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Kazu Bike Journey

Ride in Setouchi & San-in Day 65 (19/5/19) Okayama Castle Ruins 岡山城

2019.05.20 08:44

Okayama Castle Ruins 岡山城

Niwase Castle Ruins 庭瀬城

Natsukawa Castle Ruins 撫川城

今日は津山から岡山まで移動。岡山までは急な坂がないルートを選ぶので、比較的、楽に走れるだろう。63キロの距離。ほとんどの行程はJRの津山線沿になる。このルートは川沿もあり、登りは皿川、下りは誕生寺川沿になる。マイナーな川なのだろうが、結構川幅は広い。

岡山に近くなってくると国道沿いに永遠と黄色い花が咲いている。花畑を走っている様で気持ちが良い。

昼過ぎには岡山に到着した。まずは岡山城を見たい。時間がたっぷりあるのでじっくりと見れる。

Okayama Castle Ruins 岡山城

岡山城は江戸時代は池田氏が治める岡山藩の藩庁となっていた。鳥取城を訪れた際にこの池田氏の歴史について色々と見聞きした。鳥取藩から池田光政が岡山藩初代藩主となった。岡山は西の毛利への備えの地という事で岡山藩主が幼いという理由で鳥取藩主と岡山藩主は2度入れ替えが行われている。この都度家臣や商家も移る。代変わりはしているものの2度目は元の地に戻った事になる。

池田光政

岡山城の始まりは、宇喜多直家が元々あった石山城に入城・改築し、その子の宇喜多秀家(豊臣政権の五大老の一人)が石山城のとなりの岡山に本丸を築き、石山城を取り込む形で城郭が建造されていた。当時は備前岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。

宇喜多直家、秀家

現在は下の写真で本丸部分が公園になって公開されている。二の丸、三の丸は公共機関やオフィス街、住宅地となっており、当時の面影はない。

宇喜多秀家は関ヶ原では石田三成の西軍に組みし、関ヶ原の後は八丈島に流刑となり、そこで50年の流刑生活の後は85歳で生涯を閉じた。関ヶ原の西軍大名は石田三成、小西行長、安国寺恵瓊などは打ち首になったが、宇喜多秀家だけが流刑になった。秀家は関ヶ原(1600年)の後、逃亡を続け、薩摩の島津家の保護を受けていた、1603年に秀家は島津から家康に引き渡された。島津忠恒と縁戚の前田利長の懇願により死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉、1606年八丈島へ配流となった。10年後の1616年に秀家の刑が解かれたが、八丈島に留まった。この時は40代半ばだが、もう一度世に出ることを考えなかったのだろうか?その時の秀家の心情などはどこにも出ていないが、関ヶ原迄は戦闘に明け暮れ5大老まで上り詰めた激動の人生だった。刑が解かれた時は徳川も4代の家綱の時代だ。既に戦国は終わり、侍はサラリーマン化している。武功より処世術が必要な時代。八丈島にいるとはいえ、この変化は聞いていたのではと思う。もし自分が秀家の立場で八丈島にいれば、不自由だが、周りを終始気にせねばならない本土での生活より良いとしてとどまっただろう。その後40年をそこで過ごしたのだが、悔いのない人生と思えたのか気になる。

宇喜多秀家の後、関ヶ原で西軍を裏切り東軍勝利に貢献した小早川秀秋が岡山城に入る。この人物も話題になる人だ。関ヶ原から2年後の21歳で急死して、池田氏の時代となる。

