雷雨を伴った台風が近畿地方一帯を襲い、紀伊国府の建物官舎が二一箇所で破損。周辺の民家四〇三件が増水に流され、合計一〇名が亡くなった。

 元慶二(八七八)年九月二九日、関東で大規模な地震が発生。特に相模国と武蔵国での被害が大きく、数多くの死傷者が生じた。余震がおよそ一週間にわたって続いたという記録はあるが、その被害の詳細は伝わっていない。


 出羽の反乱は収束に向けて動き出していた。

 元慶二(八七八)年一〇月一二日、反乱軍の大規模な投降があったことが報告された。八月二九日におよそ三〇〇名の蝦夷が投降したのを皮切りに、反乱軍は音を立てるように瓦解していった。坂上好蔭の率いる二〇〇〇名の軍勢は秋田を奪還する事に成功し、小野春風の率いる軍勢は四七〇名と小規模であったが蝦夷へ与えたダメージは大きく、秋田の北へと進軍を続け、九月二五日には、蝦夷の反乱の首謀者七名を討ち取った。

 戦争で難しいのは投降した者の処遇である。自分たちに降伏したとは言え、襲いかかり、奪いまくり、犯しまくり、殺しまくってきた者たちである。また、兵士たちにしてみれば、昨日まで寝食をともにしていた仲間が、いま目の前でひざまずいている者たちに殺されたのだ。それを降伏したからといって生かしておけるのかというのは感情の問題である。

 これに対する、出羽国司藤原保則の判断は明確だった。投降した者は生かすだけでなく、投降した者に危害を加えた者のほうが罰せられるという判断である。これは兵士たちに不満を呼び寄せたが、保則はこの判断を断じて変えなかった。

 理由は明確である。

 真っ先に取り組まなければならないのは、二度と蝦夷の反乱を起こさせないようにすること。たとえ真の理由が生活苦であっても、過去の屈辱を晴らすためという理由を呼び出して反乱を起こさせることは許されない。

 ゆえに、反乱の理由になりそうな事項は今のうちに全て摘み取っておかなければならず、今回の反乱は暴れ回る犯罪者を取り押さえただけでなく、寛大な処置を与えたという図式にしなければならない。

 本州統一以後、数多くの蝦夷が蝦夷であることを捨てて日本人として生きることを選んだが、本州に留まって日本の支配を受け入れながら、蝦夷の生活を続けることを選んだ者に対する特別な処分はなかった。保則はこの方針を継続することを決めた。日本の支配を受け入れるのであれば蝦夷のままの暮らしをしても構わないし、本州に住み続けるなら日本が生活を援助する。しかし、反乱を起こしたなら遠慮なく処分する。これが日本の方針であった。


 今回の出羽の反乱は予期せぬ反乱であったが計画的に発生した反乱でもあった。ただし、当初の計画しか立っておらず、反乱を起こした後の明確な目標が定まっていない。ただ目の前にある豊かな暮らしをターゲットに、自分の欲望を満たすための行動を起こしただけである。

 この反乱の背後に新羅がいるというのは掴めていた。反乱前に武器の援助をしていたからである。ただし、新羅は行動を起こせなかった。新羅にしてみれば思った通りの反乱とならなかったからである。

 新羅が想定していたのは、秋田をきっかけとして、北日本全域で蝦夷の反乱が発生し、北海道から東北地方にかけての一帯に、反日本で親新羅の権力が成立することであった。ところが、反乱は秋田の局所に留まり、津軽や北海道の蝦夷を呼び寄せてみたものの、反乱は失敗。新羅にしてみれば日本の国力を削減するどころか、戦争という危機に日本国内の世論を一致させてしまうという、最悪な結果を招いてしまったのである。

 その上、興福寺を放火するというテロまで起こしてみたが、これも思い通りの結果をもたらさなかったどころか、テロへの敵愾心を強めるだけであった。

 しかも、新羅がいくら知らぬ存ぜぬを貫こうと、日本国内の世論は出羽の反乱の背後に新羅があり、テロも新羅であるとなっている。こうなると、友好とか、対話とか、そんなのは妄想でしかなくなる。

 その上、日本は戦争の最中であり、自然災害も相次ぎ、飢饉も続いているというのに、そのどれもがなかったかのように日常を続けていた。これは新羅を狼狽させるに充分であった。日本への敵視を続けていても、日本の国力は新羅を遙かに凌駕していると感じたのである。戦争や自然災害にあっても冷静であり続けることは非人道的な態度に見えるかもしれないが、執政者としてはその方が正しい態度と言える。

 新羅から非公式な使者が送られてきたが、使者は国外退去を命じられただけでなく、元慶二(八七八)年一二月二〇日には藤原房雄の太宰府派遣と、対新羅の軍備配置を命じた。新羅は日本の態度が強固であることを知り、日本との交渉を断念した。


 元慶三(八七九)年一月一日、朝賀中止。中止になった理由は特に記されていないが、戦争にあっても特別なことをしないということを徹しているのだから、朝賀を開催するという特別なことはしないという判断なのかもしれない。

 元慶三(八七九)年一月七日、四六名の昇格が行われた。このとき、文章博士菅原道真が従五位上に昇格した。親友の源能有は参議にして従三位にまで出世しているが、これに対し道真は特に何も言っていない。清和上皇の兄であり、また、摂政右大臣藤原基経の右腕として活躍している能有がそれだけの地位にあるのは当然だと思っていたし、この二人の友情は、身分の差がここまで開いても変わることはなかった。

 この後も道真の残した文集には何度も能有が登場する。歌を詠ませても詩を書かせても超一流であった道算と違い、能有は、政治家としては超一流であるが、文芸の才能はほとんどない。しかし、親友のこの趣味には最後までつきあうこととなる。

 道真はこのとき文章博士にして従五位上という地位であり、位階的にはその他大勢の貴族の一人であるとはいえ、当代一の秀才としての名は広まっており、その発言は他の貴族よりも大きなものとして捉えられる。

