欠けたる望月 4.道長のいない朝廷
寛仁四(一〇二〇)年元日時点の議政官の構成は以下の通りである。
その他に、左近衛中将の藤原道雅と、右近衛中将の藤原兼経の二人が、従三位であるが参議ではなく議政官の一員としてカウントされていない。
上記の席順は公卿補任に従っているが、一ヶ所だけ、原本に手を加えている。それは内大臣藤原頼通。実は、公卿補任の原本だと貴族たちの先頭に関白内大臣藤原頼通が存在している。公卿補任において、摂政や関白である者は太政大臣よりも上位に位置付けられるのが通例である。だが、この時代の議政官の在り方を考えると、内大臣藤原頼通は関白としてではなく内大臣として序列の三番目として位置しており、関白は兼職であるとするほうが正解ではないかと言えるのである。
と言うのも、寛仁四(一〇二〇)年の政治の状況を見ると、藤原頼通が関白として先陣を切って何かしらの政務を遂行したという記録が見えないのである。
藤原道長は自分の後継者となった藤原頼通に自分と同じ道を歩ませることを考えていた。議政官の一員としてキャリアを積ませ、地道にステップアップさせ、前任者が退いてから人臣のトップに立つという道である。左大臣藤原顕光も右大臣藤原公季も、年齢を考えればいつ何があってもおかしくない年齢になっている。内大臣というナンバー3の地位であっても、無理してトップを狙うのではなくナンバー3として実績を積み上げ、ナンバー1とナンバー2に何かあったときまで健在であり続ければ、権力は自然と転がりこむ。しかも、そのときは海のものとも山のものともつかない無名の若者ではなく、実績充分の大臣。こうなれば周囲から寄せられる信頼が違う。発言一つとっても、怪しげな若者の戯言ではなく、実績十分な大臣の意見となる。
多くの人は、他人の意見を聞き入れるかどうかについて、誰の意見なのかではなく、どんな意見なのかを基準に判断すると考えているが、そんな人は滅多にいない。どんな意見にもその意見を発した人がついてくる。どんな意見なのかではなく、誰の意見なのかで判断するのが現実なのだ。立派な意見であっても発言者によっては妄想に近い暴論と片付けられるし、熱が冷めるような意見でも発言者によっては熱狂を生み出すのが人間社会の現実である。
道長が議政官の空気を支配できていたのは、道長が怪しげな若者であった頃から、どんなに自分にとって辛辣な内容であろうとその意見を聞き入れてきたからである。誰がどのような発言をしようと、道長はそれについてどうこう言うことはなかった。それどころか、明らかに反道長であるとされる人の意見であろうと、国にとって有意義であるとするならばその意見に賛同した。現在で言うならば、自民党内閣をナチスだと批判している人たちの掲げる政策が日本国にとって有効な政策であると判断したら、自民党内閣がその政策に賛成するだけでなく、法案が法律となるのに協力するようなものである。
このような立場を無名の頃から延々と続ければどうなるか?
この人はどんな辛辣な意見でも受け入れるし、批判的な人の意見でもこの国にとって有意義ならば賛成する人なのだという評判が成り立つ。そういう立場に立った人の意見は強い。同じ意見でも「藤原道長が賛成するのだから正しい意見なのだろう」という評判が出来上がる。こうなれば議政官を支配するのは簡単だ。
その上、道長が権力を掴んだのは、兄二人が相次いで亡くなった、いや、兄たちだけでなく多くの貴族が次々と病死したという状況があったからである。権力の中軸にいる人たちが次々と命を落とし、これからこの国は一体どうなってしまうのだと誰もが苦悩する中、ただ一人、盤石な存在としてあり続けたのが道長であった。混迷にある中にあって、誰の意見でも受け入れ続けてきた道長が健在であったことはこれ以上ない安心感を抱かせるものであったろう。
普通に考えれば、ただ一人の軸になりえた道長は自分を独裁者とする政権を築いていてもおかしくなかった。しかし、その道長は事実上の独裁者でありながら、自分を独裁者とすることは徹底的に排除し続けたのである。
道長が選んだのは、議論に議論を重ねた末に上奏された議政官の議決がそのまま天皇の名で公布されて法となるという、律令に記され慣例にも基づいている昔からの仕組みである。摂関政治はその上に摂政や関白が君臨するという仕組みであり、一種の危機管理システムでもあったのだが、道長は摂政や関白としてその上に立つことが許されていたにも関わらず、上に立つことを徹底的に拒み続けた。結局、上に立ったのは元服を迎えていない後一条天皇の即位後のことである。
道長の行動に批判の入る余地はない。議政官による決議に基づく政治は、独裁者の思いつきなわけでも、言論を封じた末の強行採決でもない。それでいて、文句のつけどころのない議政官の議決を藤原道長は自分の思い通りに左右することができていたのである。
この仕組みを道長は頼通に譲ったつもりであった。
しかし、一つだけ見込み違いがあった。頼通は議政官を支配できていなかったのだ。一見すると支配できているように見えていたが、その正体は殺生としての圧倒的権威に基づくものであったのだ。
ここでも父と子は大きく違っていた。
父道長は自分の肩書きに関係なく、自身の弁論の力で議政官の空気を支配し、自分の望む意見を議政官の議決とすることに成功していた。それができるからこそ、道長は議政官の議長職でもある左大臣の地位にこだわり続けていたのである。議政官の議決というのは、現在でいうと衆参両院の多数決による採決に等しい。強行採決ではないかという不平不満を抱かれることはあっても、自分の意見が少数派の意見であったがために自分の意見が採用されなかったという現実を覆すことはできない。つまり、ありとあらゆる批判のネタを考え出して道長にぶつけたとしても、多数派の意見を無視しているという批判だけはぶつけることができない。
ところが、頼通は議政官を言論の力で支配できるほどの空気を生み出す能力がなかった。反対する者の意見は聞き入れす、その上、自説は曲げなかった。結果は、摂政の権威を利用しての強行採決である。頼通の意見が少数意見に留まっている意見であっても関係なく、頼通の意見が採用されていたのである。いかに議政官の意見として上奏しようと、摂政藤原頼通が否決したら議政官の決議自体が無効になる。そんな無駄な混迷をするよりは、最初から頼通の意見に従って頼通の意見を議政官の意見とする方がまだ手っ取り早かったのだ。
だが、もう頼通は摂政ではない。関白である。摂政と関白は一緒に扱われることも多いが、与えられている権力が全然違う。議政官の決議を白紙撤回できる摂政と違って、関白は天皇の相談役であり、議政官の決議をひっくり返すほどの権力などないのである。
藤原頼通は関白であると同時に内大臣である。貴族の序列で言うと確かに全ての大臣の先頭に立つ。だが、議政官という場所に限ると、関白を兼職としている内大臣という地位に留まる。同じ内大臣でも、摂政を兼任しているために議政官の決議を引っくり返すほどの権力を持っている内大臣と、関白を兼任してはいるが議政官の決議を引っくり返すほどの権力はない内大臣とでは、議政官の中における発言の重さが全然違う。
道長は評判に基づく自分の立場を確立することで議政官を支配したのに対し、頼通は権力に基づいて議政官を支配していたのである。評判に基づいて支配しているならば、肩書きが何であろうと構わない。下手に出世して議政官の一員になれなくなることさえ抑えることができればそれでいい。一方、権力に基づいて支配しているならば、権力を失った瞬間に全てが泡と消える。頼通が摂政をなかなか辞めようとしなかったのも、摂政に代わる地位を求めたのも、自分の立場の根幹に関わる話であったからである。
関白というのは妥協した結果である。頼通も当初は関白であれば今までと変わらぬ権力を行使できると考えていた。だが、いざ関白として議政官に臨むと、それまで通りの意見を通そうとしても通らないどころか、取るに足らない少数意見として無視される。発言の機会がないわけではないが、同調者が少ないのだ。
反発する人も多かった藤原道長であったが、惜しみない協力をする者はもっと多かった。一方、藤原頼通には味方が少ない。味方であると言っても惜しみない協力をするとまでは言い切れない。その人脈の多くは藤原道長の子で後継者であるという一点に基づいており、藤原頼通自身の築き上げた人脈は大納言藤原実資ぐらいなものである。
しかも、その大納言藤原実資は藤原道長への批判を欠かさない人でもあった。道長のマイナスとなる部分は欠かさず記録しながら、プラスとなる要素は見向きもしない人である。現在も残る「この世をば〜」の和歌を現在に伝えているのは藤原実資の日記であるが、その日記のどこを見ても、道長が残した業績についての記録はない。ただただ、藤原道長は無能で横暴な独裁者であると記しているだけであり、「この世をば〜」も道長批判の材料として記しているに過ぎない。
道長が有能な人だと認めてはいた。道長に対する悪評は数多く残しているが、そのどこにも道長を無能者と扱う記述はない。悪人であると扱っているだけである。
藤原道長へ批判を生涯止めることのなかった藤原実資であるが、頼通に関しては絶賛している。本当に頼通が道長の子なのだろうかと思ってしまいたくなるほど、頼通のことを手放しで褒め称えているのである。
このあたりの理由は、「真面目」というキーワードで説明できるだろう。
