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貞信公忠平 1.忠平政権

2012.12.31 15:05

 聡明にして寛大な性格は誰からも愛され、その死は全ての人に計り知れない悲しみをもたらしたと歴史書は伝えている。

 兄である藤原時平の死から四〇年に渡って権力を握り続けただけでなく、藤原氏の権力の系譜も忠平から生まれている。太政大臣や摂政・関白を制度として確立し、武家社会の到来で形骸化するとはいえ明治維新までの九〇〇年を数える長期体制を構築したのだからその政治家としての手腕も高いものがあったというしかない。

 しかし、この人が権力を握っている間の日本はどうであったか?

 これは褒められるようなものではなかった。

 東北では蝦夷が反乱を起こした。

 関東では平将門が反乱を起こした。

 瀬戸内では藤原純友が反乱を起こした。

 そのほかの小さな反乱を加えると、最盛期には京都の権力の及ばぬ地域が日本の半分以上を占めるという異常事態となったのである。平安京を中心とする中央集権が維持できなくなり、各地では自分の身を守る必要が増して、武士団がより強固となった。

 これに加え、菅原道真の祟りと総称された相次ぐ天候不順と凶作、そして、伝染病。苦しい暮らしと死が日常の光景となり、日常は絶望の日々となった。

 良い意味で捉えれば、藤原忠平は絶望の日々の中に光るただ一つの希望であったろう。辛く苦しい日々が続いているが、忠平が最後の最後で支えてくれているのだと考えることで、その当時の人は現状を納得させることが出来たのかも知れない。

 また、この当時の中国は五代十国の混乱、朝鮮半島は後三国時代の内乱、渤海は滅亡と、海の向こうも三分五裂の状態にあり、混乱は日本国内だけではなく、この世界の全てで起こっているのだとも当時の人たちは考えた。何しろ、権勢を誇った唐ですら今やその痕跡も残さず地上から消滅しているのである。国家滅亡が日常と化している海外に比べれば、忠平が支えてくれるおかげで国家滅亡の危機を回避できている日本はまだマシなのだと考えることが、この時代の人たちの寄って立つただ一つの心の拠り所だったのだ。

 この時代の記録のどこを見ても、素晴らしい時代であると記した記録は見当たらない。社会に対する苦痛も不満も渦巻いていて、実際、各地で反乱も起こっている。それなのに、忠平個人に対する反感の記録は残っていない。最悪な日々だったのに、最高権力者である忠平は批判を受けていないのである。しかもこの人は言論の弾圧をしていない。天下国家を批判する意見を出す自由がありながら、藤原忠平個人は何ら批判を受けていないのだ。それが自主規制によるものであったとしても、忠平に対する批判がないことは評価するしかない。

 とは言え、惨状は惨状なのだ。確かに、この時代の苦悩の中には天災や国外問題もあるから忠平一人に責任を負わせるわけにはいかないだろうが、四〇年も政権を握っていながらこの惨状なのは忠平の責任も軽いものではない。執政者としての評価基準を、「何をしたか」ではなく「どうなったか」で置くと、悪評を千年以上受け続けてきた藤原時平や陽成上皇を再評価したのは真逆の視線で藤原忠平を眺めざるをえないのである。

兄の服(ぶく)にて、一条にまかりて
  春の夜の夢のなかにも思ひきや君なき宿をゆきて見むとは(後撰和歌集)
  はなかく短いという春の夢の中でさえ、思っただろうか。あなた(藤原時平)のいないこの邸宅に来てみようとは。

 藤原忠平はかつて関白太政大臣を務めた今は亡き藤原基経の四男である。長兄の時平からは九歳下、次兄の仲平からも五歳下であり、時平が不慮の死を迎えるまでは藤原氏の権力を引き受けることになるとは誰も想像せずにいた。

 藤原北家の権力の最たるものはその権力の連続性である。藤原冬嗣は後継者に藤原良房を指名したが、良房が貴族として勢力を築く前に冬嗣が他界してしまったために、藤原北家の権力は一度中断し、良房が権力を手に入れるまでに長期間を要することとなった。しかし、良房の後継者である基経、そして、基経の後継者である時平と、その政策と権力は何の問題なく連携されてきていたのである。時平が左大臣として権力を掴んだところまでは計算通りであり、あとは時平が子の保忠に権力を受け継げば継承は無事に続くはずだったのである。

 そう、あくまでも「はず」であった。

 しかし、その時平が延喜九(九〇九)年四月四日に四〇歳にもならない若さで亡くなってしまったことが全ての予定を狂わせてしまった。このとき、時平の後継者と目されていた保忠はまだ一九歳。貴族の一員ではあるがその他大勢の一人であり、左大臣藤原時平の子という以外に特色のない若者でしかなかった。

 これまでの藤原氏の貴族たちと同様に、保忠にも帝王教育は施している。しかし、教育を施していることと実際に帝王になれることとは必ずしも一致しない。一般的には、帝王教育を施した後に実地訓練を重ね、権力を一つずつ継承して権力者になるものである。

 時平の死が藤原北家に与えた衝撃は、四代に渡って構築してきた藤原北家の歴史の中断を意味した。これは、一個人の問題ではない。国にとっては政策の不連続であり、家系にとっては権力の不連続であるという、公私ともの危機であった。

 危機においてなお予定を守るような者は、だいたいがその危機に飲み込まれて沈没する。沈没を避けたければ予定のほうを変えなければならない。

 時平の葬儀に集った藤原北家の面々でどのような話し合いがなされたかは記録に残っていない。

 しかし、結果だけは判明している。

 原点回帰。

 彼らが原点と考えるのは藤原良房であった。特に、良房が権力を掴みとるまでの課程であった。

 それは、財力を藤原長良が、権力を藤原良房が引き継ぎ、長良が良房をサポートして良房の権力を確固たるものとするという仕組みである。権力を掴みとるためには良房個人が新しい支持基盤を構築することが不可欠であるが、それは既存勢力の不満を絶対に生む。その既存勢力の不満の前に立ちはだかり、弟の権力構築を全力で支えたのが長良の生涯であった。これは長良が生涯を弟の影に徹することを宣言したから実現できたことであり、結果として、長良は出世街道を進むことができなかった。

 出世することなく下位の役職に甘んじるというは当時の貴族にとってはあまりにも大きな人生の損失であったが、この損失を長良が引き受けることを承諾したからこそ、良房は権力を掴み、ひいては藤原北家の権力構築に成功したのである。

 同じ仕組みでスタートしたはずの藤原基経の場合、長良の役を務めるはずであった叔父の良世は長良よりも出世したが、長良ほどの評判を獲得できなかった。良世個人としては成功でも、仕組みとしては失敗である。それでも結果を残せたのは基経個人の能力と、源能有という最高の右腕が活躍したからに他ならない。時平の場合はその源能有が長良の役を果たしたが、能有がいかに藤原氏と縁戚関係を結んでいても、能有は藤原氏ではない。能有亡き後は菅原道真が能有のポジションに就いたが、こちらもまた、能力は問題ないが長良の役割を果たす人間ではない。基経も時平も権力継承そのものは何ら支障がなかったから問題がなかったかのように見えるが、権力継承が万全ではないとしたら、その途中で命運つきることとなっても何らおかしくなかったのである。

 藤原北家が置かれている状況は冬嗣亡き後の藤原北家に似ていた。権力を維持するためには誰かが盾となって立ちはだからねばならないのである。

 忠平が兄仲平に長良の役を果たすよう要請したのは、流れとしてはおかしなことではない。

 だが、仲平は長良ではなかった。兄の死後、藤原北家の権力を継承するのは自分だと考えていたのである。

 この兄弟の争いは藤原氏全体を巻き込む論争となり、結論を出すのに五日間を空費した。

 そして、やっと結論が出た。

 政務は忠平が継承し、藤原氏の財は仲平が受け持つ。かつての長良の再来を仲平が受け持つこととなったのである。

 この時点では。

 この時代は必ずしも長男が後を継ぐとは限られてはいない。長男であるかどうかではなく、後継者候補の中から最も相応しいと思われる者を後継者に選ぶのが通常で、時平が基経の後継者になったのも、長男だからではなく、他の兄弟たちより優れていると基経が考えたからである。

 実際、仲平も、忠平も、常に優秀な兄と比べられ、見劣りしていると判断され続けていた。学問にしても、貴族としての思考にしても行動にしても、時平は弟たちより群を抜いていたのである。それは時平の弟たちだけではない。時平の子の保忠もまた、有能な父と比べ凡庸な息子という見なされ方をされていた。

 今の状況では誰を就けても時平に見劣りするし、時平と比べられてしまう。予定通り時平の子の保忠を後継者にしても比べられることに違いはなく解決策にはならない。

 だが、一つだけ時平と比べられる見劣りを隠す方法がある。

 それは、時平を否定すること。

 時平と弟たちとの兄弟間の関係が悪かったという記録はない。しかし、今はそう考えられている。

 なぜか。

 時平を否定し、良房から基経へとつながった権力が空白期間を経て継承されたとすればどうにかなるのである。時平の政策も、時平の一人の人間としての行動もともに否定し、基経の時代からの継承を打ち出すことで、時平と比べられるという事態そのものを防げるのだった。

 そして、時平の否定には絶好の材料があった。

 菅原道真の処遇である。

 時平の否定の材料として右大臣であった道真を太宰府に追放したとする噂を利用できたのだ。その上で、時平の功績を否定し、天災にしろ人災にしろ災害を大きく取り上げ、その責任を菅原道真の祟りと規定することで、悪人である時平の時代を終わらせ、新しい時代を作り出すのだと訴えることも可能であった。

 そして、時平の否定に賛成する勢力が二つあった。

 一つは宗教。

 もう一つは大規模荘園の所有者。

 どちらも時平によって、これまで所持していた権力を奪われていた勢力である。よりわかりやすく書けば、脱税ができなくなり税を課せられるようになっていた勢力である。

 時平の財政政策は単純明快であり、かつ、成果を上げやすいものでもあった。これまで重税を課せられていたところの負担を減らし、その代わりに、重税から逃れている者に税を課すのである。この時代はタックスヘブンなどという考えはないし、企業の海外流出という概念もない。裕福な者に税を課したら、その裕福な者が財を持ったまま国外に逃れてしまい、増収どころか減収になってしまったなどと言う、現在の日本で起こっている現象は起こり得なかった。これまで脱税に成功していた寺院や神社、そして荘園の所有者も、時平の貸した税から逃れることはできなかったのである。

 税を課せられた側がこれを快く思うわけはなかった。

 荘園というものはいかにして税を払わずに済ませられるかを考えてできあがった仕組みである。税を払うようでは荘園ではない。その荘園に税を課したことで、時平は財政を立て直すことに成功したのだが、敵を多く作ってしまった。

 裏を返せば、時平を否定することで時平の敵を味方とすることができるということである。ただし、それは、脱税を復活させるということでもあった。

 今に残る記録の多くは、和歌を除けば、記録を残せるだけの環境にある者が残した記録であり、それは高等教育を受けた者、すなわち、恵まれた者に偏る。寺院や大規模荘園の所有者といった面々がその恵まれた者に該当するが、それは同時に、時平の進めた税制で負担をさせられ、忠平によって脱税を復活させてもらえた面々でもある。

