源氏物語の時代 6.三条天皇
寛弘六(一〇〇九)年一〇月五日、里内裏として事実上の内裏として機能していた一条院が焼亡した。一条天皇は緊急避難措置として織部司庁に遷ったが、内裏とするには手狭な建物であった。
一条院は、その本来の目的こそ一条天皇退位後の住まいであったが、何度となく里内裏とされたために改築が進み、現在となっては内裏以上に内裏に相応しい設備を整えた建物となっていた。おまけに大内裏に近いから貴族や役人の通勤に支障が出ることも少なく、過去二回の内裏の火災と違い内裏の大規模な全面改修を命じたこともあって、一条天皇は内裏が復旧するまでの間、つまり、少なくとも数年はこの一条院に腰を据えるつもりでいたのである。
その一条院が焼け落ちた。
かといって、一条院以上に内裏に相応しい建物となるとどこがあるだろうかという話になる。
立地条件も、設備も、一条院以上の環境は用意できない。そんな便利な建物がそうやたらとあるわけないのである。
そこで着目されたのが枇杷殿である。寛弘六(一〇〇九)年一〇月一九日、一条天皇が枇杷殿に遷った。なお、枇杷殿自体は藤原道長個人の所有物件であり、その物件を一条天皇のために差し出したこととなる
枇杷殿は、立地条件は問題だったが、少なくとも敷地面積は内裏として申し分なく、少し改良を加えれば内裏として使用できた。大内裏から遠くなることさえ目をつぶれば、一条院復興までの間の里内裏として機能できるのだ。
この枇杷殿を里内裏として推挙したのは道長である。いかに内裏として使用すると言っても、個人の邸宅を内裏とすることはできない。考えてみてほしい。財産をはたいて手にしたマイホームを、タダで譲れと言われて譲れるものだろうか。しかも、その間の補償なしで。ゆえに、邸宅として用意できるのは現在誰も住んでいない邸宅しかないのである。それがこの時点では枇杷殿であった。藤原道長個人所有で、しかも空いている。おまけに内裏機能に必要な改築は道長が負担するというのだから、これ以上の好条件はない。
それに、一条天皇にとっても枇杷殿が第一候補だったのである。理由としては、この時点で妊娠九ヶ月にあった中宮彰子のことを考えてのこと。この時代、入内した女性でも妊娠が発覚したら実家に戻ることが普通であった。当然ながら中宮彰子は実家である道長の邸宅に戻っている。
天皇であろうと間もなく生まれるであろう我が子を放っておくなど考えられる話ではない。国事行為に日々を費やすのが天皇の宿命であると言っても、身重の妻のことを考えるのは世の中の夫として当たり前の話である。
その、一条天皇にとって枇杷殿は実に都合が良かった。何しろ、道長の邸宅である土御門殿から五〇〇メートル程度しか離れておらず、しかも、枇杷殿から近衛大路をまっすぐ東に進めば土御門殿に着くのだ。
出産のために実家に戻っている妻の元にいくのですら行幸という特別な儀式になるのが天皇の宿命。その宿命を数多く行なうためには、行幸の規模を小さくすればよい。近くの建物に行くだけなら行幸の規模を限界まで小さくできるのだ。
一条天皇の配慮もあり、中宮彰子は何ら気兼ねなく出産できた。
寛弘六年(一〇〇九)一一月五日、一条天皇の第三皇子となる敦良親王、生誕。
出世を止めることで貴族のリストラをはかっていた道長も、出世させないことの弊害を抑えることはできず、寛弘七(一〇一〇)年一月時点でこのような結果になっていた。
正二位、七人。従二位、八人。正三位、三人。従三位、六人。
権大納言、二人。権中納言、四人。
またもや大臣クラスでありながら大臣になれない者が続出し、大納言に相応しい位階でありながら参議にすらなれない者が登場したのである。
それでもトップが正二位左大臣藤原道長であるという一点だけは絶対に崩さなかった。道長は左大臣として議政官を操ることで権力を操っていたのである。道長さえ望めばいつでも太政大臣にも関白にもなれたのに、太政大臣にも関白にもなっていない。現在の我々はこの頃の藤原独裁体制を「摂関政治」と呼ぶが、皮肉にも、現在ではその摂関政治の頂点を極めたとされている藤原道長が摂政にも関白にも、そして太政大臣にも就任することないまま、政務を司っていたのである。
かつて村上天皇は摂政も関白も置かない「天暦の治」を実施したが、理論上、このときの一条天皇も摂政も関白も置かない政務を遂行していたのである。しかし、後の世の者が一条天皇の時代を評するときの言葉は「道長の時代」であり、一条天皇の親政の時代ではない。
関白がいないことで一条天皇は国事行為に追われる毎日を過ごすこととなったが、貴族の数を減らしたと同様に、道長は天皇の国事行為を減らしている。それでもかなり過酷なスケジュールであることに違いはなく、関白を置くべきではないかという意見は何度も登場している。
道長に関白に就く資格が無いわけではない。それどころか、道長は本来なら関白でなければならない人なのである。それなのに、道長は関白に就こうとしなかった。関白に就くことなく、左大臣として議政官を支配するほうが望み通りの統治ができるという思いがあったからである。
関白になることを望みながらなれずにいる者がたくさんいるというのに、関白になれるのに関白にならないという道長の決断を恨めしく思っていたであろう人が一人いる。
藤原伊周である。
うまくいけば自分が関白になれたのにという思いを抱き続けていた藤原伊周であるが、その思いに終止符を打つときがやってきた。と言っても、願いが叶ったわけではない。
寛弘七(一〇一〇)年一月二八日、藤原伊周死去。
一条天皇には男児がいるが、まだ幼い。
一条天皇の皇太子は、一条天皇から見て従兄にあたる居貞親王である。「従兄」の書き方からもわかる通り、一条天皇より歳上という異例中の異例としても良い皇太子である。
これは皇統の流れを考えてのことであった。村上天皇の子のうち、兄である冷泉天皇が先に即位し、冷泉天皇のあとは冷泉天皇の弟である円融天皇が即位した。円融天皇のあとは冷泉天皇の子である花山天皇が就き、花山天皇のあとは円融天皇の子である一条天皇が就いた。
つまり、冷泉天皇流と円融天皇流とで皇統を順々に受け継ぐとなっていたのである。
現在は円融天皇流である一条天皇であり、冷泉天皇流に皇統を戻すとなった場合、冷泉天皇流でもっとも帝位に近いのが居貞親王であった。
本来は。
ところが、冷泉天皇流と円融天皇流とで皇統を順々に受け継ぐことになった裏には、そもそも天皇として政務をこなせるだけの年齢の子がいないという事情もあったのだ。つまり、一条天皇の子が成長し、少なくとも元服を迎えたなら、居貞親王ではなく、一条天皇の子が帝位に就くのも何らおかしな話では無かったのである。
居貞親王の立場は極めて微妙であった。
その微妙な関係を見直すために、一条天皇のもとに道長の長女である中宮彰子が嫁いだように、居貞親王のもとにも誰かを嫁がせることを道長は考えるようになった。
そして、道長には絶好の存在がいた。次女の藤原妍子である。姉と同様に天皇の后となるべく教育を受けてきた藤原妍子にとって、皇太子居貞親王は申し分ない相手であった。三五歳の皇太子のもとに一七歳の藤原妍子が嫁いでくるという一八歳の年齢差がある関係であったが、左大臣の娘を妻の一人とするというのは居貞親王にとってもメリットのある話であったためスムーズに進んだ。
ただし、居貞親王は正暦二(九九一)年に藤原済時の娘娍子を妃として迎え入れており、正暦五(九九四)年には敦明親王をさずかっている。中宮定子がいるにもかかわらず彰子を入内させたのと同じ光景がここで展開されたのである。
最後の六国史である日本三代実録の時代から一〇〇年を経過している。
本来、国史を記すのは新しい時代の移り変わりを示す、つまり、これまでの時代が終わりを迎え、これから新しい時代が始まることを示す意味がある。中国のように頻繁に国が変わる土地では、新たに起こった国が自分たちの前の国の歴史を記すことで、国の正当性を示す必要があったが、日本の場合は伝説の時代から皇朝が連綿と続いている国であるため、そもそも「新しい国」などという概念がない。
それでも一〇〇年という長きに渡って正式な国史がないというのは異例なこととするしかない。
一〇〇年の間には何度か日本三代実録の続きを記そうとした試みがある。朱雀天皇が計画したという記録もあるし、村上天皇も計画したという記録もある。そして、一部では草稿もできあがっていたらしい。しかし、それらの草稿が日の目を見ることがないまま放って置かれていた。
この草稿に目を向けたのが藤原行成である。
さらに藤原行成は村上天皇の残した記録についてもまとめはじめている。
おそらく、藤原行成は正式な史書を残して後世に伝えるべきだと考えたのであろう。藤原行成の残した日記を見ると、寛弘七(一〇一〇)年に入ってから村上天皇の残した記録を読みふけっていたことが記されている。
そして準備を重ねた末の寛弘七(一〇一〇)年八月一三日、七番目の国史編修について提案をした。提案は難なく受け入れられ、国史編纂が決まった。
ただし、藤原行成が想定していた結果は出なかった。国史編纂の実務責任者として大外記の菅野敦頼が任命され、藤原行成は編纂に携わることができなかったのである。
源氏物語には外国人が出てくる。
そう聞くと「え?」と思う人がいるかもしれないが、源氏物語第一帖「桐壷」に高麗人が登場しており、幼い光源氏の顔を見た高麗人が、光源氏の未来についてこのように記している。
「国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の、そなたにて見れば、 乱れ憂ふることやあらむ。朝廷の重鎮となりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし
(国のトップになれる子だが、トップになるのはこの子の幸せにはならない。かと言って、天皇のサポートをする役目を引き受けさせればればよいのかと言うとそれもまた違う)」
天皇の子として生まれた光源氏は、この高麗人に会うまで皇族であった。しかし、この言葉をきっかけにして光源氏は「源」の姓を与えられて臣籍降下することとなった。
源氏物語はこの時代から一〇〇年ほど前であることを想定して作られた小説だから、ここに出てくる高麗人は、紫式部が源氏物語を書いている時代の朝鮮半島を意味する高麗人ではなく、一〇〇年ほど前は高麗と呼ばれることもあった渤海人であった可能性もある。史実としても、渤海からの使者が朝廷に姿を見せることは頻繁にあったが、朝鮮半島に成立した高麗王国からの使者はいない。
おそらく、この時代の読者たちは、リアルな朝鮮半島の王国である高麗ではなく、昔の外国人という感覚でこの高麗人を眺めていたのであろう。なぜなら、リアルな高麗王国はとてもではないが憧憬を抱ける存在ではなかったからである。
この時代、高麗は契丹の属国となっていた。高麗王は契丹皇帝の家臣とされ、高麗は毎年、契丹への貢納を欠かさなかったのである。それが平和の代償でもあったのだが、この状況下の高麗に政変が起こった。高麗王の家臣の一人である康兆が、高麗王国第七代国王の穆宗を殺害し、傀儡として操れる顕宗を王に就けたのである。
契丹から見れば、穆宗は信頼できる王であった。
契丹が高麗に求めていたのは朝鮮半島から契丹に侵略してこないこと、そして、高麗の貧民が契丹に逃れてこないことである。それさえ守られるなら高麗の卑屈なまでの臣従の誓いなどどうでもよかった。貢納も相互不可侵の約束履行の意味でしかなかったのである。契丹に納める税の量などシンボル的なものでしかなく大した負担ではなかったのだ。
ただし、大した負担ではないという点が問題であった。このようなことは誇りに関わる話である。いかにそれが平和のためにやむを得ない行為であると説得しようと、誇りのためには戦争だって構わないとする考えの人には通用しない。
そのような人物が高麗の実権を握ったのだ。
安全保障が脅かされた契丹は、ただちに高麗への進軍を決定する。その軍勢はおよそ四〇万人と言われた。
一方、契丹の支配を受けていた高麗にとっては、契丹の支配からの独立のチャンスである。ここで抵抗を示し契丹の勢力を朝鮮半島から追い出せば、史上初となる独立が成功するのだ。朝鮮半島に国家が誕生してからこの時点でおよそ一〇〇〇年。その間ずっと朝鮮半島は常にどこかの支配下だった。唐への海賊行為を欠かさなかった新羅でさえ、その王室は唐の臣下であり、新羅という国家そのものも唐の保護国であった。
