道徳教育論 -理論と実践-(2)
横浜市立大学非常勤講師 鈴木 豊
日本の道徳教育
Ⅰ部.日本における道徳と道徳教育
1.日本の道徳
日本人が日常生活の中で一般的に用いている「道徳」という用語は、単なるモラルや規範という意味だけではなく、個人における善悪の判断基準でもある。その場合の判断基準は法律のように強制力の伴うものではなく、個人における内面的な原理であって自律心でもある。
学校教育における「道徳」では、「人がより良く生きようとする生き方や在り方」としている。
人の生活の営みの中には、いつの時代においてもその時代・社会体制の中で「より良く生きようとする先人たちの生活の営み」が見られる。
いつの時代にも「日本人の道徳」が存在していたのである。
例えば江戸時代の日本人の「道徳」は、徳川家による幕藩体制の中で武士を支配階級とする封建制度が確立していた。
武士相互間の主従関係が確立し、武士と庶民階級である農工商人等との身分格差がはっきりと区別されていた。
武士の道徳は、「武士道」と一般に呼ばれるものである。
「武士道」における道徳的基盤として儒教が用いられ、朱子学が特に重んじられた。
儒教の徳目の中で、「忠義」という道徳的価値は、特に重要視された。
江戸時代の庶民の「道徳」は、「仏教や神道」といった日本の伝統宗教を基盤として形成されていた。
庶民は日常生活の中で、道徳的な「徳」を積むことを尊び、「徳」を積みながら生活する
修養の「道」としての「道徳」が形成されていた。
「道徳」という用語は、英語ではモラルmoralあるいはmoralityという単語が訳語として
使われている。
広辞苑には、「或る社会でその成員の社会に対する成員相互間の行為を規制するものとして一般に承認されている、規範の総体」と書かれている。
江戸時代における鎖国の時代、日本は世界との扉を閉ざしていた訳であるが、明治の開国に伴い日本は世界との扉を開け、交流が始まった。
西洋の進んだ文明を積極的に受け入れた結果、「文明開化」という用語に代表される西洋文明、科学文明の流入に伴い、西洋と日本との交流も活発に行われ、外国人技術者の招聘、海外への日本人留学生が増えていった。その結果、西洋諸国からの日本および日本人への認知度も高まった。
当時、西洋人たちから見た日本の文化、日本人は、神秘性をもって見られていたが、日本人の礼儀正しさや誠実で勤勉な姿勢などから、道徳性が高い国民として西洋諸国から評価されている。
西洋の人たちに対して、日本人の道徳である「武士道」について紹介した人物が新渡戸稲造である。
彼は日本の「道徳」を「武士道」というタイトルで、英語により出版した。
当時ヨーロッパ諸国の多くがキリスト教を道徳的基盤としていた人たちにとっては、道徳とキリスト教は表裏一体のものであり、キリスト教に拠らない道徳は考えられなかった。
東洋の有色人種が暮らす小さな島国で、道徳の高い国が存在することは信じ難いことであった。
アメリカの偉大な発明家エジソンは、活躍当時彼の研究所に日本人の青年が働いていた。
ある時、職場の机上にお金が無造作に置かれていたが、その日本人の青年は決してお金を盗もうとしなかった。盗まないことが、アメリカ人のエジソンには理解できなかった。
また或る時、エジソン達一行が移動中に暴漢に襲われた。その時、青年は暴漢たちを柔道で投げ飛ばし、撃退したのであった。
そうした出来事を通じて、エジソンは日本人という人種と国に、大きな関心を抱いていたのである。
新渡戸稲造の「武士道」という本を、エジソンも読んでいたそうである。
当時のアジア諸国は、現在の中国である清国を含め、次々と西洋の列強諸国によって植民地にされ、支配されていった時代である。覇権主義の時代にあって極東アジアの小さな島国の日本だけが唯一、西洋列強諸国に植民地にされなかったばかりか、短期間で国の近代化と富国強兵を成し遂げたのである。
とりわけ日清戦争、そして日露戦争での勝利は世界中の国々を震撼させたのである。
