戦乱無き混迷 3.花山天皇の暴走
天延四(九七六)年五月一一日に焼け落ちた内裏を復旧させ、避難していた円融天皇が内裏に戻ったのが貞元二(九七七)年七月二九日。それから三年四ヶ月になろうという天元三(九八〇)年一一月二二日、また内裏が焼亡した。
平安京の天災や人災に慣れてしまった当時の人たちは、内裏の火災にももう慣れてしまっていた。応天門炎上事件では大騒ぎしたのが嘘であるかのように、あるいは天延四(九七六)年の内裏火災に恐れを抱いたのが嘘であるかのように、平安京の民衆は何の感情も見せなかった。「また内裏が燃えたのか」という程度しか感想を抱けなかった。そして、内裏焼亡の対応についても手慣れたものになってしまっていた。
それでも円融天皇はできる限りのことをしたのだ。ただ、そのできる限りのことを、世間一般の人はいつものことと受け止めたのである。
天元三(九八〇)年一一月二八日、天延四(九七六)年の先例に合わせ、服御、常膳を減らし、未進の調庸と徭の半分を免じることとなったのである。
これに関して、当時の人は新鮮さを感じなかった。また起こった火災に対して、いつものような対応をする。それだけしか感じることができなかったのだ。
がんばったというのは、やっている本人にとっては能力の限界を超えた苦難でも、他者からすれば既に実現できた先例になる。本人は一回限りだから苦難に耐えることができたと思っていても、周囲はそう考えてはくれないのだ。それに、初回は苦難と受け止められても、二回、三回と続くと苦難と見られなくなってしまう。
内裏の火災を受け、円融天皇は一度受けた苦難をもう一度実行する意欲を見せたのだが、その円融天皇の行動も周囲にはいつものことと見られるようになってしまった。
中国大陸に目を向けると、天元三(九八〇)年という年は、統一を果たした宋のさらなる拡大の動きのある一年であった。
群雄割拠を鎮めて国土を統一した直後の国は、国内の混乱を沈めるために、国外に共通の敵を設けて国内世論を一致させようとすることがある。宋は東西南北の何れにも兵を向けることを企画し、海の向こうの日本をターゲットとする動きも見られ、この年、宋から使者が日本にやってきた。ただし、それが何年何月何日のことなのかは記録に残っていない。
日本にとっては厄介な客人であったとするしかない。
宋からの使者は、表向きはあくまでも商人である。しかし、誰の目にも商人でないことは見てとれた。この時代の外交使節とは格下が格上に派遣するものという概念であったから、日本を格下に考える宋が使者を派遣するわけがない。
かといって、日本からの使者を待っていてもどうにもならない。何しろ、日本は宋との交易を必ずしも必要としていない上に、宋との正式な国交を求める動きも存在しないのである。遣唐使の時代は唐の制度や文化を学ぶ意識が日本国内にもあったが、この時代の日本人に、個人レベルはともかく、国家レベルで学問や文化で宋を必要とする意欲が無かったのだ。商品を求める商人が勝手に宋に行って交易するのは構わないし、宋の商人が日本にやってくることも構わないが、国としては宋との取引に関与しないというのがこの時点の日本のスタンスであった。
この日本のスタンスは宋にとって歯がゆいものがあったが、かといって、かつてのように遣唐使、いや、正確には遣宋使を送るようにと強要することもできなかった。日本が遣唐使を送っていたのは唐の文化や国家制度を学ぶと同時に、対新羅の国家戦略もあったのである。しかし、この時代の日本にはその両方がなかった。文化や国家制度を学ぶこともなければ、対朝鮮半島の国家戦略として他国を利用するという概念もなかったのである。
日本から動いてこない以上、宋からアクションを起こさねばならない。しかし、国としての体面がある。その結果が、商人を装っての使者派遣であった。
この使者派遣が宋にどのような情報を伝えたかの記録はない。だが、結果ならわかる。
現時点で宋は日本を仮想敵国とせず、北の遼と、南のベトナムに軍勢を向けることを選んだのである。宋に海を越える海軍力がなかったのか、あるいは日本の軍事力、正確には武士団の能力が宋を抑える能力を持っていたと判断したか。それとも、日本を攻めても得る物はないと考えたか、あるいは、ただ単に順番を後回しにしただけなのか、この時点ではわからなかった。
宋が、北の遼と南のベトナムにほぼ同時に軍勢を派遣したことを、日本は情報として掴んでいた。そして、宋には一〇〇万人とされる軍隊が存在することも情報として掴んでいた。防人がまだ機能していた頃ならば日本も組織的な軍隊を保持できたが、それでも三万人がせいぜいである。今となっては国の命令で操れる軍勢などどんなに多く見積もっても一万人には届かない。朝廷の指揮下にない武士団を利用したところで、一〇万人の軍勢を動員できれば奇跡としか言いようがない。それに比べて、宋の軍事力は一〇〇万人。これでは恐怖を抱かないほうがどうかしている。
内裏が焼け落ちた朝廷は、年が明けた天元四(九八一)年に、当初は平野社を臨時の御所と、後に関白太政大臣藤原頼忠の邸宅である四条坊門大宮第を仮の御所として、円融天皇を中心とする会議を連日開催した。
議題は一つ。宋からの侵略の危険性についてである。
宋が日本に侵略してくるというのはあくまでも可能性であり、確実に起こる話ではない。だからといって、何も対処をしないまま放っておくのはリスクが高すぎる話であるし、そのような態度でいたらそれはもう国家とは言わない。心配しすぎの笑い話が起こるなら、笑われるのを忌避するより、笑われても構わないから用心をするのが政治である。それを忌避するのは政治家ではない。
円融天皇のこのときの心配は、政治家として適切なものであったと同時に、笑い話で済む話に留まった。
ただ、それは多くの血の結果であった。
当時のベトナムは、丁朝の建国者である丁部領(ディン・ボ・リン)が亡くなったタイミングだったのである。宋がベトナムに侵攻しようとしたのも国王空位を狙っての行動であり、宋はベトナムを侵略すべく陸海双方から軍勢を派遣したのであった。
ここで宋に対し抵抗を見せたのが、丁部領の死後、摂政として国政を司っていた黎桓(レ・ホアン)である。黎桓は丁部領に仕える軍人であり、このときはベトナム全軍を指揮する立場にあった。
丁部領の死後、ベトナム国内は混乱が続いていた。そこにいきなり飛び込んできた宋の侵略のニュースである。丁部領の王妃でもあった楊(ズォン)皇后が黎桓と再婚すると表明したことで、ベトナムの軍事を司っていた黎桓が丁朝の正統な後継者となり、黎桓は国王に就任。この王朝交替交代劇により、それまで混乱を見せていたベトナムは意思の統一を見せたのである。
宋にとっての対外戦争は国内の混乱を抑える道具であったが、ベトナムにとっては今まさに侵略されているということがベトナムを統一させるきっかけとなったのだ。
当初は宋が圧倒的優位にあると考えられていたし、当時の日本もベトナムが宋の前に敗れ去ることを前提として軍事戦略を練っていたのだが、黎桓の率いるベトナム軍は宋に激しい抵抗を見せただけでなく、補給路を断つことで宋軍を孤立させることに成功。この結果、宋軍は食糧不足から全面撤退を余儀なくされた上、帰還する宋軍の間で伝染病が流行し、多くの兵士がベトナムの地で命を落とした。
宋にとっては手痛い敗戦である。しかも、北の遼と南のベトナムの双方に軍勢を差し向けたといっても、主力はやはり北の遼に対してであり、南のベトナムは小規模の軍勢で制圧を完了させることで国内世論をまとめ上げる意図があっての派兵であった。それなのに、そのベトナムの前に敗れ去ったことは宋の国内世論をかえって混乱させることとなったのである。
ベトナムに敗れたことの動揺を抑えるためにさらに他の国への侵略を企画するような国力は宋にはもはやなかった。日本はベトナムの苦闘のおかげで奇跡的に平和を維持できたのである。
天元四(九八一)年一〇月二七日、内裏の復旧工事が完了したとして、円融天皇が新造内裏に遷御した。
もっとも、内裏はいかにも応急処置としてもよい出来のものであった。焼亡から一年も経ていないことだけが理由ではない。この時点の円融天皇の、太政大臣藤原頼忠の、そして議政官の面々の意思は一つにまとまっていた。すなわち、内裏新造よりも軍備拡充を優先させることである。
ならば内裏の建造そのものを止めてしまえば良いではないかと考えるかも知れないが、それも違う。内裏を建て直すことそのものが公共事業となって失業を減らす役割を持つのであり、ここで内裏の建造を止めてしまったら失業者が平安京にあふれかえることとなってしまう。いくら対外防衛を優先させる必要があろうと、国内の失業問題を無視するようでは執政者失格とするしかない。
この時点の円融天皇は、現在の感覚で言う挙国一致内閣を模索していた。国内世論を何としても統一させることを最優先していたのである。
なぜか?
ここでもやはりベトナムの問題が絡んでいるのである。
先に、宋がベトナムに侵略して失敗したことを記した。この時の宋の動きは誰がどう見ても侵略だったのだが、古今東西、どんな戦争であれ大義名分は存在する。それは宋のベトナム侵略も例外ではない。
宋にとっての大義名分。それは、ベトナムが統一されていなかったことである。丁部領の死の直後、呉日慶(ゴー・ニャク・カィン)がベトナム南部に存在していたチャンパ王国と手を結び、ベトナムから独立した王国の成立を宣言したのである。黎桓の国王就任によってベトナムは統一することとなったのだが、そのとき、最後まで抵抗したのが呉日慶であった。
宋はこの、呉日慶を支援するとしてベトナムに侵略してきたのである。
呉日慶が本当に宋の支援を求めたのかはわからない。しかし、時の政権に反抗する集団というのは、その国への侵略を企む国にとっては絶好の口実である。正義の反政府組織を支援するための出兵は人類の歴史において何も珍しいことではない。
しかも、この時代の日本は平将門や藤原純友と言った明確な反政府集団が暴れ回っていた時代から四〇年しか経過しておらず、その影響を受けたと思われる地方の武士団の姿も散見される。
その上、朝廷を見渡すと、武力は持っていないが、明確にこの時代の政権に反発する集団が見られる。
後者のそれはどんな集団か?