一〇〇〇年もの長きに渡って夢見ながら一度として実現できなかった独立を果たすチャンスとあって、高麗はかなり無茶をして三〇万の軍勢を集めることに成功した。
四〇万人に対し三〇万人では少ないと思うかもしれないが、侵略してくる契丹軍を待ち構えるという構図であれば問題ない兵力の差である。一般に防衛戦は、守る側の戦力は攻め込む側の戦力の三分の一で拮抗できる。
ただし、強引な徴兵をしたために、高麗の農村はガタガタになった。働き手の男子がことごとく強制連行されたために田畑を耕す者がいなくなったのである。
これが高麗の現実であった。
これがもし、高麗が同盟国で契丹が純然たる侵略者であれば日本の国内世論は高麗への同情となったであろうし、源氏物語に登場する高麗人も同情の念を持って迎え入れられたであろう。
だが、この時代の日本人にとって高麗が契丹に侵略を受けていることは複雑な感情を抱かせるものであった。
まず、日本人にとっての高麗人とは犯罪者である。海賊であり、山賊であり、盗賊であり、侵略者である。海沿いを歩いていた人がある日突然行方をくらました末に、高麗に連れ去られて奴隷として売り払われることも珍しくなかった。あの国の拉致は二〇世紀に始まった話ではない。対馬や壱岐が高麗軍の襲撃を受けたのはついこの間の話である。
一方の契丹は、はじめの頃こそ日本の同盟国である渤海を滅ぼした蛮族という認識であったが、新羅や高麗と違って日本に犯罪を仕掛けてくることも、軍勢を差し向けることもなかった。かつての渤海の頃よりは頻度が減ったとは言え、貿易相手国として互いにWIN・WINの関係も築けていた。
こうなると、信頼できる貿易相手国が、日本への侵略と犯罪を止めない敵国を懲らしめてくれているという感覚になる。高麗が契丹に侵略され、高麗が契丹の支配下に置かれるようになったことに同情の余地は無かった。
この状況で高麗が契丹に対して立ち上がったとしても、日本に迷惑が掛からない限り好きにやってくれ、とか、そんなことより日本国内に潜入した高麗人犯罪者をどうにかしろという感想しか抱けない。
そして、高麗も日本に援軍を要請することは無かった。さすがに自国と日本との関係については把握できていたようである。
契丹による高麗侵攻は、このようなときによく見られる複数の国が絡み合った世界大戦とはならず、純然たる高麗と契丹との戦争になったのである。
そして、かなり壮絶な争いになったのである。
契丹の四〇万人の軍勢は皇帝聖宗が自ら率いる軍勢であった。国の安全のかかっている戦いであり、また、聖宗自身がこれまで何度も大軍を率いて戦勝をおさめた実績もあった。契丹の東の女真族、西のウイグル族、そして南西の宋のいずれにも勝利をおさめており契丹はこれで平和を築き上げたと考えていたのである。そこに飛び込んできた高麗独立運動の知らせは、血で掴み取ってきた契丹の平和を乱す許されざる裏切りに感じたのである。
一方の高麗は、平和を破壊してまで目指した独立であり、ここで折れることは許されなかった。そのために無茶を承知で集めた三〇万の軍勢を配備した。
一一月、拮抗状態であった両軍がついに激突。
情勢は契丹有利と思われていたが、高麗の前線司令官であった楊規は興化鎮に立てこもることで契丹軍四〇万の軍勢のうち二〇万人を釘付けにすることに成功。ただし、ここでさすがに契丹皇帝聖宗は全軍を投入して興化鎮を陥落させることを目標とはせず、二〇万人の釘付けで逆に楊規を動けなくさせることに成功し、残る二〇万人の軍勢で高麗への侵攻を始めた。
高麗軍の最高司令官である康兆は通州城で契丹軍を一度は撃破したものの最終的には敗北を喫して一万人を超える高麗軍が戦場に散り、康兆もまたその一人として戦場へと消えていった。
朝鮮半島が戦乱に包まれていた頃、日本は平和だった。
この時点における一条天皇の住まいを改めて整理すると、まず、内裏が焼け落ち、内裏から避難した一条院も焼け落ち、結果として枇杷殿に遷っている。
臨時の避難先であるはずの一条院も焼け落ちた結果としてやむを得ぬ形で遷った枇杷殿は、立派で、かつ風流な建物であり、一私人として生活するには実に快適な邸宅であったが、内裏とするにはやはり問題の多い建物であった。
何と言っても大内裏から遠い。
内裏はそもそも大内裏の中で内裏以外の建物と密接している。
一条院も内裏以外の省庁の建物と近いので、役人は簡単に異動できる。
ところが、枇杷殿はやはり遠い。しかも、枇杷殿から大内裏までの間には無数の貴族の邸宅がある。
この時代のマナーに従うと、牛車に乗り、邸宅前に来たら牛車を降りて歩き、通り過ぎたらまた牛車に乗る。これを何度も繰り返さなければならないのだが、面倒くさいことこの上ない。
面倒くさいことぐらい我慢すればいいではないかという人は仕事というものを理解していない。仕事において面倒に感じる所作は、本来やらなくてもいいことを無理矢理やらされているときに感じる感情なのだ。つまり、本能で無駄と感知している。
仕事の効率化を考えるとき、真っ先に行なわねばならないのは無駄を省くことである。たとえ礼儀として定められていることであろうと、そこに面倒であるという感覚を抱くようになったら、その作業は仕事と関係ない作業である可能性が高い。
例えば、会議や書類づくりに時間がとられていて本来の仕事ができないと嘆くサラリーマンは多い。それは、会議も書類づくりも仕事と関係ない面倒で無駄な作業だからである。特にそれが、仕事において一分一秒を争っているときに求められるとした場合、面倒に感じる作業は無益を越えて有害な作業となる。
話を平安時代に戻すと、いくらそれがマナーであると言え、邸宅前を通り過ぎるたびに牛車の乗り降りを繰り返すには面倒この上ない。特に一分一秒を争っているときにそんなマナーなど守っていられない。
会社の中には「カイゼン」として仕事において現在抱えている問題点を解決させようと、会議をさせ、問題点解決のために仕事を増やすところがあるが、これは面倒な仕事を増やすだけで問題解決どころかむしろ悪化につながる。ただでさえ限界まで仕事を抱えているのに、これに仕事を加えたら、例外なく仕事において抱えている問題は悪化する。もし文字通り「改善」したとすれば、それは、「カイゼン」などしなくても勝手に改善するものを、わざわざ遅らせただけでしかない。
話が逸れたので元に戻すと、枇杷殿を里内裏とする問題を解決する方法は、どんな「カイゼン」をしても無駄である。解決する方法は一つしかない。一条院に戻るのだ。そうすれば大内裏にも近くなるし、貴族の邸宅の前を通り過ぎるときに牛車の乗り降りなど気にしないでよい。何しろ、一条院は道路一本挟んで大内裏と向かい合っているのである。
現場の人間にサービス残業を強要して「カイゼン」させるより、上役が部下の不満を察知して、部下の不満が噴出する前に抜本的な改革を、それも部下の負担を減らす改革をする方が、よほど「改善」につながる。
一条天皇の判断は、出来よりもスピード重視で、一条院の復旧工事を完了させ、ただちに、一条院に戻るというものであった。
内裏は一条天皇即位から現在まですでに三回も焼け落ちている。ゆえに、ここは抜本的な工事をして内裏の火災を二度と起こさせないようにしなければならない。抜本的な工事をする以上はそれなりの時間を要するから、すぐに内裏に戻るのは無理である。
だが、一条院の再建ならば急がせることはできる。内裏が復旧するまでの臨時の内裏であればいいのだから、多少の復旧状態の悪さも見ないことだってできる。
寛弘七(一〇一〇)年一一月二八日、一条院の復旧工事が完了し、一条天皇はただちに枇杷殿から遷った。
同日、藤原道長が一条天皇に、摺本「注文選」「文集」などを献上した。
日本が天皇の住まいをどうするかであれこれ話し合っているまさにその頃、高麗王朝は存亡の危機に瀕していた。国内の要所が次々と契丹の手に落ちただけで無く、総司令官である康兆の戦死が大きな衝撃となっていたのである。
ここで契丹に降伏するこも検討されたが、高麗王朝の選択は逃避行であった。首都である開京(現在の北朝鮮の開城市)を放棄して南に逃れたのである。
一二月二八日、高麗王朝の主立った面々は朝鮮半島南西部の羅州を臨時首都とした。この時点で高麗の領土の北半分は契丹の手に置かれるようになっており、翌年一月一日にはついこの間まで首都であった開京が陥落した。
最後の抵抗を見せたのは高麗王朝の者ではなく首都に住む一般庶民達であった。しかも主立った者はとっくに戦死していたか王朝とともに南に逃げた後であり、指揮する者のいないゲリラ的抵抗を見せるしかなかった。
このゲリラがある程度の効果を示したものの、それが契丹を追い詰めるどころか、かえって契丹の攻撃を強めるものとなった。
ただし、契丹皇帝聖宗は開京占領後、この戦争の本来の目的に振り返った。
この戦争の目的は高麗が契丹に対して攻め込ませないようにさせることである。すでに国力を使い果たしていた高麗は契丹に攻め込む可能性など無いと判断し、ここで講話を持ちかけた。
年が明けた一月一一日、高麗、契丹に降伏。
高麗は契丹に興化・龍州・通州・鉄州・亀州・郭州の六州を割譲。
顕宗の高麗国王を承認するが、顕宗は契丹に赴いて即位の許可を受けること。
毎年の朝貢を今後とも続けること。
これが契丹からの条件である。
この条件を受け入れた高麗は、再び契丹の保護国へと戻っていった。
藤原道長は、藤原氏の後継者になることを期待された少年時代を過ごしたわけではない。父である藤原兼家から受けていた期待は、後継者である藤原道隆、そして、道隆の子を支える貴族の一員になることであった。
つまり、少年時代の道長に近寄るのは、藤原氏の後継者としてではなく、道長個人に惹かれてのつきあいであった。
ひるがえって藤原頼通はどうか。
元服した時点でもう藤原氏の後継者になるのが決定していた。
この頼通に近寄るのは、頼通個人の魅力ではなく、頼通の持つ藤原氏の後継者というステータスに惹かれてのものである。
頼通だってそれに気付かないわけではない。気付かないわけではないが、チヤホヤされると否応なく勘違いさせられる。牛車に乗ったまま右大臣の邸宅を通り過ぎようとしたという当時のマナー違反も頼通の勘違いの一つである。さすがにそのときはマナー違反を咎められたが、頼通を勘違いさせる動きは止まること無かった。
寛弘八年(一〇一一)二月一五日、藤原頼通が春日祭に参った。春日祭は奈良の春日社の例祭であり、頼通が春日祭に出向くということはすなわち、京都から奈良まで頼通が移動することを意味する。
ここまでは普通である。
永延三(九八九)年二月から三月にかけては幼き一条天皇を春日社に行幸させるかどうかを巡って論争を呼び込んだが、このときは藤原氏の一貴族でしかない藤原頼通が春日社に参るだけで論争を呼ぶ要素はどこにもない、はずであった。
ところが、この藤原頼通の参詣に同行を申し出る貴族が続々と現れてしまった。本来ならば頼通とその従者たちだけの数名から数一〇名程度の人員になるはずであったのに、同行したいという者をあるがままに受け入れたら一〇〇〇人を超える大行列になってしまったのだ。
しかも、この大行列は単に京都から奈良に移動しただけではない。京都市中で既に隊列が組まれ、壮大な行列となって京都を練り歩いてから奈良へと移動したのである。
このような行列を迎える側は本来ならばかなりの負担となるところであるが、時代をきらめく藤原道長の子であるだけでなく、頼通自身が既に権中納言であるため、負担を上回るだけのお土産を頼通からもらっている。このあたりは父親の教育が生きていると言えよう。おかげで、迎える側は臨時出費も大きいものとなったがそれを上回る臨時収入を得たのである。
このとばっちりを受けたのが一条天皇である。
本来なら一条天皇の側に付き従うべき役割を持つ者まで頼通に付き従ったため、宮中では一条天皇に食事を運ぶ者までいなくなる始末。そのため、本来なら物忌みのために出勤しない予定であった藤原資平(藤原実資の養子)が養父に命じられて出勤して一条天皇の相手をしたほどである。
寛弘八(一〇一一)年四月一〇日、それまで緊張状態であった藤原道長と皇太子居貞親王との関係がついに爆発した。
