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欠けたる望月 5.存在感

2016.04.30 15:20

 藤原頼道が議政官をここまで身内で固めていたことに対して目を閉ざしていたわけではない。ただ、藤原頼通が確実な味方として計算できたのは身内しかいなかったのである。

 思い返していただきたいのは、頼道が若き貴族としてデビューして間もない寛弘八年(一〇一一)二月一五日、藤原頼通が春日祭に参った際に、あまりにも数多くの貴族が頼通に付き従ったために一条天皇に身の回りの世話をする者がいなくなったという記録である。

 そのとき頼通に付き従った全ての者が、「ほぼ全ての者」ではなく文字通り「全ての者」が、藤原道長の後継者としての藤原頼通への接近であり、藤原頼通個人の魅力に惹かれてのものではない。

 藤原頼通は父より真面目な人である。それは間違いない。だが、真面目な人によくあることとして、人を惹きつける魅力がない。不真面目と形容できる藤原道長は、権力を一手に握る前から付き従う人に不自由しなかった。藤原兼家の後継者ということで当初は藤原道隆に従っていた武人たちが、いつしか、当時はまだ藤原道隆を支える親族の一人に過ぎなかった藤原道長に付き従うようになったという一点を挙げるだけで、藤原道長の持っていた人を惹きつける力は読み取れる。

 武人というのは、何もせずにいたら組織ではなく個人への忠誠を誓うものである。当然だ。武人という存在は命をかけた日々を過ごしている。自らに命令を下す者が無能であることは自らの命が失われることを意味するのである。ゆえに、個人に頼らない組織的な軍隊、マックス・ウェーバーの言い方に従えば「力の組織」をいかに作り出せるかが、その国の軍事力につながるのである。

 藤原道長は自分自身の魅力で武人を統率し、国家の軍事力とすることができた。それが国外に知られていたからこそ、藤原道長の引退を狙って刀伊が襲いかかってきたのである。

 藤原頼通は自らの現実に目を向けたに違いない。その上で、道長の持つ魅力が自分にはなく、その欠落を埋めるためには確実な味方で議政官を構成するのが、政権安定にも、国内の平和においても、軍事力においても、最善と考えたのだ。

 要は変わらなければいいのだ。変わらない限り、現在の安定、現在の平和、現在の豊かさは続く。奴隷労働を課せられている人に同情はする。同情はするが、そこに手を加えると、豊かさも、平和も、安定も失われてしまう。ゆえに、手出しできずにいた。

 統治者の能力を測る指標の一つに、この時代の元号と掛け合わせたシャレではないが、治安がある。もっとも、元号の「治安」の読みは「じあん」であり、ここで語る「治安」は「ちあん」である。

 治安というのは、急速に良くなることはあっても、急速に悪化することはない。通常は、法で縛る必要がないほどの規律が人間社会を監視し、それまで禁止されてきたことをやっても逮捕されないでどうにかなると気づいたら他の人もそれまで禁止されてきたことに手を出す。こうしたモラル崩壊が少しずつ広がってきて、治安悪化へとつながる。

 治安悪化を徹底的に取り締まる執政者が現れると、それまで崩れてきた治安は一瞬にして引き締まる。徐々にではない。一瞬である。

 つまり、治安を悪化させた執政者は言語道断の執政者、悪い治安を放置したままの執政者も執政者失格であるだけでなく、すでに治安の良い状態であるときに執政者に就任し、治安が良いまま執政者としての役目を終えたとしてもそれは執政者としての評価にはならず、やって当然のことをしたに過ぎない。治安という観点で誉められるのは、悪化している治安を急速に改善した執政者だけである。

 この意味で、治安四(一〇二四)年時点の藤原頼通に合格点をつけることはできない。

 公式記録としては二月一七日に京都で大火があったというだけだが、藤原実資の日記によると、事態はそう簡単ではない。

 この大火の原因は放火なのだ。しかも、放火犯のターゲットに選んだのが、藤原氏の本拠地として名を馳せていた東三条院である。藤原実資はこのときの放火で東三条院の倉庫に保管していた絹三〇〇疋が盗まれたと記している。絹一疋はコメ二石というのがこの時代の相場であり、コメ一石を現在の貨幣価値にするとおよそ一〇万円。しかも、この時代の絹織物は貨幣価値を持っていた。つまり、現在の感覚で行くと金庫にしまってあった現金六〇〇〇万円が盗まれたと同じなのである。

 その上、盗まれた絹織物は戻ってこなかった。放火犯も捕まらず、ただただ、京都は燃え続けただけであった。

 治安四(一〇二四)年七月一三日、万寿に改元すると発表された。

 大事件があって改元するわけではない。この年はたまたま甲子にあたっていただけである。

 この時代の年の表し方には何種類かあり、公式文書では元号を使用するが、庶民の生活だと干支を使うことが多かった。

 干支のうち支の部分は現在でも広く残っており、現在でも「ネズミ年生まれ」」のように自分の生まれがどの動物なのかを普通の人は知っているし、今年の動物や来年の動物が何なのかという話題は年末年始になると登場するが、この動物の部分は、厳密に言えば十二支であり、干支の支の部分だけである。

 干支の干の部分を、現在はあまり意識することはない。干の部分のことは十干といい、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の一〇種類がある。「甲乙つけがたい」という言葉や、契約書での「甲は乙に対し〜をする責任を負う」という文言に残っているが、今はあまり一般的ではない。

 さて、片方に一〇種類、もう片方に一二種類あり、年を表すのに十干から一つ、十二支から一つずつ順番に選んでいくと六〇年で一周することとなる。六〇歳のことを還暦と言うが、これは十干十二支での年の表し方が一周したことを示す。

 その十干の最初である甲、十二支の最初である子、これを組み合わせて甲子となる年は、十干十二支の始まりの年であり、世の中の変革が多く起こる年とされていた。そこでの変革は、誰もが望む意図した変革ではなく、誰もが望まぬ事件に近い変革であると考えられていたため、意図的に変革を起こしてしまうことで事件に近い変革の方を食い止めようとすることはよくあった。

 そのために選ばれたのが改元である。改元をすると世の中はリセットされると考えられており、どのような変革があろうと改元の前には負けるという理屈である。

 そのご利益でもあったのか、万寿元(一〇二四)年は平和な一年で終始した。

 ちなみに、現在から見て最も近い甲子年は昭和五九(一九八四)年であるが、この年に何かあったというわけではない。だが、その前の甲子年である大正一三(一九二四)年には日本中の誰もが知る、そして、日本の文化に大きな影響を与え続けているある建造物が完成している。その建造物には甲子年に完成したことから甲子園という名が付いている。

 さて、この万寿元(一〇二四)年という年であるが、地方行政という点で真逆の反応が見られた年でもある。

 まずは八月二一日、能登国の百姓が京都に詰め寄せ、陽明門に集って能登国守がいかに素晴らしい国司であるかを訴え、任期延長を求める請願を提出した。

 それとは真逆の出来事があったのが一一月二日。今度は越前国気比宮(けひぐう)の神人たちが、同じく陽明門に集い、加賀守丹波公親(たんばのきみちか)を訴えたのである。

 この二つの出来事を、藤原実資は、ただこういう出来事があったと日記に記しているだけである。ゆえに、どのような背景があってこのような陳情が起こったかわかる手段はない。よく言えば客観的、悪く言えば何かしらの都合の悪いことを隠していると勘ぐられてもおかしくない記述である。

 忘れてはならないのは、この頃の藤原実資は、政権を批判する一貴族ではなく、右大臣として政権をまさに担っている立場だということである。そう考えると単純な記載である理由は単純に判断できなくなる。

 片方は素晴らしい国司だからと任期延長が申しだされ、もう片方はさっさとクビにしてくれとの願いが出される。この事件がもし、藤原道長が政権を担っていた頃に起きていたら、藤原実資は容赦せず道長批判の道具に使っていたであろう。クビにしてくれとの願いは国司を任命した道長のミスであり、任期延長を願い出されるとしたら、それまでの国司がひどかったか、何かしらの犯罪を見て見ぬフリをしているからありがたい国司と思われているのか、そうした批判のネタを見つけ出して道長を攻撃していたであろう。

 だが、今の藤原実資はまさに批判を受ける側なのである。それまで批判しかしてこず、それでいて権力を握ってしまった者というのは、批判を受けない素晴らしい業績を成すことなどできない。断言はしないが、歴史を見渡す限り前例は見つからない。

 藤原実資は、若き左大臣藤原頼通を支える老練な右大臣として君臨していた。また、道長政権下においては、政権の一翼を担いながらも道長への批判を容赦なくぶつける、よく言えば気概のある人とされていた。つまり、道長のことを快く思ってこなかった人にとっては、反道長の立場であったという一点で信頼できる人ではあったのだ。

