欠けたる望月 1.道長から頼通へ
摂関政治のピークは藤原道長と頼通の父子の時代であるとなっている。
そして、摂関政治のピークはなぜ過ぎ去ったのかという問いへの答えはだいたい一定している。藤原頼通の娘が男児を産むことができなかった、すなわち、天皇の祖父として摂政や関白に就くことができなくなったことで摂関政治が成立しなくなったというのが多くの方の見識であろう。
しかし、果たして本当にそうなのかと考えてしまう。
当時の史料を読む限り、頼通政権の初期の頃には既に崩壊の兆しが見えていたとするしかないのだ。国外からは侵略を受け、関東地方では反乱が起こり、京都で花開いた女流文学の流れは完全に途絶え、後に残ったのは寺院の隆盛と寺院同士の争いだけ。摂関政治の崩壊はこうした現状にシステムが対応しきれなくなったがゆえに起こったこととするしかないのである。
それはシステムが欠陥だらけであったからではない。それどころかシステムはかなり強固であった。藤原氏のトップにある者が人臣のトップにあるという安定と、そのトップですら競争から逃れることのできないという研磨、その両方を兼ね揃えたシステムを藤原道長は作り上げた。そして、そのシステムのおかげで、平和で、豊かで、文化の花咲く時代を手にしたのである。
藤原頼通はそのシステムに乗ったのである。摂政関白や太政大臣としてではなく、左大臣として議政官を率い、議政官の議決で国を動かすというシステムを続けたのだ。それなのに、父が得たのはは平和と豊かさと文化なのに対し、子が得たのは戦争と貧困と虚無である。
何という違いか!
これは単に、上昇の時代にあった、あるいは頂点に位置していた藤原道長と、下降していく時代にあった藤原頼通との違いという話ではない。
時代が変わった結果なのか。それとも最高権力者の力量の差なのか。
この作品ではその両面を追いかけていくこととする。
長和五(一〇一六)年一月二九日、三条天皇が皇位を敦成親王に譲った。後一条天皇の治世の開始である。
同日、敦明親王を皇太子とし、左大臣藤原道長を摂政とすることも発表となった。
ここまでは既定路線である。いかに利発な少年とは言え、未だ元服を迎えていない後一条天皇には摂政が必須であり、摂政に相応しい人材は左大臣藤原道長しかいないというのは、この時代の日本人全員の共通認識である。
ただし、藤原道長には誤算が一つあった。それは、摂政と左大臣の兼職についてである。
ともに激務である。
現在の新聞でも首相動静は毎日目にできるが、一般人には考えられない激務をこなしている。いかに準備が整った上での最終裁定に特化しているとは言え、ほぼ毎日分刻みのスケジュールをこなしている。
この時代の左大臣も同様である。議政官を取り仕切り、裁定を下し、儀式に出席しているのだ。現在の首相と違って外遊はないが、左大臣藤原道長の職務は現在の首相と同様に分刻みのスケジュールに追われていたのである。
藤原道長という人は何度も病気になって倒れているが、このようなスケジュールをこなす日々を過ごしていて健康体でいられる方がおかしいとしてもよいスケジュールである。もしかしたら、適度に倒れたことで適度の休息となり、この年齢までやってくることができたのだろう。
左大臣が摂政を兼ねるとなると、その職務が倍になる。執務の質も量も左大臣と摂政はほぼ等しい。議政官から離れる太政大臣や、必須業務が摂政と比べて多少は少ない関白ならどうにかなる。たとえば、摂政太政大臣、あるいは関白左大臣ならどうにかなる。ところが、藤原道長は激務である摂政と左大臣を兼ねることになってしまったのだ。
普通の人ならどちらか一方から離れて残った一つの職務に専念するところであるが、藤原道長は左大臣として議政官を操作することで権力を掴んできた人間である。ここで左大臣を手放すのは権力放棄を意味するのである。
かといって、摂政から離れるのはもっとできない話だった。極論すれば、左大臣の代わりならばどうにかなっても摂政の代わりなどいない。摂政とは藤原道長しかできない職務だと、誰もが、もちろん藤原道長本人も考えていたのである。
激務である左大臣と摂政の両方の職務を兼ねたことで、藤原道長の日常から余裕が消えてしまった。
この時期の道長の日記である「御堂関白記」を読むと、摂政左大臣藤原道長がかなりの激務をこなしていたことが読み取れる。
何しろ自宅に戻っていない。三条上皇ののもとに足を運んでその場で一晩を過ごしたかと思えば、一条院や二条第の工事現場に足を運んでは工事に携わる大工(当時の呼び名は「工匠」)たちに声をかけて差し入れをしている。
摂政になったことで牛車のグレードが上がり、本来ならば牛車から降りて歩かねばならない場所でも牛車に乗ったまま乗りつけることが許されるようになったから、牛車の中というプライベート空間はこれまでよりも長時間手にできるようになったが、移動中に眠っていたとは思えない。と言うのも、現地に着いたと同時に命令を発し、先頭に立って指揮をしているのである。
藤原道長という人は、病床にあってもリモートコントロールで政務を取り仕切ることのできる人である。このような人は、移動中の牛車の中であっても命令を下すことを考えたであろうし、牛車から降りたと同時に自分の命令が実行されることを当然と考える。現在のビジネスマンの中にも出張先までの移動中もPCやスマートフォンで情報のやりとりをし、移動先に着いたと同時に仕事ができるように手はずを整えている人がいるが、藤原道長はこういうタイプの人である。
とは言え、二四時間三六五日休むことなく政務にあたっているかというと、そうでもない。そんなことをしたら過労死してしまう。そうでなくとも藤原道長という人は病弱なのだ。
自分の健康がどのようなものであるのかを理解している藤原道長は、仕事をするときはかなり過酷な仕事量を詰め込んでいるが、休むとなると徹底的に休んでいる。
この時代の貴族の常として、物忌みは自宅に籠もって吉日になるのを待つという風習がある。藤原道長はその風習を最大限利用した。だいたい六日から七日に一回の割合で物忌みを理由に休んでいる。休んでいる間に何をしたのかはさすがに日記に残していないが、おそらく、ゆっくり休んでリフレッシュし、翌日からの政務への英気を養ったのであろう。
三〇代で若き左大臣として権力を握った藤原道長も既に五一歳になっている。人生五〇年とされたこの時代にあって、これぐらいの年齢になった者は普通、自分の後継者を考えるものである。
後継者という点で藤原道長は盤石であった。後継者筆頭である長男の藤原頼通はこの時点で二五歳。既に権大納言となっており、地位は年齢と比べても充分高い。
後継者の順位としては二番目になる五男の藤原教通も権中納言まで歩んでおり、頼通に何かあったとしても道長の権力継承に支障が無いようになっている。
一方、同じ道長の子でも、源倫子の子である長男頼通と五男教通と違い、源明子の子である次男頼宗はたしかに権中納言であったもののさほど重視されてはおらず、三男の顕信は出家して比叡山の一僧侶となっており、四男の藤原能信は議政官の一員としてカウントされてもいなかった。特に、四男の能信は、役職は貰っていたものの後継者候補から除外されていたのである。
この藤原能信は一九歳のときに問題を起こした前歴があるが、長和五(一〇一六)年、またやらかした。
本来、僧侶というのは結婚してはならないものである。それどころか、異性との交わり自体が許されないものである。とは言え、出家する前に結婚していて子供もいた者も当然ながらいるわけで、僧侶であるからといって必ずしも子を持たぬ身であるとは限らない。
また、清少納言が枕草子でも記していたが、異性との交わりがいかに厳禁であるとは言え、仏教の行事で僧侶が女性と顔を合わせることは珍しくなく、やってきた僧侶が美男子であったために女官たちが真面目に説法を聞いたなんて話もある。こうなると、さらに一歩進んで、僧侶の子を宿す女性が現れてもおかしくない。おまけに、この時代の寺院の中には現在のホストクラブを思わせるものすらあり、名目上は信仰のための参詣であっても、実際は男目当ての寺院入りというケースまであった。
無論、真面目に戒律を守る僧侶もいた。あまりにも真面目に異性との交わりを避けるという戒律を守りすぎたために、同性愛に走る僧侶が続出したほどであるが、戒律を破ったところでうるさく言われないとなると、人間の本能を否定するような戒律など守られなくなるのが普通とするしかない。
こうなるとどうなるか。僧侶に子供がいることが珍しくなくなったのである。
長和五(一〇一六)年五月二五日に起こったのも、僧侶である観峯に娘がいたことがきっかけとなった事件であった。
この日、大学助大江至孝が観峯の娘のもとを訪れた。「小右記」には「推し入る」とあるから、友好的な訪問でも、ましてや招かれての訪問でもなく、強引に押し掛けた結果である。
大江至孝が観峯の娘のもとに足を運んだ理由はただ一つ。観峯の娘に襲いかかろうとしたのだ。
観峯の娘の名前は記録に残っていない。ただし、今は亡き藤原致行の妻であったことは記録に残っている。藤原致行は最終的には右京進の役職までつとめたとあるから、現在の感覚で行くと東京都議会議員に相当する。つまり、観峯の娘は、今は亡き東京都議会議員の未亡人という立場と考えるとわかりやすい。
この未亡人に大江至孝が襲いかかろうとしたのだが、観峯の娘のもとには観峯の弟子が常駐していたのが想定外の出来事であった。観峯は威儀師という、僧侶全体の中でもかなり高い地位にあったほどの僧侶であるから、自分の娘の身の回りの世話をさせる弟子ぐらいいるのが普通である。記録には明記されていないが、この弟子というのが武装した僧侶、すなわち僧兵であった可能性もある。この時代の寺院は自前で武装勢力を持っていることが普通であり、寺院の有力者のボディーガードを用意することぐらいは造作もなかった。
それに加え、状況を考えればボディーガードだけに頼る必要はなかった。不法行為目的でやってきた犯罪者がいると聞きつけて放置しておくようではおかしな話とするしかない。藤原道長も自分の日記に、源済政の家に勤める者が観峯の娘の邸宅に来てボディーガードに加わり、大江至孝を殴ったとも記している。
この記録からもわかるとおり、大江至孝が押し掛けた結果は、観峯の娘のボディーガードと大江至孝との殴り合いである。第一ラウンドはボディーガードに軍配が上がったが、それを簡単に受け入れる大江至孝ではなかった。自分のやったことを棚に上げ、復讐戦を挑んだのだ。ただちに自分の従者を三位中将藤原能信のもとに派遣し、援軍を要請したのである。
