5月26日 長野県豊丘村→飯田市[飯田市街地散策(川本喜八郎人形美術館)] →遠山郷(54km)
ここ、道の駅「とよおか マルシェ」は、地元のスーパーとバス停を併設した地域密着型の道の駅。
利用客は、観光客よりも地元の方が多いように見受けられる。
ということで、
⭐️おすすめの道の駅認定⭐️ 道の駅「とよおか マルシェ」
このあたりは天竜川沿いの伊那谷と呼ばれる広く深い谷あいにあり、敷地の周囲に広がる田んぼでは、 朝から田植え作業が始まっている。
この周囲は、関東に比べ、一ヶ月ほど遅いペースで田植え作業が始まるようだ。
「飯田」という地名は「結いの田」。つまり「共同労働の田の意味から生まれた」といわれる。
一昔前であれば、今頃は、皆一斉に横一列に並んで、田植え唄を歌いながら田植えをする姿が、あちらこちらで見られたことだろう。
さて、話は変わって、今日からKY夫婦の日本一周の旅、長野県編のスタート。
これから一行は飯田市街へと向かい、市街地散策をする予定である。
飯田市は長野県の最南端、日本のほぼ中央に位置し、戦国時代頃から交通の要衝として栄えた所。
東に南アルプス、西に中央アルプスがそびえ、山すそは扇状地と段丘が天竜川へと広がっている。
これが、その天竜川。
市街地は、この右側、河岸段丘の地形の中ほどにあり、田んぼの広がる谷底からは少し上部に位置している。
昭和22年の大火により、古来から「小京都」といわれた市街地の大半が消失してしまったという。
飯田城跡周辺には平地がそれほど多くはないせいか、駐車場は貴重である。
しかし、今日は週末。
ラッキーなことに、合同庁舎の駐車場は無料で一般開放されており、気兼ねなく駐車できる。
かくして、堂々とキャンピングカーを停めて、いざ出陣‼︎
今日は日曜日……だが目抜き通りの商店街は、お世辞にも活気があるとは言えない。
街の雰囲気は、どことなく昭和レトロな感じ。
それでも首からカメラを下げた、いかにも観光客といった感じの方々の姿が、ポツリポツリと見受けられる。
観光客が少ない分だけ、休日に店を開けている飲食店も少ない。
これは、ここ一年で身に付けた旅行者のカンというやつ。
時計の針が11時半を回らないうちに、目抜き通りにある蕎麦屋の暖簾をくぐる。
入り口には、ガラス越しに手打ち蕎麦の作業風景が覗けるようなスペースもあるが、今日は蕎麦打ちを行なっておらず、ちょっとガッカリしたが、期待は膨らむ。
二人とも迷わず「ざる蕎麦」を注文。
そろそろ昼時とあって、ほどなく座席は観光客で、ほぼ満席となる。
やはりカンは当たっていた‼︎
そして、いよいよ待ちに待った蕎麦の登場だ。
手前は「大盛り」、向こう側が「権現盛り」(遠近法で、ボリューム感の違いがわからず)
大盛りが1.5倍、権現盛りが2倍盛り、といったところか。
蕎麦をいただいているうちに、籠ザルの形が山型に盛り上がっていることに気付く。
「底上げしてるんだなぁ、まあ、そういう盛り方もあるのだろう」と、食事中は思っていた。
帰ってから、何気なくパンフレットをめくってみると、蕎麦をのせている籠ザルの使い方に違いがあることに、改めて気付く。
これは、パンフレットの写真からお借りしたものだが、中心部に向かって凹みがある。
しかし、我々がいただいた蕎麦の籠ザルはというと、凹ではなく凸。
写した写真とパンフレットの写真とを、よくよく見比べると、我々に出された籠ザルは裏返しということになる。
この籠ザルが裏返しである事は、籠ザルの作りをよく見ていただければ、すぐにわかる。
(縁取りに繋がる、骨子に当たる部分が露出している方が裏面で、おもて面からは骨子の部分は見えないように籠目が綺麗に被さっているのが分かると思う)
