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小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑱ ブログ版

2019.05.28 22:38





ハデス期の雨


《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ


Χάρων

ザグレウス





以下、一部に暴力的な描写があります。

御了承の上お読み進め下さい。





あー…と。

不意に、ながくその唇に「あー…」その母音を極端に長く伸ばして発音し始めたので、ハオは、…なに?

ささやいた、そのハオにジャンシタ=悠美は戸惑い、「…なんで?」

極端な早口で、「…まじ。」

ハオ君、…

「すごい。…」

「何でだよ?」

「お母さんが、あのときうちにいなくって、で、その日はわたしも礼拝行かなくて、で、お母さん、他の男の人と浮気してたの、始めていま気付いた。」…自分で、と。

ハオは、鼻に笑いながら、「お前、自分でそう言ったんじゃん。いま。」

「…知らなかった」そう、ハオの言葉にかさねて言って仕舞ったジャンシタ=悠美の眼差しに、一瞬だけ不快懐疑のような、翳りが浮んでいたことをハオは見逃さなかったが、「…で。」

しなだれかかるような、媚びるような、そんな微笑みがジャンシタ=悠美の涙袋に浮んでいたので、ハオはすぐに眼をそらすしかない。

「…かわいそうなの。結局は、人間って。…て、いうか、…ね?人間存在って、…さ。ね、」…人間存在。「かわいそうじゃない?」

「お前のほうがかわいそうだけどね。」

「お父さん、怒ったから怒ったじゃん。怒らなきゃならなかったから怒ったじゃん。でも、わたし、殴られた被害者じゃん。被害者って、被害者づらさげてるじゃん。だから、怒りに収拾付かないじゃん。わたし、謝るわけないじゃん。そういう問題じゃないじゃん。被害者だからじゃん。だから、どうしようもないじゃん。でも、どうにかするしかないじゃん。ふたりしかいないじゃん。やばいじゃん。」…どう?

ジャンシタ=悠美は言った。すがりつき、伺いをたてるような眼差しを彼女はハオにくれて、「どう想う?」

「…だったら死んじゃえよ。」ジャンシタ=悠美は声を立てて笑った。…いい。

「それ、…ね?」

それ、「いい…」…いまどきの若者っぽい。

「こんど、私も使うね。」逃げてった。

お父さん、…「ね?」と、その、歎きを素直に曝したジャンシタ=悠美の声をハオは耳にしながら、

「いきなり怒り狂ったままで」

想い出す。ハオは、鳥たちの羽。やがて

「まじ、いきなりだよ。なんの、…何の予告もなく」

訪れたそのときに、彼女は、ふいに

「逃げってた。くる…って、」

声を立てて笑って、邪気もなく、…ね?

「くるって」

無数の黒い翼の羽音がわななく。あー…

「頭、まわしてさ。で、」

と、そう「あー…」タオは声を伸ばして、上空を見上げて

「背中なんか、向けちゃって。お尻、若干、」

拡げられた両腕に日差しを浴びたままに、

「ちょっとだけ、震わせながら」

旋回。くるくると

「ぶるぶる…って」

自分の足でその周囲をくるくると旋回したが、青い。

「逃げてくの。」

空は、そして、光がわななく。

「何も言わずに、」

眼差しの中で。それら、鳥たちの

「完全な、…ね?」

羽ばたきが空間に与えた激しく泣き騒ぐ

「もう、完全にわたしなんか放置して」

陰影の戯れのせい、…さよらならするわ

「ひどくない?」

さおなぁらすぃまっ…

「理解できなくない?」

なにに?

「…もはや」

タオがいたずらじみた微笑を一瞬だけ

どうやって?

「在り得ない。…まじで」

不意に駆け寄って接近したハオの眼差しの至近距離に

どうして?

「パパ。…カス」

見せつけて、そして

いつ?

…いま、と、その幼い唇がつぶやいたと想った瞬間にはタオは、鳥たちの羽の下をくぐって、その、腐敗しかかった肉を曝す幼児の頭部を素手で引っつかむと、彼女はそれをバルコニーから放り投げた。

子どもの、力もなければ物の投げ方もしらない投擲は、結局は低空を水平にかろうじて移行したその赤らんだ穢い物体を、手すりに派手にぶつけて、残されていた片足を空間に跳ねさせた後で、為すすべもなく下に、一瞬で堕ちて行った。

あまりにもあっけないその事の始末に、私は半ば呆然として、鳥たちはいっせいに羽撃き立った。

頭の上の低い上空を、羽音は掻き乱れてざわめいて、「テーブルのうえ、きったないの。めちゃくちゃ、穢れてるの。お父さん、わたし、ひっぱたいた瞬間に手の甲、いろんなもんにぶつかってたらさ。ミルクとかね。牛乳。わらう。…ぎゅーにゅー…笑えない?…ぎゅー…にゅー…」…て、いうか。「ね?」…でも、「でもね。」…で、…さ。「でも、そのあと、部屋の中の光が。…さ。こう、…ね?」

「…違うの。なんかね」

こう、…

「あきらかに、ばったもんなの。まじで」

さ、こう…

「絶対に違うから。それ」

なんか、…ね?

「もう、完全に」

わかる?

「へったくそな嘘。」

こう、…さ。

「嘘まみれだよ。所詮、…」

ね?