 出羽の反乱に対する道真の回答は単純明快であった。敵の殲滅である。降伏してきた蝦夷を一人残らず殺せというものであった。より正確に言えば、道真は京都市民の意見をくみ取っていたに過ぎない。戦乱が終結に向かっているという情報を耳にした京都市民は、敵が一人残らず殺されることを期待していたし、蝦夷が物理的に消滅して北方の境域が未来永劫消え去ることを願っていた。この京都市民の意見に同調する貴族は多く、これがもし国会での議決であったら、賛成多数として、道真の意見が採用されて、反乱を起こした蝦夷はことごとく殲滅されることになったであろう。

 だが、この時代の討議は、多数決の意見は採用の参考材料に過ぎず、大臣の推薦を経て天皇の採決という手順となる。そして、基経は天皇に変わって採決できる権力を持っている。

 その基経の決断が、反乱軍を生かしておくという結論である。殲滅させるのではなく、蝦夷との共存を朝廷は選んだのである。

 この基経の決断は現地で指揮を執る藤原保則の意見を受け入れてのものである。

 元慶三(八七九)年一月一一日、出羽国からの緊急連絡が年末の出羽の状況を伝えた。事実上の戦闘終結である。蝦夷軍はほぼ壊滅し、生き残った者の多くが日本に投降し、出羽国司藤原保則は彼らの生命と生活を保障した。

 朝廷は藤原保則の対応を承認した。


 元慶三(八七九)年三月二日、出羽の反乱の終結が宣言された。

 援軍として出羽に派遣された兵士のうち、二〇〇名ほどが戦死。生き残った兵士はただちに故郷への期間を命じた。なお、帰還した兵士たちへの処遇を保則は依頼している。懸命に働いた者たちへの処遇は欠いてよいものではないが、戦後処理に追われる今の保則にその余力はなかった。兵を率いて前線を駆け巡った小野春風と坂上好蔭の二名は少数精鋭の兵を率いて残党狩りに当たっている。また、今回の戦闘に参加した者のうち、希望する一〇〇〇名の兵士を出羽の常備軍として秋田城に配備することが決まり、秋田城の再建も始まった。

 蝦夷は日本への降伏の証として、反乱の首謀者二名の首を日本に差し出した。この首謀者の名は残っていない。

 生かされたまま京都に連行されるのではなく、名も無き一人の人間として首だけ運ばれることが決まったのも蝦夷なりの最後の抵抗であった。アテルイの例にもあるように、生け捕りになった首謀者は見世物として京都に連れて行かれ、嘲笑の中引き回され処刑される。

 責任をとるため首謀者の首を切り落とし、名も告げず首謀者の首を差し出す。反乱の首謀者として、秋田城付近の一二の村を攻め落とした者は、歴史に名を残すことなく名も無き蝦夷の一人として、首だけが京都に運ばれていった。

 蝦夷の殲滅を願った京都市民も、蝦夷の首謀者がさらし首になったことで満足した。


 出羽の反乱の終結がもたらした影響は意外なところに現れた。

 元慶三(八七九)年四月二日、武蔵国から緊急連絡が飛び込んできたのである。

 それは、武蔵国に追放された新羅人のうち最低でも二人が消息不明となったという知らせであった。

 生活苦から日本に渡ってきた新羅人の多くは、生活のために日本に渡ってきたが、新羅人としてのアイデンティティは持ち続けいた。日本語しか話せなくても、新羅人の名を維持し、新羅人としての生活スタイルを続け、日本ではなく新羅を祖国とする暮らしをしていたのである。過激な者となると、祖国の先導に乗って日本国内で暴動を起こす者もおり、日本はこうした新羅人に手を焼いていた。

 そこで、朝廷はこうした新羅人たちに対し新羅から遠い地域で暮らすように命じた。電波など無いこの時代、新羅との連絡がつくか否かは新羅との距離に左右されるので、新羅人を新羅から離すことは政策として有効だった。ただし、一部の者を除いては、移住命令ではあっても追放ではなかった。移り住んだ先での自由はあったし、武蔵国には新羅人コミュニティがあるほどだったのである。

 追放されて武蔵国にやってきたというのは、新羅と内通している新羅人のことで、普通の国ならばこうした者は国外追放になるところであるが、この時代の日本は現在と同様、利敵者であっても国内居住を許し、しかも、新羅人コミュニティに住むことを許していた。ただし、居住地での監視は受けることが条件である。

 その追放者が脱走したというのはただ事ではない。

 出羽の反乱に荷担し、歩調を合わせるように行動を起こすつもりであったと当時の人は考えた。そして、出羽の反乱が失敗に終わったことで次なる手段をたくらむものと考えた。


 清和上皇は院政を求めて退位したが、院政はアイデアだけで実際には成立しなかった。退位した瞬間に権威と権力が失われてしまい、かつての嵯峨上皇のように一定の権威を振りかざすこともできず、上皇という地位が閑職になってしまったからである。

 このあたりの状況は庶民も理解している。

 陽成天皇の名が出されていても、実際は摂政である右大臣藤原基経が政権を握っていると誰もが考えていたのである。いかに基経が右大臣として職務を果たそうとしても、世間は摂政藤原基経が政権を操っていると考えていたのだ。当然のことながら、出羽の反乱に対する朝廷の態度も基経の主導であると誰もが考えていたし、兵士を派遣し、物資を派遣して反乱を鎮圧させるところまでは基経への喝采が上がっていたのである。

 しかし、出羽の反乱の処分が出たと同時に喝采が批判に変わった。出羽の反乱に対する感情、そして、戦勝に終わったという結果が庶民感情を強固なものにさせたのである。多くの者が厳しい処分を求めたし、反乱に荷担しなかった者であろうと蝦夷は抹殺すべしと考えていた。また、反乱を支援した新羅にも多くの者が強い反感を抱き、新羅に宣戦布告し、新羅を絶滅させることを願う者も多かった。

 これに対する基経の回答が蝦夷との共存であり、新羅に対しては抗議したものの武力をちらつかせていない。

 これに不満が集まった。それまで基経を支持していた庶民が、一気に基経批判を繰り返すようになったのである。

 基経の回答は現実的な回答だとするしかない。蝦夷の殲滅だの、新羅侵攻だの、する能力もなければする意味もない。平和な暮らしを維持することが重要なのであり、プライド以外に何ら価値のない侵略など考えるだけ無駄である。これは上級貴族の間での共通認識であったが、それと庶民感情が合致するわけではない。そして、この時代の日本は民主主義ではない。民衆の意志に背いた政治をしても問題ないことになっているのである。