 問題は、そうでない人である。日本もついこの間まで、反自民党という一点で民主党に政権を任せてしまったという悪しき先例がある。戦前にさかのぼれば、政友会への反発から民政党政権を誕生させてしまったという大失敗がある。、たしかに、それらの政権の誕生直後は多くの人に歓迎された。だが、その後に待っていた現実、つまり、容赦ない不況、悪化する一方のデフレ、労働環境の悪化、さらには事実上の奴隷労働の横行など、褒められる要素がどこにもない社会であった。その結果、ついこの間までは民衆の側に立って政権に批判を浴びせていたのが、今では自分たちが率いていた頃とは比べ物にならない容赦ない罵声を受ける側へとなったのである。

 記録を残す者は、自分の成し遂げた栄光と受けた被害だけを残す。与えた被害については無視して全く記さないか、あるいは被害に対する正義の抵抗という視点で記す。無視もできず、正義の視点にも立てず、かと言って詳細に書くわけにはいかないとなると、事実だけを知るしかなくなる。味も素っ気もない文章がそこにできあがる。

 万寿元(一〇二四)年九月一九日、後一条天皇が頼通の邸宅となっている高陽院に行幸した。

 ただ単に後一条天皇だけが行幸したのではない。彰子皇太后も同行したのである。つまり、後一条天皇は母が兄のもとを訪問するので同行したという体裁になっている。

 高陽院に行幸した後一条天皇と彰子皇太后は三日後に内裏へと戻っていった。

 これだけを見ると、天皇と皇太后ではあるものの、兄の実家を母親が息子を連れて訪問しただけと見える。

 ところが、主目的はそこではない。

 万寿元(一〇二四)年九月一九日、従四位下の源師房が、従四位上を飛ばしていきなり正四位下に昇格。

 そして、三日後には正四位上を飛ばしていきなり従三位に昇格。

 わずか三日で位階を四段階も進めたのである。

 このとき源師房一七歳。元皇族としての特権もあって一三歳で元服したと同時に従四位下の位階を得ていたが、それから四年間はそのままになっていた。それがここに来て一気に従三位である。

 天皇の行幸を歓待すると位階が上がることがある。それはこの時代においては常識であった。だから、源師房が位階を上げてもおかしな話ではなかった。しかし、従四位下からわずか三日で四つも位階を上げ、今では従三位である。

 これは、藤原頼通の次は源師房であるというこれ以上ない宣言であった。

 以前から藤原道長が、自分の次の次の後継者として源師房を考えていることは多くの人が知っていた。知っていたが、具体的なものとならないであろうというのがこの時点での多くの人の予想であった。それがここに来て、道長の娘との婚姻に加え、今や一七歳にして従三位という将来有望な若き貴族となったのである。完全に具体的な存在となったのだ。

 こうなると、多くの者が源師房とのコネクションを築こうとするようになる。

 これに対し、源師房や、師房の養父である藤原頼通がどのような思いでいたのかを記す史料はない。史料はないが想像ならできる。おそらく、相当に辟易としていたであろう。

 万寿二(一〇二五)年。

 従一位関白左大臣藤原頼通は三四歳になっていた。

 四〇代でも独身の者が多い現在と違い、この時代、三四歳で子供がいないというのは稀である。妊娠は医学的な問題もあるので不妊は仕方ない。そこで、この時代の貴族が選んだ方法は正妻以外の女性と性的な関係を持つことである。男性が原因の不妊でない限り、これで子供を残せる。

 ところが、藤原頼通の妻は隆姫女王、つまり皇族である。皇族を妻に持つ者として誰もが真っ先に思い浮かべるのは、藤原氏摂関政治の始祖と言うべき藤原良房。藤原良房は、妻以外の女性との性的関係を持った記録が全くなく、妻が最後まで男児を生まなかったことも気にする素振りも見せず、甥の基経を養子に迎え入れている。

 藤原頼通は、この先例を踏襲することを想定していた。義弟である源師房を養子に迎え入れた上に、父藤原道長の口からはっきりと、頼通の後継者は源師房であると明言されていたのである。源師房が藤原道長の娘と結婚したのも、後継者としての格を上げるためである。

 ところが、藤原頼通は藤原良房ではなかった。他の女性にも手を出したのだ。その女性の名は通称が「対の君」であり、源憲定の娘であったことは判明しているが、本名は不明である。

 その源憲定の娘の「対の君」が、万寿二(一〇二五)年一月に頼通の子を産んだのだ。

 前年九月に後継者は源師房であると宣言されたばかりなのに、頼通の実の子が産まれた。しかも、藤原道長はそれを歓迎したのだ。

 喜びの理由は藤原氏の血が続くことだけではない。不妊の理由が隆姫女王にあったことが判明したからである。皇族の女性を妻にもちながら他の女性に手を出すなど、本来ならば許されることではない。しかし、その皇族の女性が不妊であると判明した場合は、黙認ではあるが許される。

 頼通が他の女性との間に子をもうければ、男児ならば後継者候補、女児ならば皇后候補になる。

 候補となる子は多ければ多いほど良い。

 もっとも、いかに当時の時代風景がそれを求めていようと、妻失格を言い渡されたも同然の隆姫女王の内心は穏やかなものとなるわけはなかった。

 いかに平均寿命の短いこの時代でも、三四歳での国政最高執政者というのはかなり若い。しかし、藤原頼通は二六歳で摂政になってから足掛け八年に渡って国政の最高執政者になっている。摂政就任直後は内大臣であり、左大臣藤原顕光と右大臣藤原公季との争いもあったが、藤原顕光は亡くなり、藤原公季は太政大臣にすることで事実上の引退にさせていたことで、左大臣に昇格した藤原頼通にライバルはいなくなっていた。

 関白でありながら左大臣を兼ねるというのはさすがに激務であったが、左大臣のライバルとなることの多い右大臣は頼通の師匠にして最も頼れる存在である藤原実資、内大臣は実の弟の藤原教通という体制。その他の議政官の面々を見てもことごとく藤原頼通の身内で占められていて統治システムは万全であった。

 この藤原頼通に逆らうことのできる唯一の存在となると、今や法成寺の一僧侶でしかなくなっている、ということになっている藤原道長だけである。

 その藤原道長が今なお持ち続けている影響力について、藤原実資は日記に記している。

 万寿二(一〇二五)年二月二日、法成寺から一通の書状が届いた。そこに記されていたのは、大納言と中納言がそれぞれ五名ずついる現状は定員と比べて多すぎるので、大納言も中納言もこれ以上増やすのは良くないという道長の意見である。理論上は一僧侶の感想文であるが、藤原道長の感想文イコール国政を左右する意見である。

 もっとも、道長の手紙は不正確なところがある。万寿二(一〇二五)年一月時点の議政官の構成は、左大臣、右大臣、内大臣が一名ずつ。大納言一名に権大納言三名だから、正確には大納言格の貴族は四名。中納言二名に権中納言四名だから中納言格の貴族は六名。合計一〇名であることは同じだがカウント方法は違う。

 もっとも、これは些事である。カウント方法は違うが多すぎるという点では間違いではなかったのだ。重要なのは大納言や中納言が多すぎるということであり、ここで大納言や中納言を増やすわけにはいかないというのは理にかなっている話であった。

 まず、予算の問題がある。大納言や中納言に支払う給与は決して無視できる金額ではない。道長が位階を抑え込んでいたのも、なかなか出世させなかったのも、地位のインフレを抑えると同時に国家予算の抑制という意味もあったのだ。

 それに、頼通は人事のインフレを抑えるのに失敗していた。そもそも、徹底して二位までに自分を抑え込むことで他の貴族も二位以下に抑え込んでいた道長と違い、頼通が権力をつかんだ時にはもう従一位の貴族が複数いる状況になってしまっていたのである。それでも現状維持を選ぶという手段はあったが、その手段を頼通はとらなかった。いや、とれなかったのである。

 本質的に、藤原頼通は人を従わせる資質を持たない人である。地位が低くても周囲が勝手に慕ってくるような資質を父道長は持っていたが、息子の頼通は持っていなかったのである。人を慕わせる資質を持たない藤原頼通にとって、人を従わせるために使うことができたのが人事権であった。

 その結果が人事の大盤振る舞いである。それも、近親者に甘い大盤振る舞いである。おかげで頼通の周囲は味方であることを期待できる者で占められることとなったが、味方であると期待できることと実際に味方であることとは一致しない。人としての資質ではなく、物欲や名誉欲で釣った人間は、簡単に敵に鞍替えする。近親者であろうと確実に裏切らないという保証はない。

 このときの頼通は、味方を味方として繋ぎとめておく必要に迫られていた。戦争や内乱の危機があったわけではないし、伝染病や飢饉があったわけでもない。だが、世の中がおかしくなっていると考える者は多かったのだ。

 藤原頼通という人は民意に敏感な人であった。平安時代に民主主義という概念はないが、藤原良房以後、藤原氏の支持基盤は民衆の支持にあり、貴族たちがどのような意見を持とうと民衆の声はこうなのだということを論拠にして議政官で自らの意見を展開していた。無論、全員がそうではない。例えば藤原道長は民意よりも自分の意見を平然と優先させていた。ただし、それに対しての不満の声は上がっていない。