さて、この逆さ盛り、店にとって吉と出るか、凶と出るか。
肝心の蕎麦の方はというと、喉ごしは悪くはないが、蕎麦の香りが薄く、今ひとつ物足りない感じ。
鰹出汁に慣れているせいか、蕎麦つゆも何となくあっさりし過ぎているように感じてしまう。
まあ、これは好みの問題か。
店員さんがハキハキとしていて感じが良かっただけに、残念‼︎
さて、次は、飯田市の観光目玉の一つ、「川本喜八郎人形美術館」見学へ。
ここは、NHKで放送された人形劇『三国志』(1982-84年)において、人形美術を手がけた川本喜八郎氏の作品が展示されている美術館。
彼は飯田市出身でもなければ、ここに特別な地縁があるというわけでもないらしい。
飯田は、江戸時代に上方から人形芝居・人形浄瑠璃の遣い手を迎え入れて以来、三百年に渡り人形劇に情熱を傾け続け、現在では毎年「国際人形劇フェスティバル」を開催している。
川本氏は、その「国際人形劇フェスティバル」で出会った飯田の人々が発した「人形が生きている」という言葉に深い感銘を受け、この飯田こそ「人形たちに一番ふさわしい場所」と、自身の作品の寄贈を決め、ここに美術館が設立されたのだという。
つまり、飯田市民の人形劇に対する愛情、情熱が、この人形美術館を生んだのである。
入口から中に足を踏み入れると、ロビー中央で諸葛亮孔明の人形がお出迎え。
これは、初代館長を務めた川本氏が、この美術館のために特別に制作したものだ。
展示作品は、NHK放映の人形劇『三国志』で使用した人形が中心。
三国志は中原の魏(曹操)、江南の呉(孫権)、そして四川の蜀(劉備)の三国の覇権争いの物語であり、その登場人物も膨大な数に上る。
川本氏が制作した人形は、羅貫中『三国志演義』の立間祥介訳をモチーフとし、物語に描かれた登場人物について、体格、顔、表情、衣装と細かくキャラクター分析を行い、一体一体丁寧に作り上げていったという。
こうして精緻に作られた人形は、手足や首だけでなく、眼や口も動かすことができる。
特に口の動きだが、人形劇でよく見られる縦に切れ込みが入っているパターンではなく、口の部分が皮で作られていることから、切れ込みもシワもなく、自然な感じで口の動きが表現されるのが川本作品の特徴だ。
ここでは、展示案内係の男性が、実際に人形を動かして見せてくれる。
衣装も見事なものだが、これらは人形の本体に縫い付けられており、着せ替えはできない。
主だった登場人物には、軍装や日常着などの複数のバージョンが準備されており、首だけを入れ替えることになる。
この人形劇の人形は、上からぶら下げる糸繰り人形ではなく、人形の胴体に左手を差し込み、右手の3本の針金で操る形式。
人形浄瑠璃と同じく、人形一体を一人で操る。
人形にもよるが、衣装を着せたものでは3kg以上にもなる。
ちなみに、三国志ではないが、武蔵坊弁慶の人形は、フル装備でなんと5kg以上もあるとのこと。
人形使いは女性が多いらしく、人形の重さに加え、撮影時は常に中腰でかなりの重労働になる。
しかも、実際のテレビの撮影では、人形使いは「足元に置かれたモニターに映された人形」を見ながら操ることになり、モニターと逆の動きをしなければならない。
それを頭の中で反転させながら、自分の手や指が人形と一体になるほどの、文字通り熟練の技が求められるわけだ。
まさに神ワザである。
館内では、実際に見本の人形を、手にとって操ってみることもできる。
また、展示室の外廊下にあるコーナーでは、TVモニターに随時三国志のDVDが流れていて、実際に放映された人形の動きが確認出来て面白かった。
