源氏物語の時代 4.藤原道長政権始動
長徳五(九九九)年一月一日時点の議政官構成は、藤原氏一二名、源氏二名、平氏一名という極端な藤原独占ではあったが、総勢一五名という少ない陣容でもあった。これが前年の伝染病の影響の結果である。貴族が次々と亡くなり、その穴を道長が放置していたためである。
それも、怠慢による放置ではなく、意図的な放置であった。
そもそもこれまで人員が多すぎたのである。次から次へと位階を上げていったせいで高位の貴族が続出し、位階に合わせた役職を用意すべく、律令に定められていない権大納言や権中納言といった役職を創設してその役職に高位の貴族を任命したため、異様なまでに議政官の人数が膨れ上がってしまったのである。
道長はこの状況を正そうとしたのだ。
まず、誰もが認める人臣最高位の藤原道長でさえ正二位左大臣である。かつてのように従一位や正二位が続出して、本来なら大臣に就けるはずの位階の人がそれより下の官職に甘んじなければならないということはなくなった。
トップの藤原道長ですら正二位なのだから、それより下の貴族はそれより低い位階に留まるしかなくなる。実際、右大臣の藤原顕光で従二位、内大臣藤原公季が正三位である。内大臣藤原公季は一月七日に内大臣としての功績を評価されて従二位に昇格するが、正二位でも大臣になれなかった時代と違い、二位の者が大臣に就くという慣例が成立したのだ。
さらに道長の整理は権大納言と権中納言におよぶ。人数の上限が決まっている職務である大納言や中納言を補佐するために大納言や中納言に匹敵する特別職として誕生した権大納言や権中納言であるが、人数の上限を明確にしていなかったために位階の高い貴族が次々に任命されるようになってしまっていた。
道長はこの削減を実行した。
長徳五(九九九)年一月一日時点で権大納言は藤原懐忠ただ一人。それも民部卿を兼任しているために特別に権大納言に任命しているということが明言されての権大納言であった。
そして、権中納言に至っては、ゼロ。誰一人として権中納言に任命されていないのである。
伝染病というやむにやまれぬ事態を迎えた後、誕生した空席を埋めることなく放置したことは、財政面から見ても理解できる判断であった。
貴族というのは国家公務員である。国のために働く者であるという前提があるために、給与は国庫から支払われる。
貴族の給与は二階建てになっていて、位階に基づく給与と役職に基づく給与からなっている。正二位左大臣藤原道長は、正二位としての給与と、左大臣としての給与の両方を貰っているわけである。
空席ができたということは、その空席分の人件費が浮いたということである。空席を埋めるべく誰かを新たな役職に任命し位階を上げれば、その分の人件費負担が増えることとなるが、放置しておけば人件費の削減になる。
現在でも財政問題を解決するために権力側にも痛みを求める考えがある。議員の定数削減や公務員の給与削減を求める声がそれであるが、道長という人もその考えに賛同する人なのであろう。
何より道長自身の位階も役職も低い。人臣の最高権者でありながら正二位左大臣である。より上の位階にも、より上の役職にも、このときの道長の権力であれば誰にもジャマされることなく就けるであろう。にも関わらずそれをしないでいるのは、左大臣という議政官を操作できる職務にあることで政務をスムーズに遂行できるというメリットに加え、それが財政問題解決への一筋になるのではないかという思いもあったのではないであろうか。
無論、不満はあったろう。
ついこの前、藤原道隆の頃であれば、今よりも高い位階、今よりも上の役職、すなわち今よりたくさんの給与を貰える身になっていたはずなのである。それなのに、道長は位階や役職を上げることをほとんどしないでいる。空席ができたから次は自分がその地位だと思っていたのに、空席はそのまま放置され、空席が空席のままであることが事実化され、気がつくとそのポスト自体が無くなっている。
これで不満に思わないとしたらそのほうがおかしい。だが、このときの日本に、反藤原道長と呼べる派閥そのものが存在していなかった。強いて挙げれば、源氏や、藤原伊周が藤原道長の派閥ではない者ということになるが、道長自身が源氏の者を妻としている上に、藤原伊周の弟の隆家を抜擢しているとなると、反道長勢力そのものが考えられなくなる。
不満の声は、一人一人の心の内にある状態では何も起こらない。何かが起こるのは不満をまとめ上げる存在が確立されたときである。
そうして見ると、不満の声を心の内に強引にとどめさせることに成功した藤原道長という政治家は、全世界の政治家が望みながら手にできずにいたことを実現させた政治家であると言える。
長徳五(九九九)年一月一三日、長保に改元。
このタイミングでの改元の理由であるが、伝染病の流行の沈静化を目的とするものであり、このときの改元自体は当時の感覚からすれば珍しい話ではない。
その代わり、改元の様子の一部始終が残っているという珍しさならある。なぜなら、改元に関する最高責任者が藤原行成であり、藤原行成自身が日記である『権記』にこのときの改元の様子を記録してくれているのである。
まず、改元の発案者は藤原道長である。改元というのは天皇のみが行なうことの許されるものであるが、人臣の最高権者からの強い要請により改元すること自体は、普通にあった。もっとも、このときは一条天皇自身も改元を考えていたようで、改元自体すること自体はスムーズに決まった。
ただし、改元というのはいつの時代もそうであるが、天皇や、人臣の最高権者自身がどのような元号にするかを考えることは少なく、時代の有識者たちが集まって、四書五経の中から縁起のいい二文字を選ぶのが普通である。いくつかの候補を挙げて天皇に選んでもらうこともあれば、一つだけ候補を挙げることもあるが、そのどちらにおいても、有識者たちの上奏した元号候補に手を加えられることはなく、元号候補がそのまま元号になる。
このときの藤原道長からは、二つのリクエストが挙がっていた。一つは、改元を一月中に行なうこと。そして二つ目は、吉日に改元することである。陰陽道が日常に密着していたいたこの時代、どの日が吉日で、どの日が凶日であるかというのは現在以上に重要な要素であった。
やっかいだったのは、道長が改元の要請をした一月一三日がまさにその吉日だったのである。しかも、次の吉日となると月が変わってしまう。
改元の責任者になった藤原行成は慌てた。今日中に改元の草案をまとめ、上奏しなければならないのである。しかも、このような改元のときの実務の中心を担う大内記の紀斉名(きのただな)が不在だったのだ。吉日に合わせるように山寺に登っており不在だというのである。吉日に合わせて寺社に参詣することは珍しくなかったから行動自体はおかしなことではなかったが、タイミングが悪すぎた。
結局、異例ではあるが先例もあるとして、外記(げき)の慶滋為政(よししげのためまさ)の補佐を受けた上で、左大弁藤原忠輔が詔を起草し、上奏し、その日のうちに長保に改元すると公表された。
藤原行成はこの日かなり慌てたことであろう。
それでも無事に、長保への改元は無事に成功した。
それにしてもなぜ道長は一月中の改元を迫ったのであろうか。
明確な記録として残っているわけではないが、推測は容易である。
毎年一月というのは人事の発表がなされる月である。そしてピークはだいたい一月一七日頃と決まっている。ところが、長保元(九九九)年という年はこれといった人事の発表がなかったのだ。そもそもの政策として貴族の昇進や昇格を抑えていたのだから、人事発表も必要最小限にくい止められてしまう。
こうなるとまたも出世から遠ざけられた貴族たちの道長への不満はさらに募ることとなる。反道長派という概念を作り出さないことで反対派を抑えることに成功していた藤原道長であるが、永遠に抑えられ続けられるわけなどないと考えてもいた。つまり、このタイミングで何らかのアクションが必要であった。
そのためのアクションが改元であった。
改元を行なうことで、それも、一月の吉日に行なうという名目で、改元を命じたその日に改元するという緊急事態を展開することで、多くの人の注意を外に向けることに成功したのである。
わずか四日前の慌ただしさ。そして、日本中に祝福を与える改元という一大イベントの挙行。
これは人事発表を忘れさせるのに充分なインパクトのある出来事であった。
その上、道長は細かな配慮を見せてもいる。
上流貴族はまだいい。抑えられているとは言え、三位で参議以上という位階と役職なら納得できる。問題はそれより地位の低い貴族である。彼らは数が多いだけでなく、その多くは役人としての実績を積み上げたことで貴族の仲間入りを果たしたベテランたちであり、上流貴族の子弟であるというだけで権力を掴めた者とは違いという自負がある。つまり自分の実力に自信を持っている。
このような者を正当に評価しないと、優秀な人材を失ってしまうだけでなく、優秀な人材を敵に回してしまう。平将門にしろ、藤原純友にしろ、貴族社会を夢見ながら途中で挫折した結果の反乱であったのだ。ここで対応を誤るとあの悲劇を繰り返してしまう。
このようなとき、実に便利な方法があった。その方法は、不満を持つ者を満足させるのみならず、反感を忠誠心に変え、それでいて京都から遠ざけることにも成功するという一石二鳥どころでは済まない優れた方法である。
それは何か?
