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貞信公忠平 2.道真怨霊伝説

2012.12.31 15:10

 延喜一七(九一七)年一二月一日、奈良から東大寺で大火が発生したとの情報が届いた。講堂と僧坊の焼失は大きな損害となった。

 それは例外ではなかった。

 この年の冬、異常気象が日本を、特に近畿一帯を襲ったのである。

 冬の乾燥は日本の太平洋岸の気候ならば珍しくない。それは京都も同様で、京都は琵琶湖を通じれば日本海に出られる立地条件であるとは言え、東、北、西の三方が山に囲まれているため、日本海からの気候は山で一度リセットされる。そのため、冬に北から風が吹くとすれば、その風はだいたい乾いた風である。

 しかし、いくら乾いた風であろうとそれには限度がある。

 この冬は雪も雨も降らなかったのだ。乾燥は井戸水の枯渇を招き、生活用水の枯渇を招いた。京都は東西に鴨川と桂川の流れる地形であるが、川の水がそのまま飲み水とはならないことぐらいこの時代の人だってわかる。誰が糞尿と死体の溢れる川の水を飲もうとするか。

 その上、季節は冬。電気ストーブや電気カーペット、携帯用カイロなどないこの時代の暖は火を使うものしかないところに加え、乾燥しきっているのである。これは火災の危険性を招いた。しかも、火災を消すべき水がないのだ。

 平安時代の平均気温は他の時代よりも高い。つまり、夏は暑く、計測地点によっては夏場の気温が四〇度を超えることも珍しくなかったであろうと考えられている反面、冬の寒さはそれまでの時代よりマシであった。それは家の構造にも現れていて、およそ一万年以上日本中で当たり前の光景となっていた竪穴式住居が平安時代にだんだんと消えていったのも、竪穴式住居のデメリット、つまり、夏の暑さが耐えきれないものとなったからである。その代わりに登場したのが夏でも涼しい高床式の住居。これだと夏の暑さはある程度耐えられるし、冬の寒さだって奈良時代までのような厳しいものではなくなったし、寒かったら重ね着をすればいいではないかという考えにもなっていたから、この時代の建物は暑さ対策を前提にした家屋になったのである。

 だが、それとて限度がある。一二月にもなったのに何の暖もとらずにいられるわけはなかった。

 延喜一七(九一七)年一二月一九日、干天続きでの渇水のため、冷然院・神泉苑の水を提供することが定められた。公共施設の池の水まで手を出さなければならなくなったということである。

 だが、それも焼け石に水。直ちに渇水対策をしなければならないというのは貴族たちの共通理解となり、一二月二五日には、三善清行から、火災頻発と紅花の価格高騰を理由に、深紅色の衣服を禁止すべきとの意見が出された。なお、深紅色と火災とがどう関係あるのかはわからない。

 深紅色と火災の関係は不明でも、紅花の価格高騰とわかりやすい形での財政引き締めは明白である。貴族として身につける服は言わば制服のようなものなのだから、そのために要する費用を抑えるということは、税の無駄遣いを減らすというアピールにもなる。たとえそれがどんなに実際の効果を持たないものであっても、「我々貴族だってこの財政危機に対処している」と訴えることだってできるのだ。

 それに、貴族たちは深紅色の衣服に魅力を感じなくなってきていた。

 貴族の身につける衣服の最上位は紫色と決まっていたが、それを打破したのが時平である。 

 濃い紫になればなるほど高価になり、黒と見紛うばかりの紫色の服が最上位とされている中、時平は黒い服を着て参内した。いくら黒に近ければ近いほど高価とされていようと、墨のような真っ黒な服は安物というしかない。これをとっても、時平は贅沢と無縁の暮らしであったと評価するしかない。

 しかし、時をきらめく左大臣が安物の黒い服を着たとなると話は変わる。時平の着た黒い服が宮中で流行したのだ。安物の黒い服を着ることが貴族としてのステータスになり、律令で定められた位階に応じた色の服は流行遅れになった。

 しかも、深紅色の服は四位から五位の貴族に義務づけられていた服であり、深紅色である間は太政官の中枢に入れないという意識が広まるようになっていた。黒い服は流行であって律令ではない。そして、律令を守らないでいいとする反律令派の政権になっている。こうなると、誰が好き好んで深紅色の服を着るというのか。気がつけば宮廷内のほとんどが黒い服になってしまっていた。それまでは着ている服の色で誰が高い身分の人なのかわかるようになっていたのに、今では誰もが同じ服装になってしまっていて上下関係がわからない。

 深紅色の服を着続けたのは、今では少数派となった律令派の貴族だけであった。そして、その代表格が参議の三善清行であった。彼は実直なまでに律令を守り、一人、深紅色の服を着続けていたのである。だが、それでも考えたのであろう。律令違反とならずに深紅色から離れるにはどうすべきか。

 それが、価格高騰を理由に挙げての深紅色の衣服の禁止要請であった。

 宮中でそれを主張し続けていたのも、事実上、三善清行ただ一人であった。当然だ。他の人は、安く、しかも高い身分を気取れる黒い服を着ており、深紅色の服を着ていないのだから。

 延喜一八(九一八)年三月一九日、深紅色の衣服の着用禁止を命令。運用開始は四月一日からと決まった。そして、その四月一日に三善清行が早速、他の貴族と同じ黒い服を着て宮中に現れた。周囲は笑ったが、三善清行にとっては真剣な問題だったのであろう。

 しかし、たかが服の色のことでああでもないこうでもないと揉めているのも、傍目には何とも気楽に見えたであろう。海の向こうでは、朝鮮半島が三分割され、そのうちの一つ高句麗では王建(ワン・ゴン)が後高句麗国の国王に就任し国号を高麗と改めていた。渤海は西から契丹に、南からは高麗に侵略され、国が滅ぶかどうかの瀬戸際に立たされていた。中国では唐の後を受けた梁も中国を統一するどころか五代十国と呼ばれる非統一の状態にある。そして、日本国内の地方部に目を向ければ、武士団が成長して朝廷権力ですら太刀打ちできない勢力となっていたのである。

 延喜一八(九一八)年五月二三日、武蔵国から、前権介である源任が官物を奪い、国府を襲撃したという報告が届いた。ついこの前は下野の藤原秀郷が朝廷の命令に服さず、さらにその前は上野国で国司殺害。そして、今回は武蔵国で国府襲撃と、少なくとも関東地方における朝廷権力は見るも無惨なものになってきていたのである。代わりに権力をのばしてきたのが武士団で、武士たちは自らの武力でもって、自分たちと、自分たちの支配下にある人たちを守る集団になっていったのである。

 しかも、このときの武士団のトップの名を見ると、「藤原」「源」「平」と、名門貴族中の名門貴族の姓が当たり前のように散見される。政権の安定の名のもと、藤原北家独占の政治体制を構築したことで、その輪に入ることのできなかった貴族たちが地方に下り、その地域の武士団のトップとして名を挙げるようになっていた。武士団にとっては自分たちを権威づけるトップであり、地方に下った貴族にとっては中央では夢見ることもできなかった権力の獲得である。

 その権力を掴んだ結果が、より高いレベルでの自治であった。自分たちの暮らしは自分たちで守る。自分たちの予算は自分たちで稼ぎ出す。自分たちの生活は自分たちで作り上げる。他からの侵略に対して守るのは朝廷からの権力ではなく武士団であり、苦しくなった生活を支えてくれるのも朝廷からの援助でなく武士団である。田畑を耕して年貢を納めるが、それは武士団への貢納であり、かつ、納めた税が自分たちの暮らしのために使われるのを実感できている。こうした社会になると、遠く離れた京都の朝廷ではなく、すぐ近くに屋敷を構える武士団が自分たちの上に立つ存在であると庶民たちに意識させるに充分であった。

 これは京都の朝廷にとって危機とするしかない。それなのに、京都でやっていることは貴族の服の色はいかにあるべきかという不毛な議論。自分たちのために汗を流してくれる武士団と、遠く離れたところでどうでもいいことを議論している朝廷とを比べ、朝廷のほうに自らの帰属意識を持ったとしたらその方がおかしい。

 記録には、朝廷もそれなりに対応していることが残っている。税の過不足をどうするかとか、地方の役人を減らすとか、納められていない税をどう徴収するかとか、議論はしているし公表もしているのである。だが、それと、失われつつあった地方の帰属意識の回復とがつながることはなかった。徹頭徹尾、国家財政の回復に主眼が置かれていて、庶民の暮らしの向上には何一つ繋がらないのだから。


 遣唐使の正式廃止から四分の一世紀を数えていたが、国外との民間交易は続いていたし、渤海使の来日も定例行事として存在はしていた。ただし、かつてのように平和で友好的なものではなく、一歩間違えると全てが壊れてしまう危険なゲームになっていた。

 危険なゲームになっていたのは一にも二にも政情不安という問題がある。戦争という最大の政情不安のまっただ中にある国との交流はこれ以上なく危険であるが、だからといって全てを絶つのもできないことであった。

 それに、日本がいくら国交を閉ざそうとしたところで、海の向こうが日本を必要としていたのである。唐を滅ぼして新たに建国された梁は、理論上こそ唐の継承国家であるが、実際の支配領域は唐の最盛期と比べることもできない小国になってしまっている。梁にとっては一つでも敵を少なくとどめることが何よりも重要であり、海の向こうの安定国家と見られていた日本を敵に回すことは梁にとって得策ではなかった。それは、新羅からの侵略を一〇〇年間に四度も受けていながらその全てを撃退したのみならず、島一つ奪われることなく平和を維持できていたという実績も手伝っていた。これまでは侵略してこなかっただけで、いつでも中国に攻め込めるだけの軍事力を持つ国であると認識されていたのである。しかし、梁は最盛期の唐と違って国内産業が徹底的に破壊されている。つまり、交易をきっかけとして日本と手を結びたいが、梁は日本から輸入をすることはできても、梁から日本に輸出できる物品がない。

 こういうとき、国内産業ではなく、国内の自然に頼るのは珍しくなく、その結果として珍しい動物が献上されることもよくある話である。

 今のパンダと同じような感覚で梁から孔雀が贈られてきたのが、延喜一八(九一八)年七月一六日。そういう名前の鳥がいることは知識として知ってはしても実際に見たことはなかった孔雀が京都に届いたとき、京都はちょっとした孔雀フィーバーが巻き起こった。

