戦乱無き混迷 2.兼通から兼家へ
天延三(九七五)年六月一六日、六衛府官人らが給与支払いを求めてストをはじめた。防人の消滅と武士の台頭により勢いを弱めていた朝廷直属の武官であるが、いかに勢いを弱めていると言っても武器を手にした人間が一斉に集ってストを始めたのであるからこれはただごとではない。
彼らもまた、藤原兼通の口出しの被害者であった。人手を減らされてもノルマはそのまま、それでいて、ノルマを果たせなければ減給なのだからやっていられないという考えだったのだろう。
藤原兼通は当初、ストを甘く考えていた。自分が命じればすぐに沈静化すると考え、太政大臣の名でストの中止を命令。しかし、これは火に油を注いだものになった。
デモの参加者は日に日に増えていき、給与を元に戻すまで陽明門を封鎖すると宣言するまでに拡大した。陽明門の前には平張、つまり、今で言うテントまで立ち、そのテントに弓矢を持った武人たちが詰めかけて抗議の声を挙げ続けたというのだからこれは朝廷でも楽観視できるものではない。
それに、多くの者は武人たちに同情していた。人手を減らされ、仕事を増やされ、給料を減らされたのである。これでストを解除し、全力で職務にあたれと命じる藤原兼通にさすがにあきれたとするしかない。
これも結局、兼通の決定を覆す円融天皇の命令が出たことでデモが沈静化した。減らされた人手は元に戻り、減らされた給与も元に戻った。
またもや自分が無視されたことに藤原兼通の怒りは暴発寸前であったが、無能な関白太政大臣のことを気に掛ける者はもういなくなっていた。
関白太政大臣藤原兼通を無視する議政官の体制は、人事の刷新を模索するまでになった。
無能な者が権力を掴んだときに頻繁に見られる現象であるが、人事の公平さが無くなる。能力ではなく自分の気に入っている人材かどうかで人事を判断するのだ。しかも、気に入る基準というのが人事権を持つ無能な者と同等の能力の者、すなわち同様に無能な者であることが多いのである。そして、その無能な者が選ばれて地位に就くのだから人事はグチャグチャになっている。
関白藤原兼通の人事能力は他の能力と同様に低いとしか言いようがない。特に、能力ではなく私怨で人事を決めて平然としている。太政大臣となるとそれなりに人事に口出しできてしまうため、藤原兼通の気に入った人間でないと出世できないようになってしまっていたのである。
その対策として、天延三(九七五)年八月一〇日、意見封事の募集を始めた。貴族や役人の中から優秀な人材を見つけ出し、かつ、円融天皇の直接の命令により人事を決めるのである。こうなると藤原兼通がいくら文句を言おうとどうにもならない。
もっとも、意見封事に対する藤原兼通の不満は出ていない。なぜなら、兼通の最も危惧する人間、すなわち、実弟の藤原兼家がこの時点でもまだ沈黙していたからである。意見封事自体はかつてから存在する制度であり、いかに太政大臣と言えども、そう易々と介入して握りつぶせるものではない。集まった意見の内容を無視することは許されず、意見を直視するのは太政大臣としての責務。本心では意見封事自体に不平があったが、意見封事への不平を述べるのは決して許されない話であったのである。その不平が不満へと昇華しなかったのは藤原兼家からの意見がなかったことに由来する。
兄藤原兼通との関白争いに敗れた藤原兼家は、大納言の地位のまま留め置かれていた。他の者に出世競争で追い抜かれてはいたが、本人が降格するわけではなかったのである。いかに太政大臣が気に入らないと言っても、何ら理由のない者を降格させることも追放させることもできない。
「栄花物語」には藤原兼家を九州に追放しようとした藤原兼通が、理由がないので追放できずにいると嘆いたという話が残っている。実際、天延三(九七五)年八月二七日、安和の変の流人を召還するとの命令が出ている。名目はあくまでも日食という特異な天体現象に対処するための特赦であるが、この時代の天文学でも、何年何月何日にどこで日食が見られるかぐらいわかる。つまり、前もって日食がわかっており、準備を整えて、その日が来たら特赦を与えただけのこと。この準備ができたということは、同タイミングで誰かを追放する準備もやろうと思えばできたということである。
それに、安和の変による流刑が事実上の追放刑であっても、制度上は地方官の就任を理由とする現地赴任である。その現地赴任が終了して京都に戻るのが決まったということは、誰かが新たに地方官に就任して地方に赴くという体裁での追放刑がいつあってもおかしくないということ、そして、その誰かというのが藤原兼家である可能性が高いということである。
おそらく兼家は自分の運命を覚悟していたであろう。だが、このときの兼通は兼家を追放していない。より正確に言えば追放する口実を見つけられずにいる。
いくら兼通が無能でも、理由も無しに誰かを追放するなどできない。やるとすれば細かな証拠を集めて難癖をつける、あるいは証拠がなければ作り出すというところだが、無能な人間にはそれもできない。日食が何年何月何日かを聞き出すぐらいは誰でもできるが、狡猾で陰険な裏工作というのは無能な者にはできない芸当でもあるのだ。
歴史にIFは厳禁と言うが、ここで「もし藤原兼通がもう少し有能だったら」という議論をしたら、兼家の子である藤原道長が世に出ることはなかったであろうという結論が出てくるはずである。
政治家の評価は庶民生活の向上のみによって決まる。
いくら無能でも、庶民生活の向上が実現したら、それは政治家合格である一方、有能と称えられ絶賛された政治家でも、庶民生活の向上がなければ政治家失格である。
この尺度で藤原兼通を評価すると、やはり不合格になってしまう。生前は無能と言われたのに後世になってから評価が覆ったようなケースはあるが、生前から無能と蔑まれ、死後も政治家失格の烙印を押されるケースも珍しくない。そして、藤原兼通の場合は、一〇〇〇年前から無能と蔑まれ現在もやはり政治家失格と批判される、当時も現在も批判されるケースである。
何度も繰り返すが藤原兼通は一〇〇〇年前の菅直人なのである。一〇〇〇年前に地震はともかく原発の破壊があったかという質問に対しては、平安時代に原発はないと答えるしかない。しかし、菅直人がしでかしたのと同じ失敗を藤原兼通はしているのである。
それは何かというと、放火対策。
既に記したとおり、連続放火強盗事件の責任を源満仲に押しつけ、源満仲が京都から出て行くこととなった。ただ、それで連続放火強盗事件が無くなったわけではない。それどころか悪化したのである。
天延三(九七五)年一一月一四日、朔平門と右衛門陣屋が放火された。
年が明けた天延四(九七六)年一月二日には陸奥国不動穀倉二一宇が焼け落ちた。
これだけでも連続放火事件の対処ができていないことが読みとれる。遠く離れた場所であるという言い訳は通用しない。日本全国のトップに立つ執政者なら、日本全国の放火事件についての対処が出来なければならない。
たしかに藤原兼通は実権無き関白太政大臣であった。だから、連続放火強盗事件の対策も藤原兼通は関係ないのではないかと考えるかもしれないが、それは違う。なぜかというと、実権はなくても口出しは続けていたのである。そして、その口出しが政務のジャマをし、事態を悪化させたのだ。
請願が太政官に届き、太政官から議政官に議案が送られ、左大臣源兼明を議長とする会議で過半数となった意見が議政官の意志として円融天皇に届く。ここまでは問題ない。だが、関白太政大臣として藤原兼通が口出しするのが頻繁に見られ、これが大問題となった。
意見があって口出しするのではない。重要なのは口出しする行為そのものであって、意見の中身など関係なかったのである。そして、これで対策が遅れるのだ。一分一秒を争っている最中に横から口出しして対策を遅らせ、急げばどうにかなった対策に時間をかけさせすぎて台無しにしてしまう。この光景を、東日本大震災のときの内閣総理大臣の行動と重ね合わせていただきたい。全く一緒ではないか。
藤原兼通を関白太政大臣にさせたのは失敗だったのではないかと誰もが考えるようになっていた。特に、左大臣源兼明は自分の判断を激しく後悔するようになっていた。かといって、兼通が何もしないでいい局面に限れば、兼通は関白として円融天皇の補佐をしてはいるのだから兼通を関白から外すことはできないし、そもそも、関白罷免という前例などない。関白を辞任するとしたら関白自身が命の終わりを確信したときの自発的な辞意ぐらいしかみられない。そうでない限り、一度関白に就任したら、天皇が替わらない限り死ぬまで関白のままなのがこれまでの通例である。
源兼明は真剣に、史上初の例を作るべきではないかと考えはじめていた。藤原兼通を関白から降ろさせ、代わりの者を関白にさせる。この時点で次期関白の第一候補となっているのは、冷遇されている兼通の実弟の藤原兼家。この者を関白にさせることができれば現状よりはまだマシになると考えるようになってきていた。
それが本人一人の心に秘めた思いであるならば何の問題もなかった。だが、源兼明は自身の思いを明白にするようになっていた。公言はしていない。しかし、藤原兼通は関白失格であるという前提で、関白失格である藤原兼通を通さない政務を行なうようになっていた。
天延四(九七六)年四月一一日、大地震があった。このときの被害状況はほとんど伝えられていない。後述するが、この時代の歴史資料は地震の被害を伝えないなどということはなく、それどころか、かなり詳細な地震の被災の記録が残っているのである。他の地震についての記録なら残っているにも関わらず、天延四(九七六)年四月一一日の大地震についての被災状況がほとんど残っていないということは、そもそも被害がさほどではなかった、あるいはゼロであったと考えられるのである。地震の規模は決して小さくなかったのに、それでいて被害が少ないということは、初動から救援にいたる全ての過程が完全に機能し、人命の被害を食い止めたということである。
