小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑲ ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的な描写があります。
御了承の上お読み進め下さい。
「…ね?」
でしょ?
「…悲しいの。あなたは、ただ、いま、ただひたすらに、もはや、ただ、絶えられないくらいに、かん…っぺきに。完璧に。もう…絶望的なまでに。無慈悲なまでに。破滅的なまでに」…悲
しいの。ハオは、立ちあがって、ブラインド越しの窓の向こうに、映った白濁した自分の体が発した反射光のおぼろげな姿を見遣った。原型を留めさえしないままに、とはいえ、それがあきらかに否定しようもなく自分の姿であることは、ハオ自身にも否定できなかった。
見ている
鏡のような暗やみ。
わたしは
その、ガラスに与えた鏡面作用。
あなたの惨状
それは、にもかかわらず、鏡ではない。
あなたの
鏡ではないから。
声もない、その
たしかに、確実に。
絶望?
だれにも、…と。
の、…ような
もはや誰にも否定できない強度で、自分が鏡などでは在り獲ないことを、その沈黙した無機物のガラスは主張して止まないのだ、と。ハオはそう想った。
見ている
想い付きのままに、机の上にあった黒いボールペンを取った。
わたしは
シンを出して、その先端の黒ずみを眼差しに、何の意味もなく確認した。
見ていた
それは黒かった。
ずっと
つぶだつ。
声を立てずに
その、先端にちいさく、なにか、こまかく繊細ななにかの物質のせいで、あるいは。
悲惨。あなたの
もしくはささいな現実的な事件的因子によって。
あまりにも無慈悲な
染み出してインクが粒だった、眼にもあざやかなその塊。
繁殖しなさい
眼にふれさせる意味などない、当たり障りのない、
いま
小さな。
好き放題に
それ。
想うがまま
ハオは、いきなり引っつかんだジャンシタ=ユイの左腕に、それを突き刺した。
あなたたちが
悲鳴などない。
求めるがままに
ジャンシタ=悠美は息を飲んだだけだった。なぜなら
私たちはかつて確実に繁殖していたのだった。とはいえついに
やわらかいボールペンの芯の先端など
その地上のすべてを私たちの繁殖体の群れで
彼女の生き生きとした
満たしきることは無いままに
強靭な
その
皮膚
それ
生き物の容赦のない
あまりにも絶望的な空の青の光の下に
皮膜
現在進行形の滅びのときへの行進に、逆向きに抗った
それを
そんな気になって
突き刺しぬくことなどできはしない。想いだす。ハオは、かつて。あの砂漠地帯で、追放された彼は、両眼を目隠しに覆われたまま、とはいえ、隠せはしない。
仰向けに砂漠の灼熱の砂を背にして、背の皮膚を容赦なく焼いていく、日光の温度。
閉じられて、そして目隠しさえされた暗やみの中に、あまりにもあざやかに…違います。
見い出されて、それら
暗やみなどでは在りません
光。…明滅し
いかに、あなたが
ひきのばされ、そして
かたくその眼を閉ざしたとしても
停滞し続ける、それ
あなたは見い出していた。つねに
赤み。あるいは
それら
紫がかった、そして
入り込んだ光の戯れを
オレンジ色。やがては黄色。
…色彩。あまりにも多彩なさまざまな色彩が、閉じられたまぶたのうちに好き放題に生殖していた。
一切の猶予もなく。知っていた。ハオは。
野生の鳥たちのくちばしはついばむ。生きながら葬られた彼の肉体を。辛うじてか彼は生きていた。
明晰な意識。…生きたまま、慎重に皮膚をはがされて。その、あまりにも高度な司祭の技術。
再生の、転生の神々に捧げられたその、供犠にふされる苦痛に満ちた栄光。
白濁した意識は、意識が耐えられる限界を超えた発熱と発光を好き放題経験しながら、冴えきった意識の明晰のうちに、彼は鳥たちが自分のじかにさらされた筋肉と脂肪をついばむのを感じていた。とっくの昔に、…と。
その神経系など麻痺して仕舞っていたに違いないのに、と、あるいは、眼の前の、ジャンシタ=悠美が自分を見つめた眼差しを見詰めた。…ねぇ、と。
腕に傷付けられた、ちいさく黒い芯の傷痕を、眼差しに確認することもなく、ジャンシタ=悠美は…なぜ?と。あるいは、
「なんで、しなかったの?」
ジャンシタ=悠美が不意にそう言ったとき、ハオは、「…ね?」ベッドに足を伸ばして座り込んだままの彼女の傍らに、身を横たえて両眼をかすかに閉じていた。「なんで、ハオ君、わたしとしなかったの?」
…ね?
