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霊性への旅

心の癒しと臨死体験

2019.05.25 07:27

■要   約■

 何万人もの臨死体験者たちが、自分の肉体を抜け出し、ベッドに横たわる自分の肉体や、悲しむ家族や友人たちの姿を見る。しかもその間の医者の処置や廊下での家族の会話、衣服にいたるまで詳細に覚えている。  臨死体験は、人生に絶大な影響を与える。彼らの多くは、生き方をプラスに変える。自分と宇宙とが一体だと実感し、人生には目的があると自覚し、すべてのいのちを慈しむようになる。臨死体験は、そんな人格変容を引き起こすほどに「真実の」体験なのだ。

 死を間近にした老人は、臨死体験者の語る内容を聞いて深い心の安らぎを得る。が、現代の子どもたちもまた科学的な世界像が暗示する「人生とは結局一酸化過程にすぎない」というようなニヒリズムに心の深い部分を蝕まれ、人生の意味付けを失っている。

 臨死体験者たちが語る世界像は、体験者たちの生き方の変化までも伴っているため、現代人の心を深く揺り動かす。それは伝統的な宗教が描く世界像のある部分に新しい光を与える。つまり「いのち」は、単に物質的なものを超えた精神的な世界につらなり、人生は「プラスチックのかけら」以上の意味に満ちているという考え方だ。  

■臨死体験とは?■

  今、臨死体験が注目されている。何万人もの体験者たちが、その体験中に自分の肉体を抜け出し、ベッドに横たわる自分の肉体や、悲しむ家族や友人たちの姿を見る。しかもその間の医者の処置や廊下での家族の会話、衣服にいたるまで詳細に覚えているケースも多い。

 こんな話を持ち出すと機械論者たちは、「そんなものは脳が作り出す幻覚だ」と頭から否定するだろう。しかし先入見に捕らわれたまま、よく調べもせずに安易に否定するのは知的怠慢だ。調べれば調べるほど、単なる幻覚としては片付けられない何かを、多くの体験者のデータが物語っている。死後に「たましい」が存続すると結論できぬまでも、「もしかしたら」という開かれた姿勢で研究してみる価値がそこにはある。その「もしかしたら」を仮に肯定してみると、そこには近代科学とはまったく別の世界観が出現する。

 もちろん臨死体験者たちが語る世界は、かならずしも互いに同一ではない。しかしその最大公約数を描き出すと次のようになる。まず多くの体験者たちが、先に述べた「体外離脱体験」を現実の体験として理解し、肉体とは独立した自分、「たましい」としか呼びようのない自分を実感する。そしてこの上ない深い安らぎに満たされる。やがてトンネルのような所を通って輝く世界に導かれ、そして「光」に出会う。

 「それは極度に明るい黄金色の光であるにもかかわらず、まったく目を痛めることがない。こんな光はかつて経験したことのないもので、光源がなく、光景全体を包んでいるように見える。その光に近づくにつれ、自分の存在の核まで貫くように思われる、純粋な愛としか呼びようのない強力な波長に圧倒される。いまや思考はまったくなくなり、その光に完全に浸されている。あらゆる時が止まる。完璧な永遠。光のなかで 再び自らの故郷に戻る。この時のない完全さのさなかに、この光と結びついているある確かな存在を感じる。それは人ではなくある種の存在で、その姿を見ることはできないが、その意識と自分のこころがいま結びついているように思える。」(K・リング「意識の臨界点」) 

 多くの場合体験者は、この「光の生命」のもとで自分の人生をパノラマのように回顧する。自分が人を傷つけたことや人にやさしく接したことなどを、その相手の気持ちを実感しながら再体験する。そして「光の生命」の限りない受容の中で、人生において愛することがいかに大切であるかに気づくという。

 

■臨死体験が暗示するもの■

 臨死体験は、およそこのような共通性をもって多くの人々に体験され、しかもその後の彼ら人生に絶大な影響を与える。彼らの多くは、一種の人格変容を起こし、生き方をプラスの方向に変えてしまう。自分と宇宙とが一体だと実感し、人生には目的や使命があると自覚し、周囲のすべてのいのちを慈しみ、援助の手を差し伸べるようになる。そして世俗的・物質的な事柄よりも霊的な事柄に関心を持つようになる。

 つまり体験者にとって臨死体験は、そんな根本的な人格変容を引き起こすほどに深い「真実の」体験だったということだ。臨死体験にそのような力があるなら、少なくともこの体験を単なる幻覚や妄想として片付けることはできない。単なる幻覚や妄想には、人格を劇的にプラスの方向に転換してしまう力はない。

 もし仮りに臨死体験が、夢や幻覚以上の何らかの実在性をもった体験なら、少なくとも私たちの生命は、肉体が滅びるとともに終わる無意味な物理・化学的現象であるという近代的な生命観は否定される。そしてもし「光」から放射される完璧な愛によって私たちの命が深いところで支えられ、肉体が滅びたあとの命さえがそれに導かれのだとしたら、私たちの多くが前提としている科学的な世界観は根底からくつがえされることになる。私たちの人生には「光」によって、あるいは「光」として認識される根源的な何ものかによって、何か深い「意味」が授けられていることになる。多くの臨死体験者が体験中に受けとるメッセージが伝えるように、私たちは「愛することと知ること」を学び、成長し続けるために「この世」に送り出されてきたのかも知れない。

 臨死体験者が語るこのような世界は、近代科学的な思考の理解を大幅に超えてしまっている。だからといって「そんなバカなことはない」と否定し去れば、私たちは何か大切なものを子どもたちに伝えそこなってしまうかも知れない。「科学は絶対ではないし、世界や生命についてはむしろ分からないことの方が多い。だからこそ臨死体験者の体験を簡単に否定し去ることは出来ないし、それはもしかしらたらこの現実を超える世界について何かしら深い真実を語っている可能性もあるのだ」──そんな開かれた姿勢で、体験者が語る世界を子どもたちにも伝えられればよいと思う。

 

■臨死体験と魂の癒し■

 老人、とくに死を間近にした老人は、臨死体験者の語る内容を聞いて深い心の安らぎを得ることが多いという。しかし、「たましい」が救いを必要としているのは、老人たちばかりではない。「この無限の空間の永遠の沈黙がわたしをおののかせる」(『パンセ』)と言って、近代科学の世界像に直面する人間の苦悩を表現したのはパスカルだったが、現代の子どもたちも科学的な世界像が暗示する、「人生とは結局一酸化過程にすぎない」というようなニヒリズムに「たましい」の深い部分を蝕まれている。いや現代人は皆、近代科学が描く永遠の虚無の世界に無意識のうちに恐れおののき、人生の意味付けを失っているのだ。「永遠に沈黙」する世界の救いのなさに苛まれ、誰もが、たとえ無自覚にせよ心の底に絶望を抱いている、それが我々の時代の最も癒しがたい病弊なのかも知れない。

 一方で伝統的な宗教が描く世界像も、現代人の「実存的空虚」を癒す力を失いつつあるように見える。しかし、世界中の何万もの臨死体験者たちが語る生と死の世界像は、無数の「体験」に裏打ちされ、体験者たちの生き方の変化までも伴っているため、現代人の心を深く揺り動かす力を持っている。それは伝統的な宗教が描く世界像のある部分に新しい光を与える。つまり「いのち」は、単に物質的なものを超えた精神的な世界につらなり、人生は「プラスチックのかけら」以上の意味に満ちているという考え方だ。 子どもたちの、いや現代人すべての心の虚無が癒されるためには、このような世界観が必要とされているのではないか。