天暦之治 2.藤原北家再興
藤原良房の時代から、源氏の面々は藤原氏とのつながりを深めるのが当たり前であった。この意味で、清和源氏の行動はこれまでの源氏の伝統を継承していると言える。
とは言うものの、源氏の行動はただ単に藤原氏の臣下になったという意味ではない。藤原氏に近づいて藤原氏を利用したのである。
その方法の多くは、藤原良房を支えた源信や、藤原基経を支え藤原時平を育てた源能有のように、その時代の藤原氏のトップと深くつながることで自身の出世を果たすと同時に、自身の考える政治を実現させるものであった。
これが可能であったのも、これまでの源氏の面々が藤原氏の提唱する反律令の現実主義に賛意を示したからである。
源氏の中でも臣籍降下されて間もない者の多くは、貴族となるべき教育、すなわち、大学で律令に基づいた学問を修めることなく、いきなり現実世界に身を投じなければならない宿命を負っている。こうなると、律令の理想など関係なく、否応なしに現実と向かい合わなければならない。
いきなり現実に直面し、その現実と相反する律令の理想を掲げる集団を目の当たりにしたとき、現実を無視して理想を声高に叫ぶ集団にシンパシーを感じるであろうか? 律令派の面々の中に源氏の姿がほとんどなく、藤原氏の掲げる反律令の貴族の中に源氏の名が散見されるのはこうした理由からである。源経基にしろ、源満仲にしろ、これまでの源氏がそうであったように、現実を目の当たりにしたがゆえの選択として藤原氏と接近したに過ぎない。
ところが、源氏とは、純然たる一族ではない。同じ源氏でも始祖が違えば同じ一族ではなくなるのである。こうなると源氏として一括りできなくなる。
しかも、臣籍降下間もない源氏は特権的に貴族になれるが、臣籍降下から世代を幾重も重ねた源氏となると、特権も少なく、ごく普通の貴族として出世競争に臨まねばならないし、一般の貴族と同様に律令の理想に基づく教育を受けなければ貴族としてのスタートラインに立てないのが一般化している。
その結果どうなるか?
同じ源氏でも、藤原氏に接近する源氏と、藤原氏から距離を置く源氏が登場したのである。
しかも、かつてと違い、現在の藤原氏の掲げる反律令は必ずしも現実主義ではなく、藤原忠平の体系化した理念としての反律令である。こうなると、律令の理念に反するだけでなく、現実にも反する藤原氏の政策に対し距離を置くようになる源氏が現れるのもやむを得ない話である。
時代は村上天皇が全てのトップに立ち、藤原氏は左右の大臣を独占するものの藤原忠平ほどの権力は担えなくなっている。ゆえに、藤原氏と源氏の対立、あるいは源氏内部の対立は水面下で静かに潜行しており、気づかない人もいるほどであった。
清和源氏が武力を持ち、武士として藤原氏に接近していることを村上天皇は問題視していた。
実際、天暦八(九五四)年一一月三日には、私的に武力を雇うことを禁じる命令を出している。だが、この命令は意味を有さなかった。
彼ら自身、自分が武力を持った存在だと認めているし、武士であることも否定しない。だが、彼らの本質は貴族であり役人なのである。貴族や役人の中には、漢籍を読むのに長けている者もいれば、計算力に優れた者もいる。加持祈祷に能力を発揮する者もいれば、律令を詳しく解する者もいる。そして、貴族にしろ、役人にしろ、有力貴族の元に身を置き、自身の持つ技能を生かして立身出世を図ることを最優先に考えているのである。武士としての武芸は自身の持つ技能の一種、それも出世につながる技能の一種として考えられるようになっていたのだ。
他の国ならば起こるであろう朝廷への反旗、あるいはクーデターによる政権奪取を考える者は少なかった。無論、いなかったわけではない。ただ、平将門にしろ、藤原純友にしろ、そうした行動は何の利ももたらさなかったことを彼らは知っている。天下国家を破壊して新たな権力者となることより、既存の権力にすり寄って自らの権威と富を増やすほうがより容易であり、より優れたことだと考えるようになっていたのだ。そうして権威と富を増やせば自らの地位を高められるのに、ハイリスクローリターンのクーデターに訴えるのは無意味と評するしかないのである。
それに、武士が貴族に近づくことを問題視しても、武士という存在そのものを否定できるまでにはなっていない。何しろこの時代にはオフィシャルな武力がないのだ。世に軍隊のない国はあっても、軍事力を持たない国はない。より正確に言えば、国土と国民を守る防衛力を持たなければ、それは国ではない。確かに、左大臣藤原実頼が左近衛大将を、右大臣藤原師輔が右近衛大将を兼ねているが、この二人の大臣は、地位は持っているものの、自分自身が軍勢を率いて戦場に出向くなど全く考えていないし、国土や国民を守る知識ならばあっても武力そのものに対する知識や経験はない。ゆえに、武士以外に防衛力として計算できる武力はない。
それは何もこの時代の大臣二人だけに限った現象ではなく、藤原良相死後の平安時代貴族全員に共通する認識である。
桓武天皇による防人の廃止は国のオフィシャルな防衛力をそぎ落とし、嵯峨天皇による軍勢の武装解除は国のオフィシャルな防衛力にとどめを刺した。そして、武力を求められる状況が登場しても、その時代の天皇や大臣が自ら軍勢を指揮するなど全く考えられないこととなった。
だからと言って、防衛力そのものが消滅したわけではない。武士という新たな軍事組織が日本と日本人を守るようになったのである。実際、四度にわたる新羅からの侵略を跳ね返し、平将門や藤原純友といった反乱を武力で鎮圧している。こうした武力は、名目としては朝廷から地位を与えられた貴族や役人としての行動であり、軍事行動に対する報償も貴族や役人の活躍に応じた対価である。
村上天皇の時代の防衛力は、公的には武官ということになるが、現実としては武士しかないのである。村上天皇は、武士を防衛力として計算する必要がどうしてもあった。そうしなければ国外から攻め込まれたときにはどうにもならないし、国内の反乱にも対処できないのだ。何しろ、平将門や藤原純友は村上天皇自身が体験した反乱なのである。武力による反乱は、学者の語る理論ではなく、現実にあり得る人災であるというのがこの時代の人たちの共通認識である。
村上天皇は武士たちを貴族として、あるいは役人として、国でコントロールできるようにしようと考えたようである。しかし、それは失敗した。貴族としての、あるいは役人としての地位を与えてコントロールしようとはしたが、それで武士たちが上級貴族から離れることはなかったのである。
天暦八(九五四)年の何月何日のことかは記録に残っていないので不明だが、この年、駿河国益頭郡の郡司である伴成正らが領民に殺されるという事件が起きている。さらに、翌天暦九(九五五)年の閏九月二一日には、同じ駿河国で、駿河国司である橘忠幹が領民に殺されるという事件まで起きている。
しかも村上天皇はこの事件に対する対処ができずにいる。
武力を頼りに立身出世を図る者が上流貴族を必要とすると同時に、上流貴族もまた、自身と自身の持つ荘園と荘園に住む者たちを守るために武士を必要とする。これがこの時代の現実であったのだ。
この天暦九(九五五)年時点の太政官の構成は以下の通りである。
太政大臣は空席。左右の大臣は藤原実頼と藤原師輔の兄弟が受け持つ。また、兄弟が軍事力のトップである左右の近衛大将の地位も兼任しているのは既に記したとおり。ただし、天暦九(九五五)年二月一七日に藤原師輔が右近衛大将の地位を辞職し右大臣職に専念。後任の右近衛大将は大納言藤原顕忠(藤原時平の次男)が受け継いでいる。大納言はもう一人いて、律令派のシンボルと見られるようになってきていた源高明が就任している。
中納言は四人。藤原氏が二名に源氏が二名。うち一人が藤原兄弟の四男である藤原師尹である。大納言と中納言を見ると藤原氏と源氏が拮抗しているように見えるが、権中納言に藤原兄弟の五男である藤原師氏がいるので、この段階でボーダーラインを引くと藤原氏は単独過半数となる。
ところが、その下の参議に目を向けると藤原氏二名に対し、源氏三名、さらに穏健的律令派である大江氏が二名、そして、藤原純友追討の功績が評価され貴族としての出世を成してきていた小野好古も参議に名を見せており、こうしてみると、意外なほど藤原氏の数が多くない。現在の感覚で行くと、藤原氏という政党は第一党であり政権与党でもあるが、単独過半数ではないのである。
藤原忠平が権力を握ってすぐの頃はまさに藤原氏が単独過半数であり、しかも藤原氏とつながりの深い源氏も含めると、その他の貴族は一人いるかいないかであったのに、村上天皇の天皇親政が進むにつれ藤原氏の比率が減っていき、源氏が増え、藤原氏でも源氏でもない貴族が参議に姿を見せるようになったのだ。
しかも、源氏が必ずしも藤原氏と密接な存在とは言い切れなくなった。清和源氏は藤原氏と近いが、その他の源氏、特に大納言の源高明が属する醍醐源氏はもはや誰の目にも明らかとなっていた律令派のシンボルであるだけでなく、藤原氏の展開する反律令の政務を、律令派の立場としてだけではなく、実務家の立場として、現実に則さないとして批判するまでになっている。こうなると、藤原氏のとっての源氏は、連立与党のパートナーではなく、対立する政治勢力となる。
藤原忠平の死後、藤原氏の面々は政権安定のために村上天皇の親政を選んだ。しかし、まさか自分たちが村上天皇に操られるようになるとは想像だにしていなかったに違いない。それも、自分たちのパートナーであると信じて疑わなかった源氏が自分たちの対抗勢力として君臨するようになるとは夢にも思っていなかったであろう。
今や源氏が藤原氏の対抗勢力となっただけでなく、藤原氏がついこの前までのように圧倒的大多数を占める勢力ではなくなってしまったのである。この現実は藤原氏に重くのしかかっていた。
二一歳で即位し、二四歳で親政を始めた村上天皇も、即位から一〇年を経た天暦一〇(九五六)年には三〇歳となっている。藤原氏主導のもと政権安定のための妥協策としてスタートした村上天皇親政は、気がつけば藤原独裁を制御するまでになっており、三〇歳という若さを考えればこれから先も村上天皇親政が続くと誰もが確信していた。
ところが、即位一〇年目の天暦一〇(九五六)年、村上天皇親政にほころびが出始めるのである。
考えてみれば、村上天皇は政争ならば抜群の才能を示しても、実際の統治にはかなりの割合で幸運が存在しており、統治能力そのものに目を向けると、決して低いものではないが、飛び抜けて高いとも言えないのである。
例を挙げれば反乱の芽。前天皇である朱雀天皇の時代は反乱の芽が成長しすぎて、実際の反乱となり、平将門は関東で独立を宣言し、藤原純友は瀬戸内海を廃墟と化す暴れまわりを見せたが、そのどちらも完膚無きまでに鎮圧されている。この状態で村上天皇は即位したのである。反乱に対する注意は必要であったが、反乱の芽を摘む必要すらないのが村上天皇のこれまでであった。
