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Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑰ ブログ版

2019.05.27 22:41





ハデス期の雨


《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ


Χάρων

ザグレウス





以下、一部に暴力的な描写があります。

御了承の上お読み進め下さい。





…殺しちゃえよ。

声を聴く。それら、耳に鳴る声。…ね?

と、それ。…やっちゃえば?「…じゃない?」

「殺しちゃえ。…」…死にたいんでしょ。「死んじゃえ…」

ね?…「んー…」…死んじゃう?

「やっちゃえ、…」…と、それら、無造作に鳴り響き続ける声。頭の中に、それら、声の群れが聴こえて、「…生きてる?」

と。

不意に、他人の声が聞こえた。その、あまりにも美しい響き。…お前、

「生きてんの?」そう言ったハオの、唇を見た。覗き込んだハオの、至近距離のそれ。

ささやき声が、それが何を言おうとしていたものなのか、その理解が一切拒否されたままに、音声は不意に、自然に、自分の唇から零れ落ちてしまいそうだった。

そして沈黙。ただの、無慈悲なまでの、どうしようもない時間の停滞。それ、何も答えない、半開きにされたままのジャンシタ=悠美の唇をハオは数秒間だけ見詰めて。…糞だね。

言って笑ったハオは、…逃げて。

と。そのときに、タオはつぶやいていた。あなたを殺して仕舞うから、と、その、ハオの眼差しが内庭に舞い降りた鳥のふしだらなまでに大振りな羽撃きが、もはやなにを気にするわけでもなく窓の向こうに光に翳りをわななかせるのを見ていたその時に、…あなたを。…と。

いまでも、あきらかに私は鮮明に憎んでいる。

タオはそして、自分の骨の内部にまでしみこんだ、自分に向けてその性器を曝した男への憎しみの、灼け付くような存在をふたたび自覚したが、すべてに於いて穢れた男。

「…お前、糞だよ。」言ったハオの声が、自分の耳に聴き取られていることをジャンシタ=悠美は知っていたが、その、揺らぎ。あるいは、咬み切って仕舞えば、と。その、眼差しの先に無様に突き立てたそれ、肉の無様な塊を咥えて、一想いに咬み切ってしまえばあなたは後悔するだろうか?

自分が生まれてきたその日その時その瞬間そのものを?…と。

タオは想って声を立てて、笑いそうになる。…それ。

揺らぎ。

耳元で、ささやかれるハオの声の音声が空気を揺らがせて、…だから、と。

空気は彼の声に揺らぐから、だから私はあなたの声を聴き取ることができる。濁音で。

罅割れた力いっぱいの濁音で、と、タオは想った。鳥たちはついばむ。

タオの、窓越しの傍らで、そして、叫ぶがいい。

容赦のない濁音で、なにか、…悔恨の叫び声。自分が破壊した事実に対してなどではなく、自分が今ここに存在していること自体を、その、悔恨を、その筋肉の一筋一筋に刻んで燃え上って仕舞え。…痛い。

なにもかもが痛い。

ジャンシタ=悠美は、「…死ねよ。カス。」その、皮膚の、筋肉の、内部の粘膜の、すべてが傷付けられてただ、ひたすらに苦痛を感じて、「頭、…」

吹っ飛ばせよ、カス、…と、そう言った唇の奥、喉の付け根に、ハオは、明らかな不穏な発熱を感じて、…愛?

ジャンシタ=悠美を、自分が単に一人の女として愛していたことに気付いた。くわえ込んだ、その、唇の内部で、タオは感じた。

その触感。

口の粘膜で感じ取られる、さまざまな皮膚の存在する息吹、それらの、生き生きとした、…ね?

「聴こえてる?」

…と。

わたしは、あなたを絶対に赦さな、…その、…い。と、その容赦のない憎しみが繊細な層をなして、「…い。」連なり続ける、タオの舌の先はやさしく、ただ、ふれられたものの至福の時間をだけ願って、舐め、添い、這った。

唾液に濡らしながら、もっと、と。

舌は願っていた。もっと、激しく、執拗に、容赦もなく、どうしようもなく、至福の**の中に燃え上がって消滅して仕舞いなさい。…もはや、と。

永遠に、…「穢いんだよ。」

お前の存在自体が。…と、そう言ったハオの言葉に、ジャンシタ=悠美は答えるすべを持たなかった。俺は君を傷付けないよ。

ハオは、眼差しが捉えたその、あまりにも傷付いて、ボロボロになった人間の残骸を見ていた。

ジャンシタ=悠美。わけのわからない、ポルトガルだかスペインだかどこかの、オカルトじみた奇跡に由来したその名前。ファティマの聖少女たち。宗教狂いの母親の命名。誰とでも寝、日本にまで連れてこられて、馬鹿な日本人たちに股を開いた母親の生んだ失敗作の成れの果て、…あなたを。