 一方、建国直後でありまだ小国であるがこれから歴史が始まるという国である梁と違い、西からは契丹が、南からは高麗が攻め込んできている渤海は、今まさに国が終わるかもしれないという切羽詰まった事態であった。しかも、それまで渤海が有していたかつての高句麗の継承国家であるという正当性も、高麗の成立により不明瞭なものとなってしまったのである。現在の感覚からすれば高句麗の継承国家であることのメリットなどないと思われるが、当時は充分意味のあることだった。

 何と言っても、最盛期の高句麗が有していた領土に対する所有権を主張できるのである。それが侵略であったとしても、かつての高句麗の領土再復という旗印を掲げれば正当性を持てるのだ。ところが、ここに来て高麗の成立、つまり、高句麗の継承国家としての地位の消失である。これは領土保有どころか、自分たちのほうが侵略者扱いされ攻め込まれるという身になるということであった。ここで、建国以来最大の同盟国であり続けた日本との関係を絶つわけには行かなかった。

 日本もその事情を理解していたのか、渤海使供応役に任命したのは、このときすでに当代随一の文化人と評され、後に、藤原佐理、藤原行成とともに「三蹟」と称されるようになる小野道風(おののとうふう)であった。そして、供応役に小野道風が選ばれたことを、渤海も最大級の賛辞で歓迎した。

 小野道風はこのときわずか二三歳であり、また、その位階も貴族ではない低さであったが、他のベテランの貴族を選ぶよりも、二三歳の役の低い若者を選ぶ方が渤海からの感謝が得られた。というのも、小野道風は小野篁の孫、つまり、小野妹子から続く外交のプロフェッショナルの家系に生まれ育つと同時に、一流の文化人の家系に生まれ育ち、そのため、若くして文化人としての評判を残すようになっていたからである。当代随一の文化人が選ばれる渤海使供応役として指名されたのも、小野道風が国外にまで評判を届けていたからに他ならない。

 だが、本来なら、いくら国外にまで名声を届けているとは言え、役職のない二三歳の若者を渤海使供応役に任命しなければならないほどの人手不足にはなかったのである。宮中を見渡せば、三善清行という実績も能力も申し分ない文化人がいたのだ。しかも、今の渤海は国家滅亡の危機にある国であり、外交交渉もただ単に友好を深めれば済むという話ではない。それにも関わらず三善清行が選ばれなかったのは、三善清行がこのとき病に倒れていたからである。何しろこのとき七〇歳を超える高齢。現在でこそ平均寿命に届かない年齢だが、この当時は平均寿命をはるかに上回る年齢の老人が倒れたというのは、いつ何が起こってもおかしくないと考える方が普通である。

 そこで出番となった小野道風であるが、この人には一つ欠点があった。文化人としての業績は名高く国外にも名声が轟いているほどであったが、この人は気性が荒い。書道の達人で、多くの貴族が本来ならば自筆でなければならない書状の代筆を小野道風に頼んだという記録も残っているし、小野道風の書が貴族社会の中で流行することとなるのだが、気難しい上に敵が多く作る性格であった。

 有名なところでは、伝説となるまでに名声を残していた空海を平然と批判して空海の書のコレクターを激怒させたばかりか、その激怒を真正面から受け止めたのみならず、空海の書を崇め奉るのは愚か者であると言い放っている。良く言えば頑固な職人気質というところだが、今で言うアスペルガー障害であったのかもしれない。

 それでも、渤海使供応役をつとめる文化人としての責務はこなせたのであろう、この年に来日した渤海使に対する記録は平穏無事なものであった。国家滅亡の危機にある国との交渉を無事につとめたのだから、これは充分に評価できることと言えよう。

 その評価を耳にしたか、それとも、もう聞こえなくなっていたか、延喜一八(九一八)年一二月七日、三善清行が亡くなった。享年七二歳。


 三善清之が亡くなったことで、太政官における藤原以外の人材は一人減った。

 ただし、翌延喜一九(九一九)年の太政官を見てみると、藤原氏の人員は九人に減っている。なお、橘氏から二人が入っている一方で、源氏は一人だけとなっている。そして、その他としては良峯衆樹がいるのみ。

 藤原氏に言わせれば、割合を一三人中九人までに減らしたのだから何かと批判の多い藤原独占を緩めたということになるであろう。何しろ、二桁を切ったのだ。しかし、他の貴族に言わせれば冗談ではない話である。藤原氏が減って他の貴族が増えたなら藤原独占はゆるんだと言えるが、他の貴族の数は増えていない。つまり、朝廷が地方に求めた地方の役人の削減と同じ理屈で太政官の人員を減らしたのであり、藤原氏独占の体制は何ら変わってない。

 すでに顕著になっていた人材の地方への流出も止めることはできなかった。流出を止めるには能力に応じた地位を用意しなければならなかったが、そうした地位は藤原北家が独占している。地方流出を食い止めるために、地方に渡った者の子弟うち貴族に列せられる資格のある者を中央に招くことが頻繁に見られるようになったが、それはあくまでも有力貴族に私的に仕える身分であり、中央での地位は無いか、あったとしても低い地位に留まっている。しかも、私的に仕えるときに最も重視されたのが武人としての能力であり、絵巻物を見ても貴族の私的なボディーガードとして下級貴族が武装した姿で描かれている。この時代の下級貴族の経歴をみると中央と地方を行き来する生涯を送ってきた者が多く、平将門は藤原忠平の、平貞盛は藤原定方のボディーガードをスタートとして中央に名を残している。

 藤原独裁が結果を出しているならまだいいが、結果は何も生んでいない。庶民の暮らしも貴族の暮らしも、時平の頃と比べて目に見えて悪化しているし、未来に対する希望も失われている。いい思いをしているのは藤原北家の面々だけで、そうでない者は自分よりも劣る能力しか示せない者の下に留まらなければならないのである。これでは有能な人材がただ藤原北家の者でないというだけで能力に応じた地位を得られないままであり、雇い主に対する忠誠心ならばともかく、朝廷に対する忠誠心を減らすに充分であった。

 地方から上がってくる税が減っているという報告はもはや通例になっていたし、税を納めるようにという通達も通常の光景になっていたが、その通達の力は乏しいものになっていた。

 当然だ。税を納めさせるだけ納めさせておきながら、その税の行き先が藤原北家の蔵を満たすだけで、納めた本人の利益としては帰ってこないのだから。その上、税を納めないことに対する厳しい罰則があるなら仕方なしに納めようとも考えるが、税を納めなかったところでお咎めなしというのが実状である。かつては税の滞納が発覚したら税の追徴に加え鞭打ちの刑が待っていたのに、今や税を取り立てに来た役人の前に武士が立ちはだかり、実力で役人を排除するようになった。その武士に対する年貢は支払うが、それは朝廷に納める税より安いし、何より、納めた税が自分たちの利益に帰ってくるのを目の当たりにできているのである。これで誰が好き好んで、恩も義理もない藤原北家に税を払うというのか。

 それでもこの時代の日本は、名目上だけではあるが政情安定となっている。国外の混乱から見れば、醍醐天皇の帝位は安泰で、貴族たちが繰り広げている出世競争も所詮は宮廷内の争いであって軍を率いてのクーデターではない。地方に対する朝廷の権威が落ちているとは言え、日本の政権とはイコール京都の朝廷権力であり、その権力は長期に渡って連綿と存在し続けている安定を持っており、国外からの外交も京都の朝廷権力だけを相手にしている。

 延喜一八(九一八)年から延喜二二(九二二)までの五年間は、残されている記録そのものの量が少ない。これは何も記録を残す者の怠慢ではなく、この五年間が平和の時代であったと評価できるからである。外交も普通に行われて友好のまま終わるし、人事についても順当とするしかない。飢饉や、疫病の流行といった大問題でもあればニュースとなるが、この五年間はそれすらない。つまり、ニュースとなるべき事件がない。醍醐天皇の治世を「延喜の治」と呼び、それを後世が手本とすべき天皇親政の時代であるとした者は多いが、それはひとえに、この平和な五年間にある。

 記録だけを見れば、この五年間、忠平は何もしなかったとも言える。何の政策を示さず、ただ先例に則って政務を進めるのみという消極的な政治に終始するようになったのだ。国家財政は厳しいままであったし、荘園は朝廷の統制が利かない存在になり、地方の武士団は独自の権力を築き上げている。この、明らかに過去より悪化している社会情勢に対し忠平は何の手も打っていない。数少ない記録の中には、延喜一九(九一九)年に、忠平の兄の仲平を太宰府に派遣し、天満宮の社殿を造営させたとあるが、それが数少ない忠平の行動である。

 ところが、それゆえに評価できてしまうのである。

 政治にしろ、企業にしろ、あるいはスポーツにしろ、優秀な特定個人の能力に依存するようでは安定を生まない。誰がその役割を担うこととなっても一定以上の成果を出せるような仕組みを作るところは、爆発的な好結果を残すことが少ない反面、目を覆うばかりの惨状を生み出すことも少ない。この仕組みのことをシステムという。サッカーのフォーメーションのことをシステムと言うこともあるし、コンピュータを利用した業務の向上のことをシステムと言うこともあるが、いずれも意味は、特定個人に由来しない安定した仕組みのことに他ならない。

 忠平はこのシステムを作ったのだ。

 天皇の下に藤原氏があり、藤原氏の面々が次々と入れ替わることで特定個人の能力に依存しない太政官の運営とさせる。良房、基経と続く反律令の政務を継続するということは、綿密に定められたマニュアルでもある律令を利用できない政務を継続させなければならないということでもあるが、忠平はこれを、先例に則って政務を進めれば誰でも一定以上の成果を出せるように作り上げたのである。

 藤原氏の貴族たちは藤原氏専用の教育機関である勧学院の出身者であるのが当たり前であり、勧学院では一定レベル以上の教育を施しているので貴族の質は維持できる。これは藤原氏が存続し続けること、そして、藤原氏以外は全て無視することを前提としたシステムではあるが、一定レベル以上の人材による政局運営を維持できるというメリットがあった。システムに問題も多くあったが、国外の混乱を目の当たりにしている以上、このメリットは見過ごすことのできない要素なのである。

 これを一般庶民の目から見るとどうなるか。これは特に困ったことにはなっていなかったのではないかと推測できる。何しろ、京都からの納税命令がもう届かないのだ。年貢は存在するが、年貢を納める先である荘園領主や武士団は朝廷のような無茶を言ってこない。膨大な額の税を要求するわけでも、無償強制労働を命じるわけでもないのだから生産性も上がったであろう。それに、この時代は自然災害の記録もない。となれば、土地につぎ込んだ労働量がそのまま収穫に跳ね返る。つまり、働けば働くほど豊かになる。

