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「日曜小説」 マンホールの中で 第一章 1

2019.05.25 22:00

「日曜小説」 マンホールの中で

第一章 1

「痛たたたたた」

 どれくらい気を失っていたのか、吉崎善之助は、身体中の痛みの中で目が覚めた。なんとなくぼんやり見える目で周りを見回しても、ただひたすら暗いだけで何も見えない。光を失ってから体験したことのない「見え方」に何か大きな戸惑いを感じる。それに、あまりにも体が痛い。どうも足の骨が折れているようで立ち上がることができない。他のところも折れていたり、あるいは打撲があるのか、体を動かすたびに、全身に痛みが走る。しかし、誰も助けてはくれない。いや、近くに人のいる気配自体がないのだ。

 善之助は自分の身に何が起きたか全く覚えていない。頭でも打ったのか、記憶があいまいになっている。

「おい、目が覚めたか」

 不意に、近くから大きな声がした。

「誰かいるのか」

「おう、死んでなかったのか」

「死んだとは何事か。無礼な」

「怒る元気があるならいいや」

 男の声は何か安心したかのような感じである。

「そこにいるなら助けてくれればよいではないか。私は目が見えないのだ」

「そうか。助けたいが、そうはいかないみたいだ」

 男は、なにかせせら笑うような感じでいった。

「なぜだ」

 善之助の声は、自然と怒気を含んでいた。光を失ってから、「身体障碍者」ということに自分が甘えている気はないし、そのような甘えを享受してくれるような社会ではない事もよくわかっている。しかし、だいたいの場合、目の見えない自分が「助けてほしい」といわれ、「助けることはできない」といわれることはほとんどない。

 それでも、若い女性とか、子供連れの場合は断ってくる場合もある。しかし、それは善之助でもよくわかる事情だ。目が見えないから善之助自身声を上げてしまうのであるが、しかし、その時の声や雰囲気で頼れない相手であるということがわかる。だいたいの場合、何か切羽詰まった感じで「すみません」「ごめんなさい」というような反応が返ってくる。

 しかし、今回は違う。

 そもそも、子供の声などは聞こえないし切羽詰まったような感じもしない。だいたい、真っ暗な中で、本来はお互い助け合わなければならないはずが、今まで死んでいるかと思ったといいながら、救助しようともしないし、救急車などに通報もしない。いったい何なのだ。

「私は目が見えないんだ」

「そうか。それで」

 何ともそっけない応対だ。こいつはいったい何なのだ。

「あまり言いたくはないが、障碍者に対してその態度はなんだ」

「何を言ってるんだ。いきなり歩いてるところに上から落ちてきて、足を傷つけておいて、助けろとは何様のつもりだ」

 男の声は別に怒った風でもない。なんとなく呆れているというか、あきらめている風である。

「落ちてきた、な、何があったんだ」

 善之助にしてみれば、男が言った言葉の「上から落ちてきた」ということの方が気になるものであった。

 そういえば、自分は道を歩いていたはずであった。工事現場の横で、威勢の良い作業員の声になんとなく好感を持ちながら、近づいていった気がする。その時に……。そこからはなぜか記憶が混乱して覚えていない。その後自分がどうなったのか、ここはどこなのか、全くわかっていない。

「私は死んだのか」

「死んじゃいないよ。まあ、死んだ方がよい世の中でも、せっかくある命をそう簡単にあきらめるんじゃねーよ」

 男は何かを悟ったような感じで、近寄ってきた。足が傷ついているというから、なんとなく、身体を引きずっているような音がする。どうも水があるのか、雫と水の流れる音がかすかにするのだ。

「ここはどこだ」

「混乱しているようだな・

「ああ」

「ここは、マンホールの中。」

「マンホールの中」

「ああ、ある意味で都会の地下迷宮という感じだ」

「物は言いようだな」

「そこで、あんたは上の世界で何かあったらしく、ちょうど蓋の開いていたマンホールの中に、うまく落ちてきたというわけだ。ちょうどその時に、その下を歩いていた俺の上に落ちてきて、あんたは俺をクッション替わりに命を長らえ、俺は、何の因果か、あんたの身体が落ちてくることろにいて、俺もケガしてあんたを助けられなくなったということだ」