 目に見える負担を押しつけた者と、その負担を無くした者、これでは時平の評価と忠平の評価がどうなるか決まってしまう。

 藤原冬嗣は律令制の一貴族にすぎなかったしその政策も律令に沿ったものであるが、その後継者である良房は律令を否定し、より現実に沿った政策を進めた。荘園はその結果であり、問題も出てきた政策であるが、良房の時代では失業を解決するために必要な政策であった。その政策を基経は引き継ぎ、基経の政策を時平は引き継いだ。ただし、荘園への課税という祖父の政策に対する否定をしている。それでいて、現実に合わせた政策の実施という点では、時平は良房の系譜を間違いなく引いている。

 ここで時平を否定し良房と基経の時代に回帰するということは、良房の打ち立てた反律令を推進するということでもある。ただし、良房の時代では反律令というのが現実主義に則った行動であったのだが、時代を経るにつれ、反律令のイデオロギー化、つまり、非現実になってしまうのである。良房は現実を正すために反律令を掲げたが、時平亡き今は、現実と関係なく反律令を掲げるようになってしまい、そして、反律令が現実に対立する命題になってしまったのだ。

 そう、反律令という命題の意味するところが時代を経て変わってしまったのである。良房の頃は現在の法律を否定してでも現在の問題を解決することが反律令であったのに、今では現実と反律令とが離れてしまっている。反律令の政治が続いて、反律令に基づく現実の暮らしの方に支障が出始めてしまった結果を踏まえた時平が、現実に対処すべく為した政策は律令に近いものとなってしまった。これは反律令を掲げた良房の政治とかけ離れている、つまり、命題から離れてしまっている。現実への対処という側面は無視され、ただ、反律令ではないがゆえに良房の政治の後継者ではないとされてしまった。

 時平が生涯をかけて為した政策は、その死とともに終わりを告げた。と同時に、現実に則った政策を為すという藤原家の政治も終わってしまったのだ。後に残っていたのは、ただ前例を踏襲するだけという政治。藤原氏の摂関政治を前期と後期に分けるときは時平以前と忠平以後に分けるのが普通だが、それは、政策が現実主義に基づくか、イデオロギーに基づくかの違いでもあるのだ。


 時平の死の時点における太政官の構成は以下の通りである。

 右大臣、従二位源光。

 大納言、空席。

 中納言、従三位源湛。源湛はこの年の一月より陸奥出羽按察使を兼任しており、中納言筆頭の地位にあった。

 中納言、従三位平惟範。

 中納言、従三位源昇

 参議、正三位藤原有実。この人は良房の母親違いの弟の一人である藤原良仁の次男で、このときすでに六一歳と高齢であった。

 参議、正四位下十世王。

 参議、正四位下藤原清経。この人は長良の息子の一人で、基経の同母弟にあたる。ただし、基経は良房の養子になったのに対し、清経は養子になっていない。この人もまた、このとき六一歳になっている。

 参議、正四位下在原友于。この人は菅原道真亡きあとの太宰権帥でもあり、太宰府で対外政策の総指揮を司る、現在で言うところの外務大臣のような立場であった。もっとも、菅原道真は右大臣としての権威と権力を持った状態で太宰権帥となったが、在原友于の場合は右大臣より三段階下の参議の権威と権力しかなかったため、道真ほどの結果を残せずにもいた。

 参議、正四位下藤原仲平。近江国司を兼任しており、京都から日本海に出るときの交通ルートの維持も職務の一つであった。また、近江国司は首都の東部を守る仕事もあり、首都の治安を維持するための武力も所持していた。

 参議、正四位下紀長谷雄。左大弁を兼任。現在で言う法務大臣にあたる。

 参議、従四位上藤原忠平。春宮大夫と左兵衛督を兼任。皇太子保明親王の補佐役であり、また、検非違使の別当も兼ねているため京都の治安維持のための武力も持っていた。

 この面々を見ると、藤原氏は言うほど権威を独占できていない。

 左大臣藤原時平は別格であったが、その下の右大臣、大納言、中納言の中に藤原氏はいない。その下の参議になってやっと藤原氏が登場するが、藤原有実と藤原清経は年齢相応かあるいは年齢に比べれば遅い出世であり、当時の人も、藤原氏だから優遇されたのではなく、地道に実績を積み上げた結果、特別扱いされず還暦を過ぎて参議になったと考えていた。

 一方、時平の弟の二人は明らかに情実人事である。とは言え、それほど高い地位ではなく、一点を除いて特に注視するところはない。

 ただし、その一点が問題であった。

 軍事力を握っているということである。

 制度上は左近衛大将が国の軍事のトップであり、近江国司は一地方官、左兵衛督も検非違使別当も軍事組織の中の一文官でしかない。しかし、藤原良相の死を最後に、文武双方を司れる者がいなくなり、軍事のトップである左近衛大将ですら文官の一職務でしかなくなっていた。しかし、実際に武力を指揮するのは現場の者である。仲平も忠平もこの武力を握っていた。時平が開始した「滝口の武士」を活用したのである。

 時平の死から五日間を経た延喜九(九〇九)年四月九日、新たな人事が発表された。

 参議藤原忠平、権中納言就任。同時に、藤氏長者の地位も継承されると醍醐天皇より発表された。

 仲平にとって、そして日本中の人にとってこれは寝耳に水の発表であった。

 仲平も忠平もともに参議である。ただし、仲平を含め、一人を除く全員が正四位下であるのに対し、その除かれる一人である忠平は従四位上と、他の参議より一段低い地位にある。

 その忠平が他の参議たちをさしおいて権中納言の地位に上ったのは、仲平を含む他の参議たちにとって全くの想定外であったと言うしかない。仲平自身もかつての長良の役割を引き受けることは承諾していたし、それは他の貴族たちにも共通認識となっていたが、一段下の参議である忠平が自分たちを追い抜くことまでは想定していなかったのである。

 その上、仲平にはもう一つ想定外があった。

 忠平が兄である自分にかつての藤原長良の役目を押しつけようとしていることは知っていたし、最後は仕方なしという感じであるがそれを引き受けることは承諾したが、長良の役目にさせられることとなることとなっても、藤原氏のトップを譲るつもりは毛頭なかったのである。

 良房の体制を再現するために出世を犠牲にして長良の役目を担うことになった場合、藤氏長者は仲平でなければならない。実際、良房が権力を握る課程で長良に犠牲を求めたとき、長良には見返りに藤原氏の財を委ねた。この、藤原の財を手にしている者のことを「藤氏長者」という。いかに良房が権力を手にしようと、「藤氏長者」は長良であり、仮に長良が首を横に振ったら、銭一枚、米一粒たりとも良房は藤原の財を使えなかったのである。このバランスを保ったからこそ、権力を握るまでの良房は藤原氏を一枚岩とすることができたのだ。

 良房の頃は「藤氏長者」という言葉はなかったが、概念ならばあった。長良の死後は自然と良房の元に藤原の財が移り、それは基経、時平と継承されてきた。「藤氏長者」という呼び名は正式な役職名ではなく、基経の頃に呼ばれ始めた通称であろうと推定されている。

 通称であり正式な役職名ではなくても、時平までは何の問題もなかった。既に貴族としてのトップの地位にあり、また、藤原氏全体を見ても誰一人として基経や時平に匹敵できる人物はいなかったからである。

 時平の死で、その「藤氏長者」の地位が不明瞭なものとなってしまったのはやむを得ない話である。だが、醍醐天皇が「藤氏長者は忠平である」と明言し、地位を明瞭化したことでかえっておかしくなってしまった。

 仲平は約束が違うと訴えたが、既に決まったこととして仲平の訴えは拒絶された。

 藤原氏のトップは藤原忠平であり、貴族としての地位も忠平のほうが上である。これが醍醐天皇の宣言であり、これでは仲平が長良の役割を担うなどできない話であった。

 その上、四月九日にはもう一つ人事の発表があった。藤原道明と藤原定方の二人が参議に加わったのである。

 藤原道明はこのとき五四歳。藤原氏にしては珍しい大学出身で、道真の後押しで貴族入りをしていた人材でもある。道真亡き後の時平政権下でもその実務能力を買われ右大弁と勘解由長官を兼任していたが、あくまでも実務畑一本であり、参議になれずにいたことには変わりない。

 つまり、道真によって採用され、時平下で冷遇された者を、忠平が引き上げたというアピールはできるのである。また、五四歳という年齢もアピールポイントとして重要だった。冷遇され、年齢を重ねることとなってしまった有能な人材というのは、前政権の否定として実に分かりやすいシンボルであった。

 ただし、参議の役職は兼任である。右大弁と勘解由長官としての職務からは外さないというのは、なんと言ってもその実務能力の高さからであり、ここで参議にさせることはアピール以外にあまりメリットのないことであった。

 今の会社でも見られることだが、能力がある人間だと評価して高い地位の役職を与えることで、かえってその人が職務を発揮できなくさせてしまうことがある。中間管理職として、あるいはトップクラスの経営層にまで出世させたとしても、その人が中間管理職として、あるいは経営層として優秀な結果を出すとは限らず、むしろ、それまで得ていた結果を出せず、ただ苦労のみを背負い込んで、組織にも個人にも不幸な結果を生んでしまうことがある。現在の日本企業の苦悩も、第一線としては優秀でも、管理職としては優秀ではない人間を、第一線の評価だけで管理職にさせてしまっているところにある。

 時平はそのあたりをわかっていた。参議にしないというのは、道明のベストパフォーマンスを発揮させるのに最適なポジションを選んだだけで、何も冷遇したわけではなかったのである。それを、シンボルのために参議にさせたことは、忠平のアピール以外何のメリットもなかった。

 同タイミングで参議になった藤原定方は明らかに仲平のバックアップである。基経の従弟であり、仲平が長良の役を引き受けなかった場合、定方が長良の役を引き受けるというメッセージであった。

 藤原氏の貴族としてごく普通の出世街道を歩んでおり、各地の国司を歴任した後に中央に戻って、三五歳で参議に就任という、出世街道としては順当と言える人生を歩んでいたが、それまではあまり目立つことのなかった凡庸な人と見られていた。しかし、この後の定方の人生を見ると、この人は忠平の忠実な右腕であったことが伺える。言うなれば、良房政権下に置ける左大臣源常のような立場を担う人間でもあったのである。

 さらにその一ヶ月後、忠平はさらなる権力の向上を図る。

 延喜九(九〇九)年五月一一日、藤原忠平、蔵人所別当に就任。

 蔵人は天皇の秘書役を務める職務であり、蔵人所は蔵人を束ねる部署で大企業における秘書課に相当する。この蔵人所のトップは本来蔵人頭であるが、蔵人頭は天皇の秘書を務める職務であり、これから貴族になろうとする若者の出世の第一歩の職務でもあった。

 既に権中納言である忠平は格下の職務である蔵人頭に就く資格がない。だが、蔵人頭は天皇の第一の側近であり、天皇に対する強い影響を発揮しうる立場にある。実際、蔵人頭を経験した後で出世街道を進むというのは出世の王道である。

 ところが、忠平にはこの出世の王道がなかった。

 そして考え出されたのが蔵人所別当への就任である。先に蔵人所のトップは蔵人頭であると記したが、それは事実上のことであって理論上のことではない。律令の上では、蔵人所の最高責任者として「別当」職が存在しており、別当の元では蔵人頭も部下の一人に過ぎなかった。しかし、この蔵人所別当は理論上の職務に過ぎず、通常は空席で、まれに空席でないことがあっても他の職務との兼任で、名目上の職務になるのが普通である。