前振りが長かったが、ここでやっと三位中将藤原能信、つまり、摂政左大臣藤原道長の四男が登場する。藤原道長の素行も褒められたものではないが、藤原能信もこの点では父親の血を引いた結果か、いろいろとエピソードを残している。
後の後朱雀天皇こと敦良親王の誕生の祝いの儀式において、藤原義懐の次男である藤原伊成と大立ち回りのケンカをしでかしただけでなく、家臣に出動を命じて藤原伊成に徹底的に暴行を加えるという事件まで起こしている。普通に考えれば加害者である藤原能信は裁きを受けるところであるが、藤原道長の実の子ということもあって無罪放免。これに怒った藤原伊成が出家するという結果になった。
その、血の気の多い藤原能信のもとに大江至孝は援軍を要請したのである。
犯行目的で押し入ってボディーガードに拘束された。これだけでも相当に恥ずかしい話であるが、この恥の上塗りをする援軍要請を、なんと藤原能信が受け入れたのである。それも数名程度の話ではない。邸宅を包囲できるほどの軍勢であった。
名目は拘束された大江至孝の奪還であったが、拘束された理由は普通に考えれば拘束やむなしというものである。これでどうして軍勢に参加できるのかという疑念も沸くが、少し考えるとわかる。
これはプライドの問題なのだ。
おそらく、以前から大江至孝は未亡人となった観峯の娘に思いを募らせていたのだろう。記録として残ってはいないがラブレターを送るぐらいはしたとしてもおかしくない。何しろ大江至孝は大学助という貴族としてもなかなかの地位にある者である。その地位にある者が、いかに有力な僧侶の娘とは言え未亡人となった、すなわち後ろ盾が期待できなくなった女性に言い寄ったのである。大江至孝とその周囲の者の頭の中では、言い寄られただけでも相当な名誉であり、言い寄られたことを感謝されこそすれ貶されるいわれはない、と考えたのであろう。
もっとも、そんな理屈など観峯の娘にとっては通用しない。格上が格下に言い寄っているのだなどという理屈を押しつけるのは勝手だが、それを受け入れなければならないいわれはない。色恋沙汰は古今いたるところに存在する話だが、そこに身分だの格式だのを持ち込んで思いを満たそうなどという人間にロクな人間はいない。
そのロクな人間ではない大江至孝の立場に立つと、わざわざ相手にしてやろうとしているのに断るなど許せない、となる。そこでプライドが傷つけられる。しかも、そうしたプライドは、同じ思いを共有する者の間に簡単に伝染する。格上と考える者同士の連帯感は、第三者的には理解不能だが、当事者にとっては常識になるのだ。
ただでさえ傷つけられているプライドにさらに傷を追加された。こうなると「正義の復讐戦」が簡単に始まる。自分から仕掛けたなどという意識はない。「やられたからやり返す」という意識である。個人的なケンカも、国と国との戦争も、「やられたからやり返す」の応酬にすぎない。
さて、邸宅を包囲した軍勢は、大江至孝の解放と、ボディーガードの引き渡しを要求。邸宅内からの返答は当然ながら拒否。普通に考えれば犯罪の被害を被ったのだから、犯罪者を解放することも、犯罪に抵抗した者を犯罪者に引き渡すことも、無茶な要求である。だが、軍勢にとっては、不名誉に対する正義の行動になる。何のために大江至孝が押し入ったかなど顧みられることもなく、ただただ、不名誉を受けている大江至孝の解放と、大江至孝に不名誉を与えた「犯罪者」の引き渡しを要求したのだ。
観峯の娘と、観峯の娘を守っていた観峯の弟子は、邸宅が包囲されたために身の危険を感じ、邸宅から脱出。主のいなくなった邸宅から大江至孝は解放された。
ここで事件が終わったとしても相当にめちゃくちゃな話であるが、事件はここで終わらない。
いったん邸宅を脱出した観峯の弟子が邸宅に戻り、藤原能信の部下の一人を刺し殺したのである。
これでもう収拾がつかなくなった。
邸宅包囲にためらいを持っていた者も、仲間の一人が殺されたとあっては歯止めなど利かなくなる。当然のことながら復讐が始まり、包囲していた軍勢はいとも簡単に強盗へと変貌した。
死傷者については記録に残っていないのでわからないが、邸宅内のめぼしいものは全て奪われたとある。また、藤原能信の部下の一人を刺し殺した観峯の弟子についての記録は残っていないが、観峯の娘については、略奪の限りをつくした軍勢が引き上げるときに一緒に連行されたとある。
ただし、観峯の娘は途中で解放されている。理由はわからない。
解放されたことと、平穏無事な日常が戻ったこととは必ずしも一致しない。いや、解放されたからこそ直面させられる現実もある。それは、ついさっきまで自分が住んでいた邸宅が廃墟になってしまったこと、そして、持ち運べる財産の全てが奪われてしまったという現実である。
このニュースを耳にした摂政藤原道長は激怒したと伝えられている。道長の実の子とは言え、これは許されることではなかった。父としても、公人としても怒りを隠せなかった藤原道長は、事件の翌日、いつものように父の元を訪れた藤原能信を門前で追い返したという。
普通に考えればこれで失脚となる。ところが、これが藤原道長の実の子という威力なのだが、しばらくの間の冷却期間を置きはしたものの、藤原能信は失脚することもなかったばかりか、着実に権力ピラミッドを上るようになったのである。
後一条天皇は即位してからこれまで一度も内裏に入っていない。
入っていないのは当然で、後一条天皇の即位する前年である長和四(一〇一五)年一一月一七日に内裏が焼け落ちたからで、この時点の後一条天皇は土御門殿に居を構えている。
前作「源氏物語の時代」でも述べたが、土御門殿というのは藤原道長の邸宅である。摂政左大臣を務める人の邸宅であることから、内裏再建中の天皇の執務場所である「里内裏」としての機能は充分に備えているのだが、いかんせん、この建物は大内裏から遠い。
いかに内裏が焼け落ちてしまったとは言え各省庁は内裏を取り囲むように建設されており、内裏とその周囲を囲む省庁の建物は大内裏として一つのエリアにまとめられている。京都市にある復元模型を見てもかなり効率的な建物の配置であることが読みとれる。内裏が機能しているのであれば、天皇の裁許を得るための移動も大したことはない。現在の東京の感覚で行くと地下鉄一駅分にも満たない、気軽に歩いていける距離である。
ところが土御門殿となるとそうはいかない。充分な設備を整えた建物であることは間違いないのだが、この建物は各省庁から距離がありすぎる。現在の東京で言うと東京都庁から国立競技場ぐらいまでの距離がある。歩けないことはないが、気軽に歩いていけるような距離ではない。
これが政務の停滞につながっていることは誰もが認めることであったが、大内裏の近くに、内裏に相応しい機能を持った建物がなかったのがこの時点である。大内裏と隣り合っている一条院も焼け落ちていたのだ。
その一条院が復活したのは長和五(一〇一六)年六月二日。後一条天皇はさっそく、土御門殿から新造一条院へと遷っている。一条院であれば、せいぜい東京都庁と新宿駅程度の距離で済む。毎日大内裏と土御門殿を往復していたであろう役人たちの気苦労を考えると、「やれやれ」という声が聞こえてきそうである。
このときはまだ、新造してすぐに遷ったことで、一ヶ月に起こる大災害から逃れられることになるとは誰も想像していなかった。
長和五(一〇一六)年六月一〇日、摂政左大臣藤原道長に、かつて藤原良房が受けたのと同じ栄誉が与えられることとなった。まず、准三宮の待遇、さらに三千戸の田畑からの収穫、秘書を務める舎人が二人、ボディーガードを務める者が左右近衛府と左右兵衛府から六人ずつ、さらにその周囲で警備にあたる随身三〇人。これらの全てが藤原道長に与えられることとなったのである。
無論、人を与えると言っても、奴隷としてその人を与えるわけではなく、それまで藤原道長が私財を以て雇っていた秘書やボディーガードを、これからは国税で面倒見るという特権である。
かつて藤原良房は、これらの特権を従一位摂政太政大臣として受けたのであるが、このときの藤原道長は、摂政であることは同じでも、正二位左大臣である。役職も位階も藤原良房より一段階低い。
だが、このとき藤原道長がこれらの栄誉を受けたとしても誰も不可解に感じなかったはずである。位階は確かに一位ではない。役職も太政大臣ではない。だが、長きにわたって人臣最高位者として君臨し、政務の全てを一手に握っている。その上、後一条天皇の実の祖父だ。正二位であるのも左大臣であるのも、道長の政務の都合上であり、道長さえ望むなら従一位だろうと太政大臣だろうといつでもなれるのである。
准三宮という皇族に匹敵する待遇も、三千戸という莫大な資産も、そして、人材も、このときの道長を考えれば今まで受けて来なかったほうがおかしいとするほどである。
その、誰もが当然のことと考えた栄誉を、道長はその場で拒否した。
考えてみれば茶番である。何しろ道長は摂政なのだ。いかに後一条天皇が考えたことであろうと、道長が絡まないわけなどない。自分で言い出したか、誰かが言ってきたのを許可したかは知らないが、道長は自分が栄誉を受けることを前もって知った上で後一条天皇から栄誉を受け、その栄誉を返上したのである。
無欲な人というアピールを見せようとしたのか、それとも、単に通例に従っただけなのかはわからない。藤原良房の先例に従い、返上し、後一条天皇の命令によりその返上が却下され、この日、藤原道長はこれらの栄誉を獲得することとなった。
この栄誉が一ヶ月後の道長の身に降り注いだ災害を助けることとなる。
栄誉を受けてからおよそ一ヶ月を経た長和五(一〇一六)年七月二〇日深夜、平安京北東部で大規模な火災が発生。藤原道長の住居である土御門殿をはじめ、土御門大路から二条大路にいたる五〇〇戸あまりが焼け落ちたと、道長は日記に伝えている。
偶然と言うべきか、道長はこの火災のとき土御門殿にいなかった。道長がそのときどこにいたのかは具体的に記してはいないが、東が燃えているのを目撃したと日記に記していることから、おそらく里内裏であった一条院にいたと考えられる。
火災現場に駆けつけて消火にあたるも消火はかなわず、朝日とともに目にした光景は一面の焼け野原であった。
ここで役に立ったのが前月に受けた栄誉である。藤原道長の周囲を守るべき武人たちが被災者の救援にあたり、下賜された資産が災害からの復興資金となった。