雇用主の緊張は被雇用者にも及ぶ。それもより接点が強いだけにより緊縛の度合いが高まり、爆発したときの惨劇もより間近なものとなる。
その日、道長の従者たちが、一条院の前の道路の工事をしていた。これ自体はどうということのない日常の光景である。
ところがここで、皇太子居貞親王の主馬署の舎人が襲撃してきた。被害者は一方的に殴られた後、主馬署へと連行されたという。殴り倒された上に拉致監禁されたのだからこれは普通ではない。
相手が皇太子に仕える従者ということもあり、道長の従者だけで対処できる案件ではないと道長は判断。道長の直筆の書状を皇太子居貞親王に仕える東宮大夫の藤原懐平に送ることとなった。
この書状に対する返信もあったがそこに謝罪の言葉はなく、「以前この男に殴り倒されたので、逮捕して牢獄に連れて行く」という回答であった。そして、連行された者は縛られて居貞親王の邸宅の馬屋に監禁されていた。
現在、こんなことをしようものならただちに監禁罪で逮捕されるものであるが、この時代は問題なかった。犯罪を受けた証拠がある場合、加害者に対して被害者が仕返ししても問題なく、加害者を縛り付けて自宅に監禁しても許されたのである。無論、皇太子という特殊事情があるが、その特殊事情が無かったとしても許容されるケースだったのである。
もっとも、同僚を拉致された道長の従者たちが平然としていられるわけはなかった。
そして「復讐を果たした」「正義はなされた」と考える居貞親王の従者たちも、道長の従者たちからの復讐が来るものと待ち構えていた。
現存する史料にはその後の記述がない。
それでも、ある程度想像はつく。
道長と居貞親王の関係はお世辞にも良好では無かったが、これで決定的になった。
御堂関白記の最初のその記録が登場するのは寛弘八(一〇一一)年五月二三日のことである。一条天皇の体調がここ数日良くなかったが、どうもここに来てかなり悪化したようだと記されている。なお、全く同じ時期に藤原行成も病に倒れたため、行成の残した記録に一条天皇の病気についての記録は無い。
どのような症状が一条天皇の身に起こったのかはわからない。史料を見ても、体調悪化と記されているだけである。
一条天皇は身の危機を感じたらしく、五月二七日、皇太子居貞親王を呼び出している。一条天皇は決意したのである。自らの体調が回復しそうに無いことを、そして、幼い我が子が皇位に就くのでは日本の国政を不安定なものにさせると考え居貞親王に譲位することを決意したのである。
これに危機感を抱いたのが道長であった。道長とて皇太子居貞親王が次期天皇であることぐらいわかっている。だが、それはまだ一条天皇の子が幼いからであり、時とともに自らの孫である敦成親王が帝位に近づくものと見ていた。少なくとも元服すれば皇太子の交代だって可能になる。
それでも、一条天皇の容態を目の当たりにした道長は、来るべき時が前触れなく来てしまったと覚悟するしか無かった。
六月二日、一条天皇が退位し、居貞親王が新天皇として即位する方針であることが公表された。なお、ただちに天皇交代となるのではなく、正式な交代は後日発表となるとだけ決まった。
六月八日、天皇交代は六月一三日であると宣告された。陰陽師に吉日を占わせた結果である。しかも、手順もこだわっており、六月一三日に東三条殿に入り、七月一〇日に朱雀院に遷り、八月一一日に内裏に入るべきとするものであった。かなり悠長なことを言っていたと感じたが、天皇の交代という一大事を控えている以上、悠長なことでも陰陽師の言う通りにすべきというのがこのときの共通認識となっていた。
皇太子のことは「とうぐう」という。「とうぐう」には「東宮」と「春宮」の二種類の漢字表記があり、「東~」は地位としての皇太子、「春~」は皇太子個人という違いがある。なので、皇太子が天皇として即位した場合、「春宮」に仕えている人はついこの間まで皇太子であった新天皇の側近となるのに対し、「東宮」に仕えている人は新たに任命しなおされた新しい皇太子に仕えることとなる。
これはオフィシャルな意味としての皇太子の呼び名であるが、オフィシャルではない呼び名として「儲けの皇子」と言うこともある。これは許容できる範囲のあだ名としていいだろう。居貞親王も「儲けの皇子」と呼ばれることは何ら苦痛ではなかったはずである。
ところが、居貞親王のことを「逆さまの儲けの皇子」、つまり、天皇より歳上である老いた皇太子と揶揄する歴史書を残した者がいる。
それは慈円という僧侶で、その僧侶の残した歴史書を『愚管抄』という。ただし、ここで注意が一つ必要で、『愚管抄』は確かに日本国の歴史を神武天皇から代々記しているが、『愚管抄』の成立したのは承久の乱の前後。つまり、この時代から二〇〇年後のことであり、感覚で言うと、二一世紀に住む我々にとってのフランス革命の頃となる。よって、『愚管抄』における居貞親王への非難は、『愚管抄』の時代背景を踏まえながら読まなければならない。
以上を踏まえ『愚管抄』に戻ると、居貞親王は一条天皇を呪い殺そうとし、一条天皇が病気になったのを喜び、亡くなることに喜びを隠さなかったなどと記しているのであるが、一条天皇時代のどの記録を見てもそのようなことは記されていない。他の時代であれば記録が残っていないという理由も挙げることができるが、何しろこの時代は源氏物語の時代である。藤原氏を否定する言論も問題なしなだけでなく、文書の絶対量が多い。そのような時代にあって、一条天皇の不幸を喜ぶ皇太子がいたという記録が残っていないのは、そもそもそのような喜びがなかったからではないかと結論づけるしかないのである。
後世の歴史書という点では『愚管抄』と同列に扱える『大鏡』における居貞親王は、不遇ではあるが愛される存在として描かれている。『大鏡』の成立したのはこの時代から五〇年ほど後のことと推測されるので、居貞親王に対する評価としてはより真実に近いであろう。それでも後世の者が振り返ってのことであるから、現在の者が昭和三九(一九六四)年の東京オリンピックについて記すようなものであるから同時代史料とは言えない。
我々の読むことのできる皇太子居貞親王についての同時代史料は無いのか?
ある。それも、ごく普通に書店に売っている。
それは何か?
『枕草子』である。
『枕草子』に居貞親王は登場しており、そこでの居貞親王は、中宮定子の妹を后に迎えた、妻思いの心優しき皇太子である。裏で一条天皇の不幸を願うような人とはとても思えないのである。そして、その証拠もない。
理屈はわかる。二五年という長きに渡って皇太子に留め置かれたのであるから、その原因である一条天皇への怒りの気持ちを持っていたはずだという後世の考えが出てもおかしくない。
ただ、それはあまりにも短絡すぎる感想とするしかない。
寛弘八(一〇一一)年六月一三日、一条院において一条天皇退位。
同日居貞親王が天皇に即位。三条天皇の誕生である。なお、三条天皇が皇太子でなくなったことに伴い、それまで東宮傅(とうぐうのふ)として皇太子の身の回りの世話をする係であった藤原道綱がその職を終えることとなった。「春宮」ではなく「東宮」なので本来であれば新たな皇太子に仕える役目にシフトするところなのであるが、このときはそうなっていない。
また、皇太子には一条天皇の子である敦成親王が就任するとも決まった。まだ四歳という幼さであるが、冷泉天皇流と円融天皇流との皇位順次交代に従えば順当な線であった。それまで藤原道綱が就いていた東宮傅には右大臣藤原顕光が就任すると発表になった。
三条天皇はさっそく陰陽師の進言に従って東三条殿に移動した。
退位した一条上皇は、退位の翌日、出家の意思を表明するもただちに意識を失い、意識不明の状態は六月一五日まで続いた。
六月一九日、一条上皇出家。病床にあったままの状態での剃髪で、多分に儀礼的なものであった。
出家の翌日、一条法皇の容態がかなり悪化した。
その夜間、目覚めた一条天皇は藤原行成から一杯の水を受け取り口に含むと「もっとも嬉しい」と言ったのち、「私は生きているのか」と訊ねた。かなり朦朧としていたとするしかない。
その朦朧とする意識の中で、一条法皇は一首の歌を残した。
露の身の草の宿りに君を置きて 塵を出でぬることぞ悲しき
この歌は亡き皇后定子に向けて捧げた歌であったと行成は記している。ハッキリとその意味を理解することは難しかったが、一条法皇のこと歌を聴いた者は誰もが涙を流した。
この歌を耳にした中宮彰子は嘆き悲しんだ。一条天皇の心の中にある最愛の女性は皇后定子だったのだ。定子の産んだ子を引き取って育てていることも、自分の産んだ子が皇太子になったことも、一条法皇の最愛の女性の地位を手に入れることにはつながらなかったのだ。
寛弘八(一〇一一)年六月二三日、一条法皇薨去。
三六歳での死である。だが、その治世は二五年という長きに渡っており、平安時代最長である醍醐天皇の三三年に次ぐ二番目の長期政権であった。
一条法皇の薨去の瞬間、道長をはじめとする主立った貴族は立ち会っていない。この時代の貴族達にとって、死とは穢れであり、穢れに接した貴族は一定期間忌み籠もりをせねばならなかったのである。死を予期されていた一条法皇のもとに貴族が近寄らないのはこの時代のマナーであり、藤原行成一人が一条法皇を看取ったのも一条法皇の葬儀に出るためであった。穢れに接した者であれば葬儀に出られるからである。
三日後の六月二五日深夜、亡き一条天皇の遺体は納棺された。自分が最愛の女性ではなかったと知った中宮彰子もこの儀式には立ち会う。
亡き一条天皇の遺体はさらに約半月もの長きに渡って納棺されたままであった。これは陰陽師による日程調整のためである。陰陽師が決めたのは日程だけではない。棺をどこから運び出すかについても陰陽師の決めることであった。このときの陰陽師の下した判断は、葬送は七月八日の夜、出棺は北東。なお、この陰陽師の決定は絶対であり、北東に何があろうと北東である。その結果、一条院の北東にある壁も塀も破壊されることとなった。
その後、亡き一条天皇の遺体を収めた棺は御輿に載せられ、平安京の敷地外に出て、紙屋川北の葬場に到着。藤原行成や僧侶たちが立ち会い、一条天皇の遺体は茶昆に付され、翌早朝に火葬が終わり、参議藤原正光が骨壺を首に掛けて仮安置所となった円成寺に向かった。
実は一条天皇は生前、土葬を願い、父である円融天皇の陵墓の近くに埋葬して欲しいという願いを述べていた。
しかし、その願いは無視された。天皇として亡くなった者の葬儀ではなく、天皇を辞した者の葬儀であり、この時代にしきたりに従い火葬となったのである。
その三日後、一人の能吏が命を落とした。
寛弘八(一〇一一)年七月一一日、従二位参議藤原有国死去。享年六九歳。
三条天皇は基本的に孤独であった。
本質的な性格もあるが、境遇が孤独をもたらした。
母である藤原超子は一九年前に亡くなっている。
妻の父である藤原済時も一六年前に亡くなっている。
藤原超子は道長の実の姉である上に、入内してきた藤原妍子は道長の実の娘だから、三条天皇と道長とは叔父と甥の関係であると同時に義父と婿の関係にあたるのだが、三条天皇と道長の結びつきは弱いとするしかない。
二五年もの長きに渡り皇太子であった三条天皇であったが、皇太子時代、皇太子として相応しい処遇を受けていたわけではない。要は二五年もの長きに渡って放置され続けていたのだ。
皇太子居貞親王に近寄る者は少なく、その少ない者もとっくに亡くなっている。義父を亡くし、母を亡くしたあとの皇太子居貞親王は妻と子たちだけの慎ましやかな暮らしをしていた。その暮らしぶりは、皇族であるとは思われても、皇太子とは思えないほどであった。
それなのに、いざ天皇になる可能性が表面化してくると言い寄ってくる者が続出してくる。これでどうやって心を開けというのか。
特にこれまで無視しておきながら、このタイミングになって、三条天皇の長男である敦明親王と同い年の娘を妻として差し出してきた藤原道長に対して抱く感情は不信感しかなかった。
また、三条天皇の政治思想には祖父である村上天皇の影響が色濃く表れていた。天皇が最高執政者として君臨し、貴族は天皇を補佐する存在であるという考えである。それは、一条天皇二五年の統治システムを、すなわち藤原氏による統治システムを全否定するものであった。
