「日曜小説」 マンホールの中で 第一章 2
「日曜小説」 マンホールの中で
第一章 2
「まず俺の名前だが、そうだな、次郎吉とでも呼んでもらおうか」
どうも、この男は自分に本名を言う気はないらしい。
「次郎吉さん、とりあえずなんだかわからないが、けがをさせたようで申し訳ない」
「ああ、まあ、仕方がないわなア」
次郎吉は、全く他人事であるかのように言葉をつないだ。言葉の感じから次郎吉と名乗る男は三十代後半から四十代前半の男性のようだ。かなり落ち着きがある。ここに来る前に見ていた若手の作業員のような浮ついた感じはない。どちらかといえば親方の方に近いのではないか。作業員ならば現場監督とか、副長とか、そういった感じであろう。
「で、あなたは作業員か何かで……」
「いや、さっきから言っているように工事の仕事でもない。」
「ではなぜ」
「まず、ゆっくり聞きなよ。爺さん」
次郎吉は、ゆっくりと間を置くと、淡々と話し始めた。
「ここは、マンホールの中、いや、爺さんからすればマンホールの下の下水道の中といった方が正確かもしれない。今日はここのマンホールの工事をするか何かで、蓋が開いていたようだ。たぶん、爺さん、えーと、名前は何といったっけ」
「私か、私は吉崎善之助だが」
「そうか、善之助さんだったな。たぶん善之助さんは、そのマンホールの蓋を開けた現場の近くを通りかかったわけだ」
次郎吉という男の言う通り、確かに現場監督と若者が工事の準備をして、黄色と黒のコーンを立てていた雰囲気はあった。いや、工事の準備をしろという指示をしていたのだから、そうに違いない。実際にマンホールのふたを開けていたかどうかは、善之助の目が見えないことから全く分からないが、善之助自身がここにいるという結論から考えて、それ以外には合理的な説明はつかないのであろう。
「そこで、たぶん何らかの事故があった」
「事故」
善之助に思い当たる節はない。いや、目が見えてないのだから、何も記憶にはない。そういえば、消えかけている記憶の中に、ブレーキのキーーーーーという音があったような気がする。しかし、落ちてきたショックで、あまり詳しくその辺の記憶がない。
「ああ、事故だ。たぶん音の感じから車の衝突か何かだろう。そのまま、何か爆発したんだろうな。まあ、俺も現場を見ているわけではない。このマンホールの中で音を聞いていただけだから、その辺の詳しいところはよくわからないんだ。」
「そうか、それでも何となく自分の記憶と合わせると、説明はつきそうな感じがする」
善之助は、自分の声に落ち着きが戻っていることを感じた。人間というものは、自分の置かれた状況に納得がいく説明がつくと、不思議と落ち着くものである。慌てたり混乱したりするのは、間違いなく、自分の境遇に説明がつかない時や自分がわからないときである。
不安定、まさにその不安定な心理状態こそ、最も落ち着きをなくす。不安定というのは、安定をしていないことだ。自分の境遇や自分の立場、自分の置かれている状況が不安定になると、自分の心理も安定し無くなってしまう。頭の中の状況の理解と、心理状態が連動し、片方が不安定になるともう一つも不安定になるというような感じなのであろう。人間というものは本当に良くできているものだ。
「善之助爺さん、それは良かった」
「で、なぜ次郎吉さんはこの中にいたのかね。納得ゆく説明ならば、当然に、あなたはその作業員で先行して入っていたということになろう。しかし、あなたはそうではないという。」
「違うから違うと言っただけだ」
「ではなぜこんなところに」
「鼠だからかな」
次郎吉は、そういうと少し笑ったようだ。息遣いが落ち着きの中にも少し異なった息遣いになっている。
「鼠」
「鼠小僧次郎吉。爺さんの世代ならばわかるだろう」
「ああ、泥棒だ」
「そうよ、俺は泥棒。もちろん次郎吉というのも本名ではない。その次郎吉は鼠だからマンホールの下、下水の中で生活している。ある意味、善之助さんが落ちてきたここは、ドブネズミの次郎吉の住居というところか」
「ドブネズミの次郎吉ですか」
自分で自分のことをうまく表現したと思ったのか、次郎吉の言葉は満足そうであった。まあ、泥棒などをしていると、自分の名前をこのように名乗ることはあまりない。よほどの大泥棒が犯行声明を出すのは、間違いなく警察に逮捕されない自信の表れだ。逆に言えば、そのような自信のないものは、普段は自分が泥棒ということを隠しているし、また、泥棒と名乗ることはない。そのように考えれば、自分がドブネズミの次郎吉と名乗ったこと自体がおかしな話だ。
