戦乱無き混迷 1.伊尹から兼通へ
藤原実頼の死後、藤氏長者は藤原師輔の長子藤原伊尹の手に移り、摂政の地位にも藤原伊尹が就任した。ただし、この時点の藤原伊尹の地位は右大臣であり、人臣としてのトップではない。人臣のトップは左大臣藤原在衡である。
人臣のトップではないにも関わらず伊尹が摂政となれたのは、かなり早い段階で藤原氏の後継者として指名されていたことに加え、円融天皇の近親者の中での最有力者であったからである。左大臣藤原在衡がいかに人臣のトップであっても、円融天皇との直接の血縁関係がない以上、藤原在衡は摂政になる資格を持たない。一方、右大臣藤原伊尹は、天皇の近親者でなければ摂政に就けないという鉄則に従えば、藤原実頼の死の時点で摂政にもっとも相応しい存在である。何しろ円融天皇の母の藤原安子は藤原伊尹の実の妹、つまり、伊尹は円融天皇の伯父なのだから。
しかし、摂政にしろ、関白にしろ、それは常設の職務ではない。村上天皇のように摂政も関白も置かない政治体制でも何らおかしな話ではない、いや、その方が律令に基づいた政治体制で、摂政を置く方がイレギュラーな政治体制なのである。
それでも実頼の死とほぼ同時に摂政を置いたのには二つの理由がある。
一つは円融天皇がまだ幼少だから。
そして、もう一つは政策の継続。
政策の継続は国の発展の第一要素としてもよい。日替わりの政策変更が珍しくない国や、頻繁に政権交代が起こるような国は、それがどんなに善意に基づいた変更であろうと、絶対に発展など見られない。それどころか、国力を衰退させ、国そのものを滅ぼす原因となりかねない。
今の日本人は国が滅ぶなど大げさだと思うかもしれないが、平安時代中期の日本人にとっての国家滅亡とは、国境の外で頻発している通常の光景であり、いつ日本で起こってもおかしくない出来事と考えられていた。平将門や藤原純友と言った国家滅亡につながりかねない悪夢は、語り継がれた歴史上の出来事ではなく、多くの人が実体験したついこの間の話。
二一世紀の現在は間もなく戦後七〇年を迎えようという時代であるが、それでも七〇年前の悪夢は日本国を動かす重要なファクターとなっていることを考えていただきたい。この時代の人にとって平将門や藤原純友は七〇年などという親や祖父母の時代の話ではなく、この時代の人たちがリアルタイムで体験した悪夢だったのである。
実頼の地位と権力を継承した藤原伊尹が何よりも優先して行なわねばならないのは、ついこの間の悪夢を繰り返さないことであった。そして、伊尹は実際に悪夢を繰り返さないことに尽力し、この時代の日本人は平和な日々を過ごすことができたのである。
歴史にIFは禁句と言うが、もし藤原伊尹が長期政権を築いていたらこの後の混迷も起こらなかったであろう。この時代の歯車は、伊尹がわずか三年という短さで命を落としてしまったことから狂い出し、権力争いに終始するようになるのである。
藤原道長の世代に権力が集中するまでの二〇年間を一言でまとめると、「戦乱無き混迷」。
それが、一〇世紀後半の日本国に課せられた試練であった。
歴史書は藤原伊尹のことを浪費家であったと評している。贅沢に走る傾向があり、ブランド品の購入に目がなかったとも記している。そして、この性向は伯父である藤原実頼と共通していたとも記している。
そして、同箇所で、父である藤原師輔が質素倹約な人であったのと比べ、藤原師輔と伊尹の親子の比較を、優れた父と劣った息子とも評している。
とは言うが、この優劣の評価は正しいのだろうか。
質素倹約を良いこととし、正反対にある贅沢三昧を悪とする構図。これはもう日本人の気質とするしかない。
江戸時代の亨保の改革や寛政の改革が評価される一方、それらの改革と正反対の政策を展開した田沼意次が批判される。
あるいは戦前戦中のように「ぜいたくは敵だ」のスローガンが掲げられる。
あるいはバブル崩壊後のように企業が節約に走る。
このような日本人の資質が平安時代にはすでに存在していたとするしかない。
しかし、質素倹約は断じて良いことではない。質素倹約と言うから聞こえはいいが、所詮はケチなだけなのだ。
ケチって出費を減らし、余りを貯めこむのは、いざというときの蓄えだと言えば聞こえはいいが、市場に流れる資産を減らし、不景気へと誘う悪行である。国民全てがケチに走ったら不景気を招くし、国が率先してそんな政策を展開したら深刻な不景気を招く。亨保の改革や寛政の改革を評価する人は多いが、江戸時代のそれらの改革が生み出したのは全国的な不況であり、文化の衰退であり、生活苦である。これは「ぜいたくは敵だ」のスローガンでも、バブル崩壊後の企業の節約でも同じことで、ケチに走って個々の資産を守ることは、全体の不況を招く悪行とするしかない。
藤原伊尹は実頼の政策を継承している。これは経済政策についても同じで、財政の引き締めではなく積極財政を展開している。
積極財政が贅沢として批判されるのは的外れとするしかない。なぜなら、庶民の生活水準が目に見えて向上し、治安の回復と、一〇〇〇年後の現在にも残る文化がまさに藤原伊尹の時代に花開いたのだから。
天禄元(九七〇)年五月一八日、摂政太政大臣藤原実頼死去。その二日後の天禄元(九七〇)年五月二〇日に、右大臣藤原伊尹が摂政に就任。
実頼の死後二日で摂政に就任した藤原伊尹は、伯父藤原実頼の政策を継承したことは既に記した。しかし、藤原伊尹は藤原実頼と違って、人臣の第一人者であったわけではない。摂政であるとは言え、大臣としては上位に七九歳の左大臣藤原在衡が存在し、藤原氏内部にも五八歳の権大納言である藤原師氏がいる。つまり、二人のお目付役が存在した上で政権を担うこととなったのである。
もっとも、お目付役がいると言っても、藤原伊尹はこの時点で既に四七歳。お目付役に比べれば歳下ではあるが、若いとは断じて言えない年齢である。デビュー直後であるためにバックボーンは必要としたが、政策の展開についてまでバックボーンを必要とはしていない。
となると、通常は、当人と、お目付役でもあるバックボーンとの世代間対立が起こるものである。いや、実際に起こりそうになったのである。しかし、天禄元(九七〇)年七月一四日、権大納言藤原師氏が死去し、ほぼ同時期に左大臣藤原在衡も病に倒れたために、対立の芽そのものが消えた。幸運という言葉は死や病気に対する言葉としては不適切であるが、日本国にとってこれは幸運であったとするしかない。
お目付役がいなくなったことで政務を自由にこなせるようになっただけでなく、実際に人事の空白も多々発生したため、天禄元(九七〇)年八月五日、藤原伊尹は人事の空白を埋めると同時に、自らの権力基盤を固める策に打って出ることが可能になった。
まず、故藤原実頼の次男で、藤原伊尹の右腕ともなっていた中納言藤原頼忠を、叔父藤原師氏の死去により空席となっていた権大納言に昇格させた。と同時に、伊尹の弟の中納言藤原兼家には右近衛大将を兼任させた。これにより藤原伊尹の権力はより強固なものとなった。
一方、源高明追放後、藤原氏と対峙する最大の障壁となっていた大納言源兼明を、皇太子傅(東宮傅と記すこともある。読み方は何れも「とうぐうのふ」。皇太子の教育に関する最高責任者。左右の大臣が就くのが普通だが、大納言が就くことも珍しくない)兼任とすることで円融天皇の側近から外すことに成功した。通常、皇太子傅というのは次世代の天皇の側近として絶大な権力を振るうようになる地位であるが、忘れてはならないのは円融天皇がこのときはまだ元服も迎えていない若者であったこと、つまり、皇太子に譲位するのはかなり先の話になると思われていたことである。大納言であれば皇太子傅としてごく普通なことであるが、この時点での皇太子傅兼任は、事実上の追い出しでもあった。
これだけであれば反発を招くが、藤原伊尹は妥協案を提示している。源兼明と同じ源氏である源雅信を中納言に、源延光を権中納言に、それぞれ昇格させたのである。この結果、一八名からなる議政官のメンバーは、藤原氏一〇名、源氏七名、橘氏一名という構成になった。ただし、藤原氏のうち一名は病に倒れて動けなくなってしまっている左大臣藤原在衡のため、それを加味すると藤原氏は一七名中九名というぎりぎり過半数という程度で、意外なほど藤原氏の独占は強くない。その一方で、安和の変で源高明の追放があったはずなのに、こうして見ると源氏はかなりの人数を議政官に送り込んでいることに気づかされる。
現代人の感覚でいけば、これは、藤原氏党と源氏党からなる二大政党制である。藤原氏党が衆議院で単独過半数を占めているので政権を担えているが、いつ政権を担ってもおかしくない最大野党である源氏党が存在して両者が拮抗しているので、政局はさほど安定したものではないという感覚か。
もっとも、平安時代の議政官が二大政党制になっていたのは藤原良房以来の伝統でもある。藤原良房の時代は律令を信奉する律令派と、律令絶対ではない反律令派の二大政党制であったのが、反律令で一致していた藤原氏と源氏がそれぞれ一つずつの党派となって二大政党制へと代わったのがこの時代であった。律令派は消滅したわけではないが、この時代になると、政権のキャスティングボードと無関係の少数政党へと転落していたのである。今で言うところの社会民主党のようなものとしていいだろう。
この時点で藤原道長の父である藤原兼家は四二歳の中納言。議政官の有力者の一人ではあっても、藤氏長者として摂政や関白の地位を継承し、あるいは太政大臣に就任するとは誰も考えていなかった。何しろ、藤原伊尹が絶対的権力者として君臨しつつあったのだから。
注目すべきは兼家の兄で道長から見れば伯父にあたる藤原兼通。意外なことにこの時点では議政官としては最下位の参議なのである。位階も弟の藤原兼家が正三位なのに対し、兄の藤原兼通は従三位と、ここでもやはり差をつけられていた。
藤原伊尹の政権は安定していた。この安定をさらに強化したのが、天禄元(九七〇)年一〇月一〇日に飛び込んできた、左大臣藤原在衡死去の知らせである。
伊尹がいかに摂政であると言っても、その官職はあくまで右大臣。人臣のトップには立っていなかったのである。だが、この日からは伊尹が名実ともに人臣のトップである。右大臣という低い官職ではあるものの、他に大臣が存在しない以上、伊尹がただ一人の大臣として圧倒的な権威を持つようになったのだ。
しかもこの右大臣はただの右大臣ではない。天皇に代わって政務を行なうこともできる摂政を兼任しているのである。右大臣という官職では議政官で圧倒的な権力を発揮できなくても、摂政の権力があれば議政官の意見を覆すこともできる。
これを現在の感覚で捉えると、アメリカ合衆国の大統領としてもいいだろう。合衆国大統領は連邦議会の決定に対する拒否権がある。議政官を議会と捉えれば、摂政藤原伊尹には議会の決定に対する拒否権が与えられている大統領というところか。
もっとも、拒否権を持っているからといってそれをむやみやたらと行使したら、待っているのは政治の混迷である。伝家の宝刀は抜かないから宝刀なのであり、頻繁に抜いてしまったらそれたただの危険な刃物になるだけだ。
実際、伊尹の政権は協調を伴った安定であった。そして、平和であった。
景気もよく、治安も安定し、文化の華も開いていた。話は前後するが、天禄元(九七〇)年六月一四日に祇園御霊会を開催するなど、藤原基経からの伝統でもある、イベントによる景気向上にも抜かりはなかった。
その裏で、藤原伊尹は自らの権力をより強固なものとするよう整えていた。
天禄元(九七〇)年一〇月二〇日に藤原伊尹が蔵人所別当に就任したのである。
