5月27日 飯田市[遠山郷]→阿南町→平谷村→阿智村→下條村(83km)
今日は、朝一番で道の駅にある「かぐらの湯」で入浴。
ここは、木の素材を生かした、清潔感のある素晴らしい温泉施設である。
そこで、この周辺のお散歩マップを発見‼︎
マップの説明では、川向こうに「和田宿」という秋葉街道の宿場町があり、古い街並みが続く「夢街道」があるという。
時間もあるし、さっそく観光気分で川の向こうの宿場町まで行ってみることに。
ところが……。
所どころに古い建物らしきものは残っているものの、いわゆる普通の、廃墟となった民家や工場、商店の合間合間に現役のお店がボチボチ顔をのぞかせているのみ。
道の駅の観光案内所には、確かにここが宿場町であったことがわかる写真があった。
そして、それを復興させたいと願う人たちがいる、ということは理解出来た。
「夢街道」とは、それを夢見た地図ということか。
それを何の説明もなく、普通の地図や観光案内図と並べて公共の場に置いてしまうと、少し紛らわしい感じがするのだが……。
数年先、この地が本物の「夢街道」となっている事を楽しみに、一行は遠山郷を後にする。
ここから天龍村を経由し、阿南町までの道は凄かった。
大半が崖沿いの道幅3mほどの道路。
所々で落石注意の看板がかかり、側には角張った30cm位の落石が道路にはみ出ていたりする。
交通量が少なかったので、すれ違う車も数台で命拾いをした感じ。
この辺境の道を使って通勤する人は、おそらく皆無だろう。
コミュニティーバスともすれ違ったが、運転手の方は本当にご苦労様である。
周囲に民家どころか、畑も作業場も何もないような、どうしてこんな場所に停留所があるのだろう、と首を傾げざるを得ないようなところも、チラホラ見かけた。
この更なる山奥に、居を構えるご老人がおられるという事か。
トトロのバス停など、町中の停留所に見えてしまうくらいである。
この道は、これまで通った中で、一番の難所であった。
阿南町に入り、チラホラと民家の屋根が見え始め、広い平野に出たところで、心からホッとする。
派手なオブジェが人目をひく、道の駅「信州新野千石平」で小休止。
休憩がてらレストランで、そこそこのお値段の盛り蕎麦を食べる。
ここでまた、本場信州で出される蕎麦が、すべて美味しいと感じられるわけではないことを再確認する。(これは、あくまでも個人の感想)
ここから先の道は良かった。
車をもう少し先に進めて、今夜は道の駅「信州平谷」に泊まる予定だったが、ここには周囲に買い物出来る場所が無いという事がわかり、近くで給油(60L)をするに止める。
ガソリンスタンドのおじさんが、「この辺りの買い物スポット」として教えてくれた阿智村方向に向かって走る。
コンビニやスーパーが一つもない村というのは、今となっては貴重である。
阿智村のスーパーに立ち寄り、食料品の買い出し。
最近、キュウリやトマトに宮崎で購入した天然塩をちょっと付けてバリバリと食したり、食パンにハムとスライスチーズ、レタスをこれでもかと挟んで食べるサンドイッチが流行っている。
この野菜の保存の為に、新たに小型のクーラーボックスを購入してしまった。
ここに氷や冷凍ペットボトル飲料を入れて冷蔵庫代わりにし、野菜や食材を入れている。
夏野菜がお手頃価格となってきたおかげで、食生活は充実している。
今夜と明日の朝食をゲットしてところで、道の駅「信濃路下條」に向かうが、道中で何度も看板を見かけ、気になっていた「満蒙開拓平和記念館」を見学することに。
1931年の満州事変から1945年の敗戦まで、日本の農村から約32万人もの人々が、満蒙開拓団として、満州・内モンゴル地区に送られた。
長野県からの移住者は約3万4千人と突出しており、全体の12.5%を占めていた。
では、なぜ、ここ阿智村に「満蒙開拓団の記念館」があるか。
それは、「中国残留日本人孤児の父」と呼ばれた、僧侶で福祉活動家の山本慈昭が、ここ阿智村の出身で、長くこの地で住職を務めていたからである。
山本自身が僧侶と兼職で国民学校の教員を務めていた大戦末期の1945年、阿智村からも開拓団を派遣することになり、引率者の一人として、家族と2人の娘を連れ満州に渡っている。
日本の敗戦により、家族と離れ離れとなった山本は、シベリアに抑留されてしまう。
やっとのことで日本に帰国した山本を待ちうけていたのは妻と2人の娘の死、そして阿智開拓団の団員の8割が死亡した、という知らせだった。
敗戦からおよそ20年が経過した頃、山本は最初の遺骨収集活動のために中国に渡る。
翌年、中国・黒龍江省の中国残留日本人孤児から受け取った一通の手紙をきっかけとして、彼は中国残留日本人孤児の肉親探しの活動を、本格的に開始することになるのである。