 藤原頼通はこの藤原氏の伝統に忠実であったのである。ただ、民意に敏感なことと、民意の高い支持を得ることとが一致しなかったのだ。民意の支持を得られない政権は崩壊する。その崩壊を食い止めるためには政権を安定させるのが最も簡単な方法であった。その政権安定野もっとも手っ取り早い方法が出世であった。

 その出世の枠が完全に埋まってしまっていることは頼通にもわかっていた。貴族たちもそれは理解していた。理解していたが自分は例外だと思っていた。

 出席できないことの理由を頼通の口頭から聞かされるだけでは充分ではなかったが、法成寺の道長の手紙となると貴族たちは黙り込むしかなかった。引退した道長の権威はここまで違ったのだ。

 頼通に人を惹きつける魅力はなくても、頼通には他の誰もが利用することのできない武器があった。他ならぬ藤原道長の後継者であるという一点である。

 藤原頼通は、父道長が現役の頃は、むしろ道長と距離を置き、道長と住まいを別にして、道長と違う政治を目指すと暗に宣言していたほどであったのに、この頃になると藤原道長の子であることを様々な形でアピールするようになっていた。

 法成寺という朝廷から独立した権力を打ち立ててはいるものの、この時点での藤原道長の名目上の社会的地位は、出家して現世を離れた一僧侶である。ゆえに、道長が公的な何かをするなら、それは自動的に仏教に関することとなる。

 僧侶である父が仏教に関する動きを見せるとき、仏教の信徒である息子が付き従うのはおかしな話ではなかった。本音は父の威厳が目的であっても、名目上は純粋に信仰目的である。どんなに政教分離を厳しく制限している国でも、一個人としての執政者が自分の信仰する宗教のために私人として何かすることまで否定する国はない。厳密に言えば、かつてそのような国はあったが、全部失敗した。その考えは平安時代でも有効で、左大臣藤原頼通が自分の信仰のためにプライベートの時間を注ぎ込もうと、国政に影響を与えないという名目が存在する限り、藤原頼通が父とともに行動するのは全くの自由であった。

 それに、藤原頼通はいかにプライベートタイムであると言っても完全に自由を謳歌していたわけではない。万寿二(一〇二五)年五月一六日に頼通は父道長とともに迦葉仏(かしょうぶつ)の化身とされる霊牛を見るために京都を離れているが、その場所は近江国の関寺。場所は現在の滋賀県大津市、つまり、どんなに悠長な道程でも京都から行って帰ってくるまで一泊二日もあれば充分という距離である。

 それに、藤原道長のアイデアであるのか、それとも頼通のアイデアであるのかはわからないが、近江国の関寺のすぐ近くには逢坂の関がある。逢坂の関は京都の東の防衛拠点であり、逢坂の関を封鎖してしまえば東から京都に攻め込むことは事実不可能になる。日本海から琵琶湖を経ようと、東海道を西へ進もうと、軍勢は逢坂の関で止まるのだ。この重要な軍事拠点が万寿二(一〇二五)年時点は事実上崩壊していた。貞元元(九七六)年の地震で倒壊したまま放置されていたのである。そのままおよそ半世紀に渡って、逢坂の関自体は存在していたが通行は完全に自由で、京都の東の防衛拠点としての役目は果たしていなかった。

 首都防衛拠点の現地視察とあれば、京都を離れることに文句を言う者などいなくなる。

 万寿二(一〇二五)年の夏頃から麻疹(はしか)の流行が見られるようになった。藤原実資の日記では同年七月の記事に麻疹に罹患した貴族がいるという記事があるのが初見であるから、この頃には京都で麻疹が流行していたと推測される。

 医学水準の低いこの時代では確かに、伝染病の流行が見られても、現在の観点で合格点をつけられるような衛生政策は打てない。だが、対策ならできるのである。

 一般的には、罹患と距離を置く。伝染病に対する正確な知識がなくても、発病した人の近くにいる人ほど罹患の可能性が高まることは経験として知っている。なので、歴代の執政者は、伝染病の罹患者を隔離する、あるいは、まだ罹患していない人の方を避難させるという対策をとることが多かった。

 また、伝染病の流行は飢饉の入り口でもある。伝染病は年齢も性別も身分の差も関係なく襲いかかる。それは、働き手とて例外ではない。農村の働き手が伝染病に倒れれば収穫に影響するし、漁村の働き手が伝染病に倒れれば漁獲高に影響する。それらは食料不足を招く原因になるのだ。

 その上、この頃から旱魃の被害報告まで届くようになっていた。藤原実資は、藤原嬉子が妊娠しているという慶事の最中に旱魃報告という凶事を伝えるわけにはいかないという諸国の対応について日記に記している。とは言え、右大臣である人のもとに、伝染病が広まり、旱魃が見られるという情報は届いてきているのだ。ゆえに、公式には旱魃のことなどどこにも記されていなくても、旱魃が起きていることは周知の事実であったのだ。

 このときの藤原頼通が、伝染病や旱魃についてどのような対策をとったかどうかの記録はない。だが、その後の記録を見ると、何らかの対処はしたはずである。と言うのも、記録から伝染病や旱魃の記録が消えるのである。飢饉が起こったというならその記録も残っているはずなのに、そうした記録はどこにもない。

 藤原嬉子の妊娠は旱魃の報告を押しとどめるほどの吉事であった。

 藤原嬉子は藤原道長の末娘であり、藤原頼通にとっては妹にあたる。この時点でまだ娘のいない藤原頼通にとっては、皇族との婚姻に使える貴重なカードでもあった。

 藤原嬉子が入内したのは皇太弟である敦良親王であった。この時点での皇位継承権筆頭である敦良親王に嫁ぎ、次期天皇の有力候補となる男児を生めば、道長から頼通へと継承してきた統治システムがさらに強固なものとなる。

 藤原実資の日記によると、頼通は妹の嬉子をいったん養女にし、自分の娘として敦良親王のもとに入内させたという。ただし、頼通の家系図を見る限り、頼通の子の中に藤原嬉子の名はない。確認できるだけでも頼通は男児六名女児一名を養子として迎え入れており、その全員が家系図に記録されていることを考えると、正式な養子ではなかったと考えられる。

 有力な説としては、入内時点ですでに出家していた藤原道長が、僧侶の身で娘を入内させるわけにはいかないと考え、頼通の養子という体裁にして入内させたのではないかというものがある。つまり、頼通主導ではなく、道長主導による入内ではなかったかという説である。

 この説はなかなか説得力がある。

 万寿二(一〇二五)年八月三日に男児を生んだわずか二日後、一九歳という若さで藤原嬉子が麻疹で命を落としたときの道長の様子を考えてもおかしな話ではない。

 娘が子を産んだことを喜んでいた二日後に飛び込んできた娘の死の知らせを受け、道長は陰陽師や僧侶を呼び寄せ、死者を蘇らせる儀式、「魂呼(たまよばい)」をさせたのである。儀式の中には道長自身もいた。出家して僧侶となっているため、一僧侶として仏事に携わるのはおかしなことではない。おかしなことではないが、娘の死を認めず蘇らせようとする道長の姿は、娘を亡くした父親の悲しみに対する同情よりも、かつての権力者の衰えを感じさせるものとなった。

 藤原嬉子の死が与えた衝撃は軽いものではなかった。おそらく、それまで盤石だと思われていたシステムが想像以上に弱く、かなりデリケートなものであると気づかされたからであろう。

 自派で議政官の多数派を占めると同時に左大臣として議政官を操り、国政の最高決定を自らの意思のもとに司る。議政官の面々は時代とともに移り変わるが、そのトップである左大臣は藤原道長の子孫が受け継ぐ。この時点での藤原頼通の後継者筆頭は源師房であるが、藤原道長は娘を嫁がせているから、源師房は藤原頼通の養子であると同時に、藤原道長の婿でもある。藤原道長の考えでは、源師房は道長の子孫である。

 藤原道長の子孫は婚姻を通じて皇室とつながりを持つ。そのため、天皇が幼い場合は摂政になる。左大臣と摂政の兼職は劇務であるから、そのときに限り、太政大臣に昇格する、あるいは摂政専任となる。摂政に与えられている国政の最終決定権は使用しないが、いつでも使用できるようにしておく。摂政専任、あるいは摂政太政大臣となっても、議政官は自らの意思が反映できるようにしておく。これが藤原道長の立てたシステムであった。

 一見すると完璧に見えた。人が入れ替わってもこれならシステムは続くと誰もが考えたのである。

 だが、藤原嬉子の死は、道長の作ったこのシステムが、想像以上にデリケートな存在だと気付くきっかけとなったのだ。

 皇室とつながるための娘を持たない者は、摂政に就任する資格を持たない。摂政は、幼齢や病気と言ったやむを得ぬ理由で天皇が天皇としての職務を遂行できなくなったときに、天皇の近親者が天皇の代理として就任する役職である。藤原氏だから就任できる役職でも、太政大臣や左大臣だから就任できる役職でもない。天皇の祖父、天皇の伯父や叔父といった近親者だから就任できる役職である。ゆえに、藤原氏でなければならないという決まりはないし、高位の貴族でなければならないという決まりもない。