それでもこのときの火災被害の大きさは甚大であり、藤原道長の資産をもってしても容易に回復できるものではなかった。何より被災者が多すぎた。平安京の北東部一帯は貴族の邸宅の建ち並ぶ高級住宅地であったが、平安京の敷地を一歩出るとそこに広がっているのは庶民の住まいである。
貴族の邸宅は燃えたところで貴族自身の資産でどうにかなるが、問題は平安京の敷地の外に広がる庶民の住まいである。この時代の庶民は現在のサラリーマンと違って自分で家を買っているわけではなく借家。現在の仮設住宅に相当する簡易的な小屋であれば庶民が自分自身で建てることもあるが、恒久的な住まいとなると誰かがちゃんとした家を建てなければならない。
その誰かというのが藤原道長であった。自分自身が被災者の一人であるにもかかわらず、道長は自分の全財産をはたいて庶民用の住宅の復旧工事を命じたのだ。それこそが人臣最高位にある身に課せられた責務であると覚悟してのことである。前月に受けた栄誉について批判する者もかつてはいたが、栄誉の全てをこの火災からの復旧に当てるだけでなく、自分の邸宅の復旧を後回しにしている姿に文句を言う者はいなくなった。
ただし、この時点での復旧はあくまでも応急処置である。これから三年後のこととなるが、道長はこのエリアの全面的な改修に手を付けている。三年後のそれは、災害をいかに少ないレベルで食い止めるかを考えた抜本対策であったが、この時点では住まいを失った人たちに住まいを提供することが最優先であった。
土御門殿の復旧を計画した藤原道長であるが、とっくに全財産をはたいてしまっていたため、復旧のための資産が無くなっていた。
そのため、道長の家臣たち、特に清和源氏が道長の邸宅再建のための資金援助を申し出ることとなった。この件について多くの研究者が、ここで藤原道長にとりいって権勢を掴もうという下心によるものであったとしているし、何より当時の資料にもそのような批判が記録されているが、筆者はこのあたりの感覚に違和感を抱いていた。果たして下心だけなのだろうか、と。
というときに脳裏に浮かんだのが、古代ローマにおけるパトローネスとクリエンテスの関係である。現在のパトロンの語原である「パトローネス」は保護者、クライアントの語原である「クリエンテス」は被保護者と訳す人もいるが、単に保護し保護されるだけの関係であるとは言い切れない。普段はパトローネスに助けられるクリエンテスであるが、いざパトローネスが苦境に陥ったらクリエンテスがパトローネスの支援をする。言わば、私的な相互扶助関係と言えよう。
日本語に近い言葉となると「保護」になるのだが、もっと幅広い概念であり、日本語に訳そうにも該当する単語がない。ゆえにラテン語のカタカナ表記のままで通すしかないのだが、パトローネスである藤原道長の苦境をクリエンテスである清和源氏が救うのは何らおかしな話ではない。しかも、藤原道長の苦境の理由は庶民の救済による資金の枯渇である。これで資金不足になったのを自業自得だとするような者はいないであろう。
「尾張国郡司百姓等解文」という単語は中学の歴史で習ったであろう。
どうして尾張国でこのような訴えが起こったについては、「戦乱無き混迷」で記したとおりである。
尾張国では年中行事としても良い民衆と国司の対立が、長和五(一〇一六)年八月二五日、また勃発した。尾張国の郡司や百姓らが、尾張国司である藤原経国を訴えたのである。
もはや年中行事となっている尾張国からの訴えであるが、その訴えを藤原道長は法に基づいて検討させている。何度も繰り返されることではあっても、訴えそのものは違法でないばかりか、正式な手続きに則った上でのことである以上、対応も法に基づいて行なわなければならない。
なお、尾張国の人たちがどのような内容で国司を訴えたのかについて、藤原道長は記録を残していない。
この頃の藤原道長の記録を見ると、住まいが焼け落ちたせいもあって実に落ち着かず、あちこち出歩いている。そして、かなり忙しい日々を過ごしている。
この日も、尾張国からの請願を受け付ける前に、伊勢神宮に派遣していた権左中弁藤原重尹から京から伊勢の往復についての報告を受け、秋季御読経に立ち会い、その後に請願を受け、請願が終わると鴨川に出て除解をしている。普通ならば丸一日かかる政務を四つ同時にこなしただけでなく、一ヶ所に留まることなくあちこちと出歩いている。
内裏が焼け落ちて再建中と言うこともあり、さすがに内裏に足を運んではいない。しかし、里内裏となっている一条院や、藤原道長第二の住まいでこのときは三条上皇が住まいとしていた枇杷殿、そして、本来なら三条上皇の住まいとして用意されていたのに三条上皇が移り住むのをかたくなに拒否していた三条院といった数々の建物にほぼ毎日姿を見せている。
尾張国の民衆にとっては人生を掛けた訴状であったろうが、摂政左大臣藤原道長にとっては日常を彩る政務の一つに過ぎなかった。いや、日常の一つとして処理すること以外に方法が無かった。左大臣と摂政を兼ねるというのはやはりこういう宿命を背負うものなのである。
帝位を退いた三条上皇は枇杷殿に住み続けていた。
本来ならば退位後の邸宅として用意されていた三条院に住むべきところなのであるが、三条上皇はそれを断固拒否していたのである。
三条院に何か気にくわないところでもあるのだろうかと考えたとき、思い当たる理由が二つ出てくる。
一つは三条院という建物を当時在位中であった三条天皇のために用意したいきさつ。藤原道長は何度となく三条天皇に退位を迫り、退位後の邸宅として三条院を用意していた。三条天皇にしてみれば帝位を降りなければならないこと自体が容易に受け入れられるものではなく、いかに三条院が壮麗な建物であろうと、三条院を手にすること、すなわち、退位すること自体が受け入れられるものではなかったのである。
そして、二番目の理由が、三条院の立地条件。
貴族の邸宅として相応しい立地と考えられていたのは四条大路から北の左京であるが、その中にも当然優劣はあり、一条大路の南から二条大路の北にかけての一帯が最上級で、土御門殿も枇杷殿も当然ながらそのエリアに存在する。
さて、三条院はどうか。
一言で言うとビジネス街の真ん中である。周囲を見渡しても貴族の邸宅は見当たらず、その代わりに目につくのが官庁舎。何しろ一条大路の南から二条大路の北にかけての一帯という条件から大きく離れ、二条大路どころか三条大路の南である。
東京に住む人はこう考えればわかるであろう。丸ノ内で働いているのと、丸ノ内で生活するのと、同じであると感じられるであろうか、と。高級住宅地とビジネス街とは違うのだ。丸ノ内はたしかに一流中の一流のエリアである。ただし、それはオフィシャルの世界においてであり、プライベートの世界においてはそうではない。
高級住宅街で貴族たちの生活圏が形成されていて、そこから離れることは上流階級からの離脱を意味する。それが三条上皇という皇族であろうと、住まいが離れたら上流階級からの離脱になってしまうのだ。いかに人の多く行き交うビジネス街の真ん中であろうと、それまでの生活圏から切り離されることはコミュニティからの追放を意味するのだ。
だからこそ三条上皇は高級住宅街の真ん中にある枇杷殿に住み続けたのである。
だが、それが許されなくなる事態が長和五(一〇一六)年九月二四日に発生した。
この日、枇杷殿が焼け落ちた。
三条上皇は枇杷殿の北東に位置する高倉殿に一事避難した。しかし、それはあくまでも一時避難場所であり、高倉殿はそもそも上皇に相応しい建物では無かった。立地条件は妥協できても建物のほうが上皇を迎え入れるに相応しい設備ではなかったのである。
それでもおよそ一ヶ月に渡って三条上皇は高倉殿にこもっていたが、一〇月二〇日、ついに三条上皇が三条院に遷った。立地条件を除けば、やはり三条院以上に上皇を迎え入れるのに相応しい建物はなかったと認めざるを得なかったのだ。
住まいついでに言うと、藤原道長の住まいである土御門殿は他の貴族の敷地面積と比べて二倍の広さを持っている。これは道長の権勢を示す例でもあると同時に配慮も示す例でもある。
土御門殿はたしかに一条大路の南から二条大路の北にかけての一帯という条件を満たした場所ではあるものの平安京の敷地の最東端にある。つまり、道路一本渡り、塀を一つ超えたらそこは鴨川沿いの庶民街。内裏から遠いために比較的地価が安く、また、貴族の行動パターンの通例は自宅と内裏の往復であり、用もないのに自宅と逆方向にある土御門殿に行くわけがない。権勢者が自分の敷地の倍の面積の邸宅に住んでいるとは言え、自分の住むところよりも安く、自分が行くわけもない場所に建てたので、批判はゼロではないにせよ小さなものに留まる。
さらに言えば、土御門殿は藤原道長の建てた邸宅では無い。義父である源雅信の建てた邸宅であり、娘婿である藤原道長の手に渡ったのち、中宮彰子の邸宅となった。つまり生まれは庶民であるが婚姻によって皇族に加わった女性が次期天皇となるべき皇子を産み育てる邸宅としての意味があり、藤原氏という一庶民の住まいとしてでは無い。藤原道長は、事実上はどうあれ、名目上は娘の住まいに住む父というスタンスであった。いかに人臣最高位者の邸宅であろうと、後の後一条天皇となる敦成親王と後の後朱雀天皇となる敦良親王の生まれ育った邸宅という意味を有しているからこそ、他の貴族の倍の敷地面積が許されていたのである。
古今東西数多くの独裁者が誕生したが、独裁者が嫌われるようになるきっかけというのは、市街地の真ん中に自分の豪邸を建てることであったりする。そういえば、ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊のきっかけの一つも、自らの豪邸を誰もが否応なく毎日目にすることになる首都ブカレストの中心に建てたことがあった。名実共に独裁者となった藤原道長であるが、チャウシェスクのような過ちをしでかしてはいない。こういうところも執政者としての力量の差である。
一方、長らく藤原氏の本拠地として名を馳せていた東三条殿は、敷地面積こそ土御門殿と同じであるが、一条大路の南から二条大路の北にかけての一帯という条件から外れる。たしかに北が二条大路に面しているが、二条大路から北という条件から外れるため地価が安くなっている。
ちなみに、この時点において東三条殿の所有者は権大納言藤原頼通であるが、藤原頼通は自分の所有する東三条殿に住んでいない。東三条殿は長和二(一〇一三)年に火災で焼け落ちていたためで、この時点ではまだ再建工事が完了していない。
ではどこに住んでいたのか?