やはりここでも問題になるのは律令派なのである。
律令派が議政官から姿を消し、朝廷の中でも乏しい勢力になったといっても、勢力が消えたわけでは無い。現在の日本だと反政府の抗議デモなどで自分たちの存在を示すし、選挙ともなれば、当落はともかく出馬ぐらいはする。この時代は律令派主催の抗議デモなどないし、そもそも選挙も存在しないが、それでも自分たちの存在を誇示することはする。
無視したらどうなるか?
反政府ゆえに国外の勢力と簡単に結びつく。現在の日本でも、民主党や社民党や共産党を見れば、あるいは沖縄の反米デモを見れば理解いただけるであろう。
反政府集団はどんなに迷惑でも、それなりに相手をしてあげないと、簡単に国を裏切る。そして、国の敵を解放者として平気で迎え入れる。
その反政府集団を黙らせる方法が一つだけある。反政府集団の首領を国の権力に関わらせるのだ。それは閑職でいい。その他大勢の一人であればなおさらいい。はっきり言って何の役にも立たないのだから重要な役職に就けるのは無意味だが、それがどんなに税の無駄遣いであろうと適当な役職を与えて抱え込んでしまえば、反政府集団はおとなしくなるのである。
反政府集団は目的があって反政府の行動を起こしているわけでは無い。権力に楯突いている自分に酔いしれているだけである。だから、権力を持っていると錯覚させてしまえば酔いが回りきっておとなしくなる。
天元四(九八一)年、久しぶりに藤原氏でも源氏でもない参議が誕生した。しかも、生粋の律令派である。その者の名は大江斉光。このとき四八歳。文章生として大学を入り、そのまま大学に残って文章得業生となり、かつて菅原道真が合格したことでも有名な方略試に合格して貴族入りを果たすという律令派の中でもエリートに属する。その後、各地の地方官を歴任した後、京都に戻って蔵人を務め、さらに出世して民部少輔も経験。ここから次は弁官に進んだのち、大学頭を経て、参議就任の直前まで式部大輔を勤めていた。式部大輔就任までは典型的な大学出の役人の出世コースである。
役人の人事権を握る式部大輔に就任できたということは、律令派の一員ではあっても穏健な律令派であると言うこと、すなわち、反律令を命題とする藤原氏から才能を認められ、人事を任されるだけ信任を得る優秀さがあったということである。
律令派は、血筋によって権力を握っている藤原氏や源氏に対してならば表立って反発するが、大学での成績の優れた者、特に、全ての役人が夢見ながら、合格はおろか受験資格を得ることすら困難な方略試に合格したという実績を持った者となると黙り込む。これは今の学歴社会に似たものと言えよう。藤原氏の信任を獲得している上に、この時点で最高の学歴の持ち主と言っても良い大江斉光を参議に引き入れることは、律令派を黙らせる効果を有した。
さらに円融天皇は翌天元五(九八二)年一月一〇日に大胆な行動に出た。
関白はあくまでも相談役であり、天皇に助言することはできても、関白の意志を最終決定とすることはできない。
そして、太政大臣は議政官ではない。今でいうと国会議員ではない。議政官の決定に対する拒否権があるのみである。しかも、発動できる拒否権は議政官から天皇への奏上に対する拒否権であり、天皇自らの意志の発露となると、拒否権を発動させる余地はない。
円融天皇がとったのは、関白太政大臣藤原頼忠の存在を無視した人事であった。
人事の内容そのものは順当とするしかない。
しかし、今まで人事と言えば、太政官から議政官に上奏され、議政官の会議で結果がまとまり、太政大臣のチェックを経て天皇に届き、天皇の名で発令されるものであった。
それが、途中を飛ばしていきなりの人事発表である。
それも人事発表であることを秘匿した状態で貴族を集め、何事かと訝しげな表情をしながらも円融天皇の前に並ぶ貴族たちに向かって、蔵人藤原宣孝がいきなり円融天皇の名で人事を読み上げはじめたのである。
これには関白太政大臣藤原頼忠も複雑な表情を見せ、抗議の意味を込めて退席した。いかに温厚な性格とは言え、自分の政務が無視されて平然としていられるわけではない。退席時に見せた表情こそ怒りを抑えたものであったが、それが余計に藤原頼忠の怒りの度合いを推し量るものになった。
しかし、円融天皇は藤原頼忠の退席を無視。それどころか、左大臣源雅信を上卿(しょうけい)、すなわち、貴族の最高位者として人事の読み上げに関する責任をとらせたのである。
藤氏長者である関白太政大臣を無視し、源氏に執政を命じたこの行為は、反藤原感情の強い律令派を抑えるのに有効に働いた。しかし、ここで藤原頼忠を邪険に扱ったことは後に大きな遺恨を生むこととなる。
大江斉光を参議に引き入れ、関白太政大臣から権限を取り上げることで朝廷内の反政府運動を沈静化させることに成功した円融天皇は、もう一つの反政府組織対策に向けて動き出した。
瀬戸内海に姿を見せるようになった藤原純友の残党を名乗る海賊である。
もっとも、本当に残党である可能性は低い。何しろ藤原純友の軍勢は根絶やしにされただけでなく、それから四〇年近く経過しているのである。せいぜい、藤原純友の軍勢にいた者の子孫がちらほら見られるという程度のものであったろう。
天元五(九八二)年二月七日、円融天皇は海賊の追討を命令する。
四〇年前の藤原純友は朝廷の討伐宣言から一年にわたって抵抗し、純友亡き後も四ヶ月に渡って残党が暴れ回っていたという過去があり、多くの者が、今回も四〇年前と同様の長期戦になることを予想した。
ところが、天元五(九八二)年二月二三日、伊予国から意外な報告が届いた。海賊の首領である能原兼信(よしはらのかねのぶ)を討ち取ったという報告である。長期戦を予想していながら、半月も経たずに作戦が完了してしまったのだ。
円融天皇はこの軍勢の勢いをそのまま利用した。天元五(九八二)年二月二八日、平安京で群盗が多数出没しているため、これから瀬戸内海に援軍として派遣する予定であった武士をそのまま検非違使に組み込み、京都の治安維持にあたらせることとしたのである。
武士に検非違使という公的地位を与えることについて律令派の貴族から反発が上がったが、他ならぬ大江斉光が賛成に回ったとあっては、多くの律令派貴族は沈黙せざるを得ない。
しかし、全員が沈黙したわけではない。特に、二人の貴族が律令派の論客として名を示すようになっていた。
一人は慶滋保胤。
そしてもう一人が源高明。
二人とも貴族ではあるが議政官として政治の矢面に立っているわけではない。しかし、その影響力は計り知れない。慶滋保胤は勧学会の主催者として過激な行動に走る律令派貴族たちの理論の柱になっていたし、源高明は追放解除され第一線から退いたとはいえ、かつて左大臣をつとめたほどの貴族である。
この二人が律令派の論客となったのだ。
天元五(九八二)年三月一一日、円融天皇は関白太政大臣藤原頼忠の娘である藤原遵子を中宮とすると発表した。宋からの侵略の危機という一点については一致団結していた朝廷も、皇后を巡る争いとなると一瞬にして対立となる。特に、関白太政大臣の藤原頼忠と、右大臣藤原兼家の対立となる。だからここまで皇后不在というイレギュラーな状態にしていたのだが、さすがに皇統に関わるとなると、藤原遵子か、それとも藤原兼家の娘である藤原詮子のどちらかを皇后にするという決定を下さねばならない。
この二人の女性にはともに一長一短があった。
まず、藤原遵子は関白太政大臣の娘である。政権の安定を考えるのであれば、天皇が関白の娘を皇后とするのが普通であり、関白の娘を差し置いて右大臣の娘を皇后とするのは異例の事態とするしかない。
しかし、その右大臣の娘である藤原詮子は、二年前の天元三(九八〇)年六月一日に、この時点で円融天皇にとってただ一人の男児である懐仁親王を出産している。このままで行けば皇位継承権第一位は懐仁親王であることを考えると、次期天皇の母である藤原詮子を皇后にするのはおかしな話ではない。
この一長一短があって決めきれずにいた円融天皇が、選択を迫られた末に選んだ相手、それが藤原遵子であった。何しろ、一月の人事における関白太政大臣藤原頼忠の無視という行為は、いかに敵を作らない性格の藤原頼忠であっても平然としていられる行為ではなかったのである。それでも関白として、あるいは太政大臣として政務をこなすが、それまでのようなスムーズなものとはならなくなってしまったのだ。だから、ここで関白太政大臣の娘を中宮とすると発表すること円融天皇から藤原頼忠に歩み寄り、政務のスムーズさを再復する意味があったのだ。
しかし、関白太政大臣藤原頼忠の娘を選んだことは、右大臣藤原兼家の娘を無視するということにつながる。実際、宋の対策については意見の一致を見る右大臣藤原兼家との関係も、いざ皇后を巡る争いとなるとお互いが対立する。しかも、この二人の対立は本人だけではなく家族を巻き込んだ対立となる。それも、かなり幼稚な対立を生み出す。それに、いかに藤原頼忠が敵を作り出さない性格だと言っても、その子まで性格が遺伝するとは限らない。
こういうときに対立を根深いものにさせる原因になるのは、深く考えずに発言する者である。藤原頼忠の息子で、藤原遵子の弟でもある藤原公任がそういう人であった。
『大鏡』によると、藤原公任は藤原兼家の見ている前で、藤原詮子にこう言ったという。「この女御は、いつか后にはたちたまふらむ(こちらの女御はいつ立后なさるのか)」と。
こういうのを失言という。それも政治家としては致命的な失言である。
藤原公任のこの失言は、怒りを買うだけでなく、藤原公任の一生を左右する失言にもなった。こういう失言をする心根には、藤原兼家や藤原詮子より自分が上に立つ存在であると認めさせたという優越感がある。そしてこの優越感は死ぬまで治らない。だからか、藤原公任は死ぬまで自分の出世にこだわり続けただけでなく、自分より出世している者を激しく憎んだ。憎み続けた。歌人として、また、法律家としても一流であり、紫式部日記にも姿を見せる文化人であったのに、政治家としては権大納言止まりでついに大臣に進むことはなかったのも、この性格のためであった。