 しかし、藤原の権力というものは、良房以後、民衆の意見を広く取り入れることによって成り立っている。その権力を継承した基経も当然のことながら民衆の意見を広く取り入れることを考慮した政権運営をしている。律令派と対抗する権力を成り立たせているのも自分の背後には民衆の広い支持があるからであり、律令派にとっては基経のバックに控える民衆の声が大きなプレッシャーとなっていた。

 だが、さすがに今回は民衆の声を聞き入れるわけにはいかなかった。聞き入れることはすなわち、この国を取り返しのつかない破滅に向かわせることなのだから。

 基経はこのとき、理論上はあくまでも右大臣として行動していた。だが、基経の意見は摂政の意見とされ、それがそのまま陽成天皇の意見として通用した。その結果が、庶民の意志と隔たりの大きな意見である。このままでは庶民の怒りが爆発すると考えた基経は、怒りの矛先を反らすこととした。

 元慶三(八七九)年四月七日、亡き伴善男の私有財産のうち、国からの支給地であるがために没収から逃れていた山城国葛野郡上林郷の三町二段五十歩をいったん没収し、天安寺の維持費用として下賜すると決まった。庶民から憎まれ続けた伴義男にさらに汚名を重ねることは怒りの矛先を反らすのに役に立った。

 しかし、このときから基経に対する支持率が下がっていくのである。

 政治家の評価は庶民の暮らしによって計るものだが、政権の支持率は暮らしではない。それが平和のためであろうと、軟弱とか弱腰とかと評価されたら評判は下がり、支持率は一瞬にして下がることとなる。


 基経の支持率が下がったこのときこそ、清和上皇が院政を開始する絶好のチャンスのはずであった。それなのに、清和上皇の行動は消極的なものとなっていた。

 元慶三(八七九)年五月四日、清和上皇は平安京を出て、賀茂川の東にある粟田院に移住。それまでは宮中の情報を掴んでいた清和上皇であったが、これをきっかけに宮中の情報を掴めなくなる。

 ちなみに、この粟田院は基経が立てた静養用の別荘である。基経はこれまで何度か粟田院に足を運んで静養していただけでなく、従姉で、清和上皇の母でもある藤原明子も何度も立ち寄っていた。また、清和上皇も天皇であった頃から何度も足を運んでおり、都会の喧噪を離れた閑静な保養地として慣れ親しんだ場所だった。

 閑静な保養地であり、また、基経も何度も立ち寄った場所である。ここにいると宮中の煩わしさから離れられそうに感じるし、落ち着いた休息をとることもできる。

 ただし、基経はこの建物で過ごしている間、宮中との連絡をする専門の者を日々往復させ続けることで宮中との関係が途切れることのないよう対応しており、閑静な地での保養が政治の断絶とならないよう配慮している。

 一方、清和上皇にそうした配慮はない。ただただ、宮中から離れた静かな日々を過ごすことに専念している。一説によるとこのときすでに清和上皇の体調はかなり悪化していたとあるから。文字通りの静養を考えたのかもしれない。

 いずれにせよ、かなりの可能性で、このときの清和上皇は権力に対する諦めを感じていたのではないだろうか。責任を基経に押しつけることで思い通りの政策を展開するはずだった摂政の地位の利用が、出羽の反乱という国難に対しては、基経のリーダーシップの発揮となって動いたのだ。いくら基経が摂政ではなく右大臣として行動しようと、世間の人は摂政の行動と見る。そして、摂政として行動したがゆえに結果が出たと考えている。

 基経を批判する者は多かったが、反乱への対処についての批判をする者はいない。それどころか、基経の判断と行動が正しかったからこそ、一年と立たずに反乱が鎮圧されたと誰もが感じていた。

 これに清和上皇は自らの無力感を感じた。

 そして、清和上皇は一つの決断をした。

 元慶三(八七九)年五月八日、清和上皇、出家。これよりおよそ二〇年後の宇多上皇は出家してもなお上皇としての権威と権力を保持し「法皇」と称されるまでになったが、この時代はまだ、上皇が出家したらその瞬間に上皇としての権威と権力を失うのが通例であった。名称も「上皇」であって「法皇」ではない。


 元慶三(八七九)年六月二六日、反乱鎮圧部隊、帰京。

 出羽の反乱の鎮圧は、庶民にとって栄光の記録であり、反乱を鎮圧した面々の帰京は歓迎を持って迎えられた。これは同時に、このときもまだ飢饉の最中にあり、おびただしい数の失業者が京都市中に溢れているという現実から目を背けさせる効果もあった。

 この日どれだけの将兵が京都に戻ってきたかという記録は菅原道真が全て残してくれている。道真の記録によると、鎮圧部隊は三部隊からなり、反乱鎮圧時点で総勢五一七一名からなるとある。この数字は帰京した軍勢であり、戦死者や、帰京せずに現地に留まった兵士については数に含まれていない。

 また、ここに在地の武士は含まれていない。あくまでも朝廷が正式に認めた軍勢のみであり、私的な武力は含まれていないことになる。

 出羽の反乱の鎮圧にあたった部隊の総人員はおそらく一万人を超えると推測される。上野、下野、武蔵といった他地域から数多くの援軍が出羽に派遣されたが、鎮圧部隊の多くは出羽在住の者であった。そして、少なくない数が現地の俘囚、すなわち、先祖が蝦夷であるが現在は日本人として暮らしている者であった。

 彼らは、祖先を同じくする者であっても、自分たちに襲いかかって来た者に対して武器をとり、日本人とともに戦った者であった。

 彼らを見た京都市民は、蝦夷の殲滅を口にしなくなった。彼らは、京都で安穏とした日々を過ごしている自分たちを守るために血を流してくれたのだと気づかされたのである。


 日本のために戦ってくれたことは理解したし、蝦夷に対する反感も、理屈では良くないこととされた。無論、本心からではない。誰も聞いていないところや内々の場では蝦夷への蔑視のこもった声は聞こえていたのだから、蝦夷への差別は良くないこととするのは理屈であって感情ではない。