と。

俺は、愛してるんだよ。…ずっと。「泣かないで。」

ジャンシタ=悠美は言った。

我慢できずに、彼女の髪の毛を引っつかんで、その顔面をハオが殴打した後、鼻血を流しながら、そして、一瞬だけ失心して仕舞った眼差しに、ようやく知性らしきものの光を取りもどそうとしていた、その一瞬に、「…大丈夫。」

つぶやいたジャンシタ=悠美の頬を、ハオは、

「…怖くない。」

彼女の髪の毛を引っつかんだままに

「おびえなくていいよ。」

ひっぱたいた。一度、そして

「どんなに、…」

口を開きかけ、その唇が

「…ね?」

言葉を刻みそうになるたびにハオの手のひらは

「どんなにあなたが傷付いて」

彼女を、辛辣なまでに

「どんなにあなたが困難で」

容赦なく

「どんなに世界が冷たくて」

ひっぱたいて時にその頬に不意に、

「冷酷で、容赦もなくて」

笑みをさえ浮かべて、彼は声を立てて笑って仕舞い、あるいは

「いつでもあなたは凍えているしかなくて、そして」

聴いていた。ハオは

「どんなにただ、あなたの眼差しに」

ひっぱたかれるたびに、鼻から

「無慈悲なまでにただ、絶望が」

血交じりの鼻水を散らす、その

「無防備なほどにどこまでも」

ジャンシタ=悠美の

「もはや果てもなく曝されていたとしても」

あきらかに錯乱した声の群れ。それら

「大丈夫なの。…もう」

空間を

「すでに」

ささやかに

「ずっと、…」

そっと

「ね?」

震わせていたそれ、

「…大丈夫。何千回でも」

ハオはジャンシタ=悠美が句点を打つたびにひっぱたいた。まるで

「私はあなたに繰り返す。あなたは、…」

義務のように、そして

「美しい。…あなたは、」

知っていた。

「ただ、…」

彼女が、すでに

「…もはや」

ふたたび失神しかかっているのを。

「永遠に美しい。」…鳥たち。

舞い降りた鳥たち。その、ルーフに野晒しの幼児の死体に、黒い翼を逆光に、その光とい翳りだけをわななかせて、整然と舞い降りてくる鳥たちを、走り回ってタオは追い払おうとするが、とめどもなく集まってくるそれらをいたいけもない11歳の少女には追い払うことなどできはしない。

むしろ、背後の壁面に背を凭れて、それを見遣ったハオの眼差しの中で、あきらかに異物としてそのいびつさを曝していたのは少女の振る舞い自体だった。

そこには、それが鳥葬という宗教的な意味をなどもってはいなくとも、ただ、野晒しに、意図もなく鳥たちのためにだけ捧げられたやわらかい肉体があった。

不当で、愚かしいのは、わめき散らしながら駆け惑うタオのほうだった。

タオの周辺、そしてその上空、群がった十数羽の鳥たちの羽ばたきのせいで、その空間は真っ黒く、そして陽光に反射された光のするどいあざやかな白濁を好き放題に散らし、鳥たちはついばむ。

そのくちばしに。

好き放題に、そして、空間を騒ぎ立てる、それら、羽根の群れの羽ばたく音響。空が青かった。

タオの眼差しは、視界の中に、至近距離にざわめき立つ黒い羽のわななきの向うに曝されたその色彩を見留めていながらも、そしてその色彩が、すぐに、やがて白濁した雪を降らせる雲に隠されて仕舞うことなど知っていたが、タオが不意に、予告もなく声を立てて笑って、そして自分を振り向き見たのでハオは、それはいけない、と。彼は想っていた。なぜなら、ここは、いずれにしても弔いの場所で、いまは弔いの時間なのだから、と、たとえ、いまここにだれも弔っているものはなく、弔われているものはなく、いかなる嘆きや追悼の必然などなかったとしても。

無数の、羽音の群れが立ち騒いで止まないままに、タオは両手を拡げて鳥たちに戯れてみようとしたが、彼女のその企みを容認する鳥たちは存在しなかった。

彼女はむしろすべての鳥たちに、軽蔑されさえせずに無視されて、拒絶され、拡げられた両腕に鳥たちの羽撃かれた羽根はさまざまな翳りを、日差しをやわらかく疎外して、与えた。…覚えてるの。

ジャンシタ=悠美が、眼の前で自分を見つめながら言うのをハオは見ていた。

ベッドの上に綺麗に上半身をだけ起こし、そして両足は完全に、一直線にのばしていたジャンシタ=悠美の、その姿勢はハオにはあきらかに息苦しく、…想う。

「忘れてない。…忘れられない、とは…」

彼女には背骨などないに違いない、と、ハオは

「たぶん、言えない。一度も、忘れようとしたことがないから、」

彼女には骨盤などないに違いない、と、ハオは

「…どうなんだろ?…ね、」

彼女には軟骨などないに違いない、と、ハオは

「どう想う?」

想った。そんなことは在り得ない。ハオは、そんなことはだれよりも自分が一番よく知っていると想う。触感。…なにが?