これが関白太政大臣藤原兼通を通さない政務の成果であった。大地震という一分一秒を争う状況で、何であれ口出しする者を無視すれば、被害を可能な限り抑えられるという成果を生むのである。
地震の対策は問題なかったが、連続放火強盗事件に対する対策は問題のままであった。取り締まりできる可能性のある源満仲を追放してしまっただけでなく、後任の者を指名していないのだから、これで対策ができたとすればそのほうがおかしいとするしかない話であるが。
ところが、いくら対策ができていないと言っても、天延四(九七六)年五月一一日に起きた出来事は異常とするしかない出来事である。
この日、内裏が焼け落ちたのだ。
内裏を現在で言うと、皇居であり、国会議事堂であり、首相官邸であり、最高裁庁舎である。現在と比べれば建物の大きさも全然違うし、そもそも現在のようにそれぞれの庁舎が明確に分かれているわけではないから単純に比べることなどできないが、首都機能の中枢が焼け落ちたとあれば軽く考えられる出来事でないのは容易に想像つく。
しかも何ら対策できていない。焼け落ちる内裏をそのままにしていたとしか考えられないのである。あまりにも火災の勢いが激しすぎてどうにもならなかったとも言えよう。
ただ、いくら火災の勢いが激しく、また内裏焼亡という尋常ならざる事態であったとしても、次の記録がほぼ一ヶ月後というのは異常事態とするしかない。
天延四(九七六)年六月九日、内裏焼亡の責任をとるとして、円融天皇が服御と常膳の削減と、天禄三(九七二)年以前の未進の調庸と徭の半分を免じると表明した。前者は税の支出削減による内裏修復費用の捻出、後者は内裏修復を口実とする増税の中止を狙ってのものである。
大規模災害が起こったとき、増税して支出を増やすことは珍しくない。経済政策だけ見ればそのほうが正しい。しかし、今回は内裏の火災である。つまり、庶民と無関係なところで起きた火災である。いかに国の中枢が被災したとは言え、ここで災害という名目を掲げて増税をして支出を増やせば反感を買うこと間違いない。
藤原兼通がこのときどのような主張をしたのか、左大臣源兼明がどのように主張したのかを伝える記録はない。だが、一ヶ月もの期間が存在するのである。何の議論もなかったとは考えられない。
円融天皇が内裏焼亡の責任を表明した九日後の天延四(九七六)年六月一八日、京都とその周辺を大地震が襲った。四月一一日の大地震と同規模、あるいはそれ以上の大地震である。
そして、四月一一日は被害を最小規模に抑えることに成功したのに対し、六月一八日の大地震は大規模な被災者を生んでしまった。京都では数多くの民家が倒壊し、下敷きになって命を落とす者が続出。現在は京都市の一部であるが当時は平安京の区画外である清水寺もこのときの地震で崩壊。僧侶と参詣者あわせて五〇名以上が命を落とした。
内裏焼亡から免れていた八省院と豊楽院もこの地震で崩壊。さらに、平安京南部の東寺と西寺が揃って崩壊。極楽寺や円覚寺といった寺院も崩壊と、平安京内外に住む人たちは恐怖におびえた。
焼亡からの復旧工事中だった内裏もまた崩壊から逃れることはできなかった。工事中でなければ倒壊することもなかったかもしれないが、このときは工事中である。記録には三〇名以上の工事関係者が、修復中の内裏の倒壊に巻き込まれて命を落としたとある。
震災の被害は京都に留まらず、東隣の近江国にも波及。近江国分寺の大門が倒れる被害を生んだ。
この事態をさらに悪化させたのが藤原兼通の行動である。助けようとしたのはいい。自然災害に対して自ら先陣を切って被災者の救援にあたるのは藤原良房から続く藤原北家の伝統である。だが、ジャマだった。自分が救援に行くと前もって告げた後で、被災者のことを全く考慮しない豪勢な行列を従えて自分を歓待させたのである。しかも、被災者を追い払って歓待場所を用意させ、やったことと言えば夜通しの酒宴。被災者を招いての饗宴であればまだ文句は小さかったかもしれないが、酒宴に参加しているのは兼通とその取り巻き、そして、迎え入れる側のその地の責任者だけ。兼通は被災地に足を運んだというが、ただ足を運んだだけという話でしかなかった。
地震から一ヶ月弱を経た天延四(九七六)年七月一三日、地震を理由に貞元に改元すると同時に大赦を行なうと発表になった。
しかし、地震は改元で収束しなかった。貞元元(九七六)年七月二〇日、巨大余震が発生し、震災から立ち直りつつあった京都市民に絶望を与えた。
それでも京都市民の心の慰めになっていたのが一つだけあった。内裏が焼失し、再建工事中の内裏も倒壊したことは、円融天皇にとって住まいを失ったことを意味する。その円融天皇が震災の被災者と同様に仮設のテントで寝泊まりしているという知らせが、天皇が自分たちを見捨てていないという知らせとなって京都市民の感情を鎮めたのである。
さすがに天皇を仮設のテントに住まわせ続けるわけにはいかないと考えたのか、貞元元(九七六)年七月二六日、藤原兼通は、兼通の邸宅である堀河院に円融天皇を招くと同時に、堀河院を内裏復旧までの仮御所として提供した。これが里内裏の初例となる。
関白太政大臣藤原兼通と、左大臣源兼明の対立は既に隠せぬところになっていた。
左大臣源兼明は実務のトップとして政務を取り仕切っている。議政官の議長となり、挙がってきた請願をまとめて天皇に上奏するのも、全て源兼明に集中していた。
このように書くといかにも議政官は左大臣源兼明のもとで一致団結していたかのように思われるが、実際にはそうではない。特に、右大臣藤原頼忠は、左大臣源兼明ほど激しい敵対心を見せず、関白太政大臣藤原兼通の口出しに源兼明が激しく反発したのに対し、藤原頼忠は藤原兼通の口出しにも、それがどんなに議政官にとって迷惑きわまりない口出しであろうと、礼儀をもって接していた。
藤原頼忠が兼通の従兄であり、幼い頃から気心の知れた相手だから兼通の性格を熟知していたということもあるが、それ以前に藤原頼忠という人は温厚な性格で敵を作らないのである。
現代社会にもこのような人がトップを形成するグループにいることで、組織を円滑に動かすことがある。
温厚な性格で敵を作らない人というのは、以下の三つの条件を兼ね備えていることが多い。というより、三つの条件の全てを満たしているから敵を作らないと言える。
まず一つは、礼儀正しいこと。どのような相手であっても礼儀を忘れず、相手がどんな無礼な行動に出たとしても礼儀正しく接する人は尊敬される。礼儀正しさが軽蔑されることがあったとしても、軽蔑する側のほうが非難され、礼儀正しく接する側はその礼儀正しさによって賞賛される。
二番目に、悪口を言わないこと。誰かの悪口を言っているのを聞いて気分爽快になる人間はいない。これ以上なく嫌われている人間を激しく口撃するのは人類の日常としても良いことだが、その行為を絶賛する者は少ない。
最後に、常に冷静であること。自分のために感情を高ぶらせて怒ってくれている姿を頼もしく思う人もいるが、第三者の立場としてみたとき、それは美しい光景には見えない。誰かを叱るのであっても、怒鳴り散らすより、冷静に言いくるめるほうが美しく見える。決して怒らないのではない。怒りの感情を持ったとしてもその感情を抑えて冷静であり続けることである。
筆者には一つとして真似できないこれらの三条件の全てを持ち合わせている人は、敵を作らないために重宝され、多くの人が味方として考える。藤原頼忠はまさに、その全てを兼ね揃えている人であった。
自分と左大臣が対立している。そして、右大臣藤原頼忠は自分の味方である。正確に言えば右大臣藤原頼忠は敵のいない人間であって、関白太政大臣藤原兼通一人の味方なわけではないのだが、兼通はそう考えない。右大臣が味方で左大臣が敵だと考える。
敵である左大臣が議政官を仕切り太政官の全てを従えている。
これを兼通は快く考えていなかった。
かといって、自分が議政官を仕切る考えはなかった。その能力も意欲もなかったというのもあるが、関白であり太政大臣である自分は議政官に関わるのが許されないことを理解していたからでもある。
その考えが、右大臣藤原頼忠に議政官を仕切らせるという結論であった。もっとも、これはかなり無茶苦茶な考えなのである。
源高明と違い、源兼明を左大臣から罷免させる理由がない。ましてや議政官を仕切っているのは左大臣源兼明であり、適当な理由をでっち上げて兼明を追放しようとしても、動く者がいない。
それでも藤原兼通は、円融天皇に働きかけて、貞元元(九七六)年一二月〇日、右大臣藤原頼忠に一上(左大臣)が行うべき雑事を行わせるとの命令を出させるには成功した。
左大臣が不在のときに右大臣が左大臣の職務をこなすのは珍しくない。それこそが右大臣の職務であるとしてもよい。しかし、左大臣がいるのに右大臣が左大臣の職務をこなすなど前代未聞である。
当然のことながら源兼明は激怒した。激怒したが、円融天皇の命令であり逆らうことはできなかった。
円融天皇がなぜこの決定をしたのかだが、これは円融天皇側の事情もあったからである。
それは何かというと、円融天皇の異母兄である源昭平の処遇。村上天皇の子の中でただ一人臣籍降下して源氏となり、自分の兄弟でただ一人皇族から外れ、弟である自分に対して臣下の礼をとる兄の処遇に、円融天皇は以前から心を痛めていたのである。
宇多天皇や醍醐天皇の例にあるように、天皇の子として生まれながら源氏になった者とその子が再び皇族に戻ることは、珍しいとはいえ先例のない話ではない。そこで、円融天皇は先例に則って、兄でもある源昭平を皇族に復帰させようとしたのである。