その後、阿智開拓団のある団員が死の間際に残した言葉から、阿智開拓団の団員8割が死亡したというのは嘘であり、山本の妻と娘一人は死亡したが、もう一人の娘は中国で生存していることを知る。
彼が中国で長女との再会を果たすまで、敗戦から実に37年の歳月が経過していた。
山本は、その後、日本人孤児の肉親探しだけでなく、日本に永住帰国を果たした孤児たちの生活支援にも力を注ぐようになる。
日本で暮らす孤児たちの家族の対応も様々で、皆それぞれに事情を抱えており、必ずしも全ての家族が彼らの帰国を待ち望んでいたわけではなかった。
そんな家族の反対を押し切り、只々帰国したいという気持ちから、「家族の支援は一切受けない」という条件付きで、日本の家族から帰国申請を提出してもらった孤児もおり、言葉や習慣も異なる異文化の地となってしまった日本で、孤立無援の境遇に置かれてしまう人も少なくなかったという。
山本は、そんな孤児たちの為に、私財を投げ打ち「孤児たちの父」となろうとしたのである。
1990年に88歳で他界した彼の波瀾万丈の生涯は、2014年に映画化されている。
《満州開拓団の歴史を振り返る》
開拓団を派遣した昭和初期、日本の農村の生活状況は困窮を極めていた。
農村の主な収入源の一つだった生糸の価格は暴落し、農産物の価格も大正期と比べて大幅に下落。
農村からの海外移住はそれまでも見られたが、主流だった南米などの移住が制限されはじめた時、満州を占領した関東軍を中心にして、満蒙開拓のアイデアが国策として提起されたのである。
「20ヘクタール(東京ドーム4個分)の大地主になれる」というキャッチコピーは、貧困にあえぐ零細の小作人が中心だった農村の次男、三男たちには魅力的に映ったに違いない。
また、それと同時に「満州は日本の生命線」と謳われ、多くの若者が開拓地を守る義勇軍となり、夢を抱いて新天地に渡っている。
移住した先の満州・内モンゴルの大地は、日本で叫ばれていたような「王道楽土(当時、日本政府が説明していた[王道によって治められる安楽な土地])」とは程遠かった。
関東軍が用意した土地は、現地の農民を半ば強制的に追い出すような形で、安値(標準価格の1割〜4割)で土地を買い取り、取得したものであった。
開拓団の中には、関東軍から割り当てられた広大な土地を、ひと家族で耕作できない農場経営者も多く、「土地を追い出された中国人たち」を小作人として使役することで、なんとか賄ったという。
開拓団とは名ばかりで、その実情は「土地収奪による植民地化」であった。
学校や病院などを備え、完結した楽園のようなコミュニティーの中で彼らは生活し、現地の中国人たちとの接触は最小限に限られた。
そして1945年、日本政府による国策により進められた満蒙「開拓」事業は、日本の敗戦により終わりを告げる。
そんな開拓団の日本への引き揚げの苦労は、まさしく天国から地獄へと突き落とされたかのような、壮絶なものであった。
その過程で、中国残留日本人孤児の問題が起こる。
敗戦後、日本に引き揚げることができず、中国大陸に残された人たちにとって、日本政府は、あまりに冷たく、支援の手を差し伸べることを拒んだ。
残された人々は、家族が生き延びるために、若い女性は現地の中国人に嫁がされたり、子供たちは中国人家庭に売られたり、引き取られたりしていった。
土地を収奪された、積年の恨みを吐き出すかのように、中国人の主からは、まさに奴隷のような扱いを受けたという証言もある。
しかし、その一方で、そんな日本人親子を気の毒に思い、置いて行かねばならない子供の里親となることを受け入れ、大切に育てくれた中国人家族も多く存在した。
ノミやシラミだらけの身体を洗い、食事を用意し、勉学の機会を与え、我が子のように愛情を注いでくれたという。
これは、山崎豊子の「大地の子」の小説の中だけに生きる物語の世界などではない。
実際に多くの日本人の子供達「残留孤児」が経験した実話なのである。
ここ「満蒙開拓平和記念館」では、そんな開拓団の生き残りの人たちや、孤児を引き取った中国人の証言映像を見ることができる。
日中双方による貴重な生の証言である。
一定年齢(まだ子供だ)を過ぎて中国に残った日本人は、自分の意志で帰国しなかったとして、日本政府は、彼らの日本国籍を残さない方針をとった。
それだけではなく、中国残留日本人孤児の存在が社会に明るみに出たあとも、日本の担当部局である厚生省は、当初、積極的な措置を講じてこなかった。
孤児たちの肉親探しの運動を政治家たちに働きかけたのは、山本慈昭らの民間人なのであった。
ここは、いろいろな意味合いにおいて、「日本人と中国人の辿った近代の歴史の鑑」とすべき場所であると感じた。
道の駅「信州路下條」に宿泊。