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戦乱無き混迷 4.寛和の変と尾張国解文

2014.05.31 15:20

 花山天皇のような独善的な政治を行う人には一つの特徴が見られる。それは、側近を必要以上に重視し、能力以上に取り立ててしまうということ。

 敵と味方が歴然としていて敵と妥協する意志を見せない者が味方だけを頼りにするのは珍しい話でない。極論すれば現在の議会制民主主義だってこの原則なのである。内閣のどこを見ても与党ではない人間はおらず、政府を批判する野党は議会にいることならばできても内閣に関わることはできない。もっとも、敵と妥協しないというわけではなく、ときには敵である野党の意見を入れて政策を展開することもあるが。

 問題は花山天皇の味方になった人間である。その人たちの政治能力が高いならばいいが、能力もなく、花山天皇の政治賛成する気持ちもなく、ただ単に出世のためだけに花山天皇に近寄った者が数多く現れたのである。そして、花山天皇の味方を表明した者は、権中納言藤原義懐をはじめとして、京都や各地の地方官として権力を握るようになっていった。例外は蔵人頭藤原道兼ぐらいなものである。この人は花山天皇に取り入らなくても、そもそも右大臣の息子なのだからある程度までなら自動的に出世できる。

 もともと能力の低さゆえに出世できていなかった者たちである。それが出世して地位を掴んだらどうなるか。その答えが寛和二(九八六)年二月二六日に出ている。興福寺の僧侶らが、備前国司藤原理兼の備前国鹿田荘での乱行を訴えでたのである。

 奈良にある興福寺が備前国(現在の岡山県)での出来事を訴え出るというのもおかしなものであるが、これは興福寺の勢力が備前国の荘園に及ぶほどの巨大な存在になっていたということであり、この時代の人は特に何とも思わなかった。

 そして、国司の乱行を寺院が訴えたことは、当時の人たちに、「さすが興福寺は違う」と感心させることにつながった。寺院が荘園を持って私腹を肥やしているとは考えず、寺院は荘園を持つことで荘園にいる人たちを守っているのだと考えたのである。

 一方、おびただしい不満を目の当たりにして政策を一時弱めていた花山天皇であるが、寛和二(九八六)年三月二九日、ついに非常手段に訴え出た。沽価法の制定である。これは市場における公定価格及び物品の換算率を定めた法律で、これに基づく価格のことを沽価(こか)と呼ぶ。

 花山天皇は既に貨幣経済による物価の統制を二年前に明言し実行させていたが、沽価法はさらに物価統制を強めるものであった。何しろ、貨幣経済だけではなく物々交換の比率まで決めてしまったのである。特に、コメの交換比率を固定して市場の米価を強引に定めてしまったのだ。

 コメもまた市場流通品である以上、需要と供給のバランスに従って値段が決まる。その値段を、貨幣を仲立ちにして一律に決めてしまおうとしたのが二年前であるが、沽価法の場合は貨幣の仲立ちを必要とせず、コメ一升(当時の一升はおよそ五〇〇ミリリットル)と交換できる物品は何であるかを決めてしまったのだ。しかも、コメ一升と等価値の物品を持って行けば常にコメ一升と交換できるとしたのである。

 コメの値段の乱高下はコメそのものの量に由来する。豊作なら値段が下がるし、凶作なら値段が上がる。だが、花山天皇は豊作だろうと凶作だろうと関係なく、コメ一升の値段を決定し、強固に定めてしまったのだ。

 これは市場の原理をあまりにも無視している。ダロン・アセモグル、ジェイムズ・ロビンソンの両氏は、共著で上梓された「国家はなぜ衰亡するのか(原題 Why Nations Fail)」で豊かな国と貧しい国の存在する理由をその国の制度に求めているが、このときの花山天皇の政策はまさに、貧しい国の条件に完全に合致するものであった。市場原理を働かせずに強引に物価を決めてしまっては、産業のイノベーションを芽のうちに摘み取ってしまう。ソビエトやナチスのように強権を働かせれば一瞬だけ経済が良くなったように見せかけることができるが、その後で待っているのは貧困と停滞。しかも、このときの花山天皇は二年前に命令して失敗した政策を、理念そのものの失敗を認めて撤回するのではなく、理念の弱さと考えてさらに強固なものとするという最悪な選択をしている。これがどのような悲劇を招くかは文化大革命というあの失敗を思い出せばそれで充分である。

 何とかして花山天皇を退位させなければならない。

 それは、円融天皇の退陣を求める世論のときと違って静かなものであったが、より強い願いを伴うものであった。

 貴族も、一般の国民もわかっていたのだ。花山天皇の政策によって経済がガタガタになってきていることを。しかし、まだ若い花山天皇が老いを感じて退位するのを待つとなると、それはかなり先の話となる。

 普通の国であれば暗殺という強硬手段に訴え出るものであるが、この国の天皇暗殺は蘇我氏が行なった一例のみ。以後、二一世紀の現在に至るまで、将軍や首相の暗殺はあっても天皇の暗殺はない。天皇に手を出すというのは、何があろうと絶対に許されない行為なのである。

 ここで動きを見せたのが右大臣藤原兼家であった。


 既に何度か記しているが、藤原兼家には子供が複数人いる。後の摂政太政大臣藤原道長はその中の一人であり、道長の兄の藤原道兼は、花山天皇の即位時に蔵人兼左少弁に就任し、現在は蔵人頭という法制上における花山天皇の最大の側近になっている。このとき二五歳であるから、右大臣の息子の出世街道としてはごく普通とするしかない。ちなみに、藤原兼家の長男である藤原道隆は花山天皇即位時に右近衛中将、次男である藤原道綱は右近衛少将に就いているが、両名とも議政官に加わるほどの地位にまでは昇っていない。また、藤原道長はこのときまだ二二歳の若者であり、貴族の一員に名を連ねてはいたものの、これという地位に昇っているわけではない。

 花山天皇はこのとき一九歳。その側近である藤原義懐が現在三〇歳、藤原惟成が三三歳と、花山天皇の周囲には議政官と比べれば若い者が多い。そのため若さゆえに突っ走ってしまうところもあったとも言える。この集団の中に二五歳の蔵人頭藤原道兼がいたのである。もっとも、花山天皇の政策に対しては冷ややかであり、積極的な賛成をするわけでなく黙々と事務処理をこなすのみの日々。蔵人頭というのも藤原北家の本流の子弟であればごく普通の出世ルートと考えていたのか、花山天皇に対して特別扱いを要請してはいない。つまり、一財産築ける地方官の地位は求めていない。右大臣の息子である以上、わざわざ地方官を求める必要もないということで、蔵人頭より上の出世を求めないこの行動に違和感を訴える者はほとんどいなかった。

 それでも、藤原道兼の正体については誰も察知できなかった。

 花山天皇の側近の一人となり、ついには蔵人頭にまで上り詰めた右大臣の息子は、右大臣が直接送り込んだスパイだったのである。この状態で二年を経過させることに成功したのだ。

 大鏡によると、理由は花山天皇の女御の一人が妊娠中に亡くなったからだという。ただし、亡くなった事実はあるが、その記録は寛和元年七月一八日のこと、つまり、一年近く前のことであり本当かどうかはわからない。

 ただ、花山天皇が周囲から反発受けること間違いない計画を練っていたのは事実である。そして、その計画に絡んでいたのが蔵人頭の藤原道兼であった。

 その計画とは、出家。

 たしかに花山天皇は精神的に追いつめられていた。ストレスの多い現在も精神的に参ってしまっているサラリーマンを数多く見かけるが、このときの花山天皇も同じ症状であったのだろう。うつろな状態でいる花山天皇に対し、蔵人頭の藤原道兼は前年から出家をちらつかせていた。もっとも、会話の中に円融上皇の出家を混ぜたり、円融法皇の東大寺での受戒について話したりという程度であった。

 帝位にありながら出家した天皇など前例がない。強いて挙げるとすれば奈良時代の聖武天皇だが、聖武天皇の場合、出家と同時に退位している。上皇の出家は珍しくないが、現役の天皇の出家はあり得ない話なのである。

 とはいえ、出家した上皇が権力を持ち続けることはある。宇多法皇や円融法皇がその例である。天皇でなくなった身であってもその待遇は天皇と変わらないばかりか、天皇であるがゆえに課される日々の業務から解き放たれる。宇多法皇も、円融法皇も、新たに天皇に就いた者が元服を終えた親王であったために権力を存分にふるうことができなくなってしまっていたが、花山天皇から見たら甥にあたる皇太子懐仁親王はまだ六歳の幼児。この幼さでは天皇としての政務を執れるはずはなく、上皇や法皇は天皇の政務から解放された上で天皇の権利と権力を行使できる。その中でも、もっとも直近の上皇である花山天皇の権力は絶大なものとなるはずである。

 寛和二(九八六)年六月二三日の夜、蔵人頭藤原道兼の誘いに花山天皇が乗った。このときの情景は大鏡に残されている。無論、後世の伝説となっている箇所もあるので全てが真実であるわけではないことを先に記しておく。

 この日の夜は月明かりのまぶしい夜であった。このまぶしさがあっては作戦も失敗に終わるのではないかという思いを花山天皇は口にしたが、同行する蔵人頭藤原道兼の説得により作戦は継続された。

 藤原道兼の誘いに乗って内裏を抜け出した花山天皇は、山科にある元慶寺へと向かっていた。出家のためである。

 三種の神器はまだ清涼殿に残されていたが、花山天皇の出立を確認した右大臣藤原兼家の手によって皇太子の居所である凝華舎に移され、同時に内裏諸門も封鎖された。

 内裏の封鎖はいったい何事かと誰もが不審に思ったが、誰も何もわからずにいた。関白太政大臣藤原頼忠のもとには、右大臣藤原兼家から私的な緊急特使、それも、かなりの極秘事項にしなければならない情報を伝える特使として、藤原兼家の子である藤原道長がやってきた。貴族の末端に過ぎない藤原道長は本来ならば関白太政大臣と面会できる立場にないが、右大臣の派遣する特使であれば面会も許される。そして、この二二歳の若者の伝える情報は、内裏を封鎖しなければならない、それも封鎖理由を極秘事項にしなければならない緊急事態であることがすぐに理解できた。


 花山天皇が行方不明になったのである。そして、兄で蔵人頭でもある藤原道兼もほぼ同時に行方不明になったというのだ。

 これには関白太政大臣藤原頼忠も慌てた。

 ただちに天皇を捜索するよう命令を出そうとしたが、その指令は藤原道長の手によって止められた。父である右大臣藤原兼家によって源頼光に対して極秘の捜索指令が既に出されているというのである。これを聞いて藤原頼忠は出そうとした命令を撤回した。

