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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.CHOPIN、リストへの皮肉とショパンの弟子ミュラー

2019.05.25 07:54

リストはショパンとサンドがプレイエルでグランドコンサートを成功させてからというもの、愛人マリーとモヤモヤとした気分を引きずっていた。

リストは初めてパリに父親と来た時、パリ音楽院に入学できなかったことを恨んでいた。

けれど、マリーがマルリアニ夫人と交流を深めたことで、リストは音楽院での演奏の許可を得た。しかし、それは条件付きで自作の作品ではなく、ベートーヴェンの作品を演奏することが条件であった。その屈辱を沸々とため込んでいたリストだった。

そして、サンドとショパンがノアンの酒と女と賭博の館で遊んでいる間に、リストとマリーは、ショパンよりも大きなことをやってやろうと企んでた。

一方ショパンは、出版の仕事が献身的なフォンタナのおかげで順調であった。

ノアンでショパンは友人でお金持ちのユダヤ人のデッサウアーから手紙と小包(お金)をフォンタナ経由で受け取ってショパンは気が大きくなっていた。

「ハスリンガーは馬鹿だよ、今頃、僕の≪スイスの少年の主題による変奏曲ホ長調≫を印刷したから出版させてほしいと言ってきて。」思い返せば12年前、1830年、ショパンが

ウィーンに来たばかりの頃、ハスリンガーはポーランドからやって来た青年ショパンを馬鹿にして、ショパンの出来立ての≪ソナタハ短調作品4≫と≪スイスの少年の主題による変奏曲ホ長調≫をタダでせしめたあげく、出版しないでいたことがあった。

その、遺恨がウィーンにはショパンはあったのだ。ショパンは思い出すだけでも昨日のことのように腹が立つのだ。

「こんな奴が好きになれるわけがない。僕は返事すらしたくないんだよ。だから、書いたとしたら強硬な文章になるから、君が読んでどうするか判断してくれ」と、ショパンはフォンタナにおんぶにだっこであった。

そして、お金持ちのデッサウアーはウィーンの出版社メフェッティを信用しているが、ショパンの愛弟子のフリーデリケ・ミュラー嬢からの話だと、

「メフェッティは僕が提供したメンデルスゾーンのアルバムに載せた≪ポロネーズ作品44≫にも一文もお金払わないのだよ。」ショパンは憤慨していた。

今になって、ショパンに靡いてお金を儲けようとする人もいれば、今でもショパンのことをウィーンでは見下してお金を払わない出版会社もあったのだ。

それを横目で見ていたリストとマリーは、シューマンに取り入っていたのだ。

ショパンはそれに気が付いていてフォンタナに言った。

「リストの記事を読んだよ。[ガゼット・ミュジカル]雑誌(シューマンが出版している雑誌)の評論は非常に楽しませてもらったよ。」

ショパンはフォンタナにつぶやいた。。。

リストの評論は実は愛人ダグー・マリーがゴーストライターであることもショパンは知っていてた。リストはドイツのケルン大聖堂で基金活動の演奏会をしたのだ。その年1841年はケルン大聖堂が建設の途中であった。建設再建にお金が莫大に必要であったのだ。(1842年建設が再開され、もうひとつの塔が完成した)

ショパンは話しを続けた。「15,000人の人々のうち大統領、副大統領および秘書、

フィルハーモニー協会とその会長、…豪華な馬車、そして川の港と船!

リストはエチオピアの皇帝か、アフリカのコンゴの皇帝の気分だったろう。

リストを称えたドイツの詞はマリーの仕業だろうから、リストとマリーは一緒に新聞の中に埋ずもれてなくなるであろう。」

ショパンは独特の皮肉を語った。

リスト自身も人種差別を受けていたが、同じく人種差別を受けていたショパンを押しのけてリストはドイツのケルンでの大きな仕事を奪い取った。ドイツのあちこちで地道に努力をして来たショパンにとってはリストとマリーの方法は受け入れがたかった。

フリーデリケ・マリア・ヴィルヘルミーネ・ミュラー 


【アントン・ヘニッシュ( 1817年10月28日ウィーン‐1897年カールスルーエ)オーストリアの画家によるリトグラフ、1847年制作】


フリーデリケ・マリア・ヴィルヘルミーネ・ミュラー(1816年7月3日 ブルノ、モラヴィア‐  1895年12月12日 ウィーン)オーストリアの ピアニスト。

父親のMoritzMüllerは、当初はブルノの総司令部、後にウィーンで、kk Judicum delegatum民兵Mixtum(法廷管轄外の裁判問題を担当する機関)の会計士でした。母親、Wilhelmine Friederike Maria geb Sedelmayerは、早く(1820年代半ば)に死亡したと予想されています。父親はクリスティン・フォン・センセルと2度目の結婚をし、合計5人の息子がいました。1849年1月の初めに、FriederikeMüllerは未亡人のピアノ奏者であるBaptist Streicher(1796-1871)と結婚し、11月末に彼女の娘Caroline(1849-1931)が生まれました。

1811年教会でのオルガン奏者をしていた。ヴェンゼルプラシー(1785-1858)から最初のピアノレッスンを受けました。

1839年3月上旬、叔母のひとり "Frizzi"がフレデリックショパンからレッスンを受けにパリへ行きました。

≪演奏会用アレグロOP46≫をショパンは彼女の依頼によって書きミュラーに献呈した。

.彼女の演奏活動は、1841年から盛んになった。たとえば、1842年4月17日ウィーン楽友協会のホールで演奏した。1844年から1845年の冬に、彼女はショパンと一緒に数週間勉強した。

パリでの滞在とショパンとの出会いについて、彼女は叔母のいるウィーンへ宛てて約230通の手紙の形で一種の日記を書いた。(非公開)

彼女の叔母キャロラインの女子のための教育機関で、ピアノのレッスンを受けた。

 1849年1月7日ピアノメーカー のヨハン・バプティスト・シュトライヒャーと結婚をした。

彼女は80歳で亡くなった。1896年1月19日の葬儀で聖オーガスティン教会(ウィーン)で、ケルビーニの レクイエムが演奏された。ウィーン中央墓地に埋葬されてた。