貞信公忠平 4.反乱勃発
関東地方で平氏同士の争いが展開されているというニュースは京都にも届いていた。届いていたが、京都に届いたとき、そのニュースはその他大勢のニュースの一つに紛れ込んだ。
ではそのとき、京都にはどのようなニュースが届いていたのか。
圧倒的な割合で話題を占めていたのは、何といっても瀬戸内海の海賊である。特に、伊予国の藤原純友の率いる海賊が最大の問題であった。瀬戸内海と山陽道という当時の二大幹線を制圧しただけでなく、四国北部もまた海賊の支配下に入ってしまったからである。
そして、関東地方からは戦乱のニュースが届くだけだが、瀬戸内からは海賊が暴れ回っているというニュースだけでなく、数多くの民衆が殺害され、家を失い、田畑を失い、難民となっているという知らせも届いていた。また、海賊に襲われ殺害されるだけでなく、奴隷として船を漕がされ、あるいは国内外に売り飛ばされているというニュースも届いていた。
このあたりが平将門と藤原純友の違いである。全くの同時代の人間でありながら、荘園領主として数多くの庶民を護る立場になった平将門と比べ、庶民のことなど全く考えない藤原純友の評伝は少ない。多くの歴史書でも藤原純友は平将門の時代に瀬戸内海で暴れていた海賊という記され方をするのみであり、藤原純友を単体で取り扱うことはほとんどない。ついでに言えば、後世、怨霊だの、呪いだのという形で語り継がれているのも将門だけであり、藤原純友はオカルトの分野にも顔を見せていない。つまり、重要度では将門は純友を凌駕しているのである。
しかし、この時代の評価は完全に逆であった。最重要問題は瀬戸内の海賊対策であり、関東地方の争乱など大して被害者も出ていない些事だったのである。研究者によっては、遠く離れた関東地方の争乱より、目と鼻の先の瀬戸内海の争乱のほうを京都では重要視していたからだとする人もいるが、私はそうは考えない。何と言っても被害者の数が違いすぎるのだ。
忠平が最優先政策に掲げたのも海賊対策であり、海賊討伐のための人事を何度となく発令している。また、神仏に祈りを捧げるのも争乱の鎮圧ではなく海賊の鎮圧である。
この海賊のニュースの中に紛れるように、朝鮮半島から一つのニュースが飛び込んできた。
朝鮮半島の戦乱が終了したのである。
この前年、百済国王の甄萱が、自分の息子である神剣、良剣、龍剣の三人に幽閉され、甄萱の後継者とされていた金剛が殺害されるという事件が起きた。甄萱の子は、長男の神剣、次男の良剣、三男の龍剣、そして、四男の金剛という構成である。三人の兄を差し置いての四男の後継者就任はそれだけでも家督争いを混乱させるものがあるが、この混乱にはさらに続きがある。
幽閉されていた甄萱が脱走しただけでなく、高麗のもとに亡命したのである。その上で、自分の三人の息子を打倒するための軍勢派遣を高麗王の王建に依頼したのだ。百済王国はこの瞬間に滅亡したと言ってもよい。甄萱の要請により軍勢を派遣した王建は、戦闘の末に神剣を破り、良剣と龍剣を拿捕した。捕らえられた良剣と龍剣は流刑となり、高麗王国によって朝鮮半島は統一された。
王建は自らの国家を古代高句麗王国の継承国家であると宣言し、同じく高句麗の継承国家である渤海の領域は全て高麗王国の領土であると主張。渤海を滅ぼした契丹は高麗のこの主張に激しく反発し、一触即発の事態となった。
王建は日本に対し、旧渤海と結んでいたのと同様の同盟関係を申し出たが、京都からの返答は関係拒絶。いくら高麗が高句麗の継承国家であると宣言しようと、当時の日本の感覚では、一〇〇〇年間もの長きに渡って敵国であり続けた新羅の継承国家でもあるのだ。日本の高麗に対する態度も、渤海に対する友好的な態度ではなく新羅に対する敵対感情になるのもやむを得ないことであった。