また、自然も村上天皇に幸運をもたらしていた。不作が少なく、あっても深刻なものとはならなかったため、これまでは大々的な飢饉対策を考慮する必要もなかったのである。失業問題対策として公共事業や民間の事業振興を展開すれば、失業問題が社会問題とまで化すことはなかったのだ。
ところが、この天暦一〇(九五六)年、ついに自然が村上天皇の前に障壁となって登場した。日照りである。稲作に支障を与える日照りであるとの報告が日本国内各地から寄せられ、村上天皇はその対策にあたらなければならなくなった。
これまでの天皇であれば寺院に雨乞いを命じる、あるいは自分自身が祈りを捧げて雨が降るようにさせるという手段を執ってきたものだが、このときの村上天皇にその類の姿はない。その代わりに天暦一〇(九五六)年七月二三日に実行したのが以下の三つの政策である。
一つは恩赦の実行。災害を食い止めるため恩赦を実施するというのはこれまでの天皇が行なってきた政策と同じである。科学的根拠に乏しいという点では祈りを捧げるのと大して違わないが、神仏に頼るのではなく、自分の力で自然問題に対処しようとする姿勢は村上天皇の思考を現していておもしろい。
二つ目は自分自身の節約。天皇ともあればその食事はどうしても高級品になるし、衣服もまた高級なものとなるが、村上天皇はその質を落とし量を減らしたのである。これはアピールではあっても実際の効果は乏しいと村上天皇もわかっていたが、それでも村上天皇は、重要なのは実際の効果ではなく、天皇自ら節約につとめ災害回避を目指しているとアピールすることであると考えたのである。
そして三つ目が村上天皇の統治者としての才を示した政策である。これから雨が降るかも知れないし、今年の収穫だってまだわからないのに、この時点で東海道と東山道諸国の納税を免除すると発表したのである。繰り返すがこの時点ではまだ雨が少ないというだけであって不作であるとの報告はどこからも上がってきていない。実際、不作が予想される天候であったのに次第に天候条件が良くなって、収穫時には不作どころか豊作になったという記録も過去には存在する。前例をふまえれば、この時点で納税免除を発表するのは異例であり、また、英断でもあった。
この三つ目の政策に対しては貴族たちから猛反発が沸き起こった。納税免除は国家財政を危険に陥らせるという反発である。普段は敵対する藤原氏と源氏がこのときには言論一致を見たのだから、国家財政に関わる問題というのは党派を超えた大問題として共通認識となっていたのであろう。
この貴族たちの反発に対する村上天皇の回答は極めて簡単なものであった。天暦一〇(九五六)年九月二八日、全ての貴族、全ての役人に対し、給与の二割削減を言い渡したのである。しかも、この給与二割削減を平安京のいたるところに掲示した。干害救済のため免税を行うことは前もって通知してあったのだが、免税に伴う国家財政の縮小をどうするのかという疑念は沸き起こっていた。それが、一般庶民には痛くも痒くもない方法で対応するというのだから、村上天皇の通知に平安京の一般庶民は狂喜乱舞したことは想像に難くない。しかも、村上天皇自身が食事を減らし服の質を落としているという知らせも庶民たちは知っている。天皇自ら痛みを背負っているのに貴族や役人が痛みを引き受けないのは不条理だという世論を作り上げれば、いかに貴族や役人が一枚岩になろうと、村上天皇の意見の方が最終的には通ることとなる。
とは言え、村上天皇は貴族や役人の数を減らしてはいない。
この時代の貴族は現在の日本でいうと国会議員、役人は公務員に該当する。そして、議員が大きな権力を持ち、公務員が安定した職務であること、これもまた今と変わらない。今と違うのは、議員は選挙によって選ばれるのに対し、貴族は役人の出世の結果だという点ぐらいのものである。
この安定した職務である公務員になろうとする者、そして、安定した公務員を職務とする者は、何よりもまず安定を求める。働けば毎月給与が貰える安定した暮らしをすることが最優先事項であり、国のため、職務のために人生を捧げることは、安定が保証されてはじめて成立する考えである。
これを役人気質と批判してはならない。役人でなくとも、現在のサラリーマンの多くは今まで通り働けば未来の生活も安定すると考えるから安心して働けるのである。常に挑戦し競争し続け、勝者だけが未来に生きていけるというのは、理論としては成り立つが、現実には成り立たない。そもそも挑戦すること自体、失敗しても未来が保証されていなければできない。失敗のリスクが高い社会は、そもそも挑戦する者が出ることもなく停滞し、沈下していくものなのである。この意見に関しては、当作で記すより、米国スタンフォード大学のティナ・シーリグ氏の著書を御覧になっていただくほうがより深く理解できるであろう。
時を平安時代に戻すと、この時代、安定した身分というのは役人を置いて他にはない。他に探すとすれば寺院や荘園が今で言う民間企業に似ているぐらいであるが、安定という点では役人に届かない。そして、この役人という安定した身分を保証することは、いかに村上天皇が財政問題を解決しようとしても、絶対に変えることの許されない領域なのである。
仮に貴族や役人の数を減らしたらどうなるか? 待っているのは、ただ単に元貴族や元役人の失業者が増える現象だけではない。地方に下って反乱を起こすきっかけと成りかねないのだ。平将門に従ったのはどのような人物か、あるいは、藤原純友とともに暴れ回ったのはどのような人物かを考えてほしい。彼らはほぼ例外なく、貴族や役人になることに失敗した者、そして、貴族や役人として満足いく地位を手にできなかった者なのである。その現状からの脱却を図った結果が反乱であり、反乱を未然に防ぐことを考えるだけでも、適切な人事評定をしないと国にどれだけの危機をもたらすか明白である。
この実例がある以上、村上天皇にとっては、貴族や役人の数を減らすなど絶対に許されない考えであった。
それだけではない。村上天皇は天暦一〇(九五六)年一〇月二一日に、駿河国限定ではあるが、役人に対し武器の携帯を認める命令を出している。前々年から多発している駿河国の治安悪化に対しての処置であるが、このまま放っておけば反乱となると考えての処置でもある。
いかに平将門や藤原純友が悪夢として、村上天皇の、そしてこの時代の人たちの脳裏に刻まれていたかを示すいい例である。
天暦一一(九五七)年二月一一日、神祇官より失火、倉一宇と宮城大垣が消失したとの連絡が届いた。
この火災こそ、天暦の治の終焉を予告する火災であった。
前年までは村上天皇の親政は全てが順調に見えていた。問題が起こっても解決していたように見えていたし、庶民の支持も高かった。
だが、この天暦一一(九五七)年から歯車が狂い出すのである。
前年は日照りがあり、その対策として税の免除を実施し、免除した税の穴を埋めるために貴族や役人の給与を減らしたことは既に記した。
問題は、それだけでは対策とならなかったことであった。
そもそもの問題として、日照りのため収穫量が少なかったのである。収穫量が少なくても税負担が少なかったのだから、農村の手元に残る穀物量は対応できているとしても良い。問題は、平安京に運び込まれる穀物量である。
本来はそれが税であった。税として平安京に運び込まれたコメをはじめとする穀物が貴族や役人の給与を経て平安京の市場に流通する。これで今までは回っていたのに、村上天皇はその量を二〇パーセント差し引いた。税収の減少に対する政策としては順当であるように見えたが、この結果、平安京の市場に流通する穀物の絶対量が減り、平安京で飢饉が、その周辺でも経済危機が起こってしまったのである。
ロンドン・ビジネススクールのリンダ・グラットン教授はその著書「ワーク・シフト」において、メガシティには膨大な人口が存在しているが、住民全ての生活を支えるのに充分な規模の経済活動が存在しないとし、成長を続けるグローバル経済から切り離されるスラム地区の出現を記している。
平安時代中期の日本は、規模で言えばグローバル経済ではない。だが、概念でいけば平安京は自給自足のできない都市であり、グローバルと言うには小さいながらも、平安京周辺の地域の経済活動がなければ存続できない都市である。平安京の周辺に農地はあるから穀物や野菜はどうにかなっても、海から遠いから海産物は届けて貰わなければ手に入らないし、塩も遠くから運び込まれなければ手に入らない。
裏を返せば、平安京周辺に自給自足できない集落があっても、平安京に海産物や塩を運び込めば集落としてやっていけるということでもある。集落の田畑ではコメの生産量が乏しくても、塩なり海産物なりといった特産品を産出でき、それらを平安京に持って行けばコメをはじめとする穀物と交換できるのだ。
ところが、交換できるはずの穀物の絶対量が減った。こうなると穀物価格が高騰するだけでなく、平安京に物産を運ぶことによって成立していた経済が止まってしまうことを意味してしまう。これでは集落がやっていけない。いくら良質な塩を生み出しても、塩を食料品と交換しないと飢えてしまうのだから。
生活できなくなった者が流れてくるのは、古今東西、都市と決まっている。平安時代中期で言うとそれは平安京をおいて他にない。ところがいざ平安京に来てみても、平安京には住民全ての生活を支える経済が存在しない。
ロンドン・ビジネススクールのリンダ・グラットン教授はその著書で、メガシティは周辺地域との結びつきを失い次第にスラム化していくことを説いた。スラム地区は人が有り余るばかりなのでその土地ならではの特色や個性を持たず、極度の貧困に陥る。この傾向を加速させるのが都市化の大々的な進行で、膨大な数の人たちが出身地を離れてもっと良い生活が待っていると思って都会に出てくる。しかし、その期待が満たされることはない。
リンダ・グラットン教授は二一世紀初頭の世界を念頭に置いて著書を記されたが、教授の著書における都市のスラム化現象は、この時代の日本唯一にして東アジア最大のメガシティである平安京においても同じことが言える現象であった。
ただでさえ飢饉で穀物の絶対量が減っているのに、給与の削減が市場に出回る穀物の絶対量をさらに減らし、流通を狂わせたことによって平安京に飢饉が起こってしまった。と同時に、スラムも形成されるようになっていった。厳密に言えば平安京のスラム自体は以前からあったのだが、より顕著なものとなったのである。
スラム化の進展と比例するように平安京に出回る穀物の値段も急騰し、庶民には買えない金額に跳ね上がってしまった。こうなると穀物の買い占めが起こる。日々値上がりするとわかっているのだから、誰が自分の抱える穀物を現時点の価格で売り出すというのか。
市場に穀物が出回ること自体が珍しくなり、その珍しいことが起こっても、その穀物は高値でも買える者の手に渡り、倉庫にしまい込まれた。穀物は単なる食料ではなく投機の材料と成ったのだ。そしてますます、庶民は飢饉に襲われることとなった。
飢饉は貧富の差をさらに拡大させた。それも、目に見える貧富の差を生み出した。