国司に任命するのだ。
道長は、上流貴族の人事は止めていたが、下流貴族の人事は頻繁にシャッフルさせている。そして、数多くの貴族が人生初の国司の座を取得している。
新たに貴族になった者たちにとって、国司というのは自らの念願を叶える第一歩であった。
まず、国司経験の有無は今後の宮廷生活で大きな意味を持つ。よほどの有力者の子弟でもない限り、どこの国司の経験をすることもないで出世するなどできない。何しろ、国司として任国をどう統治していたかがその人の評価の第一歩なのだ。
国司として評判の高い実績を残せば中央で幅を利かせることができる。さらに、国司としての勤務実績次第で中央の有力貴族から一本釣りされることだってある。優秀な国司を自らの手足とすべくスカウトすることは有力貴族の間ではごく普通のことであった。
それに、国司というのは実に儲かる仕事である。国司を一期つとめあげれば一生分の財産が築けるとまで言われていたほどである。
さらにうまくいけば、領国内の荘園を手にできる。もともと他の人の荘園であったところであるが、荘園の持ち主の権勢が落ちてしまったために荘園でありながら税を課されてしまうところが登場していた。こうした荘園を国司として買い取ることに成功すれば、初期投資費用こそかさむものの、それから先は安定収入を獲得し続けられるのである。
そして、領国内の武士と個人的なコネクションを築くこともできる。武士としてその地方の有力者である者も、中央で名を馳せることは夢見るものである。何しろ、武士団のトップの多くは名門貴族の子孫。運命が少し変わるだけで中央で貴族の一員に加わることだってできなくはない。一方、現在と比べものにならない治安の悪さであるこの時代において、武士をボディーガードとすることができれば、治安のかなり悪い場所であっても自らの安全を確保できる。武士と国司とのつながりは、国司にとっては安全を、武士にとっては中央とのつながりを期待できることであったのだ。
さらに言えば、領国内の武士を傘下におさめることに成功すれば、自分と同等の権力しか持たない者の荘園に税を課すことだってできるようになる。国司にとって、自分より立場の強い者の荘園は絶対に手出しできない神聖不可侵な存在であったが、自分と同等の者の荘園なら遠慮なく税を課すことができる。とは言え、税を課せられた側だって黙ってはいない。今まで通りの免税を当然ながら要求する。こうなると徴税のためには実力行使が必要となるのだが、武士が国司のもとについたとなると、実力行使をジャマする者がいなくなるのだ。そして、それらの荘園から獲得した税は自らの資産となり、国司に仕える地方公務員となった武士の給与となるのである。
地位の低い貴族にとって、国司はとにかくメリットのある職務である。とは言え、全国で六六ヶ国しかない以上、国司の職務に就けるのはどんなに多く見積もっても二桁に留まる。一部の国には「守」と「介」の二人の国司がいることをふまえても、三桁に達することは考えられない。
おかげで、国司の空きができたとなると、多くの貴族が自己推薦文を持って宮中に殺到することとなる。その中にはかつて国司をつとめた経験のある者も多くいる。
道長にとって、こうした貴族たちに具合良く国司の職務を割り振ることは、自らの忠臣を作り出す絶好の手段であると同時に、喧しい者を京都から遠ざける都合良い手段でもあったのだ。
藤原彰子が大人の女性になったのは、長保元(九九九)年二月九日のことである。
大人の女性になった以上、大人でなければ許されないことを藤原彰子に対して行なったとしても、倫理上はともかく論理上はおかしくない。
無論、第二次性徴を迎えて大人になったということではなく、形式的なことである。男児であれば元服を迎えれば大人と扱われることとなるが、女児の場合は元服ではなく「裳着(もぎ)」という。裳着とは女児にはじめて、十二単を構成する衣服の一つである「裳(も)」を着せる儀式のことであり、一般的に一二歳から一六歳ぐらいの女子が受ける儀式であるから、このとき一二歳である藤原彰子が裳着の儀式を受けてもおかしな話ではない。
おかしな話ではないが、かなり急いでの裳着であることは間違いない。
父である藤原道長がどうして急いでいるのか誰もが理解していた。
その理解が正しいことは翌々日である二月一一日に明白になった。
藤原彰子が従三位に叙されたのである。入内する女性が入内前に位階を与えられることはおかしな話ではない。実際、藤原元子も藤原義子も位階を得てから入内している。ただし、彼女たちに与えられた位階は正五位下。従三位に叙された藤原彰子とは大違いである。
この一点だけでも藤原彰子の入内は特別極まりないこととして扱われることが決定されていたことがわかる。
それがわかるのは現代人に限らず、当時の人も同じであった。
時代は藤原道長のもとにある。そして、藤原道長の娘である藤原彰子が間もなく、一条天皇のもとに嫁ぐ。
これは運を掴めずにいる貴族達にとってまたとない機会であった。
入内することが決まっている藤原彰子に近づけば、藤原道長とも、さらにうまく話を進めることができれば次期天皇とも強いコネクションを作り出せるのだ。
当然ながら数多くの貴族が土御門殿に殺到する。ある者は物品を届け、またある者は優秀な者を教育係として推薦する。図々しい者になると自分自身を教育係として推薦してくる。
ところが、ここで話が止まるのだ。
本来ならただちに入内すべきところなのに、実に九ヶ月に渡って藤原彰子の入内の話が止まるのである。
長保元(九九九)年三月七日、駿河国から富士山が噴火したとの連絡が届いた。
ここに不可解な状況が存在している。
富士山が噴火したという記録が駿河国から届いたので、この噴火がこれから起こる大災害の凶兆ではないかと神祇官や陰陽寮に占わせたという史料はあるのだが、肝心の噴火の被害状況を伝える史料がないのだ。いや、何月何日に噴火をしたのかを伝える史料すらなく、三月七日に駿河国から情報が届いたことしか記されていないのだ。
その情報を聞いていたはずの藤原道長は三月七日の日記に富士山噴火のことなど何も記していない。御堂関白記のこの日の記事に記されているのは、内裏に出勤したことと、太宰府から献上された品を一条天皇が拝謁したことだけである。
もっとも、そもそも藤原道長の日記にニュースを求めることが間違っているとも言える。藤原道長が日記を残したのは自分の後継者の参考となるように考えてのことであって、「その日に何があったか」ではなく「このようなときにどうすべきか」というマニュアルを残したつもりであったのだ。それも、予期せぬ事態にどのように対処したかではなく、予期できる事態に前もってどのように対応すべきかを記していたのだ。
富士山噴火などのように予期などできるわけない事態については、そもそも最初から日記に記すべき内容でないと判断したとしか思えないのである。
いかに日記に記していないと言っても、藤原道長がこのときの富士山噴火に対して何もせずに放置していたとは思えない。ただ、納得いく対応ができなかったこと、それも初動の遅れから来る災害対策の遅れを痛感したのではないかと考えられるのである。
それは、三月一六日、藤原道長に対して再び内覧の権利が与えられたことから読み取れる。誰よりも早く情報に接することのできる内覧がいなかったことで対策が遅れたことに対する反省から、道長の内覧が復活したのではないかと推測されるのである。
道長が内覧に復活したことで道長のもとに最新の情報が集約されることになった。そのため、この頃の御堂関白記には手にした情報をいかに処理すべきかが記されている。どこでどのような行事があるか、どの貴族が物忌みで宮中に不在であるかが記されているのだが、これらは情報を誰よりも先に手にできるようになったから可能になった話であり、情報を先に手に入れた人臣最高位者の行動すべきことをまとめたマニュアルとして成立している。その一方で、予期せぬ出来事に対して並行で遂行していることについては相変わらず記されていない。予期せぬことの記載と言えばせいぜい雨が降った程度ぐらいである。
とは言え、予期せぬことに対処はしているのだ。
長保元(九九九)年六月一四日、内裏が焼け落ちた。またである。
被災状況がどれほどのものであるかの記録もまた残っていないが、一条天皇が大内裏を出て、一条院を仮の住まいとしたほどであるから、かなりの損傷であったことが推測できる。ちなみに、現在でこそ一条天皇という名で呼ばれているが、この呼び名は明治時代に定められた呼び名であり、それまでの歴史書には「一条院」と記されている。
一条院というのはかなり特殊な場所である。まず、目と鼻の先が大内裏である。道路一本挟めばそこはもう大内裏なのだ。さらに、一条院という建物自体が、一条天皇退位後の上皇としての住まいになることを想定して建設された建物である。その退位後の建物に在位中に移り住んだこととなる。
ちなみに、藤原道長の住まいである土御門殿は、平安京の一等地の一画ではあるが平安京の区画で言うと東の外れであり内裏からかなり距離がある。
藤原氏の本拠地として認識されている東三条院が当時の高級住宅地のまっただ中にあったのに比べ、一条院も、土御門殿も、高級住宅地の一部ではあるが中心部ではない。政務遂行にあたって最小限の存在に留まるよう対策を打って出ているのである。
富士山の噴火に加え内裏の火災と天災の重なったことに憂慮した一条天皇は、長保元(九九九)年七月一一日、神仏への信仰を通じた社会不安の沈静化を図り、神仏への信仰と、贅沢禁止を主軸とする命令を発する。
その後、一条天皇の発した命令は議政官で推敲に推敲が重ねられる。
信仰の問題は特に構わない。寺社に出向く行為そのものが観光として経済を活性化させ、景気を向上させる。また、一部の貴族に限ることなく多くの庶民を動員できれば社会不安を抑える役にも立つ。本音は観光であっても、名目が寺社への信仰となると誰も非難するわけがない。
問題は倹約である。贅沢を切り詰めることで支出を抑えさせることを、一条天皇は狙っているのだ。スタートは社会不安を抑えるためであるのに、贅沢を禁止するとなると余計に社会不安を増大させてしまうのだ。
七月二一日、議政官で草案がまとまる。
七月二七日、正式に一一ヵ条が発表された。寺社を敬うこと。寺社の者は戒律を守ること。寺社の破損があった場合はただちに修理すること。ここまでは信仰の確認として問題ない。
問題はその次。まず、贅沢な服装を禁止し、次いで六位以下の者の牛車の使用と、贅沢品と認定された物品の所有を禁止している。
この禁令に対する庶民感情については容易に推測できる。この翌年、禁令が守られていないとして検非違使に取り締まりを強めるよう命じている。つまり、庶民がそもそも禁令を守っていなかったということがわかるのある。いつの時代もそうであるが、上に政策あれば下に対策あり。
長保元(九九九)年九月、淡路国から在地の者が大挙して押し寄せるという事態が起こった。目的はただ一つ。淡路国司である讃岐扶範(さぬきのすけのり)の不法な統治を訴えるためである。
国司人事を人心掌握に利用している道長にとって、国司の不祥事は許されることではなかった。当然のことながら議政官でこの議題が取り上げられ、ただちに讃岐扶範の召還が決まった。
ところが事態はさらに悪化する。淡路の庶民から提出された解文の信憑性は疑いようがなく、国司召還ではなく解任へと動き始めた。とは言え不祥事による解任である。後任の者の人選には当然ながら慎重を要する。