蔵人は天皇の秘書機関であり、蔵人所別当はその機関の名目上のトップ。実務上のトップは蔵人頭であり、蔵人頭はこれから貴族になろうとする者にとっての出世のきっかけと見なされることが多かったので、さすがに摂政右大臣ともあろう者が蔵人頭に就くなどあり得ない。だが、名目上のトップ、つまり蔵人頭の上に立つ地位ならば兼任可能なのである。この地位に就くことで、天皇の周囲を自らの息のかかった人間だけでまとめることが可能となった。蔵人頭も、一般の蔵人も、これからの貴族社会を担う若者である。その若者を自派の面々で固めれば将来も強固なものとなるのである。
天禄二(九七一)年の年明け時点の議政官の構成は以下のとおりである。
摂政右大臣藤原伊尹。四八歳。この人がただ一人の大臣として君臨しており、太政大臣だけでなく左大臣もいないという通例ではない議政官の構成を仕切っている。しかし、いかにただ一人の大臣であっても、右大臣の権力は、太政大臣や左大臣と比べて弱いとするしかない。だが、この人にはその弱さを充分にカバーする摂政という権威がある。この権威があるからこそ、藤原伊尹は圧倒的存在感を誇示することができたのである。
大納言源兼明。五八歳。この時点で藤原氏にとっての最大の障壁。藤原伊尹はこの人を皇太子傳とすることで議政官に姿を見せなくすることに成功したが、源兼明本人が議政官から姿を見せなくなっても源氏を束ねて一大勢力を築いていることに代わりはなく、藤原氏にとって手強い存在であり続けている。
大納言橘好古。七九歳。七九歳は現在でも高齢だが、当時でもやはり異例とも言うべき高齢である。阿衡事件で追放された橘広相の孫であるということ以外にこの人に対する評伝は残っていない。同じ名であることから藤原純友を討ち取った小野好古と誤認して武人であったとする伝承があるが、小野好古とは別人である。この時点で、藤原氏でも源氏でもないただ一人の議政官の構成員。
権大納言藤原頼忠。四八歳。故藤原実頼の次男で、同年齢の右大臣藤原伊尹の右腕として藤原伊尹を支えている。
中納言源雅信。五二歳。源氏の一員ではあるが、源兼明が醍醐源氏なのに対し、この人は宇多源氏であり、厳密に言えば家系が異なる。しかし、同じ源氏として源兼明を補佐しており、このときは左衛門督と按察使を兼任していた。
中納言藤原兼家。四三歳。右大臣藤原伊尹の末弟。このときは右近衛大将を兼任。
権中納言藤原朝成。五五歳。藤原北家の一員ではあるが、藤原基経の兄の藤原高藤の孫で、藤原北家の本流ではない。
権中納言源延光。四五歳。皇太子補佐のトップである皇太子傳源兼明のサポート役である春宮大夫を兼任しており、公私ともに源兼明の側近中の側近である。
参議源重信。五〇歳。大蔵卿として国の財政を担当している。源雅信の弟。
参議源重光。四九歳。右兵衛督兼任。醍醐源氏の一員であるが、母が藤原氏の出身であり、権中納言藤原朝成とは従兄弟同士の関係になる。
参議藤原兼通。四七歳。右大臣藤原伊尹の次弟。弟の藤原兼家より出世レースで劣勢にあり、兼家と対立することが多かった。
参議藤原済時。三一歳。左兵衛督。一月二九日には讃岐国司も兼任することが発表された。故藤原師尹の次男。
参議藤原斉敏。五四歳。伊予国司兼任。藤原実頼の三男。
参議藤原文範。六三歳。左大弁と民部卿を兼任。藤原長良の子孫で、藤原氏としては珍しく勧学院ではなく大学寮の文章生を経て朝廷入りし、役人としてのキャリアを積んだ後に貴族入りした。この時点の議政官の事務方のトップであり、全国各地の荘園を管理する責任者でもあった。
参議源保光。四八歳。右大弁と式部大輔を兼任し、役人の人事に関する責任者でもあった。この地位を源氏に渡したのは、藤原伊尹の源氏懐柔政策の一つでもあると同時に、藤原氏の地位独占に対する反発を沈静化する意味も持つ。源重光の弟。
参議藤原為光。三〇歳。左中将。故藤原師輔の九男で、伊尹、兼通、兼家らの異母弟にあたる。
こうして見ると、意外なほど藤原氏が官職を独占しているわけではないことがわかる。過半数なのだから圧倒的ではあるが、議政官の官職を独占しているわけではない。さらに、役人の人事権を源氏に渡していることから、藤原氏が議政官より下の要職の完全独占を求めていないことも読み取れる。
だが、狭い。
議政官という国のトップ機構が完全に閉ざされた世界で構成されている。
藤原氏と源氏とが並立していると言っても、相互の婚姻関係で議政官の誰もが他の者と血縁関係にある。濃いか薄いかの違いはあるが全て顔見知りと言ってもよく、部外者立ち入り禁止の様相である。
これが安定を選んだ結果だった。
実力ではなく生まれが人生を決め、ごく狭い閉ざされた集団が政権を支え、継承する。狭い世界に生まれることのできなかった者はどんなに優秀でも狭い世界に入ることが許されず、それより低い地位に留まるか、地方に下って自らの手で新たな権力を生み出さねばならない。
これは健全ではない。
しかしながら、健全ではなくても、この時代の日本には安定が絶対に必要だった。安定のために健全さを捨てたのだとしても良い。
それは海の向こうから伝わってきたニュースでさらに確信を強めることだった。
中国大陸で五代十国を形成していた国の一つである南漢が、宋に降伏し滅亡したのである。
かつては中国大陸全土が唐という一つの国であったのが当たり前であり、唐が滅んで地方勢力がそれぞれ国を名乗り、中国全土で群雄割拠するというのは異常事態であった。
だが、異常事態も五〇年以上続けばそれが通常態になる。
その通常態が終わりつつあること、すなわち、群雄割拠する国々が、一つ、また一つと滅亡し、新興勢力である宋に飲み込まれていっていることは、この時代の日本人たちに恐怖を感じさせることであった。何か一つでも間違いがあれば、日本国が、宋に飲み込まれていっている国々が迎えたのと同じ運命を迎えてしまうかも知れないのだ。
しかも、五代十国で群雄割拠している国の大部分は軍事政権である。強力な軍の指導者が国を興して王となり、統治するのに自らの率いてきた軍勢をそのまま常備軍として利用している国である。一方、平安時代の日本に常備軍などない。国の持つ武力は乏しく、武官はいるものの飾りも同然であり、地方の治安維持を各地の武士に委ねている状況である。
この点で、南漢は同時期の日本と似ていた。国が直接保有する軍事力が乏しく、文人の統治によって国を治める政治体制の国だったのである。ただし、日本と違って、文人の圧倒的大多数は宦官であった。史書によると、最盛期には総人口の二パーセントが宦官であったとされており、宋の侵略の前に降伏したときには七〇〇〇人もの宦官が拘束されたというのだから、国に占める宦官の比率は異常とも言える。
宦官であるかどうかは別として、日本と同様に文人の統治する国が武力の前に消え去ったという事実は、平安時代の人たちを萎縮させるのに充分であった。
何としても日本という国を守らねばならない、維持しなければならないという感覚は、健全さを捨ててでも優先しなければならない感覚だったのである。
天禄二(九七一)年時点の日本は平和を満喫していたとしても良い。争乱もなく、飢饉もなく、伝染病の記録もない。
歴史資料に名を残す出来事としては、天禄二(九七一)年一〇月二九日に、太宰権帥として太宰府に追放されていた源高明が召還されたぐらいなものである。
源高明の召還は源氏にとって喜ばしく感じられるニュースであったが、同時に、源氏を落胆させるニュースにもなった。ニュースを耳にした源氏のほぼ全員が、源高明にかつてのように藤原氏たちの対抗勢力となるよう期待したのである。ところが、九州から届いた源高明からの返信は、藤原氏の対抗勢力どころか政界引退を記したものであった。これが落胆を招いた。
京都から太宰府に政界復帰を促す書面が次々と送られたが、その返信はないか、あったとしても政界復帰を断固拒否するというものばかり。源高明に政界復帰の意志がないことを知った源氏の面々は結局、源高明への連絡を完全に止めてしまった。
源高明がどうしてここまで政界復帰を拒んだのかを明確に記した資料はない。だが、想像はつく。
律令派が意味を成さなくなり、源氏が唯一の反藤原勢力となって、自分がそのトップに立った。しかし、それが世論の支持を得ることはなかった。現在の藤原独裁の政治が日本に平和と安定をもたらし、生活水準の向上と文化の発展を見せている。
しかも、源高明は、藤原純友の手によって廃墟と化したとは言え、この時代の国際窓口であった太宰府におよそ二年間ものあいだ身を置いていたのである。その地にいる者は否応なく海外の情勢が伝わる。そして、海外で国が次々と滅んでいるニュースも耳にしている。
藤原氏の対抗勢力であろうと、日本国を滅ぼすようなことはあってはならないというのが、藤原氏にも、源高明にも、共通理解として存在していた。このタイミングで為すべきことは、藤原氏の対抗勢力の構築ではなく、現在存在している安定の継続である。
いくら自分が追放解除となっても、何でもしていいわけではない。
源高明は政治家であった。そして、政治家として自らが政治の舞台に戻らないことを決断した。
源高明の政界引退を踏まえ、天禄二(九七一)年一一月二日、藤原伊尹は人事の改変を行なった。正確に言えばこれまで太政大臣どころか左大臣すらいないという異常事態であったのを正常に戻したとしても良い。
まず、摂政右大臣藤原伊尹が、左大臣を経ることなく太政大臣に就任。同日、従二位から正二位へ昇格。
大納言源兼明、右大臣を経ることなく左大臣に就任。
権大納言藤原頼忠、大納言を経ることなく右大臣に就任。同日、従三位から正三位へ昇格。
中納言橘好古、権大納言を経ることなく大納言へ就任。同時に、源高明の召還によって空席となった太宰権帥にも就任。ただし、九州への赴任はなし。
参議藤原文範、中納言に就任。これに伴い、事務方のトップとして左大弁の職が解かれ、後任の左大弁に参議源保光が就任。
この人事でわかるとおり、議政官を構成する人員がそのまま昇格するのみで新たな参入はない。藤原氏と源氏以外は大納言に昇格した橘好古ただ一人という状況は変わっていない。
しかし、注目すべき点がある。
それは、昇格した者の中に、藤原北家の本流であるというだけで出世した者はいないこと。藤原伊尹自身は藤原北家の本流であるが、摂政として一年以上政務を司ってきており、このタイミングでの太政大臣就任は政務をスムーズに動かすためのものとするしかない。
右大藤原頼忠は摂政太政大臣藤原伊尹の右腕であり、中納言藤原文範は藤原氏の一員でありながら勧学院ではなく大学を出て、事務方のトップとして活躍してきた。この二人を太政大臣藤原伊尹の近親者ゆえの優遇と判断するには無理がある。
そして何より、藤原伊尹の弟である藤原兼通と兼家の二人の弟については完全に無視されている。藤原北家の本流ゆえに地位を掴めたが、地位を掴んだ後の実力勝負となると、兄伊尹と比べて劣っていたとするしかないのである。
これは、伊尹の太政大臣就任により空位となった蔵人頭別当に、弟たちの誰かではなく、左大臣源兼明を就任させたことからも読み取れる。天皇の秘書部門の名目上のトップの地位を藤原氏で占めれば円融天皇の側近を藤原氏で固めることもできるのにそれをしなかったのは、弟たちの能力を買っていなかったからとするしかない。
源氏が蔵人頭に就任すれば円融天皇の側近も藤原氏から源氏に変わるのは目に見えている。それでもなお蔵人頭の地位を左大臣源兼明に渡したのは、左大臣源兼明自身が強く求めたのもあるが、左大臣源兼明が要求を撤回しなければならないような人材を藤原氏で用意できなかったからとするのが普通であろう。