真面目な人とはどういう人か。
真摯に取り組む人、ふざけることなく仕事をこなす人、与えられた役割を着実に実行する人、褒め称えられることをする人、だいたいこういうところだろう。
ところが、真面目な人には大きな欠点がある。それは、自分の考えや行動が絶対に正しく、自分と異なる考えや行動をする人のことを劣った存在と見ることである。自分と異なる考えや行動をする人は劣った存在なのだから最初から議論が成立しない。こういう人にとっての話し合いとは、自分の意見を相手が無条件に受け入れることであって、相手の意見などは耳障りな騒音でしかないのである。自分の意見を発表する場が奪われることは言論の自由が奪われることであると考えながら、自分の意見を否定する意見については許されざる暴言と言い切る。それは矛盾していないかという指摘も気にしない。自分の意見は常に正しく、誰もが聞き入れなければならない意見であるが、自分の意見を遮るのは悪であるから好きなだけ取り締まっても良いと考えているのだ。
藤原実資は自分に絶対の自信を持っていた。一条天皇、三条天皇、そして後一条天皇の三代に渡って事実上の独裁者として君臨し続けた藤原道長に対し、自分一人だけが立ち向かった正義の人だという自負を持っていた。
さらに、議政官を見渡しても自分に匹敵する知性の持ち主はいないと考えていた。自分は極めて優秀で、悪辣極まりない藤原道長は自分より多少劣り、その他の貴族はどうしようもない無能者というのが藤原実資の判断であった。その中で、若き藤原頼通だけは、自分と同調できる優秀な存在だと認めていた。
自分を優秀な人物だと自負する藤原実資であるが、自分と異なる行動や発言をする人にもそれぞれに正義があるというところまでは考えが至らなかった。道長が独裁者として君臨していた時代、飢饉も、経済危機も、失業問題も起こっていない。国外からの侵略もなければ国内の内乱もない。これは道長一人の功績ではない。道長の指揮はあったが、貴族一人一人がそれぞれの役割を果たし続けてきた結果である。それなのに、そのことを藤原実資は日記に残していない。日記に残してあるのは藤原道長を悪辣な独裁者と断じ、その他の貴族を無能者と一刀両断する記述だけである。
現在にもそのような人はいる。ファシズムにしろ、コミュニズムにしろ、テロリズムにしろ、真面目か真面目でないかと言われれば、真面目であると答えるしかない。ただし、優秀であると考える者はいない。偏差値が高かろうと、いかに優れた学歴を手にしていようと、自分のことを絶対正義と考え、他者の意見など耳にする価値もないと考える人間について知性を感じることはできない。
藤原頼通も自分のことを真面目と自認し、自分の考えや行動は常に正しいと考えている。ゆえに、藤原実資に認められるのである。この場合、重要なのは意見の一致ではなく、真面目でない他者を見下しているという姿勢である。その姿勢について同調するから、自分の同志の意見であるとして、どのような意見を挙げようと無条件で賛成する。
ただ、藤原実資は議政官を構成する一貴族でしかなかったのに対し、藤原頼通は絶大な権力を持つ摂政であったのだ。常に正しい存在である自分の意見や行動が議政官で議決されるのは、自分の意見や行動の正しさではなく、摂政であるがゆえに行使できる権力に基づくものだと、ギリギリまで気づかなかったのだ。
摂政でなくなった瞬間に突きつけられた現実を、藤原頼通はなかなか受け入れることができなかった。
現実を受け入れる代わりに頼通が選んだのは、逃げである。
議論の場から姿を消したのである。
名目上は関白としての業務多忙であり、やむを得ず議政官に顔を出すことができなくなっているとするものであったが、議政官の貴族たちは、頼通が議政官たちに受け入れられなくなっているという現実から逃れようとしているのだと考えた。
関白として後一条天皇のそばに侍り、圧倒的権威者として振舞っている藤原頼通も、議政官においては内大臣である。議政官で発言すること、議政官の評決に加わることは当然の権利として存在したが、議政官の決議を自分の思い通りにできるという権利はない。決議を動かしたければ弁論の力に頼るしかないのだ。
父が持っていたその力を自分は持っていないと、藤原頼通は二九歳にして気付かされたのである。
ついこの間までであれば、圧倒的権威者である藤原道長の存在を利用することができた。何しろ藤原頼通は藤原道長の長男にして、道長が直々に後継者であると任命した人物なのだ。意見の多少の食い違いがあっても、道長の威光を利用すれば頼通の意見を通すことができたのである。
だが、今は道長を利用することなどできなくなっている。それどころか、現在進行形で頼通と比べられる存在になってきている。
新しい権力者が前の権力者と比べられるのは珍しいことではない。だが、頼通が比べられているのは、現時点で権力を行使し続けている前の権力者なのだ。それが他ならぬ自分の父であり、自分を後継者に任じた人であり、自分に帝王教育を施してきた人なのだ。
例えて言うなら、先代の社長が定年退職を迎えたのち、社長の地位を息子に譲った後で、規模こそ小さいが充分に脅威となるライバル企業を新たに設立し、その経営者として辣腕を振るい出したようなものなのだ。会社を受け継いだばかりの若き新社長の前に、敏腕で知られた先代の社長、それも実の父であり、自分を社長に任命した人がライバルとして君臨するようになったのだ。
それまでの取締役会では社長の威光を受けた形で若き常務が自分の意見を述べ、その意見を取締役会の決議に反映させることができていた。その若き常務が社長となったと思ったら、それまでの社長が会社の外で新たな勢力を築いている。これで威光を利用しようとするのは無謀な話だ。新社長は威光に頼らず自分の力で取締役会を指揮しなければならないのである。
この例え話での先代の社長に該当する道長は今や仏門に身を捧げる一人の僧侶となってしまっている。寺院の建設を利用して失業問題にあたるなど統治者としての行動を見せてもいるし、宗教を利用した民心安定も図っているが、それはあくまでも一人の僧侶が行なう宗教人としての救済になっていたのだ。ただ、ついこの間まで最高権力者であった人の行動である。国家と比べれば規模は小さいが、断じて無視できるものではなかった。
寛仁四(一〇二〇)年二月二七日、藤原道長の名で建立されている途中の無量寿院に、九体の阿弥陀仏をはじめとする仏像が安置された。
そして、およそ一ヶ月を経た寛仁四(一〇二〇)年三月二二日、無量寿院の落慶供養が開催された。かつて土御門殿と道と塀を挟んで向かい合っていたスラム街は消え、そこに現れたのは京都市民の新たな救いのシンボルとなった真新しい寺院であった。
その上、この新しい寺院はそれまでスラムに住んでいた者の保護者ともなった。寺院が荘園を持ち、荘園に住む者を荘園の持ち主である寺院が保護することは何ら珍しいことではなかったが、その珍しくないことが京都で繰り広げられたのは異例とするしかない。
問題視する人は確かにいたが、道長は何一つとして法に違反していない。
東寺と西寺以外に平安京の中に寺院を建立しないというのが桓武天皇の定めた規則であったが、無量寿院は平安京の区画外に存在する以上、桓武天皇の定めた規則には何ら抵触しない。
無量寿院の建立に要する費用も、土地買収費用も、全て道長の個人資産の持ち出しであり、国の税金の不正流用などどこにもない。現在の国税査察官が藤原道長の財務状況をいくら検査しようと道長の資金の流れで不正となる箇所を挙げるなどできないと断言できるほど、その手の指摘に関する道長の対応は完璧であった。
強引にすぎる道長の仏教を通じた施策に対し、不平不満を挙げることはできても、法の逸脱という指摘はできなかったのである。
こうした父道長の行動を、頼通は何ら口出しできなかった。何ら実績を残せていない自分に対し、鮮やかな形で実績を積み上げている父の姿は、否応なく自らの劣等感を抱かせるものになったのである。
藤原頼通は自らの無力感に苛まれていた。
その無力感をさらに強固なものにさせたのが、寛仁四(一〇二〇)年六月頃から続出するようになった伝染病の流行である。記録によると天然痘であるというが、六月八日、この伝染病に罹患した正三位参議の源頼定が腫れ物によって重体となり出家、その二日後には逝去したことを考えると、天然痘であるだろうかという疑念は残る。しかし、伝染病が流行したことは間違いない。
公衆衛生の概念も、伝染病に対する知識もない、上下水道も整備されていないこの時代、伝染病の流行は宿命であるかのように頻出した。
伝染病の仕組みに対する知識はなくとも、伝染病が、年齢も、性別も、貧富の差も問うことなく罹患するものであり、伝染病患者の近くにいると自分も罹患する可能性が高まることは知っていた。
以前にも記したが、平安時代にたびたび流行した伝染病は、現在にも存在する。存在するが、現在であれば病院に行って薬を処方してもらい、指示の通りに薬を飲んでいればたいてい治る。あるいは一週間も入院していれば完治する。それがこの時代では命取りとなる、それも、この時代で最高の医療を受けているはずの貴族ですら命取りとなるものであった。
その命取りとなる伝染病の流行に対してこの時代の人たちが選んだのが残酷な手段であった。
放置。
