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青川素丸 表参道の父

二十四節気の来歴

2019.05.28 15:41

 二十四節気は、春秋戦国時代の東周にその元となる概念が生まれました。それは「日南至」と「日北至」で所謂、「日南至」は冬至、「日北至」は夏至を指します。

 「日南至」という言葉はとても古く《新五代史)・梁本紀第二》中に出てきます。訳すと、「日南至とは、太陽が最も南面を運行すること、即ち冬至日を指す」となります。また、「(日南至とは)冬至日を指し、夏至以降、日の軌跡は北から南へ、冬至以降は南から北へ動き、故に冬至日であり、これを日南至と称す。」とも記述されています。さらに、《左伝・僖公五年》にも「春、王正月、辛亥朔、日南至」の記述が見えます。これを意訳すると、「春、周の正月=当時の十一月、これは辛亥の朔月で、日南至=冬至日、日が極めて南に位置する」となります。「日北至」も同様です。《恪遵宪度(かくじゅんけんど)抄本》の中には、「日北至とは日が最も長く、日の影が最も短くなる時です。故に夏至と言い、至とは極を意味します」と記述され、夏の昼の長さ、影の短さが極まる時であるから「夏至」になったことがわかるのです。  

 さて、戦国時代後期の書とされる《呂氏春秋》に十二月紀中の立春、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬、冬至の八節気の名称が出てきます。八節気は二十四節気の中で最も重要な節気で、これらが既に季節の転換を表す境界等に定められていたことがわかるのです。

 そして、《淮南子》天文訓には、完全な二十四節気の名称が表されており、少なくとも、紀元前2世紀頃、春秋戦国時代の終わりまでに現在のような二十四節気の区分が完成をみたと推測できるのです。 

 この二十四節気は、中国でも黄河流域の漢民族の自然観を反映しているとされています。太古より中国の人々は黄河のもたらす肥沃な土や水の恩恵を受け、流域での農耕文化を発達させてきました。一方で、黄河は大量の土砂や泥を含んで、粘性の高い黄土色をした流れをつくっています。そして、一度大雨になれば、河水は勢力と破壊力を増して氾濫し、多くの人々の命も奪ってきました。なので、当時の農民にとって四季や気候変化は大変な関心事であったに違いないのです。

 黄河流域のモンスーン気候は一年に雨季と乾季があるのが特徴です。農民は多くの収量を上げ、効率的に農耕を行うためにも、一年の気温・降水量、洪水や風雪の起きやすい時期等自然のサイクルを読む必要がありました。同時に、暦を作ることも欠かせない事業の一つであったはずです。さらに、鉄器時代に入ると、農機具の進歩で収穫効率が飛躍的にアップし、益々自然現象を先取りして読む必要が出てきたのです。こうした文明の進歩を伴って、暦の作成技術も大きく発展してきたと考えられるのです。


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