繰り返すが、この状態のまま続いていたら、混迷も起きなければ、藤原道長の権勢もなかったのである。
天禄三(九七二)年一月三日、円融天皇元服。
本来なら、元服を迎えた天皇に摂政は必要ではない。元服を迎えたと同時に、天皇が摂政に対して辞任を求めるか、あるいは摂政自らが辞表を提出するかした上で、改めてこれまで摂政であった者を関白に任命しなおすのが通例である。
それなのに、藤原伊尹は摂政の地位を手放そうとしなかったし、円融天皇も伊尹から摂政から辞任させようともしなかった。いや、できなかった。摂政太政大臣藤原伊尹の権勢があまりにも強くなりすぎてしまったのだ。
いかに天皇が国家元首であろうと、たったいま元服を迎えたばかりの若者に、権勢を誇る藤原氏を取り除いて政権を運営する能力はなかった。そして、一言で「摂関」とまとめられることが多い摂政と関白の二つの職務であるが、その権力は摂政のほうが強い。
摂政は天皇に代わって職務を遂行でき、その命令は天皇に匹敵する。儀式においても天皇の側に臨席することが認められており、誰が見ても摂政とは特権を持った貴族としか見えないのに対し、関白の職務は天皇に助言するまでにとどまり、命令とはならない。儀式においてもその席次はあくまでも一臣下に留まり、有力者であるとは理解しても、特権者とは見えない。
職務を強力に遂行するのであれば、関白よりも摂政のほうがより強い権限なのである。
藤原伊尹が摂政としての職務遂行を決意した裏で、一つの出来事があった。
天禄三(九七二)年一月一三日、大納言橘好古死去。享年八〇歳。
橘好古の死去により、議政官は藤原氏と源氏のみで構成されることとなった。
日本の歴史に朝鮮人は登場しないと書くと語弊があるが、そう書かざるを得ないほど、日本国二〇〇〇年の歴史の中に朝鮮半島はほとんど出てこない。日本人は朝鮮半島を意識してこなかったし、それは現在も続く話である。
無論、対馬や竹島までが日本であることも、それより先に陸地があって、そこはもう日本ではなく、そこに住んでいる人たちとは言葉も通じないことも、現在の日本と同様に平安時代の人も知識としてなら知っている。
そして、その地に対する興味も関心も現在と同じである。つまり、何の興味もない、どうでもいい土地という認識である。
日本語のどの単語を見ても、日本文化のどれを見ても、中国由来のものならば数多くあるが、朝鮮由来のものは何一つない。中国語の読み書きをしてきた知識人は多かったが、朝鮮語の読み書きをしてきた知識人はいない。
日本にとっての朝鮮半島とは、学ぶべきものもなく、取り入れたい文化もなく、輸入したい物品もない、ただただ海の向こうにある言葉の通じない人たちの住む貧しい地域でしかなかったのである。
この時代に視点を移すと、ついこの間まで、朝鮮半島は新羅という国であった。そして、日本人にとっての新羅とは、犯罪者であり、侵略者であり、一方的に戦争を仕掛けてくる迷惑な存在以外の何者でもなかった。
その新羅が消滅し、朝鮮半島は高麗となった。ただ、その国情はかなり不安定であった。特に、北の遼からの圧力が高麗にとって重荷となっていた。
日本は高麗と正式な国交を結んでいなかった。結ぶ必要がなかったからである。先に記したように、朝鮮半島のどこを見ても、輸入したい物品もなければ、学ぶに値する文化もない。仮想敵国とすることはあっても、国交を結ぶメリットはなかったのである。
しかし、日本にとってはいくらメリットのないことであっても、高麗にとっては国家存亡の危機である。いつ遼からの侵略に敗れ去るかわからない高麗は、自らの味方となれる存在を探していた。そして、日本に目をつけた。
高麗から、正式な国交を結びたいと打診してきたのだ。
これは日本にとっては困った話であった。高麗と国交を結ばないというのは、メリットの問題に加えて、国際安全保障上の問題もあるのだ。
古今東西、戦争というものは数多く存在するが、何の名目もなくいきなり攻撃を仕掛けるということはほとんど無い。どんなに無茶苦茶な理由であろうと名目は存在する。
遼は渤海国を侵略した国であるが、同時に、渤海国の歴史も引き継いでいるとしている。そして、渤海国は高句麗の継承国家であるという前提に立っていた国であった。一方、高麗もまた高句麗の継承国家を名乗っている。正確に言えば、高句麗に加え、新羅と百済の継承国家でもあるとしている。
高句麗の継承国家である渤海国の継承国家を自認する遼と、同じく高句麗の継承国家を自認する高麗がある。しかも国境を面している。これで摩擦が起きないわけがあろうか?
高麗は頻繁に遼の侵略を受け続けていた。そして、救いの手を求めていた。だが、中国は頼れなかった。頼れるような国がなかった。
そこで日本を頼ろうとしたのである。
日本にとっては困った話とするしかない。
侵略されようとしているのを放っておくのは道義的に問題がある。だが、ここで高麗と接触したら遼と敵対関係となってしまうのだ。
遼が渤海国の継承国家を自認しており、渤海国は誕生から滅亡まで日本の最大の同盟国であった。そして、遼は日本に対して何の敵対行動も見せていない。つまり、渤海国滅亡当初は海の向こうに現れた脅威と見られた国であったが、この時代になると、日本と遼は正式な国交がなくても友好関係を築けていたのである。
一方、新羅の継承国家でもある高麗は、新羅が日本にしでかしてきたこと、すなわち、一〇〇年以上に渡る日本への度重なる侵略と日本人拉致、そして日本への不法入国と日本国内での暴動、さらに海賊の構成員となって瀬戸内海を荒らし回ったこと、これら新羅の残した負の遺産をそのまま引き継いでいるのである。
日本人は朝鮮人に何の興味もなかったが、だからといって無視できる存在でもなかった。何しろ、目の前で暴れ回る犯罪者としては認識していたのだ。
友好国の継承国家と、侵略者の継承国家があり、侵略者の継承国家が友好国の継承国家に侵略されているから助けてくれと言われて、手をさしのべるだろうか。
しかも、新羅人やその子孫は、藤原純友亡き今も海賊として暴れ回っている。規模は小さくなったとしても、なお犯罪者であり続けている。その犯罪者に対する責任を全く口にせず、ただ助けてくれという相手に手をさしのべるのは世論が許さない。
しかも、手をさしのべたら最後、それまで友好国であり、日本に対する侵略の口実すら持っていなかった遼が、日本侵略の口実を手にしてしまう。その上、日本の軍事力は遼からの侵略を平穏無事にやり過ごせるほどの質と量ではない。武士団を計算するとしても、かなりの激戦の末に国が存続し続けることができるか否かというレベルである。
残酷であろうと、高麗からの支援を受け入れるという選択肢は日本にない。
天禄三(九七二)年九月二三日、太宰府から対馬に高麗の南原府使が来着したとの報告が京都に届いた。
天禄三(九七二)年一〇月一五日、太宰府から対馬に高麗の金海府使が来着したとの報告が京都に届いた。
高麗はかなり焦っていた。ここで日本の支援を得られないと国際社会で完全に孤立し、遼の侵略から逃れられなくなるのだ。
しかし、高麗の焦りも伴った国交の要請に対する摂政藤原伊尹からの答えはあっさりしたものであった。天禄三(九七二)年一〇月二〇日、太宰府に命じ、高麗に報符を送らせたのである。対馬に高麗の使者が来たので太宰府まで招いて歓待はしたが、国交樹立はないし、援助もしないというのが日本の回答であった。
その少し前の天禄三(九七二)年九月一一日、京都中を、いや、日本中を震撼させるニュースが響き渡った。この日、平将門・藤原純友の反乱の最中に精神的支柱になり、加茂川岸での大法会の開催などに尽力した空也が亡くなったのである。
日本中の人が空也の死に嘆き悲しみ、信仰心の薄い者でさえ空也を悼み神仏に祈りを捧げたのである。
その裏で、宮中でも大ニュースが飛び込んできていた。
摂政太政大臣藤原伊尹倒れる。
藤原伊尹は太政大臣に就任したあたりから毎日のように痩せていき、手足のしびれを訴え、視力が徐々に悪化していた。立ちくらみを起こして倒れることも頻発した。当時の人は伊尹がしきりに水を飲むようになったことから「飲水病」と呼んだが、症状を見る限り、糖尿病であったと見られる。藤原伊尹の糖尿病は、かつては食事と運動不足から来る病状とされていたが、現在は、先天的な疾病であったと考えられている。
藤原伊尹の突然の体調不良は、ただ単に一政治家の体調不良ではない。藤原氏の政権の根底を覆す大問題なのである。
藤原忠平亡きあとは実頼がトップに立ち、実頼のあとは実頼の甥の伊尹がトップに就いた。
問題はこのあと。
伊尹の後継者が不明瞭なのである。
伊尹に子はいる。子はいるが議政官の一員ではない。一方、伊尹の弟二人、兼通と兼家の二人が議政官の一員となっている。ということは、今ここで伊尹が倒れたら兼通か兼家のどちらかがトップに立つ。しかし、この二人のどちらがトップに立つのか。これが不明瞭だったのである。
そして、兼通と兼家の双方が自分のほうがトップに相応しいと考えていた。
伊尹が押さえつけることで平穏を保っていた弟二人の対立が激化してきたのだ。
藤原伊尹の病状は回復するどころか日に日に悪化していった。当然ながら、この時代に糖尿病の知識などないし、インシュリンの注射などもない。糖尿病が悪化した状態で放置されたままの患者がどのような症状を迎えるか。藤原伊尹の身体にはその症状が現れていた。
伊尹はまだ五〇歳にもなっていない。いかに平均寿命が現在より短い時代だと言え、五〇歳になっていない人間ならばあと一〇年は第一線で活躍できると考えるものである。本人もそう考えるし周囲もそう考える。そして、一〇年の間に後継者を育成し、徐々に後進に道を譲ると計画してもおかしなことではない。
その計画が糖尿病によりできなくなった。しかも、後継者候補である弟二人のどちらが地位を継ぐのかも明確になっていないだけでなく、目に見えて対立している。伊尹は限界まで粘ったようなのだが、それでも自身の身体の限界を感じ、天禄三(九七二)年一〇月二一日、摂政と太政大臣の両職を辞任すると発表するに至った。
両職の辞任発表自体は宮中の誰もがやむを得ぬことと受けとめた。
だが、兄の辞任発表がなされた直後の光景が、宮中の誰もが眉をしかめる醜態となった。円融天皇の御前で、大納言藤原兼家と、権中納言藤原兼通が口論を始めたのである。
この惨状を目の当たりにし、円融天皇は伊尹の両職の辞任を却下。だが、伊尹の病状を見る限り、いつその日が来てもおかしくないと誰もが考えていた。
その日が来たのは、辞任表明の二日後。伊尹の両職のうち、摂政の辞任についてだけを円融天皇が認めたとほぼ同時に、太政大臣藤原伊尹の死去の知らせが届いたのである。天禄三(九七二)年一〇月二三日、太政大臣藤原伊尹死去。
兄の死を聞きつけた兼通と兼家の兄弟は、兄の死に悲しむどころか、お互いに出し抜かれてはならぬと先を争って宮中に到着。先に到着したのは、兄で、出世競争で弟に先を越されていた藤原兼通である。
円融天皇は藤原兼通の到着の報告を聞きつけたとき、面会を拒否しようとした。しかし、兼通には奥の手があった。兼通にとって人生最大の奥の手である。そして、円融天皇がいかに面会を拒否しようとしても、その奥の手の前には面会せざるを得ななかった。
その奥の手とは、藤原兼通の妹で、円融天皇の実母であり、八年前の応和四(九六四)年に亡くなった藤原安子が死の間際に残した直筆の手紙であった。