焼け落ちた内裏の復旧工事が完了したのに伴い、三条天皇は内裏に遷ることとなった。事前から予定されていた通り、寛弘八(一〇一一)年八月一一日である。
天皇の行幸に功績のあった者の位階を上げることや新たな役職を与えることはこれまでの慣例であった。そして、三条天皇が内裏に入ったのも理論上は天皇の行幸に含まれる。
三条天皇はここで新たな位を与えるべきだと判断したのであるが、左大臣藤原道長はこれに反対した。ただでさえ三条天皇の即位に伴う昇格があったのだ。もともと藤原道長は貴族の昇格を抑えることで貴族のインフレを防ごうとしてきた人なのである。どんなにインフレ抑制の原則が破られても、いや、原則が破られてきたからこそ、三条天皇の即位から一ヶ月も経たずにまた昇格させるというのは許されないことであった。
一方、三条天皇は道長のインフレ抑制など知ったことではない。インフレを起こしたとしても貴族には相応の成果が示されるべきだというのが三条天皇の意見であったのである。
元からして気が合わないというのがあるにせよ、もっと問題であったのは政治的見解の相違である。互いがそれこそベストであると考えるのが真逆である上に原理原則論をぶつけ合うとなると、議論は延々と平行線をたどる運命を迎える。
三条天皇は、左大臣藤原道長を無視し、右大臣藤原顕光に人事発表を行なわせるつもりであった。だが、右大臣藤原顕光もこの件については道長と意見を同じくしていたし、ここで左大臣に逆らうのは得策ではないと感じてもいたので、言を左右して三条天皇からの要請を拒否。
そこで、三条天皇自らが人事を発表するという異例の光景を迎えることとなった。
さらに三条天皇は、藤原道長を関白太政大臣に引き上げることを模索していた。
理由は明白で、内覧の権限を持った左大臣である現在の藤原道長は、議政官の権力をを一手に握り、事実上の国政最高権者となっている。
だが、関白太政大臣となると議政官から離れることとなる。おまけに関白は単に天皇の相談役なだけの職務であるから、権威はあるが権力はない。
道長は三条天皇がなぜ道長を関白太政大臣にしようとしているのか理解していたし、三条天皇も、なぜ道長が関白にも太政大臣にも興味を示していないのかを理解していた。
ここでもやはり原理原則論のぶつかり合いとなり、寛弘八(一〇一一)年八月二三日、正二位左大臣藤原道長に内覧の権利を与えることで決着した。一条天皇の頃から変わらぬ権力を道長に与えることを約束せざるを得なかったのである。
これは、道長と三条天皇との対決を一勝一敗とするものであった。
三条天皇の一勝は、八月一一日の昇格についてではない。同日の取り決めで三条天皇は一つの勝利を勝ち取ったのである。
それは、最愛の女性である藤原娍子の取り扱い。
道長が送り込んだ藤原妍子はすでに尚侍(ないしのかみ)であり、かつ、従二位という位階を手にしていた。ゆえに、女御宣旨の対象ととなってもおかしな話ではないのだが、この女御宣旨を、この時点で無位無冠である藤原娍子にも与えるという点で三条天皇は絶対に妥協しなかったのである。
一人だけを女御宣旨とするにはその実父が関白太政大臣でなければならないと三条天皇は主張し、関白でも太政大臣でもない藤原道長が実父である藤原妍子はただ一人の女御とするには相応しくないとしたのである。
藤原妍子だけを女御とするなら道長は関白太政大臣となれ。
道長が関白太政大臣にならないなら藤原娍子と藤原妍子の二人をともに女御とする。
これが三条天皇の出した原理原則であり、道長は自身が左大臣に留まることを引き受ける代わりに、娘一人だけを特別な地位にすることは断念させられたのである。
道長は、三条天皇が思いのほか手強い存在であると知らされた。
寛弘八(一〇一一)年一〇月五日、三条天皇の子のうち、敦明親王が三品に叙された。
皇族には、天皇および天皇に準じる皇族、天皇に就く資格を有する皇族である親王、天皇につく資格を有さない皇族である王の三種類ある。
親王には品位(ほんい)と呼ばれる位階があり、一品から四品までの四段階の叙階、および、そのいずれでもない無品の合計五段階があった。
三条天皇の皇太子は一条天皇の子である敦成親王であるが、敦明親王が三品に就いたということは、少なくとも敦成親王と敦明親王は同等の品位に就いたということとなる。しかも、わずか四歳の敦成親王と違い、敦明親王はこの時点で既に一八歳。つまり、何かあったときという意味でいうと、皇太子敦成親王より次期天皇に相応しい存在だったのである。
もちろんそんなことは道長も百も承知である。そこで一〇月一〇日、道長は三条天皇に対し、皇太子敦成親王に壺切御剣(つぼきりのみつるぎ)を渡すように促した。三種の神器が天皇であることを示す証であるように、壺切御剣は皇太子の証であると道長は考えていた。
とは言え、伝説の時代から延々と続いている三種の神器と違い、壺切御剣を生んだのは藤原良房である。良房が養子である基経に渡した後、基経が宇多天皇に献上し、宇多天皇が敦仁親王(後の醍醐天皇)に渡したところから、皇太子であることを示すアイテムになったという、一〇〇年の歴史をやっと数えるかどうかと言うかなり新しい歴史である。
道長はこの剣を極めて大切なアイテムであると考えていた一方で、三条天皇はさほど大切に考えてはいなかった。ついこの間まで皇太子であった三条天皇が壺切御剣を持っているのは何らおかしなことではなかったし、その剣を現時点で皇太子である敦成親王に渡すのに何ら躊躇いもなかったのである。
これが後に禍根を生むこととなる。
寛弘八(一〇一一)年一〇月一六日、大極殿において三条天皇の即位式が挙行された。世代な式典で文武百官が詰めかけたはいいが、この時代の通例に従って一般庶民の見物を許したところ想定以上に多くの観客が集ってしまい、欄干が壊れて見物客が転落してケガ人が出た。
この即位の儀は三条天皇にとって生涯最高の晴れ舞台であった。
ところが、京都中の人が詰めかけた一世一代の晴れ舞台にいるべき人が一人、姿を見せていなかった。
三条天皇の父、冷泉上皇である。
式典に参加しなかったのではない。参加したくてもできなくなっていたのだ。
記録が乏しいのではっきりとは言えないのだが、どうもこのときにはもうかなりの重病であったようなのである。藤原行成は、九月のはじめから冷泉上皇の体調が悪化していたが、それが一〇月七日から八日にかけてがかなりひどい状態で顔と手足が膨れあがってしまっていると日記に残している。
その後も病状が回復することはなく、一〇月二四日、冷泉上皇崩御。六二歳での死である。
三条天皇はわずか八日で、生涯最高の一日から沈痛な面持ちにさせられる瞬間へとたたき落とされたこととなる。
三条天皇は自らに降りかかる孤独、そして、自らの理想を具現化するために自己の絶対化を始めた。自分の権力を絶対のものと考える者がよく行なう神格化である。
三条天皇の求めたのは自らの母の神格化である。
寛弘八(一〇一一)年一二月二七日、亡き藤原超子に皇太后を贈り、国忌・山陵を置くという決定を行なったのであった。
国忌(こき)とは、皇族の命日は国全体で忌む日と定めることであり、国全体を休日とするものであった。名目は亡き皇族を追悼するための一日であるが、朝廷の業務は全て止まり、平安京の市は営業停止。なお、現在の休日と違って歌舞音曲が禁止となるなど娯楽的イベントも全て禁止になり、国家行事が命日と重なる場合は行事のほうを延期とするほど徹底したものになった。
もっとも、この頃になると国忌であっても朝廷の政務は普通に行なわれ、市は普通に営業し、娯楽的イベントもそのまま行なわれ、国家行事が重なろうと国家行事を執り行なうようになったが、皇族の命日を国忌とするかしないかは重要な決定事態であることに違いはなかった。
山陵は皇族の陵墓のことであるが、ただの陵墓ではない。毎年末の奉幣を行なう特別な陵墓と指定された陵墓であり、皇族の中でも特別な皇族しか指定されない栄誉であった。
国忌にしろ山陵にしろ国家全体に関わる問題であり、いかに天皇と言え独断で決めることのできる事項ではない。しかも、皇族の中でも後世から称えられる偉大な功績を残した皇族でないと国忌と山陵の栄誉を得られない。
それをわかっていながら、三条天皇は独断で自分の実母を特別な皇族に加えたのである。
藤原行成は三条天皇のこの決断に対し、議政官の決議を経ることなく天皇が独断で決めるのは極めて異例であると苦言を述べている。
同じ感想を抱いたのは数多くいたようで、一二月二九日に実施された追儺(ついな)の儀(現在の節分の原形となった宮中行事)を貴族が集団ボイコットし、参加した貴族が藤原行成ただ一人という異様な事態となった。
三条天皇の自己神聖化に先頭に立って抵抗を見せたのが道長である。
一条天皇の薨去により皇后位も中宮位も空席になっている。
そのうちの中宮位を娘である藤原妍子に与えるように要請したのである。
皇后位は必ずしも天皇の妃であるとは限らず、皇后定子が亡くなってからは空席であった。中宮彰子が事実上の皇后であったとは言え、正式な皇后ではなかった。一方、中宮は天皇妃を意味する称号となっていた。そのため、一条天皇薨去により中宮彰子は中宮と扱われなくなったのである。ちなみに、藤原彰子の周囲をまとめるサロンは存続しており、紫式部もこの時点ではまだ藤原彰子の側に仕えている。
簡単に就任できるわけではない皇后と違い、中宮に藤原妍子を就任させるのは、時間は掛かるものの手順としては比較的容易なことであると考えられていた。
話が出たのが寛弘九(一〇一二)年一月三日、それが一月一四日にはもう藤原妍子が中宮に就任するのに必要な手はずが全部整っていたというのであるから、道長はかなり早い段階から根回ししていたとしか言えない。
そして迎えた二月一四日、藤原妍子が中宮となった。また、皇太后藤原遵子が太皇太后に、藤原彰子が皇太后に就任。なお、三条天皇は父である冷泉天皇の死から間もないこともあり儀式に参加していないが、これは当時としては当然のことであり、誰も何も言っていない。
同日、中宮妍子を支える中宮権大夫に道長の五男の藤原教通を、中宮権亮に四男の藤原能信を任命した。これで中宮妍子を支える次世代が万全になったと道長は考えた。
ただ、その道長にも一つだけ計算違いがあった。
三男の藤原顕信が突然出家したのだ。それも比叡山に籠もっての本格的な出家である。
道長に思い当たる節はあった。
それは前年末のこと。三条天皇は藤原顕信を蔵人頭に推薦したのだが藤原道長が拒否したのである。藤原顕信にとっては蔵人頭就任をきっかけにこれまで付けられていた差を埋める絶好の機会であったのに、名目上は左大臣の判断であっても、顕信にとっては他ならぬ父の手によっての機会剥奪である。
道長の判断は母親の違いによる差別であった。それが政権の安定をもたらすための判断であっても、差別されている側はやむを得ないと受け入れられる代物ではない。同じ父であっても母親の違いで差別をつけられていることについて耐えきれなくなった末の決断が、父親からの決別であった。
寛弘九(一〇一二)年三月、三条天皇が藤原妍子に対してあっさりと中宮位を与えた理由が判明した。
藤原娍子を皇后とすると何の前触れもなく発表したのである。
一人の天皇のもとに皇后と中宮の二人がいるという構図は、他ならぬ藤原道長が一条天皇のもとで行なったことである。この先例を持ち出されると道長は黙らざるを得ない。
道長が最初のこの意向を聞いたのは三月三日のことと思われる。このとき道長は、桓武天皇以後これまで大臣の娘以外の女性が皇后になったのは、内親王と、嵯峨天皇妃の橘嘉智子ただ一人であるとして三条天皇の意向を取り下げようとしたが、三条天皇は先例があるのだから問題ないとして突き放している。
ただし、一部の後世の史料に見られる、藤原娍子の父である藤原済時に対しての死後贈位、つまり、藤原済時を空席である太政大臣に任じるようなことは、同時代史料のどこにも記載されていないことから実在しなかったものと考えられている。
道長は三条天皇の意向を覆すことはできず、三月七日、藤原娍子が皇后となることが正式に決まった。ただし、この時点ではまだ皇后になると決まっただけであり正式な皇后就任ではない。