この話を聞きつけた兼通は絶好の機会と感じた。何しろ、天皇の子という視点で見れば左大臣源兼明も同じ境遇なのである。源昭平は村上天皇の子、源兼明は醍醐天皇の子と、父である天皇こそ違え、天皇の子として生まれながら臣籍降下して民間人になったことに変わりはない。
そこで、源昭平と源兼明の二人を皇族に復帰させることを提案したのである。
皇籍復帰を出されては源兼明とて騒ぎ立てることはできない。
左大臣になり議政官を操る身にまで出世したと言っても、所詮は一般庶民の中での出世。日本という国は、日本国が始まってから現在に至るまで、そしてこれからも永遠に、皇族以外はみな一般庶民なのである。それは、たった二つの例外を除いて、いかなる理由であろうと一般庶民が皇族になることなど断じて許されないのが日本という国であることからもわかる。
例外の一つが、皇族と結婚するケース。
そしてもう一つの例外が、皇族として生まれながら臣籍降下して庶民になった者がもう一度皇族に復帰するケース。
源兼明はこの後者に該当するケースであった。
円融天皇は源昭平の皇籍復帰を念頭に、源兼明にも皇籍復帰を打診した。
源兼明は、事情は理解した。理解したが納得はできなかった。
理由があまりにも明白である。藤原兼通の狙いは、皇籍復帰を名目に掲げての自分の追放。
源昭平はいい。この時点で議政官に名を連ねておらず、まだまだ若い。皇族に復帰したほうが有望な未来も待っているだろう。それに、兄と弟という関係のはずなのに、兄が家臣である一庶民であり、弟が天皇であるという状況を円融天皇が快く思っていなかったことを源兼明自身がよく理解している。
だが、源兼明は六四歳という高齢の身。皇族から離れさせられたことに対する不平不満が人生で一度もなかったかと言えばウソになるが、一般庶民として出世を積み重ね、今では左大臣にまでなっている。今ここで皇族に戻るということは、これまで積み重ねてきた人生を全否定することになるのだ。
この問題はすんなりと解決する話ではなかった。
円融天皇は兄のことも考えて皇籍復帰を促す。
左大臣源兼明は、源昭平一人が皇籍復帰すべきであるとし、その上で、自分から剥奪され右大臣藤原頼忠のもとに渡った一上を自分の手に戻すべきと主張する。
円融天皇は兄の源昭平と同じ境遇にある源兼明が皇籍復帰を受け入れないなら兄も皇籍復帰させられないと言う。
源兼明は、自分はもう高齢であるだけでなく、円融天皇との距離も遠い身である。まだ若く、円融天皇の兄である源昭平と同列に扱われるわけにはいかないと主張する。
平行線をたどったままのやり取りは実に四ヶ月に及んだ。
そして、結果は強引なものであった。
貞元二(九七七)年四月二一日、源兼明、源昭平の二名の皇籍復帰を発表。先例に従って、単なる王ではなく、天皇就任資格を持つ親王としての皇籍復帰であり、以後、源兼明は兼明親王、源昭平は昭平親王となる。
そして、四日後の貞元二(九七七)年四月二四日、兼明親王が皇籍復帰に伴い左大臣職を辞職すると表明。右大臣藤原頼忠が左大臣に昇格し、後任の右大臣に源雅信が就任することとなった。
藤原頼忠が左大臣に昇格したことにより、少なくとも関白太政大臣藤原兼通と議政官との対立は解消した。それも予想しない形で。
何であれ口出しする人間にとって重要なのは、口出しすることそのものであって、口出しする対象ではない。そして、口出しを止めない人間を黙らせるには意外なほど簡単な方法がある。
かなり早い段階から関わらせるのだ。
既に決定したことを情報として伝えるから口出しするのであり、情報が飛び込んできたそのタイミングで口出しの多い人間に伝え、相談するフリをして意見を出させるのである。
何しろ口出しを欠かさない人間に意見などないのだ。意見があったとしてもそれはありきたりの意見であり、無から何とかひねり出した意見は、一〇人中九人が賛成するようなごく普通の意見である。そして、関白太政大臣の意見に皆が賛成するという仕組みを用意すれば口出しする者などいなくなる。
重要ではない上に意見を聞いたところでどうということのない意見を早い段階に普段から聞いておけば、重要な問題についてスルーしても口出しされることは少なくなる。ここで文句を言われたとしても「緊急な検討を要する案件であり、多忙な関白太政大臣に相談させていただく時間もとれず、事後承諾となってしまい申し訳ございませんでした」とでも言っておけばいい。無視されるから怒って口出しするのであり、緊急の上に多忙な自分を考えてのやむを得ぬ行動であったとする相手に口出しするなど滅多にない。
その上、藤原頼忠は元からして敵を作らない性格である。兼明親王や藤原兼家を敵視していた藤原兼通も、頼忠だけは敵だと考えない。敵と考える人間の行動はどんな些細なことでも目に付くが、敵と考えない人間の行動は目に飛び込まないものである。
さらに言えば、藤原頼忠はかなり優秀な人間であった。
その優秀さを示すエピソードとして以下のようなものがある。
貞元二(九七七)年七月二九日に円融天皇が新造内裏に遷御し、数日を経た八月二日に、内裏の修復に尽力した者全員に褒賞を与えることとなったのだが、これが文字通り全員であり、その全員が円融天皇から一対一で報償を渡されるという壮大な儀式で、最後の一名に渡し終えたときには、真夜中どころか明け方になっていたほどである。
それだけの規模の儀式にも関わらず、左大臣藤原頼忠の運営の見事さから何ら混乱が起きなかったことは、新しい左大臣がなかなか優秀な人物であることを見事に宣伝した。
この宣伝により、ついこの間までごく普通の右大臣であり、その役割も今はもう兼明親王と呼ばれている左大臣源兼明の補佐役としか思われていなかった人が、実はかなりの指導力を持っている人であることが判明し、ある者は狼狽し、ある者は新時代の到来を見たのである。
狼狽した者は何と言っても藤原兼家である。関白太政大臣藤原兼通に何かあったとき、関白太政大臣の地位を継ぐのは兼家であると、周囲の人も思っていたし、他ならぬ兼家自身もそう思っていた。しかし、ここで予期せぬライバルの登場である。年齢もまだ五四歳と、この時点で四九歳の兼家と比べても特別に高いわけではない。
一方、新時代の到来を考えたのは、その関白太政大臣藤原兼通である。兼通もまた、自分に何かあったときは不本意ながらも兼家が地位を継ぐと考えていた。だが、継がせる気は毛頭無かった。何とかして自分の子に地位を継がせようと画策し、三男(一説には四男とも)の藤原朝光を二七歳の若さで権大納言に、長男の藤原顕光を中納言に引き立てている。さらに六男の藤原正光も議政官入りはしていないものの既に従四位下まで昇進させており、この三人の子らを兼通の後継者だとして宣言させていた。ただ、今ここで兼家の身に何かあったときに地位を継げるほどの出世には至っていなかった。
しかし、藤原頼忠が中継ぎをできるとなると話は変わる。この時点の人臣の序列で行くと、トップはもちろん関白太政大臣藤原兼家、次に左大臣藤原頼忠が来て、三番手に右大臣源雅信。大納言藤原兼家は四番手である。
藤原兼通の息子たちは誰一人として兼家より上に地位に至っていない。だが、兼家より上に頼忠がいる。頼忠は藤原実頼の息子なので兼通と兼家の兄弟にとっては従兄弟にあたるから、関白ではなく摂政であるという事態になっても天皇の近親者という要件にぎりぎり引っかかるので問題ない。
その上、藤原頼忠には藤氏長者に就く資格もある。というより、元々は藤原頼忠のほうが藤氏長者であり、藤原兼通は藤氏長者の地位を奪ったのだから、藤原頼忠が藤氏長者になるのは新たな就任ではなく復帰である。摂関や太政大臣の地位は国政に関わることである以上どうにもならなかったとしても、藤原氏の権威のトップであれば藤原氏という私的な庶民の血縁集団であればどうにかなる。
自分の身に何かあっても頼忠が関白太政大臣となり、頼忠が兼通の息子にさらに地位を継いでくれれば何の問題もないと考えるようになったのだ。
このタイミングで、藤原兼通の体調不良が目に見えるようになった。兄の伊尹は、残された記録から判断する限り、糖尿病で命を亡くしたことは判明している。一方、兼通の体調不良の原因は分からない。もしかしたら兄と同様に糖尿病であった可能性もある。
藤原道長もそうだが、藤原北家の面々は糖尿病で命を亡くしている割合が多い。
そのため、このような推測がなされている。
藤原北家の面々は先天的に糖尿病になりやすい体質だったのではないか、と。
藤原兼通も糖尿病であったとは記録に残っていない。しかし、その可能性はある。
少なくとも、貞元二(九七七)年の夏の時点で、藤原兼通は自分の死を覚悟するようになっていた。そして、自らの死後を考えるようになっていた。
いかに自分の味方と言え、藤原頼忠が中継ぎであることを承諾し、兼通の息子に地位を渡してくれる保証などどこにもない。敵を作らない性格であり、かつ、優秀な政治家でもある頼忠が、いや、頼忠が優秀な政治家であるからこそ、兼通の子に次期権力を渡す保証などどこにもないのである。
関白太政大臣としての権威を全面に利用した結果であるとは言え、兼通の息子の藤原朝光が二七歳の若さで権大納言に就任しているのは、しかも長兄の藤原顕光よりも上の地位にいるのは、藤原朝光自身にそれなりの優秀さがあるからである。自分の次に権力を握る予定の藤原頼忠が死を迎えるとき、議政官の中で最も優秀であるとして藤原朝光を後継者に指名する可能性だってあるのだ。ただ、可能性があるというだけで確実ではない。
以前の藤原兼通であれば、いかに自分の味方であろうと、自分の息子に権力を継がせることが確実ではない藤原頼忠を後継者とするなど絶対に考えなかったであろう。
しかし、今はそんなことを言っていられる余裕がない。可能性がゼロでないなら藤原頼忠を後継者とするしかないのだ。
なぜか?