承平六(九三六)年七月一三日、太宰府より、呉越国から使者が日本にやってきたことの連絡が届いた。呉越国は長江の河口流域に成立していた国で、唐から王権を認められた中国の地方政権の一つであった。日本の公式な見解としては、中国の国家はあくまでも唐であり、いかに独立性を持った国家として存在していても、唐ではない以上それは単なる地方勢力である。その国から使者が派遣されたということは、一地方政権を国家として承認し、対等な国交を持つということになる。
当然ながら、呉越国からの使者の受け入れを反対する声が続出した。地方政権と国交を持つのは国の威信に傷がつくというのである。
しかし、承平六(九三六)年八月二日、忠平は摂政の名目で呉越王に書状を送る。天皇の名は出さなかったが、天皇に匹敵する権威を持つ摂政が正式な書状を呉越国へ送るというのは、正式な国交を結んだも同然であった。
批判に対する忠平の意見は確かに間違ってはいなかった。かつての大唐帝国は既に無く、唐を滅ぼした梁も、梁を滅ぼして復活した唐も、中国の地に存在する地方政権の一つにすぎない。中国の地は統一された国家ではなく、複数の国家が群雄割拠する地となっており、海を隔てて隣接している呉越国との折衝は国の安全を守るために不可欠だという意見である。
確かに忠平の言うとおりであろう。だが、摂政として書状を送ったのは政治的に失敗であった。天皇は王ではないし、天皇家は王家ではない。外交において天皇が対等に接するのは皇帝のみであり、皇帝より格下の国王と対等に接するのは断じて許されない話である。
かといって、左大臣では相手に対する失礼になると考えたのであろう。天皇の権威は国王より上だが、国王の権威は大臣より上なのだ。
それへの回答が太政大臣であった。太政大臣は他国の国王と同等の存在と扱われる。承平六(九三六)年八月一九日、左大臣藤原忠平が太政大臣に昇格。藤原基経の死去から四五年を経て太政大臣が復活した。これ以後、国外との折衝は、摂政藤原忠平ではなく、太政大臣藤原忠平の名が使われることとなる。
そして、このときの太政大臣就任は忠平の政権運営に二つのメリットを与えた。
一つは政権の正当性である。摂政にして太政大臣であるという先例は過去に二度ある。清和天皇の時代の藤原良房と、陽成天皇の時代の藤原基経の二度である。ここで忠平が太政大臣に就いたということは、良房、基経と続いてきた政権の正当性が確立されたということでもあった。
二つ目は太政大臣に与えられている権力の大きさである。このときの国内外の混乱を考えたとき、いかに摂政であるといえど、左大臣というレギュラーな官職では対処しきれなかった。左大臣は人臣最高の位であり、その発言にはかなりの権威が付随するが、それはあくまでも重要な意見であり、最終決定となる意見ではない。左大臣一人が賛成しても他の貴族が反対ならば、それは反対になるのだ。
だが、太政大臣は違う。他の貴族と協調することなく独裁権力を振るえるのである。他の貴族がいかに反対しようと太政大臣が賛成したらそれは賛成になるのだ。
それまでにも忠平は独裁を展開したことがある。ただしそれは摂政としての権威を利用してのものであり権力によるものではない。つまり、正当性が薄いのだ。摂政の権威に基づく政策展開は忠平という一個人の力量に寄るため、忠平が亡くなったらその瞬間に政策が頓挫する。
だが、太政大臣となると話は変わる。忠平の身に何かあっても、誰かが忠平の政策を頓挫させようという意図的な行動を起こさない限り、政策は頓挫しない。
承平六(九三六)年九月七日、源護の訴えに基づく召集命令が、平将門と平真樹、そして源護へ届いた。
将門はこの召集命令を全く予期していなかったと史料は伝える。ちなみに、この召集命令の宛先は、個人ではなく、常陸、下総、そして下野の三ヶ国の国衙である。京都から国衙に飛んだ命令の内容は、国司の責任で京都まで連れてくることという内容であった。
この命令を受けた将門は、当時としては異例のスピードで京都に向かっている。九月七日に命令が届いて、一〇月初旬には京都に着いたというのだから、相当な強行軍であったろうと推測される。