手のひらに記憶されていた触感。さっき、彼女を平手打ちしたときの、それ、その、触感が隠しようもなく彼女が強靭な骨格を持ってそこに存在していることを明かす。「…なにが?」

と、そうささやいた、微笑んむハオの眼差しに、改めに気付いたジャンシタ=悠美はあわてて一度だけ眼をそらそうとしてみたが、まぶたに宿ったその気配がハオに、そのささやかな気持ちのあやふやなゆらめきをあまりにも赤裸々に伝えて仕舞っただけで、そして、ハオは自分を見つめていた、なかば呆然としたジャンシタ=悠美の、やさしくたわむれるような暴力に煽られた直後の、充血し、潤んだ両眼を見た。

「…なに?」

何って?

「…何だよ?」

…は?

「お前、」

ごめん。…ね?

「なん、…」

ごめんね、ね…

「何の話だよ。」

は?…

「なに?」…知ってる?…と、聴いた。ハオは、いきなり早口にささやかれたその、ジャンシタ=悠美の声を、「お父さん、ひっぱたいたことがある。…不意に。なんかね、ほっぺたが言ってたの。…笑う。なんか笑っちゃんだけどさ。いつかの日曜日。十歳ぐらい。日曜日。綺麗で、すがすがしくて、今日は、」…今日も、…「今日だけは、」…ね?いつものように、「いい一日になるぞって、…」幸せな日々が続いてく…そ「そな」ん、…そ「なん感じ。ご飯、…ね?食べてたの。朝。なんか、お父さんのほっぺが言うわけ。殴ってみてよって。なんか、可愛いの、すごく可愛くて。甘えて、そしたらさ、子どもだから。だからひっぱたいちゃうじゃん。普通、…でも、それ違うよって。想ってるわけ。知ってるの。それ、間違いじゃない。おかしいじゃない。だから、…ね?違うから…って。けどさ。気付いたらひっぱたいてた。…笑う。」

もう、…と、不意に言葉を切ったジャンシタ=悠美は一瞬だけ眼を伏せたが、その唇に、邪気もない笑い顔がうかんでいて、…お前、…

「馬鹿?」言って笑ったハオに、はっきりと意志のある微笑みを作ったジャンシタ=悠美は、しっかりと彼を見つめた。「…馬鹿なの。」

まじ、…

「もう、…さ。」

ね?…まじ

「もう、なんかね」

馬鹿。…

「取り返しつかなくってさ。びっくりしてるじゃん。お父さん。日本人だからさ。変なんだよ。そういう対応。なんか、下手なの。ぐずってて。でも、ぐずれないから、困ってて。で、わたし、ひっぱたかれちゃってさ。」

まじ、大変。…

「お茶碗とか割れちゃうしさ。…なんか、ばーんって。ふっとんで。なんか、妙に悲惨なの。悲惨じゃない?そういうの。予想外の展開、で、…ね?」

「お母さんは?」と、ハオが言ったとき、ジャンシタ=悠美は声を立てて笑って、…ないない。

…ないから。

ないないない。絶対、…

ないって。ない。「どっかの、男の人の所に行ってたんじゃない?…違う?帰ってきてなかったんだと想うよ。その日。…礼拝とかあるのに。…時間、押してるのに。…いなかったから、と、」…ね?「言う事は、男の人のところから帰ってきてなかったってことじゃない?」あー…と。

不意に、ながくその唇に「あー…」その母音を極端に長く伸ばして発音し始めたので、ハオは、…なに?

ささやいた、そのハオにジャンシタ=悠美は戸惑い、「…なんで?」

極端な早口で、「…まじ。」

ハオ君、…

「すごい。…」

「何でだよ?」

「お母さんが、あのときうちにいなくって、で、その日はわたしも礼拝行かなくて、で、お母さん、他の男の人と浮気してたの、始めていま気付いた。」…自分で、と。

ハオは、鼻に笑いながら、「お前、自分でそう言ったんじゃん。いま。」

「…知らなかった」