弟の藤原兼家が動き出していたのである。
兼家にとって、兄の兼通の体調不良は、心配事ではなくチャンスであった。兄が死ねば自分の元に権力が転がってくると考え、そのときに備えて人を集め勢力を築きはじめていたのである。
勢力を築くのは簡単だった。藤原兼通は敵が多い。そして憎まれている。さらに言えば、恐れられていない。冷遇されている者を募って反対勢力を築こうとするとき、権力にある者が憎まれていても権力に対する恐怖心があれば躊躇するが、憎まれるだけで恐れられていないのであれば、簡単に人は集まる。
その上、藤原兼家は絶好のシンボルを用意できた。兼明親王である。太政大臣と敵対した左大臣であり、太政大臣と敵対したために皇籍復帰させられた親王をシンボルとして兼通に反発する人々を募れば、本音は私欲であっても公憤という名目を獲得して勢力を築ける。
この兼家の勢力が無視できる規模を越えてしまっていたのを兼通は目の当たりにしていた。
貞元二(九七七)年一〇月一一日、事件はこの背景の元で起こった。
貞元二(九七七)年の夏から体調を崩していた藤原兼通は、秋を迎えても体調が回復せず、一〇月一一日もいつものように床に伏していた。
というタイミングで一つの噂が流れた。
関白太政大臣藤原兼通が危篤状態に陥ったという噂である。実際のところは病状が重いとは言え意識ははっきりしており危篤状態ではなかったが、それはごく一部の人しか目撃できない。兼通は噂が間違いであるよう正そうとしたが、その前に一つの情報が飛び込んできた。兼通危篤の知らせを聞きつけた兼家の牛車が兼通の邸宅である堀河院にやってきたとの知らせである。こちらは本当の情報であった。
病床の兼通は、さすがに仲の悪い弟とは言え、この状況なら見舞いに来るものだろうと考えた。そして、牛車の醸し出す車輪の音が兼通の耳にも届くようになっていた。
ところが、牛車は堀河院を素通りしたのである。
これに兼通は激怒した。堀河院を素通りした先にあるのは内裏である。自分が危篤状態に陥ったと聞いた兼家が、いち早く円融天皇のもとに向かい、自分を関白にするように申し上げるに違いないと考えたのであった。
兼通は病床の身でありながら急いで着替え、牛車に乗り、歩みの遅いはずの牛車を全力で走らせるように命じた。
兼通の乗った牛車は兼家の牛車を追いかけ、そして追い抜いただけでなく牛車のまま内裏へと入っていった。牛車のまま内裏に入るのが許されるのは右大臣以上。大納言である兼家は牛車を降りて自分の足で歩かねばならないが、太政大臣である兼通は牛車のまま内裏に入るのが許される。兼通は牛車に乗ったまま内裏の奥へと入っていき、円融天皇の目前に牛車を停め、従者に両脇を抱えられながら円融天皇の元に進み出た。
病に倒れた者の見せる執念に円融天皇は恐れおののいた。
その結果、円融天皇の命令で一つの布告が出た。
病状悪化のため、藤原兼通の関白と太政大臣の辞任を許可する。
後任の関白は左大臣藤原頼忠とする。
太政大臣は空席とする。
藤原頼忠は藤氏長者にも就任する。
それまで大納言藤原兼家が兼任していた右近衛大将を今後は権中納言の藤原済時の兼任とし、藤原兼家は新たに民部卿兼任とする。
これはもう、藤原兼通の実行したクーデターとしてもよい。兼家は狙っていた次期関白の地位から遠ざけられただけでなく、名目上とは言え手にしていた武官としての地位も奪われたのである。
もっとも、円融天皇がただ単に兼通の言うことを素直に聞き入れたわけではない。円融天皇の考える最高の形を実現させただけである。
何と言っても、実際に左大臣なのは藤原頼忠であって、兼通によって出世を停められたとは言え、大納言である藤原兼家を関白に抜擢するなど許されない話である。それを言うなら藤原兼通の関白就任だって同じ事情ではなかったかとなるが、あれは天皇親政の破綻という特別な事情が存在したからであり、現時点でそのような問題はない以上、人臣最高位である藤原頼忠が関白になるのは不都合な話ではない。
それに、藤原兼通が退いたあとの藤原氏のトップは藤原頼忠なのである。となると藤氏長者を藤原頼忠が継ぐのは当然のこととするしかない。
問題は兼家の右近衛大将罷免だが、これは新たに民部卿に就任するために兼職を調整しただけと言える。何しろ民部卿とは租税に関する省庁である民部省の最高責任者なのだ。通常は中納言や権大納言の兼職であり、大納言である藤原兼家の民部卿就任は左遷とも言うべき人事であるが、この時代の国家財政、特に租税問題を考えるとき、大納言の兼職となると重みが違う。要は荘園からの租税取り立てが全然違うのだ。
何しろ、藤原氏自身が大規模な荘園領主でもある。その藤原氏が租税を取り立てる側に回れば、有力者の荘園であるという理屈での税逃れができなくなると考えたのであった。
ただし、このときに藤原兼家から右近衛大将の職務を取り上げたことは、翌年、悪影響を伴った。
貞元二(九七七)年一一月になると藤原兼通の死が予期されるようになった。自らが固執してきた関白の地位も太政大臣の職務も捨てた兼通は、自らの死を最高の形で迎えることに固執するようになった。死を直前とする者にとっての最高の栄誉を求めるようになったのである。
その栄誉とは、准三宮の宣下。すなわち、人臣でありながら、皇后、皇太后、太皇太后と並ぶ待遇であるとの称号である。
これまで准三宮を宣下された者は三名いる。
貞観一三(八七一)年四月一〇日、政界引退後の隠居状態にあった藤原良房に准三宮宣下。藤原良房はその後も政界に関わることなく宣下の翌年に死去。
元慶六(八八二)年二月一日、太政大臣藤原基経に准三宮宣下、仁和四(八八八)年二月一九日関白太政大臣藤原基経に再宣下。ただし、二度目の場合は藤原良房の先例を考えての宇多天皇の政略でもあった。
天慶二(九三九)年二月二八日、摂政太政大臣藤原忠平に准三宮宣下。その後も一〇年にわたって藤原忠平は権力を握り続けた。
こうしてみると、当初は死を予期した摂政関白や太政大臣に与えられる栄誉の称号であったのが、次第に現役の摂政関白や太政大臣に上積みされる栄誉に変化したことが読み取れる。
そして、藤原実頼も、藤原伊尹も准三宮の栄誉を受けていない。
准三宮の栄誉は、摂政関白にして太政大臣を勤めた者の中でも特別に選ばれた者だけが得る栄誉であり、普通に考えれば藤原兼通が得られるような栄誉ではないのだが、自身を祖先たちと比類して遜色ない政治家だと考えている藤原兼通にとって、死を迎えながらも准三宮の栄誉を得ていないことは納得できないことであった。
その自尊心のために兼通は何としても准三宮の栄誉を求めるようになっており、円融天皇はその要望に応える形で貞元二(九七七)年一一月四日、藤原兼通に准三宮を宣下した。当時の人は栄誉がずいぶんと軽々しく扱われるようになったものだと噂したが、藤原兼通は満足であった。
最後の最後まで欲望を満たせたことで安心したのか、貞元二(九七七)年一一月八日、藤原兼通は全てが燃え尽きたかのように息を引き取った。享年五三歳。
この頃、中国でも一つの動きが起きていた。
宋が小国を次々と併合していき統一国家に向けて進んでいたが、その動きの前に遼が立ちはだかっていた。
宋としてはかつての唐のように万里の長城を越えた北に向けて国土を広げたかったのだが、遼の勢力は宋と拮抗しており、戦争になった場合、どちらが相手を圧倒することにはならない。つまり、泥沼に突入する。
リアリズムに立つなら万里の長城を国境として拮抗状態とし、戦争に打って出て唐の勢力を盛り返すのは後回しにすべきである。これは遼も同じことで、これまでの五代十国の小国であれば戦争となっても圧倒できたが、大国になりつつある宋と全面戦争となったら国家存亡の危機となる。ここは万里の長城を事実上の国境に留め、それより南には攻撃を仕掛けないようにするのが最良の選択である。
遼と宋の双方のリアリズムの結果、宋と遼との交易が始まった。ただし、宋は遼の朝貢を受け入れるという形での交易であるとし、遼は宋が屈服したので交易を始めると扱っている。
戦闘行為を伴わない交易であれば、いかに領土争いを繰り返す国と国との関係であろうと、リアリズムに基づくWIN・WINの関係が築ける。ただし、領土問題というのはナショナリズムに簡単に火をつける材料でもある。そして、領土問題での譲歩ほど世論を敵に回す話はない。リアリズムに基づけば領土問題を棚上げにして交易を始めるのは不利益な話ではないが、国内世論を考えたとき、領土問題で妥協の姿勢を少しでも見せると、どんなに高い支持率の政権でもいとも簡単に瓦解する。
そのためには、相手が屈服したという体裁にしなければならない。それがどんなに事実上の領有権放棄であろうと、敵が我が国に跪いたという体裁をとらなければ政権支持率は激減するのだ。
そして、領有権放棄から目をそらすために新たな敵を作り出すのもよくある手段である。
宋は南に、遼は東南に矛先を向けることとなった。
関白となった藤原頼忠であるが、太政大臣に就任しておらず、左大臣のままである。
するとどうなるか。
左大臣なので議政官の会議を主催できるだけでなく、議長として議事そのものを進行できる。
議政官というのは議決機関であり、現在の国会と同様、過半数の意見が議政官全体の意見となる。そして、左大臣には議政官の議決を覆す資格はない。自分の意志に反する決定であっても、議決には従う義務が存在する。