京都に着いた将門が向かったのは忠平の住まいであった。かつての主君の邸宅であり、かつ、かつての自分の職場でもあるのだから、京都でもっとも慣れ親しんだ場所であると言っても良い。
自分の邸宅を訪問した将門と面会した忠平は、将門からの主張を聞き入れたと史料にはある。面会の詳細な様子は伝わっていないのでどのような会話が成されたのかはわからないが、推測は可能である。
まず、この時点で京都に届いている情報は源護から出された訴えと、実際に戦闘があった地域からの定期連絡の二種類しかない。そして、源護の訴えはともかく、戦闘地域からの連絡も将門側にとっては不利な内容であったと推測される。
将門と戦闘をした平良兼は現役の下総国司である。業務だから連絡をするが、敗戦の連絡を嬉々としてするわけはない。敗戦は事実だから書かねばならないが、戦闘に至るまでの経緯は相当な割合で将門を貶す内容であったろうし、将門の悪行ゆえに戦闘をしなければならなかったという自己弁護も繰り広げられているであろう。平良兼からの定期連絡には、今は正義が成されていない状態であり、朝廷の力で正義が成されることを求めることが記してあったと推測できる。
また、その他の国司からの定期連絡も似たようなものであった。何しろ将門は人と農地を奪っているのである。それは国司にとって税収の減少となって跳ね返る。税収の減った地方自治体の運営は厳しくなったであろうし、この時代、国司を一期勤めれば一生生活できるだけの収入を得られたとも言われているが、その収入源は税収であったから、税収減は国司の獲得できる私財の減少にもつながる。公人としては地方統治を困難にさせた将門への怒り、私人としては儲けを減らした将門への怒り、こうした怒りが定期連絡に記してあったはずである。
もっとも、書状のトーンには違いがあったとも考えられる。息子三人を殺された源護からの連絡は将門をこれ以上ない大悪人に仕立て上げたものであったろうが、国司からの定期連絡はもう少しトーンの落ちたものであった。
この後の展開はそうでなければ説明ができないのだ。
将門への査問は承平六(九三六)年一〇月一七日に始まった。
将門を問いただすのは検非違使庁である。つまり、将門は犯罪者として査問を受けることとなったのである。
ところがその問いただしの口調が弱いのである。まるでその査問自体が何かのセレモニーであるかのようにあっさりとしたものであり、将門の行動は無罪ではないにしてもせいぜい微罪に留まるとされ、刑罰はごくわずかしか下らなかった。裏で忠平が手を引いていたからだとする説もあるほどで、これではいったい何のための査問であったのかというほどであった。ちなみに、訴え出た側である源護のほうは何らお咎めなしである。
京都では、これで関東の争乱が収まったと考えた者が多かった。何しろ将門は現状維持以上を要求しなかったのである。現時点で勢力を掴んでいる地域を保持する宣言はしたものの、それ以上の拡張は求めなかったし、攻め込まれたら抵抗はするが将門からは攻め込まないと宣言したのである。これが守られれば平和になると誰もが考えたのだ。
将門にとってこれはありがたい決定であった。将門の現在の勢力を朝廷が承認したという事でもあり、将門の敵の行動はこの判決によって大幅に制限されることとなる。
この上で、将門は自分が帰郷する前に、その判決を関東地方に届けたのである。
判決を受け取った関東地方では絶望が漂った。将門の勢力が朝廷によって保証されただけでなく、ついこの間まで自分の勢力であった地域を奪い返そうとする行為が朝廷の意向に逆らうこととなるのである。
この報せを受け取った平良兼は将門への対抗のための即時の行動は不可能であると判断した。とは言え、行動を諦めたわけではない。将門の誓約は絶対のものではなく、何と言っても、将門は攻めてこない限りは戦わないと言ったのであって、何があっても攻め込まないとは言っていないのである。ということは、将門を挑発して将門の側から攻め込ませる状況にしてしまえば誓約は終了し、堂々と将門の側へ攻めていくことが可能となるのである。