高陽院である。その名の通り高陽親王の邸宅であった、すなわち皇族の邸宅であったのだが所有者が転々とするうちに皇族の邸宅でなくなっていた邸宅を、藤原頼通は邸宅としたのである。
室町時代という名称は、京都市内の室町に作られた御所が幕府の中心地であったから室町時代という名称になった。つまり、地名としての室町は室町時代以前から存在しており、藤原道長の日記「御堂関白記」にも「火災は室町小路まで広がった」という記述もある。
この時代の人に「自分の住まいは室町小路に接しています」と言えば「左京のほぼ真ん中をタテに走るあの小路だな」とわかる。もっとも地理的に言えばそうなのだが、受ける感覚で言うとそう簡単には言えない。
ではどういう感覚かというと、「高級住宅地と官庁街を分けるあの通りか」となる。実際に地図を見てみても、貴族の邸宅は室町小路の東に存在し、官庁の庁舎は室町小路の西に存在する。そして、皇族のための建物、または、いかに今は民間人の住まいとなっていても本来は皇族のための建物であった建物は室町小路の西に存在している。
多くの貴族は室町小路の東から西に向かって通勤している。そこに大規模な邸宅があったとしても、皇族のための建物であれば特に何とも思わない。だが、皇族のための建物であっても今は民間人が住んでいるとなると話は違ってくる。
それでも二条大路より南であればまだ納得できる。例えば東三条院は大邸宅であり、室町小路よりも西にあるが二条大路より南だ。だが、高陽院は二条大路の北にあるどころか、皇族たちの邸宅の建ち並ぶエリアの中でも最上級の立地条件にある建物なのだ。高陽親王の邸宅として建てられた頃は皇族のためのエリアにあるごく普通の建物であったのだが、平安京の人口バランス全体が東へ東へと寄ってきた結果、最高級エリアへとなったのである。
藤原頼通はその建物に住んでいただけでなく、藤原氏の本拠地である東三条院の再建工事をほったらかしにしている。再建工事に取りかかっていないわけではないが、父道長が主導したならばもっと早くできあがるであろうところなのに、なかなか工事を進捗させない一方で、自分は快適な高陽院に籠もっている。
これは藤原頼通の評判を貶めこそすれ、高めるものではなかった。こういうところもまた、道長と頼通の統治者としての力量の差と言えよう。
IT業界には『デスマーチ』という言葉がある。どんなに仕事をこなしても仕事が終わらず、深夜残業や休日出勤が常態化する状況のことを指す。仕事をするのに必要な時間と比べて与えられた時間が少なすぎる、仕事をするのに必要な人員に対して用意されている人員が少なすぎる、その人やそのチームでこなせる仕事の質では無い、などの状況が続くとこうなる。
摂政と左大臣を兼ねていることの多忙さを、藤原道長はこれまではどうにかこなしていた。こなしていたが、どう見てもそれはデスマーチであった。時間がないこともあるが、藤原道長の代わりをできる人がいないことの方が問題であった。デスマーチにおける人員不足が起こっていたのだ。
もっとも、それは藤原道長が人臣最高位者になったときからずっと続いてきたことである。道長のこれまでの政務は、デスマーチと、デスマーチの末に過労で倒れる日々の繰り返しである。藤原道長自身の日記を読む限り道長は病弱であったと結論づけざるを得ないのであるが、頻繁に倒れたのはデスマーチの末の過労の結果でないかとも考えられるのである。
デスマーチの渦中にあるときにしなければならないこと、それは、適度な休憩である。時間が足りなかろうと、人手が足りなかろうと、休暇をとらせ、自由に使える時間を用意しないと、デスマーチにある者は早々に過労死へと追い込まれる。二一世紀の日本国の現実は過労死より納期を優先させるものであり、ゆえに社会問題となっている。
道長もかつては現代の日本と同じ問題に直面していたが、この頃の藤原道長はその対策をほどこしていた。つまり、自らを過労死させることを阻止していた。
それが、道長がある程度の割合で取得していた休暇である。対外的には「物忌み」となっており、この時代の貴族の規則として物忌みで自宅に籠もることは「して良い」ではなく「しなければならない」なのである。ゆえに、いかに摂政左大臣であるとはいえ、貴族である藤原道長は物忌みとなったら休まねばならない。そのため、表向きは「物忌みのため自宅に籠もらねばならない」となっているが、実際には陰陽師に命じて適度に休みを取らせるための口実を作ったに過ぎない。
休みをとれないときは辞任を利用することもあった。却下されるという前提での辞表提出である。長和五(一〇一六)年一〇月二日に藤原道長が摂政と左大臣と准三后の辞任を申し出て却下されたという前歴があった。無論、一時的な休暇目的である。
それでも道長は考えたのだろう。摂政と左大臣を兼ねることの重労働を。
このまま騙し騙しやっていてもどうにもならない。摂政か、左大臣かのどちらかに専念しなければ、早々にまた倒れてしまう。
長和五(一〇一六)年一一月一日、大嘗祭が開催された。
右大臣藤原顕光、内大臣藤原公季、大納言、権大納言、中納言、権中納言、参議が集結する壮麗な儀式となった。もっとも藤原道綱と藤原通任の二人は職務とバッティングしているため全員参加とならなかった。
本来ならここに左大臣藤原道長も加わるべきところなのであるが、摂政でもある藤原道長は後一条天皇の側に侍らねばならず、大臣たちから距離を置かねばならなかった。
このときの議政官たちの光景を、摂政という立場で客観的に眺めたことで、道長はある決断をした。
それからおよそ一ヶ月を経た長和五(一〇一六)年一二月七日、摂政左大臣藤原道長が左大臣職を辞職し、摂政専任になることを表明した。左大臣職は空席である。
藤原道長はこれまで左大臣として議政官を操ることでこの国の政務を操り続けていた。それは重労働を伴うものであるが、下手に関白や太政大臣になってしまったらスムーズな政務ができなくなる。政務が滞り、必要なときに必要な命令を発すことができず、結果として日本国に貧困を招くぐらいなら、自分一人が重労働を抱えたほうがマシである。
ところが、今や自分は摂政と左大臣を兼ねる身になってしまっている。つまり、自分が政務を抱え込みすぎているために政務を滞らせている。だったら、左大臣を辞任して摂政に専念するほうがまだマシである。
一一月一日の大嘗祭における議政官たちは、藤原道長不在という状況下での議論を余儀なくされていた。いつもなら議政官を左大臣として取り仕切っているはずの藤原道長がいないことは、当初こそ貴族たちに混乱を招いたが、すぐに混乱は収まった。
藤原道長自身は何も言わなくても、後継者である藤原頼通を通じて議政官に道長の意見は届く。また、右大臣藤原顕光も内大臣藤原公季も藤原道長の忠実な手足である。こうなると、議政官の意見が道長の意見と異なる結果になるはずがない。何しろ議政官の議決は、名目上は後一条天皇向けであっても、実際には摂政藤原道長に上奏されるのだ。
自分がいなくても議政官が機能する。頼通を通じたリモートコントロールが可能である。忠実な手足も残っている。この状況があれば、左大臣にこだわる必要はなかった。
藤原道長の時代は着実に終わりつつあった。
翌長和六(一〇一七)年一月時点の議政官の構成は以上の通りである。
左大臣を辞職した藤原道長は当然ながら議政官の一員としてカウントされない。もっとも摂政を務めている上に位階も高いので、貴族の一覧をまとめると議政官を構成する貴族たちを差し置いて道長がトップに来る。
それにしても気になるのが正二位の多さである。議政官を構成する二一人の貴族のうち一二人が正二位。実に過半数が正二位なのである。さらに言えば議政官にカウントされていない藤原道長も正二位であるから正二位だけで一三人という異常な多さになる。
その次の従二位が三人、正三位が三人、従三位は議政官だけで言えば二人だが参議になれずにいる従三位が三人いるので合計五人。
位階のインフレを食い止めていた頃は、議政官が一五人という編成であり、そのうち左大臣藤原道長だけが正二位であった。右大臣藤原顕光ですら従二位に留め置かれていただけでなく、藤原公季は正三位で内大臣になれている。
それなのに、それから一八年でまた元の木阿弥になってしまったのである。正三位で内大臣に就任できた時代は終わり、正二位まで登り詰めても権中納言に留まる時代と戻ってしまったのだ。
それでも一位は誰もいない。当然だ。藤原道長はあくまでも正二位に留まっており、誰であれ道長を超えることは許されていないのだから、一位の位階を持った貴族など現れるはずがない。
この頃の藤原道長の日記を読むと、この時代の治安のほどが読み取れる。
まず、長和六(一〇一七)年一月一一日の夜、油小路と冷泉小路の交わるところで弓矢を手にした不審者が現れた。不審者を見つけた検非違使との間で弓矢を射りあい、その場に居合わせた道長のボディーガードの一人であった内舎人随身の藤原吉高も検非違使に加勢し、不審者の逮捕に成功。事態の報告を聞いた道長は、逮捕した不審者を獄所(現在の裁判所と刑務所を兼ねた施設)に拘禁し、後に尋問させるように命じた。藤原吉高の衣服には不審者から射られた弓矢の痕跡が残っていた。
油小路と冷泉小路の交わるところとは、皇族たちの邸宅の建ち並ぶエリアのど真ん中であり、具体的には陽成院の西にあたり、少し行くと官庁街が広がっている。現在の感覚で行くと、霞ヶ関の官庁街のど真ん中に、夜闇に乗じてライフル銃を持った不審者が現れ、警視庁の機動隊と応戦したようなものである。
それから一〇日ほど経た一月二二日、西中門に強盗が現れた。内裏再建中とは言え、大内裏はこの国の中枢である。今で言うと皇居であり国会議事堂である。そこに黒一色の格好の強盗が現れたのである。犯人が今は亡き紀忠道の従者であった男であったと道長は日記に記しており、おそらく主君の物故により生活苦となり犯行に及んだのであろう。
この連絡が来たのは現在の時刻になおすと夜中の二時から四時にかけての時刻である。この時間に道長に緊急連絡が入ること自体はおかしくないが、道長が問題視したのは、この時間の警備をしているべき検非違使がいなかったことである。検非違使の出勤簿を調べさせたところ、本来の規則に従えば検非違使が夜警をしていなければならなかったのに、夜警をしていた者がいなかったのだ。
この職務怠慢を道長は問題視し、勤務実績の洗い直しを命じた。
ただし、記録に残っているのはここまでで、これらの犯行に対する処罰と、その対策の結末について、道長は日記に残していない。
ここで、この時代の治安維持体制についてまとめておこう。
三権分立において、司法が立法と行政と並んで存在しているというのは学校で習ったからわかることであるとは言え、多くの日本人にとっては、裁判所が内閣や国会と匹敵する組織であるというのは、理屈ではわかるとは言え、なかなか理解しがたい感覚であるとも言える。
それは、裁判というものが、公的機関によって逮捕された者に対して判決を下す場所というイメージが強いからで、ほとんどの日本人にとっては警察の延長上の存在だとしか考えられないからである。警察の延長上の存在が国会議員や内閣総理大臣と匹敵するだけの権威を持っているというのがなかなか理解できないのも、そのあたりの日本人の感覚にあるのではないだろうか。