しかし、この時点で議政官の過半数は藤原氏である。一六名中九名が藤原氏で残る七名が源氏だから、過半数ギリギリではあるものの藤原氏が単独過半数であることに違いはない。
そして、左大臣である藤原頼忠は藤氏長者である。つまり、議政官一六票のうち、九票を操れる地位にある。
この時点の藤原氏を理解するには、他の存在を許さない一党独裁の巨大権力として認識するより、現在の自民党と認識するほうが早い。自民党の中には色々な派閥がある。自民党のトップを巡る争いもある。自民党の議員には世襲で地位を掴んだ者もいる。腐敗だってしている。しかし、内部での自浄作用が働いて定期的にトップの交代が起こり、その時点での合法的手段に基づいて政権を握り続けている。
一方、国会には自民党の動きを絶えず監視してやかましく口出しする存、在がいる。いかに自民党が支持を集めていても、いかに自民党が圧倒的に議席を獲得したとしてもせいぜい六割の議席に過ぎず、議席の全てを自民党で占めるなどありえない。そのため、自民党のやることに文句を言う集団が国会で自民党と同居している状態になる。
そうした反自民の存在は権力を握ろうとしていない。より正確に言えば握る実力も支持もない。民主党政権の惨状を体験した日本人がもう一度あの惨状を繰り返すのは考えられないことぐらい彼ら自身にもわかる。つまり、自民党の監視以外に意味を持たない。意味を持たないが議席ならある。政権交代を果たせないという意味で、これは二大政党制ではない。かといって自民党に非があるのではない。かつての社会党、新進党、ついこの間までの民主党、そして日本維新の会と、自民党と対立する勢力を作りながらも能力の低さから自滅していった結果なのだから。
藤原良房が律令を批判してから一〇〇年ほどは律令派がイデオロギーとなって一大勢力を築いており、ただただ藤原氏批判を繰り広げるだけの目障りな存在であった。そして、律令と反律令と真逆のイデオロギーを掲げる二大政党間の政権交代を伴う二大政党制にもなっていた。一方、貞元二(九七七)年に視線を移すとそのようなイデオロギー集団は議政官に存在しない。あるとすれば藤原氏と源氏という組み合わせであるが、源氏は反藤原という勢力ではあっても律令に対するスタンスは藤原氏に近く、政策そのものに目を向けると時に藤原氏と協力関係を築いている。
つまり、今から一〇〇〇年前の朝廷が正しい意味での二大政党制になったのである。結果的に一つの勢力だけが権力を継承しているが、もう一つの勢力は党利党略ではなく国益に基づいて行動しており、政策によっては藤原氏にも協力する。敵を批判して悦に入るのではなく、時に敵対し、時に協力し、一度決めた政策を継続させるという、正しい二大政党制である。
関白太政大臣と関白左大臣と、どちらが上の役職かと言えば、それはもちろん関白太政大臣である。だが、どちらが激務かと言えば、関白左大臣になる。議政官の主催者として、司法、立法、行政の三権のトップに君臨し実務をこなすのは、太政大臣でも関白でもなく左大臣の責務。そして、儀式において天皇の代理を務めるのは太政大臣ではなく関白である。つまり、単なる左大臣であれば二四時間全てを政務に割くことができるが、関白を兼任している藤原頼忠に与えられた時間は二四時間ではない。二四時間ではないにも関わらず、課せられた政務の量は変わらない。
サラリーマンなら実感するであろうことだが、下手に出世をしてしまうと会議や書類作りといった無意味な儀式に自分の仕事時間を奪われてしまう。儀式のために仕事時間が奪われる者が出る場合、その代わりにその者に課している仕事量を減らすのが健全な組織であるが、不健全な、世間一般でブラック企業と言われるような職場だと、時間を奪っておきながら仕事量を変えないということを平気で行なう。
その結果、過労を招き寄せる。
二四時間三六五日、一瞬も休むことなく仕事のことしか考えないような人間は、ビジネスパーソンとして最下流の存在であるし、それを命じる経営者は低レベルな経営者である。そういう人間はビジネスを事務的にこなすことならどうにかできても、イノベーションは全く生み出さない。そして、そういう人間を求める企業は、環境の変化について行けず淘汰される。つまり、倒産。ブラック企業に勤めてしまった場合の選択肢は二つしか、すなわち、ブラックである企業体質を変えるか、早々とその職場を辞めるかの二つの選択肢しかないのもそれが理由である。そのどちらの選択も行わなければ、待っているのは企業倒産による失業。しかも、過労で身体が壊れた上に、他の会社で役立つようなスキルも身についていないという、再就職困難な失業者という未来である。
話を貞元三(九七八)年に戻すと、関白左大臣藤原頼忠は、このブラックの状況に置かれるようになっていた。藤原頼忠一人に業務が集中し、一人でこなしきれる政務の量でなくなってしまっていたのである。ついこの間までは、無能ではあっても藤原兼通が関白太政大臣としての儀礼的な職務をこなしていた。それはつまり、藤原頼忠が純粋に政務だけに専念できていたのである。
しかし、藤原兼通はもういない。
それだけではなく、かつて自分の上司であった源兼明ももういない。そこにいるのは兼明親王という一人の皇族である。
藤原頼忠は、自分の職務を少しでも肩代わりできる人材を求め始めていた。
貞元三(九七八)年三月、備前国司橘時望が海賊に殺されたという連絡が飛び込んできた。
既に限界まで政務を引き受けている左大臣藤原頼忠であるが、この緊急事態に向けて対処するよう命令をすることまでならできた。ただ、命令をしただけで動けなかった。
藤原兼通は死してもなおその無能さを、日本の国政への悪影響としてさらけだしていたのだ。
藤原兼通は、自らの関白辞任と同時に、弟の大納言藤原兼家から右近衛大将の職務を取り上げたことは既に記した。それがこのタイミングで大問題となったのである。
大納言藤原兼家は、この時代最高の武人と言われる源満仲と親しい。源満仲はもう六〇歳を過ぎた高齢者だから源満仲自身が軍勢を率いるのは困難であろうが、それでも源満仲の息子の源頼光がいる、もし、大納言藤原兼家が右近衛大将のままであったら、右近衛大将として源満仲・頼光の親子に出撃を命じることができるのだ。
だが、今の藤原兼家にそのような職務はない。個人的なつながりはあっても、武力に対する命令権が無い以上、派遣を命じることはできないのだ。
法制上の武人のトップは、亡き藤原兼通の子で権大納言である藤原朝光。この人は左近衛大将を兼ねている。だが、この人が権大納言となり左近衛大将となったのは父である当時の関白太政大臣藤原兼通のコネがあったからである。父と違って全くの無能な人間というわけではなかったが、二八歳の若さもあって、この時点の藤原朝光は権大納言兼左近衛大将を名乗ることまではできても、その職務を文句なしに務めることのできる器ではないし、武士との個人的なつながりもない。命令を出しても従う武士がいないのだ。
左近衛大将に次ぐ武人の地位が右近衛大将であり、去年まではこの地位に藤原兼家が就いていた。もし、貞元三(九七八)年三月の時点で藤原兼家が右近衛大将のままであれば、兼家の命令で源満仲と頼光の親子を派遣できたのだが、この時点では中納言の藤原済時が右近衛大将に就いている。藤原済時は藤原師尹の子だから、藤原兼通や兼家、そして藤原頼忠の従弟にあたる。有職故実に通じているだけでなく、いまや風前の灯火であった律令派に対する一定の理解もあって律令派の暴走を抑える役割を果たしていたが、この人に武人としての光景は全く見えない。武力に対する知識もなければ、武力衝突が起こったときの対処方法もわからない。そして左近衛大将藤原朝光と同様に、武士との個人的なつながりを持っていない。
やはり、ここで必要なのは藤原兼家なのである。兼家であれば武士との接点もあるし、場合によっては兼家自身が武器を持って海賊討伐に打って出ることだってできる。
しかし、藤原兼家にも欠点がある。
それは、この人自身の粗暴さ。知性という点では兄の兼通より上であろう。だが、この人は暴力が服を着て歩いているような男なのである。短気で話し合いも通じず、若い頃から起こした問題は数知れず。それでも年齢を重ねたことで多少は丸くなったが、血の気の多さは若い頃のまま変わっていない。
もっとも、皮肉にもその欠点は、兼家と接点のある武士の存在そのものによって補完されるようになっていた。源満仲は貴族としてよりも武士として振る舞う人物であったが、その後継者である源頼光が、武士よりも貴族であることを優先させる品行方正な人物であったからである。源頼光は藤原兼家の命令で動く武士であると同時に、貴族としての誇りを失っていない貴族でもあったのである。
源頼光の生まれについては正確な記録がなく生年が不明瞭であるが、伝承によれば、源頼光は天暦二(九四八)年の生まれであり、貞元三(九七八)年時点では満年齢で三〇歳となる。死から逆算しても、この頃の源頼光が三〇歳前後であったことは間違いない。
源頼光の父の源満仲は延喜一二(九一二)年生まれだから、いかに健康であっても六〇歳を超えている以上、武人として最前線に立つのは難しく、後の源頼光の行動を見ても、この時点で既に、源満仲の結成した多田武士団のトップの地位を源頼光が引き継いでいたと推測されるのである。
とはいえ、摂津国多田荘にずっと留まっているわけではなく、源頼光は頻繁に都に足を運んでいる。摂津国多田荘を根拠地とする武士であり武士としての職務を果たしてはいるが、メインフィールドはあくまでも清和天皇の血を引く名門貴族の一員としての活動であり、かつ、源氏でありながら藤原北家と密接につながっているという人物になっていた。