平良兼は上総国を中心に兵を集め、将門へ対抗する軍勢を作りつつあった。
一方、その間、将門は京都に留まって量刑に服していた。ちなみに、将門がどのような刑罰を受けていたのかという記録はないが、牢に入れられるようなことはなく、京都市中を色々と出歩いている記録がある。
ただし、一部に語り継がれているように、将門がこのときに藤原純友と直接会って互いの今後の方針を確認したという記録はない。忠平の親族である藤原純友と、忠平のもとに仕えていた平将門とが、互いに全く面識がないということはなかったであろうが、ただ単にたまたま同時期に戦乱を起こしたというだけで、互いに打ち合わせをした上での行動というわけではなかった。それに、将門は全くの無位無冠の武人であったのに対し、藤原純友は、藤原北家の人間でありながら貴族になれなかったという境遇ではあるにせよ、従七位下伊予掾という地位は得ている。これは海賊鎮圧のために与えた特別の権威であるが、それでも、いかに桓武天皇の血を引く身であろうと理論上は全くの無位無冠の庶民でしかない平将門とは比べものにならない身分の差が存在する。
戦乱を起こした後の将門の生涯を追うことができるのは将門の半生を記した同時代史料が存在するからで、同時期に戦乱を起こした藤原純友の生涯を追うのが困難であるのは純友をメインに据えた同時代史料が存在しないからである。ゆえに、純友の行動の行動は他の史料の積み重ねによるしかない。
その積み重ねの結果であるが、一概に海賊と言ってもその構成は一般的な海賊と一般的ではない海賊の二種類があり、純友の軍勢は一般的ではないほうの海賊であったことが判明している。
一般的な海賊というのは、生活苦を原因としている。生きていくために襲って奪うことを選んだ結果の海賊行為であり、瀬戸内海に海賊が続発していたのも、瀬戸内海がこの時代の大幹線航路であったからである。
貧困ゆえにその日の食べ物にも困る暮らしを強いられているのに、物資を山積みにした船が途切れることなく東西へと航行している。「目の前の船の荷物を手に入れることができたならば」と考え、実行したらどうなるか? その答えが海賊であった。
さらに、奪うことのできる資源は船だけではない。船から荷物を降ろしたところを狙ったらどうなるか? あるいは、収穫に恵まれた農地に襲いかかっていって収穫を奪ったらどうなるか? 人間を拉致して奴隷商人に売れば利益になると知った海賊が奪う物が何もない貧しい村落に襲いかかっていったらどうなるか?
それが瀬戸内海に多発した一般的な海賊であった。
しかし、効率的ではない。
一般的な海賊は自分たちの今の生活だけを考える。他の者のことも考えないし、自分たちの未来のことも考えない。ただただ、現在の欲望を満たすことだけを考えて行動する。既に存在するものに襲いかかって奪うだけであり、何かを生み出すということがないのだ。村を襲った結果、その村は灰燼に帰してしまい、誰一人住まない無人の荒野になったらもう襲えない。まともな感覚の持ち主ならばただ一度の略奪ではなく、支配下に置いて生産を続けさせ恒常的な収奪を続けることを考えるが、海賊は後のことなど考えないから一度の略奪で何もかも奪ってしまい、後のことは考えない。それに、海賊があまりにも頻発すると、被害を受ける側は海賊から身を守る手段を考えるものである。海賊に近寄らないという手段をとることもあるし、あるいは海賊に抵抗するだけの武力を手に入れるという手段を選ぶこともある。そうなったら海賊はビジネスとして失敗である。生きていくための海賊行為なのに、励めば励むほど生きにくくなるのだ。
実際、一般的な海賊は年々減ってきていたのである。
だが、一般的ではない海賊が増えてしまったのだ。
一般的ではない海賊とはどういう存在か?
