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特別の教科「道徳」指導案

道徳教育論 -理論と実践- (1)

2019.06.02 01:19

                        横浜市立大学非常勤講師 鈴木 豊

はじめに

 私は大学4年時に卒業後大学院進学を一時考えたが親に金銭的苦労を掛けらず、求人掲示板で研究員募集を見つけ、大学から推薦書をもらい、プリマハム株式会社の入社試験に臨んだ。

面接後その場で内定を頂いたのだが、研究職としてではなく本社採用枠で来てもらいたいということであった。その場で承知してしまったものの、嬉しくはなかった。

入社後本社採用メンバー5~6名が集められ、半年以上におよぶ研修が始まった。

講義や実習、施設見学等の日々が続いた。その時の研修の中に、その後の私の進路を大きく変えた衝撃的な研修があった。屠場研修であった。

屠殺施設で、豚や牛、鳥を屠殺し精肉へと処理していく光景は、入社後わずか1年と1か月で退社した背景となった。

豚は屠殺施設に運び込まれ、一頭ずつ天井に設置されている大きなレールからつり下げられているフックに、豚の片足が掛けらる。

豚は逆さ吊りにされ、巨大なレールに沿ってガタガタと移動していく。

すぐに電気ショックで気絶させると、豚の首の動脈がナイフで切られた。

大量の血液が心臓の鼓動によって吹き出た。

処理場内には、豚の鳴き声が響き渡っていた。

私が屠殺研修の中で最も衝撃を受けた光景は、牛の屠殺場面であった。

牛は自分が殺されるのがわかるのか、屠殺場の入り口で両足をふんばり動かない。

精一杯の抵抗をするのだが、抵抗むなしく施設内へ引きずり込まれると係留された。

屠殺担当者が特殊なピストルを持って牛に近づいていった。

何げなく牛の顔を見ると、つながれた牛の大きな目から、涙がこぼれていたのである。

「牛が泣いている」、視線は牛にくぎ付けになった。

牛の眉間に、特殊なピストルがあてられた。

そのピストルは、銃口から弾丸が出るものではなく、金属の棒が高速度でスライドするものだった。

銃の引き金が引かれた。

「パ-ン」という銃声と共に、金属の棒が牛の眉間を貫通した。

牛は瞬間的に、4本の足をたたんだ。

牛の巨体が一瞬空中に浮いていた。

次の瞬間に、ドーンという大きな音と共に、牛は床に倒れた。

屠殺担当者は、首の動脈をすぐにナイフで切った。

その後も牛の心臓は鼓動を続け、大量の血液を体外へ流し続けた。

「牛の涙」、その光景が私の脳裏に焼き付いて離れなかった。

私たちは豚や牛を殺し、その肉を当たり前に食べて生きている。

そこに罪悪感はない。

しかし、豚や牛を屠殺する現場を目の当たりにすると、必死に生きようとする動物たちの命を奪いながら生きている、人間という動物の在り方を知らしめられたのである。

新入社員研修が終わり、私は品川にある関東ミートセンターという職場に配属された。

スーパーや百貨店、食肉卸業社へ食肉加工された精肉や輸入冷凍肉、冷蔵肉等を販売する業務についた。

あの屠殺施設での研修以来、日を重ねるごとに教員になろうという思いが大きくなっていった。

問題は、教員免許を大学時代に取らずに卒業したため、退社して教員資格を取らなければ教員採用試験を受験できないことだった。

当時結婚をし、子どもが生まれたばかりで、親や周囲からはこぞって反対された。必ず教員になる保障はないのだから当然のことだった。

しかし、入社から1年と1か月後、4月末日をもって仕事上での引き継ぎ業務をすべて滞りなく終え、会社とは円満に退職した。親や周囲からの理解は得られないままだった。

教員免許状を取る期間、会社の上司から子どもの家庭教師を依頼された。ありがたい申し出だった。

私の生活の優先順位は、1番が家族の生活費を稼ぐこと。2番が教員資格をとること。3番目が採用試験勉強だった。

はじめて職安へ行き失業給付金の手続きをした。塾の講師をした。引っ越しのバイトやらいくつかのバイトをした。

一児の父親としてお金を稼ぎながら、資格取得と受験勉強の生活だった。

5月から教職科目履修の為に復学、6月に教育実習を行い6月末には教員採用試験を受験することができた。

ひと月あまりの受験勉強であったが、運よく一次試験、そして二次試験とも通過し翌年採用となった。

横浜市の中学校教員の人生が始まった。思い通りに全てが運んでいたが、次の試練はすぐに訪れた。

配属された中学校は大変な教育困難校だった。

暴行事件、シンナー、オートバイ、万引き恐喝、警察に逮捕された生徒もいた。

生徒指導に明け暮れた。生徒を指導しても毎日問題が起こり、荒れた状態はいっこうに収まらなかった。

生徒の生活の在り方、心の在り方を臨床的に考える学校教育の中に道徳教育という授業があった。

道徳教育の研修会へ参加した。私が道徳教育と関わるきっかけとなった。

研修会で学ぶ授業法は、現場で生かせなかった。

現場での道徳授業は形骸化していたからだ。

道徳の時間はスポイルされ、学活や行事にすり替えられていた。

なぜ教育計画通りに実践されないのか、どうしたら改善できるのか模索が続いた。

道徳教育の勉強会で研鑽を積むも、先輩教員達に注意や意見は出来なかった。

道徳教育を専門的に学ぶため上越教育大学で教鞭をとられていた押谷先生を訪ねた。

大学院へ公費派遣で進学することができた。中学校へ復職後も、道徳教育に携わり続けた。

道徳教育は私のライフワークになった。

「生きる喜びが見える道徳教育」それが私の夢である。