人は、想像もできない大富豪との格差より、ちょっとした運命の好転があれば手にできたはずの豊かさを持つ者との格差のほうにより大きな絶望を感じる。と同時に、格差の勝ち組である者は、負け組である者を同情することはあるが、自分も負け組になろうとは絶対に考えない。どんな手段を使ってでも負け組に転落しないようにするものである。
現時点で穀物を蓄えている者は豊かになるチャンス、いや、負け組に陥らずに済むチャンスを手にしたと同じであった。何しろ、どんなに高値を付けても売れるのである。おまけに、時間が経てば経つほど穀物価格は高騰する。こうなると、自分の抱える穀物を売り出そうとする者など現れない。倉庫にしまい込んで、できるだけ高値で売れるタイミングを狙うのである。穀物が買えなくて飢える庶民がいようと気にすることなく、豊かな者は自分一人が儲けることだけを考えたのだ。
そして、貧しい者はますます貧しくなった。それまで生活できていた者でも、今ではその日の食料を手にすることも困難となり、何とかして食料を手に入れようと、時には全財産をはたいて、時には家族や自分自身を売って、何とか食いつなごうとした。
村上天皇は何とかして平安京に穀物が行き渡るように計画した。常平所(朝廷の所有する穀物を安値で販売する場所)を復活させもした。しかし、常平所の復活も焼け石に水であった。貧しい人が穀物を買えたことは買えたのだが、豊かな者にとっても安値で穀物を仕入れて転売する絶好のチャンスであり、多くの穀物が貧しい人の生活のためではなく豊かな者の転売のために消えていったのである。
村上天皇は貧しい人への穀物の無料配布もした。天暦一一(九五七)年四月九日には寺院を通じて食料の無料配給を行なった。五月二四日には寺院を通さず直接無料配給をした。
だが、それらも無駄であった。
貧困は治安悪化を招き、平安京の治安は日に日に悪化するようになった。穀物をため込んでいた倉は強盗に襲われ、食料をため込んでいた者は盗賊に殺された。
村上天皇は情勢の回復を狙うが万策尽きていた。残された手段の一つとして改元を決定し、天暦一一(九五七)年一〇月二七日、元号を「天徳」に改元。だが、改元も状況の改善にはつながらず、平安京にあふれる強盗はついに朝廷の庁舎にまで押し寄せるようになった。
天徳元(九五七)年一一月二九日、大舎人寮庁舎一宇および西門を消失。
天徳元(九五七)年一一月三〇日、大蔵省長殿に盗賊侵入。
この後も村上天皇の親政は続くが、後世の理想となる「天暦之治」はこの年に終わったといっても過言ではない。
天徳元(九五七)年は前年に続く不作の年であった。収穫の絶対量が少なく、村上天皇は前年に続き税の減免を決定する。そうしなければ農村はやっていけず反乱の火種となるのだから、農村部の不作の対策として間違ってはいない。
では、都市部の政策はどうであったか。
平安時代初期は貨幣が普通に流通していたが、時代とともに貨幣は市場から消え、村上天皇の時代になると貨幣経済は破綻していたも同然であった。
市場での取引の目安として使用されるのは、コメをはじめとする穀物であり、あるいは絹を最上位とする布地である。銅の固まりでしかない貨幣は信用を失い、流通ルートから消えていたも同然であったのである。
村上天皇は都市部の飢饉対策としてこの貨幣に目を付けた。
天徳二(九五八)年三月二五日、新貨「乾元大宝」を発行すると発表したのがそれである。そして、五〇年前に発行され、細々ではあるが流通していた延喜通宝一〇枚が乾元大宝一枚であると定めると同時に、コメ一升と乾元大宝一枚を同価値とすると布告した。
さらに、この物価統制に違反する者は投獄されると決まった。
厳しい罰則を設けた上での新貨発行であったが、多くの貴族は失敗すると考えていた。過去の例によれば、新貨発行は失敗する政策の典型だったのだから。
ところが、貴族たちの予想に反し、この新貨発行が平安京の飢饉を和らげることに成功したのである。
なぜか?
村上天皇は、貴族や役人の給与を、この乾元大宝で支払ったのである。その上で、二〇パーセント減らしていた給与を元に戻しただけでなく、位階を上げることで事実上の給与アップを行なった。
それまではコメなり布地なりで受け取っていた給与が、いきなり銅の固まりに変更、より正確に言えば復旧させられたのである。荘園を持つような貴族は荘園からの物納があるが、そうではない一般の役人は乾元大宝を持って市場に行くしか食料や日用品を手に入れる手段はないし、律令は貨幣経済を規定している以上、村上天皇の政策を、律令に基づいて批判することもできない。
しかも、村上天皇は市場での取引を乾元大宝だけに限定させている。これも新法は必要なかった。律令を厳密に適用すればそれで良かったのである。穀物や布地との物々交換を律令は禁止しており、違反したら律令に基づいて逮捕されるのだから、商人としてはモノを売って乾元大宝を手にするか、何も売らずにいるか、どちらかを選ぶしかない。
いかに倉庫に穀物をしまっていようと、自分の家で食べる以上の穀物は売らなければ価値がない。何しろ、穀物は放っておいたら腐ってしまうのだ。腐った穀物はもはや財産でも何でもない、ただの廃棄物である。だからそうなる前に売らなければならないのだが、それまでは他の穀物や布地など価値のあるモノとの物々交換を前提としていたのに、これからは乾元大宝である。しかも、コメ一升につき乾元大宝一枚と厳命されている。違反したら牢屋行きだ。平安時代の牢屋は入って三年間生きていられたら奇跡と呼ばれる劣悪な環境である。これでは違反のリスクが高すぎる。
リスクを避けるとなると、市場で穀物を扱う者は、穀物が腐る前に乾元大宝を経て腐らない物品と取り替えるしかない。その乾元大宝を経るタイミングで下級役人や一般庶民が絡んでくる。今までは布地などの価値ある商品との取引を考えていれば良かったのに、これからは取引相手が金持ちであろうと貧乏人であろうと関係なく、乾元大宝を持つ者に穀物を渡さなければならない。何しろ、市場に持って行かなければ売ることが許されず、市場で流通するのは乾元大宝のみ。乾元大宝での取引を拒否したら逮捕されて投獄されるのだ。
乾元大宝の登場と同時に、平安京から飢饉の記録が消えていく。と同時に、逮捕され投獄される者の数が増えていく。おそらく、乾元大宝は市場の論理に従い、ただちに激しいインフレを起こしたであろう。何しろ穀物量と乾元大宝の枚数との整合性がとれていないのだ。だから、いかに法律がコメ一升と乾元大宝一枚を同価値であると定めても、市場の論理は、コメ一升につき乾元大宝二枚に、二枚が四枚に四枚が八枚に、さらには乾元大宝ではなく物々交換となる。
村上天皇はこれらを違反として遠慮することなく逮捕し投獄している。そして、飢饉に苦しんでいた平安京の庶民は、悪徳商人が逮捕され投獄されることに喝采を浴びせた。逮捕され投獄される者が穀物を抱え込んでいたから飢えたのだと考え、実際に自分の手に穀物が手に入ったことに安堵した。
だが、村上天皇の面前には根本的な問題があった。
穀物の絶対量の不足である。
逮捕して投獄しても、市場に充分な穀物が行き渡るわけではない。
いかに乾元大宝一枚をコメ一升とすると決めても、そもそもコメの量が少ないのである。いや、コメだけではなく平安京とその周辺に流通する穀物の量が少ないのである。
モノの絶対量が少ないときに実施すべき政策は、モノの絶対量を増やすことなのである。この年の場合で言うと、何としても食料の流通量を増やし、農村では収穫を安定させることが必要であった。
このときの乾元大宝による穀物の強制的な吐き出させは一時凌ぎでしかなかったとしてもよい。それでも、一時凌ぎによって救われた命は多かったのだから、村上天皇の決断は評価に値する。値するが、次年度以後を考えると不安のよぎる政策である。
なお、乾元大宝を発行させた村上天皇は想像もしていなかったであろうが、乾元大宝を最後に日本の歴史から貨幣が姿を消し、再び登場するには平清盛を待たねばならない。
和同開珎から乾元大宝まで合計一二種類の貨幣が登場したことから総称して「皇朝十二銭」と呼ばれ、現在ではコレクターの間で高値の取引がされているが、面白いことに、流通していたときの価値が低ければ低いほど、現在では高値で取り引きされている。価値が低い貨幣は鋳つぶされて他の貨幣に作り替えられたため、現存する枚数が少ないのがその理由である。
村上天皇が律令に基づいて物価統制を命じ、違反した者を逮捕して牢屋に入れた結果どのようなことが起こったかを伝える記録が、翌天徳二年の記録として二つ残っている。
天徳二(九五八)年四月一〇日、盗賊が右獄を破り、囚人九人を脱獄させる。
同じく七月一八日、大蔵省下殿に盗賊が入り、絹一〇〇疋を奪う。
物価統制に対する違反を厳しく処罰しても村上天皇の思い描いた結末、すなわち、物価高騰に苦しむ庶民が減り、治安が回復するという想定とは真逆の結果を呼んだのである。物価統制の違反者は牢屋から脱出してしまい、貧困から盗賊に転落した者は盗賊家業から足を洗うどころか、京都市中を荒らし回る盗賊としての勢いを強め、国庫の品を盗み出すようにまでなったのだから、これは尋常な事態では無い。
首都の治安がこの有様なのだから、地方の治安は推して知るべしとするしか無い。もっとも、武士団が勢力を持ち武力で治安を維持しているケースもあるから一概には言えないが、現代人が仮に平安時代にタイムスリップするようなことがあったら、その治安の悪さの前に驚愕するに違いない。
今昔物語集などに「モノノケ」や「鬼」など出てくるが、そんなものが現実に存在するわけなどない。しかし、そんなものが存在していると考えるほど治安は悪かったのだ。ある日突然、平安京を荒らし回る強盗団に家族を襲われ、家を襲われ、我が身を襲われる者があまりにも多かった。その惨劇から逃れるには、盗賊を怪異と語り継いで危険から避けるぐらいしか庶民にはできなかったのだ。
村上天皇も治安維持について苦心した様子は見える。武士を活用し、武士に治安維持をさせ、武士に京都を守ろうとした記録も残っている。残っているが実績が伴っていない。
何しろ、治安を守るべき武士が治安を悪化させる要素でもあったのだ。天徳二(九五八)年という年は幸いと言うべきか天災の記録も凶作の記録も無い。ゆえに、その翌年である天徳三(九五九)年は飢饉に関する記録も消える。
しかし、飢饉が無いからと言って、治安の悪化を招かないわけは無い。飢饉の有無に関わらず、一度悪化しか治安は何もしないと悪化したままで回復はしないのである。
ボロボロになった治安に絶望し、宗教に救いを求めようとした者はいたが、宗教の方がその期待を裏切る行動に出た。
この頃から寺院の抱える武力勢力、すなわち「僧兵」が史料上に良からぬ形で登場する。
天徳三(九五九)年三月一二日、検非違使に対し、祇園感神院(現在の八坂神社)と清水寺の乱闘を制止させる命令が出ている。八坂神社も清水寺もともに平安京の東の区画外、鴨川の東に存在する巨大寺社であり、この時代、平安京に住む者の信仰を広く集める寺社でもあったのだが、この時代の寺社というのは単なる宗教施設ではない。荘園の管理者であり、荘園の治安維持のための武力を持つ集団である。現在の感覚で行くと、独自の警備組織を持つ民間企業というところか。