純友率いる海賊集団の構成は純日本人ではない。かなりの割合で新羅人が混ざっており、船団の中で使われていた言葉は日本語だけではなく新羅の言葉も混ざっていた。船によっては新羅語が公用語で日本語は使われないケースまであった。だが、構成員の全てが新羅人というわけではなく日本人もいた。それも、意外なほど血筋の良い者が散見された。藤原北家の一員である純友自身をはじめ、他の藤原氏も、平氏も、源氏も混ざっているのだ。ただし、血を引いてはいても中央での地位は低いか、あるいは、持っていない。血筋の良さだけならそこいらの役人には手も足も出ないものがあるのに、社会的地位が低く、役人のほうが格上になっているのである。
忠平の推進した藤原独裁の結果、中央での出世を諦めて地方に活路を見いだすことにした貴族は多く、荘園経営で莫大な資産を築く貴族も多かったが、その資産が子供や孫の代まで残っているとは限らなかった。財産分与があれば一人当たりの資産は経るし、経営に失敗しても資産は減る。誇りは高いから一般庶民に混ざるつもりはないが、地位も低く生活も苦しいという現実がある。
特に問題なのは、地方官として京都から赴任してきた者が、自分より血筋の良くない者や、自分と能力の変わらぬ、あるいは自分より劣る能力の者であるときであった。「なぜ自分がこんな奴の支配を受けなければならないのか」という疑念を抱いた結果の反抗が、一般的ではない海賊であった。
一般的ではない海賊というのは実に良く組織化されている。生活苦の穴埋めも目的の一つではあるが、より重要な目的は反乱を起こしている行為そのものであり、彼らに言わせれば「不公正な統治」からの脱却を目的としていた。そして、海賊集団の外は「不公正な統治」が続いているので、海賊集団の外に対しては何をしても良いが、海賊集団の内部は「正当な統治」として秩序だった社会が形成されていたのである。
簡単に言えば、海賊の一員になり、海賊行為に貢献すれば、生活を保証するということであった。
一般的な海賊は、個人や家族、もう少し広げても集落単位のことしか考えず、明日のことは明日考えるという無秩序無計画な集団であったが、一般的ではない海賊は、集団全体のことを考えるし、明日のことも、未来のことも考える。しかも組織化されている。一般的な海賊ではどうあがいても襲うことのできなかった武装集落にも襲いかかることができるし、通常は土着の武士が守りを固める官公庁にだって襲いかかれる。それに、他の海賊集団だって襲いかかる対象にできるのだ。
一般的な海賊は文字通りの犯罪集団であり現在では警察の取り締まりの対象であるが、一般的ではない海賊は単なる犯罪集団とは言い表せない反国家分子であり、現在だと、よほど武装を固めた機動隊とか、あるいは自衛隊でなければ太刀打ちできない集団になってしまっていた。
このあたりが将門と純友の違いである。将門も純友も自軍の拡張を図ったが、将門は内部に庶民を抱え込んで庶民の暮らしを保護したのに対し、純友は自分たちの集団を増やすことには熱心になっても周囲の庶民は襲う対象にすぎず、暮らしを護ろうなどという意欲すらなかったのである。
それでも、純友率いる海賊集団は、伊予国日振島を根拠地として一〇〇〇艘もの海賊船を所有する大集団となっていた。海賊に襲われない手段は三つある。一つは海賊から遠ざかること。一つは海賊に抵抗できる武力を手に入れること。そして最後の一つが、自分も海賊集団の一員になってしまうことである。純友にとって、海賊でも何でもない庶民は略奪の対象でしかなかったが、少なくとも海賊の一員であれば保護の対象になったのである。ただし、良心の呵責はかなりあったと見えて、後に集団が瓦解するきっかけにもなっている。
承平六(九三六)年一一月一四日、中国に一つの動きがあった。
契丹の援助により晋(後晋)が唐(後唐)を滅亡させたのである。晋は援助の見返りとして、契丹に燕雲一六州を割譲した。復活なった唐はわずか一三年の命であった。最後までかつての大唐帝国の復活は実現せず、滅ぼした晋も領土割譲を余儀なくされるなど、正当性以外を持たない小規模国家に留まることとなった。中国は完全に、後に五代十国と称される群雄割拠の世界となったのである。
群雄割拠の中国と入れ替わるように統一を見せたのが朝鮮半島である。この年、高麗が百済を滅亡させて朝鮮半島の統一に成功した。高麗国王の王建は、高麗が旧高句麗だけでなく、旧新羅と旧渤海の双方の継承国家であることを宣言するが、渤海の領土の多くは契丹の領地となっており、事実上新羅だけの継承国家に留まった。
かつての渤海の領域での渤海の遺民の抵抗も気がつけば消えてしまっていた。そして、この勢いは国の外へと広がっていた。