先にも述べたが、平安時代の貴族達はなにも毎日飲んで騒いでいただけの暮らしをしていたわけではない。国政に関する問題があれば休みどことか睡眠も許されることなく業務に当たらねばならない。現在のサラリーマンなら特に何とも思わない労働条件だと感じるかも知れないが、平安時代の一般庶民の労働時間は長い者でも一日六時間、通常は一日四時間ほどである。このような時代背景において一日一二時間以上の勤務が当たり前であるどころか、職場である宮中に泊まり込むことも珍しくないというのは、例外中の例外としてよい過酷な勤労状況である。しかも、道長の政策によって上位貴族の人数が減らされている。貴族の高い給与も、日々の業務量と時間の不自由さに対する負担であると主張されると黙り込むしかなかったのである。もっとも、現在のサラリーマンからするとフザケルナとなる話であるが。
国司の変更という重要問題についての議論は簡単に収まるものではなかった。議論が決着を見たのは現在の時刻に直すと夜中の三時である。この長い議論の結果、前任の淡路国司であった平久佐(たいらのひさすけ)を再び淡路国司に就任させることが決定。
九月二四日、淡路国司讃岐扶範の解任と、平久佐の淡路国司復帰が公表されたが、そのことを伝える議政官の面々の誰もが、化粧で隠された下の素顔を疲れ果てたものにしていた。
長保元(九九九)年一一月一日、藤原道長が以前より計画していながらできずにいたことが、ついに実現した。
娘の藤原彰子が入内したのである。裳着を済ませ、位階まで受けておきながら、九ヶ月という長きに渡って放置されていた藤原彰子がついに入内した。
このときわずか一二歳。いかに裳着を済ませたとは言え、また、いかに現在より若い年齢で大人扱いされる時代とは言え、未だ初潮を迎えてもいないであろう年齢の少女を嫁に出すというのは異例なこととするしかない。
だが、道長にしてみれば、たとえ異例なことであろうと何らかの対策を打って出る必要があったのだ。
この頃既に、中宮定子が第二子を妊娠し間もなく出産しようかという時期にあったのである。
一度は出家をした中宮定子であったが、一条天皇にとっての最愛の女性であることに変わりはなかった。還俗させられ、また以前のように中宮へと戻っていたのである。そして公表された妊娠。前回の出産は女の子の出産であったから皇統問題に関わる問題ではなかったが、今回の出産が男の子の出産となると、ダイレクトに皇統問題に関わる。一条天皇と中宮定子との間に産まれた子が皇位継承権筆頭となってしまうのだ。
一条天皇には他にも后がいるではないか、藤原義子や藤原元子だって入内したではないかと考えるかも知れないが、実はこの二人の女性とも出産どころか妊娠の兆候すら見せずにいた。つまり、この時点での、一条天皇の子は、皇位継承者としてカウントされていない女の子が一人、そして、中宮定子のお腹の中の子の一人の計二人しかいないのだ。
自己の栄達という本音を隠したとしても、皇統の連続を考えるとこれでは心許ないとするしかない。当時の幼児死亡率は現在の比較にならない高さなのだ。
この状況で、お腹の中の子をカウントしたとしても子供が二人しかおらず、しかもその子が当時の人臣最高位者たる藤原道長と血筋の遠い、つまり、何かあったとしても藤原道長が摂政となることのできない子しかいないというのは政治の混乱を生む元になる。繰り返すが、摂政に就けるのは天皇の近親者であり、人臣最高位者であるかどうかなど何ら考慮されないのである。
当然のことながら、藤原彰子の入内は、この時代の貴族たちにとって絶好のチャンスであった。ここで藤原彰子と、より正確に言えば藤原道長の娘と接近することで、自己の栄達へとつながるのである。
おかげで入内は一人の女性が内裏に入るというだけのイベントではなく、まだ一二歳の少女がこの時代の主な貴族を引き連れて内裏に入るという異様な光景になった。長保元(九九九)年一一月一日時点での参議以上の貴族は一六名、そのうち一一名が藤原彰子に付き従ったというのだから、これを微笑ましい光景だなどと考える者などいないであろう。
この光景に嫌気をさした一人が藤原実資。『小右記』には藤原彰子に付き従った貴族達の名を下の名前の呼び捨てで記しているだけでなく「こんなムチャクチャな時代の貴族なんかそこらの凡人と一緒だ」とまで苦言を述べている。もっとも、こんなことを書かれた道長であっても、それでいて藤原実資を罰すようなことはしていない。道長という人は、絶対的な権力を持った人間ではあるが、自分への批判を許す人間でもあるのだ。
藤原実資とは逆に、率先して藤原彰子に付き従った一人が実資とは従兄弟同士の関係に当たる藤原公任である。かつて藤原道長のほうが比べられる側であったのに、今となっては藤原道長政権を支える参議の一人であり、検非違使別当を兼任する身にもなっていた。ゆえに、検非違使を率いて入内の儀式に加わるのは本人の意思に関わらずこなさねばならない職務であったのだが、藤原公任はこなさねばならない量を超えた歓待を見せたのだ。
藤原公任自身は行列に加わらなかった。その代わり、藤原彰子の新たな住まいとなる飛香舎の内装を完璧に整えたのだ。部屋の中の道具一式は当時の最高級品でまとめ上げられ、当時の女性たちの憧れの的であった品々であふれかえる部屋は、宮中の全ての女性の羨望を集めた。普通に考えればここまで整えるとやっかみも買うものであるが、あの藤原道長の実の娘となると、嫉妬を現した瞬間に自分の運命が消えてしまうので、どんなに思っていても表現するわけがない。
まるで自分が藤原彰子の後見人であるかのような振る舞いであった藤原公任であったが、ただ一つだけ、その藤原公任にもどうにもできなかった品があった。
屏風である。
屏風そのものかは現存していないが、記録によると、飛鳥部常則という名のその時代最高の画家の描いた絵が記されていたという。これだけであれば部屋に絵画を飾る現在と何ら変わらないが、現在と大違いなのは、絵に加え和歌が記されていたこと。和歌そのものを屏風に書いたのは藤原行成であるが、それらの和歌は藤原行成自身が詠んだ和歌ではなく、藤原行成がこの時代最高の能筆家として名を馳せていたからである。
では誰が和歌を詠んだのか。藤原実資によれば、入内の直前と言っても良い一〇月二八日に貴族たちに対して、「これから入内する藤原彰子のために和歌を献上しても良い」との知らせが飛んだという。
時代を握る左大臣からの「~してもよい」という言葉であるが、自分の詠んだ和歌が藤原彰子の部屋を彩る屏風に、それも時代最高の能筆家である藤原行成の手によって清書されるとあって、多くの貴族たちが率先して和歌を記し提出したのだ。
このときに和歌を提出した貴族として、藤原道綱、藤原懐平、藤原公任、藤原斉信、源俊賢、藤原高遠といった貴族たちの名が残っている。
これらの貴族の名を日記に残した藤原実資は「後代已失面目(これからずっと語り継がれる恥さらし)」とまで批判しているが、彼らは必死だったのだ。
必死だったのは道長に近づこうとした貴族たちだけではない。藤原道長自身も必死だった。後世に記された「栄花物語」によれば合計五〇名の女性が藤原彰子の身の回りの世話をし、教育係として周囲に侍ることとなった。いずれも道長自身がスカウトしたこの時代トップクラスの女性たちである。そして、その中に土御門殿で藤原彰子とともに過ごしてきた女性はいなかった。宮中に入るにあたって、藤原彰子の周囲に侍る人たちをゼロから再構築させたのである。
道長にとって、土御門殿にいる面々はこれから宮中に入ろうとする女性を育成するための面々であり、実際に宮中に入ってから活躍することを想定した面々ではなかった。
これは藤原彰子にとって、最高の面々と最高の品々、さらに言えば最高の衣服に囲まれた暮らしが始まることを意味するものであるが、これまでの生活の全てを切り捨てて新たな生活を始めなければならないことを意味するものであった。
藤原氏をはじめとする当時の上級貴族たちは非情に狭い世界に住んでいる。だから、かなりの可能性で顔なじみの人たちではある。顔なじみの人たちではあるが、生まれ育った住まいを離れ、顔は知っているという程度の人たちに囲まれてこれから暮らさなければならないのである。
藤原彰子は一条天皇と従兄妹関係にある。おそらくお互い何度か顔を合わせたことぐらいはあるであろう。だが、「これから夫婦になるのだ」となると関係が怪しくなる。それでも藤原彰子はまだいい。自分が一条天皇の后になるとずっと聞かされ続けてきたのである。さすがにこの若さで嫁に行くことになるとは思わなかったであろうが、やがていつか訪れる自分の運命が来たので受け入れただけであった。
問題は一条天皇のほうであった。藤原道長が自分の娘を自分に嫁がせようとしていることは知っている。だが、まさかこの若さで嫁いでくるとは思ってもみなかったのだ。
ただでさえ一条天皇は中宮定子という年上の女性に包まれる恋愛をこれまでずっとしてきたのである。その一条天皇がいきなり、現在の学齢で言うと小学六年生にしかならない少女と結婚すると決まり、平然としていられるであろうか。
一条天皇にとって、嫁いできた藤原彰子は、嫁というより妹のような存在になった。
それでも、一条天皇は何とか藤原彰子の関心を引こうとしたのである。一条天皇の趣味の一つである横笛を吹いて見せようとしたこともある。
もっとも、「栄花物語」によれば、一条天皇が「笛をご覧なさい」と優しく声を掛けたところ、藤原彰子は「笛は音色を聴くものです。見てどうするの?」と返したという。
この会話の様子を耳にした藤原道長は、我が娘の教育係を見直さなければならないと考えるようになった。
この時点ではまだ紫式部が藤原彰子のもとに仕えてはいない。だが、この時点で既に、道長は紫式部のことをピックアップしていたのではないかと考えられる。
長保元(九九九)年一一月七日、藤原彰子の入内で持ちきりであった宮中の話題を一変させる出来事が起こった。
中宮定子が中宮大進平生昌邸において出産したのだ。
道長にとっての最高の結末は、中宮定子の産んだ子が女の子であり、入内させた我が娘が男の子を産むことである。そうすれば、道長は、より正確に言えば道長政権は現在の安定を続けることができるのだ。
結論から言うと、最高の結末を迎えることはなかった。中宮定子はこの日、男の子を産んだのである。敦康親王である。皇太子になったわけではないが、皇位継承権筆頭者の誕生であった。
この敦康親王の誕生に狂喜乱舞した者が一人いる。
この時点で無位無冠である藤原伊周である。太宰府から戻ってきたものの何の役職にありつくこともできず、気がつけば弟の隆家が道長の側近の一人となっている。中宮定子の命運も藤原彰子の入内により終わったと考えていたところに届いた甥の誕生の知らせに、これで命運が復活したと考えたのだ。
ところが、藤原伊周は相変わらず無位無冠のままだった。
あらゆるツテを頼って、皇位継承権筆頭の皇子の伯父としての地位を求めるようになったのだが、その全てのツテが完全に無視されるようになっていた。中には一条天皇のもとに届いたこともあったが、一条天皇が激怒して地位復帰の願いを記した書状が握りつぶされたという。
藤原彰子の入内、皇子の誕生、そして再び脚光を浴びるようになった藤原伊周の話題で持ちきりとなっていた中、一人の女性が命を落としたというニュースが届いた。
一二月一日、太皇太后昌子内親王崩御。
それまで、太皇太后、皇太后、皇后といるために中宮という地位に就いていた中宮定子であるが、空席の誕生によりより上の地位に昇ることが可能になった。それはすなわち、入内した藤原彰子を中宮にすることが可能になることを意味した。
一条天皇の后の処遇や出産は国の重要な問題であるが、当然のことながら、それだけが国政の重要な課題であるわけがない。実際、国という存在の最大の存在理由、すなわち、国民の命の保証という最重要課題について、このときの道長政権は対処している。