 何しろ天皇の行方不明という史上例を見ない緊急事態である。ここで極秘にしなければどのような混乱が起こるかわからない。それに、当代最高の武人と称される源頼光に対して出動命令が出ているということは、これ以上の対策など執りようのないということである。最大の危機に対して最高の人材を送り込んでいるのだから、あとは天皇発見を待つしかないのだ。

 これが公式記録における藤原道長のデビューである。

 天皇行方不明は極秘事項とされたが、花山天皇の行方がわからなくなったことを感じ取った者が一人いた。史上もっとも有名な陰陽師である安倍晴明である。安倍晴明は花山天皇が退位して出家したと感じ取り、慌てて内裏に駆けつけてみたところ内裏が封鎖されていたのを確認して、これはただ事ではないと確信。しかし、中に入ることができず、そのまま夜明けを迎えてしまったという。もっとも、これは伝説の域を出ない。

 明け方になって蔵人頭藤原道兼とともに元慶寺にたどり着いた花山天皇はさっそく出家の準備を始めた。元慶寺には前もって花山天皇の出家希望の連絡が届いていたため出家の段取りはスムーズにいった。

 身分差のある者が同時に出家する場合、通常は身分の高い者が先に出家する。天皇というこの世で最高に身分の高い者の出家なのだから、当然ながら花山天皇が先に出家として剃髪する。

 花山天皇の剃髪が始まったのを見た藤原道兼は、父に黙って出家することを申し訳なく感じるとし、出家前に父に一言声をかけたいと花山天皇に申し出て、花山天皇もそれを了承。藤原道兼はただちに平安京へと戻っていった。

 我が子が戻ってきたのを確認した右大臣藤原兼家は、ここではじめて内裏の封鎖を解除。同時に、花山天皇の退位と出家、そして、自分の孫でもある皇太子懐仁親王の即位を宣言した。一条天皇の治世の開始である。このとき、一条天皇は右大臣藤原兼家の手で抱え上げられた状態であった。

 藤原義懐も、藤原惟成も、自分こそ花山天皇第一の側近と信じてきたのに、何の相談も無しに花山天皇が退位し出家したことに愕然とし、慌てて元慶寺に向かうと花山天皇は既に出家を済ませていた。

 戻ってくるはずだった蔵人頭藤原道兼は戻らず、代わりにやってきたのは藤原義懐と藤原惟成の二人。花山天皇は、いや、退位して出家したのだから花山法皇は、ここではじめて自分が騙されたと悟った。悟ったが、もう後の祭りであった。

 花山天皇の退位により、花山天皇の関白であった藤原頼忠は自動的に関白職から解任。新たに天皇となった一条天皇はまだ七歳と幼いことから、寛和二(九八六)年六月二四日に一条天皇の祖父でもある右大臣藤原兼家が摂政に就任。既に何度か述べているが、摂政は天皇の近親者が天皇の代理を務めるという職務であり、一条天皇にとっては祖父である藤原兼家以上に摂政の適任者はいない。

 元慶寺に向かった藤原義懐と藤原惟成は、ここで自分たちの命運が終わったことを悟り、花山法皇の後を追うように元慶寺で出家。この瞬間、二人とも貴族としての地位を喪失した。ちなみに、花山天皇の名は元慶寺の別名である花山寺に由来する。

 寛和二(九八六)年七月五日、一条天皇の母で摂政藤原兼家の娘である藤原詮子が皇太后に立てられ、七月九日、東三条殿から内裏へと住まいを移した。ここで名実ともに内裏における女性の頂点に立ったこととなる。

 後に「寛和の変」と呼ばれることとなる無血クーデターは成功した。


 摂政藤原兼家は右大臣である。天皇の代理であるが、人臣としての職位は上から三番目。太政大臣藤原頼忠、左大臣源雅信の二人が摂政藤原兼家の上に立っているのである。

 クーデターを成功させ、自身を摂政とさせることに成功した藤原兼家であるが、振り返るとパワーバランスが微妙であることに気づかされることとなった。花山天皇の押し進めた急進的な政策は白紙に戻すと決まったが、新たな政策を打ち立てることができなくなってしまったのである。

 議政官の決議に藤原兼家が加わることはできる。ところが、その決議に対して太政大臣藤原頼忠が拒否権を発動できるのだ。さらに、太政大臣藤原頼忠が認可した採決を、自身が議政官の一人でもある摂政藤原兼家が拒否できるのだ。実際に拒否権の発動を控えるにしても、これでは政務がスムーズに行かなくなるに決まっている。

 この状態のままではダメだというのは誰もが描いた共通認識であった。しかも、皇太后藤原詮子が内裏に入ったまさに同じ日である寛和二(九八六)年七月九日、太宰府から宋の商人鄭仁徳が来日したのである。なお、同船で宋から奝然が帰国している。宋から商人という形式での使者がやってきた以上、これ以上国内の混乱を示すと日本が戦乱に巻き込まれる可能性が出てくると誰もが考えるようになった。

 おまけに、花山天皇を出家させるという非常手段に訴えてのクーデターであったから、花山天皇の政策の支持者たち、特に、花山天皇によって抜擢されて官職を得た者たちにとっては、日本を侵略しようと試みる勢力であろうと、敵の敵は味方という論理が成り立ってしまう。つまり、宋が日本に侵略しようとするとき、日本国内に宋の軍勢の味方をする者が登場することとなる。

 何としても混乱を食い止めなければならないという点で意見の一致を見た議政官は二つの判断を下す。

 まず、寛和二(九八六)年七月一六日、冷泉上皇の子で花山法皇の弟である居貞(おきさだ)親王を皇太子とすると宣言。わずか一一歳でありながら元服させるという、それも、藤原氏の私邸に過ぎない東三条殿で元服させるという異常事態であったが、現在の危機の前に反対する者はいなかった。花山法皇の弟を皇太子にすることで花山天皇派として良い勢力を反乱分子にさせず朝廷に丸め込むことが可能となっただけでなく、皇統の存続も確保されたのである。この時点の居貞親王は一一歳。天皇より歳上の皇太子という史上初の異例な事態であったが、そのことを問題視する者はいなかった。

 次に、寛和二(九八六)年七月二〇日、摂政右大臣藤原兼家が右大臣職を辞し摂政職に専念すると表明。藤原良房が摂政に就任したときは摂政ではなく太政大臣として政務にあたり、摂政の権限を発動したのは応天門炎上事件ただ一度のみであったのに、今では、摂政に専念し、大臣職から離れることが見られるまでになったのだ。この結果、摂政藤原兼家は、太政大臣藤原頼忠、左大臣源雅信の上に立つ存在であると認識されるようになった。なお、後任の右大臣には大納言の藤原為光が昇格した。

 同日、藤原兼家の長男である藤原道隆が権大納言に昇格し、花山天皇を出家に促した藤原道兼が蔵人頭を辞して参議に就任した。


 前述の通り、寛和の変は一滴の血も流れないクーデターであった。

 しかし、花山天皇の退位と一条天皇の天皇就任までは一滴の血も流れないクーデターであったが、そこから先は血生臭いこととなっている。

 即位の儀を行うことでこれから一条天皇が正式な天皇となるという寛和二(九八六)年七月二二日の朝、まさにこれから一条天皇が座ることとなる玉座に血まみれの生首が投げ捨てられていたのである。犯人はおそらく、夜中のうちに誰かを殺し、その首を切り取り、玉座のある部屋に忍び込んで玉座に生首を投げ込んだのであろう。

 この時代の感覚では、血とは穢れであった。何しろ女性の生理や出産に伴う血すら穢れと考えられていたのだ。ましてや死体の血などこれ以上無い穢れである。この時代の常識では即位の儀式そのものをただちに中止しなければならないほどの大事件である。

 この首が誰の首なのかも、犯人が誰なのかも最後までわからなかったが、花山天皇派としてもよい誰かであることは明白であった。

 その花山天皇派としてよい誰かの思惑は失敗に終わった。藤原兼家は首を片付けさせ、何事も無かったかのように即位の儀を強行したのである。儀式の中止を忠言する者もいたが、藤原兼家はこの忠言を聞き入れなかった。言い伝えによればその忠言を聞かされている間ずっと寝たふりをし、生首を片付け、血を拭き取り、準備が整ったあたりで目を覚ますふりをして、自分が寝ている間に即位の儀式の準備が整ったことを確認、すなわち、生首のことなど知らなかったという扱いにして儀式を始めさせたとある。

 すべては混迷を見せないことを最優先としながら。

 なお、寛和二(九八六)年八月二五日に、一条天皇の実祖父であることを理由に、摂政藤原兼家が自分自身に対して、兄の藤原兼通が死の直前にならないと手に入れられなかった准三后の詔を発している。


 当面の混乱を抑えた状態で宋からの使者を迎えるつもりであった朝廷であったが、ここで想像できなかった事実を耳にすることとなった。

 宋から帰国し太宰府に滞在している僧侶の奝然から届いた書状には、宋が契丹への侵略を試みたものの、大敗を喫し宋は混乱に陥っていること、宋からやってきた商人の鄭仁徳の来日目的は、宋の侵略計画のためではなく、契丹が宋に攻め込もうとしているこの時点で日本が海を越えて侵略されると宋の国家存亡の危機になり、何としても日本の出兵を食い止めるために派遣されたことが記されていたのである。

 奝然も、宋からやってきた商人の鄭仁徳も、この時点では九州に留め置かれている。この時代、国外からやってきた者を船の到着場所にしばらく留め置くのは普通のことであったから、平安京まで行けないことに対する不平不満は出ていない。

 日本が宋を恐れるのは侵略されるかもしれないという恐怖からであったが、宋は今まさに北から契丹に、南からベトナムに侵略されている。それも、侵略戦争を仕掛けたのは宋のほうであり、契丹も、ベトナムも、自衛戦争をしているのである。現在も、侵略戦争は全世界の批判を受けるが、自衛戦争を批判する者はいないし、自衛戦争は国際法でも、いや、戦争放棄を訴える日本国憲法でも認められている権利である。このときの宋は誰が見ても侵略戦争の失敗の末路であったのだ。

 しかも、正式に樹立されているわけではなかったが、この時代の宋の感覚では契丹と日本とベトナムが相互に同盟国であり、集団的自衛権、すなわち、どこか一ヶ国が侵略を受けたら協力して侵略者に立ち向かう協定を結んでいるという認識であったのだ。実際に南北から攻撃を受けている状況にあって、これ以上の被害を受けないために、せめて東からの攻撃だけでも食い止めなければならないというのが宋の認識であった。