「は、…さ。」

で、…

「所詮は嘘まみれだからね。だから、笑ってやるしかなかった。けど、笑えないじゃん?」

「悲しいから?」

「口がないから。そのとき、口、なかったから。だから、笑えるわけないじゃん。…笑っちゃう。…まじ、笑うしかない。」見てた。息を「唇が、ざらっ…って」殺して。そっと。「ざらざらしてて、」そっと、「ざらっ、…」ね。爪が「割れた。」はがれてくの。「唇が、」ゆっくり、「いきなり、」綺麗。「もう、」…すっごく。「いきなりなんだよ。」痛い。「われちゃった、その」すっごい。「…ね?」痛い。けど、感じない。そんな、…そんなの、もう、…ね?「唇から花が生えていった。」わかるでしょ?「ピンク色?」綺麗すぎて、「…女の子だからさ。」穢いの。「わたし、…あくまで、わたし、」なんか。「…じゃない?」可愛い。「ピンク?…なの?」くるくるって。「むしろ、」まわっちゃってるの。「あんまりにも、」くるって。「ね?」なんか、可愛くて、「あざやかすぎる赤。」…見てた。「…もはや紅状態。」はがれてく「咲いてる。」爪。「鼻の先で。それ、」ゆっくり、「それが、」ずうっと。「花が、」…時間?「はぐくむ。」ないない。ないから…「育んでる。」って。「わかる?」時間無視。「…そのときの、」完全に、「そのときの、さ。」ずうっと、「私の気持ち、…ね、」はがれてくの。「わかってくれる?」

…わかる。と、ハオは短く断言した。その言葉に意味などありはしない。そう言ってやるべきだったから、そう言ってやったに過ぎなかった。ハオは、自分の唇につぶやかれた言葉さえ、聴いてはいなかった。

ジャンシタ=悠美はハオを見詰めていた。

ジャンシタ=悠美は想った。なんて、…

と。なんて顔をしてるの?

そこには眼が在った。それは開かれて、それが見詰めたそれを見詰めていた。鼻があった。

唇が、そして、かすかに半開きになったそれと、鼻の穴とは呼吸をしていた。知っていた。見詰めているその皮膚の皮膜の下には筋肉と、骨格が存在しているには違いない。

だれでも知っている。そんな事は、と、髪の毛。

ジャンシタ=悠美はその真っ黒い光沢を放った、少年にしてはやや長すぎるに違いない髪の毛を見た。…美しい、と。

そう言って欲しい?…そう想ったジャンシタ=悠美のまぶたは一瞬だけ短く、するどくわなないて、「見てるの?」

なんて、…

「いま、」

ね、まじで、…ね。

「…ね?」

なんて顔、してるの?…なんて、

「わたしを見てるの?」

それ、…なんて、

「わたしだけ?」

顔って、…もう、と。なんて顔なの?

そうジャンシタ=悠美は喉の奥にだけつぶやいて、そのつぶやき声を彼女はいつか、聴いていた。

不意に、耳元に唇をつけたジャンシタ=悠美がささやきかけた。

「助けて。…ね。助けて。わたし、まだ、頭おかしくないよ。普通だよ。いま、笑えてるよ。助けて。わたし、まだ人間だから。人間でありえてるうちに、助けて。」

…救われたいの?…と。

「お願い。…ね。」

ハオは、…お前、

「信じて。わたし」

救われたいの?

「まだ、人間だよ。わたし」

いま?

「生きてるよ。ここに」

いつ?

「しっかり」

お前、…

「…ね?」

救われたいの?

「わたし、生きてるよ。」

もう、

「見て。」

…と。とっくの昔に救われていたのに?ハオはそう想って、自分が頭の中につぶやいたそれら、聴き取られた言葉の群れを反芻していた。…わたしを、

「ね?」

見て、…そして、そのつぶやきをジャンシタ=悠美の唇がはいた瞬間に、ハオは彼女の顔面に、頭突きをくれた。

頭部に、鼻の骨と、彼女の歯が傷めた、鮮明な痛みの感覚が、まばらに散在していて、ジャンシタ=悠美の唖然として素直に驚愕をだけ曝したその見開かれた眼差しを、ハオは見ていた。…死ねよ。

と、そう、彼女の耳にはふれないですむように、彼女の心を決して傷つないように、ハオは、「…壊れちゃえよ」あるいは、それら、それ以外に口早に発された無数の罵倒語を自分の頭の中にだけ無際限なまでにざわめきたてて、

しずかに

知ってるよ。…と

ただ、しずかに

ジャンシタ=悠美は言った。「みんな、…」

しずかに滅びていくことなどできなかった。そこ

「ね?」

滅んでいく人々の

…みんな、みんな

滅びの時間に棲息するそこには

みんなみんなみんなみんな

常に、あざやかな生存の

…悲しいの。

容赦のない苦闘があって

「知ってた?」

ついに

「わかる?」

人々はふれられはしない

…ねぇ

静寂には

悲しまないで。だって

ひとびとは

あまりにも

常に

悲しいから。もう

すでに

どうしようもなく

もはや

ただ

決して

ひたすらに

ふれられはしなかった。その

悲しいから。その

自らの

悲しみにだけ

みずからに固有な

あなたはふれたの

滅び

生きて在る

その、あまりにも鮮明に

あなたの、その

人類にだけ与えられた人類固有の滅びのときにさえ

生きてある、その

ふれられはしない

存在そのものが、ただ

もはや

歎いている

静寂に

いつまでも

その

声さえもなく

醒め切った静けさには

流された涙さえもなく

決して

悲しみ。「…ね?」

でしょ?

「…悲しいの。あなたは、ただ、いま、ただひたすらに、もはや、ただ、絶えられないくらいに、かん…っぺきに。完璧に。もう…絶望的なまでに。無慈悲なまでに。破滅的なまでに」…悲

しいの。ハオは、立ちあがって、ブラインド越しの窓の向こうに、映った白濁した自分の体が発した反射光のおぼろげな姿を見遣った。