 その別当の地位に忠平は就いた。

 空席であった上に、位階に応じた職務に就任するのだから、律令に照らしあわせても何らおかしなことをしているわけではない。しかし、天皇と深く接する職務として活用することを考えたらどうか。

 この時点まで、藤原忠平が醍醐天皇に対して強い影響力を発揮できたという記録はない。時平の死まで、忠平は時平の弟たちの一人にすぎなかったのだから、醍醐天皇としても時平の弟の一人であること以外に特色のない貴族の一人としか認識していなかったであろう。藤氏長者に任命したのも、まず先に藤原氏内部での決定があり、醍醐天皇は事後承諾をしただけである。

 しかし、この蔵人所別当就任をきっかけに忠平は醍醐天皇に対して強い影響を与えることとなるのである。

 政治家としての評価は庶民の生活がいかに良くなったかだけで決まる。

 そしてこれは、常に後世からの評価となる。なぜなら、生活が良いかどうかを計るのは他人の生活と比べてのことであり、自分より恵まれた暮らしをしている者が一人でもいれば、いや、自分が仮にその一人であったとしても、今の自分は生活苦であると評価するのが人間の常。今の暮らしがどんなに満たされていようと現在の政治家の評価とはならない。そして、数年の時を経て、過去はいい暮らしをしていたのだと思い返すようになり、かつて批判されていた政治家の復権へとつながる。

 政治家の復権は、政権を降りた直後の時もあるし、政治家が亡くなった後の再評価の時もあるし、時代を経てからの名誉回復の時もある。いずれにせよ、現役の政治家が庶民から高い支持を受けていたとしてもそれは政治家の評価とはならないし、逆に猛烈な批判を受けていても政治家として失格であるという評価とはならない。


 延喜九(九〇九)年七月一日、下総国で騒乱が発生したとの知らせが届いた。この時代の情報伝達なら一ヶ月はかかっていたであろうから、騒乱の発生は遅くとも六月初頭であろう。

 史料では「騒乱」と記されているが、現在の感覚で行くと反政府デモである。政権に対する不満に生活苦が加われば、暮らしの不満を解消するための行動が起こるのはおかしなことではない。

 恐らく、時平政権が終わり、増税が課されるようになったことに加え、不作による食糧難が追い討ちをかけたのであろう。時平を批判するということは、時平のもとでなんとか暮らせていた庶民にとっては生活を破壊されるに等しい行為であったのだから。

 忠平は、自らの権力を安定させるために上流階級の有力者の意を汲んだ。それは同時に、良房、基経、そして時平と三代に渡って構築してきた支持基盤を破壊する行為でもあったのだ。

 これに慌てたのか、七月八日にコメの物価を引き下げるよう命令を出した。だが、物価は命令では決まらない。需要と供給のバランスを壊す命令は、市場からコメをはじめとする物品が姿を消すのを加速させるだけであった。

 黄巣の乱を最後に唐が首都とその周辺しか勢力下に置けなくなったが、それでも日本人の意識の中には西方の大国であり、見本とすべき国家である唐が存在していた。その唐が名目上も滅亡したのはこのときから見て二年前。朱全忠が皇帝となり、国号は「梁」となり、唐の存在は歴史から消えたが、唐が三〇〇年に渡って日本人の意識の中で大国として君臨しており、唐がなくなっても西方の国の名は「唐」であるという意識は強かった。

 延喜九(九〇九)年閏八月九日に、中国の戦乱を逃れて日本へとやってきた唐人の荷物を検診するための使者派遣をやめて太宰府に行わせるとの命令が出たが、それはあくまでも「唐人」であり「梁人」ではない。二年前に滅んだ唐の人間などいるわけはないのだが、そこにいるのは、話す言葉も、着ている服も、持っている物も、何もかもが見慣れた唐のものであるという人たち。これでは「唐人」とどうしても見てしまう。

 現在の日本人にその感覚はわからないであろう。だから、想像するしかないのだが、もしアメリカが滅び、ニューヨークやワシントンDCが陥落し、ホワイトハウスから星条旗が外されるようになり、国名が変わっても、サンフランシスコやボストンからやってくる英語を話す人たちのことを我々は「アメリカ人」と見るのではないだろうか。日本とアメリカの歴史は一五〇年程度しかない。日本と唐の歴史はその倍の三〇〇年間である。今のアメリカとの関係の倍以上の期間に渡って接触を持ち強い影響を受けた国のことが、国家滅亡という事態を迎えたからといって脳裏からそう簡単に消えるわけはないであろう。

 ただし、意識から唐が消えなかったとしても、実際問題、国としての対応に問題が出ることがある。

 建国されたばかりの梁といかに接するかという問題は簡単ではない。梁が建国されたといってもその勢力は中国全土ではなく首都とその周辺であり、首都から離れた地域には梁を良しとしない人が数多くいる。日本に逃れてきた人たちもそういう人たちで、自分たちのことを「唐人」とは名乗っても「梁人」とは名乗っていない。だから、戦乱から逃れてきた人たちを日本としてかくまった場合、梁と敵対することとなる。ここで明確な態度に出るということは、建国直後の混乱にある梁に対し、海の向こうの日本を敵国として認識させてしまうおそれがある。

 混乱にあるとき、その混乱を収拾するのに最も単純明快な方法は共通な敵を作ること。それが手出しできない敵であるときはまだ問題ないが、手出しできる敵になってしまった場合、戦乱に巻き込まれてしまうのだ。こちらが平和を訴えようが、攻め込もうとする側は関係ない。国内の混乱を収めるために戦争をするのであり、攻め込まれる側の平和が破壊されようとそれは知ったことではないのである。

 そして、このときの日本は攻め込むに絶好な条件が揃っていた。

 不作であったとは言え、中国本土や朝鮮半島に比べればまだ食料に恵まれている。

 治安に難ありとなっていても内乱が起こっているわけではないため国民の生活水準が高い。

 金銀をはじめとする価値ある物資が多い。

 そして、武士の存在はあるが、国家として構えている軍事力が乏しい。

 攻め込もうという時にこんな最高のターゲットを見逃すはずがない。特にこの最後は攻め込もうと判断するときに大きなウェイトを占める。

 一見逆説的であるが、実は歴史が証明していることの一つに、平和を求めれば求めるほど平和から遠ざかるというのがある。第二次大戦が終わってから、日本は戦争を全く経験しないできたが、それは日本が平和を追求したからではなく、日本を守る勢力があったからである。自衛隊が軍隊でないと主張しようと、在日米軍が問題になろうと、その軍事力は日本を守ってきた。何しろ日本に攻め込むということはそうした軍事力と真正面に向かい合わなければならないということ。話し合いの通用しない非文明人であろうと、殴り合いで勝てるかどうかならわかるものである。

 殴り合いで勝てると判断されたら相当な可能性で攻め込まれる。それも、まず戦争という目的があり、次に略奪という目的がある戦乱になる。それは、攻め込んで、奪って、殺して、犯すだけの、武装強盗集団に狙われるということであった。

 権力を握るということは、豪奢な暮らしを手にすることでもあるが、同時に責任も降りかかる。特に、日々の安全な暮らしを維持するという極めて重要な責任を背負わなければならなくなる。時平を批判することで時平の手のつけた改革を否定した忠平だが、時平の時代に始まった「武士の活用」による「武力の増強」についてはそのままでいる。ただし、時平は左大臣という人臣最高位の権威を以て武力の増強を果たしていたが、権中納言である忠平はそこまでできない。そこで、忠平はまず、延喜九(九〇九)年九月二七日に右近衛大将の兼任を発表した。左近衛大将は右大臣源光が兼任しており、源光はこの職務を大臣ゆえに引き受けなければならない兼務職程度にしか認識していなかったから、国の軍事力は事実上、忠平の元に全面移管されたようなものである。

 通常、近衛大将に就任した者は検非違使の権力を手放すものであるが、一〇月二二日、忠平がこれまで通り検非違使の別当を勤め続けることが明言された。これで、忠平は、軍事力と警察権力の両方を握ったこととなる。


 時平の批判によりスタートした忠平の政権だが、時平の政策をそのまま継承したのが二点ある。一点は既に述べた軍事。そして、もう一点が法律である。

 時平の手でスタートした延喜格式のうち、延喜格が完成したのが二年前。前年一二月には施行が命じられていたが、あくまでも「延喜格を使用せよ」という命令だけであり、国として正式に施行されたわけではない。

 その延喜格に国として正当性が付与されたのが、延喜九(九〇九)年一〇月二三日のこと。この日、醍醐天皇の手によって延喜格に捺印され、延喜格が正式な法律として認証されることとなった。

 ただし、なかなか広まらなかった。

 不便だからである。

 律令というものは、まず修正されない。このあたりは現在の日本の憲法に似ている。ただし、律令は必ずしも時代に即しているとは限らないので、時代に合わせた修正が必要になり次第、律令の部分的な手直しが必要となる。「格」というのは律令の手直しのために律令に追加される条文であり、「式」というのは律令を手直しせず律令の施行細則を定めるものである。つまり、ただ単に「律令」と言っても、律令の条文に加え格式の条文を参照することではじめて法として運用できることとなる。

 さて、この延喜格であるが、実際に法を使う立場からすると使いづらいことこの上ない格であった。

 まず、延喜格が出る前に公布されていた「弘仁格」「貞観格」と重複する部分は削除されている。

 次に、延喜格編纂前に廃止されていた条文も削除されている。

 つまり、格を格として使うためには、まず律令を読み、それから弘仁格と貞観格を読み、その上で延喜格を読まなければならないのだが、それだけでは不充分で、廃止されていないことを確認しなければ格として利用できない。

 これは不便なことこの上ない。

 既に律令格式の条文が頭の中に入っていて、何が廃止されたのかを暗記していれば問題ないのだろうが、人間の頭はそう便利にはできていない。

 要は、格としての出来が低いのである。

 その結果どうなったか?