 目に見えて豊かになれるし、身の安全も実感できているのだから、これは記録に残らないであろう。

 そこで政治家としての藤原忠平に評価を下すとなると、少なくともこの時代の忠平は満点をつけられる。確かに忠平は何もしていない。ただ一人の大臣として朝廷で絶大な権力を持つようになっていたし、藤原北家の過剰な優遇により、政局の安定と引き替えに人事の硬直化を招いている。それでも、政治家の唯一の評価基準、すなわち、庶民の生活向上という点では満点とするしかないのである。

 ただ、それは内部に大きな爆弾を抱え込んだ満点であった。

 武士団が地方で跋扈して朝廷の権威の届かない存在になってきているというのは、治安問題を考えた上で大問題であった。豊作の時はいい。武士団の内部で需要を満たせるから。だが、凶作になったらどうか? 武士団は武力を持った集団であるが、その武力はあくまでも守るための武力である。とは言うが、武士団の抱える人たちを守るための行動が、相手にとっては他の武士団からの侵略になることだってある。武士団が守るのは自分たちであって国全体ではない。自分たちが生きていくために他の武士団の領域に手を出さなければならないとしたら、それは武士団同士の激突、つまり内乱となる。

 また、国外からの侵略がないというのも偶然でしかない。三分裂した朝鮮半島が統一されたら、あるいは、渤海が侵略に抵抗しきれず契丹の元に屈したとしたら、これはいつ侵略を受けるかわからない。何しろ、かつては存在していた国の武力も今や期待できないのだ。武士という武力集団ならばあるが、今や朝廷は武士団に命令をすることができない立場になってしまったのである。侵略に対して自分たちを守るのが武士団であるが、自分たちを守るための決断が「侵略を受け入れ、侵略者の下で生きること」だったら、この国はいったいどうなってしまうのか。

 見える人には見えていたのだ。

 それが太宰府への仲平の派遣だった。太宰府に派遣された仲平は醍醐天皇の命令として太宰府天満宮を建立した。そして、天満宮には道真が奉られるともした。太宰府は対外交渉の最前線であり、同時に、外からの侵略の最大のターゲットでもあった。そして、その太宰府に赴任してこの国を守り亡くなった菅原道真は時を経て伝説となっていた。それが忠平の決断なのか、それとも醍醐天皇の意志なのかはわからないが、このときの朝廷は道真の権威を利用しようとした。そのためには、道真が太宰府に追放されて非業の死を遂げたという噂を残してもためらわなかった。国の軍事力も期待できず、国の権威も期待できないとき、宗教だろうと、オカルトだろうと、朝廷に従わぬ者を従わせることのできるなら利用したのだ。

 オカルト頼みは道真に留まらない。延喜二一(九二一)年一〇月二七日、空海に対して弘法大師の号を与えるとしたのも、伝説の僧侶である空海の権威を利用しようとした結果である。なお、この延喜二一(九二一)年という年は安倍晴明が誕生した年でもあるがこれは単なる偶然である。

 この平穏が破れたのは延喜二二(九二二)年になってから。


 日本国内は平穏であっても、国外まで平穏であるわけではない。むしろ、日本国内の平穏の方がこの時代の東アジアの中で例外だったのである。

 それでも、年を経ることで国外の情勢は答えが見えるようになっていた。

 朝鮮半島では新羅の命運は風前の灯火であり、いつ滅んでもおかしくない、いや、未だに滅んでいないことの方がおかしいことであった。あとは百済と高麗の二強の争いであり、情勢は高麗に有利に傾いてきていた。高麗優勢の状況を打破すべく百済の王である甄萱(キョンフォン)は日本に援助を求めたこともあったが、日本からの回答はなかった。また、同タイミングで甄萱は中国を統べる梁への朝貢もしたが、梁から百済に対する援助は引き出せなかった。

 いつ滅んでもおかしくないのは渤海も同じで、西の契丹からの侵略の前に国土が狭まってきており、この傷口に塩を塗るかのように南西の高麗からの侵略まで受けるようになっていた。しかも、渤海はかつての高句麗の継承国家であることを国家の大前提としている国であり、同じく高句麗の継承国家を宣言する高麗との戦闘は、国家としてのアイデンティティに関わる大問題でもあった。

 中国に目を向けると唐の継承国である梁はかつての唐のような勢いなど見る影もなく、皇帝を名乗ってはいても、その版図は中国で群雄割拠する勢力の一つでしかなくなっていた。

 こうなると近い未来の答えは以下の通りである。

 朝鮮半島は高麗と百済に分裂し、新羅は滅亡する。あとに待っているのは朝鮮半島を二分する戦闘であり、戦乱から逃れる難民が押し寄せることで、戦闘の余波はかなりの割合で日本に波及する。

 中国は多くの国がしのぎを削る戦乱の大地となり、中国との通商は途絶え、交易で生きる者が失業するのみならず、日本の市場が狭まってしまう。それに、こちらもまた終わりの見えない戦闘の連続。朝鮮半島からだけではなく中国からも日本への難民が生じる。

 だが、この二カ所は難民だからまだいい。問題は渤海。渤海は近い未来に契丹に攻められて滅びる。こうなると、契丹が日本海に顔を出すようになり、海の向こうの日本にまで矛先を向けてもおかしくない事態となる。朝鮮半島からも中国からもやってくるのは生活を求める難民だが、契丹の場合は侵略しに来る軍勢なのだ。これは生活が破壊されるなどというレベルでは済まない大災害となる。

 この現状に立ち向かわなければならなくなった忠平が選んだのが、鎖国。国境を閉ざすことを忠平は考えたのである。市場が狭まるとか、難民に対する人道的支援とか、そんな考えよりも安全を選んだのだ。そして、忠平のこの姿勢を国民は支持した。

 延喜二二(九二二)年六月五日、朝鮮半島の戦乱から逃れようとして対馬に漂着した新羅人を入国させず、朝鮮半島に返すよう指令が飛んだ。ついこの間まで戦争をしていた、そして、事実上は戦闘がなくても名目上は日本と新羅はまだ戦争中であり、戦争相手国の国民を受け入れることはできないというのが忠平の掲げた理由であった。

 延喜二二(九二二)年九月二日、渤海使が越前国に漂着。これに対しては通例に従った渤海使の歓待としたが、相手はまもなく滅びようとしている国からの使者であり、これまでのような安穏とした折衝とはならなかった。何しろ、渤海が日本に使者を派遣したのは日本からの援軍を求めてのことなのである。しかし、日本からの回答はNO。日本には渤海に援軍を派遣できる余力がないという回答を持たせて帰国させたのである。

 これらは嘘ではない。日本は新羅と戦争をしており、講和条約が結ばれたわけではない以上、新羅とは名目上戦争中という関係である。また、日本のオフィシャルな軍事力も減ってきており、国外に派遣できるだけの余力はないのも事実である。だから、新羅も、渤海も、忠平の掲げた名目に対する反論は全くできなかった。しかし、自分たちは今まさに滅びようとしているのである。そして、新羅はともかく、渤海は、建国からこれまでずっと日本を同盟国としており、日本と新羅が戦争をしているさなかも日本への支援を表明し続けた国である。その国に対し忠平は、「余力なし」として問答無用に支援を打ち切ったのだ。

 日本への支援を求めた人たちは日本の冷たい態度に失望したであろう。そしてもっと彼らが悔しく感じるであろうことに、忠平のこの態度はこの時代の東アジアを考えれば正解とするしかない態度であったのである。滅びようとしている国に延命手術を施しても、滅亡が先送りになるだけでその国の運命は変わらないし、下手すれば自国の平和だって脅かされてしまうのだ。他国の滅亡の巻き添えを食らうことなく、国家を存続させて平和を維持しようとするならば、それが非人道的と言われようと、それが運命をともにした長年の同盟国であろうと、関係を断ち切らなければならないのだから。

 延喜二二(九二二)年の国外からの支援要請は災害がまだ対岸の火事だと考えて日本は安穏としていられたが、年が変わった延喜二三(九二三)年、災害が海を越えて日本に押し寄せてきた。

 年が変わってすぐに咳逆病大流行の記録が登場する。咳逆病というのは現在のインフルエンザのことで、医学の進歩した現在でもインフルエンザに罹患しては平然としていられないし、命を落とす人だって大勢いる。それでも薬は日々発展しているし、インフルエンザのメカニズムも、その予防法もわかっている。だから、インフルエンザは、苦しい病ではあるが死を意識させる病ではないが、平安時代に視線を戻すと、医学水準も、メカニズムも、予防法も現在とは比べものにならない低水準のこの時代のインフルエンザは死に直結する大病であった。

 ある日突然高熱に襲われ、ある日突然息苦しくなり、ある日突然命を落とす。

 身分の差も、貧富の差も、年齢も性別も関係なく病は襲いかかる。

 これは人々に絶望を呼び寄せた。前年までの五年間が平穏であったと考えるのは後になって振り返ってみての感想であって、実際にその五年間を過ごしていた人たちにとっては、国内も国外も安定しない、貧しさも変わらない、豊作だと言われても実感できない、不満の多い五年間だったのである。その五年間を突然終わらせたのが、情け容赦なく命を奪い去っている伝染用の大流行であった。

 そして人々は考えた。これは何かの祟りなのではないかと。

 祟りについて言えば、以前から菅原道真が噂として挙がっていた。ただ、それは怪しげなオカルティックな話であり、全ての人に受け入れられていた話ではなかった。

 この噂を忠平は利用した。元々、兄時平の政策を否定するところから忠平の政権は作られているのである。ここで亡き時平に汚名を着せようと政権に傷つくおそれなどなかったし、伝染病の大流行にあって何の対策も打てない現状では、人々の心情を安定させる何らかの手段も必要であった。

 今はまさに伝染病の大流行のさなかであり、バタバタと人が死んでいくのを誰もが目の当たりにしている。今の惨状に対する何かしらの理由づけを求める人々、不安と不満をそらせる必要のある執政者、この二つが重なって、道真の怨霊伝説が公式なものとなった。

 亡き時平が道真を「追放」したことは話の一つとして伝わっていたが、あくまでも噂であり、そうではないと考える人も多かった。しかし、忠平は、道真の太宰府赴任が道真の追放であったと正式に表明。その怨念が現在の伝染病の理由であるという国の見解を出したのである。

 その上、延喜二三(九二三)年三月二一日には、醍醐天皇の第二皇子で皇太子でもあった保明親王が咳逆病で亡くなった。いかに伝染病が身分の差に関係なく襲いかかるとは言え、皇位継承者の死は大きなニュースとなって日本中に轟いた。