この寺社同士の争いが京都市中で展開されることが普通の事態となったのである。八坂神社も清水寺も平安京から目と鼻の先にあるから京都で目立っていたが、目を奈良に移せば、平城京跡地に点在する巨大寺社が抗争を繰り広げているし、京都のさらに東に目を向ければ比叡山延暦寺が一大勢力となっている。
村上天皇は武力でこの抗争をくい止めようとしたのだが、治安回復のための武力がよりによって治安をさらに悪化させる要因となった。
天徳三(九五九)年三月一四日、賭弓(のりゆみ)に際し左右兵衛が乱闘する。
天徳三(九五九)年三月二三日、中巡検の弾正が飛駅らと乱闘する。
盗賊が荒らし回っているから宗教に救いを求めようとしたら宗教が暴れ周り、宗教の暴れ周りを食い止めようとしたら食い止めるはずの武力が荒らし回る。
これではもう、どうしようもない。
この時代の人たちは何と幼稚なのか、何と民度が低いのかと嘆くしかない。
この時代の史料には村上天皇がこの時代に様々な文化事業を推進した記録が残っているが、文化事業への傾倒も現実の愚かさに対する反発でなかったのではないかとさえ考えてしまう。
あるいは、民度の低さを嘆くのは現代人の感覚であり、当時の人にとってはこれが当たり前だとするしかないのか、それとも、これが人間というものの本性で、現代の日本の方が羊の皮をかぶっているのか。
天徳三(九五九)年のいつ頃から流行が始まったのか不明だが、この年、福来病が大流行した。この福来病は、現在で言う頸腫病(おたふく風邪)のことで、この病気に罹かって命を失う者が続出した、と記録に残っている。
ところが、このような伝染病の流行で起こる現象、すなわち、上流貴族の病死については記録がない。唯一、参議で正四位下の藤原有相がこの年の五月九日に亡くなったという記録があるが、その死因については記録に残っていない。もしかしたら、この藤原有相が上流貴族で唯一の罹患者であった可能性はある。
上流貴族の死が少なかったことと、一般庶民の死が少なかったこととは必ずしも一致しないが、ある程度の相関関係は認められる。何しろ、「応天門燃ゆ」でも記したが、平安時代の一般庶民というのは貴族の儀式を行う場にも普通に出入りしている。つまり、平安時代の貴族と庶民との接点は現代人が考えているほど少なくはなく、空気感染する伝染病が、庶民だけ罹患し、貴族は罹患しないというのはほとんど考えられないのである。以上のことから、伝染病の大流行はあったが、生活に支障を生じた人は多くても、命を亡くした人はさほど多くはなかったのではないかと考えられる。
同様の現象は、天徳三(九五九)年五月一六日の記録についても言える。
記録には、この日、長雨により京都に洪水が発生したとある。ところが、その被害者の記録がない。記録がないということは、水害が起こってもさほど大きな被害とはならなかったであろうと推定されるということでもある。
過去の作品でも何度か記しているが、京都という都市は東を鴨川、西を桂川に囲まれており、さらに東高西低の地形でもあるため、平安京の西半分、すなわち右京は、平安京誕生の頃からずっと水害に悩まされ続けてきた歴史を持っている。
平安京誕生当初、当初と言っても遷都から一〇〇年間ぐらいは右京にも普通に民家があり、さらには清原夏野のように大邸宅を構えている貴族もいたが、この時代になると右京の衰退はいよいよ激しくなり、ほとんど人の住まない土地へとなっていた。
となると、このときの水害は京都の西半分の右京、それも、人のほとんど住まない地域が被災地域であったのではないかと考えられる。
桓武天皇の治世の末期、平安京建設工事を公共事業の無駄と断じ、工事中止を訴えて名を上げたのは藤原緒嗣だが、もし藤原緒嗣がこの提言をしなかったらとは何度も考えさせられる。
税の無駄と一括りすることで工事がストップしてしまい、平安京はついに完成しなかった。その結果、膨大な失業者が生じて大不況となり、右京の水害は通常の光景となり、右京は都市として終わってしまった。一瞬の支出の削減の見返りに失われた未来と命の重さを思うと、「税の無駄の削減」という名目での公共事業削減は現在にも未来にも計り知れない大ダメージをもたらしてしまうのは、平安時代も、平成時代も同じ話である。
天徳三(九五九)年一二月、村上天皇は後世の手本となる政策を三つ展開している。
一つは一二月七日、紫宸殿前庭に橘を植えたこと。後に「右近の橘」と呼ばれることとなる村上天皇の政策は、ただ単に樹木を植えただけではなく、日本人の美意識を大きく変える選択となった。
もともと日本人の意識の中に梅はなかった。和歌に花が詠まれるとき、花が梅を意味するのは奈良時代だけの現象であり、奈良時代の前の飛鳥時代も、奈良時代の後の平安時代も、花と言えば桜である。
遣唐使の行き来が通常となり、唐の文明が日本に入り込んでくるようになると、朝廷の敷地内に植えられる樹木は梅と決められるようになっていたが、仁明天皇の頃から桜の復権が始まり、この時代になると梅はその他大勢の樹木の一つになっていった。
それでも朝廷の敷地内では樹木といえば梅だったのである。
それが梅ではなくなった。桜ではないにしても、梅ではない樹木が朝廷の敷地の彩りを飾るとなると、文化面における唐の影響の後退はさらに一歩進むこととなる。
二つ目の政策は一二月二三日のこと。村上天皇はこの日、衛府の勤務優秀者に禄を、淳和院・崇親院の女房らに綿布を下賜した。皇朝十二銭最後の貨幣である「乾元大宝」を発行したのは二年前のことである。しかも、その流通を厳命し、違反者を罰したのは他ならぬ村上天皇である。その村上天皇が、功績に報いるために下賜したのが、穀物であり布地であった。
乾元大宝の流通を意図していた村上天皇は、この年、寺院に貨幣を寄進している。しかし、その村上天皇ですら、功績に対する報償を、貨幣ではなく、穀物や布地とするまでに、貨幣経済の終焉を認めざるを得ないと考えさせられるようになっていたのである。
そして三つ目は一二月二六日。この日、伊賀国にある東大寺の荘園に対し不入権が認められた。
既に貴族や寺社の権威に基づく納税拒否、いわゆる「不輸の権」は存在していた。だが、今回認められたのは「不入の権」。すなわち、税務調査ですら免ぜられるという特権である。「不輸の権」は税を納めないという権利であるが、本来納めるべき税はいくらであるかを調査することまでは拒否できなかった。何しろそれは天皇直属の命令に基づく税務調査であるのだから。
だが、不入の権により、天皇直属の命令による税務調査ですら免除されることとなった。こうなると、強権を発動させて納税を命じても「いくら払えばいいのかわかりません」となって、より強い免税となる。
以後、「不輸の権」だけでなく「不入の権」も通例化し、「不輸不入の権」としてひとまとめとなった免税権利となるのである。
村上天皇の文化傾倒は、天徳四(九六〇)年三月三〇日、そのピークを示すこととなる。鎌倉時代初期に至るまで最大最高と評価され、後世まで歌合(うたあわせ)の手本として扱われることとなる、天徳内裏歌合である。
開催こそは三月三〇日であるが、イベントとしてのスタートは三月初頭。誰が和歌を詠むか、どのようなタイトルの和歌を作ってくるかが、三月初頭に指定される。そして、指定された者は三月三〇日までに和歌を作ってくるのである。およそ一ヶ月あるので、即興の和歌ではなく、推敲に推敲を重ねた和歌となる。
村上天皇自身が和歌を詠むわけでは無い。その代わり、歌合の設営はかなり細かいところまで指示したらしく、読み人の衣装、詠む順番、詠んだ和歌を書いた色紙を置く台に至るまで計算しつくされ、当日の進行計画も完璧であったと伝えられる。
天徳内裏歌合がどこまで計算されたイベントであったかを現在の感覚で考えるならば、iPhoneを発表したときのスティーブ・ジョブズのプレゼンテーションをまずは思い浮かべていただい。その上で、あの伝説のプレゼンテーションと同レベル、あるいはそれ以上に計算しつくされた用意のもとで始まったイベントであったと考えていただきたい。少なくとも、ビジネスに携わる者であるならばそれでご理解いただけるはずである。もっとも、その計算はイベント直前までの話であり、イベントが始まるといろいろとミスが出てきており、その後の様子をiPhone発表のプレゼンテーションと比べることはできないが。
歌合というのは和歌の詠み比べである。普通はただ単にどちらがより優れた和歌を詠むかを競い合う競技であるが、天徳内裏歌合は個人戦ではなく団体戦。朱色を基調とする左方チームと、緑色を基調とする右方チームとに分かれ、一チーム二〇首を用意しておいて一首ずつ出し合い、左右の双方から出された二首の和歌を比べ合って優劣を決め、勝ち星の多いチームの勝利とするシステムになっている。
和歌を詠む人は天徳内裏歌合の前に和歌を書いて提出している。実際に読み上げるのは和歌を詠んだ本人ではなく、左方は源延光(醍醐源氏・村上天皇の甥)、右方は源博雅(醍醐源氏・村上天皇の甥)が担当する。なお、源博雅はかなり緊張したのか、間違えて別の歌を詠み上げるという失敗をしている。
和歌の優劣を決める判者(はんじゃ)は左大臣藤原実頼。甲乙つけがたいときは判者の補佐として大納言源高明も判定に加わる。この二人の協議でも甲乙つけられないとなると引き分けとなる。
村上天皇はイベントを計画し、事細かな指示したものの、実際のイベントではただ和歌を聞くのみで勝敗に関わらないと決まった。
各チームの構成は以下の通りである。
左方。藤原朝忠、源順、坂上望城、大中臣能宣、少弐命婦(女流歌人・本名不詳)、壬生忠見、本院侍従(女流歌人・本名不詳)。以上七名。
右方。平兼盛、清原元輔、中務(なかつかさ・宇多天皇の血を引く女流歌人で本名は不詳)、藤原博古、藤原元真。以上五名。左方と比べて人数が少ない分、一人当たりの詠んだ和歌の数は多く、二〇首のうち一一首を平兼盛が、五首を中務が詠んでいる。
こうして見ると、ここでもまた村上天応の手による藤原独裁からの脱却が読み取れる。まず、上流貴族としてカウントできる藤原氏のうち、天徳内裏歌合に参加できているのは左大臣藤原実頼のみであり、右大臣藤原師輔も、権大納言藤原師尹も、中納言藤原師氏も、名前が出てこない。和歌を読み上げるのも村上天皇の近い源氏であり、和歌を詠んだ者の中にも藤原氏は多くない。その代わり、しばらく歴史資料から姿を消していた清原氏や大中臣氏、坂上氏が名前を見せている。このときはまだ六位のため貴族ですらなかった壬生忠見も左方の歌人として抜擢されており、村上天皇はこのイベントを、藤原独裁からの脱却と同時に、純然たる和歌の振興のために執り行なったことも見て取れる。
なお、この壬生忠見が二〇番目の勝負で敗れ、その悔しさから以後の食を絶って自ら死を選んだという言い伝えがあるが、二〇番目の勝負で壬生忠見が負けたのは事実であっても、壬生忠見が自死したわけではない。