皇后決定に至るまでは混乱があったが、幸いなことに、内政は平穏無事であった。
凶作もなく、天変地異もなく、国外からの侵略も今のところはない。
反政府思想を持つ者にとって重要なのは、何でもいいから攻撃材料を見つけて攻撃することそのものである。些細な内容でも、下らない内容でもいいから、とにかくあら探しをして重箱の隅を突くような欠点を見つけて攻撃することが重要なのであり、指摘が改善されても満足することはない。
こういう人は、どんなに平和で、どんなに豊かな社会が実現しても、現在は堕落していると考え、堕落に警鐘を鳴らす自分を賛美するように求める。
天元五(九八二)年一〇月、ほぼ時期を同じくして二冊の本が世に出た。
慶滋保胤の著した「池亭記」、そして、源高明の著した「西宮記」である。
前者は、律令派の貴族である自分が、平安京をはじめとする社会がいかに腐りきっているかを批判し、それと一線を画して自宅に引きこもっている自分がいかに風流な暮らしをしているかという自己賛美の本であり、後者は有職故実を通じて現在の誤りを正そうとする訴えの本である。
どちらも同時代の社会情勢を伝える資料としては優れており、特に前者は当時の平安京の住宅事情を知るのにかなり参考となる資料である。と同時に、根底にあるのは、現世批判と、批判する自分がいかに優れた人間であるかという自己優越感。自分をエリートと自認する者が、肥大化した自己認識に合わない社会的地位にあるときの感情は今も昔も変わらないことを知るにも有益な資料である。
円融天皇の経験した内裏の焼亡と復旧をまとめると以下の通りとなる。
天延四(九七六)年五月一一日、内裏焼亡。
貞元二(九七七)年七月二九日、内裏復旧工事完了。
天元三(九八〇)年一一月二二日、内裏焼亡。
天元四(九八一)年一〇月二七日、内裏復旧工事完了。
このように記すと、焼けては直し、焼けては直しの繰り返しではないかと感じる。
そして、もう一つ感じることもある。
そろそろ焼けるのではないか、と。
その感覚は正解。前年一〇月末に工事を完了させてからおよそ一年を経た天元五(九八二)年一一月一七日、内裏がまた焼亡したのである。
一度であれば大惨事だが、二度は通例、三度となると誰も目を向けなくなる。最初のうちこそ誰かの祟りだという話が出てきて騒然としたが、何度も続くと「ああ、またか」と感じてしまうのは人間の本性としてもいいだろう。
そのため、内裏火災についての記録はほとんど無い。火災があったとの記録があるだけで、その被害の状況を伝える記録がないのである。
ボヤで済む規模でなかったことは明らかである。円融天皇が堀河院を里内裏と定めて移り住んだ記録があるからで、里内裏を定める以上、内裏の工事は数日なんてレベルで修繕完了となるものではない。事実、この火災からの復旧は一年半を要したのである。
そしてもう一つ、ほとんど誰からも気にされないニュースがあった。
天元五(九八二)年一二月一六日、源高明、死去。かつては大臣までつとめながらも太宰府に飛ばされた人間という点では菅原道真と変わらないのに、源高明の最期を伝える記録も、死後の伝説についての記録もない。怨霊となって暴れ回ったとしてもおかしくないのに、死後の追贈もない。いや、一応は死後の追贈があるにはあるのだが、それが行われたのは何と室町時代、まもなく応仁の乱が始まろうかという文安五(一四四八)年のことであり、そこで贈られたのも従一位であって、死後の名誉のための大臣位を贈られることもなかった。
関白太政大臣藤原頼忠、左大臣源雅信、右大臣藤原兼家、そして円融天皇の四人が微妙なバランスを築きながら政局を運営している。意見の一致を見るのは対外政策、すなわち、日本国の存亡の危機に関する点に限定され、内政となると意見の一致は乏しい。
藤原頼忠は皇后の父、源雅信は皇太子師貞親王の教育係、藤原兼家は皇位継承者筆頭である懐仁親王の母方の祖父と、それぞれがバックボーンを持っている。
ここで注意すべきは皇太子師貞親王が必ずしも皇位継承者筆頭となってはいなかったことである。懐仁親王がまだ幼いために、今ここで円融天皇に何かあったら師貞親王が即位するが、何もないまま年月を経て懐仁親王がある程度の年齢になったら、懐仁親王を皇太子とする予定であったのである。
ここで微妙だったのが皇太子諸貞親王の立場である。
懐仁親王が皇太子でないのはその若さゆえであるが、諸貞親王は生後一〇ヶ月で皇太子になっている。つまり、円融天皇の実子が幼いために皇太子になっていないという構造がいつまで続くかわからないのである。
その上、諸貞親王の祖父は亡き藤原伊尹。いかに生前関白太政大臣を勤めていた人物であるといっても、故人となってしまっていては立場が弱い。その上、懐仁親王の祖父は現役の右大臣である藤原兼家だが、この人は次期関白太政大臣筆頭の地位にある。こうなるとさらに立場が弱くなる。
天元六(九八三)年四月一五日、何の前触れもなく元号を永観に改元するとの発表がなされた。しかも、この改元の詔を記したのは慶滋保胤であった。
源高明亡きあと、反政府運動としての律令派の主軸となっている慶滋保胤に改元の詔を執筆させるのは、異例といえば異例なことであるが、反政府運動の懐柔策としては理にかなっている。現実にそうであるかどうかは別にして、律令派の面々の多くは自らをインテリと考えている。そして、詔といえば名目上こそ天皇直筆の文書であるが、その多くは臣下の代筆であり、代筆は当代随一の知識人の記す役割であるとされている。
改元の詔となると、この時代で最高の知識人の記す文章となっていなければならない、と普通の人なら考える。何しろ時代を一新する文書であり、その影響は日本全国に広がる。その文書の中身を慶滋保胤が記すとなると、円融天皇が律令派に一定の理解を示したと考えてもおかしくないのである。
だが、もう少し穿った考えをすると事情が変わる。
改元は重要事である。だが、さほど影響の強いものではない。日本全国に影響を与えるから影響の及ぼす範囲は広いが、影響そのものの強さはさほどでもない。しかも、この時代は現在と違い、一世一元の制なんてものはなく、一人の天皇がその在位中に何度も改元することなど珍しくも何ともない。この時代の人に元号が変わることのニュースを伝えたところで「ああ、またか」ぐらいの答えしか返ってこない、ごくありふれた光景である。
内裏が焼亡する事態が立て続けに起こっていることを考えれば、改元すること自体はおかしなことではない。天災にしろ、人災にしろ、良くない事件が起きたときに改元するのはごく普通のことであると同時に、良くない事件が起きても改元しないままであるのも珍しくないのである。
内裏焼亡は改元に値する大事件であるが、改元しようと「まあ、改元するぐらいの事件だわな」ぐらいの感想しか得られず、改元しなかったところで「まあ、改元するほどの事件でもないわな」ぐらいの感想しか得られない。つまり、改元するしないはどうでもいい話なのである。そのどうでもいいことを利用すれば反政府運動が沈静化するのは、やかましい者共を黙らせる手っ取り早い話として有効であった。
日本国は元号を頻繁に帰る国であるが、国号を変える国ではない。歴史上唯一の国号変更は、「倭(やまと)」から「日本」への変更だけ。
だから日本人の感覚でいくと、国の名前が変わることはとんでもない大事件に感じるし、そもそもその感覚がわからない。強いて挙げれば「大日本帝国」から「日本国」への変更があるぐらいだが、それでも基礎である「日本」の部分は変わっていない。日本人の意識においては、自分たちの国は昔から日本でこれからも永遠に日本である。これは永遠不変の真理であるとしか言いようがない。
ところが、世界史に目を移すと国号が変わらないほうが極めて珍しい話なのである。特に、東アジアの国々は国号が頻繁に変わるのが当たり前で、国号がそのまま歴史学における時代区分に使用できるのが普通である。
日本で元号が変わった二ヶ月後、日本海の向こうで国号を変える国があった。正確に言えば、国号を戻した国があった。その国は、遼。永観元(九八三)年六月一〇日に遼が国号を契丹に戻した。無論、契丹が永観という元号を使っていたわけではなく、契丹に国号を変えた日を日本の元号で表記すると永観元年になるという話である。ちなみに、契丹の元号にすると統和元年となる。
契丹も日本同様に独自の元号を使用していた国であり、また、国家元首を王ではなく皇帝としていた国である。しかし、その概念は日本と少し異なる。日本が天皇という皇帝制度を維持し、日本国のみに通用する元号を用いたのは、日本が中国と対等な勢力であることを誇示する目的があった、すなわち、日本だけで、中国とその周辺の国々からなるシナ文化圏に匹敵する独自の勢力であることを明示する目的があったのに対し、遼は、自国こそが中国であると明示する目的があって皇帝制度を作り、独自の元号を使用したのである。
国号を契丹ではなく遼としていたのも、中国に覇権を握る意味を有してのことであった。そのために中国風の文化を受け入れ、中国風の人事制度を導入してもいた。しかし、国号を遼と変えての中国化政策が国内に反発を呼んでいたのも事実である。
国号を契丹に戻したのはこのときわずか一二歳の第五代皇帝聖宗である。当時の遼の国内は、契丹独自の文化を良しとする国内派と、中国文化を受け入れるべきとする国外派とに分裂しており、父である第四代皇帝景宗の死後、国内派によって担がれたのが聖宗であった。その聖宗の最初の命令が国号を契丹に戻すことであった。
どんな国でもそうだが、侵略を受けていると考えると、世論は侵略者に対して厳しい視線を向けるようになり、侵略者の全てを否定するようになる。侵略してきた国の人間を受け入れないだけでなく、侵略国の文化の全てを拒絶する。この状態での旧国号復活は、侵略者である宋に関連する文化の否定でもあった。
