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キャンピングカーで日本一周

5月6日 唐津市 〜朝鮮出兵の拠点・名護屋城跡周辺をトレッキングするの巻〜

2019.05.21 06:34


早朝、唐津市街から北の端の鎮西地区に入り、道の駅「桃山天下市」に車を停める。



ここは、向かいにコンビニとスーパーまであり、ゴミ箱完備。


キャンパーに優しい道の駅。


⭐️おすすめの道の駅認定⭐️  道の駅「桃山天下市」



今日は、天気も良いので、周辺散策に出かける。


コースは、道の駅駐車場にスタート地点がある「九州オルレ 唐津コース」


「オルレ」とは、韓国済州島が発祥のトレッキングコースの総称。


済州島の方言で、「通りから家に通じる狭い路地」という意味らしい。



「九州オルレ」は、その姉妹版ということで、「九州の魅力を再発見してもらいたい」という趣旨でいくつかのコースが設定されているという。


この辺りは、韓国の色が強いエリアなんだなぁと、その時はボンヤリと感じていたが、その理由が次第にわかってきた。


そのヒントは、この道の駅の名前「桃山天下市」に隠されていた。



桃山とは安土桃山。安土桃山時代といえば秀吉。


近くには「名護屋(なごや)城跡」


道の駅裏手には「前田利家の陣屋跡」が控えている。





つまり、この辺り一帯は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に拠点として築かれた城跡と各大名の陣屋跡が集結して出来上がった城下町なのであった。