そうなってしまっているのは、三権分立という概念が日本に導入されてからたかだか一五〇年しか経ていないからで、それまではずっと、裁判が警察の一部であり、公的機関が犯罪者に処罰を下す場所が裁判であった。つまり、行政や立法と並列に並ぶ存在ではなく、行政組織の一部だったのである。
そもそも律令制の仕組みからして、裁判は独立した存在ではなく刑部省という国の省庁の一つであり、犯罪者を逮捕するのも弾正台という刑部省の下部組織であった。
それでもこの時まではまだ警察と司法が分かれていたが、藤原冬嗣によって検非違使が設置され刑部省と弾正台が形骸化すると、いよいよ警察と司法が一体化するようになる。犯罪者を逮捕する組織がそのまま犯罪者を処罰する組織へとなったのだ。こうなったら、司法と警察の独立など想像すらできない幻想の世界の話となる。
さて、検非違使というのはこの時代の警察権力であると同時に、国に仕える役人の一職種でもあった。貴族の経歴を見渡しても、検非違使のトップである検非違使別当を経験している者が多い。
今の国会を見渡すと、確かに、かつては警察官僚であった国会議員もいるが、それは自ら警察官僚となることを目指して警察官となった者が、後に国会議員へと転身した結果である。当然ながら警察のあり方について詳しいし、警察の職務遂行のための法改正についての第一人者としても良いだけの知識を身につけている。
一方、この時代の検非違使の中には、単なる出世の第一歩として検非違使になっただけという者が数多くいる。おそらく、自ら検非違使となろうと考え、その希望を実現させて検非違使となった貴族などいないだろうと言えるほどである。つまり、ヒラの検非違使はともかく、上級職となると単なる出世のための踏み台としか考えていない者が続出している。そして、あるべき警察の姿についてのイメージも持っていないどころか、警察権力の行使そのものも不安とするしかない程度の者ばかりである。
無論、治安維持が統治者として必要不可欠なものであることは知っている。知っているが、そのような危険な実務はどこかの誰かがやるものであって、自分のやるものではない。それがこの時代の貴族たちの認識であった。
この状態でまともな警察権力の行使ができるだろうか。
結果は当然ながら、否。
死刑がなかったことも加わり、この時代の日本は、日本史上もっとも治安の悪かった時代となったのである。
治安の悪さを改めるために様々な手段が講じられてきた。
その中でも特筆すべきが、藤原良房による武士の活用である。異例としても良かった武士の活用は時を経て通例となり、宇多天皇の頃には滝口の武士として組織化されるようになった。
さらに、武士が検非違使に組み込まれるのが通例となり、武士の多くが地位を求めて検非違使の職務を願い出るようになった。
この時代の武士は武装した地域の有力者という位置付けであり、武装の部分に目を向けないでいると、地域の有力者で血筋も申し分ないが、中央政界での活躍の場がなく、官職や位階がないか、あったとしてもかなり低いものに留まっている者という位置付けである。こうした者にとって、堂々とした中央政界での官職である検非違使は、中央政界に自らの立ち位置を切り開く第一歩となった。
もっとも、中央政界のトップクラスは、彼ら武士のことを重く見てはいない。血筋は認めるし地方で有力者であることも認めるが、その扱いはあくまでも地位の低い役人であり、その地位の低い役人が、誰もやりたがらない検非違使の実務をやっているという認識であった。武装し、武力を行使して治安維持につとめていることも理解しているが、貴族たちにとっては、地位の低い者が下品にも暴れているという感覚しかなかったのである。
この感覚は貴族に限ったことではない。
現在の日本にも警察官を憎む人はいるが、多くの日本人は警察官を頼れる存在と見ている。少なくとも、近所に警察官が引っ越してくるという知らせを聞きつけた地元住民が反対運動を起こすようなことはない。
ところが、平安時代となるとそうはいかなくなる。地方の武士にとっては中央政界に自らの地位を築くきっかけである検非違使も、当時の庶民にとっては、検非違使という正々堂々たる国の役人ですら見下す対象となったのだ。社会を構成するのに必要な人であるとは認めていたが、自分がその職務に就くことは考えられないことであるし、考えたくもないことであった。
つまり、警察官が憧れの職務の一つである現在と違い、平安時代の検非違使というのは、中央政界に乗り込みたい地方の武士や、さらなる出世を求める役人や貴族にとっての踏み台として以外に、価値を見出される職務ではなかったばかりか、差別される職種ですらあったのだ。
その結果何が起こったか。
検非違使の人手不足。
特に、検非違使としての実務をこなす者の不足が顕著に見られるようになったのである。
藤原道長が、夜景をしていなければならないはずの検非違使がいないことをいかに叱責しても、検非違使そのものがいないという現実を覆すことはできずにいたのだ。
史料によると、この頃から「放免」と呼ばれる者が姿を見せるようになる。少なくとも長徳三(九九七)年四月一七日に花山院の包囲した検非違使たちの中に「放免」がいたことは判明しているので、一条天皇の治世の頃には登場していたはずである。
前作「源氏物語の時代」では簡単に記したが、「放免」とは何かをより詳細に記すとこうなる。
まず、放免はもともと犯罪者である。犯罪をし、逮捕され、収監され、刑期満了で出獄した者の中から検非違使がスカウトした治安維持要員が放免である。現在でいうと、窃盗や強盗などの犯罪で刑務所に入った者が、刑期満了で刑務所から出たのち、警察官になるようなものである。
現在の感覚からするとありえない話であるが、当時の社会情勢を考えると、これは二重の意味で効果のあることだった。
まず、犯罪に走る理由の最多が貧困である。貧しさから犯罪に走り、逮捕され、収監された者は、いかに塀の中で更生したとしても、塀の外で待っているのは貧困である。もう二度と犯罪を繰り返さないと誓っても、生きていくためには犯罪に手を染めなければならないほど追い詰められていた者が、そう簡単に犯罪に手を染めることなく生きていけるほど甘くはない。
そこで、検非違使たちは自分の手足となって働く者をスカウトしたのである。
公務だから給与は国から出るので生活は安定する。
しかも、元犯罪者ということもあり、犯罪者間のネットワークに容易に近づける。そうなれば犯罪組織を容易に取り締まることもできる。裏を返せば検非違使の捜査状況が犯罪者間のネットワークに流れてしまうということでもあるが、そのリスクを踏まえてもなお、犯罪者の逮捕を容易にするというメリットは捨てられるものではなかった。
その上、前述のように検非違使は差別の対象である。上層部は役人としての地位も貴族への道も期待できるが、ヒラとなるとそんなもの期待できない。少なくとも公務員ではあるから生活の安定は期待できるが、それと引き換えに失うものも大きかった。
まず、検非違使が近くに越してくるという噂だけで近隣住民から反対運動が起こる。そして、実際に引っ越してきたら様々な嫌がらせを受ける。現在と違って公教育などない時代だから免れていたであろうが、もし、現在のような義務教育があったら、検非違使の子はただ検非違使の子であるというだけでイジメのターゲットになっていたはずである。
同様の嫌がらせを受けるのは犯罪者も同じである。いかに刑期満了を迎え、また、塀の中でいかに更生したと言っても、快く受け入れられるわけはなかった。社会からの疎外感は容易に社会への敵意を生む。社会への敵意を生んだ者が犯罪に走るのはありふれた話だ。
その者に検非違使のサポート役という職務を与えれば、嫌がらせを受けるにしてもまだ耐えられる。おまけに警察権力を持っている。嫌がらせの内容次第では嫌がらせをした者を逮捕することも可能だ。
阻害されていた者同士が寄り添い、一つの権力を築き上げる。これもまたよくある話である。平安時代の場合、それが国の認めた警察権力であるという点だけが特殊。その他は他の時代となんら変わらない。
阻害された者同士が寄り添って組織を作ると、その組織の一員であることを示すようになる。それは外見で簡単にわかるようになっていることが多い。
放免の場合、口ヒゲとあごヒゲ、そして、「綾羅錦繍」や「摺衣」と呼ばれる特殊な模様の服装がそれである。それがこの時代において、一目で放免であるとわかるサインであった。「綾羅錦繍」や「摺衣」は通常であれば女性の身に付けるものであり、男性が身につけるとすれば特殊な祭礼に限られていたのだが、それを放免は普段着にしたのである。
特殊な祭礼のための服装を普段着にするのは明らかに異常だ。現在の感覚でいうと、一生のうち新郎として結婚式に出るときぐらいしか身にまとわないような服を普段着にするのだから、かなり目立つし、タブーを恐れぬ所業とも感じる。
このタブーを恐れぬ目立つ所業をしているという点があるために、放免は生きていくことができ、仕事することができた。と同時に、さらなる差別を受ける身ともなったのである。
滝口の武士とは宮中の警備を行なう武士である。治安維持に対する武士の活用のかなり早い例であり、同時に、宮中に勤めることから多くの貴族たちに認識される存在でもあった。
この時代の治安維持組織の序列を示すと、最下層に放免がいて、その上に検非違使がいる。ここまでは平安京の庶民と直に接し、恐れられると同時に差別される対象である。検非違使の上には滝口の武士がいて、滝口の武士になると役人としての地位もそれなりに高くなるため、恐怖の対象ではあるものの差別の対象とはならない。そして、その上に位置するのが近衛府の武人。近衛府の武人となると位階は六位まで登るのが通例であり、ここまで来ると貴族は目と鼻の先である。密かに怖れを抱く人はいたであろうが、庶民の近衛府の武人に対する感情は畏怖であって恐怖ではない。
地方の武士が検非違使を目指したのは、たとえ差別されようと、検非違使を勤め上げたのちに滝口の武士になり、その後で近衛府の武人になればもう少しで貴族という地位にまで上り詰めることができるからである。貴族というゴールを考えれば、平安京の庶民から恐れられ差別されることなどどうということもない。
とは言え、それはなかり狭い門である。例えば平将門は、滝口の武士にまでは上り詰めることができ、当初はその喜びから「滝口小二郎」と名乗っていたほどであるが、当時の最高権力者であった藤原忠平を頼っても近衛府にたどり着くことはできず、希望は次第に挫折となり、結局は京都を離れ地方へと下っている。その後の顛末は「貞信公忠平」で記した通りである。
さて、明らかに差別されていると実感せざるを得ない日々の放免と、貴族社会入りが見えてきた滝口の武士。この両者の関係は、近いと言えば近いが、強い接点を持った関係ではない。
その微妙な関係が起こした事件について、道長は日記に記録している。長和六(一〇一七)年二月六日、滝口の武士の一人である大蔵忠親が殺害された。ここで有力な容疑者として浮かび上がってきたのが放免の為重丸である。為重丸はこの時点における放免の筆頭格とみなされていた男である。
ではなぜ、為重丸が容疑者として浮かび上がってきたのか。