聖宗即位時の契丹は、二方面からの侵略を受けている状態にあった。南の宋、そして、東南の高麗である。これもまた歴史の必然とも言うべき視点であるが、契丹にとっては侵略であるこのときの状態も、宋に視点を移せば、唐の継承国家として唐の時代の国土を回復するための戦争であるし、高麗に視点を移せば、かつての渤海の継承国家として、渤海国の領地を奪還するための戦争である。だから当然とするべきか、当時の記録のどこをみても、宋が契丹に侵略したという記述が宋の記録にあるわけはなく、高麗が契丹に侵略したという記述が高麗の記録にあるわけもない。あるのは正義に基づいた戦争をしたという記録だけである。
ゆえに、戦争をしたという記録から被害者の立場に立って歴史を眺める必要があるのだが、この時代の契丹を見ると、歴史上、侵略を受けてきた国の実行したのと同じ戦略、つなわち、侵略している国を挟み込むかのような政略を選んでいた。
契丹にとってのそれは、日本であり、ベトナムであった。
自らの身を守るために日本に使者を派遣し、日本経由でベトナムにも使者を派遣した。
契丹・日本・ベトナムで、対宋・高麗包囲網を敷くというのがこのときの契丹の外交政策であった。
これに困ったのが日本である。契丹も、ベトナムも、実際に侵略を受けている。ベトナムは宋の侵略を跳ね返したが、跳ね返したというだけで未来永劫侵略を受けなくてよくなったというわけではない。しかし、日本は侵略を受けているわけではない。強いて挙げるとすれば、かつての新羅の遺民が瀬戸内海で海賊となって暴れていること、また、貧しい高麗人が豊かな日本の暮らしに憧れて密入国することぐらいである。たしかに迷惑ではあるが、かつての新羅のように明確な侵略をしているわけではない。
その上、日本は事実上鎖国している。厳密に言えば、貿易は認めているが、正式な外交関係は閉ざしている。しかも、いまここで救いを求めてきた契丹は、かつて、日本の最大の同盟国であった渤海国を滅ぼした国である。長い年月を経てはいても、日本人にとっての契丹は、友好国ではなく、同盟国を滅ぼした蛮族なのである。
さらに、この時代の日本の軍事力は無に等しい。各地の武士がその土地を守ってはいても、天皇の命令一つで数万人規模の軍勢を招集できるような仕組みにはなっていないのである。こうなると、契丹と軍事同盟を結ぶことは困難とするしかない。単なる同盟であればまだどうにかなるが、契丹の求める軍事同盟となるとその要望に応えることができないのだ。契丹を救うために高麗や宋に出兵するなど無茶な話なのである。
この当時の日本は、大陸に攻め込むどころか、大陸から攻め込まれるのではないかという恐怖心に苛まれていた。かといって、このタイミングで高麗や宋と正式な外交を結ぶのも無理な話であった。
新羅の蛮行もあって日本人の対朝鮮半島への憎しみは最低最悪なものがあり、高麗と正式な外交を築くとなったらそれだけで政権転覆しかねない話であった。
一方、宋に対する感情は憎しみではなく恐怖であった。実際に契丹やベトナムに侵略しているニュースを見聞きするとなると、いつそのターゲットが日本になるかわからない。
ここでもし充分な軍事力があれば、契丹やベトナムと軍事同盟を結ぶこともできたのである。だが、それだけの軍事力はない。ゆえに、この時代の日本のとることができたのは、どうにか武士を集めて国土防衛にあたらせることと、どんな形であれ侵略の大義名分を与えないように努めることだけであった。
永観元(九八三)年八月一日、東大寺の僧侶の奝然(ちょうねん)が、宋商人の船で宋に向かうこととなった。
僧侶の派遣は、名目上は仏教の学習のためである。中国が五代十国の混乱にある最中であっても、仏教を学ばせるという名目で僧侶を派遣して現地の情報収集にあたらせることは珍しくなかった。奝然の派遣はその延長上である。
しかし、ただ単に仏教を学ぶための僧侶が航海しただけでないことは、この年の秋に右大臣藤原兼家の見せた行動によってわかる。
この時代、中国に行くというのは命がけの行為であり、現在のように飛行機に乗って数時間もすれば現地に着くなどという簡単な話では済まない。行くだけで数ヶ月、現地に滞在すること数年、そして帰国するにも数ヶ月というかなりの長期計画が必要なのである。
中国に向かう海の上であろう時期である永観元(九八三)年一〇月二五日、右大臣藤原兼家が比叡山横川に薬師堂を建立し、航海の無事を祈った。
現地に到着した頃であろう永観元(九八三)年一一月二七日に、右大臣藤原兼家が、前月と同様、比叡山横川に恵心院を建立し、旅路の無事を祈った。
ここでの藤原兼家の行動は、本人がオカルティックなものを信じる性質であったということもあろうが、もう一つ、この当時の人たちの心情についても考察しなければならない。
オカルティックなことを迷信と喝破するのは本人の自由だが、信じている人に向かってそれを迷信と説いて回るより、迷信を迷信のままにしておいたほうが簡単だというなら、迷信につきあうのも一つの手である。それに、この時代の比叡山は京都の貴族にとってもっとも身近な山であり、単に「山」と言うだけで比叡山を意味するほどであった。
その上、比叡山延暦寺はこの時代の平安京の人たちにとって最大のレジャースポットでもあったのだ。
比叡山延暦寺に参詣することは、貴族だけでなく、一般庶民にだって普通に許される娯楽だったのである。現在だってパワースポット巡りと称して寺院や神社に足を運ぶ者が多いが、行動の内容としては、平安時代の比叡山参詣と、平成時代のパワースポット巡りと、やっていることは全く一緒である。オカルティックな建物を建てたといっても、現代の感覚で行けば、多くの京都市民が慣れ親しんでいるレジャースポットに新たなアトラクションを追加したという程度に近いだろう。
もっとも、真剣さという点では違いがあった。何しろ、侵略されるかもしれない危機を多くの人が感じているのである。そして、侵略されないよう祈ることの切実さは、この時代の人でないと実感できない。
この時代の人たちの願いが通じたのか、永観元(九八三)年一二月二一日、奝然が宋皇帝太宗に面会できた。
右大臣藤原兼家の祈りは、宋との折衝という意味では御利益があったのだろう。しかし、藤原兼家個人となると、御利益など無かったとするしかない。
永観二(九八四)年三月一五日、右大臣藤原兼家の邸宅である東三条第が焼亡したのである。
藤原摂関政治の始祖と考えられ、この時代も、また、後世においても、藤原氏の理想とされた藤原良房について、遺跡と呼べるものは何一つない。墓もなければ、現代に伝わる建造物もない。肖像画もなく、死因を記した記録もない。ゆえに、現代人が藤原良房を知るには、同時代の記録を追いかけるしかない。
だが、この時代の人は違った。藤原良房の残した唯一といっても良い建造物が残っていたからである。そして、その建造物を目にすることで、藤原良房の、あるいは藤原氏全体の権勢を推し量ることができたのである。
その建造物こそ東三条第であった。
良房が建造し、藤原良房、基経、時平、忠平と歴代の藤氏長者が居城とした邸宅。内裏焼亡に際しては臨時内裏となるほどの巨大な邸宅。藤原忠平亡き後は朝廷に接収され醍醐天皇の皇子である重明親王の邸宅となって藤原氏の住まいではなくなったが、重明親王が無くなると同時に藤原兼家が資産のほとんどをはたいて手にし、藤原氏の当主の座は自分であることを暗に示していた邸宅。天延四(九七六)年には藤原兼家の娘で冷泉天皇女御の藤原超子が居貞親王(後の三条天皇)を生んだ邸宅。天元三(九八〇)年には同じく藤原兼家の娘で円融天皇女御の藤原詮子が懐仁親王(後の一条天皇)を生んだ邸宅。亡き源高明の娘である源明子を末っ子の藤原道長の后とすべく迎え入れた邸宅。右大臣藤原兼家が自らの権勢を注いだ邸宅。それが東三条第であった。
その東三条第が燃えて無くなった。
藤原道長の日記には、一五歳のときに経験した実家の火災についての記録などない。また、火災の原因についての記録もない。だが、心血を注いだ邸宅が灰になるのを黙って見ていなければならなかった苦悩は容易に推測できる。
永観二(九八四)年という年は、雨の少ない年であった。
各地から降水量が少ないという連絡が届いており、円融天皇もその対策に頭を悩ませていた。今と違ってダムなどないこの時代、降った雨が川に流れ込んだのを田に引き入れるしか方法がない。
もっとも、平安時代にダムなどないが、ダムの代わりを果たす存在ならばあった。それは何かと言うと、山林。山道や森の中を歩くと、地面がぬれていることが多いのに気づかれるであろう。川の上流にある自然からしみ出た水分が川に流れていき、少ないながらも下流へ水を届け、田畑に届けることは珍しくない。古くからの農村には「日照りに不作なし」という言い伝えがあるところもあるが、これも古くからの経験に基づくものである。このときの連絡も水不足を伝えるものではあったが、不作の予想を伝えるものではない。
しかし、都市住民はそうはいかない。農地から離れた場所に住む人間にとって、各地から届く水不足とは今年の収穫の少なさを予期させるものであった。つまり、市場に流れる穀物の絶対量が減ることを予想させるものであった。
こうなると行動パターンは決まっている。
穀物の買い占めである。値上がりする前にコメをはじめとする穀物を買いまくり、自宅に保管しようというのである。
買い占めパニックは、実際の不足が始まる前、不足に対する恐怖を感じたときから始まる。これは東日本大震災の後のパニックを思い出していただければおわかりいただけるであろう。
しかも、パニックはさらなるパニックを巻き起こす。平安京全体がコメ不足となり、飢饉の恐れさえ現実視されるようになった。物流も情報も発達した現在でさえ、あれだけの混乱を招いたのだ。物流も情報も乏しい平安時代はなおさらである。