大鏡によると、その手紙には、「関白をば、次第のままにせさせ給へ。ゆめゆめたがへさせ給ふな」とあったという。摂政・関白の地位を巡る争いがあったら年齢順にさせよ、絶対に逆転させるなという妹の手紙であり、兼通は亡き妹のこの直筆の手紙を袋に入れて、妹の死から八年間、首からぶら下げ続けて暮らしていたのである。この時に備えて。
円融天皇は亡き母の直筆の手紙に絶句。左大臣源兼明は藤原氏の内部の争いであるとして不関与を表明。結局、この時点で藤原氏の最高地位にある右大臣藤原頼忠が従妹の手紙の意思を優先させるべきと主張したことで、藤原兄弟の争いは決着がついた。
天皇の実母の意思で国政を動かすとは何たることかという疑念は湧く。
だが、関白はともかく摂政となると、天皇の実母の意思も無視できる要素にはならない。摂政とは天皇の職務代行者であり、行政においてかなり重要な職務であるが、貴族のピラミッドクライミングの中に含まれる職務ではない。行政において重要なのは太政大臣や左右の大臣であって、理論上、摂政とは天皇の近親者の行なう職務に過ぎないのである。近親者の行う職務代行を誰が行うかというのは、事実上はともかく、理論上は天皇個人の問題である。天皇の参加が求められるが天皇の代理でも問題ないという場面であれば、天皇の代理に誰を任命するかは天皇の自由であるとしても良い。求められるのは天皇の代理たるに相応しい正当性であり、優れた執政者であるかどうかではない。
それに、兼通と兼家の兄弟の争いは、国政とは無関係のどうでもいいことなのだ。
兼通と兼家の兄弟が争っているのは伊尹の地位を弟二人のうちのどちらが継ぐのかであって、国政そのものではない。さらに言えば、藤原氏を仕切る役目の藤氏長者の地位は、この時点で藤原氏のトップになった藤原頼忠のものであって、兼通のものでも兼家のものでもない。兼通も兼家も円融天皇の近親者であるから円融天皇の摂政になる資格はあるが、円融天皇は元服を迎えている以上摂政を置く必要は無い。
つまり、兄と弟のどちらが上かの争いがゴチャゴチャしていて国政にも藤原氏内部にも迷惑を掛けているが、争いそのものは実にどうでもいいことなのだ。
おそらくだが、左大臣源兼明も、右大臣藤原頼忠も、このときは村上天皇の治世のように摂政も関白も置かない天皇親政を考えていたのであろう。摂政になる資格を持つ二人の人としての資質の低さを考えたとき、兄弟のうちでまだマシに見えていた兼通を優先させるが、兼通を摂政にも関白にもさせないことを考えたのではないか。
くだらないことで争いを繰り広げているのに嫌気がさし、さっさと争いを終わらせるべく、絶好の口実を見つけて強引に解決した。そうとしか思えないのである。
しかし、このときの適当な判断があとで波乱を巻き起こすこととなるのである。
未来のいつのことになるかはわからないが、将来関白を置くとなったとき、兼通と兼家の争いが起こったとしたら兼通を優先するという決定である。
この決定を兼通は必要以上に過大に受けとめた。そして、円融天皇の決定に見合った地位を要求した。
このときの藤原兼通は権中納言であり、太政大臣をトップと考えると上から七番目の役職である。大納言以下は同じ職務に複数の人がいるから、藤原兼通より格上の貴族はこの時点で一四人いる。
これが兼通には気に入らなかった。
摂政になる資格を持つ自分が権中納言という低い地位なのはおかしい。弟の兼家が大納言なのだから、自分はそれよりも上の地位、少なくとも左右の大臣のどちらかでないとおかしいと主張しだしたのである。
藤原兼通という人はかなりのクレーマー気質なのだろう。今までは亡き藤原伊尹が抑えつけていたし、弟の藤原兼家との争いが結果としてクレームを抑える役割を果たしてもいたが、そのどちらの抑えも無くなった。こうなると待っているのがクレーム全開の嵐である。
権中納言なのに大納言以上の集まりに顔を見せるようになっただけでなく、本来なら上役であるはずの大納言藤原兼家を完全に無視するようになったのである。自分は大納言藤原兼家よりも格上であるとして。
会社員の人ならばこういう例えをするとわかりやすいだろうか。次期社長を約束された課長が、常務取締役にある弟を無視し、自分は弟より格上だとして取締役会議に何の迷いもなく参加しているのである。これで正常な組織運営が出来るであろうか? かといって、次期社長であることは間違いないのである。そして、課長ではなく、自分を専務以上にしろ、少なくとも弟より上の役職に就けろと言ってきている。しかも喚き続けている。
これでは迷惑であるだけでなく、取締役会が正常に機能しない。
もっとも、幸いと言うべきか、この時期の日本に差し迫った大問題は起きていない。国外からの侵略も、内乱も、飢饉も、経済危機も起きていない。庶民の暮らしの向上が政治家の唯一の指標であると考える私は、この時期の日本の政治家に良い評価をせざるを得ないのである。そう言えば、現在の日本の国会を見ても迷惑なクレーマーが騒ぎまくっているが、そのクレーマーが政権を握っていた三年三ヶ月の悪夢と比べて暮らしは目に見えて向上している。
摂政になる資格を持つ自分に相応しい地位を藤原兼通は求めている。妥協しても、弟である藤原兼家よりは格上である地位を求めている。
しかし、そんな地位の空席はない。左大臣も右大臣も埋まっている。それはもちろん藤原兼通も知っている。それを踏まえて要求してきたのが、太政大臣の地位。太政大臣が空席ではないか、兄である伊尹が就けたのだから自分でも就けるはずではないかという言いがかりをかけてくるとなると放って置くわけには行かなくなる。しかも、兼通の言い分は通用してしまうのだ。
太政大臣は人臣の最上位の地位である。しかし、藤原良房がこの地位に就いて以後、天皇の近親者、特に、天皇の母方の祖父が就任するのが通例になっている。こうなると、左大臣源兼明も、右大臣藤原頼忠も、左右の大臣にまでは就けても太政大臣には就けない。しかし、兄が太政大臣であった藤原兼通は太政大臣に就く資格を有しているのだ。しかも、摂政に就く資格まで持っているとなると、よりいっそう太政大臣に就く資格が増していく。
このようなとき、どのような手段を執ることが多いか。
最も多いのは、名はあるが実権は伴わない職を用意することである。相応の地位であると就いている人に思わせると同時に、権力を振るわせることはさせない、そのような名誉職である。
誰がその地位を思いついたのかはわからない。
だが、先例を探した結果、見つかった。
「内大臣(ないだいじん・当時の読みは『うちのおおまえつぎみ』)」である。
もともと内大臣は藤原鎌足が死の前日に贈られたのがはじまりで、その後、奈良時代に藤原房前が就任し、光仁天皇治世下で藤原良継、次いで藤原魚名が就任。ここまでは左右の大臣に次ぐ大臣職の一つであったが、左右の大臣と違って常設ではなく、桓武天皇の治世下で事実上の廃止となり、その後一三〇年間もの長きにわたり誰も就任することがなかった。
その内大臣職が復活したのは、昌泰三(九〇〇)年一月のこと。藤原高藤が死の淵にある際、それまでの功績を考慮して名誉職としての大臣に任命しようとしたところ、既に左大臣藤原時平、右大臣菅原道真が存在していたため空席がなく、菅原道真の発案により内大臣を一三〇年ぶりに復活させて、名誉職として藤原高藤に贈ったという先例があった。
その七二年前の先例を藤原兼通に適用したのである。
天禄三(九七二)年一一月二七日、内大臣職の復活が決定。同時に、復活後初の内大臣に藤原兼通が就任した。
兼通はこの待遇に喜んだ。何と言っても藤原家の祖である藤原鎌足が就任した職であり、藤原北家の祖である藤原房前が全盛期に勤めていた職である。藤原高藤の先例よりも、藤原房前の先例の方が重要だった。名誉職ではなく実利を伴った職であると考えたのである。
しかも、大納言である弟の藤原兼家より上の地位。左右の大臣より格下になるのを気にすることなく、受け入れることのできる待遇だと考えたのだ。
もっとも、復活した内大臣が大臣にカウントされると言っても、待遇で左右の大臣との間に差がつけられている。
まず、給与が安い。大納言よりは給与が多いが、左右の大臣と比べると安い。安いが、給与の格差は祖先の藤原房前も受けてきたのと同じ待遇なので文句が言えない。それに、藤原兼通にとっては大納言である弟の藤原兼家より給与が高いことのほうが重要と考えたのか、左右の大臣より給与が安いことについて何の不満も述べていない。
また、左大臣と右大臣は牛車に乗ったまま内裏に参内できるが、内大臣は他の貴族と同様、内裏の直前までしか牛車で乗り付けることができず、内裏に入るには自分の足で歩かねばならない。だが、これも、牛車そのものが大臣格の牛車、すなわち、大納言である弟の藤原兼家より格上の牛車に乗れることのほうを重要と考えたのか、他の貴族と同じ待遇であることについて文句を言っていない。
そして何より重要な待遇の差。それは、政治に対する実権である。
議政官の政務は左大臣の署名が必須だが、左大臣不在のときに限り右大臣の署名で代替可能となっている。しかし、左右の大臣が不在であるとき、大臣であっても内大臣の署名は代替として使用できない。政務のトップは左大臣、ナンバー2は右大臣だが、内大臣は左右の大臣に次ぐ大臣職だと言ってもナンバー3ではないのである。極論すれば、内大臣はいてもいなくても政務に何の影響もないのだ。
無論、議政官における議論で内大臣の主張が他の者を感心させ、内大臣の主張が認められて議政官の決定となることならばあり得る。だが、内大臣であっても議政官においては参加者の一人に過ぎない。天皇と大臣だけの集まりというときに内大臣が顔を出すことは許されず、大納言以上の集いならば顔を出すことはできるが、そのときも大臣だからと言って特別扱いされることはない。言論の力で自分の意志を通すことはできても、内大臣の名を利用することはできない仕組みとなっているのである。
これでは名ばかりの大臣と言っても仕方ない。
当時の人も、内大臣のことをこのように呼んでいた。大臣にカウントされない大臣だから「数の外の大臣」、あるいは、太政大臣や左右の大臣従うことしか許されない「かげなびく星」と。
天禄三(九七二)年一〇月二三日の太政大臣藤原伊尹死去のとき、左大臣源兼明も、右大臣藤原頼忠も、円融天皇親政を決めていた。藤原兼通が摂政になる資格を持った人間であると認めて内大臣の地位を与えたが、摂政になる資格を持っていることと実際に摂政になることとは違う。いわば、兼通の摂政就任資格はいざというときのための保険であり、使われることがなければそのほうが喜ばしいという程度のものであった。
ところが、喜ばしい事態にはならなかった。
円融天皇に親政を行える余裕がないことが判明したのである。いや、これは円融天皇だけではなく、他のどの皇族が皇位に就いても親政はできないと判明したのである。忠平が構築した藤原独裁のシステムに抵抗して天皇親政を実現させた村上天皇のほうが通常ではなく、摂政や関白を置いた政治のほうが通常になってしまったのだ。藤原忠平によって成立したシステムは、村上天皇という卓越した例外のときに一時中断したものの、その後の藤原実頼、藤原伊尹の二人によってさらに堅固なものとなっていた。今はもはや、全ての政務が摂政や関白のいることを前提とした仕組みになってしまったと気付かされたのである。
なぜこんなことになったのか。
天皇の役割があまりにも多くなってしまったのだ。