 宋との国交はなかったが、民間交流なら普通にあった。ついこの間までは中国全土が五代十国の戦乱に包まれていた影響もあり、大唐帝国の頃は当たり前であった輸入品を珍重するという感覚が消えていたが、この頃になると再び、輸入品を珍重する風潮が高まってくる。特に、貴族の間では輸入品全体が「唐物(からもの)」と呼ばれて珍重されるようになり、どれだけ輸入品を所有しているか、どのような種類の輸入品を持っているかが財力を計るステータスになるほどであった。

 しかし、いくら宋との交易をしようと正式な国交は日本も宋も選ばなかった。

 宋に限らず、歴代の中華帝国は自国のトップのみを皇帝とし、その他の地域のトップはいかなる名称を自称しようと全て王であるとしている。宋にとっての国交とは、歴代の中華帝国と同様に宋のトップを皇帝として上位に置き、自国のトップを宋の皇帝の臣下の一人である王とする形以外考えない。

 ところが、この宋の理念に反する国が二ヶ国存在する。一ヶ国は、皇帝と同格である天皇を自称し続けているのみならず、新興国に過ぎない宋など足元にも及ばない悠久の歴史を持つ日本。そしてもう一ヶ国は、宋からの侵略をはねのけ、王ではなく皇帝を自称するようになった契丹。この二ヶ国とはどうあがいても正式な国交を結べなかった。

 非公式な打診はした。しかし、日本からも、契丹からも、民間交易ならば認めるが、宋の求める形、すなわち、宋の元に下る冊封体制への加入については拒否してきたのである。

 武力で中国全土を統一したばかりの頃は日本も契丹も武力で制圧できると考えていた宋であるが、この時期になると頼りの武力が崩壊し、残されたのは中華帝国の覇権を握っているというプライドだけであった。いや、そのプライドしか残っていないからこそ、皇帝の臣下である王たることを受け入れられない国との国交を拒絶したのである。

 日本はこの後も、宋との交易ならば続けるが、国交は結ばないまま時間を経過させる。


 摂政藤原兼家の主導する政権は安定軌道を描いていた。

 それはすなわち、院政を計画していた二人の法皇、花山法皇と円融法皇の二人の法皇が政権から遠ざけられることを意味していた。

 一条天皇が正式に即位したまさにその日、花山法皇が播磨国書写山に赴き、性空に結縁。その姿はかつて天皇として絶大な権力を握っていたとは思えぬような、ごく普通の修行僧のようであったという。それは権力を再び握ることに対して諦めを抱いているかのようであった。

 一方の円融法皇は少し事情が違う。出家はしたが、仏門に染まる生活ではなく、文化に染まった生活をし、権力欲も捨てずにいた。寛和二(九八六)年一〇月一〇日に円融法皇が京都の大井川に行幸し御船の遊びを催したとある。大井川といっても静岡県ではなく京都西岸を流れる桂川のことで、このときの行幸も現在の嵐山の周辺ではなかったかと言われている。秋の船遊びの場としてはかなり風流であったろう。

 ここまでならば普通のイベントであったが、イベントから五日後の一〇月一五日、円融法皇が、大蔵卿であった源時中(右大臣源雅信の子)を参議に任命したのである。その任命の理由も円融法皇の大井川行幸に対する報償である。この任命劇を伝える藤原実資の「小右記」は円融法皇の判断について批判しているが、円融法皇の判断による源時中の参議就任は認められ、右大臣源雅信は自分の息子を議政官に加えることで発言権を強めることに成功したのである。

 寛和三(九八七)年二月一一日、博多に滞在していた奝然が入京した。宋から持ち帰った釈迦如来像や摺本一切経などを奉納したことで、これで正式に宋への渡航修行が完了したこととなる。

 仏像や経典を持ち帰ったことは僧侶として当然のことであるが、奝然の主目的はそこにはない。宋の実情を探ることである。

 そして持ち帰った宋の実情、それは日本の対外戦争に対する危機意識を弱めるものであった。

 宋に海外侵略の能力無し、がそれである。

 国境を接している契丹やベトナムに向けた侵略なら可能であるが、船を操り、東シナ海を越えて日本に攻め込む海軍力がないというのが奝然の答えであった。その上、契丹やベトナムに侵略したのは事実であるが、その結果は惨憺たるものであった。国の名誉が汚されたなどというレベルでは済まず、宋の国土防衛すら不可能な状態にまで軍事力が衰退してしまったというのが奝然の答えであった。

 この回答を受けた朝廷、特に摂政藤原兼家は、国内の産業発展を優先させる時間的余裕が出来たと判断。特に花山天皇の治世で大きく混乱することとなった国内経済の立て直しを計った。

 まず、寛和三(九八七)年三月五日、摂政の名で新制十三箇条を発表。これにより、花山天皇の示した経済政策は否定され、円融天皇以前の経済政策に戻ることが決まった。ただし、花山天皇の指名した人事については手をつけることが出来ずにおり、花山天皇派としてよい面々は、朝廷内や地方官としてなおも君臨している。

 永延元(九八七)年四月五日、永延に改元すると発表。表向きは新帝即位に伴う改元であり、それまで花山天皇の定めた元号である寛和を一条天皇即位後も使い続けていたことのほうがイレギュラーで、ここで改元することで正常な状態に戻ったということになっている。ただし、実情は花山天皇の治世からの脱却にあることは誰の目にも明らかであった。

 そして、永延元(九八七)年五月五日、摂政藤原兼家は、花山天皇派の面々に対する切り札を投入した。

 この日、新制五箇条を発表。といっても、この五箇条が切り札であったのではない。発表した者の存在が切り札であった。四四歳の左中弁藤原在国、そして四三歳の右中弁平惟仲、この二人の存在が表に現れたのである。

 花山天皇派の者はその多くが若者であり、四〇代の者はまずいない。

 一方、藤原北家の者が四〇代を迎えるとなると、左中弁や右中弁といった地位よりはるかに上にいるのが普通。

 つまり、四〇代前半で弁官という事務方の職務にあるということは、藤原北家でない、あるいは、藤原北家でも本流ではないが、花山天皇派でもないことになる。実際、藤原在国も平惟仲も、大学を出て役人となり貴族となったという典型的な律令派の経歴の持ち主であり、勧学院とは無関係である。特に藤原在国は村上天皇の時代に、勧学院と似た名でありながら勧学院と真逆の存在である勧学会に参加したほどであるから熱心な律令派とみなされており、このときまでは二人とも律令派の一員として考えられていた。

 反藤原を命題の一つに掲げる律令派であったにも関わらず、摂政藤原兼家はこの二人を抜擢しただけでなく、この二人を「麻呂の左右の目なり」とまで宣言したのだ。

 ではなぜ、大学出身の四〇代の貴族をここに来て抜擢したのか。

 それは、この二人が地方の国司として名声を得ていたことによる。

 現在の都道府県知事は選挙によって選ばれる。選ぶのはその都道府県に住む二〇歳以上の日本人、つまり、ごく普通の一般庶民が知事を選ぶ。いかに権力を持っていようと、いかに名声を博していようと、選挙の洗礼から逃れることはできない一方で、選挙に勝ち続けていれば何十年でも知事であり続けられる。だから、知事であり続けるためにはその都道府県に済む一般庶民の支持を続けていなければならない。

 だが、平安時代の地方自治において、現在の知事に相当する国司は京都からの派遣であり、期間が来たらそれで終了。延長はよほどのことがない限りない。誰が国司になるかも、住民の意向ではなく京都の政策によって決まる。赴任先として任命される国も、当人とは縁もゆかりもない土地であることが普通で、極論すれば、方言の差から何を言っているのかわからない地域の住民を完全に無視しようと、京都から認められればそれで職務を果たしたことになる。

 住民から苦情が来て国司がクビになった例が存在するとはいえ、住民の意向を飲まなくても構わないのがこの時代の国司である。特に、花山天皇の治世に赴任した国司の中にはいつ住民の不満が爆発するかわからない状態にさせてしまうような国司が多かった。

 そのような国司が数多くいた時代にあって赴任先の住民からその統治が好評であったということは、極めて優れた実績を残した者であり、そのような者は中央に戻しても問題ない統治者になる可能性が高いということである。

 藤原在国は越後と石見、平惟仲は美作・筑後・相模・肥後といった国々の国司を歴任し、その全ての国で評判をよんでいる。それだけの国の国司を歴任してなお四〇代前半ということは、ただの四〇代ではない。現在の会社で言うと、入社直後から日本各地を転々とし、行く先々の支店において支店長として抜群の成績を収めてきた人材であり、このような人材が本社に戻れば間違いなく経営層の一員になれる。それが、歴代経営層と反発してきた派閥の人間であったとしても企業にとってはかけがえのない人材であり、そのような人材が経営層に入ると、その企業はかなりの可能性で発展を見せる。

 摂政藤原兼家は、明らかに自派の人間ではない者を抜擢した。それも、血筋はないが経験ならば豊富な人材を抜擢した。

 これは花山天皇派にとって二つの感情を招いた。自分にもチャンスがあると考える感情と、恐るべき敵の出現を感じる感情とである。


 永延元(九八七)年は日照りの年であった。雨が降らないとき、平安時代の人たちは二つの方法で雨が降るようにした。一つは雨乞い、もう一つは、善行を積んで天の許しを請うのである。

 摂政藤原兼家が選んだのは後者であった。永延元(九八七)年五月二九日、自らの給与カットを申し出ると同時に、軽犯罪者に対する恩赦を実行したのである。天に認められるような善行をすれば天が望みを叶えてくれるという思考である。

 藤原兼家がそのような思考の持ち主であったかどうかは疑わしい。いつの時代も執政者というものは冷めているものである。とはいえ、それを迷信であると一刀両断する考えの持ち主であっても、国民が迷信ではないと考えているのなら、国民の思いに乗るのもまた執政者の責務である。

 もっとも、この国民の思いに乗るというのは諸刃の剣でもある。国民の思いに乗って、国民の望んだ結果が出たときは良い。だが、望み通りの結果が出なかったらどうなるか。現在の民主主義の抱える問題にも通じるこの命題を、摂政藤原兼家は最優先課題として受け止めなければならなくなったのである。

 日照りは自然の問題であり人間の手でどうこうできるものではない。どうこうできるものではないが、どうにかしないとこの年の不作につながる。そうなったら待っているのは大飢饉だ。

 このままでは飢饉が待ち受けているという状況は、政権にとっては大問題であると同時に、政権を攻撃する側にとっては絶好の攻撃材料である。現在でも、国外問題に起因する経済情勢の悪化は、与党にとっては頭痛になる問題である一方、野党にとっては絶好の攻撃材料になるのと同じである。違うのは、現在の経済情勢の悪化は既に起こった問題であるが、この場合は、これから起こる、あるいはこれから起こるかもしれない問題についてであるという点。