 一一〇〇年を経た現在、延喜格が残っていないという状況になった。他の資料から類推すればどんな条文であったのか推し量ることができるのだが、原文が残っていない以上、「こうであったろう」という程度でしかわからないのである。

 延喜格の編纂責任者は藤原時平であったとされているが、時平自身は名義のみで、実際の編集は文章博士の三善清行であったと推測されている。

 延喜格のこの責任をとらせるためか、三善清行は翌年一月に文章博士を辞任させられている。終生ライバルと考えていた菅原道真は文章博士を円満卒業したのに対し、三善清行は本人の最も望まない形での文章博士終了となってしまったのだ。

 これは、三善清行の心情に忠平への反発心を抱かせるのに充分であった。

 年明けの延喜一〇(九一〇)年一月一三日、藤原忠平が中納言に昇格。後任の権中納言には紀長谷雄が就任した。紀長谷雄は同時に従三位に昇叙している。

 紀長谷雄は菅原道真と同い年の貴族であり、この年六五歳になっている。学問に自らの活路を見いだし、文章生となり、文章得業生となり、方略試に受かっての貴族入りという道真と全く同じ道を歩んでいた。ただし、道真が早熟の天才として、二六歳という当時としては史上最年少の若さで方略試に合格したのに対し、紀長谷雄は三八歳での合格と、ごく普通の年数をかけている。ちなみに、三善清行は道真や紀長谷雄より二歳下だから、この三人は全く同時代に生きたと言っても良い。

 それでいて、この三人の学者の運命は三者三様である。

 早熟の天才として早々と出世をし、右大臣にまでなり、新羅からの侵略をくい止めるために九州に赴き、死後は神とまで評されるようになった菅原道真。

 二歳上の道真を一方的にライバル視し、道真への反発を隠すことなく論陣を張ったが、その学者としての能力を発揮すべく全力を尽くした延喜格が全く評価されず、結果として遅い出世となった三善清行。

 方略試に合格する才能を持ち、幻となった最後の遣唐使では遣唐副使に任命されるほどの評価を得て、ゆっくりと、しかし着実に、何ら波風を立てることなく順風満帆な人生を送ってきた紀長谷雄。

 この三人の生き方は明らかに違う。そこに優劣はない。ただ単に生き方が違うというだけである。

 その生き方の違いは紀長谷雄に一つの幸運と一つの不運をもたらした。幸運とは、既に記したとおり、順風満帆な人生を過ごせたという一点であり、それがどれほど恵まれたものかは人類の歴史の至る所で見られるだろう。ただ一度の失敗や不幸が自分の人生を破滅に導き、死ぬまで、いや、死してもなお汚名を浴びせられ続けるというのは歴史上何度も存在する。時に歴史家が再評価することもあるが、その幸運に恵まれた者は一握りの例外に過ぎない。しかし、それは同時に不運の元でもある。順風満帆な人生は人々の記憶に残らない。評伝も残らないし、伝記も記されない。あるとすれば同時代人の伝記に脇役として登場できるかどうかというレベルである。

 紀長谷雄は、道真にも三善清行にも劣らぬ知性の持ち主であった。だが、紀長谷雄は時代の主役となれなかった。波風を立てず、順風満帆な貴族生活を過ごした代償である。

 紀長谷雄が権中納言になった日、紀氏から一人、歴史の舞台に姿を現す者が現れた。生年は不明なので延喜一〇(九一〇)年は三〇代後半であったろうと推測されている。

 この日にはじめて歴史の舞台に登場したというわけでもない。この人は五年前にも歴史の舞台に登場しているので、より厳密に言えば再登場と言うところか。

 その人の名前は紀貫之。

 伝記が乏しいので紀貫之の人生を追うことは難しく、五年前の記録というのも古今和歌集の選者の一人として名前が残っているというだけである。また、このとき紀貫之が任命されたのは少内記であり、文才を認められて就任した職務ではあっても貴族としての能力で判断された職務ではない。何しろ、少内記とは貴族ではなく役人が就く職務なのである。三〇代後半の紀貫之がこの地位でしかなかったのは応天門炎上事件で紀氏が追放された影響で紀氏である紀貫之の出世が遅れていたからだという説もあるが、その説が正しければ紀貫之以外の紀氏もことごとく追放され、あるいは冷遇され、出世街道から遠ざかっていなければならない。だが、紀長谷雄の例にもあるとおり、紀氏だからという理由でことごとく冷遇されているというようなことはない。それよりも、役人としての能力そのものに対する評価の結果と見るべきであろう。

 


 承和の変、応天門の変、そして道真追放と至る過程は、藤原北家が権力を独占する課程であると歴史の教科書に記されてはいる。

 だが、それならば、菅原道真を追放した藤原時平の政権では藤原北家による権力独占が行われていなければならない。ところが、史料に従うと実状は真逆で、藤原北家は厚遇どころか冷遇されている。左大臣藤原時平以外に内裏に名を連ねる藤原氏は、時平の弟の仲平と忠平の二人と、高齢の参議二人しかいない。高齢の参議二人は順当な出世街道とするしかない以上、藤原氏厚遇は亡き太政大臣藤原基経の実子二人のみ。これでは藤原氏の権力独占などととてもではないが言えず、藤原氏は過半数どころか少数派閥になっている。それでも政治に支障を来さなかったのは、時平が左大臣として圧倒的存在感とともに君臨していたからに他ならない。

 ところが、時平が亡くなってから一年と経たずに、構図は激変するのである。一般にイメージされる藤原氏の権力独占の構図が早くも成立したのだ。

 右大臣源光はそのまま、大納言は空席、中納言は三名中一名が藤原北家だから良いが、その下の参議になると八名中六名が藤原北家となったのだ。議員内閣制の現在では内閣の全員が一つの政党で占められているというのは何ら珍しい話ではないが、この時代は選挙のある時代ではなく、いわば連立政権が当たり前の時代である。前年は亡き時平を含めて五名だったのに、いまや七名が藤原北家。序列があるので簡単には言えないが、内閣の過半数を藤原北家という政党が占めたようなものなのである。これを見た世間の人は、忠平による藤原氏独裁が始まるのだと感じ取った。ここでもまた、時平の改革は消滅したのである。

 独裁政治がイコール悪であるなら単純に弾劾できるが、独裁は時に、民主主義や共和主義では時間がかる決断を一瞬で済ませることができるという利点を持っている。個人の力量に依存することとなるが、即断即決により時に民主主義を上回る結果を出すことがある以上、独裁政治がなくなることはない。

 ただし、それが結果を出すならば、という条件付きである。ここで言う結果とは、何度も繰り返すが、庶民生活の向上のことである。

 忠平をトップとする藤原北家の独裁が始まったのは、ただ単に藤原北家独裁をくい止める勢力がなかったからである。そして、藤原北家に独裁を決意させたのは、自分たちがいま持っている権威と権力を手放したくないという、消極的理由によるものであり、明確な政治信条によるものではなかった。

 消極的理由であろうと結果を出したのならば問題はなかったのだが、結果は出なかった。

 資料はこの年の貧困の理由を干害のせいであるとしている。実際、延喜一〇(九一〇)年七月一〇日には、干害対策としての奉幣と大赦が行われている。

 だが、自然災害に貧困の責任を押しつけて自らは責任がないとする態度はあまりにも無責任すぎる。コメの絶対数が少ない以上、市場からコメが消えるのはやむを得ないことであるが、それをそのまま放置する、あるいはコメ不足を利用してさらに儲けようとする態度は権力者のそれにあるまじき行為であった。

 二一世紀の現在の暮らしにおけるコメはスーパーマーケットで売られている単なる食料品の一種であるが、この時代のコメは金銭以上の価値を持っていた。物を買うのも銭よりコメの方が喜ばれたし、財産の大小もコメの多さで測れた。税の基本もコメであり、いかにコメの収穫があげられるかで土地の価値も決まった。

 市場からコメが消えたことは、田畑を持たずコメを買うしかない首都京都の都市住民を激怒させる出来事であったが、同時に、田畑を持ちコメを持つ者にとっては莫大な財産を築くチャンスでもあった。それまではコメ二升を用意しなければ買えなかった品が、今ではコメ一升で買えるようになったのである。しかも放っておけばコメの値段が上がっていく。ついこの間までは二升出さなければならなかったのに、今や一升を出さなくてもその半分の五合で、さらには三合で買えるようになっているのだ。これでは、食べる以上のコメは、溜め込む対象になってしまう。

 市場からはコメが消えているのに、蔵の中にはコメが満ちあふれているという事態が発生した。今の社会では莫大な資産を持つ高齢者が銀行の預金口座で財産を塩漬けしてカネを使わずにいるが、それと同じ現象が発生したのである。干害によるコメの不足が、ただでさえ少なくなっているコメを蔵にためこませ、市場からよりいっそう消してしまう効果を生んだことで、飢餓を招き、餓死者をも生んだ。それでも動きは止まらなかった。コメを溜め込んでいる者は、コメがないせいで飢饉に苦しむ人がいることを知識としては知っていても、それで自分の財産を減らそうなどとは考えもしなかったのである。

 供給が需要を満たさないとき、物の価格は上がる。現在の我々は一ドルや一ユーロがいくらになるかをニュースで見るが、そこでの円高や円安も、理論上は需要と供給のバランスの結果である。この時代のコメと銭の関係も似たようなもので、コメ一升に対して銭が何枚必要かという相場が成立している。

 しかし、現在の為替が投機による結果であり需要と供給のバランスによるものではないのと同様、この時代のコメと銭の関係も需要と供給のバランスの結果ではなかった。コメを持つ者がコメの価格を投機的に吊り上げていたのである。それも、他でもない権力者自身が。

 荘園を持つということはコメを手にできるということでもある。スタートは失業対策であり、また、失業率を減らす効果はなお健在だったのだが、荘園制度はコメを手にできる特権階級とコメを持たない貧困層の二極化を生み出すことにも繋がった。コメを持つ者はますます豊かになり、持たない者は飢餓に苦しむ。富が富を生み、貧困は再生産されるようになってしまった。


 時平の時代は治安悪化に対する風評が見られないが、時平の死後、治安悪化は国家の大問題として認識されるようになった。

 当然だ。

 飢えて苦しんでいる目の前でコメに満ちた蔵がある。それを黙って見ていられるだろうか。犯罪を犯罪として楽しんでいる者は別として、多くの犯罪者は生きるために犯罪に手を染めるのだ。犯罪に手を染めずに生きようと考え思いとどまるよう教育しても、それでカタのつく話ではない。それに、犯罪者に言わせればコメをため込むことのほうが犯罪であり、蔵に忍び込んでコメを盗み出すのは、本音は生きるためであるが、理論上は犯罪に対する抵抗なのである。自分を被害者だと考え、加害者に対する抵抗をし続けているのだと考え続ける限り、犯罪が止まることはない。

 犯罪を止める方法、すなわち、コメを盗まなくても生活できる手段の構築だが、忠平は失敗した。失敗したのは当たり前で、忠平の支持基盤はコメを手に入れているがゆえに今のこの時点で豊かになっている者たちである。ここで支持基盤の面々に負担を求め、支持していない者のために行動させるよう命じるわけはない。たとえそれがどんなに必要な事業であると説得しようと、自分の財産が減らされるのを喜んで迎え入れる者はいないのだから。

 延喜一〇(九一〇)年一二月二七日、コメ不足を補わせるため、これまで塩を納税していた地域に対し、塩ではなくコメを納めるよう命令が出た。それも、塩とコメの比率は塩の市場価値を無視するものであった。コメと物々交換できる量の塩を納めていたのに、銭を基準とする公定価格で塩の量が決められた上に、銭一枚はコメ一升という公定価格で判定した上で、米を納めろと言うのだ。

 わかりやすくまとめると、本来ならばコメ一〇升が税だが、コメ一升と塩二升というのが市場での物々交換の基準だとしたら、その者は塩二〇升を税として納めていたこととなる。ここで仮に、塩一升の公定価格が銭一〇枚だとしたら、銭一枚がコメ一升の公定価格だから、塩二〇升は銭二〇〇枚となり、これからはコメ二〇〇升を納めろということになる。つまり、いきなり税が一〇倍になったと同じである。しかも、塩で税を納めるのはコメが穫れないか、穫れたとしても生活するのに精一杯で税として納める余裕がない。その生きていくためのコメを税として奪い取ってしまうのだ。あとに残っているのは、生活必需品ではあってもそれだけを食べて生きていけるわけではない大量の塩のみ。

 法でいけば忠平の理屈が正しいのである。コメと銭の交換比率は法で決まっているのだから、銭を介在させて納めさせるコメの分量を決めるのは理屈として成り立つ。だが、コメ不足によるインフレはコメの価値を上昇させ銭の価値を減らすこととなった。市ではコメ一升に対し銭一〇枚、さらにはコメ一升で銭二〇枚と価格が上がっている。こうなると、公定価格による銭との交換比率を持ち出されたら、税が一〇倍以上に跳ね上がることとなってしまう。