有職故実によって天皇の果たすべき役目・役割が明文化され、延喜式によってより詳細な行動が決まった。この結果、天皇は寝ている以外の全ての時間、いや、眠っている時間も常に、先例に基づく天皇としての行動に束縛され、執政者としてプラスアルファを執り行なう時間の余裕が無くなってしまった。
その詳細な役割を全てこなした上で執政者としての役割を果たした村上天皇のほうが普通ではなく、普通の天皇であれば、代行できる職務を可能な限り摂政や関白に割り振らなければ破綻してしまうという政治システムになってしまった。
この政治システムに、天皇個人の執政者としての有能さが求められる箇所はどこにもない。
天皇出席が求められる儀式であっても、そこで天皇が何ら特別なことをする必要はなく、場合によっては発言一つすることなくその場に天皇がいるだけでいい。その代わり、天皇以外の者が天皇の代わりを務めることは決して許されない。それは、大臣であろうと、摂政であろうと、決して許されない。
その一方で、天皇の代理が許される儀式もある。摂政や関白がいれば、天皇自身が参加しなくても構わないという儀式である。
現在の会社で考えると、絶対に社長自ら出席しなければならない会議と、本来なら社長の出席が必要だが、やむを得ない場合は社長の代理の出席でも問題ないとする会議と考えればよいか。
摂政や関白というのは、こうした会議での社長代理と同じ役割を果たせるのだ。ところが、円融天皇には摂政も関白もいない。つまり、代理を出すことができない。
こうなると、天皇は執政者として行動することが出来なくなる。何しろ、二四時間の全てが予定で埋まってしまっているのだ。日常の業務をこなすだけで手一杯のところに新たな問題が起こってしまって、それに完全に対処できたとすればそのほうがおかしいとするしかない。
皮肉なことに、保険であったはずの摂政や関白の必要性が改めて認識され、天皇親政は不可能だとするのが共通認識となった。
そして、この時点で摂政に就任する資格があるのは内大臣藤原兼通である。ただし、兼通の持っているのは摂政に就任する資格であって関白になる資格では無い。関白の資格という点で言えば、左大臣源兼明にも、右大臣藤原頼忠にもある。ついでに言えば、藤原頼忠は後年実際に関白に就任している。
だが、この時点で関白に値する人間は内大臣藤原兼通しかいないと誰もが考えていた。
左大臣源兼明も、右大臣藤原頼忠も同じ結論を出した。
内大臣藤原兼通に関白を務めさせ、円融天皇の負担を軽くすることである。
しかし、左大臣源兼明も、右大臣藤原頼忠も同じ感情を抱いていた。
藤原兼通の関白としての資質である。
これが皆無としか言いようがないのだ。
とは言え、摂政に就任する資格は藤原兼通にしかない。摂政に就任する資格と関白に就任する資格とが同じであると考えてしまっていたために、そして、それがあまりにも当たり前だとする固定観念で固まっていたために、摂政就任資格と関白就任資格が同じでないと誰もが気づかずにいたのである。
資料によっては天禄三(九七二)年一一月に、藤原兼通が事実上の関白となったと記しているものもある。他の資料では、関白に就任してはおらず内覧のみであったとしている。これは学者によっても意見の分かれるところであり、ある学者はこの時点で藤原兼通が関白となり、別の学者はまだ関白になっていないとしている。ただし、どの学者も、この時点で藤原兼通が内覧の権利を獲得していたことについては意見を同じくしている。
内覧というのは、天皇に捧げられる文書や、天皇が下す文書を、先に見ることが許されるという特権である。本来であれば摂政や関白のみに与えられる権限であるが、まれに、摂政でも関白でも無い者が内覧になることもある。先例として、醍醐天皇の時代に、当時の左大臣藤原時平と右大臣菅原道真の二人が内覧になったという記録もある。
左大臣源兼明も、右大臣藤原頼忠も、摂政や関白が持つ特権の一つである内覧を藤原兼通に与えることで、摂政でも関白でもない内大臣藤原兼通に天皇の職務の一部を委譲し、円融天皇の負担を軽くさせようとしたのであろう。
天禄四(九七三)年一月七日、藤原兼通正三位に昇格。これで内覧に相応しい位階を手にした。
天禄四(九七三)年二月二七日、奈良から、薬師寺が塔と金堂を残して全焼したという知らせが飛び込んできた。
天禄四(九七三)年三月一三日、京都の北野社(現在の北野天満宮)の御在所・礼殿が焼け落ちたという知らせが飛び込んできた。
これを偶然の連続と考えるには無理がある。むしろ連続放火強盗事件と考えた方がいい。そして、円融天皇の命令により、この時代の武人のトップとして君臨していた源満仲に、連続強盗放火事件の犯人を捕らえるための捜査命令が下った。京都市民もこの事件に源満仲が対応してくれることを期待した。平和な日常の中で飛び込んできた犯罪に対する怒りが源満仲を後押ししていたとしても良い。
ところが、この期待に対する結果は最悪なものであった。
天禄四(九七三)年四月二三日、強盗犯のほうが源満仲の邸宅を囲んで、放火。被害は源満仲の邸宅だけでなく、周囲の民家五〇〇戸あまりが焼け落ちるという大災害となったのである。燃えさかる炎の中、源満仲の三男である源満季が実行犯とされる者(氏名・性別・人数は不詳)を捕らえることに成功したが、京都市民は犯罪の根の深さを思い知ることとなった。
ただの連続強盗放火事件ではない。
テロリズムなのである。
テロは犯罪であり公権力によって処罰される。これを誰もが当然と考える。だが、テロリストの立場に立つとどうか。自分のことを正当な存在と考え、それが犯罪であると知っていても犯罪をする自分が正当な行為をしていると考え、自分を取り締まる公権力は敵としか考えない。
思い起こしていただきたいのは、テロに立ち向かう機動隊である。
テロリスト側は自分たちのことをテロリストだと考えていない。正義の存在だと考えている。嘘だと思うなら特定日本人たちに聞いてもらいたい。彼らは自分たちのことを特定日本人だと、すなわちテロリストで犯罪者であるという認識を持っていないし、認識する知力すら持っていない。暴力を振るうこと、容赦ない暴言を吐くことを犯罪だと思っていないし、自分たちが日本人に支持されると思い上がってもいる。
そして、その正義の自分たちに立ちはだかる機動隊の方を悪の組織と考えている。圧倒的大多数の日本人が機動隊を支持している現実には目を閉ざし、自分たちの敵である機動隊には何をしてもいいとさえ考えている。そして、法に基づいて処罰されたら不当逮捕だと訴える。
このときの源満仲は、現在で言うと警察権力のトップ、すなわち警察庁長官に等しい。しかも、自ら検非違使、現在で言う機動隊を指揮して犯罪者たちに向かい合っている。これを市民は頼もしく考えていたが、プロ市民は敵として憎んでいた。
その結果がテロリズムであった。
内大臣藤原兼通は、源満仲に責任を迫った。
理屈はわかる。何しろ五〇〇件もの民家が燃えてしまったのだ。
だが、治安を守るために源満仲は全力で取り組み結果を出している。放火はテロリストの報復であり、仕方ないことと済ませるわけにいかないのは事実でも、断罪されるようなものではない。
普通であればそのような理屈を示せば折れるものである。だが、兼通はその理屈を受け入れるような人間ではなかった。徹底的に満仲を糾弾し、責任をとるよう迫ったのだ。
源満仲は責任をとるとして、京都を去り、かつて源満仲が国司を勤めた摂津国に移住。摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)に身を寄せた後、多田荘(現在の兵庫県川西市多田)で一大武士団を築くこととなるのである。京都から距離を置く。だから京都の治安維持に手は回らない。その代わり、瀬戸内から京都にいたる道中には目を光らせる。それが源満仲の選択であった。
自ら京都を去った源満仲と接触を図る者がいた。大納言藤原兼家である。
藤原伊尹が太政大臣であった頃は出世競争で兄に勝っていたのに、摂政就任資格競争に敗れた瞬間、内大臣となった兄から無視され、権力から遠ざけられたのである。
源満仲はもともと、安和の変で追放された源高明と接点が強かった。それが安和の変を期に藤原氏に接近するようになり、藤原氏の支持のもと武力を率いて治安維持に当たるようになっていたのである。その藤原氏の中でも次期摂政の地位が約束されている、そして、近い未来関白になることが目されている藤原兼通に叱責されたことで源満仲は中央政界での出世を諦め、武人としての誇りだけを胸に摂津国へ移った。
その源満仲に、満仲と同様藤原兼通の手によって権力から遠ざけられるようになった大納言藤原兼家が接近するようになった。平安京と、摂津国多田荘とを、手紙を持った使者が何度も往復するようになったのである。
一方、満仲に責任をとらせることでテロに譲歩した形となる藤原兼通の評判は最悪なものとなった。
この時代にもし選挙があったら、兼通の所属する政党は間違いなく惨敗していたであろう。それは、藤原冬嗣から一五〇年に渡って連綿と続いてきた藤原北家の勢力に終止符を打つに等しい話である。
しかし、藤原兼通に市民の評判は届かなかった。評判の悪さをわかっていて無視したのではない。評判の悪さを理解する能力すら持ち合わせていなかったのだ。
藤原兼通を一言で評すと、愚人。知能指数も偏差値もかなり低いと言わざるを得ない。それでも政治家としての能力が高いならまだ救いはあるが、そちらも低い。
権力欲は強い。そして、自分の地位が高まることならば何でも手を出す。手を出すし、口も出すが、何もしない。いや、何かをする能力がない。
そして、自分の責任は絶対に認めない代わりに他人の責任はこれでもかと追求する。自分が誰かを攻撃するのは何とも思わないが、誰かが自分を攻撃するのは絶対に許さない。
これを現在の日本でいうと、菅直人である。絶望的に頭が悪く、政治家としての能力は欠片もなく、何であれやたら口出しするのに責任はいっさいとらず、他者への攻撃は容赦ないのに自分への攻撃は絶対に認めず怒りを爆発させる。
こういうバカが権力を握ったらどうなるか、今の日本人は身を以て理解しているであろう。それがこの時代の日本に起こっていたのである。
権力欲に取り憑かれた人間は、自分の権力を維持し、拡大するためならば何でもする。無論、それが全て悪いこととは言わない。執政者が権力欲を満たそうとする行動と、国益にかなう行動とが一致するならば、それは何も文句を言われる行動にはならない。
藤原氏の人間が自分の娘を天皇に嫁がせるのも、皇室との結びつきを強め、天皇の近親者となって摂政や太政大臣に就任しやすくするという私利と同時に、皇統の連続を維持し、国に安定をもたらすという国益に該当する。
天禄四(九七三)年七月一日、藤原兼通が長女のコウ(「女」偏に「皇」)子を円融天皇の中宮とさせている。ここまでは国益に該当する。
しかし、兼通の選択は必ずしも国益に該当するとは言えないものであった。
円融天皇にも、藤原兼通の娘にも同情が集まった。そして、内大臣藤原兼通には批判が集まった。この時代のほとんどの人は、この結婚で皇太子が生まれることを期待しなかったのである。
円融天皇にこの時点で子供はいない。そもそも円融天皇は元服したとはいえまだ一五歳。一方、藤原兼通の長女は二七歳。この時代の結婚は男性のほうが女性より歳上であるほうが一般的であることを考えれば、一二歳も年上の女性と結婚したというのは異例中の異例とするしかない。