 これから問題が起こると予想されるとき、この時点ですべきことは現状の把握である。本当に問題が起こるのか。起こるとしたらどれだけの規模なのか。防ぐとしたらどうすればよいのか。全て現状を把握するところから始まる。

 摂政藤原兼家は、左中弁藤原在国に命じて全国の干害被害と今年度の収穫見込みを調査させた。

 朝廷が全国を調査しているという知らせは公表されたものであった。通常であれば国司に直接届く指令なのだが、今回は干害という国民生活に直結する問題であるだけに、国司のフィルタを通さないダイレクトの情報を集めることとなった。

 これに戸惑ったのが各地の国司である。本来ならば各地の情報を報告するのは自分の役目なのに、それが朝廷の直轄事項となったのだ。名目が干害対策であるとしても、干害調査だけで済むとは思えない。しかも、この時代の国司の多くは花山天皇の任命した国司であり、花山天皇が退位したいまとなっては権力の後ろ盾がない。

 一方、国司に不満を持っている者にとっては絶好のチャンスである。干害調査に着た朝廷からの使者に対して国司の状況を報告すれば、正々堂々と国司を追放できるのだ。

 無論、逆もある。朝廷にとっては不都合な国司でも、地元にとってはありがたい国司である場合、国司を召還せず、任期延長を願い出ることもある。永延元(九八七)年七月二六日、美濃国の国司であった源遠資(みなもとのとおすけ)の任期延長を、美濃国の庶民が数百人ほど集まって一斉に誓願したという記録も残っている。

 しかし、それはむしろ例外とするしかない。多くのケースでは国司に対する不満、特に税に対する不満が強く、国司交代を願い出る国が続出。伊勢国のように、調査に来た使者に対してではなく、平安京に直接出向いて国司を糾弾するケースも見られたほどであった。何しろ国司を一期務めれば一生分の財産が築けるとされていた時代である。有力貴族や有力寺社の持つ荘園からの税収が見込めなくても、荘園ではない土地や、有力ではない領主の荘園からの税収は、国司の懐を充分に満たすものがあった。

 法に定められている以上の税の徴収を行うような国司の評判が高いわけはない。だから、国司が任期を終えて京都に帰った後、その者が別の国の国司に任命されたか否かを考えれば、その者の国司としての力量も把握できる。無論、複数の国の国司を勤めた者が優れた国司としての力量を持っていることは言うまでもない。

 永延元(九八七)年九月二六日、それまで表舞台から名が消えていた人物が久しぶりに名を見せた。とはいえ、それは喜べるニュースとしての登場ではない。

 この日、兼明親王が七四歳で亡くなったのである。

 かつて源兼明として左大臣まで勤めた人物でありながら、貞元二(九七七)年四月二一日に皇族に復帰させられたことで人臣としての地位を失い、皇位継承権は持つものの、その役職は中務卿、つまり、朝廷の庶務担当の最高責任者である。中務卿自体は皇族が就く職務であると定められているだけでなく、中務省自体が他の省よりも格上と考えられていることもあり、皇族としてはかなり高い役職を勤めていたことになるのだが、左大臣と比べると格下とするしかない。

 その中務卿の役職も、寛和二(九八六)年に辞職し、以後は平安京北西の郊外である嵯峨野に隠遁。第一線を退いて余生を過ごしていた。

 ただ、おとなしくしていたわけではない。自分を皇族に戻した円融法皇や左大臣藤原頼忠への批判をする詩を残しており、その詩を現代語に訳すと「君主は愚かで、臣下はゴマすりばかり。訴えようにも訴える場所がない」となる。

 もっとも、このような政権批判でも処罰の対象とならなかったのは兼明親王が皇族だからではなく、政権批判を処罰対象としないことが藤原氏の政策だからである。だからこそ、平安時代は文学の花が開いたのだ。言論弾圧のあるところは、あるいは、言論の自主規制のあるところでは、表現するという文化が花開くことはない。

 さて、日照り対策として全国各地で調査を行ったことは既に記したが、実はほぼ同時期に、貴族たちに対して意見封事を提出するようにも命じてあった。花山天皇時代にもあった意見封事であるが、このときも意見封事の目的は同じである。

 現状を把握する手段として、貴族たちに報告を上げさせたのである。

 その結果、多くの貴族たちから寄せられたのが物価の安定についてであった。当然のことながら、これから凶作になると予想されていることもあって市場におけるコメの価格が上がっている。ということは、コメを持つ者はますます豊かになり、コメを持たない者はますます貧しくなる。コメの価格が上がっていて、平年であればコメ三升を出さないと買えなかった服がコメ二升で買えるまでになっている。

 これは平常な事態ではない。

 しかも、ここに貴族ならではの事情が加わる。貴族は、給与としてのコメに加えて荘園からコメを年貢として受け取ることも出来るが、出て行くコメも大きい。武士や女官など、貴族に仕える者に支払う給与はコメなのだから、コメの絶対量が少ないと人件費も厳しくなるのだ。

 いわばデフレだ。コメを貨幣としてみた場合、市場取引における物価は安くなっているが、同時に売り上げも減り、人件費を圧迫するようになっている。こうなると、無茶をして人件費を捻出するか、人を減らすかのどちらかしか選べない。

 このデフレ不況が起こってしまったのだ。

 摂政藤原兼家が選んだのは、一度は否定したはずの花山天皇の政策であった。すなわち、貨幣経済化である。より正確に言えば、本来なら貨幣でなければならないのが、法を破ってコメを中心とする経済になってしまっている。そこで、永延元(九八七)年一一月二日、検非違使に命じて銭貨の流通を推進させるようにした。ただ、花山天皇のときと違い、推進であって命令ではない。給与はコメのままであるし、経済の中心もコメである。ただ、モノやサービスの売買はコメではなくいったん貨幣を仲立ちさせなさいという推奨をしたのだ。

 さらに、永延元(九八七)年一一月二七日、銭貨の流通を諸寺に祈らせ、何とかして物価を安定させようとした。


 年が明けた永延二(九八八)年、宋との交易の間に進展が見られた。

 宋人たちは、日本の仏教の水準が中国を越えていることを知っていた。かつては中国に渡って最新の学問を手に入れることが日本からの渡航目的であり、命がけの航海を経て待っているのは栄光であったのに、唐の崩壊、五代十国の混乱、宋による中国統一を経て待っていたのは、文化水準で日本が宋を追い抜いていたという事実であった。

 正式な国交のない宋に渡っても特に意味はなく、留学しても学ぶべきものがない。日本にない品や日本で作るよりも安く大量に手に入る品を輸入するなら意味があっても、そうでないのにわざわざ宋に行くのは無意味なことになっていた。

 これは宋人のプライドをガタガタにさせるのに充分であった。

 計算の難しさから断念した暦法を日本人はごく普通に継承していた。

 戦乱の末に廃墟となった中国の寺院と違い、日本の寺院は仏教を学ぶのに必要な全てが揃っていた。

 一般庶民の知的水準も宋より格段に優れており、宋では最優秀の役人としてただちに取り立てられるであろう文章力を持つ者が、日本ではごく当たり前の一般庶民として生活していた。

 戦乱で衰えている間に、それまで自分たちがずっと格下と考えてきた国に文化で敗れ去ったことを知った宋人たちであるが、普通であれば優れている点を見つけて悦に入り残り少ないプライドにすがるところなのに、格下であることを認め、このまま格下であり続けるつもりはないと決断したのはさすがとするしかない。

 永延二(九八八)年一月一五日、源信が自らの記した「往生要集」などの仏典を宋の周文徳に贈った。それまで中国から日本が学ぶだけであったのに、このときから、中国が日本から学ぶようになったようになったのである。

 さらに、宋人から請願される形で、永延二(九八八)年二月八日、奝然の弟子の嘉因らが宋に派遣されることとなった。優秀な僧侶を宋でも欲していたのである。

 寛和元(九八五)年以後三年間に渡って姿をくらませていた藤原保輔が、この年の閏五月、久しぶりに姿を見せた。永延二(九八八)年閏五月、藤原景斉、茜是茂らの屋敷へ強盗に入ったのである。

 藤原保輔がこの三年間どこで何をしていたのかの消息を伝える資料はない。ただ、反省していなかったことは明白である。

 ずっと指名手配中であった者が姿を見せたのみならず、さらに犯行を重ねたとあってはそのまま放置するなどできなくなる。

 改めて藤原保輔を逮捕するよう命令が出た。それも、前回より厳しい生死を問わない逮捕命令であった。逮捕劇の途中で藤原保輔が死んでも一切罪を問わないとするだけでなく、藤原保輔を逮捕した者には恩賞を与えると発表されたのである。さらに藤原保輔の父である藤原致忠が検非違使に連行され監禁されたと発表された。

 永延二(九八八)年六月一三日、逃亡中の藤原保輔が藤原顕光宅に籠もっているところを発見されたが、逮捕に至らず逃亡。

 翌六月一四日、父の逮捕と自分への包囲を知った藤原保輔は、北花園寺に足を運び、その場で剃髪し出家すると宣言。だが、出家も逮捕免除の条件とはならず、かつて藤原保輔の部下であった足羽忠信によって捕らえられた。

 その際、藤原保輔は自分の腹を刀で横一文字に引き裂いただけでなく、自分の腸を手掴みにして引っ張り出したという。その恐ろしい光景に周囲の者は怖じ気づき、狂気の籠もった笑いを続ける藤原保輔に恐れを抱いた。

 腹を引き裂いた藤原保輔はそのまま放置されて生死の境をさまよい、永延二(九八八)年六月一七日、ついに命を終えた。

 これが日本史上初の切腹であるとされており、武士の自殺方法としての切腹はこの藤原保輔の行動を起源としている。ただし、武士の場合は腹を引き裂いてすぐに、あるいは、腹を引き裂くための刀に手をつけた瞬間に首を切り落とすことが儀礼となっており、藤原保輔のように壮絶な最期を求めてはいない。


 平安時代中期で最も有名な歴史的資料は何かという質問に対し、「尾張国郡司百姓等解文」、略して「尾張国解文」を挙げる人は多い。これは小学生向けの歴史の教科書にも載っているほどである。ちなみに、ここで言う「百姓」とはただ単に公的地位を持たない者という意味であり、農民を限定して言う言葉では無い。意味としては、尾張国の公的地位を持たない有力者というところである。

 この有名な尾張国郡司百姓等解文が記されたのも永延二(九八八)年である。この年の一一月八日に、尾張国の郡司や百姓らが、尾張国司藤原元命の解任を要求する解文を提出したのである。