言い伝えによると、二〇番目の勝負で平兼盛と壬生忠見とで詠んだ歌の甲乙がつけがたく、藤原実頼は引き分けにしようとしたが、村上天皇から二〇番目は勝敗を付けよと命じられたため答えに窮し、源高明と協議しようとしても源高明は平伏して黙り込んでおりどうすれば良いかわからない。そのとき、村上天皇が「しのぶれど…」と平兼盛の詠んだ歌の最初をつぶやいているのを源高明が聞きつけ、それを実頼に伝えたことから平兼盛の勝ちとすると決まり、壬生忠見は落胆したとある。このあたりはどこまで本当かわからない。
藤原独裁の弱体化を進める村上天皇にとって、その弱体化をさらに進める一方、パワーバランスを崩す出来事が起こったのが、天徳四(九六〇)年五月四日である。
この日、右大臣藤原師輔が五三歳で死去したのである。
記録によると、この前から藤原師輔の容態は悪化していたという。もしかしたら天徳内裏歌合に参加しなかったのも病気のせいかもしれない。何しろ、藤原師輔自身が歌人としても名を馳せる存在であり、歌集を残し、紀貫之と純粋の和歌の世界での親交を持っていたほどなのである。それなのに天徳内裏歌合に参加しなかったというのは、藤原師輔自身に何か参加できぬ理由があったとしてもおかしくはないのである。
この時代の通例として、病気になり、回復の見込みが無く、あとはただ死を迎えるのみと悟った場合、剃髪して出家するのが普通である。師輔も出家を考えて実行しようとした。ところが村上天皇は出家せぬよう命令を出した。天皇の命令とあっては出家など無理。そのため師輔は出家せぬまま死を迎えることとなった。
なぜ村上天皇は師輔の出家を取りやめさせたのか。
史料には、師輔が国政に必要不可欠な人間だから、出家されると困ると村上天皇から言われたとある。
しかし、村上天皇のこれまでの政務は村上天皇自身の親政であり、藤原師輔は右大臣として重職にあったものの、摂政でも関白でもない。それがこのタイミングになっての必要不可欠宣言。これは軽く考えるわけにはいかない。
考えられるのは、藤原実頼と師輔の兄弟間の対立である。藤原忠平亡き後の政治体制は、藤原氏の立場からすれば不明瞭とするしか無かった。理想である藤原良房の頃の体制、すなわち、一人の人間が中心となり、長良をはじめとする他の藤原氏がその一人が支えるという体制は構築できなかった。実頼が長良の役目を、師輔が良房の役目を果たすはずであったのに、藤氏長者が実頼で、官職も実頼の方が上である。しかし、天皇家との結びつきでいうと実頼より師輔のほうが深い。こうなると藤原氏のパワーバランスがうまくいかなくなる。
村上天皇がここまで親政を展開できたのも、村上天皇自身の資質に加え、藤原氏の勢いが相対的に低くなっていたからである。ここで藤原氏が実頼を軸として結集すると、村上天皇の親政は崩壊し、再び忠平の時代の頃のように藤原独裁が展開されることとなってしまう。
村上天皇はそれを恐れたのであろう。
天徳四(九六〇)年五月二八日、疫病流行により相撲人の貢上を中止すると定められた。
朝廷では、毎年七月、「相撲節会(すまいのせちえ)」と呼ばれる行事が催されていた。その起源についてはわからない。少なくとも古事記や日本書紀の神話の記述に相撲について書いてあるから、日本国が誕生したときには既に存在していたであろう。
平安時代の朝廷で催される相撲は現在の相撲と違っており、流血も珍しくない荒々しい格闘技であった。何しろ、殴り合いもありなのだ。その荒々しい格闘技が天皇の御前で行われるのが相撲節会である。村上天皇はその行事の中断を命じた。名目はあくまでも疫病流行のためである。
ただ、村上天皇自身がこの競技を好んでいなかった可能性がある。
村上天皇の好みは和歌や漢詩、あるいは琴や琵琶の演奏など、平和で優雅な文化に重きが置かれ、スポーツのように屋外で活発に動き回ることに興味を示していない。言うなればインドア派なのである。同じ趣味人でも、狩りを好んだアウトドア派の嵯峨天皇とは大きな違いであるが、これは本人の嗜好と同時に時代の流れの移り変わりでもあろう。
それに、この時代の相撲人、今で言う力士の立場も現在と大きく違う。現在の力士はプロスポーツ選手であるが、平安時代の相撲人は地域の有力者であることが普通。中にはこの行事のためにスカウトされた一般庶民もいたが、主流は各地域の有力豪族であった。つまり、各地域に点在する武士団の中から選りすぐられた屈強な者が、国の代表の称号を得て上京し、自らの腕っ節の強さを天皇に見せるという行事になっていたのである。
桓武天皇や光孝天皇は非常に愛好したというが、それは競技そのものの魅力であって、相撲節会目当てで上京する者とその取り巻きがこの機会に皇室や有力貴族に取り入ろうとする姿を愛好していたのではない。歴代の天皇は、競技はともかく、取り入ろうとする姿勢を苦々しく思い続けていた。
それでも競技に魅力を感じる人であれば問題なかったが、村上天皇にしてみれば、競技に魅力を感じない上に、競技ではなく自分の売り込みを企む者の多さに辟易していたのであろう。
同様の感覚であった者は多いと見え、村上天皇のこのときの相撲節会中止が先例となり、宮中行事としての相撲はだんだんと廃れていく。行事として実施するときも、地方から相撲人を上京させるのではなく、近衛府の武人たちに相撲をさせるように規模の縮小が行われ、再び盛大な式典となるのは平清盛の興隆を待たねばならない。
天徳四(九六〇)年八月二二日、藤原顕忠が空席となった右大臣に就任する。藤原顕忠は藤原時平の次男で、このときすでに六三歳の高齢であった。
血筋からもわかるとおり藤原顕忠も藤原北家の一員である。しかし、同じ藤原北家でもやはり主流は藤原忠平の子供や孫であり、藤原時平の子孫の方は主流派と見なされなくなっていた。
その主流派と見なされなくなっていた時平の子を右大臣に引き上げたことで、村上天皇はよりいっそうの藤原独裁の弱体化を意図できるようになった。
その上、今なお残る菅原道真の怨霊伝説に対抗するにも藤原顕忠はうってつけの人材であった。道真の怨霊伝説が本当なら、どうして時平の子である顕忠は平穏無事に六三歳まで生きてこられたのか、と。
一方、自派の勢力の弱体化を痛感させられていた藤原北家であるが、藤原氏も無能ではない。これまで村上天皇親政のもと、村上天皇が独裁政治を展開してきたことに対してリアクションを起こしていないのは、それが藤原北家の利益と合致してきたからである。より正確に言えば、左大臣藤原実頼と今は亡き右大臣藤原師輔との対立がまず存在し、その対立の末に妥協点として生まれたのが村上天皇独裁である。その政務は藤原氏の政治信条に反するものでもないし、それまでの藤原忠平の政策を覆すものでもない。藤原氏の地位も安泰といえば安泰であったのである。
村上天皇という卓越した一個人の能力によって天暦の治は成り立っているが、この天皇独裁が永続する統治システムになるとは誰も考えていなかった。村上天皇の次は藤原独裁に自然とシフトすると考えていたのである。
ところがここに来て、村上天皇は源氏を重用し、清原氏や大中臣氏、坂上氏が復活し、新興勢力として平氏や壬生氏が登場してきている。これは藤原氏にとって看過できる問題ではなかった。その上、藤原氏内部の対立をあおるように、藤原時平の子を右大臣に昇進させた。
ここに来て藤原北家は意見の一致を見た。亡き藤原師輔の子たちを藤原氏の軸とするという意見である。この年、藤原師輔の長男の藤原伊尹(ふじわらのこれただ)が三七歳で参議に就任している。もっとも、藤原忠平が権力を握ったときと比べてこれは遅いとするしかない。右大臣の子が上流貴族として朝廷で出世することは珍しくないが、右大臣の長男でありながら三七歳でやっと参議というのは遅い。これもまた、村上天皇による藤原独裁の抑制の結果であろう。
天徳四(九六〇)年九月二三日、内裏で火災が発生した。応天門炎上事件を始め、平安京内の火災は珍しくなかったが、内裏の火災はこのときがはじめてである。
火災が発生したのは深夜であり、村上天皇は中院、太政官朝所、職曹司を経て冷泉院へ移る。三種の神器については搬送に成功しており無事であった。
天徳四(九六〇)年九月二八日、村上天皇は修理職・木工寮および諸国に内裏造営を命じる。内裏の修復は緊急を移用する事態であるから、このときの命令は何らおかしなことではない。
しかし、その翌日である九月二九日に、今度は勧学院の庁舎が焼亡するとなると偶然とは言い切れない自体となる。
これは放火である。
そう考えるのは自然な流れである。だがいったい、誰が、どんな目的で火を放っているのか。
応天門炎上事件は大納言伴善男が太政大臣藤原良房とその側近の源信を追い落とすための犯行であった。冤罪説もあるが、当時の人たちにとっては、それこそが応天門炎上事件を説明する理論であった。
ところが今回は放火犯が思い浮かばない。
内裏に火を放ち、藤原氏の教育機関である勧学員に火を放つ理由がわからない。強いて挙げるとすれば平将門や藤原純友の残党が国家転覆を意図してテロを起こしたとなるのだが、それにしては犯行が小さすぎる。
結局、盗賊がそのターゲットを、内裏や藤原氏の施設に向けたと考えるのが最も簡単な話である。
一一月一四日、群盗が横行するため、検非違使と衛府に夜警させるよう、村上天皇から命令が出された。
この天徳四(九六〇)年という年は、中国に目を転じても大きな出来事のあった一年である。この年、宋が成立したのである。
ただし、この時点ではまだ中国を統一する国家となったわけではない。皇帝位を持った周は二代皇帝である世宗によってその勢力を伸ばしていたが、統一にはまだ遠い状態であった。このタイミングで世宗が三九歳の若さで死去し、七歳の柴宗訓が周の皇帝となると、周の武人たちは不安を抱き、周の軍事面で前線に立って指揮していた趙匡胤を擁立することを決める。趙匡胤が酔っている隙に黄色の皇帝衣を着せて強引に皇帝に擁立させたのである。結果、趙匡胤は柴宗訓から禅譲を受けて宋を建国した。これを陳橋の変という。
趙匡胤自身全く予期せぬ皇帝就任であったが、皇帝となった後は迷いを見せず、五代十国の混乱にある中国の統一に向けてただちに行動を起こし、世代を経て中国の再統一を果たすこととなるのだが、これはこの時点から二〇年も後の話であり、周が滅んで唐が建国されたことに対し、この時点の日本が何らかのアクションを起こした記録はない。唐の滅亡から五〇年ほど通例となっている中国の王朝交替の一つとしか認識していなかったのであろう。
もっとも、日本が中国との正式な国交を結んではいなくても、民間の交流は存在していたし、中国文化が日本に色濃く根付いてもいた。村上天皇の文化政策により和歌の地位が著しく向上したとはいえ、漢詩もまた貴族に愛好されることに変わりはなかったし、中国の古典を読むことも、中国語の文章を記すことも、知識人であれば必要な素養とされていた。
この時代になるとひらがなやカタカナを用いた文書が史料として登場するが、それでも公式文書は漢文である。女流作家の手による文芸の花はひらがなで咲いたが、貴族の残した公的史料となるとどうしても漢字のみとなる。