しかも、彼女には子供を産んだ実績が無い。現在と違い、この時代の女性は一〇代で結婚し子供を産んでいるのが普通である。二七歳にもなって結婚せず、子供を産んだ経験の無い女性というのは、現在ではごく普通でも、平安時代では娘の親の無能を疑われ、娘自身には子供を産むことが期待されなくなってしまう。二〇代後半での出産は、二一世紀の現在ではごく普通の年齢での出産でも、この時代ではリスクの高い高齢出産扱いされるのだ。実際、娘をより高い身分の男性に嫁がせるべく結婚を後ろ倒しにした結果、婚期を逃してしまった女性が、父の死により貧困生活に陥ってしまった例や、結婚できずに尼僧にさせられた例が頻繁に見られた。
藤原兼通はとっておきの切り札として娘を結婚させずにいたのだろう。それはわかる。だが、そのとっておきの切り札をこのタイミングで強要したことは兼通の評判を下げるに充分であった。
もっとも、この結婚は円融天皇にとって最愛の女性との結婚になったようで、円融天皇が妻に捧げた愛の歌も残っている。
天禄四(九七三)年一二月二〇日、元号を天延に改元すると発表した。改元の理由については記録に残っていない。天災や地震、凶兆を振り払うための改元ということになっているが、肝心のそれらの天災の記録が残っていないのである。
おそらくだが、史書に名を残すほどの大災害とはならないものの、小規模な災害は起きていたのだろう。そして、その対策を円融天皇はこなしきれなかったのではないだろうか。
先に記したとおり、円融天皇の多忙さから、摂政・関白の必要性が改めて問われるようになっていたのである。それは、円融天皇に代わって天皇としての職務を務める者の必要性ではなく、天皇の代理で儀式に出る者の必要性である。極論すれば誰でもいい。
もっとも、誰でもいいと簡単に言うが、天皇の代理である。そう簡単に任命するわけにはいかない。そして、この時点で摂政・関白に就く資格があるのは藤原兼通ただ一人であると誰もが考えていた。兼通自身もそう考えていた。
そして、兼通は摂政・関白に相応しい地位を要求するようになっていた。次期摂政だから内大臣という地位に甘んじているのであって、実際に関白となる以上、相応の地位は必要であると言いだしたのである。しかも、それを関白に就任する条件として提示したのだ。
藤原兼通が求めた地位は三つ。
一つは位階。この時点の兼通は正三位であり、左大臣源兼明も右大臣藤原頼忠も従二位である。兼通は左右の大臣より格上になる正二位を要求した。
二つ目は役職。これもまた左右の大臣より上の役職、すなわち太政大臣を要求。それこそが関白に相応しい役職であるとしての要求である。
そして三つ目が藤氏長者。藤原氏全体のトップの地位であり、この時点では右大臣藤原頼忠がその地位にあった。この時点の藤原氏で最も位階が高く、最も役職の高い藤原頼忠が藤氏長者なのはごく普通のことであったが、藤原兼通の主張が実現すれば、位階も、役職も、藤原頼忠より格上になる以上、藤原兼通が藤氏長者になるのに相応しいと主張したのである。
何とも理不尽な要求に思えるが、この全てを飲まなければ兼通は関白を引き受けず、関白がいなければ円融天皇の政務軽減もできない。
おそらくかなりの議論が交わされたのであろう。そして、すんなりとは話がまとまらなかったと見える。なぜなら、兼通の要求に対して小出しを続けた回答になっているからである。
年が明けた天延二(九七四)年一月七日、藤原兼通がまずは従二位に昇格。役職は内大臣のまま。藤氏長者の地位も藤原頼忠が握っている。藤原兼通は、それまで正三位であった自分がいきなり正二位になるのはさすがにおかしな話と考えたのか、位階については文句を言っていない。しかし、位階で同格になった藤原頼忠が藤氏長者で、次期関白である自分がそうでないのは納得がいかないと不平を述べている。
天延二(九七四)年二月八日、藤氏長者の地位が藤原頼忠から藤原兼通に譲られることとなった。円融天皇の名で正式に藤原氏長者は藤原兼通であると宣言されたのである。これで兼通は望んでいた地位の一つを手に入れることができた。しかし、同時に一つのクレームを突きつけた。藤氏長者にして次期関白である自分より、藤氏長者でない藤原頼忠のほうが上の役職なのは納得がいかないというクレームである。
天延二(九七四)年二月二八日、藤原兼通、太政大臣宣下。同日正二位に昇格。これで藤原兼通は名実ともに人臣のトップに立った。
そして、天延二(九七四)年三月二六日、太政大臣藤原兼通に正式に関白宣下。研究者によって兼通が関白に就いた次期が分かれるのは、この日が正式な関白就任日だからである。
それまで藤原兼通は内覧として関白の権利の一つを行使できており、それをもって藤原兼通は以前から事実上の関白であったという考えがあり、この考えに立つと、藤原兼通の関白就任は名目のみで、特に意味がないこととなる。
一方、内覧と関白の地位は必ずしも一致しないという立場に立てば、兼通の関白は天延二(九七四)年三月二六日がスタートであり、この日の重要性が格段に増すこととなる。
ここで、摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣の六つの職務について、その違いを記しておかなければならない。そうでないと、左大臣も右大臣も経験せずにいきなり関白太政大臣となった藤原兼通がどのような権力を手にするようになったのか説明できないのだから。
まず、摂政についてだが、これは天皇の代理である。日本国以外に君主制を採用している国にも摂政という役職はあり、君主が君主としての職務を果たせないとき、たとえば、君主が幼少であるとか、病身にある、あるいは、国外に外遊しているため国内の政務ができないなどの理由で、君主の代理を務める役職が摂政である。日本国憲法第五条で定義されている摂政も天皇の代理としての摂政であり、これは君主制の国ではごく普通の光景としてもいい。
平安時代に話を戻すと、藤原氏の就任する平安時代の摂政は、現在見られる摂政と同じ意味を持つ。まず、法令に署名する際、天皇の御名御璽がなくても摂政の署名捺印で正式な法令となる。また、天皇の参加する儀式において天皇の側に並ぶことが許されるし、本来ならば天皇の参加が求められるがやむを得ぬ事情で天皇が参加できないという儀式では、玉座に座ることはないにせよ、天皇の代理として参加できる。ただし、それはあくまでも天皇の近親者が天皇の代理を務めるという名目であり、有力者だから天皇の代理を務めるのではない。有力者が摂政になることが多いのは事実だが、それでも名目は天皇の近親者としての代理である。
次に、摂政と並び称されることの多い関白についてだが、これは摂政ほどの権力はない。法令に関白が署名捺印してもそこには何の意味もなく、天皇の御名御璽がなければ正式な法令とはならないのである。また、天皇の参加する儀式においても関白はあくまで臣下の一人であり、天皇の側に並ぶなど断じて許されない。ただし、本来ならば天皇の出席が必要だがやむを得ぬ事情があるときは天皇の代理でも構わないという儀式で、天皇の代理を務めることは、摂政と同様に許される。もっとも、そのような儀式であっても摂政と同様に玉座に座るなど許されないのは摂政と同じであるが、摂政が臣下の席を離れて玉座のすぐ側に身を置くことが許されるに対し、関白の場合は臣下の席の中で最も玉座に近い場所に位置することが許されるだけであり、やはり摂政より劣る待遇である。
天延二(九七四)年当時の人が誰一人として考えなかったのは不思議であるが、実は、関白が天皇の近親者である必要などどこにもない。有能な臣下のうちの一人が政治的に強い権利を持ち、天皇への文書を誰より先に見ることができ、天皇に対して誰より先に助言できるという特権を手にし、儀式において天皇の代役を務めることが許される職務が関白であるが、関白の就任条件のどこにも天皇の近親者という文言はないのである。摂政と並び称されるから天皇の近親者を就任条件に考える者が多かったが、この三年後、藤原兼通自身が就任条件に近親者であることが含まれていないことに気づいて政治闘争に利用することに成功し、後年、豊臣秀吉が関白になれたのも、近親者であることが必要条件ではないことを利用してのものであった。
関白と同時に藤原兼通が就任している太政大臣について述べる前に、この時代の会議体を説明する必要がある。と言っても現在の憲法のように明確な国会の規定があるわけではなく、だいたいこのような形であったというだけである。
全ての職務に欠員がいないとして、下から、参議、権中納言、中納言、権大納言、大納言、内大臣、右大臣、左大臣が集うのが議政官(ぎせいかん)である。意見は下の職務の者から述べていき、最も役職の上の者の発言を終えてから討議に入る。この討議の結果が議政官の決議となって天皇に上奏される。通常は、この太政官の決議に天皇の御名御璽が加わり正式な法令となる。
つまり、議政官は現在の国会のようなものと捉えていい。
そして、この上奏の際に必須となるのが左大臣の署名捺印である。左大臣は議政官の議長を務めており、討議の結果をまとめて天皇に上奏するのが左大臣という職務の最大の役割としてもよい。
また、太政大臣がしばしば名誉職的に祭り上げられることが多いのに対し、左大臣は実務職として行政の指揮を執る必要もある。
さらに、司法権のトップも左大臣に存在し、弾正台や検非違使の判決を差し戻し、逮捕や取り調べに不正があれば弾正台や検非違使を罰することも許されている。
つまり、現在の三権分立の三権、司法・立法・行政全てのトップを兼ねる職務にあったのが左大臣である。
左大臣のことを別名「一上(いちのかみ)」ともいうほどで、左大臣には絶大な権力があった。しかし、左大臣の署名捺印がなければ正式な上奏とならない一方で、左大臣の意見は議政官の決議を上回るものではなく、議政官における左大臣は議政官を構成する人員の一人に過ぎない。左大臣がいかにその法案に反対していようと、左大臣以外の意見が賛成であったら、議政官の決議としては賛成となり、左大臣は自分の意見に反対であっても上奏文に署名捺印する義務がある。
国会の決議が内閣の意志よりも優先するという現在の日本国憲法の仕組みに従えば、左大臣は現在の衆議院議長と内閣総理大臣とを兼務する者に、司法介入の権力を加えた存在に相当する職務であると考えるといいだろう。
左大臣が衆議院議長兼内閣総理大臣なら、右大臣は衆議院副議長と、副総理あるいは内閣官房長官を兼任する地位に相当する職務である。右大臣は左大臣が不在のときや、左大臣が欠員となっているときに、左大臣の代わりを勤める義務がある。左大臣不在の場合は右大臣の署名捺印で正式な上奏文とすることができる。そして、左大臣不在のときに「一上」と称されるのは右大臣である。
一方、ついこの間まで藤原兼通が就任していた内大臣であるが、これは、大臣を名乗ってはいても、左大臣にも右大臣にもなれない存在である。左右の大臣が両名とも不在の場合はそもそも議政官自体が開催されないし、無理に開催しても内大臣の署名捺印では正式な上奏文と見なされない。議政官の席次で大納言より上であるといっても、議政官の議論で自らの意志を通したければ、権力ではなく弁論の力に寄らねばならない。
さて、左大臣、右大臣、内大臣と見てきたわけだが、彼らはいかに大臣であっても、議政官の中では一票に過ぎない。自分がいかに反対しても他の者が賛成なら議政官の決議は賛成になるし、一度決まった決議には従う義務も生じる。藤原氏の独裁体制と言っても、議政官を独占するのでなく過半数を占めるにとどまっているのも、現在の国会に視点を移し、衆議院で過半数を占めることの意味を考えれば納得できる。