 解文は三一の条文からなっており、国司藤原元命がいかに極悪非道な統治をしていたかを訴える内容となっている。その三一条を現代語に訳し、それぞれに解説を加えると以下のようになる。

 なお、藤原元命の行いを記す前に注意していただきたいことがある。これから私は当時の金額と現代の金額の両方を記していく。そのほうがわかりやすいからであるが、永延二(九八八)年当時の物価と現在の日本円とが完全に一致する計算などできるわけない。あくまでも当時の基本通過であるコメと現代の米価、そして、現代日本の生活水準を加味して産出した数字である。

 その計算は単純で、コメ一升が一〇〇〇円。一〇〇升である一石が一〇万円である。そして、この時代の一般庶民は一日働いてコメ二升、すなわち一日に二〇〇〇円、一ヶ月で六万円、年間に七二万円しか稼げなかったことを念頭に置いていただきたい。

【第一条】社会福祉制度の悪用

 出挙は事実上廃止になっていたが、社会福祉制度としてのコメの貸し出しは残っていた。

 かつての出挙のように、税率一〇〇パーセント、すなわち、春に貸した種籾の倍を取り立てるなどというとんでもない数字はなかったが、国衙から借りた種籾に対し、三〇パーセントほどの利率を加え、借りた種籾の一・三倍を返すことは普通にあった。ただし、それはあくまでも社会福祉政策であり、ビジネスとしてではなかった。

 ところが、藤原元命は種籾を必要としない農民にも種籾を強制的に貸し付け、秋の収穫時に強引に回収した。

 藤原元命が赴任する前の種籾は、尾張国全体で一万二三一〇石、秋にプラスされて戻ってくるのは三七〇〇石。現在の価格で行くと一二億三一〇〇万円の原資に対して三億七〇〇〇万円の利益があり、この三億七〇〇〇万円の利益が国衙の運営資金として転用されたこととなる。

 ところが、藤原元命が赴任すると、もとの原資に二万一五〇〇石が追加されて三万六八〇〇石に増やされ、秋の収穫時に戻ってくるのが六四〇〇石、六億四〇〇〇万円も増えることとなった。この六億四〇〇〇万円はそのまま藤原元命の財産として着服された。

【第二条】課税対象では無い土地に対する課税

 班田収授の崩壊したこの時代、全ての土地が管理対象となっていたのではない。管理対象となった農地は国への納税対象となるが、管理対象外は国への納税対象外である。

 この不公平を正すのは理論上正しいと言えば正しいが、管理対象外の農地へ課税した結果は国司藤原元命の懐へと消えていった。この金額がいくらなのか解文には記されていない。

【第三条】増税

 この時代、朝廷が定めた税率は、一町(一〇九メートル四方の正方形の田畑)につきコメ四・五石、現在の感覚で四五万円であった。ただし、農家一件当たりの平均耕作面積は〇・二町だから、一件当たりの税はコメ〇・九石、年間九万円ほどとなる。年収七二万円のところで九万円だから、税率換算すると一二・五パーセントとなる。元々の律令制では税率三パーセントだからその時代と比べると四倍以上に増えたこととなる。

 たしかに税率は増えたが、それでも無茶という税率ではない。それに、徴兵制である防人も廃止となっているのだから、その分の負担は軽減されている。まあ、現代人の感覚からすると妥当として良い税率であろう。

 ところが、歴代の尾張国司は、同じ広さの田畑に対して、少なくてもコメ九石、多いところではコメ一二石もの税を課していた。すでに国の定めた税率の二倍を軽々と超えている。多いケースであるコメ一二石で計算すると、農家一件あたり二・四石。すなわち二四万円。なんと年収の三分の一が税に消えてしまうのだ。今のサラリーマンも年金や社会保険を加えるとこれぐらいはいくが、この時代は、国民皆保険も無ければ年金も無い。これはかなり重い税率とするしかない。

 これだけでも充分問題なのだが、藤原元命は国司に就任した直後に一町当たりコメ二一・六石というとんでもない税率を課したのである。法定税率の五倍。一件当たり四・三石、つまり、四三万円。なんと年収の六割が税になってしまったのである。六〇パーセントという税率は、累進課税が最も甚だしかった頃の高額所得者に課された例ならあるが、一般庶民に課される税としてはあまりにも重すぎる。

【第四条】特別税の導入

 この一町あたりコメ二一・六石のうち八・四石は特別税という名目である。しかし、この特別税の名目が全く不明である。全く不明なまま、農家一件当たり年にコメ一・七石、現在の価格で一七万円、年収の二三パーセントが税として課されていたのである。

【第五条】税の着服

 以上の第一条から第四条の合計の結果、藤原元命は年間に五万石、現在の貨幣価値で五〇億円という途方も無い額を毎年着服していた。

【第六条】公定価格操作による増税

 尾張国の農民に課されていた税はコメだけでは無い。

 絹織物も納税の対象であり、その税率は二・四町の田畑について一疋(〇・六七メートル×十五・五六メートル)の絹織物を納めるというものもあった。これは、田畑一町につきコメ二石という計算であると同時に、絹一疋がコメ四・八石に等しいとする計算方法であった。

 ところが、藤原元命の国司就任で、絹一疋をコメ二・二石とすると定めてしまった。するとどうなるか。

 田畑一町につきコメ二石は変わらないのだから、それまでは田畑一町につき、〇・四疋を納めればよかった絹織物の納税が、絹織物〇・九疋へと増やされてしまったのである。

 そしてこの増えた分の絹織物はそのまま藤原元命の懐へと消えていった。

【第七条】強制買い上げ

 これまでは納税、すなわち強制的な供出であるが、ここに記すのは購入である。尾張国で産出する、絹、麻、漆、油、苧麻、染料、綿といった品々を藤原元命は買ったのである。絹織物については税としてだけではなく買い上げの対象にもなった。

 ただ、買ったのではあるが、その金額は不当に安いものであった。

 生産者はその藤原元命の命じた金額で売るか、それとも無料で持って行かれるかのどちらかしか選べなかった。良くて原価割れ、さもなくば強奪である。

【第八条】過去の未納分の税の強制徴収

 どの時代のどの土地でもそうだが、課税対象者の全てにもれなく徴税することはできない。そもそも不作で税を納めることができないこともあるし、重税に耐えかねて逃亡したら納めさせることなんてできない。藤原元命が尾張国司に就任した当時、昔から未納として放っておかれた税が帳簿にかなり残っていた。

 藤原元命はこの未納分の税を納めるよう強要した。

 法律的には理がある。何しろ払っていなかった税を払わせるのだから、それだけを見るとおかしなものではない。

 だが、払わなかった本人に納めるよう命じるならまだわかるが、縁もゆかりもない、ただ単に尾張国に住んでいるだけの者に対して、赤の他人が納めなかった税を払うように強要したのである。

 そして、この徴税もまた、藤原元命の懐へと消えていくこととなった。

【第九条】絹織物を騙し盗る

 第六条で絹織物に対する増税を記し、第七条で絹織物を含む物品の強制買い上げについて記したが、それでもまだ足らないと感じたのか、藤原元命は絹織物を借りることもした。

 とは言え、国司からの貸して欲しいという要請である。事実上の強制であっただけでなく、返ってくる見込みの無い強奪と同じであった。

 この三年間で藤原元命が借りた絹織物の総量は一二一二疋。絹一疋をコメ二・二石とする藤原元命の定めた公定価格によると、コメ二六六六・四石に匹敵する。現在の貨幣価値にすると二億六六六四万円。藤原元命以前の公定価格だとコメ五八一七・六石、五億八一七六万円に相当する。藤原元命はこれだけの借金を踏み倒したこととなる。

【第一〇条】社会福祉予算の着服

 本来、地方に派遣された地方官は、その地の住民の生活水準の向上に当たらねばならない。というより、それこそが仕事である。住まいをなくし路頭にさまようような暮らしとなった人を救うための予算を尾張国衙も組んでおり、ここまでは地方自治のあるべき姿である。

 だが、藤原元命はこの予算を着服した。着服したことが明白な額はわずか一五〇石、一五〇〇万円ほどの予算であるが、庶民の平均年収の二〇年分であることを考えると断じて少ない額では無い。

【第一一条】連絡網維持費用の全額を着服
【第一二条】公務で使用する馬の飼育費と購入費を全て着服

 この第一一条から一二条は道路行政に関する着服である。

 衰退していたとは言え、この時代はまだ律令制の定めた街道網が存在し、街道には駅が設けられて、緊急連絡事項は駅と駅との間に馬を走らせることで伝達されていた。

 国衙は、集めた税を財源としてこうした駅の運営と街道の整備をする義務があり、その責任は国司が背負うこととなっていた。

 藤原元命は、この街道の維持費用六二四石と、駅で保持しておくべき馬の維持費用三四〇石の全てを着服したのである。合わせて九六四石が全て藤原元命の懐へと消えたのだ。

 しかも、予算を着服しても、街道の維持、駅の維持、馬の維持は必要であるし、連絡は否応なくやってくる。その後始末は街道の走る郡の郡司たちに押しつけられることとなった。着服してしまい届かない予算の全てを郡司たちが肩代わりしなければならなかったのである。

【第一三条】灌漑整備予算と災害対策費の全額を着服

 これだけの増税を課すなら、当然ながら農地の振興、特に灌漑設備の整備に心を配るべきであるし、国衙も本来ならそのための予算を組んである。尾張国の場合それは年間六〇〇石である。この六〇〇石を藤原元命は全て着服した。つまり、農業振興予算を全部着服しておきながら農地に対して六〇パーセントというとんでもない増税を課していたこととなる。

 国司が着服してしまったせいで国衙から灌漑整備用の予算が降りないが、予算が無いからといって灌漑整備を行わなくていいというわけではない。結果、灌漑整備のための予算は郡司と地域の有力者の持ち出しである。

【第一四条】時期を無視した納税命令

 本来、絹織物を納税するのは農閑期と決まっている。田植えや収穫時期という農繁期に、稲作に影響を与えるような納税を命じるようにはなっていない。尾張国も例外ではなく、絹織物の納税時期は六月上旬から九月下旬、すなわち、田植えを終えてから収穫までの間の空き時間を見計らって納税すればいいとなっていた。

 ところが、藤原元命は五月中旬という田植えの忙しい真っ最中に絹織物の納税を命じたのである。これでは無理だと抗議の声を挙げたようだが、その抗議の声こそ徴税側には絶好の口実となった。

 納税拒否をする者に対する強制差し押さえとして、徴税使を差し向けさせ家の中にあるめぼしいものを、それが本来の納税対象である絹織物以外のものであろうと価値ありそうなものであれば容赦なく没収させた。納税拒否に対する差し押さえであり、抗議することは公務執行妨害として刑罰の対象ともなった。