伝染病に罹患した者は容赦なく捨てられた。家族であろうと、恋人であろうと関係なく、自分が生き残るために道端に放置されたのである。それは、家の中を清潔とし、家の外を不潔とする思考によるものだった。
罹患したらその瞬間に全てが失われ道端に放置され、死ぬまで放っておかれる。死んでも埋葬してもらえず、屍体は野良犬の餌となる。
この残酷な現実を前に朝廷は無策だった。何一つとして救いの手を差し伸べず、道端に病人が放置されようと、屍体が野良犬の餌になろうと、無視をし続けていた。
頼通とて、いや、全ての議政官の面々がこの自体を好ましいものと考えていたわけではない。誰もが問題だと感じ、何らかの対処をしなければならないとは考えていた。考えてはいたが、具体的に動き出せはしなかった。
道に病人や屍体を放置せず、病人は自宅で療養させること、死者は埋葬させることを命じたが、そのような命令は無駄であった。取り締まろうとしても、誰も取り締まりに応じなかった。屍体は放置され、野良犬の手によって骨だけとなっても、新たな病人が、新たな屍体が加わり続けた。
その病人を手厚くもてなし、屍体を埋葬したのが無量寿院の僧侶たちだった。藤原道長の命令で動き出した僧侶たちが、死者に、伝染病患者に、そして伝染病を恐れる京都の市民たちに救いの手を差し伸べたのだ。
これは宗教だからできる話であった。
人は政治に現実を求める。伝染病が流行しているという現実に対しては、伝染病に罹患しないで済む方法を求めるし、罹患しても治ることを求める。現在でも伝染病の流行に対するワクチンの用意や、伝染病に罹患しない方法を伝えるのは政府の役割である。その上、この時代は伝染病の流行や、地震・噴火・豪雨といった自然災害は、現在の統治者が天から失格を突きつけられているとされていた時代である。伝染病の流行は、藤原頼通ら議政官の面々に対する天からの落第の知らせと受け止められていたのだ。
一方、人が宗教に求めるのは現実ではない。死後の救済であり、超自然的な存在による救済である。病気になったときに祈るのもその一環である。宗教に救いを求める人にそれは科学的ではないと説き伏せても無駄である。救いを求めている人は今の苦しみを解決する方法を求めているのであって、それが科学的であるかどうかはどうでもいい話なのだ。科学的でないと説き伏せて成功するのは、科学の力で現在の苦しみが完全に解決するときだけである。
政治が頼りにならないと考え出した人が宗教に走るのはおかしな話ではない。
しかも、この時代でいうと、政治は、病人を見殺しにするなと、あるいは、屍体を放置するなと命じるだけで何もしないのに対し、宗教は病人に救いの手を差し伸べ、死者を埋葬している。それも、頼み込んで救いの手を差し伸べてもらっているわけでも、金を払って埋葬してもらっているわけでもない。それどころか、困っているという声を挙げる前に無量寿院のほうからやってきて手を差し伸べてくれるのである。
それが怪しげな新興宗教だと感じたら、どんなに親切だと感じても誰もが身構えたであろう。だが、無量寿院のトップをつとめているのは、ついこの間までこの国の最高権力者であった藤原道長なのだ。
多くの人は思い出した。そして、道長の時代と現時点との比較をした。
道長の時代と現時点とを比べて現時点の方が良いと感じる人はいなかった。伝染病を恐れる必要がなかったというだけでも道長の時代を懐かしむ材料になった。
その結果、無量寿院に数多くの京都市民が詰めかけるようになった。無量寿院に詰めかけた京都市民は、亡くなった家族を埋葬してくれていることを、病に苦しむ友人を迎え入れてくれていることを、その目で確認した。
そのための費用は全て、藤原道長個人の持ち出しであることも知った。
僧侶たちの食事も、病人たちの食事も、全てが藤原道長の資産から出ていることを目の当たりにした。
その結果、京都市民の心に芽生えたのは恥の感情だった。家族を見捨て、恋人を見捨て、友人を見捨てたことへの後悔だった。
政治がどんなに言っても実現しなかったこと、すなわち、病人を見捨てぬこと、死者を放置せぬことを、道長は、いや、無量寿院は簡単に成し遂げた。見捨てる家族のいなくなった者は、せめてもの罪滅ぼしにと、身銭を切って無量寿院の手伝いに加わった。動ける者は病人を救いだし、あるいは死者を埋葬し、動くことの難しい者は罪滅ぼしにと無量寿院に寄付を寄せた。
政治が税として集めるよりも多くの負担を、たくさんの京都市民が無量寿院に対して行なった。
頼通の無力感はこのときピークに達していた。
寛仁四(一〇二〇)年七月一九日、関白内大臣藤原頼通が辞表を提出。後一条天皇が辞表の受理を拒否したため頼通の辞任は実現しなかったが、辞表提出の日から一二月三〇日までというおよそ半年に渡り、藤原頼通は朝廷から姿を消したのである。
この半年間の藤原頼通に関する記録はない。内大臣がいなくても議政官は機能したし、関白がいなくても後一条天皇の政務は滞りなく行なわれたのである。
寛仁四(一〇二〇)年一〇月一三日、藤原道長の腹違いの兄である正二位大納言藤原道綱が病気のため政界を引退し出家した。
兄の病気について道長は何も記していない。いや、道長が何も記していないのは兄の病気についてだけではない。出家前は政界における様々な記録を残しておいてくれていた道長の日記だが、出家後は僧侶としての日常を記すに過ぎなくなった。
それも、毎日のように記録を残していたのが嘘であるかのように、一年に数日しか記録を残さないようになる。ゆえに、この頃となると、朝廷の残した公式記録を参照することはできても、それに対する個人の感情を参照することは不可能となっている。
その公式記録によると、病に倒れた藤原道綱が最後に選んだのが、弟道長が建てた無量寿院である。弟のもとで出家をし、弟の見舞いを受け、弟に看病してもらいながら、藤原道綱は最後のときを迎えた。
寛仁四(一〇二〇)年一〇月一五日、藤原道綱、死去。
生前、藤原実資はこの藤原道綱のことを酷評している。漢字を一文字も読めない無能であり、四〇歳になっても読める漢字は自分の名前の漢字だけというのがが藤原道綱への評価であった。漢文を操ることが教養とイコールであったこの時代、文字を読めぬことは無教養を意味する。ただ、本当に藤原道綱が無教養者だったのだろうかとも感じる。
藤原実資と藤原道綱はライバル関係にある。同じ役職をどちらが担うかで争い続けてきた関係にあり続けたのがこれまでの二人の人生であった。藤原実資は自分のことを教養人であると認識しているし、当時の人もそうだと考えていた。その教養人である自分が、ただ藤原道長の腹違いの兄であるというだけの藤原道綱と比べられることが我慢ならなかったのであろう。
藤原道綱の母の日記である「蜻蛉日記」に、我が子である藤原道綱が何度か登場する。そこでの藤原道綱は心優しき青年である。それでいて、弓矢の腕前は抜群で、少年時代の藤原道綱は弓矢の対抗試合で劣勢にあった右方チームに加わり、それまでの劣勢を一気に帳消しする活躍を見せたことが記録に残っている。また、和歌の才能もあり、計四首の和歌が勅撰和歌集に採用されている。
政治家としての才能があったどうかと言われれば、高くなかったとするしかない。だが、道長の手足としては充分以上の存在であったのだ。道長の時代、京都の治安安定を一手に引き受けていたのも、皇族たちの護衛を引き受けていたのも、藤原道綱であった。藤原実資がいかに議政官で議論を展開しようと、議政官たちが安全な室内で議論をすることができるのは藤原道綱の働きもあったのだ。
藤原道綱は確かに大臣の器ではなかった。だが、果たしてきた功績を考えれば評価が下されなければならなかった。何をしたかではなく、何もなかったようにし続けてきたのである。
凶悪犯罪の容疑者を逮捕した警察官と、犯罪の起こらない街を作り上げた警察官。警察官の優劣を、前者を優、後者を劣とするのは、ただ単に目立つ部分の評価をしているに過ぎない。目立たぬところで働いて、当たり前の日常を繰り返せるようにし続けることは、凶悪犯罪の容疑者を逮捕するのと全く同じ価値を持つのである。道長はそれをわかっていたし、道綱もそれが自分の役割であると知っていたのだ。
藤原実資にどれだけ酷評されようと耐え続けただけでなく、その藤原実資相手にも穏やかな表情で接し続けたことは、藤原道長の政治を体現する何よりの証でもあったのだ。
道長の後継者である関白内大臣藤原頼通は議政官から姿を消し、道長の兄である大納言藤原道綱は逝去した。そして何より、ここにはもう藤原道長本人がいない。これは、左右の大臣を軸とする人事を構築することが可能になったということである。
その結果、寛仁四(一〇二〇)年一一月二九日に大規模な人事刷新が発表された。
まず、正二位権中納言源経房が太宰権帥を兼任すると決まった。これは刀伊の入寇からの復興を狙ってのものでもあった。
次いで、藤原斉信が大納言になり、太宰権帥であった藤原行成が京都に戻って権大納言になった。刀伊の入寇での責任問題に絡んで太宰権帥にさせられた藤原行成であるが、肝心の戦乱からの復興という点に目を向けるとこのような判断をせざるを得なかったのであろう。
一方、権大納言であった源俊賢は議政官から離れ民部卿専任となった。日本国の租税全般に関わる役職であるが、荘園制度の発展に伴い、荘園の管理もこの役職の重要な業務となっていた。通常は中納言が兼任する職務なのであるが、権大納言が、それも専任するというのはかなり異例のことであった。