 藤原頼通は自らの娘を通じて天皇と近親者となることができずにいた。藤原嬉子のように皇族に嫁いだ女性の兄としてなら天皇の近親者となることはまだ可能であったが、他の者が皇族に娘を嫁がせ、その娘が男児を生み、その男児が天皇に即位したら、その瞬間に天皇の近親者の地位は藤原頼通の元から離れるのである。

 それは、システムが崩壊することを意味していた。

 政治に対する考え方には大きく分けて二種類ある。

 自由と平等である。

 経済に自由がなければ豊かな暮らしは生まれない。新しい産業を生み出すのも、豊かな物資を生み出すのも、経済の自由が存在することが前提である。規制緩和という言い方もするが、経済に自由を阻害する案件を一つ一つ取り除いていけば、新しい産業が生まれ、新しい富裕層が生まれ、それまでより豊かな暮らしが生まれる。ただし、全員が豊かになれるわけではなく、ここに格差が生まれる。

 格差に焦点を当て、格差を狭くするという政策もある。それが極端に進んだのが、昭和初期から終戦直後にかけての日本であり、ナチスドイツであり、イタリアのファシズムであり、共産主義である。広義にはイギリスの労働党政権やフランスの社会党政権も含まれる。経済に対して公的権力による統制を敷き、誰かが富を独占することのないよう資産を平等に分配することで格差を無くそうとする考えがそこにある。その代わり、経済に対する統制が敷かれるので豊かな暮らしは生まれない。新しい産業を生み出すことに対する見返りが用意されないばかりか、負担の増加を求められる。既に何らかの職にある者は自分の職が保証されるだけでなく、新規参入者も制限されるので市場の競争原理が働かない。最悪なケースだと配給になる。

 完全な自由は豊かさとともに格差を生み、完全な平等は格差を無くす代わりに貧困を生む。ゆえに、政治はその二つの間のどこにバランスを置くかという問題である。

 二〇世紀から、それらの考え方に対する名称に奇妙な現象が起きている。自由に軸を置く人が自由主義を標榜する。これは何の問題もない。問題は、平等に軸を置く人が「リベラル」、すなわち、自由主義と名乗っているのである。日本語だと前者を漢字で自由主義、後者をカタカナでリベラルと書き分ければいいが、これが英語だとどうにもならなくなる。文中にリベラルとあって、自分とは逆の立場の人のことをファシストと酷評することもあるが、それが、自由に軸を置いている人も、平等に軸を置いている人も、互いに自分が自由主義者、相手が全体主義者と酷評しているからややこしくなる。私は日本語で文章を読んでいるからその両者の区別がつくが、その区別をしてくれている翻訳者の方々にはただただ頭が下がるのみである。

 さて、平安時代を振り返ると、まずは律令制というリベラルな統治があった。いや、律令制自体は平安時代よりも前から存在し続けていた。およそ一八〇年に渡って律令制が存在し続けていたため、それが当たり前のものではないとする藤原良房の主張はかなりの驚きを伴った。

 藤原良房は自由主義者である。ただし、社会福祉の概念を忘れてはいないどころか律令制より徹底させている。現在のリベラルがそうであるように、政治に対する考え方の軸を自由よりも平等に置く人は、公的資金による社会福祉を充実させようとする。藤原良房は、公的資金だけでなく私費を投じての社会福祉を充実させる人であった。その藤原良房の考えを後継者である藤原基経は踏襲した。より強固なものとしたと言っても良い。

 自由主義の流れをリベラルに反転させたのが藤原時平である。この人は現在の穏健的なリベラルの考えに近い政治家であった。奴隷制を廃止したことや、大規模土地所有に対する制限をかけたことなどは、現在でもリベラルを自認する政治家が公約に掲げていることである。現在は奴隷制などないではないかと思う人もいるだろうが、安月給で長時間こき使われている勤労者の境遇は、後世の歴史家たちに奴隷労働と捉えられるであろう。奴隷制廃止は就業環境の改善という視点で現在のリベラルの主張につながる。

 リベラルの流れをまた自由主義に戻したのが藤原忠平である。ただし、この人の時代に平安時代最大の反乱である平将門・藤原純友の乱が起きている。自由主義とかリベラルとか以前に、最優先すべきは平和であった。平等を徹底すればするほど、生活は貧しくなり、生活苦から暴動が起こりやすくなる。それを力づくで食い止めても、やがてはまた暴動が再発する。暴動が起きるくらいなら、平等の方を捨て自由が生み出す豊かな暮らしを作る方が賢明な判断であった。藤原氏が圧倒的な地位を占めるという格差社会の誕生も、平和のためのやむを得ぬ負担であった。

 この流れのまま藤原道長まで続き、自由主義はピークを迎える。経済の自由のみならず、言論の自由もこの時代にピークに達する。自由主義のピークということは格差社会のピークということでもある。しかも、藤原道長は政治のシステムを格差が存在し続けることを前提とした形で構築した。こうなると、格差の敗者である人が復活する機会が限られてしまう。敗者復活の機会がない社会は、いかに自由を掲げていてもそれは自由と言えない。

 藤原頼通は自由主義の流れをリベラルに戻しつつあった。ただし、父の構築した政治システムについては手をつけていない。あまりにもデリケートすぎて手がつけられないというところか。その代わりと言うべきか、経済の格差については対策を練っている。

 万寿二(一〇二五)年八月一三日に、貧困者や孤児の収容施設である悲田院に多額の寄付をしている。また、同日、病死者が出たため一時閉鎖されていた大学寮の再開を命じている。現在でいうと、前者は社会的弱者に対する自立支援、後者は教育投資に等しい。

 ただ、リベラルな人にありがちなことであるが、経済をどうにかしようとして税の使い方を見直すようにする。要はケチになる。税の無駄遣いを許さないといえば聞こえはいいが、税を使うべきところに使わず、費用対効果の低いところに注ぎ込むようになる。藤原頼通の命令により贅沢が戒められ、質素倹約が求められるようになったが、これはただでさえ進んできていたデフレを悪化させるのに充分であった。

 年が明けた万寿三(一〇二六)年、人の大きな入れ替えはなく、これまで通りの政権が続いた。

 藤原嬉子の死という想像だにしなかった事態に慌てふためいたものの、次第に落ち着きを取り戻してそれまでの日常を取り戻してもいた。

 前年秋からこの年の春までの記録を見ても、これという出来事がない。記録の絶対数が少ないことも確かにあるが、それでも記録に残っていないということは平和を脅かすような出来事がなかったと判断できるということである。

 この時代の数少ない記録である右大臣藤原実資の日記も、貴族個人の出来事を記してはいても日本全体に影響を与えるような出来事については何も記していない。

 この安寧を壊したのは自然災害であった。

 万寿三(一〇二六)年五月二三日の亥下刻(現在の時計で言うと夜一〇時から夜一一時頃)、石見国(現在の島根県西部)を中心とする地域に地震が発生し、日本海沿岸としては記録に残る最大級の津波が石見国の日本海沿岸を襲った。

 地震の規模はマグニチュード七・五から七・八と推測されている。マグニチュード九・〇の東日本大震災と比べると小さな数字と思うかもしれないが、阪神淡路大震災がマグニチュード七・三、大正時代の関東大震災がマグニチュード七・九であったことを踏まえると、小さな地震だとは絶対に言えない。

 それに、津波の恐ろしさは東日本大震災で痛感したはずである。このときの地震による津波は、東日本大震災に匹敵する規模であったのだ。

 地質調査によると、津波は海岸から遡ること一六キロにおよび、高さは最大で一八メートルに達した。山の上に築かれていた寺社が津波で流され、海岸沿いの集落は壊滅し、沖合に存在していたとされる島が飲み込まれたのである。津波の被害の痕跡は地名にも残っており、海から離れているにも関わらず船や鯨といった名がつく地名が残っている。例えば、島根県大田市には津波の後に小鯛がはねていたことから小鯛ヶ迫といわれるようになったといった伝承や、津波により舟が坂を越え舟超坂と呼ばれるようになったという伝承が存在する。同県出雲市にも、津波があった時に鯨が引っ掛かっていたので鯨坂というようになったという伝承が残っている。

 なお、同じく日本海に面している隠岐にはこのときの地震に関する記録がなく、また、朝鮮半島にもその記録は残っていないことから、津波は島根県西部に集中したことが読み取れる。

 この大地震に対する朝廷の対処の記録であるが、実は全く残っていない。記録として残っているのは島根県の郷土史、そして、近年の地質調査の結果である。言い伝えによれば、このときの津波に五〇〇戸もの家屋が飲み込まれたというが、それだけの大規模自然災害なのに朝廷は何の動きも見せていない。