【第一五条】課税対象外の作物に対する課税

 稲作の終わった田畑を使い、麦や豆を栽培することは珍しくなかった。いわゆる二毛作である。ただ、鎌倉時代になると二毛作が公的に定められ二回の収穫の両方が納税の対象となったが、この時代はあくまでも収穫は年一回であり、その一回についてだけが納税対象となっていた。つまり、二毛作と同じ仕組みではあるが、年に二度目の収穫は納税対象とならず、二毛作自体が公的に定められたものではなかったのである。

 ところが、藤原元命は二毛作を公的に定めたのみならず、稲刈り後に栽培し収穫した麦や豆も課税対象とした。しかも、この課税対象とする名目は「任後の食」、すなわち、国司藤原元命の退職金である。

【第一六条】徴税使への接待を黙認

 藤原元命が厳しい徴税を命じても、国司が自ら税を集めに行くわけではない。徴税使を派遣して徴税させるのである。

 厳しすぎる徴税であるだけに、何とかして徴税から逃れようとする動きもあった。その最も典型的な例が徴税使に対する接待やワイロで税を減らしてもらうことである。本来なら国司が先頭に立って取り締まらねばならない接待やワイロを藤原元命は黙認していた。

【第一七条】国司就任以前からの繰越予算の全てを着服

 灌漑整備予算に加え災害対策予算についても藤原元命は着服したのだが、その予算は前年度からの繰越予算である。本来ならいざというときのために手を付けず次年度に繰り越さなければならない予算であるが、このいざというときのための予算も何の迷いもなく藤原元命は着服した。

【第一八条】納税名目で尾張特産品の漆を例年より多く取り立て

 尾張国には上質の漆を産出することで有名な丹羽郡があった。そして、丹羽の漆細工と言えばこの時代の高級ブランド品として朝廷内で愛用されていた。丹羽の漆工芸関係者は毎年一定量の税を漆で納めているだけでなく。漆を平安京などの各地で売ることで生計を立てていた。

 藤原元命は、蔵人所に納めるという名目で丹羽の漆に対する税を重くし、漆工芸関係者の生計を破綻させた。このときに税として上納させられた丹羽の漆は、蔵人所ではなく藤原元命個人の所有する蔵へとしまわれていった。

【第一九条】水上交通整備費用の全てを着服

 木曽川は平安時代当時、東海道最大の難所とされていた。この東海道最大の難所である木曽川の渡河地点が「馬津(現在の愛知県津島市)の渡」であり、馬津の維持管理は尾張国司の重要な使命であった。

 にも関わらず、藤原元命はこの馬津の維持費用の全てを着服。藤原元命が尾張国司として着任して以後、馬津の渡の運営と維持費用の負担は、馬津の存在する尾張国海部郡の郡司が全て負担させられることとなった。

【第二〇条】国衙の下級官吏の給与を全て着服

 国衙というものは現在の県庁に相当する。そして、県知事一人では県の全てを取り仕切ることができないのと同様、国衙の運営も国司一人でどうこうなるものではなく、現在の県庁職員に相当する者もいた。ただし、公務員制度と違って、キャリア官僚に相当する掾(じょう)と目(さかん)は平安京からの派遣、すなわち国家公務員であり、その下の史生(ししょう)が地元での採用、つまり地方公務員である。

 給与体系も厳密に定められており、掾は国司(厳密には尾張守)である藤原元命の半分、目は三分の一、史生は六分の一と決まっていた。

 この、藤原元命自身も含まれる国衙の官吏の給与総額はコメ三〇〇〇石、現在の感覚で行くと三億円になるが、藤原元命はこの全額を着服した。

【第二一条】国衙に勤務する官吏以外の者の給与も着服

 現在の役所にも非常勤の職員がいるように、平安時代の国衙にも非常勤の者が働いていた。その多くは郡司の派遣した役人であり、本来であればその者の給与は仕事を発注している国衙が支払う義務があるのだが、藤原元命は支払いを拒否し、全額を懐に入れてしまった。その結果、郡司が代わりに給与を支払わねばならなくなった。

【第二二条】運送業者への支払いも着服
【第二三条】物資運搬を無償で命じる

 第二二条から二三条は運輸に関する不正である。

 平安時代に運送業が職業として成立していたとは言いづらいが、運送業自体がゼロであったわけではない。特産品を都に持って行って売ることを商売とする者がいたし、先に挙げた馬津の渡のように人を向こう岸まで渡らせるのも田畑を耕すついでに出来るような仕事では無い以上、人や物を運ぶことで生活する人がいたとするしかないのである。

 モノを運ぶよう命じるとすれば、最も良いのはそうした運搬を職業とする者に依頼することであり、藤原元命も当初はそれをしていたようである。しかし、藤原元命は正当な賃金の四〇パーセントしか支払わなかった。これでは当然ながら次から仕事を引き受けなくなる。

 そこで藤原元命が命じたのは、住民に対する無償ボランティアであった。要は、ただで荷物を運べと命じたのだ。

 しかも、運ばねばならない荷物の量は、人間なら一人当たり七〇キログラム、馬だと一頭当たり一二〇キログラムというとんでもない重さである。これを七日掛けて尾張から平安京まで無償ボランティアで運べというのが藤原元命の命令であった。

【第二四条】国分尼寺再建費用の着服

 奈良時代に全国で建立された国分寺や国分尼寺は、平安時代のこの時代にも多くの国で健在で、尾張国も例外では無かった。例外ではなかったのであるが、藤原元命が着任する前に国分尼寺が火災に遭い建物が焼失してしまっていた。

 尾張国衙では国分尼寺再建費用として九〇〇石、現在の貨幣価値で九〇〇〇万円の予算を組んでいたのだが、藤原元命はその全額を着服したのである。当然ながら国分尼寺は再建できなかった。

【第二五条】国分寺・国分尼寺に対する公的資金を着服

 他の寺院と違い、国分寺も国分尼寺も国の命令によって建設された公的施設である。そして、国分寺や国分尼寺の運営費や僧侶の生活費も各国の国衙が予算を組んでいた。

 その予算もまた藤原元命は着服。三年間で六〇〇石、現在の貨幣価値で六〇〇〇万円を着服したという。

【第二六条】任期の大半を平安京で過ごし陳情の機会を奪う

 国司というものは必ずしも地方に赴任するとは限らない。藤原良房がそうであったように、京都で何らかの役職を兼ねているので京都から離れられないというやむを得ぬ理由で代理の者を任国に派遣して統治に当たらせることは珍しくない。

 しかし、地方に行くのが面倒くさいなどの理由で京都に留まったままでいる、あるいは、基本は京都に住み続けるが、気が向いたときだけ任国に向かうという国司もおり、藤原元命は後者のほうであった。

 任国に国司がいない場合でも、前者の場合は任国の情報が届くし、陳状を受け取れる仕組みを構築しているものであるが、後者の場合はそんなものない。

【第二七条】家族や家来が物品を脅し取るのを黙認
【第二八条】息子が馬の所有者から私的に不当な税を取り立てるのを黙認
【第二九条】家族や家来が私的に不当な税を取り立てるのを黙認

 第二七条から二九条は内容が重複している。

 一言でまとめると、藤原元命個人だけでなく、その家族、特に息子と、藤原元命の家来の乱暴狼藉。

 国司藤原元命の子や家来が尾張国の徴税使を務め、尾張国内を我が物顔で暴れ回り、欲しい物があれば容赦なく奪い取っていったという。そして奪い取った品々は京都にある藤原元命の邸宅へと運ばれていった。尾張から京都に運ぶのも尾張国の一般庶民である。しかも、報酬は出ない。

 尾張国の人たちはこうした徴税使を、野蛮人、山犬、狼と呼びあった。

【第三〇条】悪人を尾張に連れてきた

 ここで尾張国の郡司や百姓は藤原元命が悪人を連れてきたと言っている。要は徴税使である藤原元命の息子や家来のことなのであるが、藤原元命の息子も、その家来も、朝廷から位を得ている公人である。つまり、身元は確かな人間なのである。

 ただし、朝廷の許可無く官僚を地方に連れ出すことは本来ならば違法であり、この解文に対する処罰を決めるときに、他の訴えについては証拠不充分として訴えそのものを却下することはできても、この違法行為についてだけは証拠が残っている以上、審議しなければならなかった。

【第三一条】都合の悪い新規法令を尾張国内で布告せず

 第三〇条で記した、官僚を無許可で地方に連れ出すのを禁止する法令を含め、在任中だけでも六つの法令を尾張国内に適用しなかった。そのどれもが藤原元命個人やその関係者にとって都合の悪い法令であった。

 以上、全三一条の内容を記してみたが、先に記した通りこれは現代語訳である。原文は漢文であり、尾張国の郡司や百姓が訴えた内容を、京都に住む誰かが漢文に仕上げて提出したのではないかとする説もある。そのため、本来はここまで過酷な統治ではなく、話を大げさに広げるために虚構を混ぜ込んだのではないかとする説もある。当時の貴族の残した日記には、全三一条のうち、明白に有罪なのは一条のみであるとも記してある。

 国司に対する訴えそのものは珍しい話では無い。特に、尾張国はこの尾張国郡司百姓等解文を含め、一〇世紀後半から一一世紀前半にかけて四回も国司上訴が起こっており、尾張国郡司百姓等解文が現在大きく取り上げられているのは、藤原元命個人の所行とするよりも、鎌倉時代の写本であるにせよ三一条に渡る訴えの内容が全て残っているからである。

 朝廷の審議も、何度も体験した国司への訴えに対する審議の一つと扱われるに過ぎなかった。ただし、藤原元命は花山天皇によって尾張国司に任命された者であり、その意味での審議という点では特別な意味を持っていた。


 永延三(九八九)年二月二三日、空席であった内大臣に、摂政藤原兼家の長男である大納言藤原道隆が昇格。これにより摂政藤原兼家の権力はますます強まることとなった。

 これに対して危機感を抱いたのが円融法皇である。

 話は同年二月五日にさかのぼる。

 藤原兼家は一つの計画を画策していた。一条天皇を春日社に行幸させようという計画である。天皇の神社参拝は珍しくないと思う人もいるだろうが、春日社はただの神社ではない。藤原氏の氏社なのである。一民間人の氏社でしかない神社に天皇が行幸するというのは異例とするしかない。そして、この行幸が実現したなら摂政藤原兼家は名実ともにこの国の最高権者と位置づけられることとなる。