では公開している本丸を見ていく。

本丸は内堀と旭川に囲まれ、下の段、中の段、本段に分かれている。

再現CG

着いた所が本丸の北の端だった。ここから廊下門を通って中の段へ入る。

廊下門

名前のごとく廊下としても使われた。藩主が本段にある住居から政務を行う中の段の表書院への通り廊下があった。

鉄門跡

廊下門とは南の反対側に中の段へのもう一つの入り口。

表書院

廊下門をくぐると中の段に入る。中の段には表書院があり、ここの招雲閣の南座敷で政務を執っていた。

中の段の敷地の殆どが表書院であった。

月見櫓

中の段には数々の櫓跡がある。この月見櫓は江戸時代から現存する唯一の建築物。

数寄方櫓跡

多聞櫓跡

伊部櫓跡

大納戸櫓跡

宇喜多秀家時代の石垣跡

中の段の表書院の敷地の下から石垣が見つかった。

不明門

この門から本段に入る。

本段

現在の天守閣はコンクリート復元されたものだが、空襲で焼失した天守閣の礎石が移動して展示されている。

六十一雁木上門

復元天守閣

この壁の色から烏城(うじょう)や、瓦や鯱鉾えお金箔で覆っていた事から金烏城(きんうじょう)と呼ばれた。

天守閣から見える風景

復元天守閣の内部は展示室になっている。貴重な資料が数点展示していた。岡山城主の三名に焦点を当てて紹介。

宇喜多秀家が一番大きく取り上げられている。やはり実質上の築城者で波乱の人生だったのでここでは一番人気だ。綺麗なイラスト付きで紹介。

ついで小早川秀秋だが、西軍を裏切ったといる負のレッテルが貼られてしまった。一般的に人気はない。パネルはこれだけ。随分と宇喜多秀家徳川待遇が異なる。

一番大変だった池田家に及んでは歴代藩主ひっくるめて系図で済まされてしまっている。

これで城の主要な所を見終わったので本丸の周りを自転車で散策すべく停車した所に向かう。本段、中の段から下の段を通って行く。下の段は中の段を囲む様に細長くなっており、内堀に面している。

内下馬門 二の丸への橋

城の石垣はその築城や増設の時代によって積み上げ方式が異なっている。古いものは野面積(自然石を積む方法)、その後は打込接(石を打って加工し石の隙間を少なくしている)が混在している。


二の丸跡には殆ど遺構は残っておらず県庁や病院などの公共機関や住宅地になっている。所どころに石垣や門の跡があった。

石山門跡

桜の馬場 今は駐車場

西の丸跡には小学校がある。

大手門は影も形もない。

対面所跡

市電が走っている

アーケード商店街はシャッターが閉まっているところが多い。岡山も元気がないのか?

石山城

岡山城の起源となった石山城の石垣が残っている。ちょうど二の丸の端にあった。今は病院の駐車場になっている。

岡山城見学を終えて今日の宿がある倉敷方面に向かう。途中に2つ城跡が隣同士にあるのでついでによってみる。

Niwase Castle Ruins 庭瀬城

備中国の有力豪族の三村元親が、備前国の宇喜多氏の侵攻に備える為に築かせた。羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つで毛利側城主の井上有景が800余人を率い守備。羽柴軍との間で激戦が交わされ、敗れ、宇喜多氏の領有となり、しばらくして廃城。

関ヶ原の合戦では宇喜多氏の重臣戸川達安江が主君には従わず徳川東軍につき、戦後、庭瀬藩として所領をもらう。戸川氏は4代藩主の後嫡子がなく断絶、天領となるが、その後、板倉重高が2万石で入封し、明治維新までの約170年間を支配。廃藩置県では庭瀬県となるが、後に、深津県・小田県を経て岡山県に編入された。こんな藩や県があったとは知らなかった。

Natsukawa Castle Ruins 撫川城

庭瀬城と同じく三村元親が、備前国の宇喜多氏の侵攻に備える為に築いた。庭瀬城と撫川城は戸川氏時代以降は一つの城として機能していた。

これで今日の予定は終了。もう7時に近くなっているので、宿に直行し自転車からに荷物を外し店に入ろうとすると、改装修理中で休店。10キロ離れた別の店に向かう。着いた時は9時近くなっていた。時たま、この様な目にあう。