 しかし、日本への侵略を企み続ける新羅への怒りは理屈より感情のほうが優先する。こうなると、何であれ新羅のせいということとなる。

 火災で家が燃えても、橋が焼け落ちても、鳥の死体が見つかった不吉でさえ新羅のせいにされる。そしてその都度、摂政としての藤原基経の姿勢が軟弱だと批判される。庶民感情が全体主義化してきたのだ。

 研究者によっては、このときの日本が右傾化したとする人もいる。

 その論拠の一つとされるのが君が代の誕生がこの時代だということ。君が代の誕生に見られるようにこの時代の日本の庶民感情はナショナリズムの高揚から対外差別感情となり、戦前の日本のように軍国主義となっていったというものである。

 だが、単純にそうだとは言えない。

 右傾化と判断する研究者たちの主張するとおり、君が代の歌詞が誕生したのはこの時代である。だが、君が代はこの時代に作られた数多くの歌の一つに過ぎず、歌詞を見ればわかるとおり狂信的なまでの愛国を訴えるような歌ではない。歌としての出来映えが高いために広く知られるようになったのであって、君が代に乗って武器を持って戦争をするようになったから広く知れ渡るようになったわけではないのである。

 新羅への反感は高まっていたし、新羅に攻め込むことを主張する者も多かったが、これまで新羅がしてきたことを考えれば理解できる話である。何しろ相手は何度も侵略をくりかえしてきたのだ。侵略されたから抵抗するというのは当たり前のことで、これで右傾化だと言うのは理屈にならない。右翼のことを軍国主義と定義するならこの時代は断じて右傾化していない。もっとも、どこかの政党のように侵略する国の人間であれば抵抗のための戦いも右傾化になるが。

 基経は自分への批判が高まっていることを理解していた。かといって、批判の言葉の通りに新羅への侵略をするつもりは毛頭無かった。

 元慶三(八七九)年一〇月八日、大極殿の修復工事が完了し、オープニングイベントが行われた。

 元々イベンターとしての能力の高い基経である。この祝賀行事は大規模に開催され、京都市民も大勢招かれての供宴になった。ただ、音楽が奏でられダンスが舞われたとの記録はあるものの、その詳細は不明である。

 このイベントは多少ではあるが基経の支持率を上げるのに役立った。


 元慶三(八七九)年一一月一三日、清和天皇の命令によって編纂の始まった「日本文徳天皇実録」が完成した。続日本後紀に続く一代限りの歴史書である。

 だが、その完成を待ち望んでいたはずの清和上皇は喜びを見せなかった。より正確に言えば喜びを見せられる状態ではなかった。体調が目に見えて悪化していたのである。

 もしかしたら、以前から体調悪化を自覚していたのかもしれない。保養地である粟田院に移り住んだのもその自覚があったからで、無気力に陥ったことよりも大きな問題を清和上皇自身が感じていた可能性もある。

 清和上皇の容態はこのあと記録から途切れる。

 清和上皇の体調について記録に登場するのは元慶三(八七九)年一一月二五日になってから。体調不良を悪化させて寝込んだとある。

 だが、この日は清和上皇の体調より遙かに大きなニュースがあった。陽成天皇の名で、大規模な人事昇格が実施されたのである。

 大納言以下の多くの者の階級を一つ引き上げるということで、大納言である源多は、大納言でありながら大臣に相当する従二位に昇格。中納言藤原冬緒が正三位、だからこれも大納言相当の地位である。道真の父で参議菅原是善が従三位だから、これも中納言相当の地位。その他、数多くの貴族が役職よりも一つ上の位階を手にした。位階を手にすると言うことは、位階に応じた給与が手に入ると同時に、位階に相当する職務が期待できるということでもある。

 これは貴族たちに希望を持たせた。貴族たちも現在の政権で基経が摂政として大きな権力を発揮していることは知っている。と同時に、その基経が大きな批判を受けていることも知っている。

 民主主義ではないが民衆の声は無視できるものではない。と同時に貴族たちの声も無視できるものではない。絶対的な権力を持っていようと、貴族の勢力は時に民衆の声以上の力となって宮中で働く。すでに律令派、あるいは学者派とも呼ぶべき集団が形成されており、権力争いを繰り広げてはいても、無視できる存在ではなかった。

 基経がここで位階の大判振る舞いをしたのは貴族たちの不平不満を自らに向けることなくするためであった。ただし、これは位階のインフレを招いた。それまでであれば大臣になれるはずの位階であっても大臣になれないというように。


 元慶四(八八〇)年一月一日、毎年恒例の朝賀の中止。理由は雨ということになっているが、清和上皇の体調不良も理由にある。

 毎年恒例でいうとこのタイミングで位階の昇格があるところであるが、前年末に大規模に行っているのでこの年の昇格はなかった。ただし、除目は例年通りに実施され、五一名の皇族や貴族がこのとき新たな職を得ている。

 清和上皇の体調不良は大問題であったが、それ以外は特にニュースもなく平穏な日々が続いていた。ここでいう平穏とは、この時代の感覚でのニュースになるべきことがないという意味での平穏であり、現代の感覚ならばニュースになるようなことまで存在しないというわけではなかった。

 飢饉は続いていたし、失業者も街に溢れている。

 荘園がさらに拡大して発展し、税を確保できる荘園ではない田地が減ってきている。

 基経は、飢饉を食い止め、失業を減らし、荘園ではない田畑を拡げるべく班田の再開まで試みたが、荘園の拡大という流れに抗うことはできなかった。元はと言えば養父良房が失業対策のために始めた事業でそのときは国全体でプラスに働く政策だったのに、今では荘園に住む者ならばプラスでも国全体で見ればマイナスの事業になってしまっている。

 世の中の仕組みというものは、何もマイナスにさせるべくして始めるわけではない。プラスになることを試みて始めるものであるし、スタート当初は、あるいは、もっと長い期間プラスであったことが、年月を経てマイナスへと向かうようになる。