もっとも、道長はちょっとした嫌がらせを見せている。娍子立后の日と決まった四月二七日に中宮妍子を内裏に参入させると決めたのである。また、それまでの間に何度か嫌がらせに似た不吉な前兆があったとしている。
道長の子の態度は三条天皇もさすがに怒りを見せ、藤原実資の記録によれば、四月一六日に藤原実資に対して「左大臣は礼儀をわきまえていない。ここ一日二日は寝るのも食べるのもおぼつかないほどだ」と愚痴を吐いたという。
さらに、四月一八日には三条天皇がストレス性の疾患で倒れた。三条天皇は単なる風邪と見たようで、翌日は何事もなかったかのように道長と会っているが、周囲は三条天皇がかなり無茶をして政務にあたっていることが見て取れた。
そして迎えた寛弘九(一〇一二)年四月二七日、藤原娍子が正式に皇后に就任。同日、中宮妍子が内裏に参った。さらに言えば、藤原教通が藤原公任の娘と結婚したのもこの日である。なお、教通の結婚をわざとこの日々ぶつけたわけではない。かなり前からこの日の婚姻を決めており、吉日の中の吉日としてこの日に婚姻の儀をするつもりであったところに、後になって娍子の皇后就任の日取りがやってきて、さらに後になって中宮妍子の参内の日取りがやってきたのである。
三つのイベントが同日に重なったため、貴族たちはどのイベントに参加するかが自分の命運を決めると考え、慎重な行動を示さざるを得なくなった。
気楽なのは道長である。娘が参内するだけでなく息子が結婚するのだ。父親としてこの二つのイベントに出ないわけにはいかない。そして、頼通も気楽でいられた。弟の結婚と妹の参内である。兄としてこちらを優先するのはおかしな事ではなかった。貴族ではないが前中宮である彰子皇太后も気楽な立場でいられた。皇太后ではあっても皇后であったわけではないので皇后を引き継ぐという職務が課されるわけではない。ゆえに、妹や弟の出る儀式を優先できる。
皇后の側に仕えると決まった者は覚悟を簡単に決められた。中納言藤原隆家は皇后宮大夫に就任することが決まっているため、藤原娍子の立后の儀に出ないという選択肢は許されなかった。
問題はどのイベントに参加してもおかしくない貴族である。
これは、三条天皇を選ぶか藤原道長を選ぶかの問題であった。
藤原道長は、誰が藤原娍子立后の儀に参加したかを日記に残しており、その数わずか四名。藤原実資、藤原隆家、藤原懐平、藤原通任だけである。参加資格を持つ貴族はこの時点でおよそ三〇人を数えていたのに、四人しか三条天皇を選ばなかったのだ。
藤原隆家はどうしようもない。何しろ皇后宮大夫になった以上、道長を裏切る形になろうと三条天皇の元に行かねばならない。
藤原通任は三条天皇の元に行くに決まっている。何しろこの人は藤原娍子の実の弟なのだ。姉が嫁いでいた皇太子居貞親王が天皇になったと同時に急上昇で出世を遂げた人間が好き好んで三条天皇を裏切って道長の元に行くわけがない。
似たような境遇なのは藤原懐平である。この人も皇太子居貞親王の頃から三条天皇に仕えていた人であるだけでなく、三位でありながら参議になれずにいた貴族の一人であったのだ。それが三条天皇の即位と同時に従二位に昇格したのだから、三条天皇には恩義しかない。
つまり、自分の意思で三条天皇のもとに向かったのは藤原実資ただ一人なのである。
その実資の残した記録である『小右記』には文中のいたるところに藤原道長に対する批判が残っており、現在そのような書き込みをネットにしたら炎上間違いなし、執政者が少しでも言論規制をするような人であったら即座に逮捕されること間違い無しという内容である。
そのような記録を藤原実資が残していることを知っていながら、規制一つ掛けるわけでなく放っておいたのが藤原道長という人なのである。そして、自分に逆らう言動や行動をする人であろうと、その人が有能であれば相応の地位と階級を用意する人でもあった。
実は、藤原実資は藤原懐平の実の弟である。ただ、位階を得ながら全く役職にありつけず放置されていた兄と違い、藤原実資は歴代藤原氏から評価され、着実に出世をしていた。しかも、ときの権力者に平然と逆らいながら出世しているのであるから、この人の実力は本物なのだろう。
藤原実資が寛弘九(一〇一二)年四月二七日に三条天皇を選んだのは、同日のイベントの中で皇后立后が最も重要だと考えたからであり、道長への反発心とか、三条天皇への媚びへつらいとか、兄への義理立てとかではない。
ただひたすらに皇后立后が最優先されると考えた藤原実資は、内裏に向かわず中宮妍子参内に合わせて妍子の住む東三条第に使者を遣わせている。皇后立后の儀に参加することを促すためである。もっとも、皇后立后の儀に出たら中宮妍子の参内に参加できないため、東三条第にいる貴族たちから大きな反発を買い、もはやこの時代の貴族にとっては恒例とするしかないのだが、石を投げつけられている。
内裏にいる貴族がわずか四名というありえない事態であったにもかかわらず、その四名のうちの一人が藤原実資であるというだけで皇后立后の儀はスムーズに進む。この人の頭の中には有職故実の全てが入っていると言いたくなるほど、全ての先例に精通し、全ての儀式が頭に入っていたのである。
そこで、三条天皇の読み上げる宣命を藤原実資が記すこととなったのであるが、天皇の読み上げる文書は全て内覧である左大臣藤原道長が目を通さねばならない。
そこで、実資が記した文書を持って道長が待機している東三条第に使者を派遣しなければならなくなった。今度は皇后立后の儀に参加せよという使者ではなく、内覧である左大臣藤原道長に提出する文書を持ってきた正式な使者である。反発は買ったようだが取り次がれ、道長自身の手で添削を受けることとなった。
道長の添削を受けて文書を作り直しもう一度道長のところに使者を派遣したら、さらに大規模な添削を受けて戻された。
使者が内裏と東三条第を往復すること三回、やっと道長の内覧が終わった。それも、「直した結果を持ってこないでいいから、そのまま三条天皇に奏上せよ」という答えである。
最初に書いた文章と道長の添削を反映した結果のあまりにも違いに「ムチャクチャな非難だ」と実資は感想を漏らしている。前にも書いたが、東三条第から内裏は国立競技場から東京都庁ぐらいの距離がある。それを三往復させた結果が最初と全く違う内容の文書なのだから実資の怒りも理解できる。
もっとも、道長にも言い分はある。三条天皇の読み上げる宣命次第で中宮妍子と皇后娍子との間に明確な序列が出来てしまうのである。実際、実資の記した最初の文書は、皇后娍子が正式な皇后であり、それを踏まえて中宮妍子もいるという内容である。それに気付かせようと直させたが、直した結果はやはり二人の間に序列があるという内容。そこで大幅な改訂を道長自身が加えたのである。二人の妃が平等な地位になるように。
もともと陰陽師の指示した日時は本来であれば未剋(現在の午後一時から午後三時頃)であったのだが、道長との使者のやりとりに手間取ってしまったために時間を浪費させてしまい、三条天皇が宣命を読み上げて正式に藤原娍子が皇后となったときにはすっかり夜になってしまっていた。
その上、立后の儀において内裏から渡される品々も存在しなかった。実資は、これらの品々を渡すのを道長が妨害しているとしているが、皇后立后を決めてからここまでの時間の短さも原因であろう。本来ならもっと早い段階から用意しておくべきものであったし、一条天皇の頃から準備もしていたのだが、それらの品々は中宮妍子の立后のときに使用されてしまっており、もう一度作り直すのは簡単な話ではなかったのだ。
これだけでも想定外であったのに、もっと想定外であったのが参加人数。朝廷の主な者はことごとく東三条第の藤原道長のもとにおり、内裏の警護の者すらまともに集まらない有り様であったのである。
参加人数が少ないことの過酷さは儀式そのものだけではない。儀式のあとの祝宴がさらに過酷であった。想像していただきたい。三〇人は集まるであろうと想定して料理や酒を用意し、場所を用意し、音楽を演奏する人を用意しておきながら、そこにいるのは四人だけなのだ。
これが皇后娍子に突きつけられた現実であると同時に、三条天皇に突きつけられた現実である。
一方で、この寂しさと真逆の喧噪が同じ内裏の飛香舎(ひぎょうしゃ)で展開されていた。東三条第から中宮妍子が参内してきたのである。左大臣藤原道長をはじめとする主な貴族がことごとく集結しており、この喧噪もまた三条天皇と皇后娍子に現実を突きつけるものとなった。
貴族たちは三条天皇ではなく藤原道長を選んだのだ。その中であくまでも天皇を選んだ藤原実資は例外とするしかない。
それにしてもどうして藤原道長はこのような仕打ちにでたのであろうか。
道長は自分の敵であろうと許容してきた人である。それは藤原伊周であろうと例外ではない。
それなのに、三条天皇にだけは非情に厳しい。
だが、三条天皇の立場で見るから道長の態度が奇妙に思えるのである。これを道長の立場で捕らえるとどうなるか。理解できる内容になる。
そもそも藤原氏の統治システムというものは、天皇はトップとして君臨するが、天皇が絶大な権力を持っている独裁者ではなく、貴族たちの議論による決議を天皇が承認するというシステムである。
このシステムを破壊することは決して許されないと道長は考えていた。藤原伊周のように道長に刃向かっても、藤原実資のように道長を批判しても、国政は貴族の議論によって決定するという大前提を覆すわけではない以上問題ないと考えていたのだ。
人間は不死の存在ではない。しかも、道長は兄二人の立て続けの死を目の当たりにしただけでなく、道長自身も命に関わる大病を複数回している。
そして人間のすることは完璧ではない。どんなに善意が動機として存在していようと多くの国民に多大な迷惑を掛ける結果をもたらすことだって珍しくない。貴族の間で議論を重ね、その結果を上奏するというシステムであれば、結果が暴走することを抑えることができるのだ。仮に道長の身に何かが起ころうとも、いや、時代が移り変わって議政官の構成メンバーが全員入れ替わったとしても、暴走を抑え国内に安定をもたらすシステムが存続し続けるならば日本国は安定し続けるのだ。
三条天皇はこのシステムを否定し、村上天皇の頃のような、あるいは村上天皇を超える天皇独裁システムを作り上げようとしたのである。
議論を経るというのは、間違いが少ない代わりに抜本的な修正ができない。安定を得られるが安定は容易に停滞を生む。そして、緊急時の対応もできない。停滞を打破し緊急対応に抜群の成果を出すのは、一人が絶対的存在として君臨した上での独裁政治である。
三条天皇は自分の実母を神聖化することで自らの神格化を図ろうとした。それが自らの理想を掲げるための方法であると確信していたからである。
神格化はなかったが、三条天皇のこの思いは三条天皇の兄である花山天皇がしたことでもあった。この失敗による日本経済への損失は計り知れないものがあった。
この失敗をくり返すのは絶対に許されることではなかったのだ。
三条天皇にとってこの現実を受け入れるのは困難なことであった。
現在でも選挙で敗れると、自分の主張が受け入れられなく残念だと言う人もいるし、ひどいのになると選挙そのものが不正選挙であると主張する。
人間とは、自分がマイノリティであるという現実を受け入れづらいものである。どうしようもない証拠を突きつけられてマイノリティであると自覚させられても、劣っている周囲が優れている自分のレベルにまでたどり着いていないと考える。
三条天皇にとって、村上天皇の治世をくり返すことが最良の選択肢であった。全ての決断は三条天皇が行ない、貴族たちは三条天皇の決定に従って動くだけの駒でしかないというのが三条天皇の考えであったのだ。
ところが、多くの貴族が三条天皇のこの意見に従わない。
これを三条天皇は快く受け入れなかった。
儀式を終えた翌日である寛弘九(一〇一二)年四月二八日、三条天皇が数少ない味方と認識した藤原実資に、長い間皇太子のまま放っておかれていたが、即位した以上、これからは思いのままに手腕をふるうつもりだと語ったという。
これを聞いた実資は、三条天皇が現実を直視していないと直感させられた。
前日夜に内裏に参内したこともあり、昨日の夜に行なわれた皇后娍子の饗宴と同様の饗宴を中宮妍子も開催している。その饗宴に、皇后娍子の饗宴に参加した四人の貴族のうち三人が出席しているのだ。なお、参加しなかった一人というのは、皇后娍子の弟である藤原通任だけである。