「そうだったのか」

「ああ、あんたは記憶がないようだけれど。まあ、仕方がないところだな」

「それは申し訳ない」

 善之助は、なんとなくばつが悪くなった。今まで自分がどうしてここにいるのか、自分の身に何があったのか、その辺が全くわからない状態であり、その中において、精いっぱい何とか自分でやろうとした。しかし、目が見えないというハンディキャップを持っているために自分で理解できる範囲が狭い。その部分で様々な意味で、そこにいる男に甘えていた自分がなんとなく恥ずかしくなった。

障碍者を理由に社会に甘えていないつもりであったが、人間というのは、自分が弱い立場になった時、どうしても甘えてしまう。それも、いつの間にか障碍者を理由に、相手のことを慮る余裕がないことを正当化している自分がいるのだ。

 なんということだ。自分の今までの信念とは全く異なる自分が、非常事態になると出てきてしまう。切羽詰まると自分の本性が出てきてしまうということだが、その自分の本性が自分のハンディキャップを理由に他人に甘え、自分のことしか考えない姿であったということが、実に恥ずかしく思うのであった。

「いや、申し訳なかった」

 善之助は、そのような混乱を落ち着かせるために、わざと自分でもう一度お詫びを言った。このお詫びは、相手に対してというよりは、自戒の意味の方が大きかったのかもしれない。

「いいんじゃないか。まあ、お互い自分一人じゃ動けないということだから」

 それにしても、この男の落ち着きはいったい何なのだ。

 善之助は、なぜか今まで疑問に思わなかったところに疑問が出てきた。そもそもここにいる男は誰なのだ。そしてなぜマンホールの中にいるのだ。マンホールの中にいるのは、工事の作業員であったという考え方ができないではない。しかし、それにしてもなぜこんなに落ち着いていられるのであろうか。自分ばかりが自戒の念に陥っていたが、よく考えれば、そこにいる男にも異常なところは少なくない。

「ところで、君は誰だ。名前くらいを教えてくれないか。」

「おお、名前か。そんなものはない」

「君は、工事の作業員ではないのか」

「ちがう」

 ちがう、という回答に、また善之助は混乱した。

 自分の記憶とこの男のいうことを考えあわせれば、自分は交差点の近くで工事業者のところにいた。工事業者であるから、マンホールを開けていてもあまりおかしなことはない。その状態にあって、自分は何らかの形でマンホールの中に落ちたのだ。そしてそのマンホールの下にいたこの男にぶつかった。いや、ぶつかったおかげで助かったということになる。

 当然に、マンホールが開いていたのであるから、そのマンホールを開けた作業員が、先に入っていたことになろう。いや、自分は目が見えないで歩いていて、だれもマンホールに近づきながらも声をかけなかった、または注意をして守ってくれなかったということは、他の作業員が近くになく、また、マンホールの下に先に作業員が入っていて、善之助のことを見ている人がいなかったということに他ならない。つまり、マンホールの下にいた人物は「作業員でなければならない」ということになるのだ。そうでなければ、自分が穴の中に落ちた説明も、また、マンホールの中に男性が先に入っていたことも説明がつかないのだ。

 しかし、この男は「ちがう」というのである。

「な、何が、どう違うのだ」

「作業員じゃないから作業員じゃないといっただけだ。」

「ではなぜ、君はこんなところにいるのだ」

「ここに住んでいる、といっては違うかな。まあここを通っていた通行人かな」

 マンホールの中を通行している。道路でもないのに、何を言っているのだ。逆に言えば、このマンホールはそれだけ広く、人が歩けるような広さがあるということを意味しているのではないか。

 しかし、そんなここの広さは別にして、なんといってもこの男の正体がわからない。

「俺のことが知りたいのか。」

「ああ、何しろ落ちてきたとはいえ、傷をつけたのだ。しっかりと謝罪もしなければならないし、助けてもらったお礼もしなければならない。何よりも、わからないことを知りたいのだ」

 善之助は、助けてほしいというよりも、今の自分を理解し、納得するために必死に懇願するしかなかった。

「じゃあ、少し話そうか」

 男は、体制を変えたのか、少し水が波紋を作る音がした。