中国は混迷していたし、正式な国交もなかったが、文化の世界では中国の影響が強く残っていた。それは、現実の中国を見下し、狂信的なまでに愛国を訴える人でさえ、中国の文化の影響をゼロにしたら意見を何一つ表明できないという状況からもわかる。
翌天徳五(九六一)年一月二八日、小野道風と、藤原佐理(すけまさ)に昇殿の許可が出た。ともに能書家として名を馳せていた二人である。また、藤原佐理は左大臣藤原実頼の孫であることから、村上天皇にとっては、藤原師輔の子を軸とする藤原独裁の再構築に対する反発もあった。
ただ、この二人の抜擢は問題があった。
まずは年齢。小野道風はこのとき既に六五歳とかなりの高齢である。一方、藤原佐理は一七歳の若さである。片や高齢過ぎ、片や若すぎる。
そして、性格。藤原佐理は一七歳の若さであるが、左大臣の孫ということを考えれば年齢的に特におかしなことはない。しかし、この人は凡庸というか、だらしがないというか、字がきれいであること以外に何もない人で、特に空気の読めなさで周囲を害すること甚だしかった。ちなみに、空気の読めなさという点では小野道風も笑えないエピソードがあり、この人はとにかく周囲に敵を作る人であった。
凡庸な若者と、気難しい老人の二人に昇殿の許可が出たのは、表向きは内裏造営のためである。火災にあった内裏を復旧している最中であり、その内裏を飾るのに能書家である二人を呼び寄せたというのが、表向きの理由であった。実際、小野道風に対しては内裏諸殿舎と諸門の額を書くように命令が下っている。藤原佐理に対しては呼び寄せて書かせたという記録があるものの、何を書かせたのかはわからない。
ただ、真の目的となるとやはり牽制であろう。小野氏と言えば小野妹子から始まる外交のスペシャリストの家系であり、藤原氏など足元にも及ばない歴史と伝統を誇る家柄である。一方の藤原佐理は既に記したように、藤原師輔の子を軸とする藤原独裁再構築に対する絶好の反発材料である。
村上天皇にとっては、藤原氏の勢力が弱まり、藤原氏に対抗できる勢力が登場する事が重要なのであり、凡庸だとか、気難しいだとか、内面のマイナスはどうでもいい話である。
天徳五(九六一)年二月一六日、応和へ改元するとの命令が出た。何の前触れもない改元であるが、理由はわからなくもない。前年の内裏の火災、断続的に起こる凶作、疫病、そして経済不振。これらの良くない出来事からの一新を意図するのに、改元は有効な手段である。
また、天徳五(九六一)年は辛酉(かのととり)の年である。辛酉は六〇年に一度の大政変の起こる年であるとされており、これより六〇年前に、昌泰四(九〇一)年は辛酉の年であるから菅原道真は辞職するようにという提言が三善清行から出ているほどであった。現代からすれば意味不明な理屈だが、当時の人にとっては切実だったのだ。
そして、六〇年前の三善清行の提言に対し、当時の醍醐天皇が行なった反応が、昌泰から延喜への改元であった。元号を変えるというこれ以上ない大政変を起こしてしまえば、それ以上のことは起こらないだろうという考えである。
村上天皇による天徳五(九六一)年の改元は、本音は良くない出来事からの一新であったが、表向きは昌泰から延喜への改元を先例とする辛酉のための改元とされた。
ただし、改元によって新しい時代になったという気分にさせるのは事実であるが、実際に何もかもが一新されるわけではない。だいたいの場合は改元前の社会情勢がそのまま続くし、事態の好転を図った改元なのに、改元前より事態の悪化を招いていることも珍しくない。
天徳から応和への改元は、悪化ではないが、好転でもなかった。
応和元(九六一)年五月一〇日、前武蔵守源満仲邸に盗賊が入り捕らえられるという事件が起こっている。源満仲と言えば後の清和源氏の始祖としても良い人物である。いや、この時代においても有力武士を束ねる人物として考えられている人物である。その人物の邸宅に盗賊が入り込んだのだ。
治安維持のための武士なのに、それも、武士を束ねる位置にある者なのに、盗賊に入られた。盗賊を捕らえたことはさすがと言わざるを得ないが、そもそも盗賊が入り込もうと考えること自体おかしな話である。現在の感覚でいくと、警察庁長官の私邸、あるいは防衛大臣の私邸に盗賊が入り込もうとしたようなものである。これは尋常ならざる治安悪化の事態と考えないほうがおかしい。
村上天皇は、尋常ならざる治安悪化の原因は貧困からくるものと考え、貧困対策として、今年一年に限り、税を半減すると命じた。ただし、恒久的な減税ではないとして、減税の理由を内裏造営に対する負担が重くなったため、税の半減により相殺するとしたのである。
ところが、一年限りの税の軽減でどうこうなるほど貧困問題は軽くなかった。いや、この年から悪化を見せるのである。改元をあざ笑うかのように、自然がこの国に牙を向くようになったのだ。
六月になると、立て続けに、諸国から干害の被害報告がもたらされた。
干害は不作の前兆である。水害よりは収穫が多く見込まれるが、比較的であり、断じて豊作ではない。
今は亡きP・F・ドラッカー教授はその著書「産業人の未来」で、失業の形態について記している。
ドラッカー教授の著書は二〇世紀の世界経済を念頭に置いたものであり、それより一〇〇〇年前の日本に適用するのはおかしな話であると段階発展論者は考えるかも知れないし、ドラッカー教授自身も生きていたら反論するかも知れないが、私は段階発展説を信奉していない。人類の歴史に発展などなく、ただ単に社会情勢の移り変わりに人間が合わせてきただけと考える人間である。
なので、現代社会を前提とした経済理念であろうと平然として平安時代に適用するし、二一世紀のビジネスマンを念頭に置いて著したビジネス書であろうと、私は何の迷いもなく平安時代に適合させる。なぜなら、現在の社会情勢も、一〇〇〇年前の社会情勢も、人間の所作であるという点において違いはないのだから。
話がそれたので元に戻すと、失業というのは今まで通りでは生活できなくなったという現象である。農民として田畑を耕すのは、環境に恵まれれば個人の能力差を問わない単純作業になる。稲作は、必要とする労力は他の作物より多大だが、土壌、肥料、天候、水、そして品種が同じであれば、誰がやろうと同じ収穫になるはずという前提で、他の作物の耕作と違いはない。つまり、マニュアル通りの耕作であれば生活できなくなることなどない、はずである。
ただ、この前提が崩れることがある。
応和元(九六一)年に限ったことではないし、干害に限ったことでもないが、自然環境が悪化したということは、収穫が見込めなくなる環境になってしまったということである。それは生活できなくなることに直結する。ただでさえ稲作というのは、他の穀物より大量に収穫できる反面、収穫のための作業量の多さからわかるとおり、不作になるリスクも高い作物であるのだから、事業として見た場合、稲作は失業のリスクの高い事業と言える。
自然環境が悪化しても、中には収穫を残せる者もいる。それは農民としての技量が優れていたり、他の者より幸運に恵まれていたりする者である。裏を返せば、収穫を残せない者というのは、農民としての技量が劣っているか、不運に遭ってしまった者ということになる。
大規模な失業は、個人差を問わないビジネスモデルの崩壊によって起こる。機械化、効率化、そして自然環境の変動は、いとも簡単にビジネスモデルを崩壊させる。
ビジネスモデルの崩壊により、これまでの働き方のままでは生活できなくなった者は職を失う。これは農業であろうと、工業であろうと、商業であろうと関係ない。この時代で言うと、不作により収穫を見込めなくなった農民は職を失う。
そして失業者となって都市へ流れ込む。都市は農村をはるかに凌駕する仕事量が存在すると考えるからである。多くの人は農村で生活できなくなると都市へと流れ込む。その逆はない。あるとすれば農村で生活できる条件が整ったときだけである。とは言え、いかに都市に仕事量が多くても、失業者の方が多ければ、いとも簡単に都市失業者になる。
都市失業者に対して「農村に戻って田畑を耕せばいいのに」という人は何もわかっていない。農村で生活できないから都市に流れてきたのであり、今さら農村に戻っても、待っているのはやはり失業者であるという現実である。だいいち、田畑がない。あったとしてもそれは収穫の見込めない田畑である。かつて、藤原良房はこうした都市失業者を農村に戻したが、そのとき、農地を新たに開墾して土地を与えただけでなく、田畑として経営するのに必要な初期投資費用まで与えている。これは荘園が成立する前だから可能となった話であり、この時代は、収穫の見込めそうな土地はとっくに田畑として開墾済で、とっくにどこかの荘園に組み込まれている以上、新たな農地の開拓は自助努力でどうこうなる話ではない。
失業者に対して、「仕事がなければ自分で仕事を興せばいいのに」という人も何もわかっていない。農村に行って新たに田畑を耕せばいいのにと発言するのと同じ問題を抱えている。まず、初期投資費用がない。次に、仕事を興すのに必要な技能がない。そして最後に、意欲がない。
そう、この最後の意欲の問題が大きいのだ。
失業者がパチンコをはじめとするギャンブルにのめり込んでいる姿を見ることは多いだろう。これは日本国だからパチンコになるのであり、国によっては競馬であったり、ナンバーくじであったり、カジノであったりするが、そのどれもがギャンブルであることに違いはない。資本主義を批判する共産主義国においてでさえこれは変わらぬ現象である。実際、北朝鮮ではかなり前からトランプによる賭博が広まっている。
ではなぜ、ギャンブルにのめり込むのか。
ギャンブルがいかに生産性の低いものかを説明しても、ギャンブルに染まった失業者はギャンブルから逃れられない。彼らだって理論は理解する。だが、感情が理解できないのだ。誰もが現実の身の不運を嘆いているし、無為な時間を過ごしていることを理解している。しかし、この境遇から抜け出そうと積極的に行動する者は少ない。より正確に言えば、積極的に行動している者はとっくに失業から脱出している。身の不運を嘆きつつ、有り余る時間を無為に過ごし、有意義な行動を示さずにいる者にとって、運次第で望ましい結果が得られる可能性のあるギャンブルというのは、現実を忘れさせてくれる唯一の希望なのである。
もしギャンブルを廃止したらどうなるか?
新たなギャンブルが生まれ、地下へと潜っていく。待っているのはさらなる治安の悪化だ。
現在の日本は法律でギャンブルを禁止している。だが、パチンコは存在している。法に照らせば明らかにギャンブルであり違法な存在なのだが、これを徹底的に取り締まったときに待っているのは、新たなギャンブルの地下化である。パチンコを憎む人、無くすべき者と考える人は多いが、その考えを実現させても、待っているのは新たなギャンブルの登場である。もっとも、パチンコ屋を潰した後で、パチンコより依存しにくく、パチンコより生活を破壊させない、比較的にしろ健全なギャンブルを導入すれば問題ないが。
時代をさかのぼって平安時代ではどうであったか?