三条天皇がどんなに思いのままに手腕を振るうつもりだと宣言しようと、道長のほうが一枚上手だったのだ。三条天皇を選ぶか自分を選ぶかという選択を貴族たちに迫り、その結果がどうなったかを知っている。そして、誰が三条天皇を選んだのかを知っている。これを知っているのは道長一人ではなく貴族全員が知っている。
問題はこのときの選択が貴族たちの間に余計な派閥を生んでしまう可能性があることである。派閥争いは人間が複数人いれば当然出現するものだが、だからといって、放置しておくと人間関係の摩擦を生んでしまう。しかも、その派閥争いというのはときに正常な判断を鈍らせる。どう考えても自分の考えと一致しているのに、敵対する派閥の者が挙げた意見だという理由で反対の意思表示をすることも珍しくないのだ。
多数決が基本である議政官において、藤原氏という一大派閥を築いているために安定を獲得している藤原道長にとって、その一大派閥を真っ二つに引き裂くのは何のメリットもないことであった。何しろ自らの意思を通せる者が議政官の過半数を割り込んでしまうのだ。
それで道長が選んだのが、中宮妍子の饗宴の日程変更である。
参内が遅くなったので、四月二七日に予定していた饗宴を一日ずらして二八日にするとしたのだ。こうなると、皇后娍子の饗宴に参加していた者であろうと問題なく参加できるのである。何しろその日は国家行事が全く入っていないのだから。
道長は、日付を変えるという極めて単純な方法で派閥分裂を防いだだけでなく、三条天皇独裁を未然に防ぐことに成功したのだ。
三条天皇独裁を防ぐことに成功した道長にも弱点はあった。
自分の孫である敦成親王を皇太子とすることに成功した。つまり、順当に行けば次期天皇は自分の孫であり、敦成親王がこの時点でまだ五歳であることを考えると三条天皇に何かあったとした場合、道長が摂政となるので現在の政治を維持できる。
しかし、三条天皇にはこのとき二〇歳になる敦明親王がいる。一条天皇の頃は皇太子の子である親王に過ぎなかったが、現在は天皇の実子にして皇后の長子、つまり、皇位継承権筆頭の立場としてもおかしくない存在なのである。
三条天皇がいつ、皇太子の地位を敦成親王から敦明親王に切り替えるかわからない。いや、常識で考えて、自分の身に何かあったとき、五歳の幼児と二〇歳の青年とどちらに自分の後を任せるのかを考えると、それが五歳の幼児である現状のほうが異常であるとしか言いようがない。
それに、冷泉天皇流と円融天皇流との間で皇統を順々に受け継ぐというのも原則であって決定事項ではない。何となれば、三条天皇の意思によって、子、孫へと皇統を受け継がせることも可能なのだ。
花山天皇がそうであったように、三条天皇も天皇独裁を模索している。ただし、花山天皇はその権力を存分に発揮することができたが、三条天皇は天皇独裁を模索しているというだけで実現させてはいない。
それは藤原道長をはじめとする貴族たちが一丸となって現在の合議制を死守していたからである。三条天皇の統治能力に疑念を感じていたというのもあるが、花山天皇のしでかした善意に基づく大混乱をくり返してはならないというのが共通認識として存在していたからである。
とは言え、日本国の仕組みは、天皇の意思が最終決定である。議政官の議決を上奏しようと、三条天皇が上奏を拒否すれば、議政官の議決は無に帰すのだ。
一条天皇もそれを理解していた。ただし、一条天皇が議政官の議決を否決するようなことはなかった。おかげで政務がスムーズに進んでいた。
そのスムーズさが壊れることは避けなければならなかった。
三条天皇と藤原道長は互いに妥協点を見いだそうとしていた。
そして、このタイミングには絶好の妥協点があった。
中宮妍子である。
中宮妍子は三条天皇にとって妻であると同時に道長にとっても娘である。現時点ではまだその兆候が見られないが、中宮妍子が妊娠し、生まれた子が次期天皇となれる男児であったとすれば、道長と三条天皇の双方の妥協点となれるのである。
内裏に入るまでが特別であっただけでなく、内裏に入ったあとの中宮妍子に対する扱いもまた特別であった。三条天皇は内裏入りした中宮妍子のもとに何度か足を運んでおり、まだ若い中宮のことを気遣っている。道長も三条天皇が中宮妍子を気遣っていることを重要視していて、三条天皇が何月何日に中宮妍子の元を訪れたかを日記に綿密に記している。
ここまでは中宮妍子にとって夫と父が織りなす微笑ましい光景であった。
しかし、この微笑ましい光景は寛弘九(一〇一二)年五月二三日に突然の終わりを迎えた。
それは藤原道長にとって生まれてはじめてとなる表だった叛逆であった。
寛弘九(一〇一二)年五月二三日、出家をした三男藤原顕信の受戒に参加するために、藤原道長はその日比叡山にいた。
受戒とは、出家信者や在家信者が仏法の定めた戒律を守ると宣誓することである。この儀式は出家信者と在家信者とで差異があるが、藤原顕信の受けるのは出家信者のそれであった。つまり、出家信者として残る人生の全てを宗教に捧げると宣誓することである。裏を返せば、受戒の直前までは出家を諦めさせて自宅に連れ戻すことも可能であるが、受戒後はそれが不可能になるということである。
三男の出家の意思を聞いた道真は、顕信に対して出家を諦めさせようと何度も説得していたようであるが、出家を諦めさせることはできないと悟り、せめて父として我が息子の出家に立ち会うぐらいは許して欲しいと頼み込んだ結果、道長が比叡山に向かうこととなったのである。
ところが、その比叡山の空気が明らかにおかしかった。
左大臣という人臣最高位の者を出迎えるにしては明らかに歓迎していない雰囲気なのである。
一説によると、徒歩で登らなければならない比叡山を馬で登ったからであるというが、それと関係なく、顕信に対する冷遇に同情した比叡山全体の反発であるともいう。特に比叡山の権僧正である慶円は藤原道長との対立を隠さず、慶円率いる僧侶たちはあからさまな敵意を道長に対して向けていた。
この雰囲気は明らかに異常であると察知した道長であるが、それでも受戒に参加する意思を変えることはしなかった。
意思を変えない道長に対し、慶円率いる僧侶たちの取った行動は、洒落ではないが石であった。道長に対する投石を始めたのだ。道長にとっては生まれてはじめて実感する貴族以外からの自分に対する明確な敵意である。
これがよほどショックであったのか、月末、藤原道長がストレスから倒れ込んでしまった。
倒れ込んだ道長は、久しぶりの行動を見せた。
寛弘九(一〇一二)年六月四日、藤原道長が左大臣と内覧についての辞表を提出。
この辞表はただちに却下されたが、八日にもう一度辞表提出。そして、この辞表は受理とはならなかったものの三条天皇預かりとなった。
九日には藤原実資に対し自らの死を覚悟したかのような訴えを残している。その言葉は、自らの死を覚悟すると同時に、夫を亡くした彰子皇太后を思いやる父の言葉であった。
道長が比叡山で投石にあったというのは京都市民にとって絶好の話題である。執政者というものは多かれ少なかれ同時代人の嘲笑を買う。それを拒否する者は言論弾圧へと乗りだし、言論の自由を奪い、表現の自由を奪う。後には何も残らない。道長は自分への批判を受けとめてきたし、表現の自由だって保障してきた。
それでも、自分に石を投げつけられるというのは平然としていられることではなかった。その上、六月一七日には自分を呪詛する者がいるとのの差出人不明の書状が届けられた。現在はネット炎上なるものがあるが、このあたりは一〇〇〇年前にはもうあったことと言うべきであろう。いや、古代ローマのポンペイ遺跡の壁を見ると、これはもう人類普遍の法則とすべきか。
幸いにして道長の体調は六月末には回復を見せ、その後も療養を続けたことで無事に政務に戻れるようになった。また、その間もかつてのようにリモートコントロールを行なうことで政務への支障は最小限に抑えていた。
寛弘九(一〇一二)年七月八日、三条天皇預かりとなっていた辞表が正式に却下された。
道長が宮中に復帰してすぐの寛弘九(一〇一二)年七月一三日、今度は三条天皇が倒れた。症状を見る限り、マラリアであると推測されている。マラリアは、症状の悪化と一時的な回復を繰り返す病気であり、当時の記録をひもとくと、三条天皇の体調がその日によって改善したり悪化したりという波があったことが読みとれる。
当時はマラリアのシステムなどわかっていない上に、僧侶の読経が病気に効くとされていた時代でもある。しかも、医師の社会的地位は低いが僧侶にそのようなものはない。一流寺院の僧侶は上流貴族と匹敵する存在と扱われていたほどである。
そのため、三条天皇は医師ではなく、病気に効くという僧侶を呼んで読経をさせた。もともと三条天皇に仕える僧侶もいたのだが、それらの僧侶ではなく外部から僧侶を呼んだのは、単に、朝廷内の僧侶に祈らせても御利益がなかったからである。
おまけに、マラリアという病気は、悪くなったり良くなったりする病気である。こうなると、良くなったら僧侶に祈ってもらったからだとなる。おかげで外部から呼ばれた僧侶たちは思わぬ臨時収入を得られることとなった。
三条天皇のマラリアは、命を奪うほどではなかったが、健康体での政務を許してくれるほどでもなかった。それでも道長と違って病床でのリモートコントロールなど考えなかった。と言うより、天皇としてそのような政務をすることが決して許されないことであると考えていたとするしかない。
実は、律令の規定には、天皇が病気である場合の対応についての規定がある。
他ならぬ摂政がそれである。
三条天皇の病気は、三条天皇に摂政を置いてもおかしくないほどであったが、三条天皇は断固として拒否した。
なぜか。
この時点において、摂政になれる人物は藤原道長しかいないからである。
三条天皇は天皇親政による政務を目指しているが、現在は道長が圧倒的権力を握っている。これを正すためにも、摂政を置くなど断じて許されることではなかったのだ。
しかし、世の趨勢がどうなっているのかを三条天皇はまたもや身を持って知ることとなったのである。
寛弘九(一〇一二)年八月七日、中宮妍子がはじめて清涼殿の上御局に参った。ここまでは普通である。
三条天皇はこのとき、敦明親王を内裏から退出させている。これもまた普通である。
問題は、敦明親王の乗った牛車。これが藤原道長所有の牛車であった。
三条天皇の思惑は、藤原道長も敦明親王に従う一貴族にすぎないと示して、貴族たちに道長の権威よりも自らの権威の方が上であることを広く伝え、貴族を自分につき従わせるというものであった。
ところが、この牛車に従った貴族が二人しかいなかった。藤原隆家と藤原通任の二人である。藤原隆家は皇后に仕えるのが仕事であるから、実際には一人しか牛車に従わなかったこととなる。
この光景を見た藤原実資は、「天皇が弱く道長が強い時代となってしまった。朝廷の権威は落ちてしまっている。何と言うことだ」と日記に嘆きの言葉を記している。
しかも、この八月七日という日は、いったんは落ち着いていた三条天皇のマラリアの症状が、再び悪化を見せた日でもあった。
もともとの意図としては、健康を回復した姿を見せることで、病弱である道長との差を見せつける目的であったのに、現実は三条天皇の方が病弱で、道長のほうが健康を回復した姿になったのである。
頼もしさを示す指標の一つに、その人の健康さというのがある。道長はお世辞にも健康とは言えないがそれでもどうにかなっている。不健康な状況になったとしても病床からのリモートコントロールと言う奥の手があったからである。一方の三条天皇にそのようなものはない。これもまた、三条天皇のもとから貴族が離れている原因の一つとなるのである。
天皇の長子は敦明親王であるが、皇太子は亡き一条天皇の子の敦成親王である。
道長からすれば孫、道長の子たちからすれば甥になる敦成親王について、道長が早くも動き始めたのがこの頃であった。
寛弘九(一〇一二)年八月二一日、道長の四女である藤原威子が尚侍に任じられた。長保元(九九九)年生まれだから、現在の年齢に直すと中学一年生になる。この幼さで尚侍に任じられるというのは異例なことであるが、この裏にはもっと異例なことがあった。
血縁関係か?