何をおいても最優先されるのは、反乱につながりかねない犯罪を早いうちに消滅させることである。そうしなければ平将門や藤原純友といった悲劇を繰り返すこととなるのだ。
このことについては前年に既に実績があった。
およそ一年前の長徳四(九九八)年一二月二六日、伊勢国で軍勢の衝突を起こした平維衡と平致頼の二人を京都に呼び寄せた件である。
さらに、長保元(九九九)年一二月一三日には、美濃国で藤原宗忠が橘惟頼を殺害したという事件があり、藤原宗忠は拘禁されたが、道長の対処はそれだけでは済まなかった。美濃国司源為憲に対し職務怠慢を理由として執務停止命令が出たのだ。
そして、長保元(九九九)年一二月二七日、一年以上拘禁されていた平維衡を淡路へ、平致頼を隠岐へ流すと決まった。死刑のない当時、これは最高刑と同じであった。この最高刑が下されたのは藤原宗忠も同じで、同日、佐渡に流すよう処分が下っている。一年以上拘禁されていた末の追放刑と、拘禁されてすぐの追放刑では同じではないと考えるかも知れないが、隠岐にしろ、淡路にしろ、比較的京都に近い。特に隠岐は、小野篁をはじめ、これまで何人もの貴族が追放されているために追放に処された者を迎え入れる準備が整っているのに対し、佐渡は京都から遠い上に受け入れ準備も万全ではない。拘禁期間が短かった代わりに、より厳しい環境への追放となったのである。
なお、美濃国司源為憲を執務停止が解除されたのは、およそ三ヶ月後の長保二(一〇〇〇)年二月二二日のことである。
さて、西暦で考える現代の我々からすれば、西暦表記が三桁から四桁に変わる瞬間というのは大きなインパクトを感じる。
しかし、当然ながらこの時代の人に西暦という概念はない。ゆえに、長保元(九九九)年から長保二(一〇〇〇)年に変わる瞬間について、いつもの新年を迎えるという以上の感慨はない。
上級貴族の人事は相変わらず固まっているし、下級貴族の人事も必要最小限に留まっている。
しかし、新年からおよそ二ヶ月を迎える長保二(一〇〇〇)年二月二五日、世間の人を仰天させる人事発表がなされた。
藤原定子が皇后となり、藤原彰子が中宮となったのだ。
一人の天皇が複数の女性と関係を持つこと自体は珍しくなかった。だが、正妻が二人という状況はこれがはじめてである。
この時点で中宮彰子はわずか一三歳の少女である。それも当時の数え方だから一三歳なのであり、現在に置き換えると小学六年生に該当する。まだランドセルを背負って小学校に通っている少女が、一条天皇の正妻になったのだ。
誰もが道長の焦りを感じ取っていたが、それを本人に向かって口に出す者はいなかった。もっとも日記に記す者や本人が居ないところで話す者はいた。そして、自分に対して世間の人がどのような思いを抱いているのかも道長は知っていた。知っていたが、道長はそれでどうこうするような人ではなかった。言論の自由という概念は近代の産物ではない。文化が花開く時代であるとき、ほぼ例外なく言論の自由は存在しているのである。
それに、道長には焦る理由があった。
忘れてはならないのは、道長の兄二人、藤原道隆も、藤原道兼も、何の前触れもなく突然病気になり死を迎えていることである。そして、道長も過去に二度、死を覚悟するほどの病気をし、左大臣辞任と出家を申し出たという過去があるのだ。それらの病気は藤原氏だけが罹患したわけではない。貴族であろうと庶民であろうと、年齢が何歳であろうと性別がどちらであろうと、いっさい差別することなく広まった伝染病なのだ。
死を覚悟するだけの病気を二度も体験した道長にとって、伝染病はいつどこで発生してもおかしくない天災であった。そして、その天災に一条天皇が巻き込まれることは充分に予期されることであった。
国政を思いのままに操れるようになっていた道長にただ一つ欠けているもの、それが自らの孫となる未来の天皇であった。それは何も自らの権力欲の産物ではない。いや、権力欲がゼロだと言えば嘘になるが、それが最重要の理由ではない。
道長が恐れていたのは政治の断絶であった。ついこの間の花山天皇のように急進的な変革をもたらす者が権力を握ったら、これまで続けてきた政治の安定が失われ、経済は深刻な不況を迎え、治安は絶望的に悪化し、最悪の事態として平将門や藤原純友のような反乱を再現させてしまう。花山天皇の場合は比較的早期に花山天皇を退位させることで混乱を中断させることができたが、それでも残した爪痕は深いものがあった。
摂政とは天皇の近親者のうちの最有力者が就く職であり、皇太子居貞親王は既に元服している以上、一条天皇に万が一の事態があったときに皇太子居貞親王が天皇に即位したとしても、誰かが摂政に就くわけではない。だが、皇位継承権筆頭の地位が生後三ヶ月でしかない敦康親王に移ってしまった現在、いつ皇太子の地位が居貞親王から敦康親王に移ってもおかしくないのである。そして、敦康親王が即位したときに待っているのは道長ではない誰かの摂政就任である。
その誰かというのはかなりの確率で藤原伊周である。そして、伊周の執政者のしての能力は絶望的に低い。つまり、現実を直視することなく理想だけを掲げ、自らに逆らう者を容赦なく処罰するような短絡的な人物である。このような者が権力を握ったらどうなるか? 花山天皇の爪痕とは比較にならない大規模な人災が待ちかまえているのだ。
道長が狙っていたのは、一刻も早く我が娘が、一条天皇の子を、それも男児を産んでくれることである。今の道長であれば中宮彰子の息子を皇位継承権筆頭にすることなど造作もない。そして、中宮彰子の息子が帝位に就いたとしても摂政に就くのは自分になる。摂政が自分自身であればこれまでの政治を継続することも可能になるのだ。
周囲から笑われようと、世間から非難されようと、一歩間違えて取り返しのつかない人災を巻き起こすことに比べれば、自らが笑い物になることなどどうということない。それが道長のプライドであった。
道長の心配は残念ながら的中してしまった。
ただし、被害者は、一条天皇ではなく自分自身。
長保二(一〇〇〇)年五月一八日、藤原道長がまた辞表を提出したのだ。また伝染病に罹患してしまったのであるが、被害者は道長一人ではない。日本全国に伝染病が蔓延し、数多くの者が命を落とす事態になっていたのだ。
道長は病身の身にムチ打つように病床からのリモートコントロールを続けていたが、悪化していく病状の前に命の終わりを覚悟したようである。
当然ながら道長の辞表は受理されなかったが、道長の体調は目に見えて悪化しており、リモートコントロールを行なうのが限界で、とてもではないが参内できるような体調ではなかった。
さらに、道長と同じ屋根の下に住む姉の東三条院藤原詮子も倒れた。
このような上流貴族の疾病は、国政に影響を与える凶事であるが、個人としてみると自分を売り込む絶好のチャンスである。藤原道長に取り入るのもメリットの大きなことであるが、藤原詮子という一条天皇の聖母に自分を売り込むことは道長に取り入る以上のメリットを有している。
おかげで、見舞客が次から次へと土御門殿にやってくる始末であった。
想像していただきたい。伝染病に倒れた者に大挙して見舞いに行ったら感染という面でどうなるか。
その結果はすぐに現れた。
次々と貴族が倒れ、貴族の周囲の者が倒れ、その周囲の者が倒れ、という悪循環が発生してしまったのだ。
この時代、病気というものは悪霊の仕業で起こるともされている。
やはりと言うべきか、この伝染病も悪霊の流行によるものだという噂が広まったが、その噂の中に菅原道真の名は出てこない。少なくとも現存する史料の中に菅原道真の怨霊伝説を想起させるものは無い。
その代わりに広まった伝説。それは藤原伊周である。復帰後も何ら官職を与えられずにいる藤原伊周の生き霊がこの伝染病の元凶とする噂が流れ始めたのだ。
病床の道長も、藤原伊周に何らかの役職を与えるべきとの書状を、一条天皇に提出している。執政者としての能力は絶望的で後継者に任命するなどはもってのほかだが、議政官の一人としてなら道長のコントロール下に置ける自信があったのだ。それに、多くの国民が藤原伊周の呪詛による疫病だと考えている。ここで伊周をないがしろにし続けるのは民意を汲み取る点でも許されることではなかったのだ。本心からこの伝染病が藤原伊周の呪詛あるいは怨念によるものだと考えたのか、あるいは、そのようなパフォーマンスをとることが重要だと考えたのかはわからない。ただ、少なくとも左大臣の正式な上奏文が、一条天皇へと提出されたことに違いはない。
ただし、一条天皇の返答はそっけないものであった。
拒否である。
その代わりというべきか、興福寺の僧侶を集めて読経をさせることはした。この当時は読経も怨霊に効果ありと考えられていたからである。ちなみに藤原行成は「今回の読経は自分が発案したものでございます」と売り込んでいるのだから抜け目はない。
この効果があったのか、道長の病気は改善していた。ただし、六月二七日になってやっと起き上がることができるようになったという程だから、そんなに軽い病気でないことは容易に推測できる。
道長が倒れている間の議政官は右大臣藤原顕光が議事進行をしていたが、ここに左大臣藤原道長からのリモートコントロールである書状が届いていた。ゆえに、議政官の議決は病床の道長の意見をかなりの割合で採択する場になっていた。
本来このような左大臣不在のときは右大臣が議政官を指揮するものと決まっているのだが、道長はそれを最後まで手放さなかったのだ。裏を返せば、どんな些細なことでも道長の決済の目が届いていたということである。リモートコントロールの利いているために問題にならなかったが、国政の全てが道長のもとに集中しているということでもあった。
誰もが理解していたのだ。今の日本は道長が全ての上に君臨していて、道長の決済無しには何も動かないことを。普通の人間であれば処理しきれない分量の実務を、病床にありながらも道長はこなせているのだ。
これは常人の業ではない。
普通の人であったらすぐに過労で倒れるであろう。あるいは、道長がなかなか病床から離れることができないのは、過労で倒れた後も過労で倒れる前の職務をこなしていたからではないのかと考えられるのである。
前年の火災により内裏から避難していた、一条天皇が、修復を終えた内裏に戻ったのは長保二(一〇〇〇)年一〇月一一日のことである。
伝染病の吹き荒れる中で工事を強行するとは何事かと怒る向きもあったが、伝染病の影響で失業してしまった人を、一時的にしろ雇用するメリットはあった。道長も伝染病対策のための支出を細かく計算しており、その少なくない金額(正確にはコメ)を工事費用として充填している。
ところが、内裏の修復が終わってから間もなく、今度は奈良で大火が発生したのだ。
都市としての平城京はとっくに終わりを迎え、かつて平城京であったところは跡地と化していたが、奈良には依然として歴史ある寺院が残ってた。当時の人は奈良のことを「南都」とも呼んでいたほどで、仏教都市として認識されていたのである。
長保二(一〇〇〇)年一〇月一九日、その奈良で大火災が起こり、東大寺をはじめとする多くの寺院に損害が出た。
何度も繰り返すが、この時代は怨霊や呪術が信じられていた時代である。そして、伝染病のメカニズムもわかっていない時代である。つまり、伝染病の流行は何かしらの超自然的な存在が原因であり、その超自然的な存在に対して対抗できるのが僧侶や陰陽師であると考えられていたのである。
それは、医師と僧侶の地位の差を見ても明らかで、病気対して立ち向かう者という点では同列なはずなのに、僧侶は高貴な存在で貴族と接するのも普通であったのに、医師は卑しい存在でその地位も低く、貴族がプライベートで医師と接するとそれだけでスキャンダルになるほどであった。