まずは双六である。双六を楽しむ者は多かったが、双六のギャンブル性を問題視し、規制する者も多かった。平安京の失業者が昼間から働きもせず、往来で双六にはまっている姿を嘆く史料もある。だが、どんなに嘆こうと、双六を消滅させることはできなかった。賭博ではなく娯楽であるとして規制を逃れる者も多かったし、娯楽としての双六を禁止しようとしても、禁止する命令の方が有名無実化し、気がつけば元に戻っている。
賭博は双六だけではない。まずは囲碁である。囲碁もまた、この時代はそのギャンブル性により規制されることが多かった。
さらにニワトリを戦わせる闘鶏も路上で繰り広げられた。残酷として目を背ける者も多かったが、残酷ゆえに熱狂する者も多くいた。
何れも勝敗を決める娯楽である。そして、ギャンブルとして活用されやすい娯楽である。
何もすることなく日々を過ごす平安京の失業者を、何らかの形で就業させる費用も、教育プログラムも、この時代には無かった。そして、彼らの意欲を取り戻す方法もなかった。あるのはただ、違法であるものの、法の適用を緩やかにしてギャンブルを黙認することだけだったのである。
それに、自然の猛威の前に人間は無力である。
東日本大震災の経験は誰もが身に染みているであろう。そして、自然の前に人間は無力であることを痛感したはずだ。それでも多くの人たちは復興に向けて動き出し、がれきに埋まった道路は舗装を取り戻し、何もなくなった住宅地には家屋が蘇ってきている。それは小さな動きかも知れないが、被災地の復興は確実に進んでいる。
だが、復興の途中でその復興を台無しにする自然の猛威があったらどうなるか。建て直した家がまた壊れ、戻した道路がまた埋まったらどうなるか。
多くの人は復興への意欲を失ってしまうのではないか。
そんな現象が起こってしまったのが、翌応和二(九六二)年であった。
前年の干害と真逆としても良い大雨である。雨が止まず、洪水が頻発したのだ。
首都京都が水浸しになっただけではない。日本中のあちこちで家屋が流され、田畑は土砂で埋まり、道路は川になってしまった。それでも最初は元に戻そうとした。家屋を建て直し、田畑を復活させ、道路を取り戻そうとした。それなのに、一度の水害がその復興の努力を無に帰させてしまった。
これでは誰が復興の意欲など抱くであろう。
村上天皇は雨が止むよう神頼みまでした。オカルティックな行動を見せてこなかった村上天皇ですら神頼みに走る事態に、この時代の人たちは危機の深刻さを垣間見た。もっとも、村上天皇の神頼みは、本心からではなく、神頼みを求める民衆の声に乗った結果であるが。
ただ、偉かったのは政争に走らなかったことである。藤原独裁をねじ伏せる動き村上天皇は見せなかったし、藤原氏の貴族たちもそれらに対する反発を見せなかった。藤原氏以外の貴族たちもこの危機にあっては一致団結した。ただ一人を除いて。
そのただ一人が源高明である。京都が、いや日本中が水害に悩まされている中、源高明は京都右京四条に大邸宅を構えたのである。大納言にして醍醐天皇の実子、しかも、村上天皇とは母親違いの兄という身分の人間が大邸宅に住むこと自体はおかしな話ではない。また、今まさに京都に失業者があふれている状態である。失業対策のためにも大規模公共事業を展開するのもおかしな話ではない。
しかし、タイミングが悪すぎた。
多くの庶民が家を失っているのに自分のための豪邸を建てたのである。
高級住宅街となっている左京ではなく、住む人も少なく空き地の散らばる右京に、それも、貴族用のエリアとするには遠い四条に自分のための邸宅を建てるのは配慮であったし、豪邸建設のための費用も私財であって税の支出ではない。ゆえに、文句を言われる筋合いはない。しかも失業対策である。だが、住まいを失った人たちを差し置いて自分のための豪邸を建てるというのは世間の評判を得にくい。いかに経済効果があろうと、それはやってはいけないのである。
このピンチに藤原氏が何をしたかという記録はない。もし藤原良房の先例を踏襲するという考えがあれば、藤原氏の私財をなげうって失業者を救済し、家を失った者の住まいを提供し、田畑を失った者には復興費用を渡したであろう。そこまではしなくても、少なくとも、源高明のように世間の評判を得にくい行動には出ていない。
一方、村上天皇は執政者として援助を忘れていない。食糧の配給もしたし、生活に困っている者には資産を配布した。応和二(九六二)年一一月二七日に左右京に綿調布などを賑給したという記録が残っており、これは思いも寄らぬ支給であったろう。何しろこの時代の布地はただの布ではない。市場に持って行けば通貨として通用する資産でもあったのだから。
応和三(九六三)年二月、村上天皇が藤原独裁に対するさらなる反旗を掲げた。
皇太子憲平親王が一四歳で元服し、紫宸殿で元服式を挙行したのである。
そこまではいい。従前からの予定通りである。
問題は憲平親王の妃。ほぼ通例となっていた藤原氏の女性ではなく、故き朱雀天皇の皇女である昌子内親王が妃となったのだ。
昌子内親王が藤原氏の血を全く引いていないわけではない。母方の祖父は藤原時平である。しかし、藤原氏の血を引いていようと皇族であることに違いはなく、藤原氏の女性を妃とする通例から外れている。
通例から外れているからと言って、藤原氏が干渉することはできない。なぜなら、憲平親王にとって昌子内親王以上に妃に相応しい女性はいないからである。何しろ、自らの生と引き替えに母を亡くした昌子内親王は、村上天皇の庇護のもと、村上天皇が直々に皇太子憲平親王の妃となるべく教育を受けさせてきた女性なのである。生後数ヶ月で皇太子妃となることが定められ、公表され、皇太子妃となるべく教育されてきた皇族の女性がいるのに、一臣下にすぎない藤原氏が割り込むことなどできない。
割り込むことはできないが、昌子内親王の祖父は藤原時平である。今ここで時平の系統のもとで皇位を続けるとなると、時平の政策を批判することで成立してきた藤原忠平の存在も、忠平の子たちの存在も遠のいてしまうのだ。
憲平親王の母は藤原師輔の娘である藤原安子。だから、憲平親王の即位までは藤原北家の本流とつながる皇統となる。だが、憲平親王の子に皇位が移るとなると、藤原北家の本流から離れてしまう。
それこそが村上天皇の目論見であったのだが、村上天皇直々の後継者と皇統の指定は、藤原氏にとって歓迎できることではなかった。
自然の猛威の前に無力を悟ると、人は何かにすがりたくなる。宗教と呼ぼうが、迷信と呼ぼうが、イデオロギーと呼ぼうが、そこに違いはない。何かを盲信的に信じ、それを信じる自分であることに自らの救いを見いだそうとする。
平安時代中期だとそれは寺社となる。
ただし、ここで問題が。
救済を求めて寺社に足を運び寄進する者は多かったが、肝心の寺社が心の救済に全力をつぎ込んでいたかというとはなはだ疑問なのである。いや、かなりの割合で、寺社は俗化し、より豊かになることを考える集団へと変貌してしまっていた。寺社の抱える僧兵同士の小競り合いなど珍しくもなかったのである。もっとも、地方で武士団がやっていることを、京都近辺では寺社がやっているという言い方もできるが。
宗教に救いを求める人は多かったし、救いを求めよと言う圧力も強かった。村上天皇が神頼みするまでに至ったのも、神頼みしてくれと言う民衆の欲求が高まったからである。
応和三(九六三)年は前年と真逆で雨の少ない一年であった。雨が降りすぎて困っていた前年をあざ笑うかのように、干害が日本各地で発生し、田畑から水が干上がってしまっていたのである。
村上天皇は応和三(九六三)年七月九日に、干害が終わるよう、東大寺大仏殿で七大寺の僧侶に仁王経を読ませた。そうしなければ民衆が納得しなかったからである。
寺社としては絶好の機会である。読経など日々の業務の一環に過ぎないのだ。それに対して国から補助が出るだけでなく、雨が降ったら読経のおかげ、降らなかったら国からの補助が足らなかったので満足な読経ができなかったと言い張れるのである。
それだけではない。寺社の領地に税を課したら神仏のたたり、寺社の領地を広げるのを押しとどめようとしても神仏のたたり、寄進しないのも神仏のたたりと、都合のいいことは寺社の功績、都合の悪いことは神仏のたたりとする理論が成立してしまった。寺社を求める人々の思いは、屈折した形で寺社の勢力拡大につながってしまったのだ。
これに対する反応が二つ存在している。
まず一つ目の反応は、応和三(九六三)年八月二一日にあった。この日、天台から一〇名、奈良からも一〇名の僧侶が清涼殿に集められ、論戦を行わせたのである。これを応和の宗論という。
寺社勢力の本来の存在価値は宗教にある。その宗教上の命題に対する論争をさせ、寺社間の優劣を決めさせたのだ。僧兵たちの武力による勢力争いが存在しているが、それらを全て無視して、論戦による優劣とさせたのである。この論戦は五日間続いた。もっとも僧侶が一〇人ずつ向かい合って論戦を繰り広げるわけではなく、時間を区切り、入れ替わり立ち替わり代表者を送り込んでの論戦である。そして、この論戦で名を挙げることとなったのが、応和の宗論のそもそもの提案者であり、後に天台座主となる良源である。良源は二日目の夕方、三日目の朝、そして五日目の夕方の三回に渡って天台の代表として論戦に挑み、名を挙げた。
結論から言うと論戦の決着はつかなかった。だから名目上は引き分けである。表向きは優劣付けがたい論戦であり、ともに素晴らしいとして双方に褒美を与える結果となった。
だが、当時の人たちはわかっていたのだ。天台も奈良も敗者であり、勝者は別にいることを。
真の勝者は反応の二つ目。
応和の宗論の開始から二日後、鴨川東岸の洪水の跡地で一人の僧侶が洪水の被災者の供養を行なった。正確に言えばその僧侶は主催者であり、供養に参加した僧侶は六〇〇人におよぶ。また、左大臣藤原実頼や中納言藤原師氏が出席したほか、身分の貴賤も、年齢も、性別も関係ない、数多くの京都市民の詰めかける大イベント、金字大般若経供養会となった。
この供養を主催した僧侶こそ、かの有名な空也である。このときより二〇年ほど前、平将門や藤原純友が暴れ回っていることの恐怖におびえていた京都市民を救うただ一人の精神的な柱となっていた空也が、自身も天台の人間でありながら応和の宗論には目もくれず、災害で亡くなった京都市民の供養のためにやってきたのである。それも六〇〇人の僧侶を引き連れ、左大臣藤原実頼も、中納言藤原師氏も一市民として供養の法会に加わるという大イベントを開催したのだ。
もしかしたら、このときの空也の行動こそ藤原氏の行動であったのかもしれない。
空也自身は藤原氏と何の関係もない。空也の素性は不明であり、一説によると空也は醍醐天皇の子であるとも、仁明天皇の血を引くともされているが、空也自身は自らの素性について何も語っていない。