たしかにそれもある。血のつながった叔母と甥との婚姻関係は、現在では法で禁止されているが、当時であれば問題ないとされている。姉を義母と呼ばねばならないのは、この時代でも珍しいことに違いはないのだが、異例ではない。
では何が異例か。
敦成親王の年齢である。このときまだ五歳なのだ。
若くして将来の結婚相手が決まることはよく見られるとは言え、五歳の幼児のもとに中学一年生の少女が嫁いできたのだ。正式な婚姻はまだにせよ、これは極めて異例なこととするしかなかった。
さて、自らのこの運命を藤原威子自身はどう思っていたのか。
数少ない史料によれば、皇族に嫁ぐこと自体は運命として受け入れていたが、それが自分よりはるかに幼い男児のもとであることをかなり恥ずかしく思っていたようである。
この時代の夫婦の年齢差は、通常、男性のほうが女性より上である。中宮妍子は三条天皇の長子である敦明親王と同い年であるが、夫婦間の年齢差だけで言えば三条天皇と中宮妍子との間ほどの年齢差が男女間であるのがむしろ普通だったのである。
長徳二(九九六)年七月二〇日に藤原道長が左大臣に就任した日、同時に右大臣に就任したのが藤原顕光である。
この人に対する同時代の評価は厳しい。もっとも、その評価を残しているのは日記に容赦ない悪口を書きまくっていた藤原実資であり、実資のごく一般的な悪口、つまり、藤原顕光が無能であるとする悪口がいたるところに散りばめられているので顕光の現在の評価も低くなっている。
だが、この人は寛弘九(一〇一二)年時点で一五年という長期に渡って右大臣職を務めたのだ。しかも、何度となく病気で倒れた道長に代わり議政官を主催したのはこの藤原顕光である。
実資に無能と蔑まされようと、病床の道長のリモートコントロールがあろうと、現場で陣頭指揮を執っていたのは寛弘九(一〇一二)年時点で六八歳という大ベテランの顕光なのである。
政権にある者が無能と笑われるのは世の常である。今だって、自民党の歴代総理はマスコミから徹底的な袋だたきを受けていたし、民主党の総理大臣たちは日本国民から無能と蔑まれ続けている。言論の自由があるところで無能と笑われない政治家を探す方が難しいとしてもよいのである。
人事に関して全権を握っている藤原道長が自らの左大臣就任からこれまで右腕を務めさせ続けたのだから、無能という評判のほうがおかしいのではないかとした方が良いかも知れない。
この藤原顕光であるが、この年の九月一六日に、これが無能な人間のすることであろうかという事件を起こしている。
藤原顕光に仕える者の中に浅井有賢という人物がいた。どのような経緯でそうなったのかはわからないが、伴正遠という人物にカネ(正確にはコメ)を貸していた。知り合った経緯はわからないが、伴正遠が何のために借金(正確には借コメ)をしたのかはわかっている。丹波橡に就任するために借りたのである。
役職に就くために借りるとはどういうことかと思うかも知れないが、国司は国が任命するが、国司のもとに仕える役人は国司が任命する。つまり、国司が自分を選んでくれるように頼み込むという余地があるのだ。言葉は悪いがワイロである。
ワイロだろうが何だろうが地位を掴んで地方に向かったらあとは自分の思いのままだ。国司を一期つとめれば一生分の財産ができる時代であり、その国司に仕える者となると、一生分の財産とまでは行かなくてもそれなりの資産を築ける。ワイロで役職を手にしても、地方に行って帰ってくれば、ワイロで渡した額とは比較にならないほどの資産を手にできるのである。
そのために手にした借金を伴正遠が返さなかったことが問題につながった。
何度となく「返す」「待って」というやりとりがくり返されたのであろうが、どんなに催促しても明確な答えが得られない。つまり伴正遠は踏み倒す気満々であったのだ。
部下からのこの相談を受けた右大臣藤原顕光は、従者たちを集めて一つのことを命じた。
寛弘九(一〇一二)年九月一六日、平安京の路上で白昼堂々と、馬に乗って藤原実資のところに向かっていた丹波橡伴正遠が、右大臣藤原顕光の従者たちに突然馬から引きずり下ろされ、そのまま藤原顕光の住む堀河院へと拉致されたのだ。
拉致された後で待っていたのは縄で縛られた上での暴行である。
藤原実資はただちにこの報告を聞きつけた。何しろ自分のところに向かっていたところでいきなり襲われ拉致されていったのだ。
次に実資の元に届いた情報は、伴正遠が借金を速やかに返すという念書を書いたという知らせと、念書を書いてすぐに開放されたという知らせであった。
借金返済が目的なのであって暴行が目的なのではない。借金返済を約束する念書があればそれで要求は完了するのである。
一方、これで収まりがつかないのは藤原実資である。なぜか?
先に伴正遠が丹波橡に就任したと書いたが、この時点ではまだ出発していない。今はまさに出発の準備を整えているところであったのである。そして、伴正遠が藤原実資のもとに向かっていたのは、実資が伴正遠を丹波橡に就任させるよう強い推薦をしたからであり、その推薦をしてもらったお礼を払いに行くところだったのである。要は、実資もまたワイロによって動いていたのだが、そのワイロがこれから届くというところで暴行を受け、拉致され、借金返済の念書を書かされる羽目に陥ったのである。
こうしてみると、藤原実資が右大臣藤原顕光のことをこれ以上無く非難していたのは,正義感などではなくワイロを手にできなかったことに関する怒りだったのではないかとしか思えなくなる。
寛弘九(一〇一二)年九月二二日、加賀国から真逆の二つの報告が挙がってきたため、議政官たちは頭を悩ませた。
加賀国司源政職からは加賀国の百姓たちが税を払わないことを訴えると同時に、租税回避のために必要な取り締まりの規模が国司の能力を超えていてどうにもならないという文書が提出された。納税するよう命じた百姓、その多くは加賀国在住であった豪族であるが、その者の多くが逃亡してしまったというのである。
その加賀国の豪族たちからは、加賀国司源政職に不正行為が多く、特に租税の多さに苦しんでいることを告発する文書が提出された。その告発の詳細は残っていないが、尾張国郡司百姓等解文の記載を越える三二ヶ条者からなる訴えであったとは記録に残っている。
この正反対の意見に対し、朝廷が下した結論。それは、両者の公開討論であった。公の場に出て、衆人環視のもと、証拠を提示して自らの訴えの正当性を示せと両者に命じたのだ。
ただ単に国司からの税の取り立てが厳しいというなら、それは国司の方が処罰対象となる。だが、納税拒否となると簡単にはいかない。いかに厳しい取り立てであろうと、脱税している側のほうが処罰対象となるのだ。
それに、証拠を示しての公開討論となったとき、分が悪いのは納税拒否をした側となる。なぜか?