晋からの領土割譲に成功した契丹であるが、それで動きを留めるつもりはなかった。二方向に向けての侵略を開始したのである。一つは南の晋、もう一つは南東の高麗。
朝鮮半島を統一した高麗も、統一したからと安堵はできなかった。南から日本が攻めてくることはなかったが、北から契丹が何度も攻めてくるのである。契丹の言い分としては、高句麗の継承国家が渤海であり、渤海の継承国家が契丹である以上、同じく高句麗の継承国家を自認する高麗は契丹の一部でなければならないとする言い分である。何とも無茶苦茶な言いがかりであるが、国家の正当性を歴史に求めると何とでも言いがかりをつけられるというのは今に始まった話ではない。今との違いを挙げるとすれば、現在は言いがかりをつけているほうが、この時代は言いがかりをつけられているほうだという点か。
契丹からの侵略に対し、高麗は日本の支援を求めてきた。しかし、日本からの回答はなかった。契丹の侵略を批判する声明は出したが、高麗に援軍を派遣して高麗を護るという回答は最後まで出さなかったのである。海外に兵を出せる余力があるなら、関東や瀬戸内海の戦乱を鎮圧できている。それに、契丹は高麗への侵略はしていても日本へは侵略していないし、日本と契丹との間は、民間の交易ならばあるが国としての正式な折衝があるわけではない。現状のままで何の問題もないのに、ここで高麗の支援を表明することは契丹からの侵略を受ける可能性を増やしてしまうのだ。これでは契丹による高麗侵略が人道的に問題だと感じても動くに動けない。
承平七(九三七)年一月一日、東海道、東山道、山陽道などの追捕使に藤原忠舒(ふじわらのただのぶ)・小野維幹・小野好古など一五人を任命した。
現在は関東地方と一括するが、当時の概念では、上野国と下野国、現在で言う群馬県と栃木県は東山道であり、その他の国が東海道である。いかに文化的な近さがあっても行政区分としては全く別であり、人を任命するにも道を単位としていた。そのため、下野、下総、常陸の三ヶ国の国境付近で起こっている問題を鎮圧するにも、下野国が属する東山道と、下総国と常陸国が属する東海道の二つの担当者を派遣しなければならなかったのである。
元日に追捕使の任命をしたのは忠平の意欲の現れではあるのだが、根本解決に向けては動いていない。承平七(九三七)年一月二二日、右大臣藤原仲平が左大臣に昇格し、後任の右大臣に藤原恒佐が就任したのである。藤原独裁はますます強まったのだ。
どういう理由で東西の戦乱が起こったのか理解していなかったとするしかない。藤原独裁を強め、藤原氏だけで上級の官職を独占し、そうでない者はことごとく除外してきた結果が現在の戦乱なのである。
氏族に関わらない実力による人事登用をしておけば、少なくとも地方にくすぶって未来を絶望視し、今を生きるために法の定めを越え、戦乱に訴えるまでに成長することはなかったのである。忠平は言うだろう。全ては政局の安定のためだと。だが、忠平ほど徹底しなくても政局は安定できたのである。冬嗣も、良房も、基経も、時平も、藤原氏だけで権力を独占するなど考えもしなかった。自分の意に添う人材であるかどうかは判断基準にしたが、藤原氏であるかどうかを判断基準にすることはなかったのである。
それに、いかに国外は国が滅ぶかどうかという混迷にあったとは言え、忠平のように徹底した安定を求めるとかえって環境の変化に耐えられなくなる。戦後の日本だって、天下りとか、談合とか、自民党の長期政権とか、この国を発展させるのに適したシステムを作り上げたが、時代のほうが変わってしまってそのどれもが否定されてしまっている。時代に合わせた最良のシステムを作っても、時代のほうが変わってしまったらシステムはメリットよりデメリットのほうが強くなるのだ。
だから、時代に合わせたシステムの変化が求められる。つまり、改革である。改革というのは、題目としては仰々しいが、要は時代とシステムの乖離が激しくなったとき、システムのほうを手直しして時代に合わせることに過ぎない。安定した五年間の忠平の行動により、藤原独裁のシステムはより強固なものとなっただけでなく、誰が携わっても一定の結果を残せるようになった。これは忠平の手による時代に合わせた改革である。だが、一度改革を成し遂げシステムを作り上げた人間に、「今のシステムでは時代に合わないからシステムを壊して新しいシステムを作り上げなさい」と命じてうまく行くことは極めて珍しい。多くの場合は改革することそのものを拒むし、改革したとしても中途半端なものにとどまって結果を出さない。
なぜか?