一方、国の予算を監督する大蔵卿は参議藤原通任が兼任。現在と違って歳入を専門的に扱う省庁である民部省のあったこの時代、予算の執行の監督に専念していた大蔵省は民部省より一段下に見られることが多かった。トップである卿も、民部卿は最低でも中納言の兼任なのに対し、大蔵卿は参議の兼任が普通だったのである。
参議のまま兼職を持つことになった者の中には藤原朝経もいる。この日、左大弁を兼任することが発表となった。参議が事務方のトップを兼ねるというのは、現在でいうと大臣が省庁の事務次官を兼ねるようなものであるが、この時代はそれがよく見られる光景であった。
正四位下の参議であった藤原経通は、役職こそ参議のままであったが、位階については一気に二段階昇格し正三位となった。位階に従えば大臣や大納言に匹敵するポジションである。
正四位下参議藤原資平は、位階はそのままだが修理大夫を兼職することとなった。現在の役職でいうと国土交通大臣に相当する役職である。
そして、新たに参議に任命され議政官に加わった者が二人。
一人は正四位上藤原広業。この年、四四歳。三年に一度合格者が出るかどうかという試験であった方略試に合格したのち事務方や国司としてキャリアを積み重ねた末の参議就任である。このような者が珍しくないことから、参議が左大弁を兼ねるという光景もよく見られたのである。
もう一人は正四位下藤原定頼。この年、二九歳。藤原公任の長男であるだけでなく、昭平親王の娘だからかなり血筋が高い。ただし、血筋の高さだけでなくこれまで積み上げてきたキャリアも文句のないものがあり、参議就任を疑問視する者はいなかった。
この時の人事刷新はいわば内閣改造であったわけだが、その改造内閣に当然いるべき人間が一人いない。関白内大臣藤原頼通である。
その藤原頼通が議政官に戻ったのはそれからおよそ二ヶ月後のこと。年末を迎えたところで、引きこもっているわけにはいかない大ニュースが飛ぶ込んできたからであった。寛仁四(一〇二〇)年閏一二月二九日、太宰府から、南西諸島の海賊が薩摩国に襲来し、多くの日本国民を拉致していったという報告があったのだ。
頼通が引きこもっている間、頼通のプライベートで一つの出来事があった。
藤原頼通の妻である隆姫女王の父は、村上天皇皇子の具平親王である。なお、頼通が隆姫女王と結婚する直前の寛弘六(一〇〇九)年七月二八日に具平親王は薨去している。
隆姫女王が頼通のもとに嫁いできたのは、頼通一七歳、隆姫女王一四歳のとき。そして、隆姫女王には一三歳年齢の離れた弟の万寿宮がいた。つまり、隆姫女王の弟は生後一年で父を亡くしたわけである。
この弟を新婚間もない隆姫女王が受け入れたことは既に記した。幼い皇子は、頼通にとっては弟と言うよりも我が子のような存在となっていたのである。なお、この時点ではまだ皇族であり、頼通が父親のような存在であるといっても、姓を持つ一般庶民と姓を持たない皇族とでは身分が違う。
この万寿宮のことを藤原道長は絶賛していた。頼通がもし男児に恵まれなければ、万寿宮を摂関にすべきであるとまで述べていたのである。頼通もなかなか優秀であったが、万寿宮は頼通以上に優秀であるだけでなく、頼通の持っていない要素、すなわち、人を引きつける魅力を持ち合わせていた。
その万寿宮が皇族でなくなったのが寛仁四(一〇二〇)年一二月二六日のことである。この日、臣籍降下と同時に源の姓が与えられ、皇室に仕える一庶民となった。
この臣籍降下は三重の意味で異例なことであった。まず、万寿宮というのは通称で、臣籍降下直前までの正式な名は資定王(すけさだおう)である。王とあることからわかる通り、天皇になる資格を持っていない。通常、王が臣籍降下する場合は平氏になる。ところがこのときの臣籍降下は源氏であった。
異例の二つ目は、臣籍降下後の名である。通常、姓が与えられた場合は、それまで名乗っていた名がそのまま使われる。資定王が源氏になったならば、源資定(みなもとのすけさだ)となるのが通常である。ところが、臣籍降下のタイミングで名が変わったのだ。源師房(みなもとのもろふさ)が今後の名前である。なお、この名を考えたのは頼通であったとされている。
そして三つ目の異例。源師房が藤原頼通の養子になったのである。この時点で藤原頼通に実子は一人もおらず、妻の年の離れた弟という身近さがあるとは言え、ついこの間まで皇族であった少年を一民間人が養子にするのは異例のこととするしかない。それも、後継者候補としての養子である。
内大臣藤原頼通が議政官に復帰しても、南九州に現れた海賊の前に朝廷は無力であることに違いはなかった。
沖縄の歴史は琉球王国から始まるのではない。少なくとも奈良時代にはもう「阿児奈波」として沖縄の存在が認識されていたし、沖縄に住む人は日本人であること、少なくとも日本語の通じる人たちであることは常識として存在していた。沖縄は日本の一部であるが、京都の朝廷の支配下にある地域ではなかったという認識だったのである。
この微妙な立ち位置に加え、沖縄そのものの貧しさもあった。沖縄の農耕は本州よりも古い歴史を持っている。しかし、農業だけで食べていけるようになってはいなかった。海に出ての漁労や採集、そして、日本列島と大陸とを結びつける交易が沖縄の人たちの生活の主だったのである。日本と大陸との交易というと、朝鮮半島経由、あるいは九州から真っ直ぐ西に向かうルートを想像するであろうが、沖縄経由も忘れてはならないルートであった。当時としては最も安全なルートであり、かつ、宋の経済の中心であった華南地域と直結するルートでもあったのである。
ただ、交易というのは、輸入と輸出があってはじめて成り立つ。
最悪、売ってばかり、買ってばかりという取引であっても、それは金銭の輸出や輸入を伴う。
ところが、何も買わない、いや、何も買えないとなるとどうなるか。
欲しいものが無いというなら、企業努力で購買意欲をもたらす商品やサービスを用意するという手段を選べる。だが、欲しくても買えないとなるとどうにもならない。お金のない人に売ることはできないし、売るものがない人から買うこともできないのである。
結局は、刀伊の入寇の余波なのである。侵略を受けて大打撃を受けた対馬、壱岐、そして北九州の復興は太宰府にとって最重要課題であり、その負担は九州全土に重くのしかかっていた。それは薩摩国でも例外ではなかったのだ。
南西諸島への入り口でもある薩摩国に住む者の多くが沖縄との交易をしていたが、負担の重さから沖縄との取引どころではなくなってしまった。いかに欲しい商品があろうと買うことはできないし、いかに求められようと売ることはできない。売買できるだけの資産がなくなってしまったのである。
沖縄の人たちにとってはそれこそ生活問題である。薩摩国の人が自分の暮らしを守るために節約をすればするほど、沖縄の人たちが交易で生活できなくなることなのである。商品を積んで命がけで海を渡って薩摩国にたどり着いても、誰も何も買ってくれないし、何も売ってくれないのだ。
事情は理解できる。刀伊の入寇の被害があまりにも大きすぎ、今はそこからの復興の途中であるとは理解できる。だが、生活の立て直しの影響だからと言って、沖縄の人たちだって餓死を受け入れるわけにはいかない。
その結果が拉致であった。目的は二つ。一つは、交易を再開しないなら再びこのような悲劇をもたらすことになるであろうという警告。そしてもう一つは、人身売買。
藤原時平によって日本の奴隷制が廃止されたが、奴隷制廃止は京都の朝廷の支配の及ぶ範囲に限られた話であり、支配下の外では奴隷制の方が普通であった。また、表向きは奴隷でなくても、実質的には奴隷状態であるという人たちは日本国内にもいた。つまり、朝廷の目の届かない範囲では人身売買が市場として成り立っていたのである。
拉致された日本人を救い出す。それは朝廷に突きつけられた課題であったが、解決することができない難題でもあった。
朝廷は難題を解決することができず、何もできぬまま時を経過させただけだった。
このとき拉致された日本人たちの運命を記した記録はない。拉致された子を救うために全財産を身代金として差し出した親の記録ならばあるが、それがこの薩摩での出来事のこととは言い切れない。おそらくであるが、不幸な結末だったとするしかないのである。
海賊達の蛮行の前に無為無策とするしかなかった朝廷であるが、それに対する反省の色はなかった。それどころか、自分で自分たちを褒め称えたのである。
寛仁五(一〇二一)年一月七日、左大臣藤原顕光、右大臣藤原公季、関白内大臣藤原頼通の三人が従一位に昇格した。藤原道長は何があろうと二位のままで留まり続け、従一位に昇格したのは政界の第一線を退いてからであったが、このときの三人の大臣は政界の第一線でありながら揃って従一位に就いたのである。
道長が権力を掴む前であれば珍しくない光景であった。だが、道長が示したのは、最高位を正二位とし、従一位は政界引退をした者への名誉の称号、正一位は死者へ捧げる名誉の称号とするシステムである。これにより位階のインフレを食い止め、位階と役職との均衡を図っていたのだ。
それが早々に崩れた。それも、道長の手足であった左大臣藤原顕光、右大臣藤原公季、そして、道長の後継者である藤原頼通の手によって壊されたのである。
この状況を無量寿院の藤原道長がどう見ていたのかを道長の日記から知ることはできない。だが、藤原行成の日記からなら追いかけることができる。