厳しい取り立てであると訴えている内容は誇張を多く含んでいたからである。
加賀国司源政職が清廉潔白で法に基づいた正しい徴税をしていたとは言えないにせよ、三二ヶ条に記されているような極悪非道な統治をしていたわけではない。法令以上の取り立てをしたことは問題であるが、それに尾ひれを付けて悪逆非道であると訴えるとなると今度は名誉毀損になる。加賀国司源政職にしてみれば言われなき非難を受けたわけであり、公開討論はこの非難を晴らす絶好の機会となるのであった。
この朝廷からの公開討論指令がどうなったかであるが、加賀国司源政職は顔を出したものの、三二ヶ条を提出した豪族は欠席し、源政職は無罪放免、納税拒否をして逃亡した者が脱税で有罪と決まった。
三条天皇がマラリアから回復したのは寛弘九(一〇一二)年九月頃。気がつくと健康を取り戻していたという。
倒れた道長が健康を取り戻し、三条天皇も健康を取り戻した。これで全てめでたく解決したかと思った矢先、今度は中宮妍子が体調不良を訴えた。
まさか今度は妍子の身に! と誰もが思ったその知らせは、すぐに安堵の声に変わった。
中宮妍子の体調不良の原因は妊娠だったのだ。
この知らせに驚喜したのは三条天皇も藤原道長も同じだった。
現時点で次期天皇候補は二人。皇太子である敦成親王と、三条天皇の第一子である敦明親王である。だが、ここで中宮妍子が男児を産めば、三条天皇も、道長も、相互に納得できる次期天皇候補の誕生となるのだ。
さすがに生まれて間もない幼児に皇位を委ねるわけないが、三条天皇の年齢から考えても中宮妍子が産む男児が元服するまでは計算できる。それまでの間に何かあったとしても敦成親王か敦明親王のどちらか一方が皇位に就いた後に、中宮妍子が産む男児が皇位に就けば何の問題もなく解決するのだ。
もっとも、中宮妍子の妊娠では意見の一致を見た三条天皇と藤原道長であるが、人事については対立を見せている。
道長は貴族のインフレを抑え役職と位階の正常化を図ってきていた。
一方の三条天皇は即位と同時に人事の大幅なバラマキをした。
どちらもそれが良かれと思ってしたことであったが、この結果、多くの貴族が三条天皇により強い不満を抱くようになったのだ。
道長が貴族の位階のインフレを抑えたのは不満を生んだが、皆が同様に抑えつけられているから、不満はあっても大きくならない。
しかし、三条天皇のバラマキは、公平であったがために公正ではなかったのだ。
寛弘九(一〇一二)年一二月一六日、この不満がついに爆発した。
三条天皇はこの日小規模な人事発表をしたのだが、蔵人頭で右大弁を兼ねている源道方が「自分より劣っている者が自分より先に参議になっているのは納得できない。自分も参議になるべきだ」と反旗を翻したのである。既に蔵人頭として五年、右大弁として三年という長期間に渡って充分な実績を積んでいるにも関わらず、参議になるという話が全く出てこないことに怒りを爆発させたのである。
しかも、道長が源道方の意見に乗ったのだ。
「参議でありながら読み書きすらできない者がいる。議論もまともにおぼつかなく見苦しい。大問題だ」
道長は御堂関白記にこのように記しているが、同じ感想は多くの者が抱いたのであろう。道長は左大臣としての権限で源道方を参議に引き立てたが、同時に、議政官が二〇人を超えるという異常事態となったことについては苦言を述べている。
どうして異常事態になっているのかも誰もが理解していた。
三条天皇が皇太子時代からの側近を続々と上に引き上げたからである。
それも、能力に関係なく、いかに自分と一緒に時を過ごしたかだけで判断して位階を与え役職を与えたのだ。
このような情実人事は百害あって一利無しである。
ドラッカーは「現代の経営」において、「真摯さに欠ける者は組織の文化を破壊し業績を低下させる」「部下たちは、無能、無知、頼りなさ、不作法など、ほとんどのことは許す。しかし、真摯さの欠如だけは許さない。そして、そのような者を選ぶマネジメントを許さない」と記しているが、この考えは一〇〇〇年前にも適用できる考えであったのだ。
真摯でない者を、ただ自分と長くいたからという理由だけで抜擢すると、抜擢された者だけでなく、抜擢した者に対する激しい批判が巻き起こるのである。そのような結果を招くぐらいならば、道長がしたように、一様に出世を押しとどめる方がまだマシである。
もう年も暮れようかという寛弘九(一〇一二)年一二月二五日、長和への改元が行なわれた。『御堂関白記』は何の前触れもなくいきなり改元の話が出ており、二人の文章博士が挙げたいくつかの新元号候補の中から、議論の末に「長和」が選ばれたとだけ記されている。
なぜこのタイミングでの改元なのかを記しているのは別の史料である。
そこには、三条天皇即位による改元とある。
現在のように一人の天皇が一つの元号と決まっている時代ではない。一人の天皇が何度も元号を変えることもあるし、即位してしばらくは前天皇の元号を使い続けることも珍しくはなかった。
とは言え、元号制度が日本に導入されてから三六八年、新天皇即位による改元が行なわれなかったのは奈良時代の淳仁天皇ただ一人だけである。その他の全ての天皇は即位に伴う改元をしており、三条天皇がここまで改元しなかったほうがおかしいのである。
誰もがそれがわかっているからこそ、「なぜ改元を?」とは思わなかったのだ。
道長が『御堂関白記』に記した改元の流れは、新天皇即位に伴う決まり切った改元の流れであり、できるならば最高の吉日を選んで改元したというだけなのだ。
ちなみに、一二月二五日は今でこそクリスマスという大イベント日であるが、当時の日本にそんな概念など無い。その代わり、陰陽師が示した吉日というものがある。それがたまたま長和元(一〇一二)年の場合は一二月二五日であったということである。
事前に吉日であるとわかっていたため、多くの貴族が自分の息子の元服の儀をこの日にあてており、この日は至るところで祝賀行事がくり返されていた。
年が明けた長和二(一〇一三)年一月一一日、中宮妍子が出産に備えて東三条第に向かった。この時代、妊娠した女性が実家に戻ることはごく普通のことであり、中宮妍子が東三条第に向かったことは何らおかしなことではない。
ところが、一月一六日、東三条第が火災に遭ったのだ。
しかも、そのとき中宮妍子は体調を崩して寝込んでいたのである。
身重に加え体調不良という悪条件が重なったが、だからといって建物の三分の二が焼ける大火災の中に留まっていられるわけはなく、はじめは東三条第南院に避難し、その後、藤原輔公の高松殿、そして藤原斉信の郁芳門第へと住まいを変えることとなった。
また、妊娠中であっても何度か内裏に戻ることは珍しくなく、二月二日に中宮妍子は内裏に戻って一泊している。何しろ今後の日本国の命運を決めるであろうかという妊娠中の中宮妍子である。内裏に戻るのも貴族たちが総力を挙げてのことであった。
いや、総力を挙げてのことであるはずなのだが、何かがあったのだろう、それが何であるかは記録に残っていないが、藤原実資が自身の日記である『小右記』に大納言藤原道綱のことを「これこそまさに無駄飯食い」とコメントしているのである。もっと若ければ若気の至りと言えるが、このときの藤原道綱は五九歳。この五九歳の決して若くない大納言が何かをやらかしたらしいのである。
そもそも藤原道綱は道長の母親違いの兄であるという一点だけで大納言にまでなったという評判の人物である。大臣を固定して動かさなかったということもあるが、複数名存在することが許される大納言までなら昇格できても、大臣になれるほどの責任感も政務遂行能力もなかったのである。
かと言って、藤原実資の書く内容を文字通り受け取るとそれはそれで危険なのだ。なぜなら、藤原実資と道綱はほぼ同タイミングで同じポストを巡って争いを繰り広げたライバルである上に、実資という人はかなり毒舌を吐く。道長がいくら言論の自由を許していようと、現在の日本でそのようなことをネットに載せたら炎上間違い無しという内容を遠慮無く書いているのだ。それも事実かどうかは関係なく、相手を非難する言葉を遠慮無く書いている。相手の頭の悪さを揶揄する言葉については、よくもまあそこまでの悪口を書けるものだと呆れずにいられない。
藤原道綱のエピソードをまとめると、愚鈍という言葉がしっくりと来ることは来るのだが、無能であるかと言われると、藤原実資の貶すようなレベルの無能さであったとは思えないのである。
三条天皇は中宮妍子のことを思ってはいても、皇后娍子のことを忘れたわけではなく、皇后娍子との間に生まれた親王たちのことを忘れたわけでもない。
長和二(一〇一三)年三月二三日に、皇后娍子との間に生まれた親王のうち、敦儀親王と敦平親王の元服の儀を行なうことを決定した。
天皇の皇子の元服である。当然ながら実母としてだけではなく、皇后でもある娍子皇后が参加しないわけにはいかない。そして、皇后が出席する以上、皇后宮大夫である藤原隆家も当然ながら参加する。
問題は元服の儀の事前準備で起こった。元服に先駆けて娍子に供奉する諸司を定めることになっていたのだが、その役に最も相応しいと考えられていた藤原隆家がその役職を辞退。代わりに藤原懐平が任じられたが、役職はそれだけではない。そのほかの様々な役職も任じられることになっていたのだが、ここで役職を引き受けることの不利を考え、藤原行成をはじめとする多くの貴族が続々と退出していったのである。
皇后娍子は自らの身の境遇をまたもや実感させられることとなった。
一方、東三条第の焼亡に伴って住まいを転々とする羽目になった中宮妍子は、長和二(一〇一三)年四月一三日に道長の邸宅である土御門殿に落ち着くこととなった。土御門殿には、道長だけではなく、一条天皇亡き後は皇太后彰子も住むようになっていた。
一条天皇が亡くなってからもしばらくは中宮彰子のサロンは存続していたようであり、紫式部もそこで働いていたようである。ただし、時間を経るごとにサロンの規模は縮小していき、正確な日付はわからないが紫式部はどうやら寛弘八(一〇一一)年頃にサロンを去ったようである。
もともとが中宮の教育係として中宮彰子に仕えることになっていた紫式部である。皇太后彰子の教育係となると求められるものが自然と違ってしまうのだろう。紫式部が彰子の元を去ったのは、退職とか、罷免とかではなく、卒業という呼び名の方が相応しく思える。
源氏物語は現在五四帖であるが、もともとは六〇帖であったという。当時は六〇帖あったのが時代を経て五四帖に減ってしまったのか、それとも最終的には六〇帖とする構成であったのを五四帖で終えることになってしまったのかはわからない。
ただ、紫式部が中宮彰子の元に仕え、思うがままに物語を一気呵成に書き進められるような状況が前触れもなく終止符を打たれることとなったことに違いはない。
六条御息所と光源氏の恋愛模様など、源氏物語の作品中には、作品で直接描かれてはいないが、読者は当然存在したと認識している情景がある。一説によると、それらの話はすでに口伝として当時の人たちの間に広まっていたという。そして、口伝となっている情景を紫式部は書こうとしていたのではないかと推測されるのである。
源氏物語は壮大な物語であると同時に、途中で何ヶ所か空白が存在している。その空白を紫式部は埋めようとしていた。だが、埋めようとするまさにそのタイミングで筆を置かなければならなくなり、六〇帖を予定していた源氏物語は五四帖という中途半端な巻数に終わってしまった。
源氏物語の成立がいつ頃なのかわからないのも、五四帖がバラバラに公開されたからで、五五帖目を待っていたところでいつまでたっても現れず、気づいたら源氏物語の新作が無くなってしまっていたというところなのではなかろうか。
一度は融和に向かっていた三条天皇と藤原道長との関係であるが、長和二(一〇一三)年四月中旬頃から再びおかしくなりはじめる。
四月一九日、明後日に控えた賀茂斎院の行列について、人数と衣装の簡略化を求める三条天皇の勅令が届いた。
ところが、いざ四月二一日を迎えてみると、人数はまだしも衣装は簡略化どころか例年を越える華美なものとなっており、これに三条天皇は激怒した。
過度の贅沢を制限するというのは日本国誕生からこれまで何人もの支配者が試みてきたことである。三条天皇もその例に漏れない。ところが、道長という人はそのような規制を嫌う人であった。贅沢を慎むのは経済をむしろ悪化させると考えていたのだ。
贅沢の禁止を題目として掲げているが、やろうとしていることは貧富の差を縮めることである。三条天皇をはじめとする多くの執政者が狙ってきたのは、上を抑えつけることでの貧富の差の縮小であった。一方、道長はそのような規制を嫌っている。それより、貧富の差を固定化するのではなく、貧しい者にも豊かになれるチャンスを与えるべきであると考えたのだ。
贅沢禁止は、見た目の豊かさを抑えつける効果を持つ。ところが、見た目の豊かさを抑えつけると資産は豊かな者の倉に蓄えられ市場に還元しない。つまり、市場に流れる資産量が減りデフレ不況が発生する。一方、贅沢を黙認ないしは推奨すれば、贅沢した分の資産が市場に流れデフレが改善される。
江戸時代の三大改革も、戦前日本の贅沢禁止キャンペーンも、目標とすべきは貧富の差の拡大をいかにくい止め、差を縮めるかであったのに、気がついたときには取り返しのつかない貧富の差の固定となったのだ。
もっとも、贅沢禁止は三条天皇が始めたことではない。一条天皇が何度か命じており、三条天皇は一条天皇の展開した贅沢禁止を繰り返したにすぎないと言える。ただ、一条天皇が命じた贅沢禁止は自らの資産を越える支出の抑制であったのに対し、三条天皇は資産有無に関わらない一律の贅沢禁止を訴えたところに違いがあった。