ところが、太政大臣になると、議政官の決議に対する拒否権が生まれる。議政官の決議が自分の意志と合っていないときは、天皇に上奏する前に差し戻すことができるのだ。もっとも、どのような議論が行なわれ、どのような決議がなされたかは議政官の決議が出たと同時に公表される。そして、太政大臣が拒否権を発動したとしたら、それもまた公表される。だから、拒否権を持っているといっても、そう頻繁に使用できるものではない。
二一世紀の現在、太政大臣に最も近い職務は何であるかを考えたとき、地方公共団体の首長、もしくはアメリカ合衆国の大統領と近いと言える。と言うのも、行政について強力な権力を有しているだけでなく、何と言っても議会に対する拒否権を持っている存在なのだから。拒否権がいかに強力な権力であるかは、古代ローマにおける護民官、あるいは、ローマ皇帝の権力の由来である護民官特権を考えれば、あるいは現在の国連安全保障理事会の常任理事国の持つ拒否権を考えていただければいい。
さて、時代を天延二(九七四)年三月二六日に戻すと、藤原兼通の持っている権利は関白と太政大臣の二つである。すると、奇妙なことに気づく。
藤原兼通は左大臣も右大臣も経験していない。議政官の議事運営の経験もなければ、代表者としての署名捺印の経験もなく、一上としての職務遂行経験がゼロである。それがいきなり関白太政大臣になったのだ。
藤原兼通がいかに愚人であると言っても、兼通とて太政大臣の持つ拒否権が伝家の宝刀であることぐらいわかる。実際、議政官の決議に対して拒否権を発動していない。関白の職務にしたって、儀式に天皇の代理として参加したところで、天皇の代理が許されるような儀式はそんな大事な儀式ではない。決まっている儀式だから参加するが、藤原兼通のすることと言えば、儀式の場にいるだけであとはただ黙り込んでいればいいという程度のものしかない。
関白の権利として天皇宛の文書に先に目を通すことが許されると言っても、天皇宛の文書を作るのは議政官である。何もしなければ、伝家の宝刀を抜かないまま先に目を通し、何の手も加えることなく円融天皇に文書を届けるだけに終わる。
これはもう、権威と官職を求め続けたクレーマーに対する、この時代の人たちが知恵を出して編み出した、名を捨て実をとる最高の対処であったとするしかない。鳩山由紀夫や菅直人を見ればわかるが、無能が害悪をもたらすのは発言したり行動したりするときであり、行動せず、黙り込んでいるならば、無能であろうと構わない。そもそも、有能である必要すらない。
藤原兼通自身は自己の地位に満足し、円融天皇は職務が軽くなり、政務は滞らなくなる。これは実に巧妙な対処と言う他ない。ただし、黙り込んでいるならば。
天延二(九七四)年の正月、尾張国から一つの誓願が太政官に届いていた。
国司藤原連真(下の名を「連貞」と記している資料もあり、どちらが正しい名であるかは判明しない。遠山久也氏編集の「国司補任索引」では両説を併記している)の罷免を求める誓願である。後に頻発することとなる国司苛政上訴の初例である。ちなみに、国司苛政上訴の中でもっとも有名な「尾張国郡司百姓等解文」はこの一四年後の事件となり、このときの誓願と異なる。
この史上初の誓願に対しどのように扱うべきか、太政官では対処しきれず議政官に上奏されることとなった。かといって、議政官でもこれは難問である。議政官の意見は誓願を受け入れるか否かの真っ二つに分かれた。何しろ前例がないのだ。
名国司として評判の人物を辞めさせないでくれ、任期を伸ばしてくれという誓願ならば受けたことがある。讃岐国の名国司として名をはせ、後に応天門炎上事件によって流刑となる紀夏井は、その善政ぶりが讃岐国の民衆に絶賛され、任期を二年延長してもらったほどである。
ところが今回はその逆。国司を辞めさせてくれという誓願である。
藤原連真は天慶九(九四六)年に三河国に権掾として赴任し、天暦九(九五五)年まで同職を務めていることは記録に残っている。それからしばらく記録から名が消え、この時点で尾張国司となっていたという記録で再び史料に名を見せるようになった。
家系図によると藤原連真は藤原南家の人間である。つまり、隆盛極める藤原北家の人間ではなく、同じ藤原氏ではあるが勧学院ではなく他の貴族と同様に大学に通い、学者となったのちに政界入りするのが通例な家系である。三河権掾を勤めたのも、大学出身の役人が貴族にステップアップするのに通るごく普通の流れであるからこれはおかしな話ではない。そして、尾張国司となったのも大学出身の貴族のごく普通のキャリアアップである。
ところが、この尾張国司としての藤原連真が尾張国の人たちから快く迎え入れられなかった。それが何なのかはわからない。一四年後の尾張国郡司百姓等解文には尾張国司がいかに過酷な統治をしたかを記しているので反感を買った理由もわかるが、このときの藤原連真が何をして反感を買ったかが記録に残っておらず内容がわからないのである。
もっとも、当時の人たちはわかっていたはずである。尾張国郡司百姓等解文は現在まで全文が残っているが、それはむしろ珍しい話であり、普通は誓願があったという記録だけが残って誓願の中身そのものはわからないものなのだから。
当時の議政官の面々は誓願の中身が真実であるかを判断し、それに基づいて決断を下した。
正月に誓願があったにも関わらず、結論が出たのが天延二(九七四)年五月二三日になってからだというのも、判断にそれだけ時間がかかったからであろう。何しろ前例がないことであり、このときの判断が後の前例となるのだから。
結論は、尾張国司藤原連真、更迭。新たな国司として藤原永頼を任じるというものである。
これは、在地の者にとっての絶好の先例となった。
天延二(九七四)年八月、天然痘、当時の呼び名で疱瘡の流行が確認された。
現在の医学を以てしても伝染病の流行を完全に食い止めることはできない。ワクチンを大量に用意し、感染者を隔離するとしても、流行を鎮めるだけでゼロにはできない。
当時の医療ではもっと期待できない。何しろ天然痘のメカニズムがわかっていないのである。経験的に、一度罹患したら二度と罹患しない、発症した人に近づくと自分も発症する、罹患するか否かは身分差も年齢差も性別の差もないこと、などがわかっている。
ただし、当時と現在とで伝染病に対する考え方の決定的な違いが一つある。それは伝染病に限ったことではないが、天災は、時の執政者が失格であることを告げる天からのサインだという考えである。優れた執政者の時には天災など起こらず、執政者に相応しくない者が執政者になると天災が起こるというのがこの時代の考えであった。
そして、このときの執政者は関白太政大臣藤原兼通である。
藤原兼通の関白太政大臣就任は、当時の議政官の面々、特に左大臣源兼明と右大臣藤原頼忠の二人が考えた、藤原兼通に対する体裁のいい閑職化としての関白太政大臣就任であり、兼通が関白太政大臣に就任してからこの時点まで、関白として、あるいは太政大臣として何らかの政務を行なった記録はない。有職故実に従って儀礼的な職務を遂行するぐらいはしたであろうが、現時点で起こっている問題をリアルタイムに解決するという政治家の最大の仕事をしたという記録がない。
その理屈でいくと藤原兼通は執政者ではないのだが、当時の人はそうは考えない。しかも、当時は支持率という概念などないが、この時代に世論調査を行なったら兼通への支持率はきわめて低いものであったはずである。兼通は当時の人たちから憎まれていたし見下されてもいたのだから。
このような状況で起こった天然痘の流行。これは兼通に対する攻撃の絶好の材料となった。天は執政者藤原兼通を認めていないという言論である。
藤原兼通という人は元々世論をそこまで気にするような人ではない。平安京の一般庶民が何を言おうと一般庶民には国政のことなどわからないと決めかかっている性質である。しかし、一般庶民ではない者の意見となると話が違う。特に、かつて藤原氏の対抗勢力として君臨してきた律令派の面々の意見となると平然とはしていられなくなる。
その上、藤原氏でも源氏でもない者が議政官から消失している現状において、もはや理念のみとなった律令派の信条は、藤原氏でも源氏でもない第三勢力を束ねる政治信条にもなりうる話であった。
天延二(九七四)年八月一〇日、慶滋保胤らが、律令派の集会と見られるようになった勧学会(かんがくえ)の堂舎建立資金の寄付を求めるようになっていたのである。第三勢力として自らを確立させるための寄付であり、第三勢力中最大の氏族となっていた橘氏の橘倚平に寄付を求めるように迫ったのである。
勧学会が本来の目的の通り、集まって念仏を唱えるだけの私的な仏教行事ならば何の問題もない。だが、第三勢力が律令派の政治信条に基づいて天下国家を論じる集団となると何とも迷惑な存在となる。
考えてみていただきたい。平日の昼間にわざわざ沖縄まで出向いて、沖縄県民でもないのに沖縄の米軍基地の前に行ってオスプレイ反対を訴える人たちは、いったいどうやって生活しているのか。交通費も滞在費用も誰がどうやって出しているのか。何しろ彼らは働いていないのだ。
現在のプロ市民とか特定日本人とかは、巨大な悪と戦っている自分たちを格好良い存在だと考え、自分たちに逆らう者は全て敵であり、敵には何をしても良いという考えに至っている。このような考えは二一世紀の現代日本だとせいぜい特定日本人やプロ市民の迷惑な抗議行動ぐらいだが、ほんの少し前に目を転じれば、昭和四七(一九七二)年の連合赤軍事件を覚えている人も多いであろう。あるいは、ポルポトや文化大革命、ロシア革命といった大量虐殺は、現代人ならば世界史で当然習う、人類が決して忘れてはならない過去の悪夢である。
この時代の人たちにとってもそうした過去の悪夢は同様の存在で、平将門や藤原純友は忘れることのできない過去の悪夢であったし、海の向こうで国が生まれては滅ぶのを目の当たりにしてきたのも忘れることのできない過去の悪夢である。そして、そのスタートはいずれも、天下国家を論じることから始まる私利私欲の行動なのだ。そして、寄付を求めるとなるとその私利私欲の行動はさらに悪化する。
これは寄付と記すから良くない。正しく恐喝と記すべきである。
現在の日本のプロ市民の活動費も、レーニンや毛沢東といった革命を名乗るテロリストの活動費も、全て寄付という名の恐喝によって生み出されてきた、あるいは現在進行形で、恐喝によって生み出されているのである。自己陶酔のために、真面目に働いて稼いでいる人たちを脅して金品を巻き上げるのが日常となるのは断じて許されることではないし、芽のうちに摘まねばならないことでもある。そうでなければ、この時代で言うと藤原純友のような海賊、現在で言うと特定日本人のような犯罪者がのさばるようになってしまう。
しかし、名目があると強制によって摘み取ることができないのも、今も昔も変わらない話である。今の日本には言論の自由があり、行動の自由があり、恐喝であっても名目上は寄付であるとなると処罰できないのと同様、この時代の勧学会も、名目は念仏を唱えるための私的の集いであり、恐喝ではなく寄付であると名目づけられてしまうと、たとえそれが藤原純友のような海賊の前兆であっても、朝廷としては処罰できなくなるのだ。
そして、プロ市民が政権批判に終始して自己満足に浸ること、古今東西普遍の原理である。バカだから具体案は出せないが、批判だけならバカでもできる。勧学会に集った人間が天然痘を理由に挙げての関白太政大臣藤原兼通を容赦なく批判するのも、天然痘に名を借りたプロ市民の自己満足でしかない。
藤原兼通ははっきり言って頭のいい人間ではない。どんなに贔屓目に見ても平均未満とするしかない。