寛仁五(一〇二一)年二月一日、民部卿源俊賢、按察使藤原公任、右兵衛督藤原公信、左大弁藤原朝経、式部大輔藤原広業の五人とともに、藤原行成が藤原道長のもとに呼び出された。藤原行成が五人のことを議政官における役職名、つまり、参議とか中納言とかの官職名で記さなかったのは、これからしようとしていることが、議政官で生み出されたものとするのではなく、奏上されたのを議政官が議決するという形にしたかったからである。
藤原行成によると、発案者は式部大輔藤原広業であるという。
式部大輔藤原広業はこの日、改元することを提案した。
意味するところは誰もがわかった。
前年夏の天然痘の大流行、そして、年末の海賊襲来。さらに二年前の刀伊の入寇を含めると、改元に相応しい状況が揃っている。改元したからといって何か変わるわけではないが、少なくとも、何かをしたというアピールにはなる。
天災や人災を目の当たりにしながら何もしないどころか、自分で自分を褒め称え自分を昇格させるのは、民衆の支持を失うのに充分だった。この時代に支持率という概念はないが、あったとすれば絶望的に低い数値、おそらく一桁パーセントになっていただろう。
かと言って、大臣たちは期待できなかった。
左大臣藤原顕光も、右大臣藤原公季も、藤原道長の手足としては充分な結果を出していたし、不測の事態でもない限りは合格点をつけることができていた。後継者である藤原頼通も、道長の敷いたレールの上を着実に歩むことについては合格点をつけることができた。だが、不測の事態への対処には絶望するしかなかった。左大臣も右大臣も頼りにならず、内大臣藤原頼通はレールが無くなると途端に姿をくらませてしまう。これが現実だったのだ。
藤原行成の日記に、このときの道長の心情を伝える記述はない。記述はないが想像は容易である。
道長の作ったシステムはデリケートなもので、道長だから運用できたのだということを、道長がいなくなった瞬間に瓦解してしまうのだということを、道長本人がは何も言えぬまま黙って見ているしかなかったのだ。人生をかけて最良のシステムを作り出し、これで永遠の安定を確保したと考えていたのに、気がつくと、最良でも、永遠でも、安定でもなかったと見せつけられてしまったのだ。
それでも道長には救いがあった。大臣たちは頼りなくても、その下が活躍すればどうにかなる。少なくとも国家崩壊につながることはない。その結果がこのとき呼び出した六人であった。不測の事態が起こったときは、大臣を支える下の貴族たちが具体的な対処をする。不測の事態でなければ大臣たちに今まで通り仕事をさせる。そうすればどうにかなると考えた。
寛仁五(一〇二一)年二月二日、治安に改元。
いきなりの奏上に大臣たちは驚きを見せたが、改元に関する奏上としての不備は全くなく、左大臣藤原顕光は奏上された文書に基づき改元を議案にかけ、議案は賛成多数で議政官の議決となり、後一条天皇の御名御璽のもと、日本全国に発令された。
そして、このときが、記録に残る藤原顕光の最後の仕事となった。
治安元(一〇二一)年五月二〇日、左大臣藤原顕光が左大臣の辞表を提出した。病気により動けなくなってしまったのだ。
藤原顕光は既に七八歳になっていた。七八歳は現在でも充分に高齢者だが、五〇歳で高齢者扱いされた平安時代においては現在以上に高齢者であった。現在の感覚で行くと一〇〇歳を超える高齢者であるとしても良い。その高齢者がたった今まで現役の左大臣であったことのほうが驚きであった。
さすがにこの年齢になって迎えた病に藤原顕光は悟った。
何をか?
自分の命は間もないことをである。
ところが、いかに重病であろうと、左大臣がいることが微妙なパワーバランスを構成するのに欠かせない要素であったのだ。引退されては困るとして、左大臣を辞めるという辞表を四度に渡って却下したのである。
辞表を出しては却下されるというのが四往復あり、五度目の提出と同時に藤原顕光は出家を表明した。朝廷からは何とか思いとどまるように伝える使者が派遣されたが、死者が目にしたのは息を引き取ったあとの藤原顕光の遺体であった。
藤原道長の影となって京都の治安安定に尽くした藤原道綱が亡くなった。皇妃をめぐる争いもあったが藤原道長の手足として活躍してきた藤原顕光も亡くなった。そしてもう一人、藤原道長を支えてきた人の命が間も無く終わろうとしていた。
道長の支配下に武力の要である源頼光である。
長らく、日本の武人のトップは源頼光であった。特に頼光四天王と称される渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武の四人を従え、特に長徳二(九九六)年は伝説となっている大江山酒呑童子征伐を成し遂げ武勇を誇るなど、道長の指揮のもと常に軍勢を率いて日本中にその名を轟かせていた。
ところが、源頼光の伝記を振り返ると、それ以降はこれと言った武勇が出てこなくなる。その代わりに姿を見せるのは道長に忠実に仕える貴族としての源頼光であり、武人としての源頼光はほとんど出てこない。
唯一の武人らしい記録としては、長和五(一〇一六)年三月二八日に、藤原実資と藤原資平に対して賀茂祭で滝口武者が馬添えをつとめる際の注意を話した記録があるだけである。
源頼光は、武人としてはとっくに過去の人になっていたのだ。ボディーガードをする際の注意点などを助言するぐらいはできるが、自分で実際に馬を操り弓矢を手にして戦場を駆け巡ることなど無くなっていたのである。
名を轟かせていた頼光四天王も、今となっては影も形もなくなっていた。
頼光四天王の一人である坂田金時は、寛弘八(一〇一二)年一二月一五日、九州で暴れまわっている盗賊を捕らえるために西へと向かっている途中、美作国勝田荘で重い熱病にかかり、五五歳で亡くなっていた。童話でおなじみの金太郎の最期である。
没日は不明であるが、碓井貞光はこの年に亡くなり、卜部季武も翌年には亡くなっている。四天王筆頭の渡辺綱は健在であったがすでに六八歳という年齢であり武人としての力量を期待できる状態ではなくなっていた。
源頼光が亡くなり、頼光四天王も今や過去のものとなったこの時代、後に武人のトップとして脚光を浴びるようになる源頼信は、各国を国司として転々とする典型的な下級貴族の一人であった。兄である源頼光の率いていた軍事力を二〇歳離れたこの弟が相続したことについて、誰も注目してはいなかったのである。
治安元(一〇二一)年七月二五日、左大臣藤原顕光の逝去に伴う人事の大幅な入れ替えがあった。
まず、右大臣藤原公季が太政大臣に昇格。
内大臣藤原頼通が左大臣に昇格。
空席となった右大臣には藤原実資が昇格。三日後、藤原実資は右近衛大将を兼ねることとなる。
左近衛大将である藤原教通は内大臣に昇格。
これで名実ともに議政官は藤原頼通の手に移ったのである。
太政大臣は議政官に参加できない。
右大臣は藤原頼通が師と仰ぐ藤原実資である。藤原実資も頼通を自分の弟子と任じていたのか、藤原実資の残した日記のどこを読んでも藤原頼通に対する悪口は全く書いてない。
内大臣は頼通の実の弟である藤原教通。多少ギクシャクするところがあったとはいえ、この時点で子のいない頼通にとって後継者筆頭は弟の教通であり、教通もそのことをよく理解していたのか、議政官の中では兄の意見に従うことが多かった。
つまり、左大臣藤原頼通は、右大臣と内大臣に自分に反対しない者を就けたのである。それも、藤原公季が文句を言える余地をなくした上で。
既に従一位であることから太政大臣に昇格するのは何らおかしなことではない。それに、位階が同じである場合はより高い官職の者が上位として扱われる。右大臣であった藤原公季と内大臣であった藤原頼通とでは、藤原公季の方が格上である。
ただし、藤原頼通は関白でもある。通常、関白は太政大臣より上と扱われる。ところが、治安元(一〇二一)年八月一〇日、左大臣藤原頼通は後一条天皇に一つの命令を請願したのだ。
太政大臣藤原公季を関白左大臣藤原頼通より格上に列するという宣旨が下り、朝廷内の儀式において貴族たちの筆頭は藤原公季であると扱われるようになったのである。関白として貴族の筆頭であるはずの藤原頼通が太政大臣藤原公季に上座を譲る光景が日常となったのだ。
その上、頼通から藤原公季には一つのプレゼントが与えられた。かつて藤原冬嗣が住まいを構えていた閑院である。閑院は、豪華さという点では道長の邸宅であった土御門殿や、長らく藤原氏の本拠地とされてきた東三条殿に及ばないものの、建物の持つ伝統が違う。どんなに壮大で絢爛な建物でも歴史を身につけることはできない。その閑院に住むことができるというのは、藤原公季の家系が藤原道長の家系に次ぐ藤原氏ナンバー2であることを示すのと同じであった。
狡猾である。
太政大臣に上座を譲り、太政大臣を格上と扱う。藤原氏の伝統と歴史が刻み込まれた閑院も渡す。その代わりに藤原頼通が手にしたのは太政大臣が拒否権を発動しないこと。
閑院は藤原氏の本拠地であった東三条殿の西隣にある建物だから、何かあればすぐに東三条殿に行ける。だが、藤原頼通はそこにはいない。どこにいるのか?
高陽院である。
閑院は確かに東三条殿の隣にある建物である。だが、高陽院からは少し距離がある。
土御門殿から、あるいはその東にある無量寿院からまっすぐ内裏に向かって西に行くとき、高陽院の前は否応なく通る。つまり、多くの貴族は高陽院を意識しないことなど許されない。
なぜか?