 この時代の情報伝達網を考えると、石見国から京都までどんなに急いでも一〇日はかかる。石見国からの報告を受けてから対策を討議し、結論を石見国に届けるまで往復二〇日は見なければならない。地震と津波という大規模自然災害を前にして二〇日という時間は悠長すぎることぐらいこの時代の人でもわかっている。実際、これまで自然災害に直面したときの朝廷が協議したのは、京都からの報告が被災地に届く頃にはある程度進展しているはずの災害からの復興を前提としてのものである。

 それが、この万寿地震においては何の記録も残っていないのである。この時代の貴重な史料である右大臣藤原実資の日記のどのページを探しても、石見国で地震があったこと、津波があったことを伝える記事は見つからないのである。

 これは異常事態とするしかない。

 真逆に思うかもしれないが、福祉を手厚く考えるリベラルな人が権力を握っているときというのは、自然災害に対してかえって対処できない。

 リベラルは自由と平等とを天秤にかけて平等に軸を置く政治の考え方である。平等に軸を置くとなると、自らの意思が他者より超越しているというスタイルはとれない。本心ではそう思っていなくても、自分の行動は多く多くの人の賛意に基づく行動であるという体裁をとらなければ行動できないのである。その結果、決断が遅くなる。遅くなったおかげで一刻を争う事態に対処できなくなる。あるいはもともとそういう人がリベラルに走る傾向があるとして良い。独断で物事を進めるのを好まない人というのは、決断し行動することに伴う責任から逃れようとする人でもある。そういう人たちにとって、自由の代償として存在する責任は荷が重すぎる。平等を推し進めるという名目で自由を削れば、責任は軽くなるのである。

 一方、平等よりも自由に軸を置く人は、自分の行動が超然としていようと特に何とも思わない。自分の行動が独裁者のそれであるという自覚を持っていても、一分一秒を争う状況での一刻も早い対処を優先させるという強い意志があるおかげで、自然災害に対して素早く動ける。

 この時代の、自然災害は天がもたらす統治者失格の烙印であるとの考えは、統治者の決断力を判断する材料として間違ってはいない。

 藤原頼通はどうだったか?

 悪しきリベラルの典型だったとするしかないのである。

 リベラルな人ほど福祉を考え、リベラルな人ほど弱者救済を訴えるが、リベラルな人ほど災害時に悪影響をもたらす。万寿三(一〇二六)年八月一七日がそのいい例であった。

 この日、京都を暴風雨が襲い、多くの建物が被害を受けたのである。

 夏の台風は珍しくない。また、この時代は二一世紀同様に平均気温が高く、日本列島全体が温帯ではなく亜熱帯気候と言っても良い気候であった。つまり、現在の日本のようにゲリラ雷雨があちこちで見られていた。ただ、そのあちこちで見られている暴風雨に対する対策がおろそかだったのだ。

 暴風雨に対する対策にはいくつかあるが、もっとも有効な対策は暴風雨にあっても被害を最小限に食い止められるだけの建物にすること、次に、暴風雨によって発生する確率が上がる洪水を未然に防ぐための堤防を作ることである。いずれも現在だと公共事業と呼ばれる。ただし、単純に「公共事業」と呼ばれるわけではない。接頭辞「無駄な」がつき、税金の無駄遣いであるという印象操作のもと「無駄な公共事業」と呼ばれる。

 道長の時代はこうした公共事業が活発であった。災害対策になるだけでなく失業対策にもなったからである。しかし、公共事業というのは実にわかりやすい税の使い道であるため、税を払うことを嫌う人から忌み嫌われる。こういう人たちの支持を得ようと公共事業を減らすとどうなるか? 実にわかりやすい結末が見られる。

 災害に弱くなるのだ。

 本来なら無事にやり過ごせるはずの災害に留まったはずだったのに、工事をしなかったせいで被害が拡大し、建物が壊れるだけでなく人命が奪われる。心ある人はこのときになってはじめて「工事に反対したからこうなったんだ」と考え、心無い人は「税をとっておきながらこのザマとはなんだ」と怒りを見せる。

 右大臣藤原実資の日記にこの日の洪水についての記録はない。藤原道長の攻撃材料なら欠かさず記してきた藤原実資も、自らが攻撃を受ける側になるとその攻撃のことなどなかったことにしようとする。誰もが何も記さないのはただ単にニュースがなかっただけのことであるが、他の人は記録に残しているのに、一部の人たちだけが記録に残していない場合は、その一部の人たちにとって都合の悪いことだということを示す。

 暴風雨の記憶が人々の脳裏から消えつつ万寿三(一〇二六)年が終わり、新たな年、万寿四(一〇二七)年を迎えた。

 正月の祝賀気分が続いていた一月三日、再び京都が災害に遭うこととなった。

 火災である。

 もともと平安京は火災が多い。柱が木造であるだけでなく、壁も木製、屋根も木製というのが一般的な庶民の建物である。朝廷は何度も火災に強い瓦屋根にするよう命令を出しているし、道幅を確保して延焼を食い止めようともしてきたのだが、そのような費用のかかることはできなかった。せいぜい一部の富裕者が建物の壁を木製ではなく土壁にした程度である。それも、住まいではなく倉庫に用いるのがせいぜいであった。これを「土倉(どそう)」という。鎌倉時代から室町時代にかけては金融業者のことを土倉と呼んだが、この時代は必ずしも金融業者のことではなく、倉そのもの、あるいは、土で作る倉を建設するほどの資産のある人を指す言葉であった。

 建物が燃えやすい上に密集している。これに加え、この時代は放火が多かった。

 家に火を放ち、その住まい人が混乱している隙にめぼしいものを奪い去っていく強盗が頻発したのである。そのターゲットは一般庶民だけでなく、貴族の邸宅、さらには内裏にまで及んでいた。

 朝廷も何もしなかったわけではない。検非違使にパトロールを命じて取り締まってもいたし、実際に逮捕者も出ていた。だが、この時代は死刑がない。死刑にふさわしい犯罪であっても流刑に留まっている。牢獄はあったはあったが、牢獄に入るのは比較的軽い罪の人であり、放火強盗のような重罪は牢屋入りではなく流刑である。

 流刑になった者がいつの間にか京都に戻ってしまうことなど珍しくなかった。いつの間にか京都に戻っては再び悪事に手を染める。逮捕されるかどうかは運次第。逮捕されなければ楽な暮らしが待っているし、逮捕されても牢屋に入れられずに済むとなると、犯罪者の更正など期待できるはずがない。

 犯罪者の更正が期待できなかろうと、一般庶民が犯罪被害に遭わないようにするのは執政者の義務であり、犯罪被害に遭ったときの怒りの矛先は、犯罪者だけでなく執政者にも及ぶ。特に、大規模火災のように執政者の対策次第でどうにかなることについては特に怒りの矛先が向かう。

 これが万寿四(一〇二七)年一月時点の議政官の構成である。ここに、六八歳の正二位源俊賢が権大納言を辞して民部卿専任、また、三年前に中納言を辞した四九歳の正二位藤原隆家が無任所の貴族である。そして、六五歳の大宰大弐である正三位藤原惟憲と、三六歳の右京権大夫である従三位藤原道雅の二人が、三位でありながら議政官の一員とはなっていない。

 そしてもう一人、法成寺の一僧侶ということになっている藤原道長がいる。

 相変わらず藤原氏と源氏だけである。

 さらに、家系図を記すとこの通り、三人の源氏と、参議の従三位藤原広業以外の一六人が藤原忠平から続いている血筋である。

 また、藤原氏でない数少ない一人である一八歳の源師房は藤原頼通の養子であり、藤原道長から藤原頼通の後継者であると明言されている。

 それを踏まえても、議政官の構成が四年間ほとんど変わらなかった。源師房を除いて新たなメンバーが加わることがなく、出家一名、死去一名、出家でも死去でもないが役職から離れた藤原隆家の三人が抜けただけ。これがこの時代の現実であった。

 マクドナルドと聞くと、多くの日本人は、人名ではなくファーストフードチェーン店を思い浮かべるであろう。

 そのマクドナルドの売り上げが目に見えて落ちているという報道が、平成二六年頃から各メディアで散見されるようになった。低迷の理由として、食品偽装など近年のマクドナルドに新たに出てきた問題に対する考察が多々見られるが、一消費者の視点で見ると、マクドナルドは今も昔もマクドナルドであり、何も変わっていない。変わったのは消費者の側であり、また、マクドナルドに代わる新たな店舗の誕生である。マクドナルドの衰退は、マクドナルドに何かが起こったからではなく、マクドナルドが変わらなかったことが理由である。食品偽装はきっかけであって、問題はもっと根深い。

 かつて、マクドナルドは都会的な若者の店であった。生活圏にマクドナルドがあることが都市としてのステータスであり、マクドナルドで食事をすることが自分を最先端であると思わせる行為であった。デートの食事がマクドナルドだと最先端の流行の実践になった。その感覚が時代とともに薄れていった。マクドナルドが変わったのではない。消費者の方が変わったのだ。都会的な若者の店の常連であった者が年齢を重ねることで、かつて都会であった街のかつて若者であった者が集う店であるというイメージに変わってしまい、新たな若者、新たな最先端の街には相応しくない店になってしまったのだ。

