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Kazu Bike Journey

Ride in Setouchi & San-in Day 76 (30/5/19) Meizenji Castle Ruins 明禅寺城

2019.05.31 14:08

Shinjozan Castle Ruins 備前新庄山城

Numa Castle Ruins 沼城 (亀山城)

Meizenji Castle Ruins 明禅寺城

昨日見学した岡山県立博物館の資料室で宇喜多直家に関する本を読み、この人物に興味が湧いた。今日は直家ゆかりの地を訪ねようと思う。先日会ったつねさんからの勧められた長船もその一つだ。本当は時系列に訪問できれば良いのだが、それでは効率的に回れないので、順不同で訪問する。(旅日記は出来るだけ時系列で書きたい)

と思い朝出発し、明禅寺城、宍甘鼻、沼城 (亀山城)、備前新庄山城まで来て昼食を終えた直後に藤田と言う爺さんに出会った。新庄山城山頂の神社に来る鳥為に、水を甕に溜めに来ている。優しい人だ。藤田さんとは話が弾み、宇喜多氏、池田氏、トランプ大統領、加計学園、村田製作所、映画の話などいろいろと時間が過ぎるのも忘れ話が続いた。新庄山城山頂から麓まで一緒に降りた。もう夕方の5時だった。「5時で駐車場が閉まるので時間なく残念だ。もっと早い時間だったらお茶でもしたかった。楽しい話ありがとう」と言ってくれた。何か通じるものがあった。結局、今日はこの3つの城だけに終わって、予定の三分の一だったが、予定していた所に行くよりも藤田さんと話せて良かった。この方がずっと有意義な時間だった。

Shinjozan Castle Ruins 備前新庄山城

この城は今日三番目の訪問地だが、宇喜多直家にはこの3つの城では一番早く居城としたところ。山城で麓には上道公園がある。

左の低い方の山が城があった山

地元の人に登山道を聞くと2つあると言う。急な当時の登城道と距離は3倍になるが緩やかな道。当然、当時使われていた道を選ぶ。かなり急な道だが、30分で到着。山登りに慣れて来ているのかあまり辛くは感じない。ここで藤田さんと知り合ったのだ。

山の中腹まで来た向こうに見える所が山頂

館跡は石垣が残っておりその上に神社が立っている。この城は個人が所有していた。神社はその人が造った。今日登ってきた登城道は険しくて地元の人はほとんど登らない(老人が多いので)。それで緩やかな道を個人で資金を出し作ったそうだ。村の人達も総出で手伝った。岡山県は結局金は出してくれなかったそうだ。

山頂からの景色

藤田さんが下山途中にある見晴らしの良いところに案内してくれた。

行く予定だった砥石城の山(中央)

黒田官兵衛の黒田家はここの出身。

この城は応仁年間(1467年~1469年)頃に新庄氏によって築城。新庄氏は応仁の乱で山名氏に属し、細川氏と戦い敗れ、細川方の赤松氏に属した。その後赤松氏が衰退すると浦上氏の家臣の沼城(亀山城)主 中山信正(宇喜多直家の義父)に仕えた。天文18年(1549年)、当時は乙子城主であった宇喜多直家が砥石城攻略で手柄をあげ、その恩賞としてこの地領を得て新庄山城に移って来た。新庄安政はこの城を明け渡し竹原城を築いて移った。

永禄2年(1559年、直家30才)、浦上宗景の命で直家が義父の中山信正を謀殺した折に新庄安政の竹原城も攻め落として安政を自刃に追い込んだ。

Numa Castle Ruins 沼城 (亀山城)

天文年間に浦上宗景配下の中山信正が築城。中山信正は宇喜多直家の義父。永禄2年(1559年)、主君の浦上宗景の命により直家は義父の信正を謀殺することになった。30才の時である。謀反の疑いがあるという理由だ。直家は当惑した事だろう。恐らく何かのはかりごとかと思いもしただろうが、命令に従わなければ、自分がやられる。やっと武士に復帰できたが、まだまだ主君に意見出来る実力もなかった。悩んだ結果、生き残る為には避ける事は出来なかった。それがこの戦国時代の常であった。この時代この様な謀殺はよくあった事だし、自分の祖父も自刃に追い込まれ、その後父の興家と浪人暮らしの悲哀を味わった。決断し、義父宅に酒宴で招かれた時に、殺してしまった。この事件の直後に妻にも自害された。そして義父のこの城の城主となった。岡山城に移るまでの15年間は当城を居城とした。(この城は慶長6年(1602年)、岡山に移封された小早川秀秋によって廃城となった。)

義父の謀殺については色々と陰口も叩かれただろう。想像だが、直家は割り切ったと思う。きれいごとではこの戦国の時代は生きて行けない。そして直家はその後、幾度となく、汚い手を使い宿敵と思われる人物を謀殺していく。斎藤道三や松永久秀に並ぶ悪人と評される。同時に出雲国の尼子経久・安芸国の毛利元就と共に中国地方の三大謀将とも言われている。一方では自分の家臣を粛清した事は無く、これは主君であった浦上宗景とは違う所だ。譜代の家臣たちからは終生慕われていたという。この岡山でも決して評判が良い訳では無いが、戦国の世を渡っていくポリシーなるものがあった様に思えるし、自分の中では敢えてやる事とやってはならない事が明確になっていた様に思う。ブレていない。彼の息子の宇喜多秀家は悲劇の人としてある意味での人気はあるが、人として武将としては直家が何枚も上だ。