コメ不足はただ単に食糧事情が悪くなることだけを意味するものではない。現時点でコメを持っている者はコメさえあれば何でも買えるようになった。貴族しか買えないような服や日用品も、貴族しか雇えないような者も、さらには貴族の地位さえも買えるようになった。
一方で、コメをはじめとする穀物を買えない者は、生きていくために何でも売るようになった。持ち物も、着る物も、家族や自分自身ですら売る対象になった。そうしないと平安京では生きていけないのだ。
これは異常事態である。しかも急激に発生した異常事態である。
一言で表すと、経済恐慌。
人類はその歴史上何度も経済恐慌を体験したが、このときもまさに人類史上よく見られる経済恐慌であった。それまで何ともないと誰もが思っていた、そして、多くの人が緩やかな繁栄の積み重なりでそれまでにない良い暮らしをできていると感じていたそのタイミングで、いきなり経済情勢が悪化し、失業者が増え、食べるのに困る人が増えていく。
これは円融天皇にとって初の大ピンチとしてもいい。
コメ不足が平安京の経済を悪化させ、治安を急速に悪化させることとなった。
法で禁止されているはずの人身売買すら見られるようになった。
円融天皇も、議政官も、この経済恐慌に何とかしようとしたのである。だが、全て無理であった。コメが少ないという訴えに対し、国の持つコメを安く売ることもしたが、国の放出したコメは瞬く間に消えてしまった。それも、現時点でコメを多く持つ者により多く流れていった。
人身売買を取り締まり、買おうとした者を見せしめのために人前で鞭打ちの刑に処すこともした。しかし、それは焼け石に水であった。人身売買が地下犯罪化しただけでなく、誘拐も日常の光景へと変貌してしまった。道を歩いている者だけでなく、自宅で寝ていた者でさえ、誘拐犯にとっての商品になってしまった。いきなり強盗に襲われ、身ぐるみはがされ、着ていた服は売られ、自分自身も奴隷商人に売られる。売られた先で待っているのは強制労働。
この情勢悪化に対処しようと画策するもこのときの議政官は無力であった。
そして、この恐慌に対して何もできずにいる朝廷への不満が、その中でも特に円融天皇への不満が平安京に渦巻くようになった。
イメージが沸かなければ、バブル崩壊やリーマンショックを思い浮かべていただきたい。いずれも突発的な経済恐慌で急速に景気が悪くなり、時の政府への不満があふれかえるようになり、その後の衆院選で政権交代を招いた。政府を変えればこの経済恐慌から脱却でき、政権交代によって元の良い暮らしに戻れるとそのときの人たちは考えたのだ。
平安時代の人々も政権交代を求めるようになった。恐慌が円融天皇の責任ではないという理屈はわかる。しかし、執政者に責任をとってもらいたいのである。責任をとってもらうことで経済恐慌から脱したい。それは深刻なまでの願いだったのだ。政権交代で恐慌から脱却できるわけではないことは今の日本人ならわかる。だが、それは体験したからわかる話であって、体験していない者にとっては、政権交代こそが唯一の希望なのだ。
永観二(九八四)年八月二七日、円融天皇が退位することを宣言した。一六年に渡る長期の治世の終了にしてはあまりにもあっけなく、そして、未だ三〇歳という若さを考えてもあまりにも突然すぎる退位に動揺が走ったが、平安京に渦巻く政権交替を求める声に応えるには、円融天皇が退位することで顔を変える必要があった。
当然ながら、円融天皇が退位しようと、太政大臣藤原頼忠も、左大臣源雅信も、右大臣藤原兼家もそのままの地位にあり続ける。つまり政策の継承は守る。それに、円融天皇が円融上皇となることで、帝位にあった頃と変わらぬ権威と権力を振るえる。変わるのは天皇と、藤原頼忠の兼任している関白の地位だけであり、政策は変わらない。後世、院政と称される政治体制の原型が円融天皇の脳内にあったのである。そして、この院政の原型こそが円融天皇の目算であった。
次の帝位は事前の想定通り、冷泉上皇の皇子で亡き藤原伊尹の娘である藤原懐子を母とする師貞親王こと花山天皇が就く。この日、花山天皇の治世が始まった。
そして、予定では円融上皇の院政の開始となるはずであった。
だが、花山天皇は円融天皇の目算を裏切るのである。いや、この場合は円融天皇の目算の中に花山天皇が明確な政治的意志を持った執政者であることの意識が抜けていたとするべきか。
新天皇となった花山天皇はただちに新造内裏に入った。この時点ではまだ正式に即位したわけではないが、既に天皇としての職務を開始している。しかも、円融上皇のことを全く考慮していない。円融天皇の目算では上皇となった後も帝位にあった頃と変わらぬ権力を行使できるはずであったのだが、その予定は早々に瓦解したのである。
花山天皇の最初の命令、これはおそらく円融天皇が退位時に示した条件であろうが、その命令は、円融天皇の皇子で、右大臣藤原兼家の孫である懐仁親王を皇太子とするというものであった。これは円融天皇の目算の通りである。
また、上流貴族の人事については大部分を凍結している。これもまた円融天皇の目算通りである。強いて挙げれば、それまで皇太子師貞親王の教育係である東宮傅の職を兼任していた左大臣源雅信が、花山天皇の即位により兼任を解かれたぐらいなものであるが、これは皇太子でなくなったのだから当然とすべきであろう。
なお、関白太政大臣藤原頼忠をはじめ、右大臣藤原兼家、大納言藤原為光、権大納言藤原朝光が円融天皇の退位と同時にそれぞれの職をいったん辞任し、そのあとで改めて花山天皇から従来の職に任命されているが、これは儀礼的なもので特に意味はない。もっとも、関白は天皇交代と連動する義務があるので、このときは、円融天皇の関白から花山天皇の関白に変わったという点では意味があるが。
ここまでは円融天皇の目算があっていたのだ。
だが、議政官より下で円融天皇の目算が狂い、円融上皇の手から権力がこぼれ落ちることとなったのだ。
まず、藤原伊尹の子で花山天皇にとっては叔父にあたる藤原義懐が二八歳の若さで蔵人頭に就任。さらに、花山天皇の側近中の側近であった藤原惟成が三一歳で左少弁に昇進し、五位蔵人と検非違使佐を兼任して「三事兼帯(さんじけんたい:五位蔵人・弁官・検非違使佐を兼職すること。極めて優れた官僚でなければ兼職できないとされており、この地位を得ることは将来の出世が約束されることであった)」となった。
蔵人頭の一新と三事兼帯の誕生で、当時の人は政権交代が実現したと感じ、円融上皇は自らの目算が外れ、院政の構想が崩れたことを確信した。
それは混迷の二年間の始まりであった。
藤原義懐にとっても、藤原惟成にとっても、このタイミングでの抜擢は、それまで充足できなかった思いを満足させてくれるものと感じた。二人ともこのままの生涯を続けたところで大臣になどなれるとは思えなかった。せいぜい、かなりの高齢を迎えてやっと議政官の一員に加われるかどうかというのがこの時点での彼らの状況であったのである。ところが、この瞬間からは花山天皇の直下での勤務である。一見すると、関白太政大臣も、左大臣も、右大臣も円融天皇の頃から変わっていないのだから、政権交代と呼ぶに値しないと言えよう。しかし、彼らはそう考えなかった。何しろ圧倒的権力者である花山天皇の直下での勤務なのである。議政官が何を言おうと、太政大臣が何を言おうと、関白が何を言おうと、花山天皇の命令が最終決定であり絶対なのである。大臣の権威を全否定し、自らの思い描く政治ができると考えるようになったのだ。
しかも、花山天皇自身がこれまでの政治からの脱却を強く求める天皇であった。
このときの花山天皇は一六歳。自分の政治的見解を持つのに充分な年齢であるだけでなく、これまで皇太子であったとは言え冷遇されており、懐仁親王が成人するまでの中継ぎの皇太子だと明言されていた。叔父の円融天皇が自分の上に立ち、大臣たちが自分の上に立ち、自分はただ利用されるだけ利用されて、従弟が成長したら使い捨てられる未来が待っていた。この複雑な思いを抱いたまま一六歳までの人生を歩んでいる最中に、何ら予期せぬタイミングで花山天皇は帝位に就いたのである。自分たちの上に立っていた人間を一瞬にして飛び越え、これまで自分を大事にしてこなかった人たちが一瞬にして自分にひれ伏すように変貌したのであった。
花山天皇の主眼は、これまでの否定にあった。これまでの政治、これまでの経済、これまでの法を否定し、新たな社会を創り出すことを求めるようになったのである。
花山天皇は律令派ではない。だが、現実を見ずに理想論で突き進むという点では律令派と同じである。
永観二(九八四)年一〇月一〇日、花山天皇正式に即位。もっともこれは多分に儀礼的なものであり、花山天皇の治世は円融天皇の退位と同タイミングで始まっているとすべきである。
花山天皇がこれまでの否定をする天皇であると多くの人が実感したのは、治世開始から三ヶ月、正式な即位から一ヶ月半を経た永観二(九八四)年一一月二八日のことであった。
この日、花山天皇は、議政官にも、関白太政大臣藤原頼忠にも何ら問い合わせることなく二つの法律を発表した。
一つは、延喜二(九〇二)年に醍醐天皇によって出された荘園整理令以後に造成された荘園を全て国有地として没収するとの法であり、二つ目は貨幣流通を定め物価を統制する法である。
この二つの法とも、現在進行形で展開中の経済恐慌対策である。
間違いなく花山天皇自身は、そして、花山天皇の側近である藤原義懐と藤原惟成の二人は、善意に基づいてこれらの法を発令したはずである。そして、無能であった前政権と違い、若く有能な新政権の繰り出す斬新で画期的な政策がこの経済恐慌を脱し、日本国に繁栄を取り戻すと確信したはずである。