 基経が偉いのは、マイナスになった政策を、理念は正しいのだから理念の通りに行わせるという、当時でいう律令派、現在でいう護憲派のような主張をしなかったことである。マイナスであれば、理念がいかに正しくてもその理念のほうを捨てている。それが養父良房の始めたことであっても例外ではなかった。

 ただ、現在からすれば偉いという評価をできるが、この当時の人は決してそうは思わなかった。軟弱な姿勢を見せる弱腰の政治家という悪評を浴びせられ続けていたのである。


 元慶四(八八〇)年二月一七日、出羽の反乱で反乱軍が奪い取っていた武器や防具が返還された。

 こうした武具の返還は戦争終了後に普通に見られることである。勝った側は負けた側の武具を奪い取って戦利品として持ち帰ることができるが、負けた側は勝った側の武具を返還し、返還できなければ賠償しなければならない。返還された武具や賠償は一般に国のために使われるが、保則はこのとき、賠償と、損傷の激しい武具を被害者に渡している。遺品であり、また、戦死者の家族の慰労金としてである。

 同時に、保則の命令で、出羽国全体に二年間の免税が発表された。戦乱が激しかったために収穫は乏しかった上に、元々不作による生活苦から起こった反乱であったことから、ここで法の定め通りに納税させることはさらなる反乱の火種を呼び起こすだけであった。保則の考えでは、二年間の免税で田畑を回復させて三年後から納税を再開するというものである。ただし、三年後の税率についてどのように考えていたかはわからない。このようなケースでは、通常ならば、いきなり全額を納税させるのではなく、徐々に納税額を増やしていくものである。このときの「徐々」は国司の裁量権となっていた。

 また、反乱の被害の激しかった地域に対しては田畑の復興資金が提供された。資金と言っても現金ではなくコメであるが、その総額は六二〇九石七斗、現在の価格にして一億円ほどで、受給対象者は八〇三人であることが記録に残っている。


 元慶四(八八〇)年二月二八日、隠岐国から新羅対策を訴える連絡が届いた。未確認情報ながら新羅の侵略の気運が高まっているというのである。

 この連絡を聞いた基経は、隠岐だけでなく、因幡、伯耆、出雲といった山陰の国々に対し対新羅の警備をするよう命令を出し、その命令を大々的に宣伝した。新羅に対する対処をしているというアピールである。

 しかし、このアピールは逆効果だった。新羅が攻め込んできたら守るというのではなく、こちらから新羅に攻撃しろというのが庶民からの要望であった。そして、このときの基経の行動は、庶民の要望を満たさない中途半端な対応であると考えられた。

 進歩的知識人の中には、右傾化が、現在の生活に満足できないことから来る社会的怒りの代替であると定義する者がいるが、その理論の裏には、自分が知識人であると考え、他者を見下す感情がある。つまり、バカだから社会的地位が低く、自分と違って右傾化するのだとする思考である。

 愛国とか、他国の批判とか、戦争の容認とかを右傾化と一括して考えてしまえば楽なものであろうが、物事はそう単純なものではない。新羅に対する怒りを持つ者がそのまま狂信的なまでの愛国者になるというわけではなく、愛国どころか自分の生活を優先させている。実際に攻め込まれたこと、そして、目の前で被害を受けていることへの怒りが新羅への敵対心とさせている。被害感情から来る敵対心は、知性とか、生活苦とか関係ない自然な流れである。

 敵対心が被害感情から来ている以上、感情を満足させられるだけの結果を出さなければ敵対心が消えることはない。進歩的知識人がその流れを右傾化と考えていられるのは、被害を与えている側の人間だから無関心でいられるが、被害を受けたのが自分自身でないからで、現実に存在する被害に無関心であり、自分が被害者でなければ関係ないとする意識がある。こんな考えはごく一部の特殊な人間だけで、そうではない普通の人間が無関心でいられるわけはない。

 新羅侵略の噂は流言となって広まっていた。

 太宰府や博多では、対馬に新羅が侵略してきたという噂が広まった。

 瀬戸内海の沿岸では、隠岐や出雲に新羅が攻め込んできたという噂が広まった。

 近江では、能登半島に新羅が押し寄せてきたという噂が広まった。

 いずれも自分の住む地が侵略されたわけではなく、自分たちの土地より新羅に近いところが侵略されたという噂である。

 噂というものは、危機であったり願望であったりと、そうであってもおかしくないという話から生まれ、そこに合理性が伴って広まる。新羅の侵略を誰も不可解に感じていなかったが、今のところは侵略されていない。だが、自分たちの住む土地より新羅に近いところが侵略されているという話は、今まさに我が身に押し寄せる恐怖となって広まった。

 新羅に対する軟弱な姿勢を批判されている基経が、それは噂であり真実ではないといくら主張しようと聞き入れられるわけがなかった。多くの人が新羅からの侵略に狼狽し、田畑を捨てて逃げ出す者さえ現れた。

 元慶四(八八〇)年五月二三日、朝廷は正式に、新羅侵略が根拠のない噂であることを宣言し、同時に、侵略に対処するための体制を作り上げることを公表した。


 元慶四(八八〇)年五月二八日、在原業平死去。

 死の理由について歴史書は記録を残してくれてはおらず、ただ亡くなったことだけが記されている。

 平城天皇の孫であり、時代が時代ならば天皇になっていてもおかしくなかった業平のことを、日本三代実録はこのように記している。

 学はなかったが歌を作る才能はあった、と。

 人生の略歴は記されているが、当然ながら、藤原高子とのラブロマンスなど全く触れられていない。また女性にモテたこと、当時の歓楽街であった山崎に出向いていたことなどもいっさい記されていない。