 マクドナルドを例に挙げたのは多くの日本人にとってまさに現在進行形の例だからである。そして、この例は今も昔も変わらない。変わらないがゆえに衰えていくという、どの時代のどの場所にも見られる当たり前の光景である。

 変わらないと衰える。それは社会全般において必然である。人材を固定し、組織を固定し、システムを固定し、新たな存在を招き入れないまま何かしらを遂行しようとすると、時代の流れについて行くのが困難になり、気がつけば時代に適合しない結果となる。特に経済の世界ではこれが顕著で、かつては成功したのだという理由で現在となっては失敗していることを繰り返すと、経済を好転させるどころかかえって悪化させてしまうことなど珍しくもない。マクドナルドはそのわかりやすい例である。

 経済の好転のためには、経済の自由が必要である。新たな産業を興すこと、すでに存在する産業の新規参入者となること、今ある職を捨てて新たな職に移ること、こうした自由があれば、経済は常に新しくあり続け、新しさが衰退を防いでくれる。それは個人レベルの話だけではない。会社としても最先端にあり続けるために変わり続けることが求められる。それから取り残されると、緩やかな衰退が待っている。その衰退は、気付いたときには手遅れになっている衰退である。

 ただし、これだと新しさに関われた人は豊かになり、そうでない人は貧しいままに留まることとなる。これが資本主義社会における格差問題の正体である。格差は自由と豊かさの代償である。

 先に、藤原頼通は真面目な人であると記した。真面目な人というのは、そのほとんどが不真面目に対する寛容さを持ち合わせていない。真面目でないとすることに対する嫌悪感があり、取り締まれるものなら取り締まりたいとも考える。そして、権力者になれば実際に取り締まる。

 だが、ここでいう真面目さの正体というのは、少し前の世代が新しく生み出したことを守っているだけということなのだ。つまり、既に存在していることは真面目なことと賛美する一方で、新しく生まれたことは不真面目なことと見なして取り締まるのである。

 するとどうなるか?

 衰退がはじまる。

 藤原道長は言論の自由を全て認めた人であった。自分に対する批判であろうと全て受け入れてきたし、そのことについてどうこう言う人でもなかった。言論の自由があるところは、社会の自由、そして、経済の自由を生み出す。少なくとも、言論の自由なしで豊かさを手にすることはできない。できたとすれば、本来はもっと豊かになったはずなのに、言論の不自由のせいで著しく低い結果に留まっているのを、豊かな暮らしであると言い繕っているだけである。言論の自由があれば経済の自由が生まれ、経済の自由があれば新たな経済が次々に誕生し経済の衰退が食い止められる。つまり、豊かな暮らしを過ごせるようになる。繰り返すが、格差は豊かさの代償である。

 藤原頼通は、父の忠実な後継者であった。そして真面目な人であった。この二つが重なると、父の認めたことは真面目なこととして認め、当時はまだ無かったがために父が認めたという先例がないことは不真面目なこととして取り締まる対象となる。

 その結果、藤原頼通は父と同じことをしているのに、父の結果と全く逆の結果を招いてしまったのだ。同じことをしているのに停滞を呼び、同じことをしているのに貧困を呼ぶ。それでいて格差の是正は進まないどころかかえって硬直する。新しさは格差を生むが、格差の敗者が勝者になる機会も生み出す。しかし、新しさを失えば現時点で格差の敗者である者は永遠に敗者であり、敗者復活の機会は訪れない。

 藤原頼通は格差をどうにかしようとした。どうにかしようとしたが、真面目さが自由を、そして、新しさを奪い、格差を固定してしまうようになったのだ。敗者復活の機会を奪い格差を自ら手で脱する機会を奪いながら、公的権力で格差をどうにかしようとした。それが悲劇を生んだ。

 格差の勝者の富を奪って敗者に分配するという考えは人類史上何度も存在した。これを社会主義という。古代ギリシアにはすでにあったし、近年のフランス革命以後は政党の題目として普通の存在ともなった。政権を握ったこともあるし、革命を起こしたこともある。

 社会主義には様々な形がある。共産主義、ナチスや戦前戦中の日本のような国家社会主義、そして、リベラルと自称する社会民主主義。とりあえずは三種類が思い浮かぶが、より詳細に分類することも可能である。ただ、どんなに詳細に分類しても、一つの現実だけは覆すことができない。

 どんな種類の社会主義であろうと、全部失敗したという歴史の現実である。

 この時代には社会主義という概念などない。概念がない以上、藤原頼通が自分のことを社会主義者だと考えていたわけはない。だが、その政策を見ると、藤原頼通は社会主義に近い考えの人であったとするしかない。それは、左大臣藤原頼通だけでなく右大臣藤原実資も同じである。真面目ゆえに不真面目を許さない。つまり、不真面目さを許さないために自由を制限し、不真面目さから生まれる新しさを否定する。それでいて、格差社会は問題だと考える。それでも自分の手にしている特権、すなわち、藤原北家、それも藤原忠平の血を引いて生まれたらほぼ自動的に議政官の一員となり、権力も財力も思いのままであるという特権を手放すことなく、庶民の格差問題を考える。

 法成寺の藤原道長は、新産業を生み出すための資本を用意することで経済の新しさを実現させ、新たな富裕層を生み出すことに成功していた。成功していたが、統治者の求める言論の「正常化」と言う名の言論制御の前には無力であった。言論の自由を狭め、ひいては経済の自由にも影響を及ぼすようになっていたのである。藤原道長の時代と頼通の時代とを比べたとき、言論の清廉さは頼通の時代の方が上だろう。だが、そこには窮屈さも存在していたのだ。

 頼通は悪意から窮屈を生んだのではない。乱れた言論を善意から統制しようとしたのである。その結果、文学作品は消え失せ、言論は自己規制がかかり、文化が衰退し、経済が衰退した。一瞬のタイミングで豊かさを手にした者は豊かな暮らしを味わえるようになったが、そうでない多くの者は豊かな暮らしにたどり着く道が閉ざされ、貧しいままの日々を過ごさねばならなくなっていた。

 何かがおかしくなったと誰もが考えている。考えているが、それが、善意による問題解決方法が有効に働いていないと考えている限り、おかしくなっている何かを正すことはできない。

 正すことができないまま時間を浪費し、格差問題が固定化され、ここに貧困が加わった。格差に貧困が加わると治安は簡単に悪化する。豊かな暮らしをしている者への羨望は、自分の将来の姿としての目標である間は問題ない。だが、自分の将来の姿として考えられないとなると、豊かな暮らしをしている者は、自分の将来の目標ではなく、奪うためのターゲットになる。奪うことを考える者は強盗だけではない。ターゲットに向かって行動する存在としての武士がクローズアップされるようになったのである。

 藤原道長の頃は道長自身が当時の最高の武士と考えられていた源頼光の忠誠を獲得しており、源頼光を通じて武士をコントロールすることができていた。しかし、道長が出家し、源頼光が亡くなった今、武士をコントロールできる者はいなくなっていた。その上、武士に対する需要が増えてもいた。

 何かを持つ者は、持たぬ者から狙われる。狙われてもどうにかできるように武装する。奪われることに比べれば、武装のための費用の方がまだマシである。その結果、武士を私的に雇う富裕者が現れるようになった。狙う側であった者を武士として雇えば一石二鳥だ。ターゲットにされた側は安全を、ターゲットにしていた側は武士という地位と生活の安定を手にできる。

 これが単に強盗を食い止めるための武士の存在であったならまだいい。問題は、武士を雇い入れた者がまた、別のターゲットへの攻撃材料として武士を活用するようになったのだ。盗賊や小規模の武士の軍勢相手を想定していたのに、襲いかかってくる側は大規模な軍勢である。また、軍勢を手にしたことで、自分の資産を守るだけでなく近隣の資産を奪うことも可能になったと考える者が出てきた。

 結果は、武士同士の争いの頻発。

 左大臣藤原頼通も、右大臣藤原実資も、ただ時代を嘆くだけで何もしなかった。万寿四(一〇二七)年二月二八日には、内裏に何者かが侵入し女官の衣をはぎ取るという事件まで起こった。

 当時の人は、内裏の安全すら守ることのできない時代になってしまったと痛感するだけであった。そして、藤原頼通に見切りをつけ、出家した藤原道長にもう一度統治者として復帰してもらうことを願うようにもなった。

 ただ、その願いを道長が叶えることはなかった。統治者に戻る意欲自体そもそもなかったが、それ以上に、道長の体調がそれを許さなくなっていたのだ。

 法成寺に参詣する者は、時折ではあるが出家した藤原道長の姿を見ることができた。

 その藤原道長の姿は、老いた僧侶以外の何者でもなかった。これが左大臣として長期政権を担い、摂政として、そして太政大臣として国政を操っていた者の姿であろうかと目を疑った。娘たちを次々と天皇に嫁がせた頃の藤原道長はもうそこにはいなかったのだ。