だが、農地の国有化と物価統制は、様々な時代で様々な統治者が善意のもとに始め、そして、常に失敗してきた政策であり、斬新でもなければ画期的でもない。存在しないのは誰も考えたことのない政策だからではなく、失敗したから捨てられ見向きもされなくなった政策だからである。
自らを革新的と考える人間によく見られる自惚れを伴った善意による悲劇は、花山天皇の政策もまた例外とはしなかった。
産業の国有化は有史以来数多くの執政者が試み、そして全て失敗してきた政策である。日本の歴史を振り返っても班田収受という失敗があるし、国境の外を見ても社会主義という失敗がある。この失敗は失敗例を学ぶ以外に何の役にも立たないし、人類の歴史に対する貢献は無である。
動機は理解できる。ごく限られた一部の者が大企業や大農園を所有し、それ以外の多くの者がその企業や農園で雇われ過酷な暮らしをし、さらにその下に企業や農園の仲間になることができずに極貧生活にあえぐ人たちがいる。この仕組みをどうにかするには、産業を国有化し、誰もが企業や農園の従業員となり、国が勤労を監視することで過酷な労働条件を見直し、苦しい者や貧しい者を救おうとしなければならない。そういう動機が存在する。
しかし、この動機の通りの結果を生むことは無い。人類史上何度も挑戦しながら、その全てで失敗している。
産業の国有化の後で待っているのは、ただの一つの例外もなく生産の劣化だけ。そこには何のメリットもない。
国有化されると、懸命に働いたことの結果が皆無になるのだ。努力したところで見返りはなく、懸命に働いて収穫量を増やそうと、生産量を増やそうと、質を上げようと、待遇は何ら変わらないのである。一方、適当に働けば、つまりノルマさえ果たせれば、収穫量が乏しかろうと、生産量が乏しかろうと、質が劣っていようと、待遇が悪くなることはない。何しろ判断基準はノルマを果たしたか否かであって、本人の努力は全く関係ないのだから。
これではだめだと考え、質や量の向上を求めたとき、その結果として待ち構えているのはノルマの増大。現在ブラック企業と批判される職場と変わらぬ勤務形態が日常のものと化してしまうのだ。しかも、現在のブラック企業であればまだ退職という方法を選べるが、ノルマの設定が国の命令となると国外亡命以外にブラックな職場から逃れることはできなくなる。一生懸命に働いたところで何も得られないのに誰が懸命に働くか。高いノルマを設定したときに待っているのはノルマをこなしたという数字の改竄だけ。質の向上も量の増大も呼び寄せない。
工場は生産量を減らし、農地は収穫量を減らし、そしてともに品質を下げる。市場に流れるのは以前より劣った製品で、かつ、その絶対数も少ない。そうなると待っているのはインフレだ。それも極悪なタイプのインフレ、すなわち、低品質なのに物価が上がるというインフレが待っている。
質が悪かろうとそれしかないのだからそれを買うしかないのだが、絶対数も少ないからそもそも買うのに困難を極める。つまり、物価が見る見るうちに上昇する。通常、品不足というのは需要過多なわけだから供給すれば供給するほど利益を得られるタイミングなのだが、国有化された産業は利益を求めようとすることは少なく、甚だしい場合は利益という概念の否定すらするのだから、供給量の増大など望むこともできない。
しかも、産業の国有化を目指す者は、同タイミングで物価の統制まで始めようとする。そうなると価格上昇が強引に抑えつけられ、秩序があれば行列、秩序が失われたら混乱を呼び起こす。要は治安の悪化だ。商店に押し掛けて略奪を働き、倉にため込む食料があると見るや倉に襲いかかり、何も襲うものがなくなったら人をさらって奴隷商人に売る。あとは証拠隠滅のために火をつければ終了だ。
律令制で定められた公地公民制を有名無実化し、荘園制へと発展させた理由はただ一つしかない。今よりいい暮らしをすることである。それは荘園領主だけでなく、荘園で働く者もまた同じ理由だった。班田収受では努力に対する結果がついてこないが、荘園ならば努力に対する結果がついてくる。
中には現在のブラック企業にも似た荘園もあった。実際、荘園領主からの締め付けが厳しくて脱走した農民の記録が数多く存在する。だが、逃げ出した記録があるということは逃げ出せた記録があるということでもあるのだ。これは現在でいうブラック企業からの退職と同じである。
ブラック企業対策は無いのか?
ある。
しかも、日本はそれに成功した歴史を持っている。
それは、土地の没収と再分配。豊臣秀吉が行ない、戦後の農地改革でも行なった、耕作者が土地所有者であるとする制度、すなわち、徹底した民営化である。耕作者に責任が課されるが、同時に権限と自由が与えられる。努力すれば努力しただけ結果になり、努力しなかった者はそれなりの結果しか残せない。これを新自由主義と批判する者もいるが、結果を出したという歴史的事実を否定することはできない。
花山天皇自身は、経済恐慌に伴った対策を打ち出し、同時にブラック企業対策を打ち出したと考えたのである。しかし、これがどのような結果を生むかは、関白太政大臣藤原頼忠も、左大臣源雅信も、右大臣藤原兼家も、常識として理解していた。経済恐慌は悪化し、職場のブラック化がさらに悪化するのだ。だから当然ながらするつもりもなかったし、考えたこともなかった。
その考えたこともなかった政策を、花山天皇は打ち出してしまったのである。社会主義者が政権を取ったときに見られる悲劇がはじまった。
議政官そのものが有名無実化した。関白は名ばかりの存在になり、太政大臣はただの飾りになった。貴族たちが政策について討論することも、その結果を上奏することもなくなった。全ては花山天皇の命令直下になったのである。
花山天皇に助言できるのは、蔵人頭の藤原義懐と、左少弁の藤原惟成だけである。特に、左少弁の藤原惟成の権威は一瞬にして上昇し、当時の人は藤原惟成のことを世上五位摂政とまで称するようになった。現在の感覚で言うと、政党の重要人物になったばかりの者が、国会議員ですらないにも関わらずまるで総理大臣であるかのように権力を握るようになったのである。
しかも、その権力には何らチェック機能が働かない。少なくとも大臣であればチェック機能を働かせることが可能である。最終手段であるとは言え、追放刑に処された例だってある。ところが、大臣でもないとなるとどうにもならない。チェック機能が働かないだけでなく、チェックを働かせる側である事務方としての権力も握っている。そして、花山天皇の側近としていつでも政策を駆使できる地位にある。これでは誰も何もできなくなる。
そんな中、一冊の本が上梓される。この時代の医師のトップに君臨している丹波康頼が、永観二(九八四)年一一月二八日に「医心房」を発表したのである。
この図書は純粋に医学だけの本であった。人類の身体の構造と、病気やケガの治療法について書いているだけであり、そこには何ら政治的な発言はない。現在に持ってきたとしても、医学的知識の正確性はともかく、医学書として活用できる図書である。
だが、これだけなのだ。
藤原氏はこれまで、自派で議政官の過半数を占め、大臣を事実上の世襲とすることに成功してきた。ただし、そのことに対する批判については何の反応も示していない。批判する者は批判を好きなだけさせていたし、批判したところで何ら処罰は下っていない。この意味で、藤原北家独裁は現在の自民党政権と同じである。現在の日本人が自民党を批判しようと何ら処罰されることはない。自民党を批判する本を書こうと、自民党を批判する番組を放送しようと、自民党を批判する新聞記事を書こうと、それで処罰されることはない。それどころか、自民党を批判する国会議員が普通に存在している。
しかし、花山天皇の治世が始まってから批判がピタリと止むのである。批判する材料が無くなったのではない。批判を許す空気が無くなったのである。
思い浮かべていただきたい。自民党を批判する本を書いた者が、番組を放送した者が、新聞記事を書いた者が、そして、批判する国会議員が、自分に対する批判を受け入れるだろうか。
残念ながら、自らを『革新的』と自惚れて現状を熱心に批判する者であればあるほど、自分に対する批判を絶対に許さない。それが人類というものの本質である。
花山天皇の『革新的な』政策はなおも立て続けに実行された。
永観二(九八四)年一二月五日、それまで免税であった荘園に対しての課税が決まったのである。既に醍醐天皇以後の荘園は全て没収と決まっているが、それ以前からの荘園も免税の対象外とならなくなったのである。
法に従えば花山天皇の政策に誤りはない。だが、これを現在の感覚で捉えると法人税の大増税である。今まで納めてこなかった税を納めるのと、今まで真面目に税を納めてきた者に増税するのとは違うと感じるかもしれないが、法人税の増税という視点で捉えるとこれは同じなのだ。
荘園というのは今の感覚でいくと大企業である。そして、荘園の農民は大企業の正社員である。その大企業が儲かっているからと増税を課されたらどうなるか。現在で言うと大企業の正社員、当時で言うと荘園の農民の負担となる。荘園領主、今でいう大企業の経営層がいっさいの負担を引き受けないわけではない。実際、現在の大企業の経営層だって応分の負担はしているのである。
ここに負担を加えたとき、待っているのは、被雇用者の負担である。給与が減り、新たに採用される人が減り、現在勤めている人が解雇される。そうしないと税を払えないのだ。現在でも、内部留保として溜め込んだ資産を納めればいいじゃないかという人がいるが、その人は会計以前に算数ができない人である。そもそも内部留保などというものは帳簿にしか存在しない数字であり、現金で存在しているわけではない。会社の運転資金であり、動産や不動産の減価償却までの期間存在する会計上の数字であり、従業員の給与の源泉である。これを削ったら企業は倒産する。
平安時代に内部留保に該当する資産があるのかと問う人もいるだろうが、内部留保に該当する資産はある。種籾だ。