城は標高40mの丘の上にある。宇喜多の馬印がなびいている。本丸跡。

地元の人が管理している。少し観光地らしくするためか、宇喜多秀家生誕の地の碑や秀家が八丈島に流されたことから蘇鉄などがある。

宇喜多直家と後添いの福と秀家のイラストまであった。

管理は主にこの隣にある小学校の生徒がやっている。色々考えてこんなものを手作りしている。微笑ましい。が 顔を出す穴が普通の2倍もあり手作り感が諸に出ていた。

二の丸跡

西の丸跡 小学校になっている。小学校の後ろの丘が本丸

三村氏との戦いの明禅寺合戦では沼城から本陣を5キロ先の宍甘鼻の山に移す。明禅寺城まで5キロ地点。

この亀山城に入ってから直家は積極的に城攻めに転換していく。「毒食らわば皿まで」の心境なのか、祖父を謀殺した主君の浦上宗景と同じかそれ以上の謀殺を繰り返すようになる。

まずは2年後に(1561年 直家32才) 金川城主松田元賢に属していた竜の口城の穝所元常を攻め、謀略で殺害。ついでに同じく松田氏の配下の和田伊織の和田城を攻略し、浦上氏の中で最も強力な家臣となった。この頃直家は城攻めだけでなく、婚姻政策で有力豪族との関係を作っていった。金川城主の松田元賢や美作三星城主の後藤勝基に双子の娘を嫁がせた。松田元賢は直家の勧めで浦上配下となる。(のちに直家に謀殺される。) 松田と後藤は尼子と同盟を結んでいたが、毛利の尼子攻略が進んでおり、松田/後藤は毛利と同盟関係にある鶴首城主 三村家親から攻められていたが、三星城は持ちこたえていた。三村家親は矛先を高田城 三浦貞勝に向けた。高田城落城、三浦貞勝自害、妻のお福は虎倉城主伊賀久隆の家臣土井を頼る。(伊賀久隆の妻は直家の妹) 直家は亀山城でお福と会い、二人の関係は進展し、後の忠家/春家をもうける。直家は三村家親を暗殺。1566年 直家37才の時であった。少し長くなったがこの三村家親の暗殺が後の明禅寺合戦の引き金となった。

Meizenji Castle Ruins 明禅寺城

永禄9年(1566年)宇喜多直家によって築かれたと云わる。この城は翌年の宇喜多氏と三村氏による明禅寺合戦の舞台。毛利元就と結んで備中一帯に勢力を拡げた三村家親は、さらに勢力を拡大するべく美作国や備前国へ侵攻。これに対し、宇喜多直家は遠藤兄弟に家親の暗殺を命じ、興善寺に滞在している所を暗殺に成功。 三村家の家督を継いだ次男元親が弔い合戦として永禄10年(1567年 直家38才)備前に侵攻、明禅寺城を攻め落とす。

宇喜多直家は明禅寺城を取り戻すべく出陣をする。三村勢2万人、宇喜多勢5千人。この人数を見ると宇喜多勢が圧倒的に不利であった。それに下の合戦図を見ると誰も宇喜多が勝利するとは予想しなかったであろう。しかし、三村元親の大軍は大敗し、明禅寺城は落城し直家の勝利となった。

勝利の要因は何点かあると思う。第1に毛利と同盟関係を結び、三村との同盟を事実上破棄させた事。第2に三村勢内に内通者を作った事。岡山城 金光宗高 (のちに直家に切腹させられる)、船山城主須々木豊前、中島城 中島大炊助が内通し、三村勢を翻弄した。第3に直家の行動の速さ。瞬時に状況をが把握して即行動をした事。これが遅れていれば三村勢の勝利になったかもしれない。

この合戦で、宇喜多氏は、最大の対抗勢力であった三村氏を備前国西域から撃退し、鉄砲鍛冶場として有数の福岡(現 岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地を握り、浦上家中での発言力と独立性を確保。この後、浦上氏の被官の身でありながら戦国大名としての地位を備前に確立し、備中への進出を開始することになる。

麓にある恩徳寺。ここから登山道があり登る。標高100m程なのでそれほどきつく無いだろう。

登山道はちゃんと整備されている。地元に人に感謝。

本丸は岩の上にあり要塞の様な場所だが、城の遺構は殆どなく、土塁跡かな、竪堀かな、曲輪跡かなと勝手な想像をする。

今日も帰りは夕方になってしまった。今日見れなかったのは明日か、明後日。多分明日は藤田さんが是非と言って勧めてくれた映画「武蔵」を見ようと思う。宿の近くの映画館でやっている。