 これらは他の史料から追いかけていった記録である。有原業平の残した歌、そして、伊勢物語や在中将集といった作品から有原業平の人となりはわかる。

 一流の文化人として年の離れた道真との交流が深かった。しかし、貴族としての立場は合うものではなく、学者としての違いはかなり大きな差となって現れていた。

 それでも道真は業平との交流を最後まで欠かすことなく、死の直前まで業平とともにいた。道真という人は、政治的見解に違いがあっても、学問で、あるいは文化で関わり合いを持てると感じた人との交流は生涯続けた人である。道真や道真と同い年の源能有にとって、有原業平という人は年の離れた先輩という感じの人であり、また、いろいろな意味での師匠であった。そのせいか、道真が残した歴史資料の中での有原業平の登場回数は、位階や役職と比べると異様に多い。平城天皇の孫という特別な血筋を差し引いても、特別に多いとするしかない。


 師を亡くした菅原道真にさらなる悲劇が襲いかかったのはこの直後である。父である菅原是善の容態が悪化したのである。参議でもある菅原是善の容態悪化は、業平の死、清和上皇の体調不良と合わさって、人の死が間近に感じられるようになったのである。

 すでに当代一の学者として名を馳せるようになり、学者としての威光は親をすでに凌駕するようになっていた。反抗期に父に逆らいだし、その反逆心は今も続いていたが、父の容態急変を平然と構えていられる道真ではなく、父のために道真はこの頃、職場を何度も欠勤している。

 こうした親族の健康状態を理由にする欠勤だが、役人であれば権利どころか義務であった。病気に苦しむ家族を放っておいて働くことは賞賛されるどころか人でなしとされる犯罪扱いされていたのがこの時代である。

 貴族にはこの義務が課されないが、家族の健康を理由に欠勤する貴族は珍しいことではなく、家族を放っておいて働くのは、良房とか基経とか、その人を欠いては政局が成り立たないと言うべき人でもない限り、出勤することはなかった。

 道真の父の健康不安は道真を宮中から遠ざけることとなったが、とりたてて宮中の政務に支障が出るということはない。これは、道真を必要とする政務がなかったからである。

 道真が是非必要となる局面と言えばそれは何と言ってもその文化人としての能力を生かすべき場面であるが、遣唐使も途絶え、新羅との国交はあってなきがごとし、渤海とは正式な外交があるが渤海からの使節は訪れていない。

 となると、基経をはじめとする朝廷の面々は道真に頼らなければならないことは無くなる。そして、戦争も起きていないのだからいつも通りの政務をすれば良い。

 この頃の資料を見ると、とにかく前例通りの政務に留まっている。大ニュースがない代わりに記録するほどの出来事もない。いわば退屈なまでの日々である。基経が消極的になってしまったのか、わざわざ積極的になることもないということなのか、予定通りの平凡な毎日が続いている。

 政治が平凡でも、個人にとっては大事件というのが元慶四(八八〇)年八月三〇日。この日、道真の父である参議菅原是善が亡くなった。


 清和上皇の容態は、輿に乗っての外出ができるまでに回復はしていた。ただし政務にタッチできるほどの回復ではなく、夏の暑さから逃れられる場所に移っての静養である。

 平安時代の夏は、平成の夏と同じくらい暑かった。縄文時代から奈良時代ぐらいまでは年平均気温が今よりも低く、真夏でも最高気温が摂氏三〇度を超える日も少なかったが、平安時代になると気温は急上昇した。九世紀から一〇世紀にかけて平均気温が上昇し、京都では雪が珍しくなった一方で、熱中症に悩まされる人が大勢現れた。

 そのため、夏の間をいかに涼しく過ごすかというのは切実な問題となり、貴族の間では避暑地に別荘を構えるというのが流行するようになった。

 清和上皇が移動した先もこうした避暑地の別荘の一つで、左大臣源融の構えた涼しい別荘地が清和上皇の滞在先となった。数多くある別荘地の中でも特に涼しくて快適な源融の別荘は清和上皇の体調回復にも有効だろうと、周囲の者たちだけでなく清和上皇自身も考えていた。

 しかし、ここで涼しげな日々を過ごすことは清和上皇の体調回復にはつながらなかった。それどころか体調を悪化させることとなったのである。


 元慶四(八八〇)年一一月二五日、清和上皇の容態が予断を許さないものとなった。避暑地での寒さが厳しくなったことで清和上皇は粟田院に移されたがここでも状況は同じであった。

 清和上皇の回復を祈る祈祷が各地で行われたが、清和上皇の体調はいよいよ覚悟を決めなければならない状態になった。

 その覚悟のときが訪れたのは一二月四日。

 この日、清和上皇崩御。享年三一歳。年齢だけを考えれば誰も死を思いつかなかったであろうが、前年からの体調不安、そしてここ数日の体調悪化は死を予期させるものがあった。

 清和上皇の死が公表されたと同時に、右大臣藤原基経が太政大臣に任じられた。

 制度の上では陽成天皇が基経を太政大臣に任命したのであるが、基経自身が自分を太政大臣とさせたのか、清和上皇の遺言か、それとも陽成天皇の意志なのかはわからない。

 ただし、少なくとも急転直下の人事ではない。基経の太政大臣就任は以前から議論されており、基経が拒否してきたために実現していなかっただけである。

 それがこのタイミングで太政大臣になったのは、清和上皇亡きいま、政治を安定化させるためには、摂政にして太政大臣でもあるという強力な権威を必要とするという意見の一致が見られたからである。

 すでに良房の先例があるため、前代未聞の権力となったわけではない。それどころか、これで良房から続く政権が正常な状態に戻ったという認識をされたのである。良房のときは前例のない絶大な権威と権力と認識されたのに、今やそれが正常な状態という評価。たとえそれが特例であっても、前例は簡単に通例となる。


 海の向こうの唐では黄巣の軍勢が首都長安を陥落させていた。ただし、この情報はまだ日本に届いていない。唐の内乱が以前にも増して激しくなっていることは知っていたが、首都の陥落となると話はさらに大きくなる。

 元慶四(八八〇)年一二月七日、太政大臣となった基経はさっそく対策に打って出た。新羅だけではなく唐の内覧の余波も日本に襲いかかる可能性があるとし、各国の国司に国内外の防衛を指令した。

 ここで国外はともかく国内とした理由であるが、名目は恩赦によって釈放された囚人の対策である。吉事や凶事があると恩赦を実施するのがこの時代の通例だが、恩赦とは犯罪者が刑期を迎える前に釈放されることであり、再犯の可能性も高かった。