 広く浅くが税の理想だとする考えがあるが、忠平の命令はその間逆、狭く深くである。庶民の忠平への反発はこれで決定的となった。

 しかし、国にとっては収益を増やしたことに違いはないのである。しかも、Webで誰もが情報発信できる現在と違い、その時代の持てる者というのは公式にしろ非公式にしろ文書を残せるだけの素養も資産もある者とニアリーイコールでもあるので、財産をさらに殖やしてくれた恩人でもある忠平の悪評の記録は少ない。もっとも、忠平への好評と言うより、時平への悪評の裏返しとも言える。

 数少ない記録での忠平に対する庶民感情は恐ろしく低いものとなっていたが、国の上層部にいる者にとっての忠平の評価は高く、それを評価されたのか、延喜一一(九一一)年一月一三日、藤原忠平が大納言に昇格する。三二歳の若き大納言の登場であるが、ついこの間の時平だって若くして権力者となっていたこともあり、三二歳という若さでは特に注目を浴びなかった。それよりも、これまでずっと空席であった大納言に中納言の誰かが就くのは当然と考えられていたところで大納言となったのが、他の中納言たちを差し置いて、二年前の同時期は参議であった者だというので注目を浴びたのである。ちなみに、忠平の大納言就任に伴ってできた中納言職の空席には紀長谷雄が就任している。

 ただし、紀長谷雄の中納言就任の裏で、前年から明らかとなっていた藤原氏の権力独占はさらに加速していた。ただ一人の大臣である右大臣の源光をはじめ、源氏は合計三人が太政官に名を連ねているが、源氏とはもともと皇族に直結する特別な一族であり、フェアに考えることはできない。さらに、参議に名を連ねる十世王に至っては皇族のままである。つまり、皇族ではない人臣の者の中で藤原氏がどれだけを占めているのかという問題になるのだが、何とこのとき、紀長谷雄を除く全員が藤原氏であるという異常事態になってしまったのだ。

 藤原氏にとっては自家の勢力を伸ばしたのではなく政権の安定を考えた結果だということになろうが、そんな言い訳がどこまで通用するであろうか。わずか二年前はたった五人、それも、亡き太政大臣の子という特別な理由で太政官入りしたとしか考えられない者はそのうちの二人だけなのに、今や、皇族と、皇族に連なる源氏以外は一人を除いて全て藤原氏になったのである。

 この状況に絶望する者は多かった。藤原氏の教育機関である勧学院出身者は大学出身者と同列に扱われるが、これまでは、その実績を踏まえて同列に扱うことを誰もが納得していた。ただし、あくまでも同列であり優劣ではない。勧学院に入る資格がないために苦労して大学に入り、苦労して大学を出た者には相応の結果もついてきたのである。

 それが今では、苦労が何もならなくなってしまったのだ。結果、大学出身者が無職として溢れかえることとなり、大学出身者ではない職業にまで侵食しだしたのである。

 この影響をまともに食らったのが、皇族に連なる者として特別扱いされ大学に入ることのないまま貴族デビューした源氏や平氏である。さほど高い地位ではないにせよ職はあったし生活もできていて、チャンスを掴めば中央での出世も可能だったのだが、その領域に大学出身者が入り込んできたのだ。

 天皇から遠い源氏や平氏は、藤原氏でないというその一点だけで、中央での成功が失われる時代となってしまったと考えたのである。ある者は中央での出世をあきらめて地方に下り、ある者は荘園から上がる収益による暮らしを選んだ。そして、武装して武士化する者が続出したのである。

 さらに、この流れは、当の藤原氏自身をも襲った。政権の安定を名目に掲げながら藤原氏で権力を独占したが、藤原氏なら誰もが独占に加われたわけではない。忠平にとって役に立つかどうかが判断基準となり、忠平の目に引っかからなかった藤原の者も中央での成功の芽が摘まれてしまったのである。地位を独占した者が簡単にその地位を他の者に譲ることはない。あるとすれば早死にぐらいなものであるが、三二歳の忠平を含め、このとき太政官となった藤原氏は若い者が多い。また、老いた者もいるが、その後の地位をじっと待つ藤原氏はたくさんいる。時平の頃までならばここで優先されるのは本人の能力であり血筋は関係なかったが、今や血筋が最優先要素となってしまった。藤原氏ではあっても、本流、すなわち藤原北家で藤原基経の血を引く者でなければ充分な出世は期待できず、彼らもまた、源氏や兵士と同様に、地方に身を寄せ、荘園の収益で生活し、武装して武人となっていったのである。

 忠平は言うだろう。「これは政権の安定のためだ」と。だが、政権の安定と権力の独占とは同じではない。それでも権力を独占するのはやむを得ないことと目を閉じることはできなくもないが、能力もないのに血筋だけで権力の狭い輪に入れるかどうかを決めるのは何のメリットもない。

 現在の日本の国会を見渡すと二世議員や三世議員がやたらと目につくし、汚職の噂だってやたらと耳に入ってくるが、それ自体は特に悪いことではない。親の権威や権力を利用した結果であろうと、あるいは、汚いカネを使った結果であろうと、それは選挙によって選ばれた結果であり、その地域の有権者でもない赤の他人がどうのこうの言う資格はない。しかし、政治家としての評価、つまり、庶民生活の向上を果たしたかどうかという一点は絶対に無視できる要素ではない。結果を出せば汚職まみれの二世議員だろうと構わないが、親の権威も利用しない清廉潔白な政治家であろうと、生活を悪化させた政治家は問答無用で政治家失格である。

 平安時代に視線を戻すと、忠平は断じて結果を出していると言えなかった。

 そして、この忠平の行動が、二〇年後より始まる大動乱へとつながった。

 延喜格が施行されたものの、使用されてはいない。

 理屈はわかる。他の資料も参考しなければ法の運用として成立しないものをわざわざ使うなんて面倒くさいにも程がある。サラリーマンの仕事でも「この手順を加えればより品質が上がるはずだ」という理由で上層部からの指示による手順が増やされことはよくあるが、それで品質の向上につながったという話は少ない。理論上はそれを実践すれば品質が上がるのだろうが、その手順をやる時間があまりにもかかりすぎると、手順を踏むことによって時間をかけすぎてしまい品質が下がるか、あるいは、手順を無視することによって現状維持の品質に留まるかのどちらかである。

 醍醐天皇もそれがわからないわけではなかった。長い期間をかけて編纂し公布した延喜格が使用されていないのは、それが延喜格に対する評価だからである。その低評価の法典を無理矢理使わせても、想定していた結果が出るわけはない。

 かといって、法体系が整わないというのは問題である。律令と格式だけで法の運用が可能となるようにしなければ、法の運用が一部の専門家だけのものになってしまうのだ。現在は、弁護士という法のスペシャリストである職業があり、また、裁判も法のスペシャリストによって執り行われるが、平安時代はそうではない。明法道のように法のスペシャリストならばいるにはいるが、裁判を行うのも、検事や弁護士の役を務めるのも、行政官僚であって法のスペシャリストではない。つまり、法で規定されていないのに勝手に法を運用して罪にならない罪をでっち上げる可能性であって存在するのだ。法治国家という言葉はこの時代ないし、律令の批判が藤原良房以来続いている藤原氏の基本政策であるが、それでも機能しているのは、良房、基経、時平と、律令を把握しているがゆえに律令制を批判し、ときには批判しているはずの律令を活用する者が続いていたからである。だが、これでは個人の資質に依存しすぎてしまう。

 個人の資質に依存しないためにも、藤原氏の基本政策と反すること覚悟の上で、法体系を明確化させる必要があった。律令が現状に即していないとして律令を批判した良房であったし、その後を受けた基経も良房と同じ考えであったが、法律そのものを無くそうなどとはしていない。重要なのは律令を信奉する一派の反発も覚悟の上で現実の問題への対処であって、法という概念そのものへの批判ではなかった。

 それを踏まえた上で出された延喜格の評判が最悪だった。これは国の威信以前に、法の運用に関わる問題となってしまったのだ。

 しかし、一つだけ救いがあった。それは格式のうち「式」がまだ完成していないこと。「延喜式」となるその法典に全てをそそぎ込み、延喜式一つで法典として成立させてしまえばどうにかなるのである。格式の両方を公布してもその両方を使わなければならないわけではなく、どちらか一方だけ使えればいい。つまり、延喜格が低評価で使われなかったとしても、残った延喜式の評判が高ければ、国家事業である格式の作成と公布は成り立つし、法の運用も成立するのである。

 延喜一一(九一一)年二月一日、醍醐天皇は藤原忠平らに延喜式の編集を催促するよう命じた。ただし、それを忠平は受け入れたが明確な回答をしてはいない。「急いで作れ」と命じたわけであるが、それに加えてより高品質の法典にしろという命令である。急がせられれば急がせられるほど仕事の品質が下がるのもサラリーマンならば理解できるであろう。

 藤原氏の権力独占を目の当たりにし、数多くの貴族が意欲を失っていた。

 しかし、チャンスを捨てたわけではなかった。忠平をはじめとする藤原氏が権力を握ったのは時平死後のここ二年のこと。現状は異常態であって通常態ではない。そう考えた者たちにとって、通常態に戻った瞬間にどこにいるかというのは人生を決定する大問題であった。要は、地方官に任命されても赴任せず、京都に留まってチャンスを伺おうとする者が多かったのである。

 忠平は彼らをそのままにしておいた。特に地方統治に支障が出ないと考えたからである。しかし、支障が出ると考えたら相応の対処をした。

 延喜一一(九一一)年二月二五日、源悦が太宰大弐に任命された。太宰府のナンバー2であり、国外との交渉を担う重職である。この職務は、国を背負う任務に意欲あふれる者にとっては垂涎の的であった上、任期を終えて戻ってきたらかなりの可能性で参議になれるというメリットもあった。そして、深く追求されない程度にとどめておけば、そこいらの地方官には足元にも及ばない一財産を築けるという旨味もあった。

 ところが、源悦が太宰府に赴任しないのである。いつまでも京都に留まり続け、何度催促しても空返事が返ってくるのみであった。これは前代未聞の出来事であった。菅原道真が太宰府に向かったのを道真追放と考え、自分もその追放刑に処される身になったと考えたのかもしれない。あるいは、単に地方に発つのがいやだっただけかもしれない。いずれにせよ、九州に行っていなければならない人間がいつまでも京都に留まり続けるという事態は変わらなかった。

 他の地方官ならいざ知らず、太宰府である。しかも、国外は唐の滅亡に朝鮮半島の分裂という動乱の中にある。太宰大弐はその動乱の嵐に日本が巻き込まれないようにしなければならないようにするのを受け持つ重職であった。その重職にある者が京都に留まり続けたのである。

 何度催促しても動き続けずにいたことから、四月一日、忠平は検非違使別当の地位でもあることを利用して、源悦を逮捕し、裁判にかけた。

 源悦が自分に対するこの処遇をどう思ったのかを伝える記録はない。しかし、裁判の結果は残っている。貴族の地位の剥奪。

 この処遇には多くの貴族が驚いたが、それで貴族の地方赴任が活性化したわけではなかった。相変わらず貴族たちは京都に留まり続け、地方官としてのメリットだけを享受し続けたのである。この地方に対する関心の薄さもまた、二〇年後の大動乱のきっかけの一つになった。

 現在に生きる我々は、道真の怨念とされる天変地異のことも知っているし、平将門や藤原純友が起こした反乱のことも知っているが、この時代の人たちは近未来にそういう大動乱があることなど、当然ながら知らない。そして、その大動乱のきっかけがこの時期にはもう芽生えていることなど知る由もない。バブルの最中に、今の失われた二〇年があることや、財政危機、年金問題、少子化問題、高齢者問題など誰も考えなかったのと同じである。