 ためらいを感じていた人たちも、皇太子の死を目の当たりにして伝染病の理由を受け入れた。亡き道真の不遇が現在の苦悩の理由であると考えたのである。

 ここまでくると、道真の不遇を解消することは伝染病の沈静化をもたらすと考えるようになるのは目と鼻の先のこと。延喜二三(九二三)年四月二〇日、道真の「追放」は正式に解除され、太宰府に行く前の役職であった右大臣への「復帰」を宣言し、正二位を追贈することが定められた。

 人々はこれで伝染病が沈静化すると考えたのである。

 しかし、伝染病の猛威は、一死者の名誉回復で一瞬にして収まってはくれなかった。

 咳逆病の流行は史上はじめてのことではなく、これまでに何度も起こっている。治療法も、有効な薬も、予防法も知らないこの時代であっても、季節に合わせた流行であることは知っていたのだ。これまでの歴史に従えば、冬が終わり春になれば、少なくとも四月にもなれば咳逆病は沈静化したのである。忠平もそれを見込んでいた。冬の咳逆病は大問題だが、暖かくなれば沈静化し、春になれば何もかもなかったことになると考えたのである。その終わるであろうタイミングに合わせて道真の復権を謳ったセレモニーを開催することで、朝廷主導の咳逆病の沈静化を図ったのだった。

 ところか、季節が春になり、夏になっても、伝染病の猛威は衰えなかったのである。冬と変わらぬ猛威は続き、数多くの人がこの病で苦しみ、数多くの人がこの病で命を落とした。

 これは全ての予定を狂わせた。


 醍醐天皇はまだ三八歳の若さであっただけでなく、子にも恵まれていたから皇統が途絶えることを憂慮する必要はないと、それまでは考えていた。しかし、後継者に考えていた保明親王が二〇歳の若さで命を落としてしまったことを考えると安穏としてはいられなくなった。いつ、どこで、誰が亡くなるかわからないし、それが自分である可能性だって否定できない。皇統の安定を考えた醍醐天皇は、延喜二三(九二三)年四月二九日、保明親王の長男でこのときわずか二歳の慶頼王を皇太子としたが、これは醍醐天皇の焦りを周囲に見せる効果しかなかった。

 その上、五月に入ってからもう一つとんでもないニュースが飛び込んできた。

 亡き道真の名誉回復から五日を経た四月二五日に、海の向こうで梁が滅亡したとのニュースが飛び込んできたのである。継承国家として唐が復活したが、この中国の混乱のニュースを目の当たりにした人々は、世界を包み込む混乱は沈静化するどころかかえって悪化していると考えたのだ。そして、中国で起こったこの政変までも道真の怨霊のせいだと考えるようになってしまったのだ。

 鎮まることのない道真の祟りを恐れる声が高まり、対処を求める市民の声が連日届くようになった。

 それは、忠平にも、醍醐天皇にも、どうにもならないことだった。道真の怨霊に責任を押しつけることで人心の安定化を図り、安定化に成功したところまではよかったのだが、季節が春になることで沈静化するはずだったインフルエンザが今もなお猛威を振るっているし、国外からは想定のはるか上をいく混迷のニュースが届いてくる。つまり、事態は前よりも悪化してしまったのだ。

 道真の復権という手段を使ってしまった朝廷に残された手段は一つしかなかった。延喜二三(九二三)年閏四月一日、二三年の長きに渡って使われ続けてきた元号である「延喜」の終了と、新元号「延長」の使用開始が決定されたのである。改元は、吉事ならばそれを祝い、凶事ならば凶事をリセットする意味で行われるものである。それでも通例ならば無理してでも吉事を見つけだして吉事を祝しての改元という体裁を取り繕うものであるが、このときは無理する手間も惜しんでいきなり改元している。

 この瞬間、後世から醍醐天皇の理想の治世の時代と評価される「延喜の治」は終了した。

 混乱を目の当たりにした人は、何よりもまず、より確かな安定を求めるようになる。何より忠平が安定を考えるようになった。

 これまでの政権は、忠平がただ一人の大臣であり、醍醐天皇がその上に立って腕を振るう天皇親政の政権であった。そして、それが安定を生んでいた。しかし、今までの安定を維持してきた体制と同じだと、これからは混乱が続くのである。

 このときの忠平に残されていた選択肢は、皮肉にも、自分が否定し続けていた兄時平の政治体制だけであった。律令に従って左右の大臣が天皇の脇を固め、左大臣をトップ、右大臣がその補佐とする時平の政治体制を、忠平は律令的、すなわち、良房、基経と続いてきた反律令政権の否定であると批判し、自分が右大臣に留まることで反律令政権の継続をアピールしてきたのだが、今はそんな悠長なことを言っていられる状態ではなくなっていたのだ。

 延長二(九二四)年一月七日、藤原忠平が正二位に昇格。

 延長二(九二四)年一月二二日、藤原忠平が左大臣に昇進。後任の右大臣には藤原定方が就任した。

 これで時平のときと全く同じ、つまり、律令制に則った政治体制が確立された。傍目には肩書きが変わるだけで人員は変わらないのだから今までと同じではないかと考えるが、忠平にとっては、自分一人だけが大臣でその他の貴族は最高でも大納言止まりとする体制が重要なのであり、自分にとって変わる存在、つまり、もう一人大臣がいるという体制をこれまでは容認できなかったのである。だから、これは忠平にとって相当な妥協なのだ。

 また、咳逆病の猛威は収まったものの、その影響は随所に現れていた。これが忠平をより確かな安定化、忠平の立場にすればさらなる妥協に走らせる理由となった。

 まず、人口が減ってしまった。人口の減少は耕作者の減少を生み、耕作者の減少は収穫の減少を生む。収穫の減少は貧困を招き、貧困は犯罪を招く。安定した五年間は減っていた犯罪が、咳逆病以後目に見えて増えるようになってしまった。

 さらに、上がってくる税収も減った。咳逆病の被害の穴埋めのために地方が捻出しなければならない予算は測り知れず、それは中央へ上げるべき税をも使い込むという結果を招いていた。咳逆病で親を失った子、夫を失った妻、息子夫婦を失った高齢者、こうした一家の働き手を失い生活の目途が立たなくなってしまった人たちの支援は従来から地方の責任とされており、地方で対処できないときは中央が援助するという仕組みであったが、地方からの支援要請の多さに忠平は地方に責任を押しつけたままにしたのである。

 これで地方官のなり手が減った。有能な国司であればあるほどその国の庶民の被害は少なく抑えられたのだが、それは国司の資産持ち出しによるものであった。その地の庶民から絶賛を浴びれば浴びるほど、国司は貧困に陥ることとなったのである。少し前まで一期四年を勤め上げれば一生分の財産が築けると言われていた国司という職が、咳逆病の影響でかえって財産の持ち出しによる貧乏を招く職になってしまったのだ。今の国司は一刻も早く任期が終わり京都に帰れる、つまり、財産の持ち出しを終わらせられることを待ち望んでいたが、新しく国司に任命された者がなかなか任国に向かわないという現象まで生じてしまった。

 忠平は、延長二(九二四)年三月二二日に、国司の赴任遅延による国務の停滞を防ぐため、国司に任命した月から新たな国司がその国に対する責任を持つと定めた。新しい国司が任命されたという連絡が届いた瞬間に国司の任務は終了し、財産持ち出しの責任からも逃れられるのだ。これは現役の国司から賞賛されたし、忠平も善意からこの政策を打ち出したのであろう。だが、善意ある政策が必ずしも良い結果を出すとは限らない。なぜなら、この命令は地方に対し国司不在という悪影響をもたらしたからである。財産を減らせと命じられて、誰がその命令を快く引き受けるであろうか。地方に向かうよう命令されても、のらりくらりと命令をやり過ごし、いつまでたっても京都から離れない国司が続出した。任国からは一刻も早く赴任するよう要請が来るが、肝心の国司からの返答は、罹かってもいない病気だの、居もしない家族の不幸だの、あの手この手を駆使しての着任拒否。それでいて、国司として受け取れる収入は京都まで届けるようにという命令は出しているのである。これで、誰がその国司を尊敬するであろうか。

 安定の五年間は気にしないでいられた治安の悪化も、咳逆病以後は復活した。

 特に、京都に流れ込んでくる人たちが治安を悪くさせた。

 しかも、時代の移り変わりがここにも現れていた。良房や基経の頃は、ただ単に地方から逃れてくる人がその日の生活のために犯罪者へと転じていたが、今はそれですら牧歌的な光景に見えてしまうようになってしまった。何しろ、地方から逃れてくる者は武装しているのだ。武士団同士の争いに敗れた者が武装したまま捲土重来を狙い京都へと流れてくる。そして、貴族に向かって自分を雇えと言ってくる。すでに基経の頃には武士が家臣として存在し、その武士が五位の位を持つ貴族の一人に列せられるようにすらなっていたから、貴族の家臣に武士が居るのは珍しい光景ではなくなっていたのだが、いかに裕福な貴族と言えど、雇える武士の人員は限られている。それに、京都に流れ込んできたのは戦いに敗れた武士。つまり、武士としての能力が低い武士である。どうせ雇うのなら能力の高い武士を選ぶのが普通な流れなのだから、敗北者に目を向ける貴族は少ない。

 これでは京都に流れてきた武士に居場所などない。かといって、武士であることを捨てて一人の農民となって農地を耕そうと考えた者は少数派である。このときの武士の大部分は貴族の血を引いている。地方に赴任した貴族の子孫であったり、在地の郡司とその子孫であったりと、その出自は一定ではないが高い身分であることでは共通している。

 自分を上流階級と考える者はたとえ生活が悪化することとなってもその身分を落とそうとは考えない。それがいくら貧困から逃れる手段であろうと、自分より劣る身分の者の中にとけ込もうなど、断じて考えないものである。いかに荘園領主に雇われる立場であろうと、貴族の血を引く者としてその地に住む者の暮らしと命を守るという役目は自分の上流階級としての矜持を維持できるし、農民に働かせて貢がせた年貢で生活するというのも上流階級としての誇りを維持できるのだ。

 京都に出向いて貴族に雇われる立場になればそのプライドを維持できるが、それを拒否されたらプライドが傷つけられてしまう。だからといってプライドを捨てることはできない。その思考の結果が、強盗集団。