 糖尿病を悪化させたのみならず、白内障を患い視力はほとんど失われていた。

 また、心臓病もあって、歩く姿は弱々しいものになっていた。

 このとき藤原道長六二歳。いくら現在より平均寿命が短い時代であっても、六二歳は老衰で亡くなるような年齢ではない。だが、法成寺を訪れ、藤原道長の姿を見た者は誰もが、藤原道長の命が残り少ないことを悟った。そして、一つの安定した時代はもう戻ってこないことを悟るようになった。

 藤原道長の体調悪化について、右大臣藤原実資は万寿四(一〇二七)年一月一五日の日記に、藤原道長が病気になったと記しているだけである。藤原道長はもともと何度も病気になったことのある人であり、数日間、長い場合は数カ月に渡って横になったままリモートコントロールで政務を取り仕切っていた過去もある。そのため、たいしたことないと感じたのであろう。一月二一日の日記には病気になった道長の体調が回復したという記事もあり、どうやらこの時点で藤原実資は藤原道長の様子を伝聞でしか伺っていないようなのである。

 一方、道長の実子である左大臣藤原頼通がこのときの父をどう感じていたかの記録はない。記録はないが、これまで藤原頼通は頻繁に父のもとに足を運んでいた。左大臣となって議政官の権力を握ったはいいが、藤原頼通という人には人を惹きつける要素がない。藤原道長の後継者であるという一点をアピールするためには、出家して法成寺にこもった父を頼るのが最も確実な方法であった。また、後述することになるが、藤原実資の日記に藤原頼通が登場する頻度は、藤原道長の亡くなる前と後とで、後の方が圧倒的に多くなる。それも、登場する理由は藤原頼通が藤原実資に相談しにきたというものであり、しかも、藤原実資が「こんなことまで頼られては困る」とまで愚痴をこぼすほどに頻繁に登場するようになる。

 圧倒的存在感を持って権力を手にした者が自分の子を後継者として任命した場合、その子が親を凌駕する存在感を示すことはさほどない。また、親が権力を握る過程には権力争いがあり、権力争いの勝者として権力者に君臨できるようになった、つまり、親は「頼れるのは自分の力だけ」を自覚するのに対し、子のほうは、いくら帝王教育を受けてはいるとは言っても、何であれ頼ることのできる親が存在し続けたまま育つのである。誰か頼れる存在がいることを前提として育ってきた者に「頼れるのは自分だけ」を実践させるなど無謀な話とするしかない。

 左大臣として権力を手にし、右大臣は師匠でもある協力者、内大臣は実の弟という最高の環境であったにもかかわらず、藤原頼通は頼れる存在を求め続けたのである。それがこの時点では実父藤原道長であった。

 つまり、この時点の藤原頼通は、かなりの可能性で父の命が危機にあることを知っていたはずなのである。その上で何の記録も残っていない。しいて挙げれば、法成寺での仏事に参加したという記録があるぐらいだが、それもそれまでと変わらぬ日常のことであった。

 これはおそらく、藤原頼通が父の命の危機を現実のものとして受け止めることができなかったからではないだろうか。現在でも、不治の病と宣告されてもそれをやすやすと受け入れる人はいない。本人にしろ、家族にしろ、奇跡が起こって治癒するものと考える。病気が治癒してまたいつもの日常が戻ってくるものと考える。藤原頼通はこういう心境ではなかったか。

 この頃の藤原道長の体調の様子、そして、その間の政務の様子についての史料は乏しい。ただし、何度も記している通り、史料とは、何かしらのニュースを伝えなければならない現在のメディアではない。何かあったとすれば記録に残す。何もなければ記録に残さない。それが史料というものである。人類の歴史は戦争の歴史だと錯覚するの人が多いのも、ただ単に戦争が記録に残りやすいものだというだけである。

 ゆえに、史料の乏しさは平穏無事な日常を伝えるのと同じである。

 万寿四(一〇二七)年三月になると、右大臣藤原実資が藤原道長の病状を探らせているが、その回答で的を射たものはない。「まるで物の怪に取り憑かれてしまっているかのようです」という、なんだかよくわからない報告を受け取っているほどである。

 「物の怪に取り憑かれてしまったかのよう」の中身であるが、ただ単に、法成寺のあちこちで建設が始まっては終わりを繰り返していることを意味しているに過ぎない。

 もはや名実共にこの時代の京都最大の寺院となった法成寺であるが、まだできて間もないということもあり、敷地のあちこちが建設中である。その上、出来上がった建物もさかんに増築している。これは建設によって人を雇い入れ失業を減らすためでもあったが、そのあたりの事情を理解していない人からすると、寺院の財産を使っているわけだから税金の無駄遣いにはならないにせよ、「なんでこんなに建設しているのだ?」とはなるだろう。

 万寿四(一〇二七)年四月になると、藤原道長の体調が悪化していることが周知の事実となってきた。ただし、実質上はどうあれ、形式上の藤原道長は一人の民間人にすぎない。

 日本という国は、姓とは天皇から民間人に与えられるものと決まっている。ゆえに皇族は姓を持たない。この仕組みを否定しようとした者は、日本国二〇〇〇年以上の長きに渡って何人も現れてきたが、全員失敗している。藤原氏がいかに権勢を誇ろうと、藤原道長が三人の娘を天皇の妻とすることに成功していようと、姓のある者は全て庶民なのである。

 しかも、その庶民である藤原道長は政界を引退した身である。体調不良になったところで国家行事に何らかの支障が出るわけではないし、ましてや自粛の対象ともならない。あくまでも一人の僧侶の体調不良なだけなのである。

 四月一三日の賀茂祭を左大臣藤原頼通は欠席しているが、これはあくまでも父の体調不良に伴う自粛であって、藤原道長が特別な存在だから自粛したわけではない。父の体調不良のために左大臣がいないことをほとんどの者は知っていたが、祭典自体は例年通りに開催されたし、藤原道長のために特別な何かが行なわれたわけでもないのである。

 しかも、一五日には、弟の藤原教通とともに賀茂祭に参加している。多くの庶民にとって、父の体調不良ゆえの自粛は、理屈としては受け入れることができても、感情としては受け入れることができなかったのである。

 賀茂祭のことを現在は葵祭と言うが、この名称になったのは江戸時代のことで、平安時代は当然ながら葵祭などと呼ばれていない。それどころか、賀茂祭と呼ばれてもいない。では、どう呼ばれていたかと言うと、「祭」。ただ単に「祭」と言えばそれは賀茂祭のことであり、それほどまでに重要な祭であったからこそ、いかに父の体調悪化であろうと大臣が顔を出さないことに不満が沸き起こったのである。

 この時代のもっとも詳しい史料なのが右大臣藤原実資の日記である「小右記」である。個人の日記だから、当然、筆者である藤原実資の視点で重要だと感じたことについて記している。全日本的に重要だと判断したかどうかではない。藤原実資個人の視点で重要かどうかが判断基準である。

 ゆえに、日本の歴史に大きな影響を与える事件ではないが、藤原実資にとっては重要な出来事となると、かなり詳しく書いてある。

 その藤原実資個人にとって重要な出来事が、万寿四(一〇二七)年五月になると頻繁に登場する。

 もっとも、そのスタートは万寿四(一〇二七)年二月にさかのぼる。二月七日の夜、藤原実資に仕える従者の一人が殺害されたのだ。

 殺害されたこの従者のことを、藤原実資は「車副ム姓助光」と記している。

 車副とは、牛車の周囲で警護に当たる者であり、何かあると貴族の元にすぐに駆けつけることのできるよう、貴族の邸宅の近くに貴族の建てさせた住まいに住むことが多かった。貴族に仕える者の中でもかなり高い地位とされた者であり、現在の感覚でいうと、オフィス街と目と鼻の先にあるワンルームマンションを会社の寮として使わせてもらっている代わりに、何かあると休日出勤も命じられる将来の幹部候補生であるサラリーマンといったところか。

 また、姓ではなく「ム姓」と記している。この時代の貴族が自分に仕えている者の姓名を知らないことは珍しくなく、便宜上カタカナの「ム」と記しているが実際の読み方は「なにがし」。つまり、「車副ム姓助光」とは、「車副という重要な仕事で藤原実資に仕える、何とかという姓の助光」という意味になる。なお、右大臣という高い地位にある人に下の名前を覚えてもらっていたというだけでも、この時代の人は、殺害された者が右大臣にとってかなり重要な役目を負っていたことが読みとれる。

 その重要な役目を負っていた助光が殺害されたのが二月七日の夜。嵯峨にある住まいに行く途中で殺害されたと藤原実資は記している。先に記したように、車副というのは貴族邸宅の近くに住まいを構えており嵯峨に住んでいたとは考えられないが、実家が嵯峨にあったか、あるいは恋人が嵯峨に住んでいるとなるとおかしな話ではなくなる。現在でも、実家に帰ったり、恋人の元に向かったりする者は珍しくもない。

 二月一一日、右大臣藤原実資は、助光殺害事件の犯人を逮捕するよう、検非違使の中原成通に命令。右大臣の直接の命令とあって検非違使をはじめとする当時の警察権力が総動員となった。

 その結果、犯人が誰なのか判明したのが四月二一日。前安芸守藤原良資が「犯人の居場所がわかりましたら必ず犯人を検非違使に差し出します」と宣言したのである。この言葉だけを見ると「犯罪者の逮捕に協力しているのだな」という言葉に見えるが、実際はそう簡単ではない。

 なぜか?