種籾自体は現在も存在するが、当時は種籾が現在以上の資産価値を持っていた。種籾の量が多ければ多いほど、次年度の収穫が増えるという意味で資産価値を有しているのである。そして、次年度の栽培用の種籾も穀物であることに変わりはない。その穀物を税として召し上げたとき、農地はどうやって収穫をあげるのか。
税が課されない前提で用意していた種籾の状態であれば、現在荘園にいる人全員分の次年度の収穫を期待できる。しかし、この種籾が取り上げられてしまったら、荘園にいる人に種籾を渡せない。田畑は維持できなくなり、収穫は当然期待できず、荘園は崩壊してしまうのだ。
不況時に増税するのは政策として正解である。不況というのは市場に流れる資産の絶対量が減ることで起こる現象なのだから、市場に流れない資産に課税することで強引に市場に流れる資産量を増やすのは政策として正しい。だが、そこで増税すべきは大企業ではなく個人なのだ。現在で言うと、法人税ではなく消費税なのだ。不況の元凶である資産を溜め込んでいる個人に対して、市場に資産を流通させるよう課税すべきであり、資産を使い、現時点で市場の資産を流して経営をしている大企業に増税するのは何のメリットもない愚行である。
このときの花山天皇は、律令に従えば間違った宣言をしたわけではないのである。だが、荘園への課税はあまりにも現実離れした無茶な命令であった。そして、このときの命令に対し、大臣たち、そして議政官を構成する貴族たちが一斉に抗議の声を挙げたのである。
このままでは多くの人が失業する。
このままでは次年度に餓死者が現れる。
このままでは経済が崩壊する。
上位貴族たちからの猛抗議に対して、初めのうちは藤原義懐も藤原惟成も何ら反応を示さなかったようである。だが、花山天皇は驚きを見せた。自分のやってきたことは正しいと信じていたし、自分の政策によって国民生活も著しく向上し、経済恐慌から脱却できたと考えていたのである。しかし、抗議の声を挙げる貴族たちから聞かれる声は全く違う。自分の信じていたこととまるっきり逆のことしか聞こえてこないのだ。
花山天皇は藤原義懐と藤原惟成に実状を問い合わせようとした。しかし、帰ってくる言葉は不明瞭なものばかり。肯定でもなければ否定でもなく、ただただはぐらかされるだけである。
永観二(九八四)年一二月二八日、花山天皇は一つの命令を出した。日本全国の全ての貴族に対し、意見封事を上奏するよう命じたのである。意見封事は誰のチェックも受けることなく花山天皇のもとに届く上奏文である。誰が書いたのかは判明するから下手なことは書けないが、それでも、何ら検閲を受けることなく天皇のもとに書状を出せることの意味は大きい。そして、意見封事については藤原義懐も藤原惟成も何ら文句を言えない。なぜなら、前例も、律令の規定もある国家行事だからである。しかも、いかに二人が花山天皇の側近であろうと、意見封事となると二人とも数多くの貴族のうちの一人に過ぎなくなる。
意見封事の上奏の結果は花山天皇を愕然とさせるものであった。
経済恐慌を脱するべく展開した政策が、経済恐慌をさらに悪化させていたのだ。
失業者が増えた。
荘園を離れ平安京に流れ出る者が続出した。
平安京にたどり着いても職もなく、餓死するのを待つだけの者が数多く現れた。
そして、平安京の道路という道路には餓死者の遺体が散乱し、遺体が野良犬の食料となっている。
これが花山天皇の矢継ぎ早の政策の結果だった。
あまりの惨状に花山天皇はショックを受け、それまで経済政策が良好であるとしか報告してこなかった藤原義懐と藤原惟成の二人から距離を置くようになった。特に、藤原義懐に対する花山天皇の怒りは激しく、年が明けた永観三(九八五)年一月二三日、藤原義懐を蔵人頭の職から解き、丹波国司に任命したほどであった。これは国司就任が主目的ではない。いかに平安京に近い国であるといっても丹波国は五畿ではない。そして、赴任するように命じられている。しかも蔵人頭ではなくなっている以上、花山天皇のそばに侍ることも許されなくなっている。名目上は蔵人頭から丹波国司への出世であるが、これは事実上の首都追放であった。なお、後任の蔵人頭には右大臣藤原兼家の子である藤原道兼が就任したが、これは後に大きな意味を持つこととなる。
藤原惟成も距離を置かれたことに違いはなかった。ただ、もとからこの人は左少弁だけでなく、蔵人と検非違使佐を兼任している。ゆえに「三事兼帯」と呼ばれているのだが、その三つの職務全てが平安京にいることを前提とした職務である以上、藤原義懐のように体裁を整えた上での平安京からの追放などできない。
意見封事で現状を目の当たりにした花山天皇は、一七歳にして未来への絶望を感じ取ってしまったかのようであった。無気力になり、それまで積極的であった政務にも消極的になり、ただただ儀礼的な職務を過ごす日常へとなってしまったのである。
矢継ぎ早に提示した法についても、実施がいつの間にかうやむやになった。これは、法の掲げる理想ではなく、現実に基づく政務が行なわれることを意味した。それでも、一度壊れた社会の建て直しは簡単ではない。無気力になった花山天皇に代わり、これまで通り関白太政大臣藤原頼忠がトップに君臨した上で、左大臣源雅信と右大臣藤原兼家を首班とする議政官の合議による政務が復活したが、復活後の日常は花山天皇の暴走の後始末の日々であった。
院政の目算が崩れた円融上皇は、文化の世界に身を寄せるようになった。永観三(九八五)年二月一三日、円融上皇、紫野で子(ね)の日の遊びを開催したのである。このイベント自体は平凡なものである。平兼盛、大中臣能宣、清原元輔、源重之、紀時文といったこの時代の著名歌人に和歌を奉らせるものであるから、歴史上何度も存在してきた普通の和歌のイベントとするしかない。
しかし、この場には右大臣藤原兼家も、権大納言藤原朝光もいたのである。これではごく普通の文化イベントであるとは思えない。しかも、わざわざ平安京の敷地外である紫野で開催している。紫野自体は皇室の狩猟地としても有名であったから円融上皇が足を運ぶのはおかしなことではないのだが、集まったメンバー、集まった場所、これらを普通に考えると、このイベントはまさに、円融上皇が花山天皇に対して仕向けた花山天皇の政権に対する造反表明であるとするしかない。
歴史上、上皇に対する処罰の例が一例としてないわけではない。この時代から見て最も新しい例となると、二一世紀の現在は薬子の乱とも平城太政天皇の乱とも称される奈良の反乱の例がある。しかし、それは武力に訴え出たから鎮圧された例であり、政権をいくら批判しようと、上皇であれば反乱に訴え出ない限り処罰されることはないのは通例。
しかも、表だった政権批判ではなく、文化を前面に掲げての政権批判である。こうなると二重に処罰されにくくなる。政権批判の詩を作って左大臣藤原緒嗣を激怒させ隠岐に流罪になった小野篁という例があるが、小野篁の場合は最初から批判を前提とし、追放を覚悟した上での詩の作成と公表であったのに対し、円融上皇の場合は純然たる和歌の世界である。和歌の世界の前に上下関係はなく、和歌であれば誰がどのような発言をしようと罪に問われることはない。もっとも、あからさまな批判だけの和歌は下品とされ軽蔑を受けるから和歌の質は問われることとなる。
花山天皇もそれを理解していないわけではない。純然たる文化イベントであるかどうか、それも、和歌という身分の差を問わないイベントであるかどうかを確かめるために、一人の者を派遣した。その者の名は曽禰好忠(そねのよしただ)。
曽禰好忠は歌人として一流であることは間違いなかった。しかし、円融上皇に呼ばれなかった。
曽禰好忠という人はプライドが極めて高い。しかも、和歌に対するプライドがかなり高い。即興で和歌を詠むのも、大量の和歌を詠むのも得意である。しかも、和歌の質が高い。その曽禰好忠が和歌のイベントに呼ばれないのは、この時代の人にとっては異常事態である。
しかし、反花山天皇のイベントとなるとおかしな話ではなくなるのである。曽禰好忠は元からして人付き合いが苦手で、今で言う空気の読めない性格であった。心を開く者も少なく、社交界においても扱いづらい人物とされていたのである。その曽禰好忠が心を開いていた数少ない人物が花山天皇であり、藤原義懐であり、藤原惟成であったのである。
曽禰好忠を紫野に派遣し、受け入れられたらそれはただの和歌のイベント、受け入れられなければ反花山天皇のイベントである。
結果は後者であった。呼んでいないのに勝手にやってきた、しかも、他の貴族たちが正装であったのに対し、曽禰好忠は狩衣袴という出で立ちだから、現在の感覚で行くと周囲が全員スーツ着用である会場にジャージ姿で現れたようなものである。
その普段着姿の曽禰好忠が何のためらいもなく歌人の席に座った瞬間、イベントは大騒ぎとなった。反花山天皇のイベントに花山天皇に近い者が紛れ込んでいる。しかも、無礼な格好で混ざっている。右大臣藤原兼家は激怒し強制排除を命令。藤原兼家の指令により曽禰好忠はイベント会場から追い出された。
曽禰好忠は自らの自尊心が傷つけられたことを激しく非難し、当時の平安京の人たちは礼儀をわきまえぬ曽禰好忠に対し嘲笑を浴びせたというが、実際のところは反花山天皇の動きが鮮明になったことを確認するという事件であった。
花山天皇は自分に反対する勢力が一つにまとまっていることを感じた。
永観三(九八五)年三月二七日、左大臣源雅信の邸宅である土御門殿で事件が起こった。この日に開催された大饗(おおあえ)で藤原斉明と保輔の兄弟が、大饗の出席者である大江匡衡と藤原季孝に襲いかかったのである、しかも、取り締まるべき追捕使が兄弟揃って取り逃がすという失態を演じてしまったのだ。