 この時代の人も道真の怨霊の噂は知っていたし、祟りがあるのではないかという思いを抱いた人もそれなりにいた。もっとも、それは一部の人たちしか考えないオカルティックな考えであり、一般認識となっていたわけではない。言うなれば、平成二三(二〇一一)年三月一一日より前の原発反対派のようなものである。

 延喜一一(九一一)年五月一〇日、大安寺で大火が発生し、講堂と坊舎を消失する事態となったことを、この時代の人たちは特に怨霊だのとは考えなかった。寺院に火災があり、建物が燃えたというだけで、その出来事と道真とをつなげて考える人はごく一部しかいなかったとしても良い。

 決して満ち足りた生活ではなかったが、この頃はまだ生活に余裕があったのである。確かに、いい時代に生まれたとは考えなかったであろう。しかし、明日は必ずやってくるし、苦境もいつかは終わるという希望だって抱けた。国境の外では、国が無くなったり、国が分裂して戦争を繰り広げていたりするのに、日本はまだ平和だと感じることだってできた。生活は苦しいけど、誰もがその苦しさに耐えることならばできていたのである。

 当時の記録のどこを探しても、これから二〇年後に起こる大動乱のことなど記されていない。良くない時代になっているという思いを抱いた者はいたであろうが、それでもいつもと変わらぬ日常が続くと誰もが思っていたし、武士の登場を記録に記していても、それが権力を持つようになるとは誰もが考えていなかった。

 そんな中、一人の貴族が命を落とす。延喜一二(九一二)年二月一〇日、紀長谷雄、死去。これで、内裏における藤原氏独占の構図はさらに高くなった。

 延喜一二(九一二)年一二月一五日、京都で大規模な火災が発生した。多くの家屋が焼け落ち、数多くの京都市民が寒風吹き荒ぶ京都の路上に投げ出される事態となった。忠平は直ちに被災者に対するコメの支給を決定。それも、国庫からの支給ではなく藤原氏の私財の供出を表明した。これは食料の支給であるだけではない。市場で通貨としての価値を持つコメを支給することは、今で言う義捐金の配分にも相当する。

 普段は忠平を批判することの多かった京都市民も、このときの迅速な対応には感謝した。良房の頃から続いている藤原氏の伝統がなおも残っているということもあり、良房や基経が自然災害のたびに身銭を切って被災者の救済に当たったことを思い出させ、忠平がその後継者であることを印象づける役割を果たした。

 と同時に、藤原氏だけがこの災害にあって動けたことを印象づける効果も生んだ。他の有力貴族がこの災害にあって何をしたのか。藤原氏は確かに貴族として飛び抜けている。だが、理論上は数多くの貴族のうちの一つに過ぎず、その権威も、事実上はともかく、理論上は藤原氏だからという理由で手に入れた権威ではない。この災害に藤原氏であることを前面に掲げて被災者の救援にあたることは、藤原氏の権威が特権ではなく行為や行動の積み重ねによるものであることを、そして、今現在、藤原氏が内裏で絶大な権力を持っているのも、市民を救うために奮闘する実績によるものであることを印象づけたのである。

 普段は藤原独裁を激しく非難する者ですら、藤原氏以外は誰も助けに来なかったではないかという追求には言い逃れできなかった。


 忠平はこの空気を利用した。

 年の明けた延喜一三(九一三)年、貴族たちに意見封事を奏上させたのである。

 意見封事(いけんふうじ)というのは現在の政治に対する意見とそれに対する政策を上奏させることであり、社長が社員からの意見を広く募るよう定期的に意見を述べさせる企業があるが、意見封事もそれに似ている。理論上は封印された状態での意見提出なので匿名での意見ということになるのだが、事実上は誰の意見なのかが明言されているようなものなので、発言に対する責任がつきまとうこととなる。

 こういう発言の機会を得ると、嬉々として活躍する者はいつの時代にもいる。

 いわゆる評論家タイプ。

 物事を批判するのは極めて得意だし、現実味の少ないアイデアを出すのも得意だが、実現可能なアイデアを出すことは少ない。また、自分が実践する立場になることも少なく、表明する意見が多くの人の支持を集めることも少ない。少なくとも現在の日本において評論家として名を馳せている人間のうち、現場に入ってもなお活躍できているのは、一部の経済評論家と野球評論家ぐらいなものである。活躍の定義を広げても、少なくとも政治評論家が政治家として活躍しているという例はない。

 この時代の評論家タイプの者となると、何と言っても三善清行につきる。延喜格の失敗と責任を果たす意味での文章博士解任という過去がありながら、得意げになって現在の政治の問題点とその対策を長文にしたため早々に提出してきた。

 そのほかの貴族も、清行とまではいかなくても、嬉々として意見を表明したことに違いはない。何しろ醍醐天皇が直接読むのである。うまくいけば藤原氏独裁の間を縫って自分の出世が待っていると考えた者は多かった。

 考えた者は多かったが、その考えが満たされることはなかった。

 意見封事が提出されたが、その意見が政治に影響を与えることはなかったのである。

 藤原氏独裁はなおも続いているし、紀長谷雄亡き後を埋めるように橘澄清が参議となったが、それ以外の太政官は相変わらず藤原氏か源氏である。

 そんな中、一つのニュースが飛び込んできた。

 延喜一三(九一三)年三月一二日、時平亡き後ただ一人の大臣として君臨していた右大臣源光が死去したのである。享年六八歳。

 この源光に対する評伝は乏しい。大臣にまでなった人間でありながら評伝が乏しいのには理由があり、大臣としての功績自体が乏しいのである。時平の時代は時平の忠実な右腕として活躍したが、時平亡き後は部下であるはずの忠平に下克上を食らい続ける政治家人生であった。

 この人の数少ない逸話は死に関する評伝である。

 趣味の鷹狩りに出かけた際、誤って泥沼の中に転落してしまい溺死したとある。泥沼の中にはまってしまっただけでなく遺体が発見されなかったことから、これを道真の祟りではないかと考える人もいた。何しろ、この人が右大臣になったのは道真が太宰府に向かったからなのである。

 そこで、世間の人はこのように評するようになったと伝えられている。

 「源光は菅原道真と政治的に対立していて、道真が太宰府に向かったのは源光が道真を太宰府に追放したからだ。道真の後を受けて右大臣になった源光のことを太宰府の地で亡くなった道真は許さず、道真は怨霊となって源光を泥沼に突き落としたのだ。」

 だが、同時代の記録にそのような記録はない。道真の祟りのせいで亡くなったとする噂が登場したのは事実であるが、それはもう少し後のことである。源光の死に対して確実なことは、鷹狩り中の事故死という一点のみ。

亭子院歌合


 なお、この年、それまで影を潜めていた二人が久し振りに表舞台に姿を見せた。

 宇多法皇と陽成上皇の二人である。

 まずは宇多法皇が先に名を記した。

 三月一三日、宇多法皇主催で亭子院歌合が開催されたのである。歌合とは題材を挙げて和歌を詠ませるイベントで、亭子院歌合には当代最高の文化人たちが集められた。このときの歌合の記録は女流歌人の伊勢の手によって残されており、現存する最古の女性の手による日記でもあるため現在でも追うことが可能である。記録に残っている者を挙げると藤原興風、凡河内躬恒、坂上是則、紀貫之、伊勢、そして宇多法皇自身となる。なお、紀貫之は和歌だけでなく屏風画も残したと言われているがその屏風画は残っていない。

 しかし、この時代の文化人を挙げるのであれば当然含まれていなければならない者が一人、亭子院歌合に招かれていない。

 それが陽成上皇である。

 親友の藤原時平亡き後の陽成上皇の記録は極めて乏しい。道真の死、時平の死と、陽成上皇は内裏とのつながりが乏しくなっていたのである。政治的権威は喪失し、一人の文化人として生きるしかなくなっていたとするしかない。

 しかし、宇多法皇との対立が消えたわけではない。それは宇多法皇も同じことで、いくら当代トップクラスの文化人であろうと、陽成上皇と宇多法皇が接点を持つなどあり得ない話であった。

 亭子院歌合の評判は高く、国境の外では戦乱が渦巻いているのに日本国内は文化的で平和な日々が展開されているという印象を与えることが出来た。

 それが陽成上皇には不快に感じた。かといって、評判の高い亭子院歌合を否定するわけにはいかない。その答えが亭子院歌合に対抗する歌合である。九月九日、陽成院で歌合が開催された。半年の間を置いているのは、春に開催された亭子院歌合に対抗するには秋に開催するのが最良であったし、半年の準備期間もあれば陽成上皇なら宇多法皇を上回る歌合を開催できたから。

 ただ、残念ながら、陽成上皇の開催した歌合の様子の詳細は残っていない。歌合そのものの規模は亭子院歌合を上回っていたと考えられたが、世間的な評判としては二番煎じのそしりを免れないものがあった。そのため、歌そのものの評判は得たものの、歌合の記録は残されていないのが現状である。


 延喜一三(九一三)年の意見封事で味をしめたのか、募集もかけていないのに勝手に三善清行が意見封事を送りつけてくるという事件があったのが延喜一四(九一四)年四月二八日。その六日前の二二日には、清行が役人の人事を取り仕切る式部大輔に選ばれている。清行のようなキャリアを積んできた人間が式部大輔になること自体はおかしくないのだが、清行はそれを、必要以上に高らかに考えてしまったようである。

 このとき清行が提出した意見封事を「意見封事十二箇条」という。意見封事の全文が現存する数少ない例であるが、どういう意見の文章であったかが残っているのは、意見の内容が広く注目を集めるものであったからである。ただし、それは意見の素晴らしさから評判となったからではない。清行自身が素晴らしい内容であると自画自賛し、単に上奏しただけでなく、意見封事の中身を公表したことから注目を集め、一一〇〇年を経た現在でも残っているのである。それまでの意見封事は天皇をはじめとする一部の人しか目にできない書状であったため、どのような意見が提出されたのかを知ることができるのは政策化されたあとになってからであるが、このときは政策化される以前に誰もが清行の意見を知ることができた。

 この国の問題を解決するのが自分の使命であり、役人の人事を司るのはその職務の一つに過ぎないのだとでも考えたのだろう、四月二八日に提出された意見封事に式部大輔としての職務に関わる部分はない。

 中を見て感じるのは、新聞の社説にも記されていそうないかにもな正論である。問題点が適切に記され、その解決方法の提案もなされている。この提案が受け入れられれば問題の解決も可能であろうとは理解できる。

 理解できるのは二一世紀に住む我々だけではなく、一一〇〇年前の人々だって理解できたのである。ただし、理解することと同意することは同じではない。

 清行はまず、税収の落ち込みによる国家財政の危機を問題視する。そして、税収の落ち込みは納税が正しく行われていないからだと結論づけている。ここに自然を原因とする不作という考えはなく、その代わりにあるのが、脱税である。

 脱税の手段として、清行は、戸籍を偽造して男性なのに女性と登録する者が多いことと、勝手に僧侶となっている者が多いことを挙げている。僧侶ではない成人男性だけが納税の対象者だから、対象者とならなければ納税から逃れられる。また、清行は、女性と偽った者はともかく、勝手に僧侶となった者の多くは僧侶としての役割を果たさず、厳禁であるはずの肉食もし、女人禁制のはずなのに女性と事実婚の関係を持つ者も多いとしている。その上、盗賊となったり偽金作りで財産を築いたりする者もいる以上、僧侶に対しては厳罰を以て取り締まらなければならないと結んでいる。