それだけ特別視されていた僧侶の中でも東大寺の僧侶と言えばエリート中のエリートであり、東大寺は現在の感覚でいくと、学生の就職希望ナンバー1の大企業としても良い存在であった。その東大寺が一部分だけとは言え焼け落ちたのだ。
これはこの時代の人たちに絶望をもたらすのに充分であった。
伝染病が荒れ狂う中にあって、一条天皇には一つだけ心を浮つかせる吉事があった。
一条天皇の最愛の女性である、皇后藤原定子の妊娠である。
皇后になったとは言え、兄の起こした事件をかばい、一度は出家を決意した身である。最高の環境を用意されていた中宮彰子と違い、宮中における皇后定子の環境はお世辞にも最高とは言えなかった。
その上、妊娠している。
この時代の宮中において、妊娠した女性は実家に戻るのは珍しくない。血のケガレを忌避する感情があったことに加え、出産は女性に実家にとってこれ以上ない切り札になるのだ。そう、生まれた子の養育権からはじまる次代の権勢への布石である。
皇后定子を自宅に呼び寄せることに成功したのは藤原伊周である。伊周にとって、妹の三度目の出産は自らの栄達につながる切り札になるはずであった。ただし、一条天皇のほうも皇后定子を手放したくなかったらしく、この年の八月、妊娠六ヶ月であった皇后を宮中に呼び寄せている。
間もなく生まれる我が子に期待を寄せる、一条天皇、妹の出産に期待をする藤原伊周、この二人の期待を伝染病が壊してしまった。
皇后定子は自らの運命を感じ取っていたらしく、三首の歌をこのとき残した。
よもすがら契りしことをわすれずは恋ひん涙の色ぞゆかしき
知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎたつかな
煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれと眺めよ
間もなく訪れる別れを予期し、この時代の考え、すなわち、妊娠した女性が出産に伴って亡くなったときはあの世へと旅立つことができないという考えを踏まえた和歌であった。
長保二(一〇〇〇)年一二月一六日、皇后藤原定子死去。出産と同時の死であった。
妹の亡骸を抱き抱え泣き叫ぶ兄、そして、最後に一目会うことも許されず宮中で泣き叫んだ一条天皇。
亡き藤原定子の葬儀は一二月二三日、兄の手によって行なわれた。
降りしきる雪の中、一条天皇は皇后の葬儀に参加することもできなかった。
仕えていた藤原定子が亡くなったことで、清少納言も宮中から去った。
その後の清少納言についての消息は乏しい。
現存する数少ない史料によると、まず、夫である藤原棟世のいる摂津国に移ったものの、平安京の文人たちとの交流は続いており、藤原公任や和泉式部らとの手紙のやりとりがあったことが判明している。
しかし、現代人がこの時代最高の文人と考える女性との交流は全く無かった。
紫式部との交流が。
清少納言が宮中を去ったのは、長保二(一〇〇〇)年から長保三(一〇〇一)年にかけてのことと推測される。一方、このころの紫式部は山城国司である藤原宣孝の妻として、京都を離れ山城国衙のある山崎にいたと推測されている。藤原道長はこの時点で既に紫式部の才能に目をつけていたようであるが、いかに京都に近い山崎に国衙があり京都とは一日で往復できる距離であると言え、夫とともに京都から離れている女性一人を宮中に招き寄せるという考えはなかったらしい。また、紫式部自身もまさか自分が宮中に呼ばれることになるとはこの時点で全く考えていなかった。
この時点において、清少納言は皇后に仕えた女官としてかなりの高い地位にあったのに対し、紫式部は国司の妻であること以外特別なことのない女性でしかなかった。
清少納言が枕草子というベストセラー作品を世に送り出したことは紫式部も知っている。そして、後の話になるが紫式部は自身の日記で清少納言を酷評している。酷評しているということは、紫式部は清少納言のことを強く意識していたという証拠である。
しかし、清少納言は紫式部について何ら記録を残していない。枕草子をどれだけ読んでも紫式部のことは出てこない。紫式部の夫である藤原宣孝や、紫式部の従兄弟である藤原信経のことを枕草子に記していることから清少納言が紫式部に対して何らかの感情を持っていたのではないかとの説もあるが、それも推測の域を出ない。
宮中を去ってもなおこの時代の文人たちとの交流を欠かさなかった清少納言であるが、一〇〇〇年後の我々が期待すること、つまり、一〇〇〇年前の最高の文人について清少納言がどのような評価をしていたのかを知ることはできない。
皇后定子が亡くなり、宮中全体が喪に服した状態で長保三(一〇〇一)年は始まった。清少納言をはじめとする定子を取り巻いていた女官たちは、一人、また一人と宮中を去り、その代わりに中宮彰子が宮中の女性たちの中心になっていた。
と言っても、まだ一四歳である。普通に考えればまだまだ少女として振る舞ったとしてもおかしくないし、この時代の人たちもそうなると考えていた。何しろ、現在の学齢に直すと中学一年生なのだ。
ところが、その中宮彰子が誰も予想しなかった行動に出たのだ。
亡き皇后定子には三人の子がいた。長女の脩子内親王、長男の敦康親王、そして、前年一二月の母の死とともに誕生した媄子内親王の三人の子である。年齢は上から、五歳、三歳、そして生後一ヶ月である。
母を亡くしたと言っても天皇の子である。それはすなわち、この時代で最高の教育環境が用意されていることを意味する。母の愛情以外の全てが満ち足りた環境であり、三人の子が路頭にさまようような事態など断じて考えられないのである。
しかも、この三人の子の養育については、一条天皇自身が父としてできる限りのことをすると宣言していた。妻を亡くした夫が男手一つで三人の子を養うと宣言するのと同じである。悲劇に対して立ち向かう父親の姿は痛ましくもあるが頼もしくも感じられるものであり、この、一条天皇の決意に当時の人たちは感銘を受けてもいたのだ。
この状況下で、中宮彰子は三人の子の母になると宣言したのだ。養子として迎え入れると宣言したのである。まだ一四歳の少女が、三人の子の母になると決意しただけでなく、自らの周囲の女官たちにも自分のことより三人の子の養育を優先するように告げたのだ。
これが一条天皇の心を動かした。
幼き少女と考えていた中宮彰子が頼もしい母親に見えるようになったのだ。
前年の伝染病で倒れたままの藤原道長の容態は順調に回復していたが、相変わらずリモートコントロールのままである。藤原行成は何度か土御門殿に足を運んでいるが、藤原行成の記録に見られる左大臣藤原道長の姿は、どう見ても病人のそれである。
道長自身も自分の体調が万全ではないことを把握していたが、病床にあってのリモートコントロールで国政を動かせていることと、娘の彰子が亡き皇后定子の三人の子を養子に迎え入れたという知らせを聞いたことで、ただちに問題が発生する状況ではないと判断した。
たしかに病気ではあるが、死を覚悟しなければならないほどの症状からは回復してきている。
そして、皇后定子の三人の子が彰子の養子になったことで、道長はこの時点で皇位継承権筆頭である敦康親王の義理の祖父になった。つまり、一条天皇に何かあって敦康親王が天皇に即位する事態になっても、摂政を務めるのは道長であり、現在の政治は継続されることを意味するのである。
ここ数年、上流貴族の人事に大きな変更は起こっていない。それはこの年も同様で、左大臣藤原道長、右大臣藤原顕光、内大臣藤原公季という体制が続いている。その下の大納言や中納言も同じ面々がそのままでいる。
ただし、一つだけ大きな入れ替えをしている。
それまで太宰府にいた藤原有国を呼び戻して参議にし、代わりに中納言平惟仲を太宰府に派遣したのである。かつて、道長の父藤原兼家が「まろの左右の目」とまで評した二人の職務を入れ替えたのだ。これは何も平惟仲を左遷したのではない。なぜなら平惟仲は中納言のまま太宰府に向かったのだから。
中納言を九州に派遣しなければならない事情があったのだろうか。
結論から言うと、あった。
まず、宋で反乱が起こった。王均の主導する反乱が宋の国内事情を悪化させるようになっていたのである。
さらに高麗からの海賊がまだ片付いていなかった。
幸いにして契丹からは何もなかったが予断の許されない状況は続いていた。
こうした国外情勢に加え九州独自の問題もあった。
九州最大の荘園領主である宇佐神宮である。
神社が荘園領主と聞くと疑問符を思い浮かべる人もいるであろうが、有力貴族だけでなく有力寺社もまた荘園の持ち主として権勢を誇ることが珍しくなかったのである。
宗教施設が大規模荘園を持つときにやっかいになるのが、その宗教施設が武装組織を雇っていることである。しかも、こうした武人は、しばしば周囲で暴れ回る。何しろ宗教が絡んでいるから、敵対する者には神罰や仏罰が下ると脅すこともできるし、争いで命を落としたとしても宗教が死後の世界を保証する。寺社が命じた戦いに異論を唱える者は無間地獄に落ちるが、その戦いで命を落としたら極楽浄土が待っているとなると命を失うのも惜しくないとまで感じる。
日本のどこでも宗教施設の持つ荘園というのは似たようなものであったが、九州以外では一つだけ救いがあった。異なる宗教施設同士の激突となると、当初は収拾のつかない戦乱になるが、時間とともに落ち着くようになる。どんなに宗教の正義を掲げて相手の言うことに耳を傾けないという態度でいても、殴り合いを続ければ相手の実力の程がわかる。この状況でなおも殴り合いを続けるような者はいない。
ところが、九州だと事情が違う。
宇佐神宮が突出しているのだ。
おかげで宇佐神宮の武人たちだけが他の追随を許さない荒々しさで暴れ回り、九州の治安をグチャグチャにして回っていたのである。
藤原有国はこの状況を放置していたわけではない。ただ、国外問題を最優先させなければならず、宇佐神宮のことにまで手が回らなかったのだ。
この状況を収拾させるためにはかなりの権限を持った実力者の派遣が必要であった。統治者としての能力でいうと藤原有国と平惟仲とはほぼ同等である。しかし、ただ単に太宰府のトップなだけであるという藤原有国よりも、中納言を兼任する平惟仲が太宰府のトップであることのほうが宇佐神宮に対する睨みが全然違う。
その上、平惟仲の護衛として道長自身が選抜した武士が同行している。いざとなればその武士が宇佐神宮と一戦交えると宣言しての同行であり、これには宇佐神宮サイドも黙り込むしかなかった。
長保三(一〇〇一)年四月一五日、紫式部の夫、藤原宣孝が亡くなった。伝染病によるものであったという。
山城国司の死去という知らせを平安京の貴族たちはどう考えたのか。
実に露骨なまでのいやらしさであった。
何しろ平安京を抱える山城国の国司だ。国衙に派遣されると言っても、平安京と、山城国衙のある山崎とは日帰りできる距離である。地方に派遣されることで味わうこととなる中央との断絶とは無縁の国司生活が過ごせる上に、山城国は実入りのいい国である。国司を一期つとめたときに手にできる財産の量が他の国よりはるかに多いのだ。
当然と言うべきか、自己推薦文を持った貴族が殺到し、後任の山城国司が選ばれるまでに三ヶ月を要したほどであるから、その混乱は推して知るべしである。もっとも、現在でも地方公共団体の首長の突然の辞任や死去に伴う選挙となるとそれなりの時間を要するから、このあたりは現在でも変わらないと言うところか。
夫の死に悲しんでくれるどころか、自分の就職先ができたと喜ぶ者の多さは、紫式部にとって現実を絶望視させるものがあった。とは言え、紫式部の父である藤原為時も、こうした自己推薦を何度も繰り返してやっと越前国司の地位を手にしたという現実があった。