 だが、実際のところは国外の勢力と手を結ぶ者がいないかという監視である。

 新羅と手を結んで侵略者を招き入れる可能性がある者への視線は厳しいものがあったが、それ以外の国との友好関係は特に何も言われない。何しろ侵略しに来るのは新羅か蝦夷と決まっていて、唐にしろ、渤海にしろ、交易はあっても戦役はない。だが、今まで何も無かったからと言ってこれからも無いわけではない。特に唐の情勢が問題だった。

 より正確に言えば、唐の内乱を率いる黄巣と手を結ぶ者が現れることが恐怖だった。

 黄巣を強盗集団のトップと見るなら特に問題はないのだが、民衆の指導者として見てしまうと大問題となる。黄巣に憧れて日本国内で反乱を起こしたり、黄巣と手を結んで黄巣軍に日本を「解放」させようと考える者が現れたりすると、かなりの可能性で血が流れる事態となってしまう。そこで待っているのは、一部の知識人の考えるような民衆の「解放」ではなく、「絶望」。


 清和上皇の喪中であるため元慶五(八八一)年一月は自粛で始まった。朝賀の中止は毎年恒例のことだが、その他の新年の行事もことごとく中止となった。

 陽成天皇、このとき一二歳。

 この歳で父を亡くし、自分が国政を支えなければならないという意志は示しており、今は基経が摂政でありまた太政大臣であるということが国政を安定させているという理解を見せてはいたが、それを永遠とする意識はなかった。

 後に冷徹な現実主義の上皇となる陽成天皇も、このときはまだ理想に燃える少年であった。時に基経に反論し、時に基経を無視して政務に当たるなど、良く言えば自立、悪く言えば暴走するところがあったのである。

 基経は、このまま陽成天皇が成長したら、かつての文徳天皇のように藤原の政策に真っ向から対立するようになると考えていた。何しろ、皇太子時代から陽成天皇の教育係は律令派最大の重鎮として君臨していた橘広相である。教育者として超一流であることは間違いないのだが、この人は律令を思考の中心とする律令派の人間である。そして、陽成天皇の言葉や行動が律令派のそれに近くなってきていた。

 基経は陽成天皇の学友に自分の長男で陽成天皇より二歳歳下の時平をつけている。まるで実の兄弟であるかのような関係の二人であるが、自分の子供にまで律令派の思考をたたき込むことは許さなかった。陽成天皇の学友であることは続けさせたが、藤原の教育も施し、基経の右腕であった源能有の元で学ばせるようにもしたのである。後に時平は現実主義でありながら大胆な理想主義的政治を展開するようになるが、幼い頃に受けたこの二つの教育が時平の思考を形作ったからである。


 元慶五(八八一)年一月一五日、基経が従一位に昇格する。これで、位階と、太政大臣という職務が釣り合うこととなった。この日の昇格で記録に残っているのは基経だけで、その他の者の昇格は行われていない。

 正一位というのは死者に与えられる名誉の称号のようなものだから、普通に考えれば従一位は人臣の最高位であり、これ以上無い栄誉である。ところが、基経はこの昇格を拒否している。昇格を命じられたが受諾しなかったばかりか、一月一九日には昇格の取り消しを求めて訴え出たのだ。

 太政大臣になったのだから正二位のままというのはおかしな話であり、これは陽成天皇のほうが正しい。だから、基経はなぜここで訴えを起こしたのか理解に苦しむところがある。

 これはおそらく、基経の政治的争いの一つであろう。

 基経が抗議を出すのは何度も行なってきたことであるが、それが、陽成天皇を相手に抗議というのはこれがはじめてだった。

 清和天皇もそうだが、これぐらいの年齢の少年は自分の意見を持つ。

 その上、陽成天皇には反基経に固まった母と、律令派を押す教育者がいる。

 こうなると基経は実にわかりやすい敵であり、基経に逆らうことが自我の目覚めと反抗期となる。

 もっとも、基経に職務と権威を与えることが政治をよりスムーズにさせることだと理解していた。だから、太政大臣とし、さらに従一位とすることを厭う思いはなかった。

 ただし、それは現状における最善であって、恒久的な最善ではない。

 陽成天皇の考えで行けば、摂政にして太政大臣である基経は、利用すべきときは利用するだけの存在であり、政治におけるメインはあくまでも天皇である自分であって、基経は自分のサポート役でしかない。その基経が事実上のトップとして絶大な権力を持って君臨しているのは愉快なことではなかった。

 それがいつになるかわからないが、陽成天皇は親政を目指していた。陽成天皇の考える天皇親政は、全ての権力が陽成天皇に集中し、基経をはじめとする貴族たちは陽成天皇に仕える家臣となるという体制である。現時点でも理論上はそうだが、事実上は基経が圧倒的権威を持って君臨している。これが、理論上通りの現実となったとき、基経の権威と権力を陽成天皇がそのまま利用できるようになるのだから家臣である基経は絶大な権威と権力を持っていた方がいろいろと都合が良い。

 という陽成天皇の考えを基経は良しとして受け入れてはいなかった。自分の権威と権力が利用されることを快く思っていなかったというのもあるが、最も大きな理由は政治権力が属人化したアンバランスなものになってしまうことである。基経がいる間は良い。だが、自分がいなくなったらどうなるのか? 後継者になる予定の時平はまだ一〇歳。政治そのものは右腕である源能有が期待できるが、後継者というわけではない。


 この頃、基経への不満がもう一つ現れていた。

 生活の不満である。

 食べ物がないというのは直近の問題であるし、仕事がないというのは近未来の問題になる。これを解決するためには食料を定期的に確保できるだけの収入が得られる職を用意するしかないのだが、基経はこれができなかった。

 やろうとはしたのだ。荘園を推奨したり、班田を復活させたりと、農民として生きるための策を用意してはいた。しかし、都市に流れ込んできた者が求めているのはそうではなかった。都市での暮らしをしたまま生活できる方法を求めていたのである。