この時代の礼儀として、自分より身分の高い貴族の邸宅の前を通るときは、牛車から降りて邸宅の前を徒歩で行かねばならないからである。土御門殿や無量寿院に向かうとき、あるいはその帰り道、必ず通らなければならないのが高陽院である。貴族にとって牛車から降りて徒歩で行くというのは最大の屈辱であったが、自分より上の地位の貴族が相手のときは、屈辱であろうと耐えねばならなかった。
この時代の貴族の邸宅の分布を見ると、高陽院の前を通らずに内裏に行ける者はまずいない。高陽院の前を通らないとすれば、それは陰陽道に基づく方違えの結果ぐらいのものである。
だが、閑院の前を通らない貴族は珍しくもなんともない。それどころか、閑院を日常で意識することはないのである。なにしろそちらに向かうのは特別な用事があるときだけなのだ。
無論、知識としては知っている。閑院のことを知らない貴族は一人としていないとしても良い。ゆえに、閑院の前を通り過ぎなければならないときは、それが関白左大臣藤原頼通であろうと牛車から降りて徒歩で行かねばならない。ただ、閑院に行くことも、閑院の前を通り過ぎることも、日常においては無かった話なのである。
毎日目にしている高陽院の藤原頼通と、意識から外れつつある閑院の太政大臣藤原公季とを比べると、いくら藤原公季の方が格上だとされていても、日常から外れつつある藤原公季は重要視されなくなる。
その結果が、太政大臣なき政務であった。しかも、その政務については他ならぬ藤原道長という先例があったのである。これは否定することなどできない。
議政官の決議について太政大臣が目を通すことなく後一条天皇に直結する。しかも、後一条天皇の側には相談役である関白左大臣藤原頼通がいる。これでは議政官の決議がそのまま政策となって発令されるに決まっている。
藤原道長は議政官の決議を重要視したが、それは議政官の中での議論を尽くした末のことである。多くの場合は藤原道長の意見がそのまま採決されたが、それでも、反対意見を聞き入れ、議論を尽くした末でのことであった。
藤原頼通も議政官の決議を重要視することでは父と同じであったが、頼通は議政官の中での反論を許さなかった。議政官での議論は頼通の意見を通すための儀式に過ぎず、唯一のストッパーになりえた太政大臣藤原公季は議政官にいないどころか議政官の決議に目を通すことすらない始末。
これが藤原頼通の作った政治システムであった。
藤原頼通が作ったこの政治システムに対する藤原道長の評価は記録に残っていない。そもそも、藤原道長の日記の最終年はこの治安元(一〇二一)年であるが、その最終年の日記の記事は何月何日に仏事をこなしたという記録しかない。
権大納言藤原行成の日記は一応残っているが、こちらもやはり治安元(一〇二一)年の記事は何月何日に仏事をこなしたかという記録が大部分であり、仏事の詳細さという点では道長の日記に比べればはるかに優れているが、こちらも政治についての記録としては乏しい。
こうなると藤原実資の小右記だけが頼りとなるのだが、忘れてはならないのはついこの間までの藤原実資は権力を批判する側であったのに、今は権力の側だということである。
最高権力者となった藤原頼通の師匠であり、議政官においては忠実な家臣でもある藤原実資の残した記録はどうしても自己賛美につながるのである。
藤原頼通を軸とする新体制は機能していたと言ってよい。
と言うのも、事件と呼ぶべき記録が残っていないからである。
よく、人類の歴史は戦争の歴史であるという人がいるが、それは間違っている。戦争の歴史であると勘違いしてしまうのは、ただ単に戦争の記録がたくさん残っているからに過ぎない。
記録として多く残るのは、戦争、革命、災害といった、記録を残す人にとって重要な出来事であって、重要でない出来事はそもそも記録に残らない。現在の新聞やニュース番組は、大事件があれば当然大きく報道するが、特に大事件がないときは、紙面や時間を埋めるために小さな出来事を報道している。それは紙面を埋めなければ、あるいは時間を埋めなければという制約があるから小さな出来事で埋めているに過ぎず、制約がなければ小さな出来事を取り上げることもないし、そうした出来事は多くの人の記憶にも残らないものである。
歴史において記録が残っていない時代とは、戦争も、革命も、災害もない、平穏無事な日常が続いていたという時代を意味するのである。そして、人類の歴史ではその方が圧倒的に多い。
ただし、平穏無事な時代というのは一つの問題を抱えている。
トマ・ピケティ氏の著書「21世紀の資本」でも話題になった格差の拡大である。
以前も記したが、平和というのは、崇高な理念で考えるからこそ神聖不可侵なものと捉えられるのであり、純粋に経済だけで考えればより儲けやすい環境ということである。何が儲かると言って、戦争をしないことほど儲かるものはない。
そして、より多く儲かるのは、現時点で既に裕福な者である。
平和であるというのは、現時点で持つ資産が保証されている環境だということである。そして、資産はさらなる資産を生み、現時点で豊かな者は時間を経るに連れてさらに豊かになっていく。一方、現時点で豊かでない者は、さほど豊かにはならない。かつての自分よりは豊かになったとしても、自分より豊かな者との距離は離れていく一方である。
平和というものは、全人類が望んでいるのに、全人類が望まぬ結末をもたらしてしまうものである。格差は平和の代償なのだ。
ならば、格差を無くすにはどうすべきか。
その実現は不可能ではない。
ただし、幸福でもない。
なぜならば、先に挙げた、戦争、革命、災害こそが格差をリセットする出来事なのだから。それも、貧しい者を豊かにする格差の是正ではなく、文字通りのリセット、つまり、現時点で貧しい者も豊かな者も、等しく貧しくなる仕組みなのだ。
それらの出来事のもたらす悲劇から逃れたければ、格差の方を受け入れるしかない。格差を拒否するとしたら平和を手放すしかない。平和で格差のない暮らしを願うとしたら、それは、自分が格差の勝ち組で、かつ、格差の負け組が自分の視界に入っていない世界を願うしかない。
話を藤原頼通の時代に戻すと、その時代に住んでいた多くの人は、その人の生きているその時代を平和な時代と感じるであろう。平将門や藤原純友といった過去の内乱は歴史上の出来事となっている。刀伊の入寇という戦争があったがそれも何とか収束した。飢饉の知らせもなければ伝染病の知らせもない。
しかし、時代は確実に下り坂に突入していたのである。
治安二(一〇二二)年七月一四日、無量寿院が法成寺と名を改め、金堂の供養を開催した。同日、後一条天皇が法成寺に行幸。
これだけを見ると、寺院がその名を変えただけとしか見えない。
だが、これが下り坂を加速させる出来事の一つとなるのである。
無量寿院、いや、今はもう名を変えた法成寺は、藤原道長によって建立された寺院である。そして、この時点の藤原道長は出家した一人の僧侶にすぎないということになっている。名目上は。
だが、後一条天皇の実の祖父、関白左大臣藤原頼通の実の父、そして、ついこの間まで三〇年以上もの長きにわたってこの国の最高執政者であった人が、ただの一僧侶でしかないなどと誰が考えるであろうか。
しかも、法成寺のあるのは、確かに平安京の敷地内ではないが、西に走る道路一本を渡ればそこはもう平安京の敷地、それも、藤原道長が世間に権力を見せつけてきた土御門殿である。
その土御門殿の東に、土御門殿ですら貧相な掘っ建て小屋に見えてしまうほどの豪華絢爛な寺院を建てた藤原道長は、京都中の、いや、日本中の人にその権勢を見せつけることに成功したのである。しかも、そのどこにも不正蓄財はない。何かしらの犯罪をして財産を蓄えたと言うのなら不平不満もあるが、道長個人の所領、そして、法成寺の所領からあがる年貢が財源であり、あるいは、実質上は道長個人への献金であっても、名目上は法成寺という寺院への寄付が財源である。
おまけに、法成寺は入ってくる資産も多かったが出て行く資産も多かった。
朝廷が庶民の生活を救済しようとすることはあった。あったが、それはほとんどの場合、先例の制約を受け、律令の制約を受け、公平でなければならないという制約を受けたものになる。つまり、中途半端に終わる。
ところが、法成寺が貧しい者を救うとき、先例も、律令も、公平の概念すらも不要であった。道長が適切と考えればその瞬間に法成寺の持つ資産が貧しい者に配られる。公平でないから貰えない人もいるだろうが、その不公平は寺院の善意の結果であって、朝廷の政策ではない。不平不満はあったとしても、文句を言うわけにはいかない。
先に、トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」を例に挙げて格差について語ったとき、格差は平和の代償であると記した。そして、格差を無くす方法は、戦争、革命、災害であると筆者は記した。
だが、格差の負け組を格差の勝ち組にする方法ならある。格差を無くすのではなく、格差社会の敗者であることを受け入れないで済む方法ならば存在するのである。
トマ・ピケティ氏の著書の陰に隠れてしまった感はあるが、「21世紀の資本」とほぼ同時期、大いに着目されたビジネス書が三冊ある。
エドワード・グレイザー氏の「都市は人類最高の発明である」。
エンリコ・モレッティ氏の「年収は住むところで決まる 雇用とイノベーションの都市経済学」。
リチャード・フロリダ氏の「新クリエイティブ資本論」。
この三冊である。
この三冊に共通しているのは、新たな産業を生み出すことで地域全体が豊かになることが可能であり、新たな産業を生み出すには人の集まる環境が必要であるという研究成果の発表である。ただし、それは広く見ても都市を中心とする地域、狭く考えるとせいぜい町内会レベルの豊かさであるという前提がつく。
前提がつくが、都市の豊かさが多くの人を貧困から救い出すだけでなく、格差を固定されたものから流動的なものにすることを可能としていると証明している。
藤原道長は、いや、法成寺はそれをやったのだ。
法成寺を頼る人に、まずは餓死しないという生活の安心を与える。次に、産業を生み出すのに必要な初期投資費用も与える。その上、法成寺に集うのは一人や二人では済まない。家にこもって一人で思考した結果の新産業のアイデアはアイデア倒れで終わることが多いが、多くの人が集えった末に生み出された新産業は、アイデア倒れとなる可能性の少ない新産業を生み出せる。
一人で全てを生み出した場合は莫大な規模の新産業となることもあるが、その可能性は〇・三パーセントにすぎない。一方、多くの人の思考が集った結果の新産業は、莫大な規模となることは少ないものの、成功する可能性はもっと上がる。
法成寺が初期投資費用を用意することで新産業を生み出し、その結果、企業家が誕生したのだ。彼らはそれまで高嶺の花であった製品を安くすることに成功したし、無職であった人を雇い入れることもした。
有名なところでは、塩。
平安京は、琵琶湖を通じれば日本海に出ることも可能であるし、難波まで行けば瀬戸内海に行くことも可能であるが、あくまでも可能というだけで、海のある都市ではない。
海から遠く離れているため、塩は遠くから運んで来なければならず、平安京における塩の値段は沿岸部に住む人からすると信じられない高値である。その結果、京都の料理というものは塩味の薄い料理になった。それを後の人は上品な味と形容しているが、そもそもは単に塩が貴重品であったために塩を使わないで料理を済ませてきた結果である。
その塩が、この時代、急激に値段を下げてきた。貴族とまではいかなくてもそれなりの資産を持つ者でないと買えなかった量の塩を、一般庶民が気軽に買えるようになったのである。
何があったのか?