実は、為重丸と大蔵忠親は同じ女性を妻としていたのである。同じ女性を妻にするとは一体どういうことかと思うかもしれないが、女性のもとに男性が通うのが結婚の形態としてごく普通であったこの時代、同じ女性のもとに複数の男性が通い、結果、一人の女性が複数の男性の妻となるケースが稀に見られたのである。
おそらくではあるが、名の残っていないこの女性にとって、本命は為重丸だったのであろう。何しろ放免の筆頭格となるぐらいだから男性的魅力もかなり高かったはずである。
しかし、男性的魅力がいかに高かろうと、放免は差別される対象である。そのような男性の妻であることは、いかに男女関係を満足させても社会的地位を満足させるものではない。
そこに登場したのが滝口の武士である大蔵忠親。同じ治安関係の人間であると言っても、元犯罪者で今もなお放免として差別されている為重丸と、貴族への道も見えている滝口に武士である大蔵忠親とでは天と地との差がある。
現在でも、結婚相手に異様に高い年収を求める女性が見られるが、そのような女性が全く恋愛をしていないわけではない。恋愛はしているのだが、恋愛相手の社会的ステータスが低く、結婚を考えられない状況出あることも多々見られるのだ。だから、実際の恋愛とは別に、自分の社会的ステータスを満足させてくれる男性を求め、その指標として、あり得ない年収を挙げるのである。
この女性も同じであった。恋愛相手である為重丸は恋愛の対象としては申し分なかったが、いかんせん社会的ステータスが低い。社会的ステータスを求めていたところに現れたのが、滝口の武士である大蔵忠親。恋愛相手と言うよりも、自分の社会的地位を充足させてくれる相手としての意味合いの方が強かった。
この二人の夫の関係がもつれにもつれた末、大蔵忠親は命を落とした。そして、犯人は為重丸であると多くの人が思い、実際に為重丸は重要容疑者として出頭を命じられることとなった。
平安京の多くの庶民は、「やはり放免は物騒だ」「放免などいなくなってしまえばいいのに」という差別感情を隠すことなく口外した。為重丸がどんなに自分の犯行ではないと主張しても、為重丸の言葉を信じる者などいなかった。
ここで為重丸が取り調べを受け、犯罪者として刑罰を宣告されたならば、平安京の庶民にとって満足いく結果になっていたであろう。そして、放免に対する差別もますます激しいものとなっていたであろう。
ところが、事態はそうならなかった。
道長の日記は、この殺人事件の続きについて、日付を改めて記録している。
長和六(一〇一七)年二月一二日、大蔵忠親殺人事件の犯人が捕まった。
主犯は播磨国在住の藤原明孝。事件は単独犯ではなく、藤原明孝の兄である藤原明賢も共犯である。藤原明孝は播磨国在住の役人で、役職は掃部(かもりべ)、つまり、公的機関の設備の維持管理を司る役職の者であり、道長の残した日記によると播磨国の掃部であったという。現在でいうと、兵庫県庁の総務に勤める公務員といったところか。
藤原明孝の地位は決して高くはない。それは何も掃部の地位が低いからではなく、掃部の中にも上下関係があって、トップクラスになると貴族の一員であるが、藤原明孝はヒラの掃部である。
その藤原明孝がどのような理由で兄とともに京都にやってきたのか、どうして兄とともに大蔵忠親を殺害したのかについて、道長は日記に何も残してくれていない。
ただし、わかっているのは一つだけある。為重丸が真犯人ではないと判明したところで、それまでの差別感情を否定した者も、反省した者も、全くいなかったことである。
真犯人が出たことで出頭命令も取り消され取り調べも無くなった為重丸であるが、自らの社会的地位の低さと、庶民から嫌われているという実感を改めて痛感しただけで、何も得たものはなかった。
長和六(一〇一七)年三月四日、大規模な人事異動があった。およそ二〇年に渡って固定されていた人事がついに動いたのである。
藤原道長が左大臣でなくなったことによるシフトだが、それでも当時の人には新鮮さを感じさせるものであった。
まず、空席となった左大臣に、右大臣であった藤原顕光が昇格。長年道長の右腕を務めてきたこともあり政策の継続に対する不安もなく、また、道長不在時に議政官を取り仕切っていた実績もあって、藤原顕光が左大臣になったことに対し、異論は全く出ていない。ただし、ネックが一つだけあった。七四歳という年齢である。平均年齢が八〇歳近い現在と違い、この時代は五〇歳で高齢者扱いされる時代である。その時代の七四歳というのは、現在の感覚で言うと一〇〇歳の老人としてもよい。
藤原顕光の昇格を受けて空席となった右大臣には、内大臣であった藤原公季が昇格する。藤原顕光が道長の右腕なら、こちらは左腕といったところか。藤原公季も六一歳という高齢であるが、新左大臣と比較され続けてきたこともあって若き大臣という扱いを受けてもいた。
そして、内大臣がこのときの人事異動のメインである。権大納言藤原頼通が二六歳の若さで内大臣に就任。道長が左大臣を辞めた直後、頼通の地位は議政官で六番目である。大納言が二人いただけでなく、権大納言の中の順番も二番目である。その頼通が一気に三人の貴族を追い抜いて内大臣に昇格した。
もっとも、藤原頼通が道長の後継者であることは誰もが知っている事実である。ここで頼通を大臣にさせたのも、道長の権力継承を考えれば普通のことであった。
なお、後任の権大納言には権中納言であった源俊賢が昇格。また、蔵人頭であった藤原資平が、位階こそ正四位下ではあるが、参議に就任した。
道長は日記に、源俊賢の昇格によって大納言が多すぎる事態となるが、源俊賢がこれまで果たしてきた功績を考えると権大納言にしなければならないこと、その一方で、源俊賢の昇格によって空席となった権中納言には、今まで中納言が多すぎたのと、適当な人物がいないことを理由に空席のままとすると記している。また、参議は元々空席があり、空席を埋めるためには少なくとも二人の昇格が必要だが、参議に相応しいのは藤原資平しかいないので一人のみの昇格とするとも書いている。既に誰もが把握するところであったのだが、三位だからと言って無条件に参議にするわけではなかった。
さらに二日後の三月六日、正二位内大臣藤原頼通が左近衛大将に就任。頼通はこの瞬間から、日本国の武力を束ねる存在にもなったのである。
さて、清少納言と言えば一条天皇后定子の死後、宮中を去り、その後の消息はよくわからなくなっている女性である。それでも断片的なら、どうやら夫の任国である摂津国に赴いた後、亡き父の持つ別荘があった東山月輪のあたりに住んでいて当時の宮中の女性達と交流があったらしいことはわかる。ただし、没年月日はわからない。
一方、清少納言の兄である清原致信の没年月日はこれ以上無くはっきりしている。長和六(一〇一七)年三月八日である。
なぜ没年月日がはっきりしているかというと、三月一一日の道長の日記に、清原致信が三月八日に殺されたという記録を残しているからである。
清原致信の役人としての経歴としては、太宰少監を勤めたことが知られているが、その後は藤原道長の忠実な家臣の一人で、藤原道長の家司として所有する荘園の管理を担当していた藤原保昌に使える郎等の一人となっていた。荘園の管理という仕事はただ単に事務手続きをしていれば良いというものではなく、荘園の警備もその役割として含まれている。と書くと都合もつくが、要は、荘園の用心棒である。武力で以て荘園を守るのだ。
ちなみに、藤原保昌は和泉式部の夫である。つまり、清少納言と和泉式部は義理の姉妹ということとなる。
さて、清原致信が藤原保昌に仕える郎等の一人であったということは、武力で荘園を守る事実上の武士になっていたということでもある。何度もくり返すが、この時代の武士というのは、役人であったり、ときには貴族であったりするのが普通。無位無冠の武士であっても血筋をたどるとどこかの貴族につながるというのはごく当たり前のことであった。清原致信が清少納言の兄である、つまり、中宮に仕える女官の兄が武士であることは特別なことでも何でもなかった。兄がかつて太宰府で勤務していた役人であり、現在は藤原道長の家司を勤める者のもとに仕える身であるというのは、清少納言のキャリアにプラスになる要素でもあったのである。
その清原致信はなぜ殺されたのか。
しかも、道長の日記によると、馬上の武士が七名から八名、その随員が一〇名ほど、合わせて二〇名ほどの武士が、現在の時刻でいうと午後三時から五時ぐらいというまさに白昼堂々の時刻に、清原致信の住まいに押しかけて殺害したのである。
犯行現場に駆けつけた検非違使によって、犯人の一人に秦氏元がいることが判明した。
秦氏元は源頼親の従者である。
源頼親について、当時の人は『殺人の名人』と評している。
源頼親はかつて清原致信に殺害された当麻為頼の仲間であった。
ここまでくると、源頼親が怪しくないはずがない。
道長はただちに秦氏元と源頼親に対し出頭するよう命令を発した。
源頼親は源満仲の息子であり、源頼光の弟である。つまり、道長が影響力を発揮できる清和源氏の武士の一人である。実際、正暦三(九九四)年には盗賊追捕命令を遂行するために武力を発揮していたことが記録として残っている。その後、武人であると同時に貴族でもあるという生涯を過ごし、長和三(一〇一四)年には摂津国司に推薦された過去も持っている。ただし、摂津国司就任には失敗した。源頼親が摂津国内に持つ荘園の多さから、藤原実資をはじめとする多くの貴族が源頼親の摂津国司就任に反対したからである。
その代わりと言っては何だが、源頼親はこの時点で淡路国司兼右馬守であった。
長和六(一〇一七)年三月一五日までは。
この日、淡路国司に源貞亮が、右馬守に藤原惟憲が任命された。源頼親に事件の責任を取らせるために役職が両方とも解任されたのである。
殺人事件があったにもかかわらず、処罰はただそれだけだった。
長和六(一〇一七)年三月一六日、摂政藤原道長が摂政を辞任すると発表した。
もっとも、この人は生涯に何度も、左大臣を辞める、内覧の権利を辞めると言ってきた人である。多くの人がまたいつものことかと思い、深く考えずにいた。
ところが、道長の辞表を後一条天皇が受理したのである。と同時に二つの発表がなされた。
忘れてはならないのは、この時点で後一条天皇はまだ元服していない少年であるということ、そして、藤原道長はもう二〇年に渡って国政の最高権力者として君臨してきた存在であるということ。しかも、摂政というのは天皇の代理というかなりの強権である。つまり、道長は辞表をちらつかせての駆け引きなどする必要はなかったことを忘れてはならないのだ。
この状態で摂政辞任の辞表を提出したというのは、道長自身が考えたストーリーに基づいてのこととするしかないのだ。
以上を踏まえ後一条天皇が発した命令を振り返ると、単純な話ではなくなる。
まず、一つ目の命令は、藤原道長に一位を与えるという命令である。なお、正一位は死者に対する名誉の称号のようなものであり、正者に対して一位を与えたとしか書いていない場合、それは従一位を与えたと決まっている。
そして、二つ目の命令。それは、内大臣藤原頼通を摂政に任命するというものである。
普通に考えれば、道長が後継者である頼通に摂政の地位を譲ったという話になる。だが、道長はこれで何ら役職を持たない身となったのだ。その上で一位の位階を獲得した。