 一条天皇は確かにまだ幼い。だが、そろそろ元服を迎えてもおかしくない年齢になる。元服を迎えると藤原兼家は摂政としての地位を失い関白となる。摂政と関白とでは与えられる権力が全然違う。いや、摂政は権威も権力もともに備えた職務であるのに対し、関白には権威しかない。そして、このときの藤原兼家は摂政だけをしており、一切の大臣職を兼ねていない。この状態で摂政から関白になると、藤原兼家は権威こそあるが権力は全くない存在になってしまうのである。

 そこで考えたのが、自身の権威を強めることである。アンタッチャブルなまでの権威を自らに、さらには自らの子孫に付与することで、法制上権力の持たない存在であってもその圧倒的な権威で勢力を維持できると考えたのである。

 そのための手段として選んだのが、一条天皇の春日社行幸。

 天皇が行幸するほどの神社を氏社とするのはただの民間人ではない。天皇とまではいかないにせよ、相応の権威を持った血筋であると日本中の人が考えるようになるのである。

 これにストップをかけようとしたのが円融法皇であった。

 永延三(九八九)年二月五日、円融法皇は、円融法皇の側近である藤原実資を通じて摂政藤原兼家からの書簡を受け取った。そこには、一条天皇が春日社に行幸することを夢見る国民が多くいると記してあった。本人の意思ではなく、あくまでも国民の声に応える形で、円融法皇にとって息子である一条天皇を春日社に行幸させるよう促してほしいとしたのである。

 二月一〇日、円融法皇が一条天皇の春日社行幸を拒否すると発表。天皇が一民間人の氏社に行幸するなどあり得ないと断言した。一方、藤原兼家は一条天皇が春日社を行幸すると発表。行幸予定は来月二三日とし、すでに行幸に向けた準備も始まっているとした。これは既に決定事項であるとした発表である。

 二月一三日、陰陽師の賀茂光栄が「来月の春日行幸は不快なりの由」とする勘文(調査報告書)を朝廷に提出。吉兆を占うよう命じられる前に陰陽師が卜占結果を提出したのはおそらく裏で円融法皇が糸を引いていたからであろう。このような行事を行う前に陰陽師に吉兆を占わせ、吉兆であると宣言させることが定例行事になっていたから陰陽師の登場はおかしなことではない。しかし、吉兆ではない、それどころか凶兆であるとの宣言を出させるのは異例とするしかない。

 二月一六日、藤原兼家が妥協案を提出する。円融法皇の右腕でもある側近の藤原実資を参議に昇格させると打診したのである。藤原実資は思いも寄らない出世に舞い上がった。円融法皇は側近の出世を了承。しかし、一条天皇の行幸について回答はなし。

 二月一八日、藤原兼家から、藤原実資を参議とすることに難色を示す手紙が円融法皇のもとに届いた。この手紙を円融法皇に渡したのは藤原道長である。円融法皇は藤原兼家の手紙の無礼に激怒し、道長は円融法皇からかなり激しい叱責を受けたという。

 二月二〇日、藤原実資、参議に就任。藤原氏の一員でありながら、藤原兼家とは一線を画し円融法皇の側近であることを隠さない藤原実資が議政官の一員になったことを踏まえ、永延三(九八九)年二月二三日、空席の内大臣に、藤原兼家の長男である大納言藤原道隆を昇格させることで対抗したのである。

 この春日社行幸を巡る争いは三月になってもなおも続いた。

 議政官の中では、新たに議政官に加わった参議藤原実資と、内大臣藤原道隆との激しい論戦が起こった。藤原実資はあらゆる口実を使って行幸反対を促し、藤原道隆もまた考えつくあらゆる理屈で行幸賛成を訴える。摂政藤原道兼は議政官の一員ではないため、当然ながらこの論戦に加わることができない。

 この二人の激しい論戦は永延三(九八九)年三月一三日に決着がついたように見えた。この日、議政官から一つの発表がなされたのである。「春日行幸停止の事」が奏上されたのだ。これにより議政官としては行幸中止という決定が下ったこととなる。

 ところが、摂政藤原兼家が拒否権を発動したのである。拒否権自体は摂政の正当な職務であるから問題ない。しかし、その理由がかなり無茶である。

 三月一五日、行幸中止の決定により天変地異が起こっているとして、予定通り行幸をするように促したのである。

 三月一九日にはさらに、皇太后藤原詮子を通じ、ここで春日社への行幸を中止したら菅原道真の祟りがあるとして改めて行幸するように促した。そして、三月二三日の行幸が陰陽師の占いでダメだと出たのであれば、一日前倒しで三月二二日に行幸すればよいとまで言い出した。

 もはや何をしても春日社行幸を強行するつもりであると確信した円融法皇はここでついに断念。

 永延三(九八九)年三月二二日、一条天皇の春日社行幸が執り行われることとなった。

 ただ単に一条天皇一人が春日社に行幸するのではない。摂政藤原兼家をはじめとする主立った貴族がこぞって参加する一大イベントとなったのである。それは、一条天皇の行動を支持するためでなく、摂政藤原兼家と近づき出世へとつながるチャンスを求める者共の参加であった。ただし、参議藤原実資は参加していない。ここまで大々的に反対論を展開した以上、ここで参加するのは理屈が合わない。

 それに、藤原実資は藤原兼家に喧嘩を売ったのである。そして、藤原兼家に対抗する存在であることを背景に中央政界で生きていく宿命を背負ったのである。ここで藤原兼家に従うのは、自らのアイデンティティを壊すこととなるのだ。

 喧嘩を売った藤原実資のことを藤原兼家は快く思っていなかったらしく、「円融法皇に妥協して参議にしてやったのだ」「こんな人事をしては世間から恨みを買うだろうに」などと嫌味を言ったと藤原実資の日記「小右記」に残っているが、兼家の子である藤原道長は、父の政敵であり自分の政敵にもなる藤原実資のことを、敵であるが尊敬に値する人物でもあると評している。敵の存在を許すかどうかは政治家としての品格に直結する話なのだろう。

 さて、前年末に尾張国郡司百姓等解文が提出されたものの、藤原元命はそれからしばらく尾張国司のままであった。しかし、民意に敵と認識された存在がそのまま権力を握っていられるわけはない。一度その権力を否定されたら、その権力に効果はなくなるのだ。

 結果は、尾張国の無政府状態。誰も国司の命令を聞かず、郡司と百姓が独自に尾張国を運営する自体となったのである。当然ながら誰も税を納めない。それまでは圧倒的権力を握っていた徴税使も、税を徴収しに集落に足を踏み入れた瞬間に武装した集落の民衆の抵抗に遭い、命からがら国衙に逃げのびてくる自体になったのである。

 尾張国で着服し略奪しているという訴えについて、藤原元命は事実ではないと否定することができた。今のようにビデオカメラなど無い時代なのだから、遠く離れたところで何が起こっているのかをはっきりとした証拠付きで伝える手段は限られている。

 しかし、前年の解文以後、尾張国の統治を藤原元命ができずにいることは事実であった。

 永延三(九八九)年四月五日、尾張国司藤原元命を解任し、後任に藤原文信を任命するとの発表がなされた。

 実は、もっと早い段階で尾張国司の交代が予定されていた。そして、後任は藤原文信とすることも決まっていた。混乱している尾張国の国司については、国司未経験の者ではなく、充分な実績を持つ者を選ぶべきとするのが共通理解であったのだから、既に筑後国司としての経験を持っている藤原文信であれば問題なしとするのがこの時代の人たちの考えであった。

 それが四月五日という中途半端な日付になったのには理由がある。

 それは、四月一日に藤原文信が暴漢に襲われて頭にケガをしたからである。

 大和国金峰山に参詣することを「御嶽詣(みたけもうで)」と言い、この時代の貴族の多くがこのレジャーに参加していた。とは言え、日帰りできるような簡単なものではない。最低でも半月を要する大旅行である。と言うのも、山に登る前に一〇日間の潔斎(けっさい・身を清めること)をせねばならなかったからである。

 藤原文信がこの御嶽詣に参加した理由はわからない。しかし、永延三(九八九)年三月に京都を出発し、潔斎を済ませ、金峰山に参詣し、山を下りたのが四月一日であることは判明している。そして、その山を降りる途中に暴漢に襲われてケガをしたのだ。

 藤原文信が暴漢に襲われ、暴漢はそのまま逃亡したというニュースは四月四日には平安京に届いていたようである。同日の「小右記」にも、藤原文信が暴漢に襲われたこと、頭にケガをしたこと、藤原文信自身はまだ平安京に戻ってきていないこと、ケガはさほど重傷ではないことが記されている。ただし、この時点ではまだ噂話の域を出ていない。

 藤原文信が襲われたという事実が公表されたのは、藤原文信が尾張国司に任命された四月五日のことである。前日は噂話でしかなかった藤原文信襲撃事件について、小右記は断定口調で記している。

 そして、翌四月六日の小右記に、藤原文信襲撃事件の犯人の情報が記されている。

 犯人、安倍正国(あべのまさくに)。藤原文信を襲撃した後、大和国から伊賀国へ逃れたところで逮捕され、平安京へと連行されてきた。逮捕時か、それとも連行中かはわからないが、犯人は両手の指を切り落とされただけでなく脚を折られて身動きができなくなっていたという。

 犯人が藤原文信を襲撃した理由についてだが、藤原文信が筑後国司であった頃、藤原文信に両親と兄弟姉妹を殺されたことによる復讐としている。

 これは平安京の人たちを震撼させた。大騒ぎになっている尾張国の国司に新たに任命された者が、前任地で何をしてきたのか公表されたのである。一族皆殺しにするような統治者は温厚な統治者とは断じて言えない。そのような者が今まさに任命されて尾張国へ向かうのである。しかも、本人はまだ平安京に帰ってきていないのだ。

 四月七日、藤原文信が平安京へ帰京。二日前までは犯罪被害者として同情の目で見られていた藤原文信であるが、今となっては藤原文信のほうが犯罪者で、暴漢のほうが同情を集める存在になったのである。この空気を察知したのか、藤原文信は自邸に籠もって外出しようとはしなかった。

 藤原文信を襲撃した安倍正国の正体についてはわからない。ある日突然小右記に登場し、全ての指を切り落とされ、脚を折られたという記述を最後に資料から姿を消す。少なくとも役人であれば何の職務をこなすどのような地位の役人であるのか記されるから、そうした記録がない以上、安倍正国は無位無冠の一般庶民であるとするしかない。

 平安時代の地方官が、領国の一般庶民に対して残虐な仕打ちをすることは、頻繁にあることではないが複数の事例で存在している。

 残虐な仕打ちに至るまでのケースは二種類存在している。

 一つは、領国内の凶悪犯に対する対処。一族がみな集団強盗犯であるというケースはよく見られ、犯罪者を逮捕するときに犯罪者を殺してしまうというケースがある。平安時代に死刑はないが、犯罪者を逮捕するときに犯罪者を殺してしまうというケースは珍しくない。実際には戦争であっても、理論上は、平将門も藤原純友も、犯罪者を逮捕するときに捕縛できず死に至らしめてしまったということになっている。安倍正国が犯罪者であるとしたら、それも一族揃っての犯罪者であるとしたら、両親も、兄弟姉妹も殺されたとしてもおかしな話ではない。