塩の大量生産である。
それまでは沿岸部に住む人たちが副業として塩を作っていたのだが、塩作りを職業とする人たちが登場し、多くの人を雇って大規模な塩田を作り上げ、塩を大量生産することに成功したのである。
無論、平安京に住む人が毎日海まで出向いていたわけではない。平安京の需要を見極めた人が、平安京で手にした資産を使って、沿岸部の塩田と、沿岸部と平安京を結ぶ交易路と、平安京での販売網、そして、それらで働く人を手にしたのである。
もっとも、豊かさの裏に大問題があり、その大問題がまた社会の下り坂の一端ともなるのであるが、この時点においては、格差を抜け出すチャンスを用意する法成寺の選択を批判する者はいなかった。
この豊かさの裏にある大問題とはどういう大問題か?
奈良時代の総耕地面積と比べ、平安時代の総耕地面積は一・三六倍に増えている。一方で、農業生産量の合計は一・一五倍の増大に留まっている。この時代の人口については奈良時代より減少していたとする説(ウィリアム・ウェイン・ファリス氏)と、奈良時代より増加していたとする説(鬼頭宏氏「人口から読む日本の歴史」)とがあり一定しないが、人口が増えていたとする説を採用しても増加した耕作面積にこれまで通りの人を配備することはできない。つまり、農民一人あたりが耕さねばならない面積が増えている。
仕事の絶対量が人口増加率を超えて増えたのである。
この状況で新たな産業まで興り、人手が足らなくなった。
企業に限ったことではないが、営利組織の運営を考えるとき必要な要素が二つある。一つはいかにして収入を増やすか、そしてもう一つはいかにして出費を減らすかである。収入から出費を引いた額が大きくなればなるほど、営利組織としては成功である。
この成功を考えたとき、無能な経営者は人件費を削る。人手を減らし、従業員一人あたりの労働量を増やすのも人件費削減と同じである。まともな経営者だと、人件費を削らない。その代わり、人材がよりよく働ける環境を用意する。高給や安定を用意して優秀な人材を呼び寄せることもあるし、今いる人材を教育して生産性を上げることもある。無能な経営者とまともな経営者の行動は真逆として良い。
それでいて求めているのは同じなのだ。従業員一人あたりの生産性を上げるにはどうすべきかを考えた結果、人材に対して厳しくあたるか、人材を厚遇するかという異なる回答を導き出したのである。
まともな経営者である場合、人材は勝手に集まる。今よりも労働条件が良く、それでいて今よりも高い収入が得られるならば、今の職場を捨て新たな職場に身を投じる者はごく普通に見られる。リチャード・フロリダ氏は人材を呼び寄せる条件として「創造できる環境」を提唱しているが、これもまた、まともな経営者なら普通に用意していることである。有名なところではグーグル社の二〇パーセントルール(勤務時間のうちの二割の時間を自分の開発したいプログラムや機械の設計や製造につぎ込んでいいいというルール)があるが、ここまで徹底していなくても、従業員の創造性を刺激することは事業を拡大して組織の収入を増やす源泉であり、これ無しに発展する組織は絶対に無い。
問題は無能な経営者の方である。労働条件が厳しく、収入もみすぼらしく、さらに言えば創造性を発揮することもできずにただ言われたことを言われた通りにこなすことだけが求められる。これで人材が集まるだろうか?
社会が不景気のときは集まる。まともな経営者というのは、何よりもまず、現在の従業員を守ろうとする。世の中が不景気なら、新たに採用する人を減らして組織を構成する人の生活を保障しようとする。ゆえになかなか就職できなくなる。なかなか就職できないから、厳しい条件のところに行くしかなくなる。
だが、景気が良くなると集まるわけがなくなる。新たに人を雇い入れて事業を拡大するチャンスなのだから、人手を絞るという選択肢はない。それどころか人手が足りないために条件を吊り上げることも珍しくない。こうなると、外にもっといい環境があるのに好きこんで奴隷労働を受け入れる者などいない。
その結果が、最低最悪の選択だった。
拉致。
老若男女を問わず、夜闇にまぎれ、あるいは白昼堂々と誘拐し、労働力として売りさばくのである。売る人がいるのは買う人がいるからで、その買う人というのがこの時代に数多く現れるようになった新興富裕層であった。平安京で安く手に入るようになった製品も、その元をたどると奴隷労働の成果だったのだ。塩が安く手に入るようになったと喜ぶ平安京の市民は塩を安く売る者を褒め称えたが、その裏には人身売買が存在したのである。
律令制には奴婢という奴隷制度があったが、この時代は奴隷制度が藤原時平によって廃止されてからおよそ一〇〇年を経ており、奴隷労働を命じる者はそれだけで処罰の対象となる時代であった。実際、拉致監禁した者が裁判で有罪となり牢に入れられることもあった。
ところが、処罰される側の方が処罰する側よりも強い勢力を持つようになったのだ。簡単に言えば暴力で抵抗できるようになってしまったのだ。資産に任せて武士を雇えば逮捕を命じる国司の軍勢に対抗できるだけでなく、逃げ出そうとする事実上の奴隷を抑え込むことができる。武士を雇わなくても済むような待遇を用意して勝手に人手が集まるような環境を用意するより、武士を雇う前提で待遇を低く抑える方が安くつくという計算もあった。
多くの人がこの現実に対し目を閉ざしていた。
庶民はモノが安く手に入ることを喜び、貴族は自分の力では対抗できない勢力が登場しつつあるという現実から逃れようとしただけでなく、そうした勢力との接近を図るようになった。奴隷労働で苦しめられている人を救うより、奴隷労働を命じている人と接触して色々と融通してもらう方が割にあったのだ。特に、国司として地方に赴任し、赴任先で有力者と一悶着起こすよりも、赴任先での日々を平穏無事で済ませる方が高い評価を得るとあってはなおさらである。
奴隷労働をさせられている人には同情するが、それを助け出そうとする者は現れなかったのだ。
元を正せば藤原道長の法成寺の拠出した初期投資費用であり、この惨状はその結果である。いくら社会全体を豊かにするための新産業育成であろうと、これは許されることではないと多くの人は考えるであろう。
ところが、そうはいかない。
それは民主主義においても同じである。
何しろ奴隷労働をさせられていない人は以前よりいい暮らしをできるようになったのだ。ここで奴隷労働を徹底的に取り締まるということは、今の良い暮らしを捨てなければならないことを意味する。奴隷労働をさせられている人を苦しみから救うことは求めるが、それは現在の自分の暮らしを維持、あるいは向上させることが大前提であり、暮らしぶりが悪化するなら、それがいかに正しいことであろうと受け入れるわけはない。
道長は自分の選択によって多くの人が豊かになったと考えていた、いや、そう考えようとしていた。本心は自分の失敗を認めたくないという思いであったが、失敗であると認めることは藤原道長の存在理由に関わる。政権から離れたところで自らの手で貧困から多くの人を救い出す。それは道長の人生になっていたのである。
新興富裕層が次々と生まれ、社会全体が豊かになり、人手が足らなくなり、奴隷として拉致され売買される人が増えてくる。この社会の転換に対し、朝廷はあまりにも無力であった。
朝廷は何もしなかった。
社会が豊かになっていることだけを見つめ、その後ろで苦しんでいる人がいることを無視し、奴隷労働をさせている人を取り締まることもなく放置していた。
皮肉にも、この社会を生み出した元締めであるはずの法成寺の藤原道長が、左大臣藤原頼通を法成寺に呼び出し、公衆の面前で朝廷の無為無策を罵倒するという光景まで見られた。記録には、治安三(一〇二三)年六月一八日、職務怠慢の諸司を咎めなかったため、法成寺の藤原道長が関白左大臣藤原頼通を譴責したとある。
どうやらこの頃、藤原道長は頼通の後継者として、真剣に源師房を考えていたようである。
治安三(一〇二三)年六月、左大臣藤原頼通が右大臣藤原実資に対して、藤原実資の娘と源師房とを結婚させないかという相談を持ちかけた。これだけであれば特におかしなことではない。何と言ってもついこの間まで皇族であった将来有望な若者と大臣の娘である。右大臣藤原実資は、できれば娘を天皇の元に入内させたいという思いはあったが、源師房であれば娘の嫁ぎ先として申し分ない。
というタイミングで、法成寺の藤原道長が、自分の娘の隆子を源師房に嫁がせるつもりだという話が挙がったのである。
しかも、養父である藤原頼通の知らぬところでその話が挙がったのである。