と、そして、ややあってジャンシタ=悠美は自分のためだけに微笑み。…知ってるの。
「したかったのに。…ね?」
知ってる。わたしは、
「我慢したの?…でしょ。なぜなら」
あなたが、それを、もう
「ね?」
知ってることを
「なぜならあなたも神さまを知っているから。」
…知ってるよ。一晩中、自分に対してしゃべりつづけたジャンシタ=悠美を、ハオは無視したうちに、彼は眠りに堕ちていった。その顔が、少年のそれである事は知っている。
真っ青な、どこまで開放され、満たされきり、沸き立った歓喜が炸裂し続ける色彩が、それは青。
まさか、と。
ハオはそう想っていた。青という、あまりにも冴えた色彩に、そんな表情などあり獲るわけがないと、そう訝り、嘲笑しさえしながらその、ひたすらな歓喜の爆発を見続けたが、少年の顔は驚くほどにその形態をなくして、無造作にかたちを崩壊させていく。
もとから、形態などなしなわれていたのだから、いまさらなにも崩壊などはし獲ないままに、ハオはその顔を見た。
みすぼらしい顔だった。
ハオは哀れむしかなかった。
花々が危機を叫んだ。その少年の眼差しの向うに、しずかに停滞していた花々が、その自分に固有の危機を叫び続けて、何事もない。
花々は美しい。その花々。隅から隅まで満たされつくしたそれら、ブーゲンビリアのむらさきに近い紅の濃い色彩。
光の差さない空間に、それら花々の色彩は発光したような鮮度を保って、ハオの眼差しにふれ、そしてハオは唇に咥えた自分の指を咬み千切った。
自分が痛みを感じて、そのあまりにも切実な苦痛が鋭く、突き刺さった頭の真ん中から叫び声を上げさせていたことに気付いていた。
ハオはむさぼり喰らって、自分の手の甲を、手首を、歯のふれる悉くを喰い千切るが、それら、血に染まった手はひそかにハオのまぶたの汗を拭っていた。苦しみがいい。
ハオは想った。…俺は。
と。もっと苦しまなければならない。もっと、…と。
切実に。ただ、苦悩にだけ研ぎ澄まされて、やがて燃えあがって仕舞えばいい、と、ハオは聴く。
それら、無数の顰められたやさしい声がだれか、逢ったことも見たこともない誰かの噂話に明け暮れて、それらの声の無際限なかさなりあった大音響の許に、空が砕け堕ちれは、そこには瑞々しい青空が開けた。
叫び声が堕ちてくる。
連なりあった、無数の細い叫び声が束なって、響きいあいながら互いに耳を澄まし、その、洗練されたトーンを乱さないですむように、叫び合う声。
響き合う。
まばたく。
ハオは、まばたき、そして、いつか疲れ果てたように自分の胸の中に顔をうずめたタオの撒き散らした幼い体臭と、その髪の毛のおびただしい匂いの散乱を嗅いだ。
鳥たちは、タオが投げ棄てた獲物を追いかけ、下方に下りて仕舞って、ただ一羽の黒いカラスはルーフの床の上に、憩う。
日差しの、あまりにもあざやかな直射の中に。
記憶の中に、群がっていたあの鳥たちの羽音の名残りがあった。
ハオはコンクリートの地が剝き出された床に腰掛けて、足を投げ出し、背中には手すりの触感がある。
風が感じられる。
すこしだけ、上空の、少しだけ、穢れがない気がする風、タオの身を投げ出した身体がそのままハオの上半身に、倒れ臥したようにしなだれかかって、そして彼女の身体は汗をかいていた。
ハオは、たった一羽残ったカラスを見た。その鋭いくちばしと、なにをも兆さない冷たい翼。
純粋な黒。光に差された、おびただしい白濁を見せ付けながら。…どうして、と。
こんなところに、どうして俺はいるんだろう?
ハオはそう想った。
ふたたび、町の人間をハオが射殺して回ったのは、タオがハオに殺されて仕舞う一週間前だった。きっかけは些細なことだった。
あー…と。
その声、あー…、と、そう長い音声を引き伸ばしながら一人の女が草を伸び放題に伸ばせた雪解けの更地の上を、歩いていた。
彼女は誰かに強姦されて仕舞ったに違いない。あるいは、ほうり出されて仕舞ったのか。
彼女は服を身に着けていなかった。そして、見開かれた眼差しは、あきらかにハオが見出すことのできない風景を目の当たりにしていた。褐色の肌。
あるいは、ずっと肌を曝したままで、凍死もせずに雪の中を彷徨い歩き続けていたのかも知れなかった。
十分、…と。この女なら可能に違いない。気温がマイナスを記憶して仕舞った、人間の肉体は凍死しなければならないという常識さえ、彼女には認識されてはいないはずだから。
狂気、…と。それ。
狂ってあること、それは時に圧倒的な突破であることを、ハオの眼差しは了解した。いつか、彼女の身体をこの宇宙空間の真ん中に棲息した巨大なブラックホールが飲み込もうとしても、彼女はその眼差しに好き放題に咲き乱れた美しい花畑に舞う蝶の羽音を聴くに違いない。
ささやかな、狂った地上の強靭な風景。