 さらに、持ち主が逃亡してしまい荒れてしまっている田畑のことが記されている。人の手の入らなくなった田畑は荒れ地となり、墾田永年私財法により荒れ地を開墾した者の私有地となっている。こうした私有地が荘園となって日本各地に広がり、荘園からの納税がないために税収はさらなる落ち込みを見せている。

 この問題を解決するための方法として、清行は律令制による班田収受の復活を挙げている。人口を再調査し、正確に口分田を分け与え、余った土地は朝廷の直轄地として借地とし、借地からの収益を国家財政の穴埋めに利用しようというのである。

 人々は清行のこの意見を理解したのである。

 理解はしたが同意はしなかった。

 民衆が税から逃れようとすることも、荘園が大規模に展開されていることも、それらは全て、一人一人が各々いい暮らしをしようとあの手この手で考え抜いた結果である。清行は、それらを全否定して増税を命じるだけでなく、潤されるのは国家財政だけで個人の生活ではないと見抜いたのだ。

 国家財政が危機であり、財政難から貧しい人を救えずにいるというのは知識としてならば理解できるが、そのために自分の負担を増やすつもりはなかった。清行の主張が実現したとき、負担が増えるのは荘園を持つ大貴族や大寺院だけではない。清行は荘園制度を否定し再び口分田の配布による班田収受の復活を意図しているが、それは、荘園で暮らす平穏な日々を過ごす人々にとっても負担の増える問題であり、いかにそれが「国家のため」であろうと受け入れられる内容ではなかったのだ。

 確かに律令は田畑の分配と安い税を謳っている。しかし、そこで分配される田畑を自分で決めることはできない。田畑に手入れを施して豊かな収穫をあげられる土地に改良したとしても、数年後には自分の元から離れ他人の手に渡ることとなる。奈良時代、土地の開墾を命じる命令は無視されたのに、三世一身法や墾田永年私財法は歓迎されたのも、土地を自分のものとできる、つまり、自分の手を加えた土地を自分や子孫で使い続けることができるという一点が認められたからである。

 清行の言うように、全ての土地を国のものとする班田収受は土地の分配を平等にする施策である。だが、土地の平等の分配というのは、その土地が自分のものではなく国からの借り物、つまり、赤の他人のものとする感覚を抱かせる。土地の改良をどんなに続けても、それは自分のものにならないのだ。

 田畑から上がる収穫を自分のものとし続けようとするのは、それが自分たちの、そして、子孫の生活をより安定させるための行動だからであるし、自ら進んで荘園の農民となろうとするのも生活の安定のための行動だからである。しかも、荘園に加われば税を安く抑えることができるのだ。とは言え、誰もが荘園に加われるわけではない。荘園に加われない農民は納税から逃れることはできないし、班田収受が止まっていて口分田のやり直しも行われなくなっていたとは言え、自分の田畑は国のもので自分のものではない事に変わりはない。

 その上、荘園からの税収が期待できなくなった穴埋めとして、口分田に対する増税が行われていた。荘園であろうと口分田であろうと税は逃れえぬものとして受け入れなければならないが、荘園ならば荘園領主への安い年貢で済むのに対し、口分田は国の必要に伴う税が課される。そして、その税は年々増えている。全ては国家財政を潤すために。

 清行は国家財政の窮乏を訴えるべく、律令の精神に立ち返って班田を復活させることを企画したが、既に重い負担を引き受けさせされている人たちを救うこと、つまり、減税については一言も口にしていない。

 普通の国であれば、国家財政を越える資産などない。国家財政が国の資産の過半数を占めるというのは異常事態だが、国よりも金持ちの私人がいるというのは、ゼロではないにせよ珍しい。

 その、普通の国における国家最大の資産が国家財政だが、入ってくる額が多い分、出て行く額も多い。国家財政は税を払っている国民のために使われなければならない宿命を持っているが、国民が求める支出を国家財政だけでまかなうなどできない以上、使われ方も考えなければならない。たとえば、現在の日本国の国家財政は年間八〇兆円にも及ぶが、国民一人当たりの金額にすると七二万円。これでは国家財政だけで国民全員が生きていくなど不可能である。

 平安時代に話を戻すと、現在の日本におけるような高齢化社会の問題などないし、そもそも今のような手厚い福祉などないし、それ以前に国債による税収不足の穴埋めなどという考えがないから、予算そのものは今よりもむしろ健全であると言える。とは言え、国民の生活を守るという宿命があるのは今と変わりなく、天災や人災への対処もまた、国家財政によらなければならない。かつての藤原良房のようにロイヤルデューティーに期待するもいいがそれとて限界はある。地震や火災はいつ起こるかわからないし、この国際情勢では戦争の危険性だって無視できないものがあるのだから、予算の使い方を考えなければならない。

 ここまでは国民の同意を得られるのである。

 だが、そのための方法が提案されても、負担が増える提案になると、国民の同意など考えるだけ無駄となる。有能な政治家は国民の同意を得られるよう努力するし、もっと有能な政治家は国民の同意を求める前に行動に移し既成事実化する。清行はそのあたりがわかっていなかった。行動ではなく、ただ単に理詰めで同意を求めようとしたのだから。

 なら、忠平はわかっていたのか。

 わかってはいた。

 わかってはいたが、圧倒的な知力による画期的なアイデアを生み出せるわけではなく、同意を得ようと苦労した。


 収入が厳しいときの方法は二つしかない。支出を減らすか、収入を増やすかである。

 そのどちらも国民の不評を得ること間違いなしの施策である以上、同意を得ようとすると、窮屈で、かつ、効果の少ないものに留まる。

 延喜一四(九一四)年六月一日、貴族たちに対し、美服や深紅色の衣服を着用することを禁じる命令が出た。貴族の贅沢を抑えて支出を減らそうという考えである。これは貴族たちに限定するものであるが、貴族の流行はそのまま金持ちの一般市民の流行にもつながるので、上流階級をねらい打ちする施策となる。これは大多数の国民とは無関係の世界の話なので、国民の同意は大部分得られた。

 二ヶ月ほど経た延喜一四(九一四)年八月八日には、太政官厨家に納入する地子稲を確保するため、祖田への地子田混合の禁止や地子交易法など、地子稲に関する雑事五ヶ条を定めた。これも朝廷直轄の田畑の運営に関する規定であり、国民の不評を得ない施策となった。

 だが、それらの施策が結果を出たのだろうかと考えると疑問を抱かざるを得ない。

 上流階級の贅沢を禁じることと国家財政とは、極論すれば何の関係もない。贅沢を禁じようと推進しようと、貴族は国から給与を得るし、上流階級は自分の田畑からの収穫を得ている。贅沢をさせないというのはそうした収入の使い方を一つ減らすということであり、使い方を減らしたら、それが他の使い方に流れるという保証はどこにもない。いや、相当な可能性で、贅沢品に使われることで多少なりとも社会に環流していた資産が、社会に戻ることなく蔵にしまわれるようになったであろう。

 地子というのは口分田として配布して余った田畑のことで、所有権はあくまでも国衙などの公共の団体にある。この地子を貸して、その代わりに収穫の二〇パーセントを納めさせる制度が地子稲であり、これは出挙の崩壊したこの時代にあって律令で認められた地方の財源として重要視されていた。忠平はこれを国のものとしようとしたのである。実際に田畑を耕す側からすれば何の変化もない。納める先が地方ではなく国になるだけで税率が代わるわけではないのだから生活に変化はない。だが、地方公共団体たる国衙としてはたまったものではなかった。現在の感覚で行くと、県に納められるべき租税を国が持って行ってしまうようなものである。それでいて、国からの地方交付金が増えるわけではない。ただ単に、国の財政が厳しいから地方の取り分を減らして国に持って行くということである。

 納税者にとっては痛くも痒くもない政策であったろうから不満の声も出なかったであろう。

 だが、これもまた、二〇年後に起こる動乱のきっかけの一つとなるのである。

 延喜一四(九一四)年八月二五日、藤原忠平が右大臣となる。左大臣は時平の死後空席、右大臣も前年の源光の死により空席であったため、この時点でただ一人の大臣となる。時平の死からわずか五年で参議から右大臣へと進むスピード出世であった。

 忠平の右大臣就任に伴う玉突き人事があったが、藤原氏独占の構図は変わらない。一六名から構成される太政官のうち、藤原氏が一一名を独占している他は、源氏が二名、それと皇族である十世王、橘氏である橘澄清という異様な構図である。

 時平の突然の死がもたらした政界の混迷への恐れも、五年も経てば安定する。だが、安定は良いが、ここまで藤原氏の一極集中となると独裁の弊害が絶対に発生する。

 独裁政治が絶対悪であるとは断言できない。独裁者の力量が素晴らしければ民主主義など足下にも及ばない成果を出すのだから、独裁であるという理由で批判するのは間違いである。ただし、それは結果を出したならばという条件がつく。

 忠平をはじめとする藤原氏の政権は結果を出していると言えない。藤原時平という卓越した存在がいた頃は結果を出していたのに、今は政権の安定だけを考えて小手先だけで対処しようとしている。それがもたらしたのは政権の安定だけ。それ以外に何も幸福な要素は無かった。

 それは希望を失わせることでもあった。

 人は希望があれば生きていける。それがどんなに馬鹿げたものでも、どんなに図々しいものでも、未来に起こるであろう出来事に希望を託せば生きていける。しかし、藤原独裁は希望を失わせた。

 庶民からは生活を、

 役人からは出世を、

 貴族からは栄光を、

 奪い去ったのが藤原独裁だった。

 努力しても成果は得られず、努力しても結果は伴わず、努力しても何も残らない未来が待っていると知って、人は未来を生きようとするだろうか。

 忠平は言うだろう。政権を安定させなければ国境の外で起こっているような惨劇が日本にも襲いかかるであろうと。だが、未来に生きる我々は知っている。政権を安定させるという忠平のその行動が、国境の外で起こっているのと変わらない惨劇を日本にもたらしたことを。

 翌延喜一五(九一五)年一月、忠平の子である藤原実頼が貴族デビュー。

 忠平にとっては喜びであるこの瞬間も、惨劇の予兆は記録に刻まれていた。信濃国から関東地方での異変をもたらす連絡が届いたのである。

 内容は、上野国司の藤原厚載が上野国の百姓上毛野基宗らに殺害されたという事件である。「百姓」というのは、この時代の一般庶民という意味であるが、単に官職を持っていない者というだけで、地域では相当な権力を持っていたであろう。おそらく、地域の武士団の頭領といったところか。

 国司を殺害したというのだからただ事ではない。前代未聞の大事件だとしてもよい。しかも、その連絡が届いたのは信濃国からであり、事件の起こった上野国からではない。つまり、国司殺害という大事件なだけではなく、上野国の国衙が機能しなくなってしまったのだ。現在でいうと、群馬県庁、そして群馬県全域が国の把握しうる地ではなくなったということである。

 朝廷にその報告が届いたのは延喜一五(九一五)年二月一〇日だから、おそらく、事件そのものは年末年始のあたりに起きたであろうと考えられる。

 殺害に荷担した者の名は上毛野基宗の他に二人残されており、一人は上毛野貞並、もう一人は藤原連江。ここまでは判明している。

 ところが、これに対する朝廷からのアクションが全く見られない。

 なんたる不祥事かと誰もが考えた。しかし、誰も何も出来なかった。

 国司殺害に至るということは何かあったのだろう。ただ、それが何なのかわからない。

 誰もが考えたのは、武士団が武力を頼りに国司を襲ったのであろうということ。武士団というのは国の組織ではないから、国家権力で制御できるものではない。かといって、その武士団を制圧できる武力など今の朝廷にはない。

 誰もが朝廷の無力を感じ、誰もが未来への絶望を感じた。武士団が国の力で制御できなくなってしまったのだ。このままでは遅かれ早かれ、武士団が日本中で独自の権力を作り上げることとなる。それは良くないことだと誰もが考えている。だが、その良くない事への対処を誰がするのか?