夫を亡くしただけでなく、知り合いがことごとくその寂しさの傷口に塩を塗りたくっている。その上、自分の父もそうした傷口に塩を塗る貴族の一人である。さらに言えば、そうして傷口に塩を塗ったおかげで今の自分が生活できている。この現実を前にした紫式部は、現実を忘れさせてくれる空想世界の物語を記しはじめ、物語を記すことで現実から逃れようとしはじめた。
そう、源氏物語である。
源氏物語がいつ頃から書きはじめたのかの記録はないが、夫の死後に書きはじめたというのが多数意見になっている。紫式部が源氏物語を書きはじめた頃には既に他者の手による源氏物語のベースの物語があり、紫式部はそのベースの物語に骨肉をつけただけだという説もあるが、たとえベースが他者のものであろうと、源氏物語が紫式部の作品であることに変わりはない。紫式部の知性と教養があったからこそ、源氏物語は一〇〇〇年以上もの長きにわたる大ベストセラーになったのである。
とは言え、この時点ではまだ源氏物語がベストセラーとなってはいない。この頃はまだ源氏物語を執筆しはじめたばかりの頃であり、この時点における紫式部は、夫を亡くした女性ということ以外に特に世間の注目を集める女性ではなかった。
ただし、藤原道長は既に彼女に目をつけていた。
紫式部の夫の命を奪った伝染病は、紫式部の夫一人の命を奪っただけでは済まなかった。死を看取ってくれる人がいるだけでも恵まれていると言えるほど、多くの人が亡くなっていたのだ。
子や孫を亡くし一人きりになった老人が、誰からも看取られることなく家の中でひっそりと命を落とす光景が、あるいは、親を亡くし、きょうだいを亡くし、一人になった子が道端に倒れたまま、誰からも看取られることなく命を落とす光景が、平安京の随所で見られるようになった。
長保三(一〇〇一)年五月九日、伝染病流行の鎮静を願って紫野の今宮神社に疫神を祭り、御霊会を開催した。一瞬ではあるが伝染病の猛威を忘れさせてくれるイベントは、次々に人が亡くなる日常を迎えている平安京の人たちにささやかな安らぎをもたらした。
ささやかな安らぎの後も伝染病は猛威を振るい、伝染病の前に当時の人はあまりにも無力であった。
医療は完全に崩壊していた。律令に従えば誰もが無料で医療を受けられることになっていたのだが、誰もそんなことなど知らないと言ってしまうほど律令制の医療は崩れ去り、あとに残っていたのは高い費用を出さなければ医療を受けられないという現実であった。こうなると当然ながら、病気になったからと言って簡単に医師のもとに足を運ぶなどできない話になる。
その上、医療のレベルも現在から見れば信じられない低レベルさであった。長寿のためとして貴族の間で広まっていた薬の正体は有害な砒素や水銀であったし、病気やケガの治療方法も素人目にも明らかに間違っていると言える内容である。おまけに、伝染病のメカニズムも知らなければ公衆衛生の概念もない。水道なんてものはなく、下水処理は道端に捨てて終わり。
庶民は運動不足ではないが栄養状態が良くなく、貴族も食事の量は多かったが栄養が偏っている上に運動不足の毎日。
ただでさえ劣悪な衛生状況に加え、身体のほうも病原菌をこれでもかと受け入れやすい状態になっているのだから、これで伝染病が広まらないとすればそのほうがおかしい。
この当時に流行した伝染病を現代に持ってきたらどうなるであろうか。
流行はするであろう。だが、罹患したところで数日会社や学校を休めば済む話というレベルのものである。病院に行けば適切な薬をもらえるし、衛生観念だって段違いである。栄養状態だって申し分ない。
現在ではちょっとした体調不良で済ませられる病気が、一〇〇〇年前では命に関わる大災害だったのだ。
道長の手によってここ数年に渡り人事が止められていたが、この頃になって人事にある程度の変化が見られるようになった。もっとも、長期間に渡って同一者が同一職をこなしていることへの弊害への対処として良い内容である。
まず、一人の人間が一つの職務を長い間つとめていると、その人がその職務のエキスパートになる一方、その人の代わりをできる人材がいなくなってしまう。現在でも見られる光景であるが、その人がその職務を遂行していることが前提になってしまっていて、代わりをこなせる人材がいなくなってしまいその人がその職務から離れられなくなってしまったり、その人があまりにもその職務を平然とこなしているので、代わり映えしない働きだとして職務に対する評価が不当に下がってしまうことがある。
専門職であればスペシャリストとして人生の全てを一つの職務に捧げることもあるが、それでも後継者の育成を欠かすことは許されない。ましてや、この時代の貴族に専門性など最初から求められていない。様々な職務をこなしてきたゼネラリストであることが貴族に求められる資質なのである。
それをわかっているからこそ、この時代の貴族たちは意外なほど簡単に辞表を提出している。一つの職務の経験を積んだことで次の職務へのステップアップを図るための行動である。
ところが道長はそれを止めた。おかげで人件費を浮かすことに成功したが、この頃になってゼネラリスト育成が留まっていることの弊害を感じたのである。
そこで道長が選んだ方法が、ステップアップではなく配置換えである。同じ権威でほぼ同額の給与を得られる別の職になるように貴族を異動させたのだ。ステップアップを果たせるのは、上にいる者が死を迎え空席ができたときのみ。その空席も議政官には適用されない。議政官の人数が多すぎるとしてまさに減らしている最中であったからである。
長保三(一〇〇一)年八月二三日から二五日にかけて、実に一二人もの貴族が平行異動している。現在の感覚でいくと内閣改造と言ったところか。
ただし、あまりにも人事を硬直させすぎてしまったことを道長は反省したのか、それとも不満を抑えるためか、同年一〇月一〇日に、同じく一二人の貴族の位階を一斉に昇格させている。この中の何人かは八月に人事の平行異動を受けた者でもあったが、新たな職務に対する評価ではなく、これまでの実績を踏まえればとっくに昇格していなければならない貴族を昇格させたのだとも言える。
内裏の修復が完了して、一条天皇が内裏に戻ったのが長保二(一〇〇〇)年一〇月一一日。それからおよそ一年を経た長保三(一〇〇一)年一一月一八日、内裏がまた焼けた。
藤原行成はその日記に内裏が火災に遭ったこと、一条天皇が職御曹司(しきのみぞうし)に避難したことを書き記している。
前回の火災では一条天皇は内裏を出て一条院に住まいを構えたが、今回は職御曹司、つまり大内裏の中の建物に避難している。
この職御曹司はかつて中宮定子が暮らし、清少納言が枕草子を生み出した建物であった。最愛の女性との思い出の詰まった建物に避難したことで一条天皇の思いが誰の目にも明らかになった。
ただし、中宮定子が住んでいた頃の職御曹司は物の怪の出る場所と恐れられていた建物でもあったが、一条天皇が住まいを構えているとなると物の怪などと言っていられるわけがなくなる。
何しろここが臨時の内裏になるのだ。
普段なら内裏に足を運ぶはずの上流貴族が、これからしばらくは職御曹司に足を運ばなければならなくなるのである。そして、「職御曹司に行く」と言うフレーズが、一条天皇と謁見することを意味するようになった。
ところがここで問題が起こった。
狭いのだ。
職御曹司は、年月を経て天皇が避難するのに相応しい建物にはなったが、あくまでも数日間の避難であり、天皇としての職務遂行に相応しい建物にはなれなかった。
一一月二二日、一条天皇は職御曹司での職務遂行が困難であることを受け入れ、大内裏の外にある、一条院に避難しなおすこととなった。なお、中宮彰子も一条天皇とともに一条院に避難した。
長保三(一〇〇一)年閏一二月一六日、藤原伊周が正三位に復帰した。
ただし何の役職もない。
正三位であるから相応の官職に就く資格を持つ貴族に復帰したこととなるが、かつて内大臣まで務めた人間の在り方としてはかなり異質としか形容できない。しかも、宮中となった一条院への立入が禁止された状態なのだ。
同罪で追放された弟の隆家は、今ではすっかり道長の手足となって活躍している。議政官の一員ではないが、兵部卿として京都最大の武力を操れる権力は大きいし、ごく普通に宮中に出入りしている。
妹を亡くした悲しさに加え、最大の味方であったはずの弟との決別で孤立感を深めていたこの頃の伊周について記録は何も残っていない。
なぜこのタイミングになって一条天皇が藤原伊周を許したのかであるが、もともと、一条天皇はここまで藤原伊周を遠ざける思いは無かったのではないかと推測されるのである。ただ、実母である東三条院藤原詮子が藤原伊周のことを絶対に許さなかったのだ。一条天皇自身も伊周を許せなかったのだが、伊周に対する怒りは詮子のほうがはるかにすさまじいものがあったのである。息子について、他のことは何でも許してきた藤原詮子であるが、伊周の復職だけは絶対に許さなかったのだ。
その藤原詮子が弟も罹患した伝染病で倒れてから一年以上を経たこの日、自らの命の終わりを悟ったかのように出家剃髪した。既に出家はしていたが、この時代の女性の出家は髪を完全に剃り落とすわけではない。せいぜい肩の辺りで髪を切るだけである。出家した女性が剃髪するのは、出家の上にさらなる覚悟を加えるという宣言であった。
詮子がした覚悟、それは自らの命の終わりである。同じ病に倒れた道長は無事に回復して普通に出勤できるまでになっていたのに、姉は身動きできなくなってしまっていた。弟の回復を見て自分も回復するという希望を持ってはいたのだが、その希望は叶わないことを悟り、剃髪を選んだのだ。
それとほぼ同タイミングでの伊周の復帰宣言である。母の許しを得ることを気にすることがなくなったために伊周を復帰させたのであろう。
絶対に許すことのなかった藤原伊周が復帰したことについて藤原詮子がどのように感じたかを伝える史料はない。あるいは、剃髪した時点でもう意識不明になっていたのかも知れない。
長保三(一〇〇一)年閏一二月二二日、円融天皇女御、東三条院藤原詮子死去。
その頃の大陸に目を向けると、宋と契丹との関係が予断を許さない事態となっていた。領土問題を巡る争いである。夏州、綏州、銀州、宥州、静州の五州の貴族を巡って宋と契丹とが争っていたのであるが、その中の一つである夏州が残る四州とともに、両国からの独立を目指して動き出すようになってきたのだ。
そもそもこの五州の住民は宋の中心である漢族とそもそも民族が違い、タングート族、現在のチベット族の祖先に当たる民族である。唐代はこの五州に緩やかな自治権が与えられており、五代十国時代を迎えると遼の支配下に入ることで自治権を獲得していた。
この五州が宋と契丹との間で領土争いを繰り広げる舞台となったのである。
九八三年にタングート族の間で主導権争いが起こり、主導権争いの一方を演じていた李継捧が、夏州、綏州、銀州、宥州の四州を宋に献上することで宋の服属下に入ることを決定したものの、もう一方の主導権争いを演じている李継遷はこの決定に反発し、契丹の支援を得て五州全域の支配件を獲得するようになっていた。
タングート族は独立を模索するようになっていたが、契丹と宋に挟まれていることから独立は難しいと思われていた。
契丹は五州全域の支配権を主張し、宋もまた五州全域の支配権を主張。五州の住民であるタングート族は自らの国家の独立を模索し、五州の西にあるウイグル族の皇帝である可汗王禄勝は、宋と同盟を結んでタングート問題の対処にあたろうとしていた。
情勢は李継遷に有利に働いていた。李継遷の率いる軍勢が宋の霊州を占領したのである。五州の領域を越え、ついにタングート族の領地が宋を脅かすまでになっていたのである。