ところが、まさにその藤原頼光の率いていた武士団がこの時代最大の武力勢力となっていたのである。特に、頼光配下の四人の武人、俗に「頼光四天王(らいこうしてんのう)」と呼ばれる武人がそのトップクラスに君臨するようになっていた。
頼光四天王とは以下の四人である。
渡辺綱(わたなべのつな)。嵯峨源氏の血を引く人物で、源満仲の娘婿でもあるため、源頼光とは義理の兄弟にあたる。
碓井貞光(うすいさだみつ)。橘氏の血を引く武人。
卜部季武(うらべすえたけ)。出生は不詳。弓の名人として知られる。
坂田金時(さかたのきんとき)。出生は不詳。おとぎ話の「きんたろう」のモデルとなった人物。
このあたりは伝説とおとぎ話の世界も入り乱れるのでどこまで本当かわからない。だが、源頼光が有名な武士を束ねる存在であったことは事実であり、源頼光は後世、藤原道長の勢力伸張にも協力している。
しかし、いくら有名な武士を束ねていようと、命令がなければ動けないのである。
もっとも、源頼光自身は、兼家でなくても、命令権者、つまり、左近衛大将でもある権大納言藤原朝光か、あるいは、右近衛大将である中納言藤原済時のどちらか一方でも命令すれば動くつもりであった。しかし、その二名とも動くことはなかった。そして、藤原兼家も二人のうちのどちらかに命令するよう働きかけることもなかった、いや、それは許されることではなかった。
軍に対する指揮命令系統は明確でなければならない。これに失敗しているところは、良くて軍事独裁政権、普通は混迷の世界である。これは戦前の日本における統帥権干犯問題を考えていただければわかるであろう。陸海軍の統帥権は天皇にあるとした大日本帝国憲法という欠陥憲法のせいで、軍に対する指揮命令系統が不充分になっただけでなく、陸海軍双方が独自に行動してしまうようになったために戦争を引き起こし、日本の国土をボロボロにする惨事となった。これがもし、内閣が軍に対して指揮命令すると憲法に書いてあれば、ここまでの惨事も呼ばなかったはずであるし、そもそも戦争をしていなかったはずである。
平安時代に視線を戻すと、いかに藤原兼家が武士と個人的なつながりを持っていると言っても、兼家が国のために武士を動かすことは許されないことであった。どうしても動かすとすれば、国を無視して個人的に武士団を動かすしかないのだが、それは平将門や藤原純友の乱の再来を招くことにもなる。
藤原兼家は自分がいかに武士団とのつながりを持っていても、それを行使するのは絶対に許されないと把握していた。そして、自重するだけの節度を持っていた。
不幸中の幸いとしていいのは、武士団とつながりを持っていたのは、無能な藤原兼通ではなく、粗暴ではあっても無能とは言えない藤原兼家であったこと。もし、兼通と兼家の脳味噌が逆だとしたら、国の存在を無視して武士団に出動命令を発したであろう。そして、早い内に、平将門や藤原純友の内乱の時代の再来となったはずである。
無能な味方は有能な敵よりも恐ろしい。
海賊往航のニュースを聞いた京都市民にとって、藤原兼家の存在は、より正確に言えば源満仲と頼光の親子に指揮命令できる人物の存在は、一瞬にして希望の星となった。
普段の粗暴さも、混迷を目の当たりにする状況になるとむしろ頼もしく感じるようになる。デモ隊に向かい合う機動隊は、デモ隊やその支持者たちからは憎まれるが、デモ隊をテロリストと考える人にとっての機動隊はむしろ頼もしく思えるのと同じ原理である。
しかし、この状況に不安を感じたのが関白左大臣藤原頼忠である。
この人は無能ではない。敵を作らない性格であるという一点を見てもわかるとおり、断じて凡人ではなく、かなり有能な人物である。そして、この状況を冷静に把握できる能力もある。
藤原頼忠は考えた。今ここで自分に何かあったら、順当にいけば右大臣源雅信が国政における自分の地位を継承する。そして、藤原氏のトップである藤氏長者の地位は権大納言藤原兼家のものとなる。
ついこの間までであればそれで良かった。今まで連綿と続いてきた藤原北家の権力は途切れるが、政策の継承が途切れるわけではないのだから。
だが、今は権大納言藤原兼家に世論の支持がついている。そして、危機にあるときの世論は、変革ではなく継続を選ぶものである。この場合は、これまで続いてきた藤原北家による権力継承である。
これを考えると、右大臣源雅信が権力を継承したら、世論を味方にした権大納言藤原兼家が巨大な抵抗勢力となるのが目に見えている。しかも、権大納言藤原兼家は武力を持っている。良識ゆえに発動させてはいないが、武力を持っていても発動させないことと、そもそも武力が存在しないこととは全く違う話である。
巨大な抵抗勢力を生ませないようにするにはどうすべきか。
抵抗勢力そのものを自派に招き入れてしまうことである。ただ、そのためには飲み込む側の勢力も大きくなければならない。
藤原頼忠の勢力を大きくし、藤原兼家の勢力を自派の一員に組み込んでしまえば、政権の安定を生み出すだけでなく巨大な抵抗勢力を生まなくさせることができる。
では、どうすれば藤原頼忠の勢力を大きくできるか。
藤原頼忠の選んだのは、自身と円融天皇の結びつきを強めることであった。貞元三(九七八)年四月一〇日、関白左大臣藤原頼忠の娘の藤原遵子が入内。ただし中宮とさせることには失敗している。円融天皇は亡き藤原兼通の娘を中宮としており、いかに関白左大臣の娘であろうと、円融天皇の意志が動かなければ中宮交替などできない話であった。
もっとも、藤原兼通の娘の立場は弱いものがあった。強力な後ろ盾であった藤原兼通が亡くなった上に、入内してから六年目を迎えるのに未だ出産していないのである。この時代の天皇の后に求められるのは一にも二にも跡継ぎを生むことであり、六年間に一度も出産がなく、しかも年齢が既に三〇歳を超えている。現在であれば初産としておかしな年齢ではないが、当時としては初産には遅すぎる年齢と考えられていたこともあり、中宮交替はいつ起こってもおかしくないと考えられていた。
円融天皇はこのときまだ二〇歳。普通であればこれから子をもうけようかという年齢であり、これから生まれた子が成人して皇位を継ぐまで天皇であり続けると考えるのもおかしな話ではない。
だが、この時代の天皇の在位は長くても二〇年。平安京遷都から円融天皇の時代までの間で、二〇年を越えて帝位にあり続けたのは、第五〇代桓武天皇の二七年、第六〇代醍醐天皇の三三年、第六二代村上天皇の二一年の三例しかない。しかも、円融天皇は幼くして帝位に就いてからまもなく一〇年を迎えようとしている。
円融天皇はまだまだ時間があると考えていたが、周囲はそう考えていなかったのである。何としても跡継ぎが生まれることを望んでおり、自分の娘の生んだ男の子が跡継ぎになれば最良と誰もが考えていたのである。
円融天皇は周囲のこの動きを大袈裟と考えていたが、貞元三(九七八)年五月一九日、円融天皇が突然病気になったことで事態は急変した。
円融天皇には子供はいないが、弟がいる。また、兄である冷泉上皇には子供がいる。また、皇籍復帰した兼明親王らも天皇に就く資格を持っている。だから、皇室断絶ということはない。
しかし、兄弟間の皇位継承ならまだしも、甥や伯父、従兄弟といった皇位継承は色々と波乱を呼ぶのだ。
円融天皇は自身の跡継ぎ、そして、政治権力の継続を真剣に考えるようになった。
円融天皇が求めたのは大納言藤原兼家であった。より正確に言えば、藤原兼家の持つ武力であった。最悪のケースが起こっても、武力を手元に置いておけばどうにかなるのだ。
円融天皇が病気で倒れた貞元三(九七八)年五月一九日、円融天皇は藤原兼家に参内するよう命じた。
これに対する藤原兼家からの返答は、先の関白で今は亡き太政大臣藤原兼通の命令により、自分はいま参内を禁止されているから参内できないとするものであった。これは言いがかりに近い内容であったが、藤原兼通が弟の兼家の参内を禁止したのは事実であり、兼家も半ば嫌味を込めてではあるが、たしかにこれまで参内していなかった。
藤原兼家は、亡き藤原兼通の命じた参内禁止が不当な命令であり、参内禁止の命令を出した亡き藤原兼通を断罪した上で参内禁止の処分そのものを無効にすること、参内禁止によって停止していた藤原兼家の娘の藤原詮子の入内を再開することを求めたのである。
これはかなり厚かましい要求であったとするしかない。参内禁止の命令を無効化することまでは可能でも、その命令が誤りであり、命令を出した藤原兼通を弾劾するのは異例なこととするしかない。
さらに問題なのは藤原詮子の入内である。そもそも藤原詮子の入内などこれまで一度も議題に挙がったことなどない。それをいきなり「再開」というのだから理屈に合わないとするしかない。
もっとも、藤原兼家にも言い分はある。自分が参内停止になっていたから藤原詮子を入内させることができず、円融天皇の御世継ぎの誕生しないまま日々を無駄に経過させていたのである。
藤原兼家は円融天皇から参内を命じられても、命令が取り消されていない以上参内できないという理屈を、およそ一ヶ月に渡って続けたのである。さすがに源頼光は兼家のこの強情な態度にあきれたようだが、兼家とてここで妥協することはできない。なぜなら、ここで円融天皇に対して優位に立つか立たないかが、藤原兼通亡き現在の、自分の政治家としての命運を左右するのだ。