素性を語っていない空也が何年生まれなのかを記す史料も存在しない。没年時の年齢から逆算して延喜三(九〇三)年生まれであり、どうやら延喜二二(九二二)年に尾張国で出家したらしいと推測されるのみである。
空也が記録に登場するのは菅原道真の怨霊伝説が全盛を極めている頃で、一般庶民に向かって念仏を唱えることでの心の救済を実践すると同時に、奈良時代の行基のように各地に道路や橋や寺院を建立することで失業の救済にもあたっていた。
空也の行動を支持する者も多く、空也のもとには多大な寄進が行なわれたという。しかし、空也はその寄進を全て失業者や貧困者の救済にあて、自身は貧相な暮らしを続けていた。他の寺社では僧侶たちが贅沢にふける暮らしをしているのを目の当たりにしている市民にとって、空也の生き方は取り立てて目を引くものであったろう。
誰が空也に目を付けたのかはわからない。だが、藤原氏の誰かが空也に目を付けたに違いない。そして、空也自身も現実の宗教界に苦悩していたに違いない。財を集め、武力で勢力を広げることに熱心である現実に。
藤原良房の頃から、藤原氏の庶民対策には一貫性が見られる。私財を投入して個々人を救済し、大イベントを開催して景気を上向きにさせるのがそれである。私財の投入による救済は良房が、大イベントによる景気回復は基経が得意とするところであった。この祖先たちの先例を見た藤原氏の誰かが空也と接触し、空也からの賛同も得た上で、鴨川東岸での大供養会の開催となったのであろう。
いかに寄進が多い空也であろうと、この金字大般若経供養会は一僧侶や一寺院がどうこうできるレベルのイベントではない。昼に大規模な読経を行なっただけでなく、夜にも大量の明かりを灯して祈り続けたのである。夜でも明るい現代と違い、この時代の夜の明かりは高くつく。貴族ですら手のひらほどの大きさの灯台一つを灯せるかどうかであり、一般庶民が夜の明かりなど灯すとなると、不可能ではないにせよ、かなりの出費を覚悟しなければならないのがこの時代である。
にも関わらず、空也のイベントには夜でも明るく、経典が普通に読めるほどだったのだ。それだけ大量の明かりが用意されたということは、どこかで誰かがそれだけの出費を引き受けなければならない。
それが藤原氏ではなかったか。
村上天皇親政における藤原氏は、村上天皇親政を支える臣下に過ぎない。だが、考えたのではないだろうか。村上天皇の親政が結果をだんだん出さなくなってきていると。
自然災害はどうしようもない。この時代の感覚でいけば自然災害は天が執政者を失格とする証であるが、合理的な思考をする者は自然災害の発生をそうだと考えない。そうだと考えないが、既に発生した自然災害に対処できないのは執政者として問題があるとは考える。
その上、寺社間の争いについても村上天皇は何もできずにいる。これは自然の問題で済む話でなく純然たる人災である。いくら応和の宗論を清涼殿で開催したと言っても、それは寺社間の無意味なディベート合戦であり、平安京の貧困者を一人として救ってはいないのだ。死体は放置され、飢えに苦しむ者は飢えに苦しみ続け、絶望する者は絶望するままである。
執政者としてなすべきことは、論戦ではなく、死を悼み、飢えに苦しむ人に生活を、絶望する者に希望を与えることである。
藤原氏の出した結論こそ空也であった。
応和の宗論の最中に開催された京都中を巻き込む大イベントにより、死者は追悼され、飢えに苦しむ者には空也を通じた支援を、絶望する者は信仰という希望を与えることができた。ここでの藤原氏はあくまでも一市民である。だが、左大臣が、あるいは中納言が一般庶民とともに祈る姿を見せるのは無意味な行動ではなかった。藤原氏は庶民を見捨てないでいる、藤原氏は庶民を助けようとしている、そう印象づける効果があったのだ。
左大臣藤原実頼が強烈なリーダーシップを発揮したかどうかはわからない。だが、藤原師輔亡きあと、藤原北家の中心はこの左大臣である。そして、藤原実頼は左大臣でありながら空也の前では一信徒となる姿を見せることに同意したのである。
藤原氏は庶民からの支持を背景に権力を掴んできた。その伝統を取り戻すために動き出したのだ。
応和三(九六三)年の東アジア情勢に目を向けると、一つの大きな転機が存在する。
この年、高麗が宋に服属した。
それが高麗の生き残る選択であった。何しろ高麗は北に存在する遼の圧迫に苦しめられ続けていたのである。日本のように自力で独立を維持する力がなかったのだから、高麗にとっては、遼の圧迫から脱するのに宋に服属するのはやむを得ぬ選択であったとするしかない。自力で何とか生き残ってはいたが既に限界、かといって、かつての新羅の反日政策の影響で日本は朝鮮半島と国交断絶状態にあるから、日本海の向こうの日本には頼れない。となると、黄海の向こうの宋しか頼れないのである。
これは宋にとってもメリットのある話ではある。高麗が宋の服属国となれば、宋を北からおびやかしている遼を東から牽制できる。五代十国の統一の最中にある宋にとって、最大にして最難関の強敵となるのが遼である。この遼を牽制するために、遼と国境を接する高麗を服属させるのは戦略的に有効ではある。
しかし、これは宋にとって重荷でもあった。先に記したように、高麗は自力で独立できないから、身の安全を図るために宋に服属することを誓ったのである。だが、服属したからと言って服属した国から上納金を得られるわけではなく、実体はその逆、服属した国の安全を保障するために宋の方が出費をしなければならないのである。そうしなければ高麗が遼に飲み込まれてしまうのだ。
これについてはかつて韓国と合併していた頃の日本を思い浮かべればわかるであろう。韓国と合併してから太平洋戦争で敗れるまで、日本は朝鮮半島のために国家予算の一〇パーセントを毎年負担していた。朝鮮半島から収奪するどころか、朝鮮半島のために日本人の一般庶民が収奪されていたのである。おまけに、合併前の韓国の抱えていた借金は全て日本が替わりに支払い、朝鮮半島の安全を保障するのも日本軍の仕事。この結果、朝鮮半島のGDPは年平均四パーセント成長となり、朝鮮半島の一般庶民の生活が目に見えて改善されることとなったが、朝鮮半島二〇〇〇年の歴史でただ一度だけ存在したこの大発展は、日本人の犠牲の上に成り立つ大発展だったのだ。
この、戦前・戦中の日本が引き受けさせられていたのと同じ負担を、新興国である宋が引き受けることとなった。戦略上必要と考えたからこそ宋は負担を引き受けたのだが、高麗服属の負担は宋にとってかなりの重圧であった。宋は歴代の中国王朝の中で経済的には優れた繁栄を見せたが、軍事的にはさほどの強国ではない。宋の朝廷にとって高麗服属の負担があまりにも厳しく、強力な軍事力を構築できなかったのである。
結果として、東アジアはひとまずの平和となった。しかし、大唐帝国が君臨することによって成立していたかつてのパクス・シナではなく、微妙なパワーバランスのもとでの平和であった。
平和ではあっても微妙なパワーバランスのもとの平和である。
この現実を日本の朝廷は理解していたのであろうか。
結論から言うと、理解していた。それも充分すぎるほどに理解していた。
唐の圧倒的な存在感によるパクス・シナはもはや期待できない以上、日本は日本の力で独立と平和を成り立たせなければならない。つい五〇年前には渤海という頼れる同盟国があったが、今はもうどこにも同盟国がない。日本だけの力で独立し続けなければならないのである。
その朝廷が選んだ政策が鎖国である。正式な国交を閉ざし、民間交流のみを許すようにしたのだ。
国外交渉の窓口である太宰府は藤原純友の手によって都市そのものが灰燼に帰していた。それでも制度上は存在していたが、都市としての重要度は博多に移ってしまっている。民間の通商だけであれば海から離れた太宰府ではなく海に面した博多で充分なのだから。
国交を閉ざしたことで、日本に訪れる国外からの使節の数そのものが減った。全く無くなったのではない。日本との国交を求める高麗からの使者が来たこともある。自国よりも豊かな暮らしを求めて日本に亡命してくる高麗人もいる。しかし、朝廷はこうした使節を丁重には扱わず、亡命者は母国に強制送還している。
国外との関係を閉ざすことでの平和については是非双方の意見がある。だが、結果だけで判断すればこれは有効であったとするしかない。実際平和になったのだから。
国内の治安悪化は問題であったが、それでも国内問題として取り扱えるのは恵まれていたとするしかない。応和三(九六三)年九月二三日に、左右京の保長・刀禰に夜警させるよう命令が出たが、これも、国内の治安を守るための命令であり、国外からの侵略に向けての対策ではない。
応和三(九六三)年という年は、藤原氏が村上天皇親政からの脱却を図ったスタートとなる一年であった。
これは藤原氏以外の勢力にとってはチャンスが減る一年であったとしてもよい。
村上天皇親政の元で藤原氏は勢力を縮小させた。これは、相対的に藤原氏以外の勢力が拡大したということでもある。ただし、あくまでも相対的であり、絶対的な勢力が拡大したわけではない。太政官を見れば、藤原氏が一一人おり、源氏が五人、小野氏が一人、橘氏が一人という構成である。
現在の国会でも衆議院で単独過半数を獲得すればかなりの権力が手に入る。ここで重要なのは過半数であるという点であり、仮に衆議院で四〇〇議席を占めている政党が三〇〇議席に減ったとしても、過半数であることに違いはない。過半数であることが権力の根元であり、過半数さえ維持できれば議席数が減ったからといって権力が縮まるわけではなく、議席が増えたとしても過半数にはるかに及ばなければ権力と無関係なのである。
応和三(九六三)年に起きていた現象を現代風に解釈すると、連立政権を組んでいた衆議院の第一党が与党の元から離れて野党になっただけでなく、議席数を減らしたが、それでも衆議院の第一党である。一方、その他の政党は議席数を伸ばしたが過半数にははるかに及ばない。そして、第一党以外の政党がどんなに手を組もうと過半数には届かないという現象である。
天皇の権威や権力は首相などはるかに上回る絶対的なものであるから、例え第一党が野党になったとしてもその第一党の元に政権が移るなどあり得ない。議席数を伸ばそうと野党は野党のままである。
だがこれは、村上天皇という圧倒的存在感を示す天皇だから成り立つ現象であり、村上天皇ではない天皇となったら、普通に与党と野党が逆転するのだ。
これは、藤原氏以外の貴族にとって大ピンチであった。
今までは村上天皇のもと、藤原氏であるなしに関係ない公平な競争が存在した。大臣は左右とも藤原氏であるが、それとて公平な競争による結果であり、藤原氏が優遇されたわけではない。
だが、藤原独裁が復活すると、藤原忠平の時代の頃のように、藤原氏以外は貴族にあらずという風潮になってしまうのだ。