それは一度成功しているからである。一度成功した者は、その成功を否定することを認めない。どんなに時代に合わなくなったとしても、本人は時代に合わなくなったことを認めないか、認めたとしても少々の手直しに留まって抜本的な手直しをしない。
アメリカという国に対する意見には賛否両論あるが、大統領が最低でも四年間の任期を保証されるだけでなく、最長でも八年の任期しか持てないというのは評価されるべきことである。日本のように毎年首相が替わるというのは論外だが、長期政権は自己改革が難しい。大規模な改革は政権発足当初に集中し、あとはシステムの現状維持というのが一般的な形であり、システムが安定して稼働している間は国が発展して経済も向上し生活も良くなるが、時間の流れとともに発展も向上も鈍化し、次第に下降線をたどるようになる。そうなる前にシステムを改善できる仕組みを用意できているというアメリカの仕組みは見習うべきところがある。
そして、もう一つ見習うべきところがある。それは、権力から離れた者は権力に固執することが少ないという一点である。元大統領というのはアメリカにとって、あるいは政党にとって重要なカードであり、外交などで表舞台に立つことも多々あるが、基本的にはホワイトハウスを去ればただの人であり、次の政権に口出しをすることはない。
逆に、過去の成功者が権力にしがみつく、あるいは、権力からは離れたのだが影響力は持ち続け、口出しも止まらないというとき、システムの改革は絶対に失敗する。かつては隆盛を極めた企業であったのに、時代とともに衰え、今では見る影もなくなってしまった企業はたくさんあるが、それらの企業に共通しているのは、OB会の強さ。現場の第一線から去ったのに、過去の成功体験にしがみついて、退職してもなお現場に口出しするようになるとその企業は絶対に失速する。
この時代も同じだった。忠平は一時代を築いた過去の人であり、もはや改革は望めない人材になってしまっていたのだ。成功体験に加え、揺るぎない長期政権。しかも、改革どころか逆行している。優秀な人材を埋もれさせ、地方の問題の解決にも動けていない。これで暮らしが良くなるとしたらそのほうがおかしい。
承平七(九三七)年四月七日、朱雀天皇の元服に伴い、将門に下されていた処罰の中止が決まった。
将門は直ちに京都を離れ故郷へと戻っていった。四月七日に恩赦が決まって京都から解放されたのだが、五月一一日にはもう根拠地に戻ったというのだから、これまた異例のスピードとするしかない。
このスピードだと、おそらく、恩赦が決まったというニュースが関東に届く前に将門が根拠地に到着していたであろう。古代ローマのカエサルは情報収集力に加え行動の早さでも敵を圧倒しており、軍勢出発のニュースが敵地に届く前に軍勢を敵地に集結させることも始終であったと言うが、将門もこういうタイプの人間であったのだ。
これは、平良兼にとって想定外の事態であったとするしかない。
出頭命令のニュースを聞いたとき、将門はもう京都に向かっていた。将門不在のタイミングを見計らって行動しようと考えたときには、現状維持を命じる朝廷からの命令が届いた。そして、査問の結果、将門が有罪となったとのニュースが届いたと思ったら、恩赦になって京都に戻ったという知らせが届く前に、将門自身が根拠地に戻ったというニュースが届いた。
これでもかと裏をかく将門に対抗するには、良兼のほうも裏をかくしかないと考えたのだろう。情報がいつの間にか将門の元に届いてしまうのだから、情報を知る人自体を少なくしなければならない。ゆえに、これ以上なく極秘の計画が立った。
農作業の忙しい最中に兵を集めることは困難である以上、農作業の手の空いたタイミングを見計らっての軍勢集結を余儀なくされる。とはいえ、丸一日田畑を離れることが許されない日が続くというわけでもないし、目的地はそれほど遠距離というわけでもない。つまり多少は無茶できるのである。
その結果が八月初頭の突然の軍勢集結命令であった。命令を受けた農民も驚きを隠せなかったが、数日のみであることに加え、軍勢に参加すれば年貢を軽くするという通達もあり、突然の命令であるにも関わらず良兼は軍勢集結に成功した。