裏で何が行われたかは知るよしがない。しかし、結果ならば残っている。貞元三(九七八)年六月二一日、藤原兼家が参内。さらにその二ヶ月後の貞元三(九七八)年八月一七日、藤原兼家の娘の藤原詮子が入内。兼通の死後裁判については強情を張らなかった兼家も、娘の入内については最後まで横車を押したのであろう。
それに、円融天皇だけでなく、関白左大臣藤原頼忠も、このときはかなり焦りの色を隠せなかったのである。なぜなら、まさにこのとき、平安時代中期の日本にとって数少ない通商ある国の一つであった呉越国が宋の軍勢の前に滅亡したのだから。
呉越国の滅亡により、日本は完全に東アジアの中で孤立する存在となった。しかも、海の向こうでは五代十国の混乱が今まさに終わろうとし、宋という統一国家が誕生する目前に迫っていたのである。
聖徳太子以来、日本は中国と対等外交を展開してきた。白村江の戦いで唐と全面戦争を展開したこともあった。他の国が国家元首を中国の皇帝よりも一段下の王と名乗る中、日本は中国の皇帝と同等かそれ以上の存在である天皇であるとし続けた。一六〇年前に最後の遣唐使を派遣してからは正式な外交使節の派遣も取りやめた。なぜなら、この時代の外交使節とは格下の国から格上の国に派遣するものであり、日本は格下からの使節を受け入れる国であって、格上に使節を派遣する国ではないと考えていたのだから。
他国が格上と扱う中国に対しても距離を置き続け、中国の元号を使うことも、中国語を公用語とすることもなかった。それどころか、仮名文字という新たな文字体系まで生み出し、和歌という漢詩文化と全く異なる韻文文化を定着させていたのである。
しかし、いかに中国と距離を置いていようと、中国のほうが強大であることに違いはない。しかも、宋が今まさにその中国を統一しようとしているのであるが、統一の方法が平和的な合併ではなく武力制圧である。
その武力の矛先が東シナ海を越えて日本に向いたらどうなるか。
武力を食い止める可能性は武士しかない。そして、その武士を操れるのは藤原兼家ただ一人である。
ここで藤原兼家の要求を受け入れることは、根負けであると同時に、国の安全のためのやむを得ない妥協でもあったのである。
さらにこの妥協、言い方を変えれば武力強化を進行させたのが貞元三(九七八)年一〇月二日の人事。この日、藤原兼家を右大臣に昇格させたのである。
それまで右大臣であった源雅信が左大臣へ昇格。左大臣藤原頼忠は太政大臣に昇格したから、玉突き人事と言うこととなる。
オフィシャルな軍事力となると、左近衛大将は権大納言藤原朝光、右近衛大将は中納言藤原済時である。しかし、右大臣藤原兼家は彼らの上に立つ。すなわち、緊急時は大臣として命令できるのである。本来、議政官は合議制であり多数決によって意志の決定となるが、緊急時には大臣が左近衛大将や右近衛大将に命令できる。それに、合議制で右大臣藤原兼家の意志が否決されても、太政大臣藤原頼忠には拒否権が存在する。
互いに自分の娘を円融天皇に入内させたという点ではライバル関係になる太政大臣藤原頼忠と右大臣藤原兼家も、武力の行使という点では意見を同じくしている。
世の中には、自分より劣る存在の意見だと言うだけで相手の主張の全てを無視する者、さらには異なる勢力の意見だという理由で反対する者がいるが、例えば藤原兼通はそうした人間の一人であったが、幸いなことに、藤原頼忠も藤原兼家も、自分より下の地位にある者の意見や異なる勢力の意見であろうと聞くぐらいの知力を持っている。それに、戦争を迎えるか否かという危機においてはそうした知性を持っていないと話にならないものである。この一点だけを見ても、藤原兼通の存命中に呉越国が滅亡しなかったのは不幸中の幸いとするしかない。
対中国の危機のさなかにある貞元三(九七八)年一一月二九日、天元に改元すると発表したのも、国民に危機感を伝える意図があったからである。改元であれば否応なく日本全国に情報として拡散する。その情報に、日本が迎えている危機を上乗せして日本中に伝播させる目的があったのだ。
後世から考えるとこのときの朝廷の慌てぶりは冷笑ものだが、用心しすぎが後世の笑い話になることなど気にするような話ではない。用心せずに最悪な事態を起こしたときに待っているのは、死。戦争という命に関わる大問題を見逃すのは執政者として断じてしてはならない愚行である。その意味で、このときの朝廷はごく当たり前のことをしたに過ぎない。藤原兼家の出世欲を満たすためであったという悪評を掲げる者は、この時点の状況を理解していないとするしかない。
年が明けた天元二(九七九)年。大陸からついに情報が届いた。
五大十国を構成してきた国の一つである北漢が宋に降伏して滅亡。ついに宋が中国を統一したのである。
唐の衰退から各地に諸侯が生まれ、諸侯が独立した国となり、唐が滅亡し、五代十国の混迷となっておよそ一〇〇年。かつては唐が圧倒的存在感を持って東アジアの安定に寄与し、パクス・シナを維持していたが、この一〇〇年はパクス・シナが壊れ去っていた時代であったのである。
だが、これからは違う。宋の手によるパクス・シナが復活したのである。
とは言え、これは諸手を上げて喝采するようなことではない。
宋が中国を統一したと言っても、かつての唐の領土の全てを再服したわけではない。五代十国を構成してきた国が宋にまとまったという話である。
そして、新興国によく見られる光景であるが、国の外に敵を作り、戦争をすることで、建国直後の国内の混迷を逸らそうとする。しかも、宋は軍事力で五代十国の諸国を次々と滅ぼして中国大陸を統一してきた国であり、その軍事力は未だ健在である。その軍事力をそのまま国外に向けたらどうなるか。宋は国内の混迷を解消するが、戦争を仕掛けられたほうはたまったものではない。
戦争は、戦争しないと宣言したからと言って起きなくなるものではない。戦争をしないと宣言するのは自由だが、侵略しようと考えている側にとって、相手が戦争しないと宣言しようがそんなことは知ったことではない。誰がどう見ても侵略でしかない戦争であっても、侵略する側は理由を創り出して「復讐戦」を始めるものなのだから。
戦争を起こさなくする唯一の手段は、相手が攻めてこないだけの軍事力を持つこと。話し合いの通用しない物騒な者でも、殴り合いで勝てるかどうかなら理解できる。
天元二(九七九)年時点の日本は、その時代の朝廷がとりうる最大限の努力はしたのである。しかし、徴兵制である防人はもう一〇〇年以上前に廃止。防人と交替で導入したはずの健児(こんでい)も気がつけば有名無実化している。代わって登場してきたのが武士。この武士の存在によって一〇〇年にも渡る新羅からの侵略の全てに完勝することはできたが、今は新羅とは比べものにならない巨大国家からの侵略に対応しなければならない。
おまけに武士の存在は諸刃の剣でもあった。平将門や藤原純友という、この時代の人たちにとっては悪夢としか言いようのない先例があったのだ。
この二例はあまりにも巨大すぎて特例とするしかないが、これよりも小規模な事件はたびたび起こっていた。たとえば、天元二(九七九)年五月二二日には、下野国から、前武蔵介藤原千常と源肥(みなもとのこゆ)の合戦について報告が届いた。平将門によって一時的に朝廷権力のおよばない地となった関東は、平将門の死によって完全に平和になったわけではなく、平将門よりも小規模な武士団同士が争う地と化してしまったのである。
武士団は武力として計算できる存在であるが、同時に、国内の治安を乱す存在でもあったのだ。
この武力は陸地においてのみ頭痛の種となったのではない。
平将門の死後も関東に戦乱が続いたのと同様に、藤原純友の死後も瀬戸内海に海賊が暴れる日常は続いていた。ただ、藤原純友よりも規模が小さくなったために、海から遠ければある程度は海賊の被害を受けずに済むようになったというだけであり、当時の大動脈である瀬戸内海航路の不安定さはなおも続いていたのである。
天元二(九七九)年七月七日には海賊を追捕するよう命令が出ているが、同様の命令は何度も出ている。何度も出ているということは、海賊が完全に根絶したわけではないということでもある。潰しても、潰しても、海賊は途絶えることなく新たに誕生し続けているのである。
その上、海賊は日本の国内問題ではない。後世の倭寇も同じだが、その構成員の圧倒的大多数は日本人ではない。
何より日本語が通じない。
新羅滅亡によって流れてきた新羅人が日本で海賊となり藤原純友の配下となって暴れ回ったが、新羅滅亡から何年経とうとこの流れは変わらなかった。今は高麗人と名乗るべきところであるが、滅ぼされた新羅や百済の遺民であると主張すれば日本への亡命の絶好の口実になるし、何より、貧困の大地である朝鮮半島に留まるより、日本に行って海賊をやるほうがはるかに楽な暮らしができるのだ。
同郷の先輩が日本に渡って成功しているとなれば話はますます早くなる。日本に行くまでは命がけだが、日本に行って海賊仲間に加わったら、言葉は通じるし、攻撃対象は格下に考えている言葉の通じない赤の他人の日本人だから心も痛まない。そして一財産築いて朝鮮半島に戻れば貴族を思わせる豪奢な暮らしができるし、高麗の官位は試験や人としての素養ではなく財力でどうにかなるから、貴族を思わせる暮らしどころか、正真正銘高麗王朝の貴族に加われる。