 二つ目は、国衙の犯罪を見てしまった者への口封じ。藤原元命が訴えられたような内容は、藤原元命だけが例外というわけではなかった。収奪の限りを尽くす国司は数多く存在しており、そうした国司が統治する国では国衙の倉庫が空っぽになる。国衙に倉庫に忍ぶ込んだところコメ一粒すら残っていないのを目撃してしまった窃盗犯が逮捕されたとき、国衙の倉庫が空っぽである、すなわち、国司が国衙の資産を横領したという事実を秘密にするために、逮捕時に抵抗したので殺してしまったという名目で一族皆殺しにすることはあった。

 藤原文信が筑後国司であった頃に何をしたのかを伝える資料はない。しかし、二つだけはっきりしていることがある。一つは、筑後国司としての藤原文信は訴えられていないこと、もう一つは、尾張国司としての藤原文信は訴えられることなく任期を終えたということである。

 おそらくであるが、犯罪者に対しては断固たる措置を、それも残酷な措置をする国司であったのだろう。ただし、犯罪者でなければ平和を実感できる国司でもあった。

 摂政藤原兼家の時代となった瞬間に、役職がほとんど変わらないのに地位が下がった人がいる。太政大臣藤原頼忠である。

 太政大臣という職務は議政官に加わらない。議政官の決議に目を通し、天皇に上奏するか否かを決定する拒否権を持っているだけである。だが、その上に摂政藤原兼家がいる。大臣ではないが摂政であるという現実、そして、春日社に一条天皇を行幸させることに成功した実績を見ても、太政大臣としての自分にできることは何も無いと悟っていた。

 その悟りは藤原頼忠の無気力となって現れた。人臣最高位であると言われても何の影響力も発揮できないのである。地位はあっても実権はなく、発言をしても何の反響も呼び起こさない。しかも、太政大臣である自分がいなくても政務が回ってしまうのである。ひどい場合は、太政大臣がいるにも関わらず、議政官の決定が太政大臣を素通りして摂政藤原兼家の元に届き、摂政として決定を下してしまい決定となってしまう。

 これでは、太政大臣という人臣最高の地位が完全なお飾りになってしまったということである。

 それがいつのことなのかわからないが、藤原頼忠は宮中に姿を見せなくなった。そして、いつの間にか、誰の口からも太政大臣の名が挙がらなくなった。まるで太政大臣などこの世にいないかのように存在が抹殺されたのである。

 久しぶりに藤原頼忠の名前が挙がったのが永延三(九八九)年六月二六日のことである。この日、太政大臣藤原頼忠が亡くなったのだ。

 ただ、かつては関白まで勤め、現役の太政大臣であった人なのに、その死に関する記録があまりにも少ない。そして、死の与えたインパクトも乏しい。

 時代を失い退場してしまった者というのは、死ですら軽く扱われるということなのか。

 永延三(九八九)年八月八日、永祚に改元すると発表になった。改元の理由も太政大臣の死によるものとはなっていない。ハレー彗星が現れたことに恐懼し、彗星を凶兆とする当時の趨勢がわずか三年での改元を生んだのである。

 現在と違って彗星が定期的に出現する天体現象だという概念は無い。あるのは、彗星が空に見えると世の中に良くないことが起こるという概念である。

 そして、この概念が当たってしまうのである。

 永祚元(九八九)年八月一三日、京都を暴風雨が襲った。内裏の門や殿舎だけでなく平安京周辺の社寺や人家が倒壊し、平安京東岸の加茂川の堤防が決壊したのである。

 もともと平安京の都市計画は完成することなく放置されたままであった。そして、歴史とともに自然的な都市へと変貌していった。建築途中で放置されたため、既に住みよい環境になっていた平安京東部の左京に人が集中し、治水計画の途中で建設が止まった平安京西部の右京は放置されたまま。そして、右京は荒野となったのに左京には人口が集中している。

 平安京は左京のすぐ東に加茂川が流れている。左京に住みたいと願う人に左京の土地を提供するには、加茂川のすぐ近くの土地を開拓するしかない。実際、加茂川の土手を造成して住宅地として売りに出すことが見られた。

 その結果、本来なら堤防が決壊しても問題ないよう人家のない場所として無人の地としておく予定であった平地が住宅地となり、実際に決壊して被害を呼ぶこととなった。

 公共事業を税金の無駄と考える意識を実現させると、取り返しのつかない惨劇を招くことがある。それも数百年後の子孫に惨劇を見せることとなってしまう。

 一条天皇の祖父として摂政に就任している藤原兼家であるが、公的地位は摂政だけ。何度も記しているが大臣ではない。

 そして、摂政という地位は天皇が幼少である、あるいは病気やケガで天皇としての政務を執れないときに置かれる職務であり、天皇が元服すると、よほどの例外でもない限り摂政職は解除される。円融天皇の元服のときに藤原伊尹が摂政を解かれることなく、死を迎えるまで摂政であり続けたという例があるが、それがいわゆる「よほどの例外」であって、普通は、元服と同時に摂政はその職を解かれる。

 そして代わりに置かれるのが関白であるが、摂政と関白の違いについて何度も記してきた通り、関白はあくまでも天皇の相談役であり最終決定権はない。

 摂政として政務を司ってきた藤原兼家が、現在と同じ権限を一条天皇元服後も維持するとしたらどうすべきか。

 その答えが永祚元(九八九)年一二月二〇日の摂政藤原兼家の行動である。

 この日、摂政藤原兼家は、自分で自分を太政大臣に任命したのだ。これで、藤原兼家は摂政太政大臣となり、人臣最高位の地位を手にしたこととなる。

 そして年が明けた永祚二(九九〇)年一月五日、いまだ一〇歳になっていない一条天皇を強引に元服させ、自分を関白太政大臣にさせる準備を整えた。しかも、元服の儀において加冠したのが藤原兼家自身である。

 順当に行くと、一条天皇の命令により、藤原兼家を摂政から解任し、改めて関白に任命すべきところである。

 ところが、なかなかその動きが起きなかった。一条天皇が元服したことで摂政である資格を喪失したにも関わらず、藤原兼家が摂政職を手放そうとしなかったのである。兄の藤原伊尹がしたのと同じように、「よほどの例外」を続けたのだ。

 この「よほどの例外」を続けると同時に藤原兼家が執着したこと、それは、自らの血統の継続である。その継続の第一候補として考えていたのが、藤原兼家の長子で、この時点で内大臣にまで登り詰めている藤原道隆であった。永祚二(九九〇)年一月二五日、藤原道隆の長女である藤原定子を一三歳の若さで一条天皇のもとに入内させ、自らが天皇の祖父として権力を掴んだように、藤原道隆も天皇の祖父として権力を掴めるようレールを敷いたのだ。なお、清少納言はこのときまだ藤原定子と接点を持っておらず、清少納言が宮中に招かれるのはこれより四年後の正暦四(九九三)年頃であると考えられている。

 長男の藤原道隆が内大臣でありその娘が一条天皇のもとに入内、次男の藤原道兼が正二位権大納言、さらに末っ子の藤原道長が正三位の権中納言と順調に出世階段を昇っており、自分の死後のレールが盤石であることを確認した藤原兼家は、自らの引退を踏まえた行動をとるようになる。

 天皇が元服をしたにも関わらず摂政がいるという「よほどの例外」の異常事態が四ヶ月間続き、その間に引退と出家を考えて準備を整え、全てが盤石であることを見届けた後になってやっと、藤原兼家は摂政でなくなった。

 永祚二(九九〇)年五月五日、藤原兼家の摂政太政大臣を停め、関白とすると発表された。

 この発表に多くの人が驚いた。摂政から関白になるのは既定路線であるから問題ないとしても、摂政と同時に太政大臣まで辞めてしまったのである。結果として、太政大臣職は空位になってしまった。人臣最高位は左大臣源雅信、第二位は右大臣藤原為光。藤原道兼は、権威はあるが権力はない関白専任になったのである。

 その意味を世間の人が理解したのは、永祚二(九九〇)年五月八日のこと。この日、関白藤原兼家が出家したと発表になったのである。そして、「強い希望」として内大臣藤原道隆を後任の関白とするよう推薦し、一条天皇は祖父の推薦を聞き入れて内大臣藤原道隆を関白に任命した。

 藤原兼家の真意はこのときに理解できた。息子を関白太政大臣にするつもりなのだ。左大臣でも右大臣でもない、内大臣が兼任している関白というのは地位を不明瞭なものにさせる。しかし、左右の大臣を飛び越えて太政大臣に就任すれば問題は無くなるのだ。

 息子の関白就任を見届けた藤原兼家は、永祚二(九九〇)年五月一〇日、二条京極第を法興院と改称し、転居。

 あとは、関白藤原道隆を内大臣から太政大臣に引き上げることを待つだけであった。ところが、このタイミングで思わぬ所から横やりが入ったのである。それは、藤原兼家自身が「麻呂の左右の目」とまで評価した藤原在国である。藤原在国は、藤原道隆が藤原兼家の後継者として相応しい力量を持っていないとし、藤原道兼を後継者とすべきと主張したのである。

 そして、この発言を聞いた藤原兼家自身が、藤原在国が反対を受けて息子の太政大臣就任に慎重になってしまったのだ。

 もうすぐ関白太政大臣に就任できると考えていた内大臣藤原道隆は、思わぬところからの思わぬ横やりに当惑し、もう一つの「麻呂の左右の目」である平惟仲に相談。

 この結果、藤原在国の想像を超える決断が下された。

 永祚二(九九〇)年五月二六日、関白内大臣藤原道隆を摂政とするとの発表がなされたのである。天皇の元服で摂政が関白になることはある。だが、元服を迎えた天皇が関白を摂政に配置し直すというのは異例な事態とするしかない。

 自らの死後の安定を確信していた藤原兼家にとっては、側近と後継者の対立という、予想だにしなかった光景が最後の光景になってしまった。いや、最期の光景になってしまった。

 永祚二(九九〇)年七月二日、藤原兼家死去。全て問題ないとした状態で引退後の余生を過ごすつもりであったのに、引退後に待っていたのは心労を招く騒動、そして、自らの死であった。

 二〇年間の戦乱無き混迷は藤原兼家の死で終焉を迎え、日本国は源氏物語の時代へと突入することとなる。


- 戦乱無き混迷 完 -