一方善之助は、決して頭の悪い方ではない。次郎吉と名乗る男が、偽名であることもわかっていたが、まさか伝説の大泥棒鼠小僧と下水ははい回るどぶねずみをかけて次郎吉と名乗っているとは思っていなかった。いや、なかなかうまくできている。
しかし、この男はなぜ自分に泥棒であるといったのであろうか。単純にホームレスであるといえば済む話である。また大泥棒であるなあば、その「収益」で豪邸に住むこともできるし、また、金庫なども必要になってくる。そもそも、このような下水の中で暮らしているならば、泥棒である必要はなく、ホームレス的に物乞いをしても十分に食べていけるし、何も泥棒などというリスクを犯す必要がない。つまり、泥棒であるということ、そしてそれをここで告白するリスクと、このような場所に住んでいるということのバランスが大変悪いのである。
善之助の考えでは、「泥棒である」ということか「マンホールに住んでいる」というどちらかが嘘であると感じていた。まあ、そもそも偽名を使っているのであるし、また、目が見えない自分の本当のことを話す必要もない。よくよく考えれば、突然上から降ってきた自分にそこまでプライバシーを明かす必要もないのだ。
しかし、ここは話を合わせておいても、別に害がないわけではない。逆に、わざわざ否定する必要もない。次郎吉と名乗る男は、目の前で悦に言って笑っているのであるから、その機嫌を損ねる必要もないのである。
「で、ちょうど住まいにいたところに、私が落ちてきたということか」
「まあ、正確に言えば、住む場所と住む場所を移動しているときに、たまたま当たったということか」
「ということは住まいは別にある」
「ああ、こんな水が流れていて、たまに工事で地上の人が下りてくるようなところでは、落ち着いて住むこともできないからな」
次郎吉は、さも当然なことのように言った。
「なるほど、ではここは自宅の廊下のようなところか」
「まあそういったところか」
善之助は、何となく皮肉を言って見たのだが、次郎吉のように普通にそれを受け止められてしまい、皮肉と受け取られないと、自分の方がなんとなく損をしたような気がする。まあ、しかしよく考えれば、自分の生まれ故郷や毎日行っている飲み屋街を「庭のようなもの」というような表現を使う人は少なくない。何も次郎吉だから、そしてそこがマンホールの中だからといって、そのような感覚を否定する必要はないのだ。他の人が、あまりなれていない空間で自分が勝手をよく知っている場合、その場所を「庭のような」とか「家のような」というように、自分の身近なものとして表現をするのは何らおかしなことではない。そこが善之助などが普段は目にしないマンホールの中であっても、次郎吉にとっては同じなのではないか。
「ところで、自宅のようなところで申し訳ないが」
善之助は、やっと自分が言うべきことを思い出した。
「ああ」
「これから我々はどうなる。いや、私はどうやったら帰れるかな」
「せっかく知り合ったのに、そんなにすぐに帰るのか」
次郎吉は不満そうだ。
「いや、良く考えれば、私は招かれた客ではなく、いきなり乱入してしまった者だし、それに、そろそろ帰らないと家族も心配する。次郎吉さんとはまたゆっくりどこかで会うとして、とりあえずここを出て怪我を直したいのであるが」
「ふむ、それは困ったね」
次郎吉は、不満そうではあったが至極当然のことを言われて特に反論もない。しかし、一方で、自分では何もできないという体で、普通に困惑な声を出した。
「なぜだ」
「誰かがここに助けに来てくれるのと待たなきゃならない」
「次郎吉さんには申し訳ないが、私は地上まで運んでくれるわけにはいかないのか」
「それは無理だ」
「なぜ」
「あんたが落ちてきたおかげで、私も怪我をしている。爺さんは目が見えないみたいだからわからないかもしれないが、左腕と右足を怪我した。まあ、足は挫いたというところか。いずれにせよ、このドブネズミの次郎吉も、自分では動けないのだ」
「ではどうする」
少し焦りを感じた善之助は、あまりにも落ち着きを払った次郎吉の言葉に、少し声が大きくなってしまった。マンホールの中。その声はなぜか大きく響いて、奥の方でこだましているのが聞こえる。
「まあ、助けが来るのを待つしかないな」
「助け。地上で事故か何かがあったのならばすぐに来るだろう。なぜ来ないのだ。」
「まあ、爺さん、落ち着け。まず地上の処理が終わらなければ、こっちまでは来ないだろう。」
「そういうものか」
「まあ、待つしかない。マンホールの中というのはそういうところなんだよ」
次郎吉は何かを悟ったように言うと、まだ動く右腕で善之助の肩を軽くたたいた。