 同じ立場の者を集めて暴れ回る、彼らに言わせれば自らの誇りに応じた暮らしをする、そうした集団が京都とその周辺に誕生した。

 延長二(九二四)年五月三〇日、京都の強盗を捕らえるために道守屋(ちもりや)を作らせることを命じたが、その程度で治安の安定を呼び込むことはなかった。

 考えてみてほしい。現在の学生の就職難を。「仕事なんて選べばいくらでもある」などと言えるのは無責任な第三者であって、学生の就職難を解決する方法はただ一つ、学生が望むような大企業が学生を大量に雇い、バブル世代の体験していたような安定と毎年の昇給を保証することである。仕事があるなどと言われてもそれはやりたい仕事ではないし、やりたくない仕事に就職したら最後、奴隷労働の日々が待っている。それに、プライドだって大いに傷つけられてしまうのだ。経済情勢がそれを許さないのが今の現実だが、だからといってプライドを捨てろなどと命じることはできない。なぜならそれは、学生たちがこれまで歩んできた人生を、そしてこれからの人生を全否定する行為なのだ。

 学生たちがデモをするのと、この時代の強盗集団と、行なっている行動は違うが動機は同じである。自らのプライドを維持するため、そして、これまでとこれからの人生を肯定するためである。そしてもう一つ同じことがあった。プライドに対する共感を得られないことである。既に恵まれた暮らしをしている者にとって、そうでない他人のプライドは何ら気に止めるものではない。

 利用できるものは何でも利用しようとする忠平の姿勢は、この国の外を取り巻く危機と、この国の安定を国民にアピールするのに役立った。

 延長二(九二四)年一一月一二日、復活なった唐が日本に使者を派遣し、かつての大帝国である唐が復活したのだから、遣唐使の派遣も再開しても構わないとの国書と、皇帝から天皇へ進物を上奏してきた。これまでの唐の意識では、日本のトップの称号が天皇であると認めてはいても、天皇の地位は皇帝より下であるとしてきたのである。しかし、復活なった唐はそれを覆した。天皇と皇帝を同格であると認めたのである。唐にとっては、東アジアの混乱にあってただ一ヶ国安定を保っている、しかも、千年をはるかに超える歴史を持つ日本の天皇家の権威は充分利用可能な権威であり、その日本が復活なった唐を国家として承認するということは、群雄割拠する中国大陸における唐の権威を強めるものであった。

 この唐の姿勢は忠平にとって非常にありがたい姿勢であった。唐からの使者を内裏で醍醐天皇が謁見するのである。それも、中国の皇帝、実際には皇帝代理の使者であるが、唐の者が天皇の権威を認め、国書と進物を「上納」してきた。かつては絶大な権威を持ち東アジアの盟主として君臨してきた唐が、今や日本を格上として扱い跪いたのである。国難にあるとき、外交でポイント稼いで政権支持率を上げることがよくあるが、このときの唐の姿勢は醍醐天皇と左大臣である忠平への支持を急激に高め、これまでを思い返させることにも成功した。国外の混乱と比較しての日本の安定は、日本に対する誇りを持たせ、支持率を上げさせるのに充分であったのである。

 この勢いで、延長二(九二四)年一一月一五日に、忠平が延喜式の撰集完了を宣言した。以前から撰集が行われていた延喜式であるが、期待が高かった反面、式というものは撰集に時間がかかることが以前から知れ渡っており、できあがるのはしばらく先と思われていたのである。しかも、忠平の政権というのは律令を否定する反律令の政権である。律令を補完する式の作成に熱心であるとは思われておらず、結局は絶ち消えになるとさえ思われていたのであった。

 このタイミングで延喜式の撰集完了を宣言したのはインパクトが大きかった。特に、未だ残る律令派の面々にとっては、待ち望んでいた式がついに完成したのだという感動をもたらすものであった。

 ところが、いつまでたっても延喜式が公開されない。完成したという宣言だけが届き、完成した中身が公開されないのだ。そのため、実際の条文が公開されないことで忠平に疑念を持つ者も現れた。

 一方、多くの者にとって、法律の条文というものは縁遠いものである。法律が作られたというニュースは何度も目にするが、その法律の中身まで踏み込む者は少ない。そのためか、外交でポイント稼いだ忠平に対し、以前から撰集が進められていながら完成せずにいた延喜式を完成させたということでさらなる支持を高める者は多く、条文が公開されないことは大したニュースとならなかった。


 道真の怨霊の噂は一度沈静化していた。咳逆病が収まってきたからである。また、唐からの使者や、待ち望まれていた新しい法典である延喜式の完成は、未来の暮らしに希望をもたせるものであった。現状を苦しめる怨霊というのは、現在の絶望に対する合理的な説明を求めた結果が生んだ噂である。この噂が沈静化するには、より合理的な説明が生まれるか、現在の絶望が解消されるかのどちらかが起こればいい。だから、延長二(九二四)の一一月の出来事は二つとも未来への希望となって現在の絶望をかき消す効果を持ったと同時に、怨霊の噂を消す効果もあったのである。

 しかし、半年を経た延長三(九二五)年六月一九日、道真の怨霊の噂が復活した。

 藤原時平の孫で、皇太子となっていた慶頼王が五歳という幼さで亡くなったのだ。死因については記録に残っていない。

 皇位継承者が亡くなるというのは天皇家の系統に影響を与えるが、このときはそんな軽い影響では済まなかった。慶頼王は時平の孫である。そして、時平は道真を追放した人間であるとされている。この二つが合わされば、慶頼王の死と道真の怨霊が結びつくのも自然な流れであった。人々は思いだしたかのように道真の怨霊に恐れおののき、未来に再び絶望した。

 怨霊の結果が伝染病の流行であるなら伝染病が沈静化すれば怨霊の噂も沈静化するが、今回の事件は慶頼王の死。一度亡くなった人間が蘇ることなどありえない以上、生じた噂も簡単には晴れない。忠平が思い描いていた以上に道真の怨霊の噂が人々に受け入れられてしまうようになったのだ。

 何か良くないことがあればそれは道真の怨霊のせい、思い描いていない結果になってもそれは道算の怨霊のせい、風邪をひいたら、道で転んだら、ひどいのになるとひげ剃りに失敗して血が流れただけで道真の怨霊のせいになってしまった。そして、道真の怨霊に対する責任を求めるようになってしまった。

 このようなとき、人は自分の責任を絶対に認めない。認めたとしても充分に悔い改めているから、自分にはこれ以上道真の怨霊が覆い被さらないと考える。それでもなお怨霊が続くのは、自分に責任があるからでも、自分の悔い改めが不充分であるからでもなく、他人が道真の祟りを招いているからだと考える。そして、その他人に怨霊の責任をとらせようとする。中世ヨーロッパの魔女裁判も似たようなもので、不具合な現実のスケープゴートとして他と違う誰かに責任を持たせようとする。その者に責任をとらせれば不具合な現実は改善されると考えているし、その者の人権など、自分の被っている不具合な現実に比べればどうということのない軽微なものであると考える。

 では、中世ヨーロッパにおける魔女の役割を、この時代の日本は誰が担うこととなったのか。

 時平とその関係者である。

 時平自身はもうとっくに亡くなっているが、時平の血を引く者は数多くいるし、時平とともに仕事をした者も数多くいる。そうした者が魔女にさせられたのだ。ちなみに、魔女という言葉を使ったが、このときのスケープゴートの圧倒的大多数は、中世ヨーロッパにおける魔女裁判と同様、性別に限定などなく、男もいれば女もいる。年齢も性別も社会的地位も関係なく、時平と関係があると考えられた人に何かあるとそれは道真の祟りであり、祟りを受ける人間が悔い改めをしないから、そのとばっちりが自分にまで飛び火すると考えたのである。

 皇太子の死に伴う帝位の空白は避けなければならないというのがこの時代の貴族たちの共通認識になっていたが、それにも関わらず行動を起こせていない。

 行動を起こせていないのは新たな皇太子の任命だけではない。道真の噂が隆盛を極めるようになって以後、貴族たちの全ての行動がためらわれるようになってしまったのだ。今ここにいるほとんどの者は何らかの形で時平との接点を持っている以上、何かするとそこに道真の怨霊の噂がつきまとってしまう。ゆえに、噂の立たぬように、と言えば聞こえはいいが、実際には事なかれの消極的な姿勢を貫いたのである。それが身の安全を守る手段だった。

 醍醐天皇はこの現状を苦々しく思ったが、醍醐天皇自身もまた時平と接点を持っている。何しろ、道真に太宰府に向かうよう命じたのは醍醐天皇なのだ。だからか、醍醐天皇は、貴族たちとは逆に、何か吹っ切れたように積極的に行動するようになった。本人から望んだわけではないが、左大臣藤原忠平ですら消極的になっている以上、天皇親政しかこの窮地をどうにもできなかったのである。それにしても、「延喜の治」として絶賛される天皇親政の時代には、実際には天皇親政どころか忠平の独裁だったのに、延喜の治の栄光が終わった時になって天皇親政というのは、幾許かの皮肉を感じずにはいられない。

 忠平という人間は元からしてアクティブな人間ではない。それに輪をかけるように、あらゆる行動を抑える社会風潮が広まっている。こうなると、元から消極的な人間はもっと消極的になってしまう。延長三(九二五)年八月一日に、醍醐天皇は、完成を宣言しておきながら未公開となっている延喜式の完成を忠平に対して要請している。完成を忠平が宣言してから一〇ヶ月も経っているのに延喜式の完成を要請するということは、誰もが想像したとおりであるが、延喜式は完成していないということである。忠平は前年の完成の宣言を取り消すことはしなかったが、命令には従った。命令には従ったが消極的なものに留まった。

 醍醐天皇はさらに、慶頼王の死から四ヶ月を経た延長三(九二五)年一〇月二一日に、醍醐天皇の皇子、寛明親王(ゆたあきらのみこ)を皇太子とすると宣言した。これに対する批判や反論だけではなく、賛意すら出なかった。ゆえに、寛明親王の皇太子就任に関する問題は起きなかった。しかし、左大臣ともあろう忠平が皇太子一人決めるアクションを起こさないのは異常とするしかない。それも、醍醐天皇の皇子という誰が見ても皇太子に相応しいとするしかない人物を皇太子に任命するだけのことである。貴族たちの消極さ、そして、道真の噂の恐ろしさは、もはや誰にも制御できぬものになってしまった。

 この噂は、延長三(九二五)年一一月一〇日、興福寺で大火が発生し、僧坊が喪失したことでさらに悪化する。

 オカルティックな噂による政務の停滞と社会の消極化を解決するには、そのオカルティックな噂を打ち消す何かが必要である。ただ、何かとは言うものの、それが何であるかは一定していない。「こんな方法で?」と思わせる些細な方法で噂が打ち消されることもあれば、「ここまでしても駄目なのか!」と思わせる大規模な手段でも無駄に終わることもある。

