5月:いらっしゃいませはいわない
うちでは「いらっしゃい」を言わない。
「こんにちは、ゆっくりしていってください」と言うようにしている。
ここはお店だけど、お店である以上に僕らの暮らす家なのだ。
そんな家に「ただいまー!」と言って帰ってくる友人が数人いる。
僕らの営みは全く丁寧ではないし、ましてやここは綺麗でもなんでもない。
でも、ここが落ち着くと行ってくれる人は多い。
丁寧だから心地がいいわけではない。
郷里であるこの街だって、特別に丁寧だとは感じない。
おそらく人は、心地がいいことを指して、便宜上「丁寧」と呼びたがるのだろう。
だとしたら、ここは丁寧な場所だ。少なくとも僕ら家族にとって、ここがとても心地良い場所であることは、疑う余地がない真実だからだ。
「またくるねー!!!」
そういって手を振りながら、川の向こうの道を降って行く友人達は、今度いつ帰ってくるのだろう?
いとこや親戚が増えていくような感覚が、ここで暮らしているとある。
それはきっと気のせいではないだろう。
こうして家族は拡大していく、そうしようと思っていなくても自然に。
それが煩わしい時もあるけど、それを上回るほどに愛おしくもある。
大切なことはめんどくさいことばかりだ。
そういうもんだと僕は思って暮らしている。
家族といえば、実家にシロアリが出たそうで両親が慌てていた。
主にお金のことが心配で電話をしたら、
「お金は年金で賄うから心配いらないよ」
そう言われ「年金」というワードに老いを感じ、妙に歳をとったようでクラクラした。
これからも家族は増え、両親も自分も歳を取り不自由になっていく、大人になるということは自由になることではない、真実はその逆で「不自由」という「自分にしか出来ない役割」を喜んで背負って歩くことが「大人」になるということだ。
僕らは誰かの子供でありながら、誰かの親にもなり得る。
家族は拡大を続け、見ず知らずの土地が、「甥っ子の暮らす街」になったりする。
そういった実感を伴う感覚を「身体の延長」と呼ぶ。
そして、指の先まで神経が通っているからこそ、我が事として気が付ける。
街も家族もおんなじだ。