位階のインフレを食い止め、増えすぎた議政官の人数を減らすことを徹底させてきた道長である。ここで自分が何ら役職を持たない身になったことを誰の目にもわかるようにし、その上で一位を獲得することは、今後も位階のインフレを食い止めよと命じることでもあったのだ。正一位は死者への名誉の称号、従一位は引退した者への称号とし、大臣はあくまでも正二位以下にとどめるという道長の政策は今後も続くとしたのである。
しかも、藤原頼通は内大臣兼摂政。左大臣と摂政の兼任は多忙を極め国政に支障を与えるが、議政官の一員にカウントはされても、招集権もなければ拒否権もなく、議事進行権すら与えられていない内大臣であれば摂政と兼任は可能と判断したのである。
後一条天皇の年齢を考えれば、そう遠くない未来、摂政は不要になる。左大臣も右大臣も年齢的に厳しいかもしれないが、後一条天皇が元服を迎える頃までは計算できるであろう。後一条天皇が元服をすれば摂政は不要になる。そうなれば藤原頼通は左大臣として議政官を取り仕切るようになる。
皮肉にも、藤原氏による摂関政治のピークとされる道長は、摂関政治を否定し、左大臣が議政官を取り仕切ることでの政務遂行を藤原氏の基本政策とし、それを今後も続けることを命じたのだ。
摂政に就任した直後の藤原頼通は、内大臣であると同時に、左近衛大将を兼ねている。つまり、日本国の軍事のトップでもある。
ところが、この兼職を当の頼通が苦痛に感じたのである。こなしきれないと言うのだ。内大臣と左近衛大将を兼ねることは耐えた。だが、ここに摂政まで加わることは耐えられなかったのだ。
とは言うものの、それは本心ではない。
頼通の本心は単純明快で、軍事関係が嫌だったのだ。道長は武士と個人的なコネクションを持つほどであるし、元からして素行があまりよろしくない、つまり、物騒な環境であろうと慣れたものである。武士と武士が争いを起こし、数多くの死体が道端に放置される事態となっても平然としていられたのが道長である。
だが、頼通にはそんなものなどない。
武士との個人的なコネクションなど全くなく、あるとしてもそれは父道長の築いたコネクションの継承であって頼通個人の築いたコネクションではない。武士が頼通に忠誠を示したとしても、それは、頼通個人を畏怖するから忠誠を誓うのではなく、藤原道長の後継者だから忠誠を誓うのである。
争いごとは苦手で、物騒な物事への耐性はおろか、物騒な物事そのものを徹底的に拒否している。人の死はおろか、血を見ることすら耐えられない、そんな性格なのである。
武を操るのに最も相応しくない性格の人間が、ただ藤原道長の後継者であるというだけで、嫌で嫌でしょうがない左近衛大将に就任したのである。頼通はこの職務を一刻も早く手放したかったが、道長がそれを許さなかったのだ。
だが、今はもう違う。何しろ摂政である。いかに父がまだいると言っても、父はもう引退した身である。
無論、父道長の怒りはあるだろう。だが、その怒りをそらす絶好の大義名分があった。それが兼職の多さである。左大臣と摂政を兼ねていたことで国政を停滞させた道長にとって、兼職による国政停滞は、やむを得ぬと受け入れざるを得ない理由になりえたのである。
長和六(一〇一七)年三月一六日に摂政に就任してからわずか七日しか経ていない二二日に左近衛大将の辞表を提出したと言うのだから、いかに頼通が左近衛大将を嫌がっていたかが見て取れる。
当初、後任の左近衛大将には大納言兼右近衛大将の藤原実資の昇格が予定されていたが、藤原実資は昇格を拒否。そこに手を挙げたのが頼通の弟でこのとき権中納言であった藤原教通である。教通はこのとき左衛門督であっただけでなく、ついこの間まで検非違使別当の地位にもあった。つまり、物騒な場面にもある程度は慣れていたのである。
このときの頼通の感情を臆病と断定するのは簡単だ。だが、当時の人にはそれが当たり前だったのだ。血は穢れであり、物騒な物事は徹底して拒絶すべきものであり、治安維持にあたる者は物騒に接するがゆえに差別される。この文化で育った頼通が、物騒を拒絶したのは何らおかしなところではなかったのである。
藤原道長は摂政を辞任したため、位階こそトップであるが、役職はトップではなくなっている。摂政は藤原頼通であり、議政官のトップである左大臣は藤原顕光である。
もっとも、それはあくまでも制度上の話であり、現実問題、藤原道長に逆らえる者などいなかった。
確かに、その気になれば頼通は摂政としての権威で、顕光は左大臣としての権力で、道長に立ち向かうことも可能であったし、実際、頼通は自身の左近衛大将辞職について我を通している。
だが、実際には道長が圧倒的存在で君臨しており、摂政藤原頼通も、左大臣藤原顕光も、道長の前では一臣下になってしまうのである。
道長の権勢がどのようなものであるかを庶民の隅々まで思い知ることになるエピソードがあったのもこの頃である。
長和六(一〇一七)年三月二六日、内裏から退出する藤原道長の乗った牛車が、摂政藤原頼通を乗せた牛車とすれ違った。貴族の乗った牛車同士がすれ違うとき、下の地位にある者が牛車を降りて上の地位にある者の乗った牛車が通り過ぎるのを待つのがこの時代の礼儀である。普通に考えれば、皇族以外に摂政以上の者などいないのだから、藤原道長が降りて、藤原頼通の牛車を通りすぎるのを待つのが礼儀であるし、道長もそう考えていた。
ところが、牛車を降りた藤原道長が目の当たりにしたのは、摂政藤原頼通が牛車を降りただけでなく、道長の前に跪いていた姿であった。
たしかに、プライベートにおいては父と子である。この時代の感覚でいけば父の前に跪く息子の姿とも言える。
だが、藤原頼通は摂政なのだ。しかも、目の前にいるのは何の役職も持たない者である。確かに位階は頼通より上だが、官職のヒエラルキーに従えば道長のほうが頼通を見送らなければならない立場だったのだ。
それが、頼通のほうが降りただけでなく、道長の前に跪いている。しかも、この姿を平安京の数多くの庶民が目の当たりにしている。
道長は頼通に立つように促した。公人として摂政を跪かせるわけにはいかないと説得したし、私人として父の頼みを聞いて欲しいと頼んだが、頼通の回答はどちらも否。仕方ないので道長は牛車に乗ってこの場を去ったが、道長はかなり不本意であった。
道長は、人臣のトップは左大臣であり、左大臣が議政官のトップとして君臨した上で議政官の議決が国政を決めること、摂政はあくまでも臨時の役職であり、天皇の元服後は関白を置かないことをシステム化したつもりであった。そのシステムが出来上がった以上、自分はもう身を引いた立場であると表明したつもりでもあった。
それなのに、実際には何の役職も持たない藤原道長が圧倒的な存在を持って君臨し、左大臣であろうと、摂政であろうと、道長に跪く臣下であると示してしまったのである。
道長がいなくても機能するシステムを作ったつもりであったのに、システムを使う側が、道長がいることを前提とした政務をするようになってしまったのだ。
長和六(一〇一七)年四月三日、左衛門督藤原教通が左近衛大将に昇格した。と同時に、武官の大幅な入れ替えも行なわれた。
これまで、左近衛大将は摂政内大臣藤原頼通の兼任職であった。つまり、藤原頼通という一人の政治家の職務の一つでしかなく、注目される職務ではなかった。しかし、これからは違う。摂政の実の弟であることは事実でも、権中納言藤原教通の兼職である。いや、権中納言のほうが兼職である左近衛大将藤原教通という存在が誕生したのである。摂政の弟であるというだけの権中納言から、摂政に対抗しうる存在へと進化したと言っても良い。
左近衛大将というのは、普通に考えれば大臣が兼任すべき職務である。それを権中納言が兼任するようになったのだから、異例な事態である。
なぜか。
大臣であるがために築けるのと匹敵する組織を、権中納言でしかない藤原教通が築けるようになったのだ。兄に対抗すべき勢力を、左近衛府をはじめとする武官という形で築くことが可能となったのである。
武官に対する人事権を手にしたということは、武士に対するオフィシャルな地位を与える権力を手にしたと同じである。
これまで藤原道長は個人的なコネクションで武士と接点を持っていた。先にも記したが、道長は武士たちとパトローネスとクリエンテスの関係を築いており、いざとなればパトローネスである道長はクリエンテスである武士に命令を出すこともできた。
道長の権力を継承したはずの摂政内大臣藤原頼通に、そのようなコネクションは無い。あるとすれば道長の子という一点のみであり、それはコネクションとしては弱い。古代ローマのパトローネスとクリエンテスの関係は世襲のものであったが、この時代の日本のそれは個人のものであり、たとえ実の子であろうとも自動的に世襲できるものではなかった。
一方、コネクションが無いという一点では兄と同列であった藤原教通は、左近衛大将という武官の人事権を一手に握ることで武士とのコネクションをいとも簡単に築くことができるようになったのである。これは国がパトローネスと認めたようなものであり、いざとなれば、武官の人事権を介在させた上で、クリエンテスである武士を集めることも可能となったのだ。
そのことを、藤原教通は左近衛大将就任のまさにその日にアピールした。自らが権力を行使できる貴族や武士たちを率いて道長の邸宅に姿を見せ、名目としては左近衛大将就任の祝いの儀式を、実際には新派閥誕生のアピールを見せたのである。
この左近衛大将の地位を、藤原教通はなんと四十五年という長さにわたって就任し続けることとなるのである。これは藤原教通の執念としても良かった。
藤原道長という人は、敵であろうと赦してきた人である。ただし、刃向かった者を無条件で褒め称えるなどという珍妙なことはしていない。その人の能力が確かであるなら、たとえ刃向かった過去があろうと、能力に見合った職務を用意しただけのことである。
このあたりは現在の政党政治では考えられない話である。現在は、どんなに有能であろうと野党であるというだけで政府の要職とは無縁の議員生活となる一方、与党の一員であれば、多少の無能さがあっても政府の要職に就くことができる。
さて、政治家の評価を国民生活の水準がどうであるかだけで考えると問題ないのだが、そうでない点で失敗をしたために、政治家としての評価を下げる人がいるのは、今も昔も変わらない。たとえば、賄賂を貰ったとか、不正蓄財があったとか、それでも国民生活が良くなるなら一向に構わないではないかというのは極論で、多くの人は、不正があれば、どんなに政治家として結果を出していようと政治家失格と考えるものである。
さて、藤原道長が赦してきた敵の一人に藤原道雅という人がいた。この人は道長が摂政を辞任した時点で従三位であったが参議の一員にはなれていないという地位である。もっともわずか八日ではあるが蔵人頭の経験もあり、普通にいけば将来の議政官の一人であったろう。
この人が道長に赦された敵の一人と考えられてきたのは、藤原道雅が藤原伊周の長男であったからである。藤原伊周と言えば、道長にとって最大のライバルと目された上に、花山法皇を弓矢で襲撃して追放処分となったという過去まである人であり、この時代の感覚でいけば子にまで連座する重罪を喰らった人である。
その藤原伊周の息子である藤原道雅が道長の元で順当に出世していたというのは、道長の寛容を示す証拠とまでなっていたのである。
だが、道雅は道を踏み外したのだ。
統治者としての能力ならあったのだが、スキャンダルが大きすぎたのだ。
何をしたのか?