海賊行為は律令に従えば死刑になる犯罪であるが、この時代の日本に死刑はなく、流刑が事実上の最高刑になっている。その最高刑である流刑に処しても、何しろ海賊だから海に出れば船を自由に操れる。そうなればいつの間にか根拠地に復帰だ。
海賊を捕らえて祖国に送り返しても、いつの間にか海賊は日本に戻ってしまっている。高麗が黙認しているのではなく、高麗に国外亡命を食い留めるだけの国力も、高麗国内に留まらせるだけの魅力ある国づくりもできていない。
これは縄文時代から延々と続いてきた、そして現在も続いている日本国の大問題である。
天元二(九七九)年五月の関東の争乱に関する報告と、七月の海賊追捕命令の間に、円融天皇に一つの悲劇が訪れている。
円融天皇の最愛の女性であり続けた中宮藤原コウ(コウは女編に皇)子を三三歳で亡くしたのだ。天皇よりも年上であるだけでなく、円融天皇より一二歳も年上というこの時代には極めて珍しい関係であったが、円融天皇の愛情を一心に受けたのはこの中宮であった。藤原コウ子の父の藤原兼通は無能の人であったが、藤原コウ子自身は嫁いでから六年間、中宮としてまさにこの時代のファーストレディーであり続けていた。
その中宮の地位が空席になったことで、空席を巡って、太政大臣藤原頼忠を父とする藤原遵子と、右大臣藤原兼家を父とする藤原詮子の水面下での争いが始まった。
さらに、この争いに参戦した人が二人いる。
一人は左大臣源雅信。太政大臣と右大臣が争う状況で、左大臣が絡んでくるのはおかしな話ではない。
問題なのは、残る一人。
それは円融天皇自身。
既に二一歳になり、若き執政者としての風格も出てきたことに加え、最愛の中宮を亡くした瞬間に太政大臣と右大臣が互いに娘を中宮にしようと争いを始め、それを諫めるべき左大臣源雅信まで争いに加わるとなると、円融天皇もさすがに我慢できない話になる。
中宮藤原コウ子は男児を生むことなく亡くなっている。つまり、円融天皇としては誰かに自分の子供を生んでもらわなければならないのは理解しているし、その重要性も頭ではわかっている。
だが、中宮の死に悲しんでいる最中に我が娘を推す大臣に嫌気が差すのは当たり前の感覚とするしかない。
これよりおよそ一〇〇年後に記された「江談抄」は、円融天皇の治世は途中から権力が四分したと評しているが、そのスタートとなったのもこのときである。
嵯峨天皇の時代に本州統一を果たし、それまで「蝦夷」と呼ばれていた人たちのうち、日本で暮らすことを選んだ者を「俘囚」と呼ぶようになったことは「北家起つ」で記した。
また、俘囚が特別扱いされる存在ではなく、昔からの日本人の家系であろうと、新たに日本で暮らすことを選んだ元蝦夷の家系であろうと、日本国民として日本に住むなら平等の権利を持ち義務を背負うことは「摂政基経」で記した。
ただし、いかに法の下の平等を謳おうと、俘囚という言葉、そして、自分が俘囚であるというアイデンティティは存在し続けていた。平将門や藤原純友が反乱を起こしていたまさにそのタイミングで、秋田で俘囚が反乱を起こしたのである。これは鎮圧されたが、反乱を起こすだけの集団として存在していたということである。
それはこの時代でも同じで、俘囚の子孫は俘囚として生活していた。もっとも、四〇年前と違って反乱を起こすだけの勢力にはない。しかし、自分を日本で暮らす者の中でも特殊であると認識する存在は存続し、組織だった生活をしていた。
その記録が、天元三(九八〇)年閏三月一六日の記録で、近江に住む俘囚が集団で陽明門の外に集まり、阿闍梨念禅の弟子が俘囚の長を殴ったと訴えたのである。この訴えは却下されたのだが、この件について、研究者の一人は、俘囚だったから却下されたのだろうと記している。つまり、訴えそのものではなく、俘囚のみに求められる手続きに不備があったから却下されたということである。
その研究者によると、俘囚が平安京に入り、朝廷に訴え出ることが許されるのは一年に二度のみであり、このときは、その二度のタイミングのどちらでもないので却下されたとしている。
本来東北地方に住んでいた俘囚が、京都のすぐ東にある近江で集団を作っていたというのは興味深い。近江は京都のすぐ側であっても五畿ではない。つまり、京都から日帰りできる距離で、五畿に住む者のみに課される義務と与えられる権利から離れて俘囚たちが住んでいたのである。これを単純に俘囚に対する差別と扱うのは短絡過ぎる。それよりも、武装化し武士団となった俘囚を京都のすぐ東に住まわせることで、それより東から京都に攻め上ろうとする勢力を抑える役割を果たそうとしていたのではないかと考えられる。
俘囚の訴えが却下されたのはたしかに手続き上の問題であったろう。
しかし、彼らは京都の治安安定のための部隊でもある。その彼らからの訴えは軽んじることのできないものであったが、強大にさせすぎてしまうと今度は京都の治安に関わってしまう。ここで加害者に罪に対する罰を下すと、パワーバランスが崩れてしまうのだ。
それに、俘囚からの訴えが相次いでいたことも記録に残っているのだから、ここでさらなる訴えを聞き入れてしまうと、俘囚が平等の存在を越えて特権階級になってしまう。
円融天皇の本心は俘囚の訴えを聞き入れないことであった。手続きの不備はその口実に過ぎないとするしかない。
天元三(九八〇)年六月一日、円融天皇の待ち望んでいた皇子が誕生した。後に一条天皇となる懐仁親王である。母親は藤原兼家の娘の藤原詮子。生まれたのは藤原兼家の邸宅である東三条殿。
この時代、出産は実家で行うのが普通である。また、ある程度の年齢まで養育するのも母方の実家である。これは天皇であろうと例外ではなく、懐仁親王は藤原兼家のもとで育っている。円融天皇がはじめて自分の皇子と出会ったのは生後五〇日を経てからで、内裏の清涼殿で開催された五十日の儀においてであろうと推測されている。
ここまでは普通である。だが、ここから先が普通ではない。なんと、円融天皇が在位中に自分の唯一の皇子である懐仁親王と顔を合わせたのは三回しか無いのである。これは異常なまでの少なさとするしか無い。確かにある程度の年齢までは母方の実家で育てるのはこの時代であれば普通のことであるが、それでも父が子と顔を合わせたのは三回しかないというのはあまりにも少なすぎる。
無論、円融天皇も我が子を内裏に招き寄せようとしている。現在の感覚で行くと母親の元から父親の元に養育権を渡すということにもなるのだが、天皇の皇位継承権と貴族の勢力争いの問題ともなるのでそう簡単な話とはならない。
皇子として内裏で行わなければならない儀式に参加させるときは内裏に赴く。しかし、儀式が終わればただちに東三条殿に戻る。これが日常となったのである。
円融天皇は自分の皇子を内裏に渡すよう要求するが、藤原兼家は娘である藤原詮子を中宮とするならば母子ともに内裏に向かわすとしか回答しない。ただでさえ皇后を巡る争いが貴族としての勢力争いに直結していることを考えても、藤原兼家から提案された条件は絶対に受け入れられない要望であった。
天元三(九八〇)年七月九日、暴風雨が京都を襲った。これにより、宮中の諸門や羅城門が倒壊する惨劇となった。
天災や人災が平安京の諸施設を破壊することは珍しくなくなっていた。一度の災害であれば復旧する意欲もわく。しかし、再建してすぐに災害、また再建してまた災害となると、復旧の意欲などすぐに薄れる。
それに、都市建設というのは実にわかりやすい税の使い道であるため、それがどんなに必要な工事であろうと税の無駄遣いとの批判を受ける。それが民意なのだから、壊れたら壊れっぱなしのまま放っておかれることも珍しくない。そして、壊れっぱなしのまま放っておかれ、それがさらなる崩壊を呼び寄せる。民意に従ったはずなのに、民意と真逆の結果となる。
ニューヨークの地下鉄車両の論理ではないが、ほんの少しの落書きがあるとすぐに次の落書きが生まれ、気づけば車両は落書きだらけになってしまう。一方、どんな些細な落書きも許さずに徹底的に消して回ると落書きで車両が汚れることはない。窓ガラスが一枚でも壊れた建物は次第に汚れ、そして壊れていくが、窓ガラスの汚れすら認めない建物は、汚れることなく壊れることもない。
これは都市でも同じである。
都市の中でも汚いエリアは治安が悪く建物もボロボロになるが、汚れを許さないエリアは治安も良く建物も壊れない。
平安京に目を移すと、平安京全体が前者である。
本来なら、どんな軽微な災害であろうと、常に復旧し続けておくべきであったのである。そして、常に新しい都市であり続けるべきであったのである。そうしなければ平安京は都市として完成せず、災害そのものを減らすこともできなかったのだ。
それなのに、税の無駄遣いと判断されて平安京は未完成となり、人災だけでなく天災が珍しくない都市になってしまった。平安京は建物の造成が途中なだけでなく、治水対策も途中で中断させられた都市のままになってしまったまま二〇〇年を経過しているのだ。天災も人災も珍しくないまま二〇〇年も経過している平安京にきれいさを求めるであろうか。
建設途中でストップし、治水対策も途中でストップした結果、平安京は簡単に水害を被るようになったし、治安も悪化した。その上、未完成の状態でもう二〇〇年が経過している。こうなると、未完成のまま二〇〇年が経過したのではなく、未完成であるのが平安京であるという意識が成立する。一度この認識が成立すると、災害を受けてボロが出ている状態の建物を見ても何とも思わなくなる。建物に火をつけることへの罪悪感も減るし、災害が起きてもそのまま放っておこうとする考えになる。