藤原斉明と藤原保輔の兄弟は、藤原氏ではあるが藤原南家の人間である。つまり、血筋だけで自動的に朝廷の重要官職に就くことのできる生まれではない。藤原南家の者の多くが勧学院ではなく大学を卒業していたのも、所詮は私塾に過ぎない勧学院に卒業後の保証はないが、大学であれば地位は低くとも役人として職を持てるからである。
しかし、大学を出て役人となり、貴族となるのは難しい。藤原南家はそれでも藤原独裁の一翼に加われるというメリットがあったが、それとて、本人がかなり優秀な場合に限られる。そうでなければ一貴族の子弟として公正な競争に臨まねばならないのだ。
そして、藤原斉明と藤原保輔の兄弟は、出来が悪かった。落ちこぼれであると同時に不良でもあったのだ。学者の多い藤原南家に出来の悪い者の居場所はない。その彼らがたどり着いたのが不良の世界であった。
暴れ回り、モノを盗み、恐喝し、暴行する。その集団の中に藤原斉明と藤原保輔の兄弟が溶け込んだだけでなく、不良集団のリーダー格になってしまったのだ。不出来な息子を持った藤原致忠(藤原元方の子)は従四位下の貴族であり、蔭位の制により、不出来ではあっても二人の息子を官界に引き入れることはできたが、それで不良集団から抜け出せるわけではない。弟の藤原保輔に至っては朝廷からの追討命令出ること一五回という異常な記録を出してしまったのである。
追討命令も出ない犯罪はさらに多く、現在で言うコンビニ強盗までやっている。この時代にコンビニなど無いし、一応は貴族である藤原保輔が店に顔を出すこともないのだが、その代わり、商人の方が荷物を持って貴族の邸宅に行くことは珍しくなかった。邸宅に出向いて品を並べ、気に入った品を買ってもらうという仕組みである。貴族である藤原保輔に招かれた商人が商品を持って邸宅にやってくることは貴族の邸宅であれば珍しくない話であるが、藤原保輔は商品を持った商人を落とし穴に落とし、持ってきた商品を全て自分のモノとしたのである。しかも、落とし穴に落ちた商人が見たのは最近行方不明になった商人仲間の遺体。そう、この落とし穴から抜け出すことが出来ず多くの商人が絶命したのである。
この日の土御門殿で大江匡衡と藤原季孝が襲われた理由は、言いがかりにも程がある内容であった。まず、大江匡衡は兄弟にとって大学時代の恩師である。普通ならば師弟関係となるのだが、大江匡衡は出来の悪い兄弟に対し、正しい評価を下してしまったのだ。つまり、落第。これを根に持って襲いかかったのだから逆恨みとするしかない。大江匡衡はこの事件で左手の指(どの指かは記録に残っていない)を失ってしまったのである。
もっと理不尽なのが藤原季孝。この人が襲われた理由は、藤原斉明をかつて捕まえたからというものである。犯罪者が犯罪によって逮捕され、貴族の特権でもって釈放されたあとで捕まえた者に襲いかかるというのだから理不尽極まりない。
極悪犯罪者集団のリーダー二人が逃亡したという知らせに平安京内は大パニックとなった。
永観三(九八五)年四月二二日、惟文王の手によって、近江国まで逃げていた兄の藤原斉明が射殺された。捕まりたくないと抵抗を見せたために弓のターゲットとなり命を落としたのである。
ちなみに、弟の藤原保輔が逮捕されるのはこれから三年後のこととなる。
治安の悪化や経済恐慌といった人災の連続のさなか、一人の僧侶が人々の支持を集めるようになっていた。
その僧侶の名は源信(げんしん)。かつて同じ「源信」という名の貴族が藤原良房の側近として左大臣職をつとめていたが、左大臣であった貴族の名は「みなもとのまこと」。漢字で書くと同じだが、読みも違うし、血縁関係もない、そもそも活躍した時代が違う、たまたま同じ名の無関係の人物である。
その僧侶の源信が説いたのが、死後の極楽浄土である。
この世で苦しい日々が続いても、亡くなったあとは心安らかな世界が待っていると説いたことは、この時代の人たちに救いをもたらした。しかも、源信は、出家して僧侶となった上で日々念仏を唱えるのではなく、民間人のままでも仏を敬い念仏を唱えることで死後の救いが待っていると説いたのである。
これはこの時代の人にとって新鮮な教えであった。何しろ、この時代の寺院は、荘園を持ち、武力を持つ集団として認識されていたのである。寺院の彼らが宗教関係者であることは知っていたが、その彼らと、今の自分たちの心の救いとの接点を見いだせなかったのだ。多くの寺院は高位の貴族や裕福な者のために祈ることはあっても一般庶民に対して祈りを捧げることはなかった。それをやった空也が絶大な支持を集めたのも、一般庶民から一線を画した上位身分としての僧侶ではなく、一般庶民に溶け込み、一般庶民の中で念仏を唱えた僧侶であるとしたからである。
源信は空也の教えをさらに進めたものであった。空也は一般庶民の中に溶け込んで念仏を唱えて心の救済をしたが、源信は本を記したのである。直接手をさしのべるのではなく、本を読める人、そして、その本の朗読を聞ける全ての人に手をさしのべたのである。
その本こそ「往生要集」である。この本が世に出たのは永観三(九八五)年四月。四月の何日かはわからないが、藤原斉明と藤原保輔の兄弟の起こした傷害事件で平安京全体が揺れているさなかに出たことは判明している。
ちなみに、この「往生要集」であるが、日本生まれの書物ではあるものの日本だけの書物ではない。中国にも輸出され、唐末の仏教弾圧(会昌の廃仏)を経て五代十国の混乱で存亡の危機に立たされた中国の仏教を復活させる書物となっている。
永観三(九八五)年四月二七日、寛和に改元すると発表された。
名目は花山天皇即位に伴う改元であるが、それにしては遅すぎる。何しろ即位から半年も経ているのだ。
しかも、この半年はただの半年ではない。花山天皇の『革新的な』政策が矢継ぎ早に発布され、ただちに混乱とさらなる貧困を招き、日本全国いたるところで猛烈な不満を巻き起こした半年である。
その上、前年一二月には絶大な権力を持った花山天皇の側近である藤原義懐と藤原惟成の二人が花山天皇から遠ざけられている。普通に考えれば、支持率が低く、現在の議会に相当する議政官も反花山天皇の勢力となっている。その上、蔵人頭藤原道兼以外に花山天皇の側近もいなくなった状態なのだから、これでは花山天皇は孤立無援になるはずである。
ところが花山天皇はまだ持ちこたえるのである。
まずは藤原義懐の京都帰還である。既に藤原道兼が就任している蔵人頭を藤原義懐に戻すことはなかったが、このころには既に当たり前になっていた京都在住の国司となることが認められ、丹波国から京都に戻っていたのである。これで側近の一人が戻ってくることとなった。
続く藤原惟成についてであるが、この人を側近に戻すのはもっと簡単だった。何しろ元からして京都に留まり続けていたのである。有罪となって追放刑を受けたわけでもない以上、京都にいてもおかしくない。しかも、ついこの間藤原斉明と藤原保輔の兄弟が、大江匡衡と藤原季孝に襲いかかり逃亡したという事件が起きた。兄は逮捕劇の最中に亡くなったが、弟はまだ逃亡中である。これは首都京都の警察権力の弱体化を印象づけるのに充分な事件であった。
藤原惟成は検非違使佐でもあった。つまり、今の日本で言うと、首都東京を守る警視庁のナンバー2である警視副総監に相当する。その警視副総監に相当する検非違使佐の藤原惟成が今まで追放されていたため、京都の治安維持が出来なくなり、今回のような大問題を生んでいるのだという言い逃れが出来てしまうのだ。
そして、花山天皇はこのカードを利用できた。
寛和元(九八五)年五月二日、武徳殿の再建命令が出た。武徳殿とは内裏での武術鍛錬や馬術競技のための施設であると同時に、それらの訓練や競技を観覧する場でもあった。内裏に武徳殿を復活させる指令を出したということは、花山天皇がオフィシャルな武力を目指して動き始めたということでもある。何しろ武徳殿で自らの武力を天皇にアピールすることは武人にとって何よりの出世の機会なのだ。しかも、大学を出て役人として経験を積み上げなくても、あるいは高貴な家に生まれなくても、ただただ体力を天皇に自慢するだけで地位と役職が得られるのである。
ちなみに、現在でも「武徳殿」と名乗る施設が日本全国各地にあるが、こちらの武徳殿は平安時代のそんなドロドロとした裏事情とは何の関係もない、柔道や剣道や弓道といったスポーツのための施設である。
寛和元(九八五)年八月二九日、円融上皇出家。九月一九日、円融法皇、堀河院から円融院に遷御。円融天皇の名である「円融」は、このときに遷御した建物の名に由来する。
円融上皇がなぜ出家したのかについては諸説ある。
宗教に救いを求めるこの時代の社会情勢に乗ったという説もあれば、寺院勢力を利用する政治を試みたという説もある。
ただ、資料を読む限りそのどちらでもない。社会情勢に乗ったにしては現世に染まっているが、寺院勢力を利用できる政治を展開できるほどの権威を構築できてはいない。
おそらくであるが、円融上皇は心の救済と政治的権威の両方を求め、両方とも失敗したのであろう。もともと円融天皇は見通しの甘い人である。院政のアイデアを掲げて退位したはいいが、花山天皇のコントロールに失敗している。花山天皇のコントロールに失敗したと悟って紫野に反花山天皇の勢力を集めたはいいが、それで何かしたわけではない。
現状認識力はあるのだ。ただ、その時々の判断が適切なものではなく、結果としてどっちつかずになってしまうのである。
それでも、反花山天皇の中心人物として君臨することはできていた。急進的な花山天皇の諸々の政策に反発する人たちにとって、円融法皇は、そして、円融天皇の子である皇太子懐仁親王は、花山天皇の次の時代を考えたときの希望ともなっていたのである。
それが翌年のあの大きな動きにつながるのである。
一方の花山天皇は円融法皇の動きを知る由もない。
再び側近政治に舞い戻り、九月一四日に藤原義懐を参議に任命。さらに、一二月二七日には権中納言に昇格させた。二九歳という異例の若さの権中納言の誕生である。