 何しろ二〇年以上前に亡くなった人間の怨霊の噂である。しかも、噂の根拠というのが、日常生活を送る上で当たり前に発生する不幸なのだから、これはどうにもならない。人災ならばどうにかなっても、天災、特に地震や雷、天候不順などとなると、これは神の領域の話で人間がどうこうできる話ではないのである。それでも根本的な解決が成されるとすれば、道真が実は生きていて、自分は怨霊になどなんかに成っていないと証言してもらうしかない。当然ながらそんなものは無茶なわけで、朝廷の取り得る方法としては、オカルティックな何かをかぶせるというのは一つの手段ではある。

 延長四(九二六)年五月二一日に、火災が発生して僧坊が喪失した興福寺の僧侶である寛建を唐に派遣することが決まったのもその延長線上である。より正確に言えば、唐に渡りたいという許可を寛建が求めてきたので、その許可を朝廷として与えたということなのだが、国が許可した海外渡航であり遣唐使というわけではないものの、国の許可を得ている以上、一個人の渡航となるわけもなかった。

 これは複合的な要因が絡まっている。

 まず、オカルティックな問題での社会の停滞である以上、オカルティックな領域にも対応できると一般的には思われている宗教界の人物が何らかのアクションを起こすのは有効な手段である。そしてそれは、道真の怨霊によって火災が発生し、僧坊が焼け落ちたと噂されている興福寺の僧侶である方が望ましい。

 次に、唐からの外交樹立を求める要請を無かったことにするわけにはいかない以上、日本国として何らかのアクションが必要であったのに、今なおアクションが起こせずにいたことが挙げられる。唐が復活なったと言ってもかつての大唐帝国の復活ではなく、首都開封とその周辺を支配する地方の一勢力に留まってしまっている以上、正式な国交を樹立すべく遣唐使を派遣したら、その他の地方勢力を日本は敵に回してしまうのだ。しかし、復活した唐が中国全土を統べる国家として蘇る可能性も残っているため、何のアクションも起こさずにいると、それはそれで未来の外交に影響を与えることとなってしまう。

 また、遣唐使を派遣しようにも唐に渡らせる人材を選べなくなっていた。かつては唐に渡って帰ってくれば出世の道も待っているため、未来に野心を抱く役人や貴族が大挙して遣唐使になるべく自己推薦してきたのだが、今や唐に渡ろうが国内に留まろうが出世は変わらない時代になっている。これでは五人のうち三人しか生きて帰ることのできない危険な航海をしようと名乗り出る者など現れるわけがない。遣唐使が危険な航海となる理由は豪華であるが安全性の低い遣唐使船を使うからで、遣唐使船を使わなければ安全性は高まるのだが、遣唐使船以外の船で遣唐使を派遣するわけにいかないという事情もあった。遣唐使船だけが国の認める正式な外交使節を乗せる船であり、それ以外の船の外交は断じて認められないのである。国の正式な役人ではない民間人ならば安全な船を使えるのだが、無位無冠の者に国の許可を与えるわけにもいかないのだ。この概念を打ち破るには、これから二〇〇年を経た平清盛を待たねばならない。

 僧侶というのは、当時の概念におけるギリギリの妥協点であり、全くの民間人ではないが無位無冠でもあるので安全な船にも乗れる。しかも、渡航目的はあくまでも仏教を学ぶためであるので唐以外の中国の地方勢力も何も言えない。また、いくら群雄割拠する中国とは言え、唐は文化水準が他より抜きん出ていることに変わりなく、日本を代表する文化人としての派遣は有意義でもあった。しかも、小野道風の書や、紀長谷雄・橘広相・都良香といった歴代の文化人の残した詩集だけでなく、菅原道真の詩集も持たせている。これは、菅原道真を、日本を代表する文化人であると国が認めたということでもあり、そのことで怨霊の噂を弱める効果もあると考えられた。

 そして、寛建の渡航の瞬間は一瞬ではあるが怨霊の噂が止んだのである。

 だが、その沈静化も、延長四(九二六)年七月一一日の西大寺の大塔への落雷で元に戻った。落雷による大塔の焼失は道真の怨霊が雷となって祟りとなっているという噂へと、いとも簡単に昇華したのである。

 もはや何をしても道真の怨霊のせいになってしまう。

 醍醐天皇は諦めの境地に達したのか、道真の怨霊など無かったかのように振る舞い始めた。忠平の干渉がないと悟った醍醐天皇は、歴代の天皇が望んでいながら果たせずにいた天皇親政を大々的に開始したのである。この一〇〇年間、冬嗣、良房、基経、時平と藤原北家の大臣が政務のトップに君臨している、あるいは藤原緒嗣や橘広相と対立して存在感を示しているという光景が広がっていて、それが正常な政治体制であった。この体制を維持するために強引なまでに藤原独裁を固めたのに、その藤原北家の忠平も、忠平の兄の仲平も、その他の藤原氏の面々もおとなしくなってしまっているのだ。もしかしたら、それが最大の道真の怨霊かも知れない。

 幸いなことに、醍醐天皇の執政者としての能力は高いものがあった。父である宇多法皇こと定省親王が臣籍降下して源定省となっていたため、醍醐天皇は生後間もなく源氏であった。しかし、父が後続に復帰し定省親王となったことで醍醐天皇は皇族に復帰できた。もしそのまま源氏であったら、醍醐天皇は源氏に属する有能な一貴族として政界に存在していたであろう。

 その有能な一貴族となる可能性のあった者が皇族に戻って皇位に就いていたのは日本にとっては幸運なことであった。頼れるのは醍醐天皇しかいないのだ。そして、醍醐天皇はこの国の危機を一人で背負う気概を見せるようになっていた。

 藤原氏が高位の官職を独占し、左右の大臣とも藤原氏であるという状況は確かに政務の安定を生んでいる。だが、少なくともこの時点では結果を生んでいないと考えられていた。後世から判断すれば政務の安定が安定した成長へとつながり、貧困の縮小と生活の安定を生んでもいたのだが、このときは、大臣たちは何もせず結果を生んでいないと考えられていた。かといって、大臣を取り替えるわけにもいかなかった。大臣を交代しようにも後釜に据える人材が居ないし、何より、現時点の状況であれば天皇親政が可能なのである。無能な大臣が君臨しているのはやむを得ない必要経費とでも考えて放置しておけばいいと考えた醍醐天皇は矢継ぎ早に命令を出した。

 延長四(九二六)年一〇月、百済軍が新羅の首都である金城を占領し、新羅の景哀王を自殺させたという連絡が入ってきた。新羅の新しい王として金傅が即位したが、百済王である甄萱(キョン・フォン)の傀儡政権であり、新羅滅亡は目前であると考えた醍醐天皇は、朝鮮半島の戦乱が日本に波及しないよう、対馬、壱岐、そして玄界灘周辺の警備強化を命じた。ただし、この新羅滅亡寸前という考えは実現しなかった。後に高麗王となる王建(ワン・ゴン)率いる高麗軍が新羅の救援に赴き、一二月、王建と甄萱の間での停戦交渉が始まったからである。

 朝鮮半島からひとまずの安静の情報を入手した醍醐天皇は、延長四(九二六)年一二月八日、任命した職務に就かない者、特に地方への着任を拒否する者を処罰すると発した。処罰が下ると、軽くても降格、重い場合は官位剥奪となる。その上、任命から処罰当日までに支払われた給与の全額返還を命じた。

 同日、遅刻や無断欠勤が多い者など、勤務態度不良の官僚を免職するとした。道真の祟りという名目で出勤せずにいた者が続出していたからである。道真の祟りは実に便利に利用されていたと見え、休暇理由に道真の祟りをあげ、出勤すると祟りが悪化するから祟りが鎮まるまで休ませてほしいという願いまであったのだ。しかも、祟りによる休暇は有給休暇にしなければより祟りが悪化するとまで付け加えているのだから図々しいにも程がある。

 役人の図々しさを一刀両断した醍醐天皇が次に手を着けたのは、国外からの難民の受け入れ、特に渤海からの難民の受け入れである。新羅の滅亡も目前であったが、渤海が契丹に滅ぼされるのはより近い未来に感じられていた。と同時に、渤海では契丹の侵略に対する激しい抵抗も続いていた。どんなに平和的であろうと、血の流れない侵略はない。ましてや渤海国民は命を懸けて抵抗しているのである。その抵抗が終わったときに待っているのはこれまで通りの安定した暮らしではなく、復讐である。

 少なくない数の渤海人が国境を越えて高麗に亡命したり、日本海を南下して日本に逃れてきたりした。

 醍醐天皇は彼らを受け入れることとしたが、一つだけ条件があった。

 日本人となること。

 日本人として暮らし、日本人として働き、日本に税を納めるのを条件として受け入れることとした。多くの渤海人はこの命令を受け入れたが、少なくない数の渤海人がこの命令を拒否し、風土と気候が故郷に近い北海道に移住した。

 文屋綿麻呂による本州統一で縄文時代が終わったが、北海道では続縄文時代が続いていた。その北海道で続縄文時代が終わったのは、このときの渤海人の大量移住による。ついでに言えば、現在のアイヌ語と日本語は互いに意志の疎通が不可能なまでに分かれてしまっているが、この時代までは、ある程度までなら意志の疎通が可能な似た言語であった。日本語もアイヌ語も同じ縄文語から分かれた言語だから似通っているのは当然で、現在の感覚でいくと、ゲルマン系諸語から分かれた英語とドイツ語のような近さであった。それが意志の疎通が不可能なまでに分かれたのはこのときの渤海人の大量移住による。渤海人の大量移住により、北海道で話されていた縄文語、平安時代の呼び名で言うなら蝦夷語と、渤海人の持ち込んだ渤海語が融合して生まれたのが現在のアイヌ語である。

 一方、渤海に残った渤海人も多数いた。月日は不明だが、延長四(九二六)年に契丹が渤海の首都である上京竜泉府(現在の黒竜江省牡丹江市)を陥落させ渤海王を捕虜としたことで、契丹は渤海国を滅亡させることに成功したが、渤海の遺民による抵抗運動は激しく、契丹の領土として併合することに失敗していたほどである。

 契丹皇帝の耶律阿保機は、契丹による直接統治が現時点では不可能と判断し、渤海の領地に渤海の継承国家である東丹国を建国させ、長子で皇太子でもあった耶律倍を上京竜泉府に派遣して東丹王に任じた。ただし、忽汗城と呼ばれていた上京竜泉府の城郭部分は天福城と改名させている。