太宰府にいる平惟仲から伝えられる大陸の情報は、この時代の貴族たちに、国境の外は余談の許さない状況であることを教えてくれていた。
長保四(一〇〇二)年一月一日、それまで議政官の一人としてカウントされていなかった藤原隆家が、権中納言兼兵部卿として議政官に帰ってきた。追放前は中納言であったのが権中納言であるからこれは格下げである。
それでも議政官に帰ることができただけで恵まれていた。自分と一緒に追放された兄は位階こそ取り戻したものの無官職のままなのだ。
藤原隆家の二三歳という若さは議政官の中でも異例の若さであった。しかも、かつて中納言まで勤めた上に、この時代のオフィシャルの軍事力のトップに立っている。これは議政官の中でも異彩を放つ存在であると言える。
その上、藤原隆家はいまや藤原道長の忠実な家臣となっている。
この時点で藤原隆家が藤原道長の第一後継者であることに異論は無かった。本来ならば道長の長男である頼通が後継者筆頭なのだが、この時点の藤原頼通はまだ一〇歳の少年であり、とてもではないが後継者とすることなど無理な話である。
つまり、今ここで道長に何かあったら藤原隆家が後継者となるのだが、ここで藤原隆家が全く想像もしていなかった若者が登場してきた。関白就任の直後に亡くなった藤原道兼の子、藤原兼隆である。この時点で一八歳。
長保四(一〇〇二)年一月三〇日、この一八歳の若者が従三位に叙せられると同時に、右近衛中将を兼任すると発表された。
これに動揺を隠せなかったのが隆家である。今でこそ道長の忠実な家臣となっているが、かつては道長の政敵であった。
一方、父を亡くしてから道長のもとで育てられた兼隆は道長の忠実な家臣として育ってきていた。
この二人の若者のどちらが道長の後継者になるのかという争いがここで起こったのだ。
ちなみに、道長も人のことを言えないし、隆家は筆舌に尽くせぬほどの悪事を働いてきた不良少年であったが、兼隆もまたなかなかに凶暴な性格でもあった。
どうやら道長好みの若者というのは、おとなしさではなく荒々しさのほうが目立つ若者であるようだ。
日本国内では人事異動以外に特にこれと言った動きが見られなかったが、海の向こうは戦乱にこそ至っていないもののタングート族の独立運動がいつ火を噴くかわからない状態にあった。
そしてもう一つの懸念が高麗であった。契丹の支配下に置かれた高麗は、契丹の支配を受け入れることで国内の安定を手にしてはいたが、貧困から抜け出たわけではないのである。貧しい高麗を契丹が支配下においたのは、領土欲よりも自らの安全のためであった。高麗人が生活を求めて襲撃してこないようにするのが第一目的であり、支配するという充足感は二の次であったとして良い。
高麗人にとっては、国境の外に襲撃をしかけて人やモノを奪い取っていく盗賊行為が難しくなったことを意味する。特に国境を接する契丹方面や、西の黄海方面への襲撃はまず無理になった。人やモノを奪い取っていくのは自分の生活のためであって、崇高な理念なんてものはない。つまり、命がけな行為かも知れないが、生き残ること前提の行為であって、死を覚悟してまで行なう行為ではない。
窃盗犯や強盗犯が襲いかかるのは、襲いかかっても反撃を喰らわない、あるいは、反撃を喰らったとしても勝てる相手である。契丹はそういう相手ではない。
だが、高麗の国境の外にあるのは契丹だけではない。現在から比べればはるかに貧しくても、当時の高麗から見れば天国とも思える豊かな国、日本がある。日本海を渡ればそこはもう、高麗では思いもつかない豊かな暮らしをしている人々が存在しているのだ。
これは強盗にとって絶好の襲撃対象である。あるいは、強盗とまではいかなくても密入国に成功すれば今よりはるかにいい暮らしができる可能性がある。日本史に登場する朝鮮人は犯罪者か密入国者のどちらかしかないが、それは一〇〇〇年前のこの時代も同じであった。
ただし、今と一つだけ違う点があった。さらに、この時代より二〇〇年前とも違う点があった。
律令制が機能していた頃は現在と同様に密入国者であっても強制送還するわけではなく国内に居を構えるのを許してはいたが、この時代は、密入国と強制送還がイコールである。日本への移住を求めたとしてもそれははっきりと拒否している。商人が通商で日本にやってきたり、あるいは国の正式な使者が派遣されてきたりしたならば受け入れるが、それも仕事を終えたら帰国することが大前提であり、日本に住まいを移すことは絶対に許さなかったのである。
それをわかっているからこそ、密入国しようとする者は慎重になった。密入国が見つかったとしても、これは密入国ではなく漂流であると訴えれば、最悪の事態を逃れることは可能になる。
長保四(一〇〇二)年六月二七日、そうした自称「漂着」の高麗人の処遇に対する審議が起こった。密入国として処罰するか、文字通りの漂流として無罪放免で帰国させるかが議論の対象であり、入国させないという点では意見の一致を見ていた。
さてここで、一人の文人の死について記さねばならない。
その文人とは慶滋保胤(よししげのやすたね)。
その慶滋保胤が長保四(一〇〇二)年一〇月二一日に亡くなったのである。
このことについての当時の人たちの感想は、死への驚きではなく、まだ生きていたのかという驚きであった。何しろ、寛和二(九八六)年に出家して比叡山にこもるようになってからというもの、全くその姿を見せなかったからである。かつては元号制定の詔を記すほどの権威ある文人であったのに、出家してから一五年という長きに渡って消息がわからなくなっていたのだ。
この慶滋保胤はかつて、今や風前の灯火であった律令派の最後の有力者と見なされていた。実際、律令護持の秘密結社まで結成しており、その結社はまだこの時代残っていたのである。
当然のことながら激しい藤原批判の言論を繰り広げていたのだが、出家してからというもの、そのあたりの語彙は弱まり、一人の僧侶として諸国を遍歴するようになっていた。
おそらく、出家したことでこの国の現実を悟ったのではないだろうか。律令の精神を仮に復活させたとしたら取り返しのつかない悲劇が待ちかまえている。荘園の拡大、荘園の免税、国司の不正蓄財、これらのどこにも正義を感じられる要素はない。要素はないが、正義を実現させたときに待っているのは、誰も豊かにならない貧困である。律令の掲げる理想を正義の名のもとに実現させるということは、金持ちを貧乏人にすると同時に、貧乏人を貧乏のままに留め置くことを意味するのだ。
自らが激しく訴えていた主義主張が誤りであったと悟った慶滋保胤は諸国を遍歴した後、一人の僧侶として、京都の東にある如意輪寺でその生命を終えた。
かつて自分たち藤原氏を激しく批判していた慶滋保胤の死を知った道長は、その死を悲しみ、大江匡衡に諷誦文を作らせた。
言論の自由を認める道長の前には、藤原批判をしていた過去などどうでもいいことであったのだ。
長保五(一〇〇三)年一月一日時点で、議政官を構成する面々のうち、藤原氏でも源氏でもない者は一人しかいない。太宰権帥として太宰府に赴いている中納言平惟仲だけである。参議ではないが三位以上の貴族という範囲まで視野を広げると、従三位ではあるが参議ではない平親信がいるが、それでも二人である。
一方、地方に目を向けると平氏の名はいたるところから聞こえていた。
地方の武士団の首領として平氏が数多く姿を見せるようになったのである。
平氏も源氏も皇族から分かれ出た家系であるという点では同じであるが、源氏は帝位に就く資格を持つ親王の臣籍降下の結果であるのに対し、平氏は帝位に就く資格を有さない王の臣籍降下の結果である。つまり、同じ皇族から分かれ出た家系であると言っても、その価値は明らかに源氏のほうが上なのだ。
価値の低さが原因となって、平氏に生まれた者は中央での出世をあきらめて地方に下ることが頻繁に見られるようになった。地方に下った者の総数で言えば源氏だって多いのだが、平氏の場合は地方に下った者の割合が高いのである。
下った土地で慕われるようになった者もいたが、中にはこのような者もいた。
長保五(一〇〇三)年二月八日、平維良の率いる軍勢が下総国府を焼き討ちして官物を略奪したことに対する審議があったのだ。下野国司の命は無事であったが、国衙も、国司の公邸も焼け落ちてしまった上に、下総国の予算でもある官物が奪われたことで、下総国は大混乱に陥ってしまった。
おそらく前年末に犯罪をおかしたのであろう。この時代の情報の伝わるスピードを考えると現在の千葉県で起こったことが京都に届くのに一ヶ月以上はかかる。
朝廷はこのとき、藤原惟風に命じて平維良の逮捕を命じ下総国に派遣したものの、藤原惟風が下総国に到着したときにはもう、平維良の軍勢はとっくに逃げ出した後であった。後に平維良は越前国(現在の福井県)にまで逃れていたことが判明したが、それからしばらく史料から平維良の名は消えることとなる。
長保五(一〇〇三)年二月二〇日、道長が待ちに待っていた瞬間がやってきた。長男の藤原頼通が元服したのだ。このときわずか一二歳とは言え、元服は元服。これで道長は我が子を自らの権力の後継者とするのに成功したこととなる。
もっとも、さすがに一二歳の少年をいきなり議政官に加えるなどという暴挙はしていない。位階も正五位下というかなり低い位である。
しかし、名誉職的な役職は用意している。
元服してから間もない二月二八日、藤原頼通が右近衛少将になったのだ。
道長は我が子の元服について何も残していない。もしかしたら残したのかも知れないが、現存する御堂関白記に長保五(一〇〇三)年の記事がないのである。
また、他者の日記を見ても長保五(一〇〇三)年という年はこれといった記事がない。いつもと変わらぬ日常が続いており、特にニュースになるような出来事がなかったとするしかないのである。
天候も安定して収穫も問題ない。
ついこの間まで猛威を振るっていた伝染病のことなど過去の話になり誰も忘れ去ってしまっている。
強いて挙げれば下総で放火強盗を働いた平維良が行方不明となっているぐらいが懸念事項であり、それも平維良逮捕を命じられたはずの藤原惟風から届いた逮捕できなかったという知らせを検討したという記録がある程度である。
その長保五(一〇〇三)年の記事として面白い記録が残っている。
それは、この年の六月一六日に一条天皇が臨席した上での試験が開催されたという記録。
元来、貴族はみな、大学で学問を修めた後に試験を受けて役人となり、役人としてのキャリアを積み重ねてステップアップした者でなければならない。
ところが、有力貴族の子弟になると大学に行かなくとも貴族になれるようになった。藤原良房以後の藤原氏はことごとく大学と無縁な者ばかりである。
当初はそれでも問題が無かった。大学が実学の場でなくなり、大学でいくら学んでも朝廷で働くのに相応しい者にならないことが問題になっていたのだ。そして、大学の質の低下への対抗策として、藤原氏をはじめとする有力貴族が自らの家系の者に限っての高等教育機関を独自に用意し、その独自の教育機関が大学以上の教育を施すことで対策としたからである。つまり、大学に行かないというのは、貴族の質の向上を図ってのものであったのだ。
それが時代とともに貴族の質の低下を招くようになった。
明らかに教養の足りない者が貴族として大手を振る舞うようになり、藤原道長の兄である藤原道綱にいたっては、読み書きできる漢字が自分の名前の漢字だけという有り様であったという。
当時の人でもこの状態が正しい状態であると考える人はおらず、教育と試験による人事考課の仕組みを残していた。しかも、一条天皇が臨席しての試験である。この試験の合格者は一条天皇自らが選抜した者になるため、ないがしろにされるわけがなかった。