藤原道長はこれまで娘を天皇に嫁がせ続けてきた。それがここになって隆子の嫁ぎ先として源師房を選んだのである。これの意味するところは誰もがわかった。
藤原道長の後継者は藤原頼通であるが、藤原頼通の後継者は源師房である。
藤原道長は我が子の統治能力を見限ったのである。そして、頼通の後継者として藤原氏でない源氏の源師房を指名したのだ。これに驚かない人はいなかった。
確かに藤原氏との血のつながりならある。また、藤原頼通の養子であり、頼通に実子はまだいない以上、誰かが後継者として擁立されなければならない。
頼通に限らずほとんどの藤原氏は道長の子の突然の判断に不満を抱いたが、現実問題、頼通の次の世代のトップランナーは源師房である。その源師房と道長の娘が結婚すれば、世代のトップランナーを藤原氏で抱え込むことができる。
治安四(一〇二四)年二月二七日、源師房と藤原隆子が結婚した。これで既定路線が確立された。
藤原道長が激怒した朝廷の体制であるが、治安四(一〇二四)年時点ではこの表の通りである。
かなり藤原氏が多いと感じたであろうが、それよりもさらに根深い大問題があった。
こちらが藤原忠平の子孫たちの系図である。
表に記した面々のうち太政大臣藤原公季は議政官のメンバーから除かれるから、この時点で議政官を構成するメンバーは二一名となる。
その二一名のうち一八名が藤原忠平の子孫である。源氏二名、そして、藤原北家の一員ではあるが藤原冬嗣の子孫ではなく、大学を出て役人となりキャリアを積み重ねて議政官入りした藤原広業、この三名しか藤原忠平の子孫以外の人がいないのである。ちなみに、藤原広業は藤原有国の次男であり、キャリアの積み重ねという点では父と同じ道を歩んでいる。
これは異常事態とするしかない。
源氏という皇室につながる特別な家系に生まれるか、藤原氏の中でも藤原忠平の子孫として生まれなければ上へと進めないのである。それでも道長は競争の原理を導入して質の維持を図ったが、競争は完全に薄れ、血筋がよければ無条件で出世でき国家の要職に就けるのに対し、そうでない者はまず出世を諦めねばならない。極めて優れた能力を持ち、かつ、父が藤原兼家や藤原道長の忠実な家臣であった者であれば議政官の末席になんとか名を連ねることができるが、それより上はまず期待できない。
これで誰が意欲をみせるであろうか。
努力をし、結果を残したとき、正当な評価を下さなければ、人材は簡単に腐る。評価されなくても意欲を落とさずさらに努力をしようとする者は、そのうち充分な評価をされることを期待しているであり、評価されない境遇を受け入れているわけではない。
ここで注目すべき例がある。時間は少し遡って治安三(一〇二三)年一二月二三日、丹波守藤原資業の京都の邸宅が襲撃を受けたのである。
ここで藤原資業のキャリアを振り返ってみるとこうである。
まず、藤原資業は藤原氏であるし藤原北家でもあるが、藤原忠平の子孫ではない。ゆえに、生まれだけで無条件で議政官に就ける血筋ではない。しかし、この人の父はかつて藤原兼家の忠実な手足であり、藤原道長の政権も支えていた藤原有国である。ゆえに、それなりの特別な待遇が用意されている。実際、源氏でも、藤原忠平の子孫でもない者で唯一議政官入りしている藤原広業は一一歳離れた兄であり、弟はこれまで兄とほぼ同じキャリを積んできた。
すなわち、大学に通い、文章生として試験を受け、役人となってキャリアを積み貴族となったのである。ちなみに、三年に一人合格者が出るかどうかという難しさに加え、何年も挑戦し続け、老いた身になってようやく合格するのが当然とみなされている試験「方略試」を菅原道真は二五歳の若さで合格したことで話題となったが、藤原広業は二一歳、藤原資業は一七歳という異例の若さで合格している。試験の難易度は菅原道真の頃の方が圧倒的に高かったとされているが、それでも藤原資業が若き天才であったことは疑いようがない。
父が藤原道長の忠臣であったことに加え、大学をこれ以上ない優秀な成績で卒業した若き藤原資業は、普通の貴族ではなかなか就けない職、すなわち、国司に二一歳という若さで就任し、その後は中央と地方を行き来してキャリアを積み重ねるという、大学出身の貴族の普通のキャリアの積み方を、普通では考えられない若さで積み重ねてきていた。
丹波国司に就任したのは寛仁四(一〇二〇)年のこと。このとき三三歳であるが、三三歳で三ヵ国目の国司であるから、通常の貴族と比べるとキャリアの積み方が早すぎる。それも、国司というのはその実績が中央での評価基準となる職務であり、一度の成功が未来の栄達を、一度の失敗が人生の喪失を意味することを踏まえると、三度も国司に就任するというのは国司としての藤原資業の能力が高かったことを意味する。
その高い評価を受けているはずの藤原資業の邸宅がなぜ襲撃を受けたのか。それも、襲撃したのは藤原資業が統治している丹波国の人々である。
丹波国は京都のある山城国の北西にある国で、京都とは目と鼻の先にある国である。丹波国司は京都の西部の警護も求められており、国司に選ばれる者は他の国の国司としての実績を積んできた者の中から選抜されるのが普通である。ゆえに、藤原資業の国司としての能力に疑問を抱くことは難しい。
にも関わらず襲撃を受けたのだが、この襲撃について記している藤原実資の日記によると、馬に乗った十数名の強盗が一斉に邸宅に押し寄せ、丹波国司藤原資業の統治が過酷であると訴えながら火を放ったという。屋敷に残っていた者も抵抗したようであるが、多勢に無勢で屋敷が燃えていくのを黙って見過ごすしかなかったと記録にある。
本当に統治が過酷であるとするなら、その統治の過酷さをまとめて訴えれば良いのである。この時代、領民が国司を訴えることは当然の権利であった。そして、訴えの内容次第では、元国司は有罪となり、不正蓄財は没収され、身は追放される。それをしなかったのは、盗賊側の方に理が無かったからとするしかない。
馬に乗って屋敷に押し寄せ火を放つ集団が無垢な一般庶民であると考えられるわけがない。普通に考えればこれは武士である。おそらく彼らは奴隷労働の雇用主が雇っていた武士であろう。
そう考えると全てがすんなりと片付く。丹波国司藤原資業は奴隷労働を命じている者を取り締まろうとした、あるいは実際に取り締まったのだ。そしてこの放火はその取り締まりに対する回答であった。
藤原資業は、この蛮行に対し多くの貴族が憤ること、そして、武人が派遣されることを期待したが、期待は裏切られた。不幸な放火事件であるが、朝廷としてその対処はしないというのが結論だったのだ。
藤原資業は間違いを正そうとした。その答えがこれだった。
意欲を見せるとバカを見る。時代は間違った方向に進んでいる。多くの人がそう実感した。実感したが、手にした豊かさを手放そうとしなかった。間違った方向に進んでいるゆえに手にする豊かさは堅牢な社会システムになってしまっていたのだ。
藤原忠平の子孫でなければ出世できないだけでなく、藤原忠平の子孫でないという一点以外はこれ以上ない功績を残そうと、評価されないどころか身の危険すらおぼえる。
その上、世の中の正義は実現されず奴隷労働に苦しむ人がいるのに、それを正そうとする動きも見られないどころか、多くの人が奴隷労働によって得られる物価安を喜んでいる。既に資産を持つ者に限らず、モノやサービスを買うだけの者にとってはありがたい社会になったのである。ありがたくなったことを覆そうとする者などいない。
官界に身を投じた者は、下手に社会を変えるより、この社会で生き延びることを考えるようになった。要は不正に手を染めるようになった。奴隷労働を取り締まるより奴隷労働をさせている者と裏で手を組み、拉致と人身売買を見逃すかわりに裏金を手にすることを求めるようになった。その方が安全で、その方が豊かになれた。危険を顧みず、貧困を受け入れる覚悟のあるものはいなかった。
世の中がおかしいと感じていても、現在の苦しい生活から脱出するチャンスのほうが転がっていた。革命を起こして社会を変えるより、社会を泳ぎ回って格差の勝ち組になることを選ぶほうがより容易であった。高くて買えなかった商品を庶民でも買える値段で供給できる仕組みを作れば、その者は莫大な資産を手にできる。資産を手にすれば有力者と近づくなど造作もない。国司になって一財産築く者が後を絶たなかったのも、一財産を築けるだけの表立てできない資産提供があったからである。
さらには娘を有力者と結婚させることもごく普通に見られるようになった。有力者が引退する際に、娘の生んだ子に地位を世襲させたら、その瞬間に有力者の母方の祖父になれる。他ならぬ藤原氏が皇室に対してしていることであり、少なくとも藤原氏はこのやり方について批判する資格がない。