 朝廷としては、上野国にかかりきりになれなかったであろう事は推測される。

 延喜一五(九一五)年という年は干害と疫病に悩まされた一年だったからである。

 干害にしろ疫病にしろ、国として何らかのアクションを起こさなければならない大問題であり、ここで上野国に専念する政治はできないという言い訳ならできる。

 しかし、その言い訳を受け入れられるわけはない。

 上野国が朝廷の管轄を離れてしまっている。それは住民の生活にも影響を与えることであり、捨てておくようでは統治者として失格とするしかない。

 ここは、どんな手段を使ってでも、上野国を朝廷のもとにつなぎとどめておくべきだったのだ。忠平をはじめとする藤原氏の貴族の面々は誰一人として軍勢を指揮したことがない。だが、この問題で、貴族自身が軍勢を指揮する必要はどこにもない。軍勢を集めようと思えば自分の荘園で雇っている武士団から選抜して軍勢をまとめればいいのだ。それが国の権威に関わるというのなら、近衛府も衛門府も兵衛府も検非違使もある。そうした軍勢を指揮する事は貴族たる者の使命であるし、その役職にだって就いているのだから、この一大事に一兵も動かすことなく京都に留まって何もしないでいるというのは、職務怠慢どころではない大失態である。

 それなのに忠平は何もしなかった。何もしなかったのは忠平だけではなく藤原氏の貴族全員が何もしなかった。彼らがしたのは干害と疫病が沈静化するよう、大極殿で臨時御読経を行わせたことのみ。上野国は捨てられたのだ。

 これで忠平の支持率は悪化しなかったのだろか?

 どうやら悪化はしなかったらしい。

 しかし、積極的支持はなかった。

 上野国の場合、朝廷が動かないことも問題であるが、最も大きな問題は国司殺害という犯罪そのものである。犯罪者を逮捕できないでいることに対して警察を批判するというのは現在でも見られる構図であるが、犯罪者そのものを支持するという構図はない。それに、今でもそう考える人は多いが、犯罪者は警察が捕まえてくれるものという考えは強い。犯罪が起きてもしばらくは犯人が捕まらないでいることは珍しくないし、犯人逮捕に向けての警察の動きなど公表しないのが普通だから、この時代の人たちは犯罪者逮捕に向けて忠平が動いていると思ってしまったのだ。

 今に生きる我々は、このときの犯罪者が警察権力でどうこうなるものではないこと、どうにかするには警察ではなく軍の出動が必要であることを知っておきながら軍を出動させなかった忠平を批判できるが、この当時の人に後付けの結果論を持ち出しても意味はないということか。

 これに輪をかける大災害が発生したのが延喜一五(九一五)年七月一三日。十和田湖火山が大噴火を起こしたとの連絡が朝廷に届いたのである。

 この大噴火に関する記録は乏しい。その乏しい記録によれば十和田湖からの火砕流や泥流で北東北地方全域が未曾有の自然災害となったというが、どれだけの死者が出たのか、どれだけの人が住まいを失ったのかという記録は残されていない。研究者によっては、このときの噴火の記録の乏しさを理由に、元慶の乱は蝦夷の勝利であり、秋田を中心とする北東北全体が朝廷から独立した地域になっていたとする人さえいる。

 北東北が朝廷から独立していたかどうかはわからないが、秋田城をはじめとする被災地域に対し、朝廷は何もできなかったことは明らかになっている。

 噴火が大問題であることは認識していた。ただ、このときの朝廷には被災者の支援に回る余力がなかったのだ。

 なぜならこのときまさに、天然痘の猛威が日本中を襲っていたからである。

 首都京都でも毎日どこかで天然痘患者が現れ、国に救いを求めていた。

 荘園という荘園では農民が天然痘に倒れ、田畑が耕されることなく放置されるようになってしまった。

 国に仕える役人も、国を操る貴族も、そして勢力を伸ばしつつあった武士もまた、天然痘の猛威から逃れることができずにいた。

 延喜一五(九一五)年一〇月一六日、天然痘の大流行を鎮めるため、大赦を行い、延喜一〇(九一〇)年以前の未納税と、今年の労働義務の半分を免除するとの決定が下った。

 大赦というのは大規模な恩赦のことで、殺人や国家転覆などの重犯罪者を除く収監者や流刑者がここで刑を終わったり、終わらなくても刑期が短くなったりするなどの恩恵を得られた。これは天皇の仁政を天に訴えることで天からの思し召しがあると考えられていた時代ゆえの行動である。無論、これは天然痘対策に何の役も果たしていない。

 しかし、同時に決定した減税は大きな役割を果たした。天然痘で産業人口が減ってしまっている状況下で、減る前の産業人口に基づく税制を貫くわけにはいかない以上、税負担を減らすことは、天然痘そのものの流行をくい止める効果はなかったものの、経済の悪化をくい止める効果ならばあったのである。

 延喜一六(九一六)年二月二八日、藤原忠平が従二位に昇格する。これにより、大臣に相応する位に昇ったこととなる。

 忠平が大臣として充分な実績を残しているとは言い難いが、大臣は忠平しかいないし、忠平以外に大臣の役割を果たせる人材がいないのもまた事実ではあった。

 前年、すなわち延喜一五(九一五)年が国難の多い一年であったことは誰もが共通認識として持っていた。そして、その国難は年が変わったところでリセットされるものでないことも理解していた。国難のさなかにあっても、少なくとも朝廷内は平穏であり政情の安定はしていたのも、良房、基経と続いてきた藤原氏の政権が現在も続いていることが理由。藤原氏の独裁政権に対する批判はあったものの、この安定についてだけは評価されていた。

 ただし、権威は薄れてきていた。延喜一六(九一六)年八月一二日、下野国の罪人藤原秀郷ら一八人を配流するとの命令がなされた。しかし、藤原秀郷はこの命令に従わず下野国に滞在し続けたのである。前年に隣国で発生した上野国の国司殺害についても特別なアクションがなかったことから、朝廷にはもはや地方を統治する能力がないと考えたのかもしれない。しかし、皮肉なことに、この藤原秀郷は、これから二〇年後に起こる地方の動乱を抑える立場に立つのである。

 理論上、朝廷とて地方の統治をないがしろにしていたわけではない。実際、前年の上野国国司殺害事件の犯人の一人である藤原連江を捕らえ、流刑に処している。記録にはその他にも流刑に処したことが記されているが、その効力のほどは疑わしいものがある。何しろ、延喜一六(九一六)年一二月八日には、出雲国に配流した上毛良友ら七人が逃亡したとあり、その捜索にあたったことが記されているのだから。


 ただし、同じ一二月に日本の政局が安定していることを実感させられる事件も国外から届いていた。律令制下の日本で最大の同盟国であった渤海国の動きが日本に伝わったのである。

 渤海国が衰退していることは日本の目にも見て取れた。貿易で扱う製品の品質は低下し、日本へと派遣された渤海使たちが伝える文書も友好ではなく支援になっている。そして、渤海から難民が流出しているという情報まで届くとなるとただ事では済まない。それまで渤海は新羅からの難民を受け入れる側であったのに、今や渤海から朝鮮半島へと難民が出ているというのである。

 渤海からの難民を迎え入れている国は新羅ではない。復活した高句麗である。渤海は元々、朝鮮半島三国時代の高句麗の継承国家として誕生した歴史を持っている。その渤海を無視して新たな高句麗国が誕生し、その新しい高句麗が渤海国の難民を受け入れるという状況になってしまった。

 では、なぜ渤海から難民が出るようになったのか。

 それは、渤海の西に耶律阿保機が遼(当時の国号は大契丹国)を建国したからである。この新興国が渤海を西から攻めており、日本海へと追いやる勢いであったのだ。

 国が無くなり国が生まれる。まさにその瞬間を見ている以上、そのような動きとは無縁であるだけでも日本は安定を感じることができた。


 延喜一七(九一七)年一月二九日、忠平の手によって二人の貴族が参議に抜擢された。二人とも藤原氏ではないため藤原独占のイメージを軽くできただけでなく、今の朝廷に求められる能力を持った人材でもあったことから、忠平の人事に関する悪評は出なかった。

 抜擢された二人のうちの一人は、今や数少ない律令派の重鎮と見なされていた三善清行。

 もう一人は、良峯衆樹。

 三善清行の参議就任はこれまでのキャリアからして当然と考えられたが、良峯衆樹の参議就任は意外と感じる者が多かった。しかし、この人のキャリアを追いかけていくと、忠平がどういう人間を求めていたのか理解できる気がする。

 良峯衆樹は歴史ある名門貴族の人間ではない。先祖をたどれば桓武天皇に行き着くから名家ではある。だが、皇族から離脱して良峯姓を名乗るようになってからまだ一〇〇年も経っていない上に、これまでの先祖もこれと言って目立った人間を排出していない。貴族ではあるのだからその日の食事にも事欠くような貧困生活ではなかったろうが、血筋以外に誇れるものがない三流貴族の出身というハンディキャップを負った上での貴族生活の開始であった。

 良峯衆樹が自分の栄達の手段として選んだのは二つ。地方官と武官である。蔵人頭を終えてからのキャリアは地方と武官職とを行ったり来たりで、他の多くの貴族の望んでいたような中央に留まっての文官としての出世には手を出していない。興味を示さなかったというより、興味を示そうにもライバルが多すぎて望みを果たせなかったからであろう。

 このとき五六歳という高齢になっていた良峯衆樹だが、振り返ると、地方を熟知しているのみならず、武官として武力のこともわかっている人材になっていた。武将であるとは言えないが、武官のキャリアを積み重ねてきたことで、他の貴族よりは武力について詳しくなっていた。

 忠平の考えで行けば、この良峯衆樹の活躍により日本国内外の治安問題が解決できる、はずであった。

 だが、その想定は早くも瓦解する。

 良峯衆樹が武官のキャリアを積んだのは、ライバルの少なさゆえのこと。地方官を勤めたのも自らの財産構築のためであり地方統治の関心の深さによるものではなかった。忠平は地方を知り武力を知る者として参議に抜擢したがが、そこにいたのは忠平の望んでいたあるべき姿とは全くかけ離れた、どこにでもいるごく普通の貴族だったのである。武力についても仕事としてやってきたからどのような業務内容なのかは理解していたが、それは京都に留まって、役人の一職務でしかなくなった武官を率いる年中行事の過ごし方に留まってしまい、武力を率いて戦場を駆けめぐることは全く考えになかったのだ。

 延喜一七(九一七)年九月八日、対馬に海賊船接近したという連絡が来た。しかし、良峯衆樹は全く動かなかった。忠平の期待していた前線に立っての抵抗など、良峯衆樹は全く考えもしなかったのである。