 他ならぬ藤原良資に仕える従者、「春童丸(はるわらわまる)」が犯人だったからである。そのため、春童丸を検非違使に差し出すように命じたところ、このような答えが返ってきたのである。

 検非違使には警察権とともに司法権がある。しかも、右大臣の直接の命令のもとに動いている。ゆえに、その気になれば藤原良資の邸宅に踏み込むことも可能であった。

 ただし、いかに警察権を持っていると言っても、相手が警察権に従わなければどうにもならない。現在でも武器を持って立て籠もっている犯罪者集団に対するには、警察だって機動隊を用意する。ましてやこの時代の貴族は武士に自分のことを警護させるのが当たり前であった。こうなると、強制捜査は武力衝突へと簡単に発展する。

 さらに、この時点ではまだ、藤原良資の邸宅に春童丸がいるらしいという情報があるだけで、本当にいるかどうかわからない。裁判所の発行する捜査令状があれば強制捜査も可能となる現在でも、未確認情報に基づく強制捜査には二の足を踏むことが多い。

 その上、自分の従者が重大な犯罪をしでかしたとなると貴族としての体面に関わる。自分の従者をおとなしく検非違使に差し出すとなると、自分に仕える他の従者の信頼も失うのである。すでに自分の従者が真犯人であることは覆すことのできない事実であったが、それでもまだ藤原良資には取りうる手段があった。検非違使に抵抗するのである。

 藤原良資は犯人を見つけたら検非違使に差し出すと言っている。だが、見つけたら差し出すと言っているのであって、見つけて差し出すとは言っていない。つまり、自分が偶然犯人を見つけたとしたらそのときは犯人を差し出すと言っているが、犯人を見つける努力はいっさいしないと宣言したのである。

 検非違使の中原成通が選んだのは、藤原良資の邸宅の包囲であった。理由としては、現在どこにいるかわからない春童丸が、勤務地である藤原良資の邸宅に戻ってくるのを捕らえるためというものであったが、検非違使の軍勢は、邸宅に背を向けて邸宅に戻ってくるであろう犯罪者を捕らえる体制ではなく、邸宅に武器を向けて邸宅の中にいるであろう犯罪者を捕らえる体制になっている。

 しかも、邸宅にいる者がいかに邸宅の外に出たら、どんな重要な理由による外出であろうと、待っているのは検非違使の手による取り調べ。後述するが、この時代は取り調べの中での拷問が認められている時代である。外に出たら拷問が待っている。拷問から逃れたければ仲間を売らねばならない。仲間を売ったら今度は拷問より厳しい暴力が待ち構えている。これでは、邸宅の中に居続けるしかなくなる。

 兵糧攻めである。

 どんなに武力を集めていようと、いや、武力を集めているからこそ、藤原良資はかえって不利になったのである。武士は食わねど高楊枝などと我慢しようと、腹が減っては戦ができぬという言葉の方が正解である。空腹でも耐え続ければどうにかなるなどというのは、後ろの安全なところで満ち足りた快適な暮らしをしているものの思い描いている妄想でしかない。

 万寿四(一〇二七)年五月二一日、およそ一ヶ月に渡る兵糧攻めに耐えきれなくなり、藤原良資はついに、「行方がわからなくなっていた春童丸が邸宅に戻ってきたので検非違使に差し出します」という名目で検非違使に降伏した。蟻の入り込む余地のない包囲を敷いていたにも関わらず春童丸がいつの間にか藤原良資の邸宅に戻ってきたのだからおかしな話ではあるが、それについて中原成通は受け入れることとした。いかに右大臣の直々の命令を受けていても、藤原良資は国司を勤めたことのある経歴を持つ貴族。一介の検非違使に過ぎない中原成通には簡単に手出しできる相手ではなかった。

 検非違使に逮捕された春童丸が待ち受けていたのは拷問であった。取り調べの内容は三つ。一つは春童丸が真犯人なのかということ、二つ目は、助光殺害事件の共犯者は誰なのかということ、最後の一つは、殺害事件からこれまでどこにいたのかということである。この時点で既に、殺害事件に共犯者がいることは判明しており、単独犯であるという言い逃れはできない状態になっていた。

 拷問が認められていた時代であると言っても、無制限の拷問が認められていたわけではない。まず、拷問に使用する器具は「杖」に限定されている。「杖(じょう)」とは太さ一センチ、長さ一メートルほどの棒であり、この棒で殴りつけるのであるが、殴りつけて良いのは背中か尻のどちらか。かつ、殴ることができるのは取り調べ開始から終了まで合計一〇〇回まで。それも一度に殴るのではなく最低でも三度に分けなければならず、間には最低二〇日の余白を置かなければならない。そして、全て白状したらそれ以上の拷問は禁止される。

 万寿四(一〇二七)年五月二二日、春童丸は、この合計一〇〇回までという決まりのうち、七〇回を一度に喰らった。その結果、尋問のうちの二つについては白状し、残る一つについては黙り通した。

 白状したのは春童丸が犯人であるということと共犯者について、黙り通したのは殺害してからここまでどこにいたのかということ。

 春童丸が白状したのは、共犯者の名前が「犬男丸」という源氏に仕える従者であるということであった。

 検非違使の中原成通はこの証言をもとに、犬男丸に出頭するよう命じた。

 これに慌てたのが、左京大夫源経親と、その父である権中納言源道方である。

 検非違使が藤原良資の邸宅に対して何をしたか、京都中の者が嫌と言うほど知っている。

 それと同じことが自分の邸宅で起きたのではたまったものではないと考えた源道方と源経親は、犬男丸に対して検非違使に出頭するよう命じたが、犬男丸は自分が真犯人ではないと主張。しかし、犬男丸の主張は受け入れられず、万寿四(一〇二七)年五月二七日、犬男丸は検非違使に逮捕された。

 自分の犯行を認めた春童丸に対し、犬男丸は断固として自分の犯行を認めなかった。さらに、春童丸に会わせたところ、この男の顔を見たことなどないと答えるだけであった。

 この経緯だけを取り上げてみると検非違使たちは牛男丸が拷問に屈しない男だと思っただけであろうが、当の春童丸の方が、この男は自分の知っている犬男丸ではないと答えたことで事件は一気に混迷に突入した。

 この混迷を晴らしたのは、左大臣藤原頼通に仕える牛飼童の証言であった。

 事件のあった二月七日、諸々の貴族に仕える牛飼童たちが集まって酒を飲んだ場に源経親に仕える犬男丸は参加していなかったこと、酒宴が終わって、春童丸と一緒に帰っていったのは右馬助源頼職に仕える牛飼童の犬男丸であると証言したのである。酒宴の場で、右馬助源頼職に仕える牛飼童の犬男丸は自分のことを「源氏に仕える犬男丸」と名乗ったので、多くの者が権大納言源道方、あるいはその息子である源経親に仕える犬男丸だと考えたのである。

 主人の地位が高ければ高いほど、貴族に仕える者の立場は高まる。ゆえに、自分のことを源頼職に仕えていると言うより、数多くいる源氏の誰かということにしておくほうが立場も高まる。

 その語りが赤の他人に思わぬ大損害をもたらしたのだが、その結末についての藤原実資の日記は実に釈然としない。

 無実であることが判明したあとの万寿四(一〇二七)年五月二九日、源経親に仕える犬男丸が牢獄に入れられたままであったという記事で終わるのである。無事に釈放されたのか、それとも、この時代に多く見られたこととして、拷問の後満足な治療を受けることなく牢獄に放り込まれ、半死半生のまま命を落としたのか、全く記録に残っていない。

 藤原実資が自分の部下を殺されたことに対して怒りを見せた。ここまでは世間の誰もが当然のことと考えたことであろう。しかし、よりによって冤罪事件を生み出した原因になってしまったのである。ここで思い出していただきたいのが足利事件での警察官や検察官に対する世間のバッシングである。

 おそらくであるが、この冤罪事件に対して、足利事件と同じようなことが起きていたであろう。その当事者となった右大臣藤原実資にとって、自分がバッシングを受けたことは記録に残すようなことと判断できることではなかった。犯人逮捕から共犯者の洗い出しまでの筆の進み方に比べて、冤罪事件に対する筆の進みはあまりにも簡素で、可能な限り触れないようにするにはどうするべきかを考えた末の文章だったとするしかない。