 東丹国は渤海の継承国家であり、渤海の対外関係は東丹国がそのまま継承、渤海国の国民もそのまま東丹国の国民となるという宣言をしたが、東丹国内では渤海人による反乱が続出していた。

 この情報を日本は掴んでいた。ただし、醍醐天皇も、忠平も、東丹国を渤海の継承国家として承認することはなく、渤海国はまだ滅んでいないという体裁をとった。とは言え、渤海の抵抗勢力への支援は行なっていない。日本の軍事力にそこまでの能力はなかったからである。日本にできたのは、契丹への抵抗を断念し国外に逃れてくる渤海人を受け入れることと、契丹からの侵略に対処すべく日本海沿岸の警備を命じたことだけである。

 この日本の行動に対する契丹からの抗議の姿勢はなかった。より正確に言えばそれどころではなかったと言う方が正しい。契丹建国の英雄である耶律阿保機が亡くなったからである。皇帝位が空白になったこと、また、渤海の遺民たちの抵抗運動の激しさから、東丹国王で契丹の皇太子でもあった耶律倍は旧渤海の捕虜たちを連れて契丹の首都である扶余城へ凱旋。しかし、皇帝位に就いたのは耶律阿保機の次男の耶律堯骨であった。ここに契丹を二分する一触即発の緊張が発生した。

 契丹との関係はこれで時間稼ぎ可能と考えた醍醐天皇は、続いて、忠平に対し延喜式の公開を命令する。言を左右にして公開を渋っていた忠平であったが、およそ一〇ヶ月にも及ぶ督促の末に公開に踏み切らざるを得なくなり、延長五(九二七)年一二月二六日、延喜式が奏進された。

 公開された延喜式を見た醍醐天皇は唖然とした。なるほど確かに完成はしている。しかし、精度が低すぎる。これまでの律令や格式の全てを補完する完全なる式であると大々的に公表されていたのに、いざ見てみると、使えなくはないものの、延喜式だけで全てが片づくというほどのものではなかった。

 醍醐天皇は、公開した延喜式は不完全であると宣言し、時間をかけてでも完全なものとすることを命じた。と同時に、延喜式は公開するが、その使用は一時中断するともした。それまでは現在存在する格式で代行するようにとのことである。

 延長六(九二八)年に入ると、渤海からの亡命が目に見えて減るようになってきた。これには二つの理由がある。

 一つは、渤海の遺民が上京竜泉府を奪還し、東丹国や契丹の勢力の及ばない事実上の独立地帯とすることに成功したことが挙げられる。上京竜泉府の周辺では渤海の国号が復活し、契丹に抵抗する勢力として旧渤海の人たちを集めるようになっていた。日本に逃れてきた渤海人や北海道に渡った渤海人の中には、このニュースを聞きつけて再び海を渡って故国に帰る者も続出した。 

 もう一つは東丹国の渤海懐柔政策である。東丹国は契丹の支配を感じさせない二重構造による統治を徹底した。使用言語も渤海語で通し、税の値上げもいっさいなし。契丹への反抗以外の自由は全て保証するというのが契丹の政策であった。それまで渤海の役人であった者のうち、希望する者はそのまま東丹の役人として採用されたし、事実上はともかく理論上は東丹と契丹は別の国であるということで、契丹人の東丹国の入国に制限が掛けられた。これにより、一般庶民が契丹人と接触する回数はかなり減った。

 また、当初は上京竜泉府を首都とした東丹国であるが、上京竜泉府から撤退させられた後、遼東半島にある東平郡(現在の遼寧省遼陽)を東京遼陽城に改名し、東丹国の首都とした。契丹に帰順を誓った渤海人の多くはこのとき以後東京遼陽城に移り住むようになった。東京遼陽城は契丹本国から遠く、話される言葉も渤海語、文化も渤海であり、契丹とは違う独自の文化圏を築いた。

 契丹にとっては、渤海侵略そのものが、いったい何のための行動であったのかと思わずにいられない愚策であった。渤海の税を期待してみれば渤海からの収奪どころか旧渤海地域への税の投入となる。東の国境の平和を期待してみれば渤海人の激しい抵抗により平和どころか契丹の支配地のどこよりも政情不安な地帯となっている。長期間かけた侵略が終わってみれば、侵略によって得られると考えられていた豊かさと平和の両方が、侵略によって失われたのである。

 一方、首都を攻め落とされた新羅は滅亡が目前であり、新羅人たちは二つの選択肢を迫られるようになっていた。抵抗と逃亡である。抵抗を選んだ者は高麗や百済の前に倒れ、逃亡を選んだ者は高麗、百済、契丹、そして日本へと逃れようとした。

 延長七(九二九)年一月一三日にはそうした新羅人に対する日本側の対応が記録に残っている。対馬に漂着した新羅人たちに対し、食料を与えた上で母国に帰還するよう命じたのである。

 渤海からの亡命者は受け入れたのに新羅からの亡命者を受け入れないというのはダブルスタンダードではないかという抗議もあったが、そもそも新羅と渤海では事情が違う。

 日本と新羅は五〇〇年以上もの長きに渡って対立した国同士という関係であったのに対し、渤海と日本は、渤海が建国されてから滅亡するまで一貫して同盟国であり続けた関係であった。

 さらに、渤海からの亡命人の受け入れは過去にほとんど例がなく、ゆえに、日本人の一般庶民に渤海人との共生に対する懸念は無かったのに対し、新羅からの亡命者受け入れは歴史上何度もあったことであり、その亡命新羅人が日本国内で犯罪者と化し、反乱を起こしたことも一度や二度で済む話ではなかったことから、多くの日本人は新羅からの亡命者受け入れに拒否反応を示していたほどである。

 その上、渤海からの亡命者に対しては、本州以南に住むなら日本人になること、これまで通りの生活をするなら北海道に行くことという命令を出せたし、渤海からの亡命者も、北海道への移住は生まれ育った故郷と似通った気候の土地への移住であり、特に不具合を感じなかったという事情がある。これに対し、新羅からの亡命者に対して、日本人にならないなら他の土地へ行けという命令は出せなかった。渤海人に対する北海道に相当する土地はないのだ。

 亡命新羅人を帰国させた直後、今度は百済からの支援要請が日本に届いた。これで二度目の救援要請である。

 百済は昌泰三(九〇〇)年にかつての百済王国の復活を旗印に成立した国であり、現在では、かつての百済王国と区別するために「後百済」と呼ばれているが、当時は当然ながら「後」など付けずに単に「百済」と称しており、その歴史は古代百済王国からつながっていることを明言している。しかし、事実上はともかく名目上は、白村江の戦いで敗れた百済の王権は日本に亡命し、日本の天皇に仕える一貴族としての「百済王氏」として存在していた。百済を復活させた甄萱がその事情を知らないわけではない。それどころか、日本が百済王室を継続してくれていたおかげで百済の復活を宣言できているのである。甄萱は残忍な性質の男手はあったが、歴史観の欠けた無能な男ではなかった。

 また、百済にとって日本は重要なファクターであった。日本との国交を樹立させ、かつての日本と百済の同盟関係を復活させることで高麗に対抗できると考えたのである。唐への朝貢に失敗した以上、日本以外に外交を構築できる相手がなかったと言えばそれまででもあるが、甄萱は日本に朝貢してきたのである。派遣した船は正式な大使の乗った船であり、その手順も当時の東アジアの礼儀に則ったものであった。

 ところが日本側の回答は甄萱の予想を裏切るものであった。新羅からの亡命者と同様に扱ったのである。すなわち、食料を与えた上での国外退去を命じたのだ。これは使者を使者として認めず、ただの漂流者として扱ったということであり、国の体面をこれ以上なく傷つけるものであった。

 日本からすれば甄萱は扱いづらい相手であった。百済が新羅を滅ぼすことは目前に迫っているが、朝鮮半島に統一国家を築くとは言いづらい。高麗の勢力の方が強いのだ。個々の戦闘では百済が高麗に勝っているのに、戦争全体で見ると高麗が百済の勢力を上回り、朝鮮半島の大部分を高麗が領土としているのである。百済は、うまくすれば朝鮮半島の南半分に勢力を築くぐらいはできるがそれは日本からの援助があり続ければという条件つきであり、日本からの援助があっても朝鮮半島に統一国家を築くのは難しかった。また、朝鮮半島南部を領有する国家を築けたとしても、日本にとってはメリットのある話ではなかった。より北に強大な敵が存在し、百済が日本との防衛線を担うのであれば援助に対するメリットもあるが、そのような状況はなかった。

 また、甄萱は残忍で冷徹な男ではあったが、信頼できる男ではなかった。そして、百済はこの甄萱という個人の力量で国家を成り立たせていた。甄萱が王朝を築ければ百済は永続的な国家となれるが、それが失敗すれば百済は瓦解するのである。政治家の能力の一つである組織の永続性の構築についても、また人としての信頼についても、百済の甄萱より高麗の王建のほうが上である。大和時代や飛鳥時代の百済が日本の友好国であったのは事実にしても、甄萱の百済は国号以外につながりの持たない全く別の国であり、ここで百済に深入りすることは日本として得策ではなかった。

 醍醐天皇はこのときすでに朝鮮半島に対する姿勢を決めていた。すなわち、高麗の朝鮮半島統一を前提とした姿勢である。滅亡寸前の新羅は放っておけばいいが、建国間もない百済もすぐに瓦解すると見越して相手にしない姿勢をとったのだ。建国間もない国が滅ぶことは、ついこの間まで中国を支配していた梁という前例があった。しかも、唐の統治を継承できた梁ですらすぐに滅んだ。そのような継承のない百済はもっと簡単に消滅すると見込んだのである。

 また、朝廷の財源確保も醍醐天皇の前には厳しい現実としてのしかかっていた。時平が成功させた宗教法人への課税と大規模荘園の制限による財源確保も、忠平政権によって白紙に戻され、それが厳しい財政となってのしかかっていた。

 ただ、朝廷の財源は厳しかったが、個々人の財政が厳しくなっていたわけではない。特に大規模荘園を持つ貴族や寺社は豊かな資産のもとで裕福な暮らしを送っていた。本音を言えばその資産に手をつけたかったのである。だが、その法的根拠はどこにもなかった。荘園を制限する法はなく、荘園を制限する法のほうが廃法になったのである。犯罪に対する責任をとらせることで貴族の位を奪いその資産を没収することは法的に可能だが、藤原北家独裁、そして、道真の怨霊を前面に掲げての消極的な姿勢は、貴族の犯罪を起こさせる気力まで失わせていた。