無能さと権力欲に対する批判を徹底的に受けている藤原兼通は、自分に対する批判が一般庶民から受けている間は平然としていられた。それは、批判を権力者として当然のことと受け流したからではなく、藤原兼通にとっての一般庶民など街を彩る風景に過ぎなかったからである。こんな馬鹿げたことは平均未満の知性だからこそできた話であり、平均以上の知性のある人間には絶対にできない。だが、視線に入るプロ市民からの容赦ない批判となるとそうはいかない。どんなに無能でも対峙しなければならなくなるのだ。
藤原兼通はかなり憔悴していたと考えられる。天延二(九七四)年八月二八日、天然痘の流行により、紫宸殿前庭などで大祓を行うよう命じたのも、批判の元凶である天然痘の沈静化だけでも果たせないかと考えてのことである。ちなみに、天然痘の沈静化にはつながらなかった。
天禄三(九七二)年の末に高麗から使者がやってきたことは既に記した。そして、それに対する日本の回答が無かったことも既に記した。
ただ、その間に日本に新たな関白太政大臣が誕生したことに加え、高麗の政情悪化の度合いも増してきていた。情勢の悪化にいかに対処すべきか考えた高麗は、二年前に拒否された日本の変化に期待して、もう一度救いの手を求めるよう考え、使者を派遣したのである。
とは言え、いかに新たな関白太政大臣が誕生しようと、議政官を構成する面々の顔ぶれに大きな変化がないことを考えれば、今回もまた正式な国交を結ばないことは目に見えている。よって、使者の派遣と言ってもそれは正式な通交ではない。あくまでも民間交易である。
天延二(九七四)年閏一〇月三〇日、高麗国交易使、財物などを具し帰京する。
高麗からの使者、そして、高麗からの物品を見た平安京の一般庶民の間では、ちょっとした物珍しさが話題となった。もっとも、異民族の珍妙な文化を目の当たりにしたというだけで、それを真似する者も、ましてや憧れを抱く者もいなかった。
朝廷も、高麗からの使者に対しては丁重に扱ったが、国交樹立とは至らなかった。あくまでも民間交易を許可するとしただけである。関白太政大臣が変わっても、日本の高麗に対する姿勢に変化はなかったのである。
高麗のもくろみはまたも失敗に終わった。
権力欲にとりつかれた人間というのは、権力を伸ばし、栄誉を獲得することに熱心になる。そして、実利を伴っていなくても、いや、実利を伴っていない栄誉であればあるほど、より熱心に集めようとする。
既に関白太政大臣という人臣として最高の地位にある藤原兼通にとって、さらなる栄誉となると位階しかない。
この時点の藤原兼通の位階は正二位。そして、過去に藤原氏で太政大臣になった五人のうち四人、すなわち、藤原良房、基経、忠平、実頼の四人が自分より格上の従一位を獲得した事例があり、藤原兼通の兄で前任の太政大臣である藤原伊尹が正二位で終わったのが唯一の例外となっている。ちなみに、正一位については、過去五人の太政大臣全員が死後になって受けた栄誉の称号であり、いかに権力欲にとりつかれていようと、兼通は死者への称号でもある正一位までは求めていない。
さて、過去の藤原氏の太政大臣のうち五人中四人が従一位にまで上り詰めており、自分は現時点で例外のほうに含まれていると考えると、藤原兼通は正二位で満足するわけがなくなる。この時点で藤原兼通以上の位階の人間など一人もいないだけでなく、藤原兼通に次ぐのは左大臣源兼明と右大臣藤原頼忠の二人の従二位であり、誰一人として藤原兼通と同格の人間などいないではないかという説得も意味を持たない。過去に従一位の太政大臣がいたのだから、自分だって従一位になってもおかしくないではないか、となる。
藤原兼通がどういう神経で藤原良房、基経、忠平、実頼と比類する太政大臣であると自認したのかはわからないが、やかましいクレーマーを黙らせるためなら仕方ないかというところで、年が明けた天延三(九七五)年一月七日に従一位に昇格となった。わざわざ年をまたいで一月七日に昇格させたのは、毎年一月七日がその年の昇格者の発表日だからである。どんなにやかましいクレーマーでも、位階の昇格は毎年一月七日であることぐらいは知っている。
ただし、ちょっとした嫌味は示されている。毎年一月七日が位階の昇格発表の日なのだが、議政官にいる者で天延三(九七五)年一月七日に昇格したのは藤原兼通ただ一人。つまり、日付は通例でも、今年の昇格は藤原兼通がゴネた結果だと暗に示したのである。これはおそらく、左大臣源兼明の発案による行為であろう。
細かいところにこだわる人間は二種類いる。
より品質を上げたくて細かいところにこだわる人間と、何でもいいから口出ししないと気が済まないので細かいところにこだわる人間である。
前者の場合、細かなこだわりの積み重ねは見事な結果を生む。
一方、後者の場合は見るも無惨な結果になる。
これは、全体を見ることができるかどうかという違いとしてもいい。前者の場合は全体像がわかっているから細かな対処がどのような結果になるかわかってこだわるのに対し、後者の場合は全体像が見えておらず、ただ口を挟みたいだけでこだわる。
この区別だが、実はかなり簡単である。
前者は細かなルールを設けず、現場に大きな裁量権を与えている。命じる側は細かなこだわりを要求するが、こだわりの実現方法についてまでは口出ししない。きめ細かなマニュアルがあるわけではなく、ケースバイケースで柔軟に対応できる。現在の感覚で言うとアップル、あるいはディズニーリゾートのサービスを思い浮かべればいい。
一方、後者は何であれ口出しするため、やたらとルールが細かくなり、現場の裁量権も存在しない。マニュアルがやたら細かく、マニュアル通りに行動するには一日が二四時間では足りないという代物ができあがる。現在で言うとユニクロやワタミ、あるいは校則のやたら厳しい学校がそうで、これはもう、細かなこだわりを命じる人間の優劣の差とするしかない。違いではない。明確な優劣である。無論、前者が優れており後者が劣っている。
藤原兼通は、優劣の差で言うと劣った側に含まれる。つまり、全体像が見えていないくせに口出しを止めるつもりはなく、細かなこだわりを全て実現させたらどうなるかも把握できていない。ゆえに、現場の裁量権を狭める。
ただ、藤原兼通自身が細かな人間なわけではない。細かいところにこだわるのは事実だが、細かなことを突くのは、全体の改善が目的ではなく口出しそのものが目的である。ゆえに、その指摘に意味はない。意味はないのに、指摘する人間が権力を持っていて指摘を守らせようとするのだから、これは始末に負えない。
後者の意味で細かい人間がトップに立つと、たいていの組織はボロボロになる。拘束時間が長くなり、組織の人間が疲弊し、やがて崩壊へと向かってしまう。それがわかっているから、左大臣源兼明も、右大臣藤原頼忠も、実権を発動させる必要のない関白太政大臣という役職に藤原兼通を奉り上げたのである。
ただ、肝心の藤原兼通自身が自分の関白太政大臣という地位に実権が伴っていると考え、伴っている実験は発動させねばならないと考えているのが問題だった。
貴族や役人に対して延喜式や有職故実に書いてある以上の行動を求めたのである。
延喜式にしろ、有職故実にしろ、かなり細かなマニュアルではあるが、ケースバイケースの対応ができなくはないというものでもある。つまり、融通が利かないわけではない。
その上、藤原忠平にしろ、村上天皇にしろ、藤原実頼にしろ、藤原伊尹にしろ、時には延喜式や有職故実にとらわれないだけでなく、延喜式にも有職故実にも逆らう決定をし、トップダウンによるケースバイケースの対応をしていたのである。だから政権が回っていたといえる。
ところが、兼通は同じトップダウンでも、延喜式や有職故実に書いてあること以上を求めたのである。延喜式と有職故実を守った上でさらなるマニュアルの追加をしたのだ。
会社員ならばこういう説明だとご理解いただけるであろう。
その会社では各社員に毎日の仕事でこなさなければならない分量が決まっており、各社員は各自の仕事をマニュアル通りにこなしている。日々の業務ならばマニュアル通りで問題ない。
ところが、ここに緊急の仕事が飛び込んできた。
その会社ではこれまでにも何度か同じように緊急の仕事が飛び込んでくることがあったが、これまでの社長はそのようなとき、緊急の仕事を優先して、いつもの仕事を免除した。緊急の仕事が終わるまでは会議の開催も取りやめ、日々のノルマも社長命令でストップさせた。会社の決まりでしなければいけない仕事量が決まっているが、社長からの直接の命令でその決まりのほうを無効とさせたのである。そして、緊急が終われば元に戻るのがいつもの姿だった。
ところが、藤原兼通という新しい社長は、緊急の仕事が来ても、いつもの仕事量は減らそうとしない。会議もいつも通り開催するし、ノルマも減らさない。それでいて、会議に出なかったら文句を言い、ノルマを果たせなければ文句を言い、緊急の仕事が解決しないことに文句を言うのである。
かといって、藤原兼通新社長が緊急事態に何か貢献しているわけではない。命令だけをしておいて定時になったらさっさと帰り、命令を受けた側が懸命に働いている最中に宴会を開いて酒浸りという日々。
これで誰が意欲を高めようか。
兼通が太政大臣になってから、まず、無駄に細かくなった。
そして、アメとムチという言葉があるが、ムチだけを選択するようになった。
無茶な決まりを守らせノルマを課して果たしたとしても何ら誉め称えることなく、決まりを守れずノルマを果たせなかった時には容赦なく罵倒した。
例えば、その仕事に参加する者の数や着る服の色に口出しし、太政大臣としての命令で違反者を取り締まった。そのようなルールは延喜式にも有職故実にも書いておらず、現場の自由裁量に任せられていたのに、自由裁量を停止してまで口出ししてきたのである。しかも、その口出しは現場のことを考えない無謀な判断だった。
服の色は簡単に対処できるものではない。平安時代の服の購入は、現在のように紳士服店でスーツを買うのとは同列で語れる話でない。そもそもそれほど大量の服など売っていないし、服を買えるだけの給与もないのである。
人数にいたってはさらに論外である。増やすならマネジメント力が必要になるし、減らすとなると一人当たりの仕事量が増える。これを兼通は全く考慮していない。ただ思いつきで人数の増減を命じたのである。
この結果、部署によっては人が増えすぎてマネジメントしきれず破綻し、職はあっても仕事はないという状態に陥る者も現れた。その一方で、人手が足りずに破綻する部署が現れた。それまでは人の融通が出来ていたのに、兼通はその流れを止めてしまったのである。
朝廷の各部署から起こる反発の声に対しても兼通は耳を傾けなかった。それどころか、自分の決定を守れないのは無能だからとし、給与削減まで行なったのである。
さすがに大きくなった反発の声を抑えることができたのは議政官への誓願であった。
改善を求めた反発の声に対し、議政官は天延三(九七五)年三月一日、諸祭使の従者の数と、役人の衣服の色を定める命令をまとめた。そして、藤原兼通とは無関係のところで議政官の決定が円融天皇に届き、現場の声を反映させた対処が円融天皇の命令による正式な法令となった。
これに対する藤原兼通の反応はなかった。自分の知らぬところで法令が通ったことにも、自分の命令を覆す円融天皇の命令についても無反応である。ただし、自分の非は一切認めず、自分を無視した者、特に左大臣源兼明に対する怒りをより強く秘めるようになった。