もはや明白であった。良兼は朝廷の命令を無視するつもりなのだ。将門が武力を使って手にした領地を朝廷が認めたなら、良兼が武力で取り戻した領地だって朝廷は認めなければならない。もっともそれは後付けの理屈であって、理屈なんか無視して武力で行動するというのがこのときの良兼の意志であった。
承平七(九三七)年八月六日、良兼率いる軍勢は、下総国と常陸国の境にある子飼(史料にっては「小貝」や「蚕養」とも記されている。読みはいずれも「こかい」)の渡しに押し寄せた。
いかに平将門が情報収集能力に長けていようと、この時期のこのタイミング、しかも平良兼がこれ以上無い隠密行動をとったとなると、さすがに劣勢になってしまう。それでも平将門は、平良兼の軍勢集結の情報を入手し、満足行く人数ではないにせよ軍勢を率いて対峙はできた。だから、全くの無抵抗とはならなかった。
しかし、良兼の軍勢の先頭については将門の情報収集能力でも読めなかった。
良兼は、将門の祖父であり良兼の父でもある高望王と、良兼の弟で将門の父である平良将の像を陣頭におし立てて攻め寄せたのだ。この像は現存しておらず、また、史料によってばらつきがあるので断定はできない。木彫りの像であったとする史料もあれば、掛け軸に描かれた肖像画であるという史料もある。
この像の前に将門の軍勢は押し黙ってしまった。人間でも何でもないただの像ではないかと考えるのは現在の考えであって、この時代の人間にとって、亡き父や先祖の像に対して弓矢を向け、刃を向けるのは断じて許されぬ行為であった。将門は良兼を卑怯千万と罵ったが、戦闘というのは卑怯だろうと何だろうと勝てばいい。そして、この戦闘で良兼は勝った。戦う前に将門が負けていたというほうが正しい。
また、像があって意気消沈していたこともあるが、将門が敗れた最も大きな理由は満足な軍勢を集結できなかったことである。平良兼が攻め込んでくるという情報を掴んでからの時間が足らなすぎた。将門が集めることの出来た軍勢だけでは良兼の軍勢に抵抗できず、身を守るのに精一杯だったのである。
そのため、平将門が選んだのは逃走だった。
最終的な勝利を手にするならば、良兼はここで将門を追撃するべきであった。それなのに、良兼の軍勢が行ったのは略奪と暴行であった。将門の元で暮らしていた人たちの家を襲い、倉の食料を奪い、女性はレイプされ男性は殺され、そして、建物も田畑も全て燃やし尽くしたのである。
逃げ延びた将門は伯父の蛮行に怒り狂ったと伝えられている。そして、逃げ延びた者を集めて軍勢とし、伯父への復讐戦を誓った。
将門のこの行動は良兼の予期するところであった。そして、良兼は将門よりも先に軍勢を集め、出来合いの将門の軍勢と大方郷の堀越で向かい合った。史料によれば、このとき将門は足の病に倒れていたとある。一方、良兼の軍勢が高望王や平良将の像を掲げたという記録はない。
戦闘の様子の詳細は伝わっていないが、戦闘の結果は判明している。将門は再び敗れ敗走する羽目になっただけでなく、将門の妻と子が良兼の手に捕らえられたのである。病に倒れて身動きできなかったから戦闘に敗れたとするのが現在まで伝わる将門の主張である。
この二連敗は将門にとってきわめて大きな痛手であった。そして、一度目は良兼の卑怯千万な戦術の前に敗れ、二度目は病のせいで身動きできなかったから敗れたとするのが将門側の主張であるが、これはむしろ怪しい。一度目も二度目も将門は戦術の前に敗れ去っているのである。それは軍人としての能力での敗北であり、卑怯だの病だのというのは後付けの言い逃れにしか聞こえない。
実際、この二連敗で将門の威信はかなり落ち、将門の元を離れる農民が続出したのだ。守ってくれると約束したはずの将門が我が身大事で逃げ出しただけでなく、庶民はおろか、自分の妻も子も捨てて逃走したというのは信用をなくすのに充分である。
普通に考えれば将門の命運はここに尽きて、平良兼が勝者にならなければならない。ところが、この二連勝を平良兼は活かしていないのである。ここで一気に将門を叩くこともせず、追撃一つしていない。
将門の本拠地である豊田の人たちは将門を見捨てた。しかし、良兼の元に下ることもなかった。当然であろう。誰が自分たちの生活を灰にした人間の元に下るか。豊田に住む者は将門からも良兼からも独立する勢力となったのである。
将門はそれまでの本拠地を失う身となった。そして、将門が新たな本拠地に定めたのが常陸国の猿島(さしま)郡の石井(いわい)である。
猿島石井営所跡