夏目漱石と20世紀初頭のロンドン16 「文明開化」批判②
『吾輩は猫である』(明治38年【1905】1月1日~明治39年【1906】『ホトトギス』に断続掲載)は夏目漱石の処女小説だが、漱石は既にこの小説の中の数カ所で文明開化批判を展開している。苦沙弥(くしゃみ)先生の家は落雲館中学校に接しているが、その学校の生徒が先生宅に野球のボールを打ち込み、先生が激高している場面で先生がこんな話をする。
「西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分だいぶ流行るが、あれは大なる欠点を持っているよ。第一積極的と云ったって際限がない話だ。いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境にいけるものじゃない。向むこうに檜があるだろう。あれが目障りになるから取り払う。とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪に触る。どこまで行っても際限のない話しさ。西洋人の遣り口はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭(ほうてい)へ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまで焦ったって片付く事があるものか。寡人政治がいかんから、代議政体にする。代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと云って隧道トンネルを堀る。交通が面倒だと云って鉄道を布く。それで永久満足が出来るものじゃない。さればと云って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。」
漱石の問題意識は、急激な文明開化・西洋化の中で、日本の伝統的精神をいかに保持し、日本人としてのアイデンティティを確立していくか、にあった。明治44年【1911】に和歌山で行った講演『現代日本の開化』ではこう述べている。
『日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流でその波を渡る日本人は西洋人ではないのだから、新らしい波が寄せるたびに自分がその中で食客(いそうろう)をして気兼ねをしているような気持になる。新らしい波はとにかく、今しがたようやくの思いで脱却した旧い波の特質や真相やらも弁(わきまえ)るひまのないうちにもう棄てなければならなくなってしまった。・・・こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです、宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。自分はまだ煙草を喫(す)っても碌(ろく)に味さえ分らない子供の癖に、煙草を喫ってさも旨(うま)そうな風をしたら生意気でしょう。それをあえてしなければ立ち行かない日本人はずいぶん悲酸な国民と云わなければならない。開化の名は下せないかも知れないが、西洋人と日本人の社交を見てもちょっと気がつくでしょう。西洋人と交際をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくともよいと云えばそれまでであるが、情けないかな交際しなければいられないのが日本の現状でありましょう。しかして強いものと交際すれば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。我々があの人は肉刺(フォーク)の持ちようも知らないとか、小刀(ナイフ)の持ちようも心得ないとか何とか云って、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人が我々より強いからである。我々の方が強ければあっちこっちの真似まねをさせて主客の位地(いち)を易(かえ)るのは容易の事である。がそう行かないからこっちで先方の真似をする。しかも自然天然に発展して来た風俗を急に変える訳にいかぬから、ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるよりほかに仕方がない。自然と内に醗酵して醸(かも)された礼法でないから取ってつけたようではなはだ見苦しい。これは開化じゃない、開化の一端とも云えないほどの些細な事であるが、そういう些細な事に至るまで、我々のやっている事は内発的でない、外発的である。これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑(うわすべ)りの開化であると云う事に帰着するのである。」
この講演から100年以上が経過した。しかし漱石の問題意識は今なお色あせていない。
(日露戦争勝利に浮き立つ銀座の街角)
(『吾輩は猫である』上編 表紙)
(『吾輩は猫である』上編 扉の対向ページ)
(「猫の漱石」)大阪滑稽新聞に掲載された「夏目漱石肖像」を漱石が模写したもの
(明治43年【1910】4月ごろ)