展示つ室には、三国志の人形以外に、川本が手がけた『平家物語』などの人形も若干展示されており、映写室では川本作品のうち、人形劇フェスティバルで上演された小品の上映もあった。
記念に、曹操の人形を撮影したクリアファイルを購入。
孔明・関羽・張飛・董卓など、10枚ほど並んだ全てを揃えたくなるくらい、真に迫った迫力ある人形たちである。
三国志ファンでなくとも、飯田市に来たら絶対に訪れるべき、KY夫婦お勧めの美術館であった。
美術館を出て、階下にある観光案内所に立ち寄る。
そこで、「遠山郷」というパンフレットに目が止まる。
ここは秘境と云われるところだそうだ。
「日本のマチュピチュ」と呼ばれる「下栗の里」方面は、現在通行止めとのこと。
それでも、遠山郷までは行けるし、温泉付きの道の駅もあるという。
担当者のハキハキとした丁寧な対応に感謝。
その後、一行は「りんご並木の通り」を進む。
ここは、大火災で街の大半を焼失してしまったことを教訓とし、防火用に設置されたようだが、飯田は林檎の産地としても有名なので、宣伝効果としてもバツグンである。
道の中央にある舗道スペースに、さまざまな品種の林檎が植えられている。
近くで見ると、小さな身が付いていた。
途中に、カフェやギャラリーショップが集まった「三連蔵」と呼ばれるお洒落なスポットも。
続いて、その先にある「からくり時計」を観ることに。
人形の街・飯田が制作した「からくり時計」。
どんなものかと、期待しながら開始時間を待つ。
いよいよ、からくり人形が登場‼︎
これで、人形が勢ぞろい⁈
ここの時計は、最近新しく作り直したばかりということで、さすがに故障中という事はなかったが、仕掛けは今ひとつ。
それでも、近くで見ていた子どもが素直に喜んでいたので、それで良しということか。
悲しいかな、この「からくり時計」が観光地図に載っていない理由が、わかった気がした。
帰りは、来た通りとは別なルートで駐車場へと向かうことに。
この辺りは色街なのか、きらびやかな夜のお店が軒を連ねている。
調べてみると、飯田市は人口比率に対しての飲食店が多い街らしい。
ちなみに、焼肉店の比率は全国一位。
スナックや居酒屋などの飲み屋さん系は全国三位というデータが存在するという。
「りんご並木通り」から一直線に進む通りにズラリと並ぶ、このお店の客様は、一体どこからやって来るのだろう。
昼間の時間帯だけでは想像もつかない。
余談だが、この飯田の街には、かつて「飯田遊郭」があった。
以下、wikipediaから。
飯田遊郭は1882年に長野県議会で設置が可決され、大黒楼、深津楼、山岸楼、柳川楼、丸井楼、岩亀楼の6軒が9月に開設された。翌年以降には長姫楼、日進楼、四海波楼、東屋、千代竹、丸鷲楼の計12軒が立ち並び、開業当初は30人程度の娼妓が1918年(大正7年)には130人を超えた。なお、通称赤線地帯であるこの地のすぐ下の谷川沿いに青線(非公認での売春)もあったとされる。
大正年間から昭和初期にかけて人口2万人足らずの飯田の町全体に舞妓が380人、娼婦などが500人近くいたとされ、「飯田の町は女の町」とも言われていた。
かの阿部定が20歳の時に飯田市の三河屋に移転し、1925年7月から1927年までこの遊郭で勤めた事でも知られる。
駐車場に戻り、観光案内所で知った「遠山郷」に向けて走る。
道は思いのほか良く、稀に細くなる程度。
途中で、またまた、ナビがこんな結び目を表示。
やはり、ここもループ橋であった。
このあたりは南アルプスの登山口にあたる。
トンネルの絵柄からすると、そろそろ遠山郷か。
ようやく遠山郷に到着。
今晩は、この道の駅「遠山郷」に宿泊する。