三条天皇の娘である当子内親王と、男と女の関係になったのだ。
天皇の娘と密通するなど許されざる大犯罪である。その上、このときの当子内親王は伊勢神宮の斎姫である。処女であり続けたまま伊勢神宮で神に仕えることを求められる斎姫と肉体関係を持ったとあっては、二重で許されざる犯罪になる。
関係が発覚したのは三条天皇が在位中の長和五(一〇一六)年九月。伊勢神宮から京都に戻ってきていた当子内親王と密通したところを見つかり、父である三条天皇を激怒させ、三条天皇から直々に出勤停止命令を喰らった。
それでも諦めきれないのか、長和六(一〇一七)年四月一〇日に、今度は藤原道雅が伊勢にまで出向いて当子内親王と再度密通し、これもまた発覚して連行された。
これには三条上皇も我慢の限界を超えた。
三条上皇は道長に対し、ただちに藤原道雅を処分するよう命令した。
道長は藤原通任に対し、今回の件であくまでにも法に基づいた処分を執行するよう命じた。ちなみにこの藤原通任も道長に赦された敵の一人である。ただし、藤原通任に対する道長の評は厳しい。日記には「昔からそうだが、藤原通任は何を言っているのかわからない。尻も口もない状態だ」とまで記している。
藤原道雅と、娘の当子内親王との密通に激怒し、藤原道雅を強姦の罪で処罰せよとまで道長に命じていた三条上皇であるが、上皇は自らの処罰の願いを見届けることができなくなっていた。
長和六(一〇一七)年四月二一日、三条上皇が病気で倒れたのである。もともと眼病もあって健康とは遠かった三条上皇であるが、天皇退位後は眼病以外ならどうにかなっていた。少なくとも、娘の密通に激怒する父親の姿を見せることまではできていたのである。
だが、この日を境に三条上皇の健康は目に見えて悪化する。藤原道長は連日三条上皇のもとを見舞い、その様子を自らの日記に記しているが、日記から滲み出ているのは三条上皇の体調が日を追うごとに悪化している様子である。
忘れてはならないのは、この時の藤原道長はもう、大臣でもなければ摂政でもなく、位階こそ従一位ではあるものの、役職は何もない立場であるということである。ゆえに、時間ならばある。三条上皇のもとに日参できるのも役職を持たぬ隠居の身であったからであり、いかに官庁街の中にある三条院への訪問とは言え、それは政務をしながら同時進行でできるようなものではない。つまり、今の道長だからできることであり、摂政や左大臣であっては、ここまで頻繁に三条院に足を運ぶなどできない話である。
三条上皇はそのあたりの認識を欠いてしまったのかも知れない。あるいは、それまで道長が絶対的な権力を持っていた期間が長すぎたため、道長が何の役職も持たない、つまり、何ら公的権力を持たない身であることを気付かせることすらできないほどになってしまっていたのかもしれない。
三条上皇は娘と密通した藤原道雅を処罰するよう道長に求めたが、道長には処罰するような権力などない。圧倒的な権威ならばあるから、その権威を利用すれば警察権力を動かすこともできなくはない。ただ、それはやってはならないことであった。
道長は、道長がいなくなってもシステムが動き続けることを考え、実際に自らが第一線を退いてもシステムが機能するように見守っていた。ところが、当時の人はそう考えなかった。三条上皇も考えなかったし、貴族たちも考えなかったし、庶民も考えなかった。道長が全てのシステムを超越する特別な存在として君臨し、道長の鶴の一声で全てが動くことを期待するようになっていたのである。
それはまるで、道長が万能で永遠の存在であるかのように考えられていたかのようであった。
長和六(一〇一七)年四月の道長の日記を読むと、連日のように三条上皇のもとに赴き、三条上皇の体調が日に日に悪化する様子が見て取れる。
と同時に、政治的な書き込みが消える。他の史料から、長和六(一〇一七)年四月二三日に寛仁に改元したことは明白なのだが、改元という政治的にかなり重要な出来事について、道長のこの日の日記には何も記されていない。ただ三条上皇の病状がかなり悪化しているとだけ記されて終わりである。
その代わりと言っては何だが、中納言藤原行成がこのときの改元の様子についてかなり詳しく書き記してくれている。
まず、改元の発案者は摂政藤原頼通である。
この日、頭右中弁の藤原定頼から、摂政藤原頼通からの意向であるとして改元が発議され、権左大弁藤原重尹が後一条天皇からの宣旨を読み上げたことで改元を実施することが決まった。この時代の改元は天皇の専権事項であり、議政官による発議の対象ではない。ゆえに、ここで藤原頼通が内大臣としてではなく摂政として発議したのは当時のルールに則ってのことである。
次いで、摂政藤原頼通から、亡き文章博士の菅原宣義が生前に提案していた三つの元号である、永貞、淳徳、建徳の元号案を新元号の候補から外すべきとの意見が届いたことが伝えられた。故人の残した元号案は即位後初の元号から外すという当時の慣例に基づいたものであり、誰も異論を挙げた者はいなかった。
そして新たな元号を決める会議が始まった。ここではじめて議政官の出番となる。参加者は、左大臣藤原顕光、大納言藤原斉信、大納言源俊賢、左大弁でもある参議源道方、参議藤原資平、そして記録を残した本人である中納言藤原行成。右大臣藤原公季も、内大臣でもある摂政藤原頼通もここにはいない。
この場の参加者はここで新元号を挙げるわけではなく、事務方から推挙された元号案の中から最も優れていると考えた元号を選ぶわけである。そうして選ばれたのが寛仁であった。
このときの改元は後一条天皇即位に基づく改元であった。たしかに後一条天皇は即位から一年以上経ているにも関わらず三条天皇の定めた元号である長和を使い続けていたというのはおかしな話である。
だから、改元自体はおかしなことではないのだが、この時代の人はそう考えなかった。三条上皇が倒れたという現実、そして、三条天皇の回復を祈るための改元と誰もが考えたのである。
藤原道長は、三条上皇の病状がいかに悪化しているかを日記に記しているのに、そして、後述するが三条上皇の健康回復のために大散財するのに、三条上皇の健康を祈念する改元について自分の日記に何も記していないのは、それが道長の判断だからとするしかない。改元を定めるのは後一条天皇や摂政藤原頼通であって、今や無冠の身である自分の役割では無いとでも言いたげである。
そもそも、道長が三条上皇のもとに出向けるのは、道長が何の公的地位も持たない身だからである。三条上皇のもとに出向いていないときもあるが、それは、父親としての役割を果たさねばならないときであって、政治的な何かをしなければならないときではない。
たとえば、寛仁元(一〇一七)年四月二六日は三条上皇のもとを訪れてはいない。それはこの日に道長の六男である藤原長家の元服の儀があったからで、これはさすがに父親として臨まないわけにはいかなかった。
なお、この儀式には摂政内大臣藤原頼通も参加していたが、頼通自身は兄としての参加であったつもりなのに、道長からは終始、摂政としての扱いを受けている。儀式の中心を占めるのは主役である藤原長家だからいいとして、その次の席次はその家で最も偉い者、つまり、道長であるはずなのだが、道長は頼通の方が上だとして自分はその次の席に移ったのだ。
元服に伴う贈り物も、父としてのプレゼントであって権力者としてのプレゼントではない。権力者としてのプレゼント、つまり、位階の贈呈は確かにあったが、それは道長の子としてではなく、摂政内大臣から弟へのプレゼントとしてであった。