不必要
2019年5月26日
伊藤大輔牧師
創世記32章2-22節
旧約聖書は今から2500年前に成立した書物。
バビロン捕囚、敗戦の体験と結びついた物語。
家を追われたヤコブが自分の故郷に帰る。
捕囚の民はここから何を読み取ったのか。
ヤコブは恐怖と直面をしている。
ヤコブが怒らせた兄エサウ、無事で終わるはずがない再会を迎えようとしている。
大事なものと直面しなければならない。
避けては通れない。
だがこちらに勝算はない。
困惑、恐怖、絶望。
私たちにも同様の経験、予測がある。
避けて通れないものと直面する時、人は何を準備したらいいのか。
ヤコブは嘆き神に祈る。
「あなたが約束したことだ」と。
ヤコブは信仰がある。
聖書の「信仰」は万事解決する特効薬ではない。
「信仰」があっても怖いものは怖い。
嫌なものは嫌。
信仰がある故に苦しむこともある。
ヤコブは恐怖への備えをする。
家畜の群れを二つに分けエサウに襲われてもすべてを失わないように保険をかける。
また自分に先立ち財産を三回に分けて兄に差し出し怒りを和らげようとする。
出会う前も、出会ってからも、
何が起こってもいいように万全の準備をする。
自分の力で自分を守ろう。
自分の力に依存する。
依存によって未来を獲得しようとする。
物語の結論はエサウはそれらを受け取とろうともせず、
ただ弟ヤコブの帰宅を喜ぶ。
何も必要ではなかった。
解決は「依存」で導き出すものではなかった。
神の約束通りのことが起こる。
物語としてはそれで結構。
だが、この私と物語はどう関係するのか。
ヤコブに起こったことはヤコブだけのことではないのか。
物語は捕囚と結びついている。
ヤコブが神とした約束、
「家に帰れる」これは捕囚の民の願い。
この物語は告げている。
私の本当の願い、希望、それを願う前に神は準備している。
人は呟く私の願いは祈ってもかなわなかった。
だとしたらそれは私の「本気の願い」ではないから。
はやりや風潮で生じた作り物の願い。
人がしつらえたものに神は付き合わない。
本当に欲しいもの。
本当に行きたいところ。
無理だとあきらめて、
忘れて、
代用品で誤魔化し、
蓋でふさいだもの。
それを思い出す。
それを願う。
実現する。
世界はそういうふうに出来ている。
そういうふうに神は造っている。
心配、恐れ、それへの準備。
本当の願いなら何もいらない。
神が仕上げる。
2500年前以上前から語り継がれている世界の秩序。