もっとも、藤原道綱の無学のエピソードを書き記している藤原実資は、藤原道綱に限らず自分の気にくわない人間をこれ以上無い無能な人間であると徹底的に貶めて書いている。今でも自分の気にくわない人間を頭の悪い存在だとして揶揄することがあるが、藤原実資の残した日記も今のそのあたりの言論と同じであり、その当たりは割り引いて考えなければならない。
一条天皇が復旧した内裏に戻ったのが長保五(一〇〇三)年一〇月八日のことである。一条天皇にとってはこれで二度目の内裏復帰である。
それにしても火災が多すぎる。
平安遷都から村上天皇の天徳四(九六〇)年まで、およそ一六〇年に渡って内裏は火災と無縁であった。だからこそ応天門炎上があれほどに問題になったのである。
それが、天徳四(九六〇)年に火災が起きてからは一変する。
円融天皇の治世で三回(貞観元(九七六)年、天元三(九八〇)年、天元五(九八二)年)、一条天皇の治世で二回(長保元(九九九)年、長保三(一〇〇一)年)と、四一年間で合計六回の火災である。平均すると七年に一回という多さである。
そこで現在は一つの仮説が出ている。
放火されたのではないか、と。
正暦五(九九四)年二月に弘徴殿と飛香舎が放火され、長保元(九九九)年一月には内裏ではないが東三条殿西対が放火されている。
ではなぜ放火するのか。
理由は簡単で、強盗目的である。長保五(一〇〇三)年は比較的平和な一年であったが、現代人がその時代にタイムスリップしたら物騒極まりない時代に来たものだと感じるであろう。
強盗のターゲットが、現代では到底考えられない存在、すなわち皇室に向かったのである。
強盗というのは襲う相手が金持ちであればあるほどリスクに対するリターンが大きい。この時代最高の金持ちと言えば、それはもう朝廷と決まっている。藤原氏もかなり裕福であり実際に放火の被害も喰らっているが、それでも朝廷と比べれば得られるリターンは少ない。
武士による警護がなされているという点では藤原氏の邸宅も朝廷も同じである。火災を仕掛けてでも犯行に走る覚悟をしたならば、より大きなリターンを得られるターゲットを選ぶであろう。
太宰府に平惟仲が赴いたことで宇佐神宮の勢力を抑えることに成功したことは既に記した。
問題はその後である。
抑えつけられた者がそのまま支配を受け入れ続けるとは考えない方がいい。合法にしろ、非合法にしろ、叛逆のチャンスがあれば叛逆に打って出るものである。
長保五(一〇〇三)年一一月二七日、宇佐神宮に勤める者が、太宰権帥平惟仲の統治が過酷であると訴え出たのである。
ただし、この訴えは却下されている。まさに暴れ回っていた宇佐神宮の武人達を強引にでも抑えるために平惟仲を太宰府に派遣したのだ。その抑えられている人間にとって都合が悪いからと解任を訴え出てこられても、犯罪者が犯罪できなくなったから警察官をクビにしてくれと言っているのと同じで意味はない。
実際、年が変わった長保六(一〇〇四)年も平惟仲は太宰府に居続けたのである。
ただし、宇佐神宮側も黙ってはいなかった。平惟仲のミスを突く訴えを起こしたのだ。
前任の藤原有国の時代、宇佐神宮の建物に経年劣化が起こっていたため修理するべきとの上申が出されていた。そして、藤原有国の上申が認められ、宇佐神宮修復の費用が下賜されたのである。
ところが、藤原有国が京都に戻り平惟仲が太宰府にやってくると、宇佐神宮修復の動きが止まってしまったのだ。
宇佐神宮側は平惟仲が公費を着服したと訴えたのだ。
この頃一つの日記文学が誕生した。
「和泉式部日記」である。
この日記の著者である和泉式部は、この時代の女性としてはごく普通のことであるが、本名ではない。
天元元(九七八)年頃に越前国司大江雅致と、越中国司平保衡の娘との間に生まれ、長保元(九九九)年頃に和泉国司である橘道貞と結婚して和泉国に移った。和泉式部の名は夫の職名に由来する。
橘道貞は藤原氏でもない国司の娘としてはごく普通の結婚相手ではあったのだが、この夫婦生活はうまくいかず、和泉式部は夫と別居して京都に戻ってしまう。ここで和泉式部と出会ったのが冷泉上皇の第三皇子である為尊親王である。
かたや藤原氏でもない地方官の娘、かたや上皇の皇子、この身分違いの許されぬ恋に和泉式部はのめり込んでしまったのだ。
その恋の終わりは突然であった。長保四(一〇〇二)年に為尊親王が薨去してしまったのである。その上、為尊親王との許されざる恋のために父である大江雅致から勘当され、捨ててしまった夫の橘道貞との関係は完全に冷え切ってしまい、京都で頼れる者が誰もいないという境遇であった。
その和泉式部の前に現れたのが、為尊親王の弟である、冷泉上皇第四皇子の敦道親王であった。当初は最愛の人をとの別れに哀しむ和泉式部を慰める手紙とその返信というやりとりであったが、次第にこの二人の関係は深まっていき、ついには敦道親王のもとに和泉式部が招き入れられることとなる。
この、和泉式部と敦道親王との恋愛成就の日々を綴ったのが和泉式部日記である。
日記の期間は短く、長保五(一〇〇三)年四月から長保六(一〇〇四)年一月と短い。それは、長保五(一〇〇三)年一二月一八日に和泉式部が敦道親王のもとに迎え入れられたからで、恋愛が成就するまでの過程を描いた日記は、成就した後まで記されるものではなかった。
清少納言を酷評した紫式部は、この和泉式部についても評価を下している。「和泉式部は面白い文章を書くが、和泉式部本人はけしからん」と。
宇佐神宮の者が都にやってきて太宰権帥平惟仲を訴えていることは平安京に住む人たちにとって日常の光景になっていた。
そしてやっかい問題へと発展していった。
宇佐神宮を見習ってか、他の寺社も訴えを見せるようになったのだ。
本音は共通している。自分たちの所有する荘園に与えられた免税の権利を守ると同時に、所有する荘園を増やすことである。
もっともそんな本音など口にするわけなどない。その代わり、自分たちにとって目障りな存在を訴え出たのである。荘園の保持と拡張にとって邪魔になる存在と言えば、納税を求める真面目な国司、あるいは、隣接する荘園の所有者である。
どちらも朝廷の支配の及ぶところにいる者であることに違いはなく、朝廷の権威によって免職させることに成功すれば寺社にとって大成功である。
道長は当初、こうした訴えをことごとく無視していた。ところが、相手は宗教団体。逆らうと神罰や仏罰が下ると訴えるのみならず、次から次へと交代でやってきては連日のようにデモを繰り広げる。しかもそのデモの中には武装した者も混じっており、デモに逆らうと命に関わる。おまけに、デモの維持費用は寺社が負担してくれるから、現在のプロ市民と同様、デモに参加することが職業になったのである。
無論、こうしたデモに嫌悪感を示す者もいた。長保六(一〇〇四)年二月二六日、住吉社神人らが、陽明門の外で藤原説孝から襲撃されたことを訴えたのである。このときの藤原説孝は摂津国司であり、この訴えの目的は暴力を振るわれたことではなく摂津国司藤原説孝の解任である。
なお、このときの訴えは失敗している。名目より本音が全面に出過ぎてしまったからとするしかない。
一方、宇佐神宮のほうは一枚上手であった。前年に訴え出た内容である太宰権帥平惟仲の公費着服の証拠集めに奔走し、その結果集まった証拠を突きつけて、長保六(一〇〇四)年三月二四日に再度、太宰権帥平惟仲の罷免を訴え出たのである。
公費着服となるとこれはもう処罰せざるを得ない犯罪である。しかも今回は証拠が出てしまっている。
かといって、宇佐神宮がこれまで九州でどれだけ暴れ回っていたか知らない者などいない。平惟仲が太宰権帥として宇佐神宮を抑えつけることで、九州の安定に寄与した成果は計り知れないのである。
議論は延々と続いた。宇佐神宮の言い分に耳を傾けると寺社の暴れ周りがさらに悪化する。しかし、平惟仲の公費着服は否定できない。本当に着服したかどうかは不明でも、下賜した公費が使用されることなく宇佐神宮の建物が修繕されていないのは紛れもない事実だったのである。
長保六(一〇〇四)年六月八日、結論が出た。太宰権帥平惟仲の執務の一時停止である。ただし、あくまでも一時停止であり、太宰権帥は平惟仲のままであるし、平惟仲は中納言の権限を有したまま太宰府に居続けることとなった。
長保六(一〇〇四)年七月二〇日、寛弘に改元。前回の改元で責任者となってかなり忙しい思いをした藤原行成であるが、このときは責任者でなく第三者の立場でいられたのでかなり気楽な感じで記録に留めている。
もっとも、藤原行成は気楽でも、左大臣藤原道長は気楽だなどと言っていられない。改元するように一条天皇が命令したところ、上奏されてきたのは「寛仁」。はじめのうちはこれで問題ないと思われたが、よくよく調べてみると、一条天皇の諱(いみな)は「懐仁(やすひと)」。さすがに重なることは許されず、慌てて新元号の二文字目を変更し、「寛弘」となった。
藤原道長自身が残した記録によると、この議論の場に参加していたのは右大臣藤原顕光、内大臣藤原公季をはじめとする一一名。必ずしも議政官の者と限ってはおらず、勘解由長官である藤原有国や、左大弁藤原忠輔、そして、前回の改元の責任者でもあった右大弁藤原行成もいた。当代の頭脳が結集したと言っても良い。
その頭脳が結集したはずの会議なのに、新元号候補が天皇の諱と重複しているのに気がついたのは左大弁藤原忠輔ただ一人である。
その不可解さに疑問を持ったが、よくよく考えてみれば、日本人の多くは天皇陛下や皇太子殿下の名を知らない。天皇陛下、皇太子殿下が呼び名であり、名で呼ぶのは不敬であると考えている。
言論の自由が保障されている現在でさえ、天皇陛下、皇太子殿下と呼ばずに名で呼ぶのはかなりの勇気が要るものであるし、そもそもそんな勇気を見せたところで何のメリットもない。天皇制反対を訴える人なんだと思われればまだマシで、人としての礼儀を知らない残念な知性の人間と扱われて終わりである。
ましてや、いくら藤原道長が言論弾圧をしないと言っても、皇室に対する思いが現在と比べものにならないほど高いこの時代、天皇の諱を知らないことはおかしなことではなかった。それこそが礼儀なのだから。
寛弘元(一〇〇四)年一二月二八日、太宰権帥平惟仲の解任が決議された。宇佐神宮の訴えに屈した形になるが、もう一つ止むに止まれぬ事情があった。
平惟仲が倒れたのだ。このときの平惟仲はすでに六一歳という高齢であり、年齢的に限界とするしかなかった。現在でこそ六一歳はまだ現役世代としてカウントされる年齢であるが、当時は五〇代で高齢者扱いされる時代である。現在の感覚でいくと八〇歳を過ぎてもなお第一線で活躍しているというのに等しい。
その高齢者である平惟仲本人は宇佐神宮に対抗する意欲を持っているのだが、年齢からくる体力の低下がそれを許さず、ついに過労から倒れてしまったのである。
道長としてもこれ以上の負担を平惟仲に掛けることは許されないと判断せざるを得なかった。
宇佐神宮に屈する形になろうとも、平惟仲をこれ以上太宰権帥とし続けるのは無理だと決断したのである。
平惟仲が倒れたことについて、宇佐神宮側は神からの天罰であると宣伝したが、この宣伝を受け入れる者は少なかった。それまでさんざん悩まされてきた宇佐神宮の暴挙を抑えることに成功していたことで、太宰府の平惟仲の評判も高いものがあったのだ。
この評判に平惟仲は最後まで応える道を選んだ。
太宰権帥から解任されたことは受け入れたが、都に戻ることは拒否したのだ。
それは、平惟仲を守るために九州まで派遣された武士たちがこれからも太宰府に留まり続けることを、つまり、武力による宇佐神宮への圧力を続けることを意味した。
宇佐神宮は、要求の全てがかなえられたのに、要求していたことが何一つ実現しなかったこととなる。