 その一方で、庶民の生活は年々厳しくなっていた。特に地方からは武士団同士の争いによる戦乱の日常化と流民の増加、田畑の放棄、これらの結果による犯罪の増加のニュースが届いていた。届いていたが、その庶民を救う手段を醍醐天皇は持ち合わせていなかった。財政が許さないのだ。

 この上、延長七(九二九)年という一年には天災も加わる。七月にゲリラ雷雨が頻発し、京都の都市機能は幾度となく麻痺し、その都度残り少ない国家財政の中から支援に当たらなければならなかったのである。貴族たちを支援にかり出そうとしても無駄であった。「それは道真の祟り」という理由づけはともかく「道真の祟りに逆らうとより大きな祟りがある」と言い訳した上で、自分の抱え込んでいる財産の消費を拒否するのだから。

 醍醐天皇は仕方ないと言った感じで、伊勢国など六ヶ国の雑田三六一町あまりを朝廷直轄の田畑とし、その収穫を国家財政に組み込むとしたが、このような対処では焼け石に水であった。


 延長七(九二九)年一二月二四日、醍醐天皇の頭痛の種をさらに増やす問題が起きた。

 丹後国竹野浜(現・兵庫県豊岡市)に渤海使がやってきたのである。それも、大使はかつての渤海大使であった。これまでであれば同盟国からの使者として迎え入れるごく普通の使節であったが、契丹に滅ぼされた後となると話は変わる。

 この渤海使は東丹国が送ってきた渤海使であった。

 大使にかつての渤海大使を任命したのも、東丹国が渤海国の継承国家であると宣言するためであり、日本とのつながりを手に入れることで、旧渤海地域の統治を優位に進めようとしたのである。

 ところが、この渤海大使が曲者であった。東丹国王からの国書を渡さず、渤海国の状況をまとめた書状を渡したのである。渤海国が契丹に侵略され、首都は一度占領されて数多くの市民が虐殺され、国王は拉致され行方不明となっている。渤海の遺民がかつての首都である上京竜泉府を中心に抵抗運動をしているので、日本もこの抵抗運動の援助をしてもらいたいとの書状を送ってきたのだ。

 この書状を受け取った朝廷は意見が真っ二つに割れた。契丹の非道を責める者は多く、援軍の派兵を求める意見も挙がった。ただし、派遣するだけの軍事力はないとの意見で派兵の意見は消沈した。

 それに、誰もが気づいていた。渤海国の復興は不可能であろうということである。今は契丹に抵抗しているが、軍事力の差が違いすぎる。上京竜泉府を中心とする小さな地域での抵抗勢力を維持させることはできても、契丹を西に追い返してかつての渤海国を復興することは出来ないというのが誰もが認めた意見であった。

 上京竜泉府を中心とする抵抗勢力も、早々に瓦解して契丹に飲み込まれるであろう。しかし、幸いなことに契丹には海軍力がないことが判明した。海軍力がないからかつての渤海の遺産を利用するのであり、自前の海軍力があればとっくに契丹独自の使者派遣としているが、それがないということは、海を隔てている日本が契丹との関係を遠距離に置くこと可能ということでもあった。

 醍醐天皇の下した結論は、援軍の派遣は不可。渤海国の滅亡は事実であるとして認めるが、契丹が日本の同盟国である渤海を侵略し、数多くの渤海人を殺戮したことに対する正式な抗議をした上で、契丹との国交断絶を宣言。以後、一切の使節受け入れを拒否するとするものであった。これは契丹を怒らせる日本の返答であったが、海軍力を持たない契丹に海の向こうの日本に対する侵略は出来ない話であった。

 延長八(九三〇)年、醍醐天皇の決断が正しかったことが判明する。

 東丹国王耶律倍が唐の首都である開封に亡命。契丹皇帝耶律堯骨による旧渤海領地の直接統治が始まったのである。直接統治と書けばまだ格好は付くが、実際のところは契丹の旧渤海領地に対する大規模攻撃であり、渤海の遺民たちは絶望的な抵抗を見せた後、生き残った者は亡命するか奴隷となって売り飛ばされるかという悲劇が待っていた。その後も名目上は東丹国が存在したが、もはや渤海国をイメージさせる地域ではなくなった。

 戦闘では高麗王の王建に勝っていた百済王甄萱も、この年になると敗北を重ねるようになる。得意としていた戦闘で高麗軍に敗れたのである。それまでは戦闘以外の外交や民政で後れをとることで、戦闘で勝っても戦争に負けていた百済であったが、この年を契機に戦闘でも戦争でも負けるようになったのである。その上、甄萱は甄氏を王統とする世襲制の王朝を築こうと画策していたが、長男の甄神剣、次男の甄良剣、三男の甄龍剣の三人が父とそりが合わず、四男の甄金剛を王位継承者とするなど、宮廷内部の統制に失敗していた。

 渤海、新羅、そして百済と、戦闘の末に国が滅びるのを目の当たりにしている醍醐天皇は、その余波が日本国内に及ばないことを念頭に置いた外交を展開し、それは成功した。

 ところが、国内統治を見ると大問題が待っていた。

 道真の怨霊の噂である。より正確に言えば、道真の怨霊を名目に掲げての政務ボイコットである。

 醍醐天皇ただ一人が宮中で奮闘し、左大臣藤原忠平をはじめとする貴族たちは最低限の政務しか行わないという日常が展開されていた。醍醐天皇からのトップダウンだから政治そのものはスピーディーに展開されるが、一個人にかかる負担が大きすぎる。本来ならば左右の大臣や、大納言、中納言、参議といった貴族たちが政務のサポートをするべきなのに、道真の怨霊を前面に掲げて何もせずにいる。それでいて、私財を増やすことには熱心になっている。道真の怨霊は何とも都合良く解釈されるものであった。

 その道真の怨霊の噂は民衆の間にも広まっていて、風邪の流行も、地震も、雷も、雨が降らないことでさえも道真の怨霊のせいになっており、その怨霊が晴れない理由はどこかにあるのだと考える者は多かった。ただし、それが誰なのかを特定できた者はいなかった。特定の個人名の挙がらぬ、漠然としたイメージでの「貴族の誰か」というのが、このときの民衆に広まっていた道真の怨霊の犯人像であった。 


北野天神絵巻


 その雨が降らないことへの対策を開いていた延長八(九三〇)年六月二六日、道真の怨霊の噂がピークを迎える事件が起こった。

 干害に対する雨乞を行うべきか否かについての会議を清涼殿で開催するという連絡はこの前日までには行き届いており、貴族たちは清涼殿に集っていた。通常、貴族の政務というのは午前中に集中しているので、こうした臨時会議は午後に開催される。

 ところが、この日の午後、現在の時制に直すと午後一時頃より愛宕山上空から黒雲が広がり、平安京を真っ暗にしただけでなく、それまでの干害が嘘であるかのようなゲリラ雷雨となった。

 ゲリラ雷雨は京都市内に激しい雨を降らせただけでなく、各地に雷を落とした。その落雷した場所がよりによって清涼殿の南西にある第一柱。その衝撃は清涼殿にいた貴族や役人を巻き込み、大納言で民部卿の藤原清貫が即死。さらに藤原清貫の衣服が焼けて周囲に飛び火し、右中弁で内蔵頭の平希世も炎に包まれた。平希世の炎は何とか鎮火したものの顔は大ヤケドを負っており身動きできない状態となっていた。清貫の遺体は陽明門から運び出され、重傷を負った希世も修明門から車に乗せられて秘かに外に運び出されたが、車中で死亡が確認された。

 雷は清涼殿の隣にある紫宸殿にも落ち、右兵衛佐美努忠包が烏帽子と髪を、紀蔭連が腹を、安曇宗仁が膝を焼かれて死亡、更に警備の近衛も二名死亡。清涼殿にいて難を逃れた貴族や役人は大混乱に陥り、醍醐天皇も急遽清涼殿から常寧殿に避難した。

 天皇がいる清涼殿に落雷しただけでなく、最低でも七名が亡くなるという惨事に京都市民は恐怖に陥り、道真の呪いはもはや取り返しのつかない大問題になっていると誰もが考えるようになった。そして、最初に亡くなった藤原清貫は、道真が太宰府にいたときに太宰府に派遣されたことがあったのだが、道真の要請による対新羅の警備のサポートであったはずの太宰府派遣が、時平の命令による道真の監視のための太宰府派遣になり、道真が亡くなったときにはもう京都に戻っていたのに、道真を殺したのは藤原清貫だということにされた。

 そして、この恐懼は醍醐天皇へも飛び火した。

 道真を追放したのは醍醐天皇であり、醍醐天皇が帝位にいる限り道真の呪いは終わらないという噂がまことしやかに話されるようになり、道真は雷を操る天神になったのだという噂が広まった。

 清涼殿への落雷は醍醐天皇の心中を穏やかならざるものにさせた。何の前触れもなく目の前で二人が即死し、隣で五人が亡くなったのである。丁重な葬儀を命じるとともに、京都市中に広まる動揺を抑えるために道真の怨念の全てを藤原清貫に押しつけ、藤原清貫が亡くなったことで怨念は全て晴らされたという公式声明を出すこととなった。

 ところが、まさにその公式声明を出したタイミングで京都市中に疫病が広まったのである。どのような疫病かは記録に残っていないが、ゲリラ雷雨が水害を招き、水害が収まったと同時に疫病が流行るというのはよくある図式である。ただ、よくある図式であってもタイミングが最悪すぎた。ただでさえ道真の怨念で動揺しているというのに、その最中に疫病が広まったのである。この疫病もまた怨念であるという考えが広まるのに時間はかからなかった。

 その上、醍醐天皇がその疫病に罹かったのである。醍醐天皇は床に倒れて身動きできなくなり、命の危険さえ噂されるようになった。それでもおよそ二ヶ月は病床にあって政務を遂行したのである。ただし、責任感あふれるその行為も、醍醐天皇の体調には悪影響しかもたらさなかった。

 延長八(九三〇)年九月二二日、醍醐天皇は退位を表明。わずか七歳の皇太子寛明親王への譲位を発表し、新天皇の伯父である藤原忠平の摂政就任を命じた。朱雀天皇の在位はこの日より始まり、藤原基経の死去から三九年を経て摂関政治の復活が決まった。

 それから七日を経た延長八(九三〇)年九月二九日、醍醐上皇崩御。享年四六歳。

 京都市民は道真の怨霊がこれで鎮まると考えた。だが、醍醐天皇の死はこれから始まる地獄の日常のスタートでもあった。