城郭跡を除けば、今では土塁などで、どうにかその痕跡を確認することが出来るくらいだが、地元には当時の秀吉の家臣や大名ゆかりの方々がおられるという。


これから我々が挑戦する唐津コースは全長約11km。


大名の陣屋跡を巡るようにコースが設定されているといい、短いコースに分けられているので、最短で2.5kmの手軽なコースもある。



まずは、前田利家公の陣屋跡を目指し、歩き始める。




鬱蒼とした林の中の坂道を進むと、所どころに赤い目印が付いているので、注意して見ていれば迷うことはない。



しばらくすると、いきなり目の前がひらけ、草むらの平地が現れた。




ここが前田利家の陣屋跡だ。


なるほど、信任が厚いといわれた利家だけに、構えた陣地も城から最も近い。



大きな穴の空いた「旗竿石」が置かれている。




その先で車道に出ると、目印ではなく、立派な標識が設置されていた。



路上には、またまた、猫。


田植えの済んだ水田を眺めながら、田舎道をトボトボと歩いていく。



幼い頃、水戸黄門で見たような景色が続くので、次第に頭の中で「人生楽ありゃ、苦もあるさ〜♪」とテーマソングが流れ始める。


ここから、「□□□□陣跡まで◯◯m」といった標識の前を、いくつも通り過ぎるが、遠くから眺めるのみで、いちいち寄ることはせず、先を急ぐ。


小一時間ほど歩いたところで、名護屋城跡に到着。




最初は4kmのコースを歩く予定だったが、途中で道がよく分からなくなり、結局、最短の2.5kmコースで終了した。


健脚なYには かなり物足りないが、Kにとっては程よいハイキングコースであった。




名護屋城跡の石垣の前にシートを敷き、お弁当を広げてランチタイム。


休憩の後は、名護屋城散策。


城郭の中に入ってから気付いたが、ここの敷地はかなり広い。


名護屋城跡は、総面積が約17万kmあり、建設当時としては大阪城に次ぐ規模だったという。



1591年に工事が始まり、西国大名が工事を分担し競い合ったことで、わずか5ヶ月足らずで完成。


城が建つ高台から海までは、最盛期の人口が20万人を超えたといわれる城下町が広がっていたらしい。


それが、1598年の秀吉の死去と共に終焉を迎えた朝鮮出兵を境に、各大名もこの町から撤収。


8年の栄華は、瞬く間に夢の跡と化していったという。


現在の、のどかな田舎の風景からは想像もつかないことである。


たった8年で、一つの都が形成され、消滅してしまう。


そんなことが、たった一人の独裁者の手にかかると可能となってしまうものなのか。


なんとも複雑な思いがする。




城跡に隣接する「名護屋城博物館」を見学(入場無料)。



7年間にわたり続いた文禄・慶長の役(1592〜98)についての資料のほか、日本と朝鮮半島の交流の歴史を紹介する施設である。


それにしても、豊臣秀吉によるこの朝鮮出兵(侵略)は、今から考えると全く破天荒な出来事だった。



まず、前線基地であるここ名護屋城の規模もすごいが、周囲に全国各地の大名を呼び寄せ、約140もの陣屋が築かれたという事実。




地図で見ると、城から半径3km圏内が、陣屋でびっしりと埋まっていたことになる。


朝鮮半島に渡って戦った部隊は別にして、ここに残った大名たちは、国元から遠く離れて大してやる事もなく、秀吉の趣味に従って、能や茶に興じる者が多かったらしい。



名だたる大名が、この辺境の地に顔を揃え、秀吉の余興に付き合わされていた光景を想像すると、なんとも滑稽。


その頃起きていた国際情勢や政治状況、国内情勢を考えると、なんとも信じがたい。




文禄・慶長の役の戦いについては、最近では日韓両国で細部まで研究も進み、よく知られているのでここでは触れないが、


この戦争は、朝鮮半島を舞台に行われ、朝鮮の国土と人民の生活に大きな被害を与えると同時に、援軍を出した明国も多大な国費を出費し、明国の弱体化を招いた。


日本は、秀吉の死を直接のきっかけとして朝鮮半島から退却し、和睦という形で決着したが、この大規模な戦争は豊臣政権の終焉を導くものとなった。



朝鮮半島を舞台とした戦争ではあるが、秀吉が当初から明国の征服に言及していたことを考えると、この戦争は、日本と明国との戦争という一面も持つ。


この戦いを、主君信長の遺志を踏襲した「秀吉の大国化への挑戦」と捉えることも出来るが、「日本の国力をヨーロッパ諸国に見せつける為の侵攻」、ひいては「植民地支配から日本を守る為の止む得ぬ侵攻」と捉える見方もある。



当時のアジア情勢を考えると、スペインが東進してくるのは時間の問題であった。


この背景には、当時のヨーロッパ諸国からの植民地侵略に抗うべく、秀吉なりの国防論があったのではないか。


万一、明国が植民地となった場合、スペインは明国、韓国の軍を従えて日本に攻め入る可能性が高く、それに抗う術はなくなる。


秀吉は苦渋の選択で、その先手を打ち、明を配下に治め、スペインが明軍、韓国軍と共に日本を侵略してくるのを阻止する道を選んだとする考え方だ。



しかし、いずれにせよ、秀吉の意図がどうであれ、朝鮮にとっては災難以外の何物でもなかった。



諸大名は、人足としての奴隷、焼物の職工などを連れ帰ったりしている。


結果として、日本もまた、批判的であったヨーロッパ諸国の植民地政策や奴隷貿易と同じことを行なっていたということになる。


いにしへの歴史を辿れば、確かに、やったりやられたりで、一方的に日本だけが攻め込んで迷惑をかけていたわけではないが、それでも、近代日本のアジア侵略とも合わせて鑑みれば、「好戦的な日本人」のイメージを植え付けるには充分なものであった。



秀吉は農民出身。


戦乱で荒れ果てた土地を一刻も早く豊かな大地へと変え、混乱した世の中に終止符を打ちたいと願っていたというが……。



この博物館では、日本人が自ら歩んできた歴史に大義名分を設け、覆い隠してきた歴史的事実を、裏返して見るという仕掛けが存分に施されている。


ある方向の思想を持った人達に言わせれば、それは「自虐史観」であり、韓国・朝鮮寄りであるという。



確かに見学をしていると、日本人が中国に行って「南京大虐殺記念館」や「731部隊罪証陳列館」を見学している時のような、いたたまれない気持ちにさせられるのは事実である。


そこには、本来あってしかるべき作用、反作用。つまり、外圧あっての朝鮮出兵という流れの可能性や、当時日本やアジア全体が置かれていた状況や、世界の趨勢については、まつたく言及していない。



この「名護屋城博物館」で展示されている内容は、あくまでも客観的事実。


日本人が、この城下町を拠点に行った歴史的事実に焦点を当てている。


ヨーロッパの商人が、日本人を奴隷として世界に売りさばいていたことに激怒した秀吉が、朝鮮半島から奴隷として連行することには寛容であったり、自国の侵略は許さないが、他国の国土を荒らし殺戮を行うことには抵抗がなかったり。 


それは、紛れもない事実。



ここは朝鮮半島の被害者側の目線に立った、言い訳を許さない博物館なのであった。