 今もそうだが、失業率の高さ、中小企業や農村の人手不足という問題は、ともに問題として認識されておりながら解決できていない。失業者は世間的に名の通った大企業の正社員になって高い給与を得ることを目指しているのに対し、中小企業や農村はそのどちらも用意できない。朝から晩まで、さらには夜遅くまで懸命に働いても満足いく収入は得られないし、安定だって乏しいというしかない。失業者はこんな暮らしを望んではいない。

 この当時も同じことで、いくら田畑をもらったところで朝から晩まで懸命に働き続けて満足のいく収入が得られるわけではなかったし、優良な田畑はとっくに誰かのものになっていて、自分が手にできそうなのは収穫がさほど見込めない土地である。

 都市に流れ込んできた者が求めているのは、貧しい農地を耕す不安定で定収入な暮らしではなく、安定と高い収入が保証された暮らしだった。そして、基経がそれを与えてくれることを願っていた。

 当然ながらそんなものはできない。新たに開墾しない限り農地には限りがあるのだから、失業者の願っているように豊かな田畑を分け与えるとなると、いま耕している人の田畑を没収して配り直さなければならないのである。

 基経の制止を振り切って、班田を復活させて、農地の没収と再配布を行った国もあった。だが、待っていたのは貧困の悪化であった。これまで懸命に田畑を耕し高い収穫をあげる田畑に改良してきた努力は全て無になり、そのかわりに放っておかれて収穫がほとんど期待できない田畑を与えられる。これは労働意欲を奪うのに充分だった。


 そして、この頃再び史料をにぎわせるようになったのが治安問題である。

 荘園は自分の土地を守る体制を持っている。攻め込まれて守りきれるかという問題はあるが、少なくとも自分たちの命と財産を守る仕組みがある。

 一方、荘園ではない田畑はそうはいかない。オフィシャルな武力は期待できず、自分たちの身を自分たちで守ろうにもそこまで強固なコミュニティではない。それ以前に、武具を買い集める財力もないし武人に回せる余剰人員もいない。

 貧しいから強盗が攻め込んできたとしても奪われるものなどないだろうとかんがえるのは早計である。強盗のターゲットはコメなどの財物だけではない。人間そのものもターゲットとなり得たのである。村に襲いかかって人を拉致し、奴隷として売りさばくのだ。

 こうなると貧しかろうと豊かだろうと関係ない。人そのものを狙うのだから、貧しさを盾に安穏とはできないのだ。

 特に恐ろしかったのが瀬戸内海の海賊である。船団を組んでいきなり村に襲いかかり、奪えるだけ奪って、人を拉致する。拉致した者は奴隷として売られ、ある者は遠くの土地へ、またある者は国外へと輸出された。

 元慶五(八八一)年五月一一日、山陽道と南海道の諸国に海賊討伐が命令された。命令が下ったが、実際にどのようにして討伐するかの命令はない。ただし、軍勢を指揮するのに必要な資金の援助は朝廷から支給された。

 元慶五(八八一)年五月一三日、山城・摂津・播磨の三ヶ国に対しても海賊討伐の命令が飛んだ。海賊討伐の総指揮として紀貞城が任命された。紀貞城の経歴はよくわからない。しかし、その名前からして、応天門の変で追放となった紀氏の者であると推測できる。


 元慶五(八八一)年という年は、基経の評判の低下と治安悪化があったが、取り立てて大きなニュースはない。

 若き陽成天皇との確執が現れだしてきたが、清和天皇だって確執はあったし、祖父の文徳天皇と当時の藤原良房との対立は有名だった。天皇が大臣と協力して政務に当たるほうが異例で、大臣と天皇が対立する構図のほうが正常な状態だったのである。

 そして、基経の評判の低下はあったが、基経の権力は揺るぎないものに見えていた。従一位、摂政、太政大臣、そのどれをとっても他の追随を許さない別格なものがあり、かつては対立を見せていた左大臣の源融も今ではすっかりおとなしくなってしまっている。

 基経と対立する構図にある、学者を中心とする律令派も、大学の中では絶大な権力を持ち、教育界で圧倒的な勢力を持っていても、実際の権力は乏しいというしかない。良房の頃と基経の時代とを比較するならば、それに近い存在として社会党が挙げられる。良房の頃は野党第一党であり国勢に大きな発言権を持つ存在であったが、基経の時代になると、現在の社民党のようなもので、声が大きいから目立つが、実際の議席は国会の一パーセントに達するかどうかという程度である。どちらも間違いなく同じ主張をする集団なのであるが、実際の影響力の大きさは大きな違いがある。

 ただし、この律令派であるが、陽成天皇の教育を一手に握っている。法を学ぶ、書を学ぶ、歴史を学ぶ、詩歌を学ぶ、こうした天皇として必要な素養を律令派の学者たちが行うことは、律令派の影響力が無視できないものになる下地となった。

 基経の摂政という地位は、陽成天皇が幼少であるがために就いている地位である。つまり、陽成天皇が元服し、幼少ではなくなると、摂政という地位も意味がなくなる。

 それが元慶五(八八一)年のいつのことかはわからないが、陽成天皇の元服は翌年の一月一日に執り行うことが決まった。その儀式が終了した瞬間、基経は摂政でなくなる。

 もっとも、基経はそれに対する抵抗を見せていない。それどころか喜んで摂政終了を待ち望んでいるかのようであった。

 取り立ててニュースとなるような出来事もなく、平穏無事な日々が流れたまま元慶五(八八一)年の冬を迎え、例年通りの儀式が遂行される以外に出来事のないまま元慶六(八八二)年一月一日を迎えた。

 一月一日の朝賀が中止となるのは毎年のことだが、このときは、かなり前から中止となることが決まっていたことが普通と違う。

 まず、一月一日に陽成天皇が元服すると同時に基経が摂政を辞任することが発表され、翌二日、久しぶりの雪が降りしきる中、陽成天皇の元服の儀が執り行われた。

 天皇の元服は清和天皇という先例がある。このときも清和天皇の先例の通りに儀式が執り行われ、雪の中、壮麗で厳粛な儀式が行われていることに京都中の者が目を見張った。

 しかし、このときから、太政大臣藤原基経は宮中で孤立するようになるのである。


- 摂政基経 完-