当時は白人優位の時代であって、劣っていると考えられていた有色人種が、はじめて白色人種の大国ロシアに勝利したのである。
有色人種への差別偏見が大きかった当時、白人である西洋の人たちにとって、「なぜ東洋の小国日本が、西洋の列強諸国と肩を並べる強さを持てたのか」「日本人の道徳の高さは何によるものなのか」等、日本という国と日本人の道徳性に対する関心は、高いものがあったのである。
現代においても日本人の道徳について、世界の人々を驚嘆させた出来事があった。
阪神淡路大震災や東北大震災は、まだ私たちの記憶に鮮明に残る出来事であるが、これらの大震災の様子は、リアルタイムで国内ばかりでなく世界中に配信された。
被災地の様子や、避難所における被災者の姿が世界中に配信された。
大混乱の状況下にあっても、混乱に乗じた略奪行為や犯罪行為がまったく起きない国、国民が存在すること、それは世界の驚きであった。
救援物資を我先に奪い合うことなく、困っている人を優先する人々の姿、秩序正しく列を作り、長蛇の中でも秩序を保ちながら、静かに順番を待つ被災者たちの姿は、日本人の道徳の高さへの賞賛の声として世界中から上がった。
日常生活の中においても、海外の人たちが驚ろく日本の道徳の高さを示す出来事がたくさんある。例えば、深夜の時間帯における若い女性の一人歩きや駅の待ち合い場所等に荷物を置いたまま、その場を離れても荷物が盗まれない国。財布や貴重品を落としても持ち主に戻ってくる国等々である。
これらは、世界の人々にとっては信じがたいことであり、日本を訪れた外国人が一様に口にする日本の道徳の高さを示す例である。
クールジャパンという流行語の中でも、「おもてなし」という用語が世界に広まった。
「おもてなし」の意味とする「人への思いやりの心」、それは日本人の美徳であり道徳でもある。
近年日本を訪れる外国人の急増は、観光だけでなく日本の道徳の高さにも関係している。
しかし、こうした日本人の道徳が本講義のテーマではない。
本講義で「道徳」を取り扱うわけであるが、講義内容は「学校における道徳教育」である。
学校以外での道徳教育には、「家庭における道徳教育」があり「社会(生涯教育)における道徳教育」等もあるのだが、道徳教育の力は総じて低下している。
そうした社会的背景から近年、学校と家庭と地域との3者の連携が重要視されている。
学校の生徒指導においては、上記3者に警察を含め、4者の連携が密に行われており、それぞれの頭文字をとって「学家地連」と呼ばれる全国組織がある。
「学家地連」では、地域ごとに代表者を集め、会議が定期的に持たれている。
しかし、道徳教育に関する上記のような会議はない。
連携がないばかりか、家庭、地域からの学校の道徳教育に対する関心はとても低い。
道徳は本来、学校の力だけで進められるものではない。
家庭や地域、社会の道徳教育も重要であり、学校教育が「人格の完成」を目標として行うことが教育基本法に定められていること考えると、人が生まれてから亡くなるまで、生涯にわたる道徳教育が必要であるといえる。
平成30年4月から日本の小学校において道徳の時間は、特別の教科「道徳」、道徳科という教科になった。
従来の領域という扱いから、教科という位置づけに格上げされた。
平成31年4月から、中学校においても同様に教科となる。
教科に変更されるということは、従来の「道徳の時間」に使用していた、副読本と呼ばれる教材から、国が検定した教科書に変わる。
各学校が独自に道徳教材を作成したり、市販の副読本から各学校が選定していた教材から、国の教科書に移行する。
加えて教科学習においては、学習成果に対する評価が伴う。
道徳科という教科においても、評価が行われるのである。
道徳科は、道徳性の育成を「ねらい」とする教科であることから、本来は児童生徒の「道徳性の向上」という視点から、評価が行なわれるものである。
しかし、「あなたの道徳性は4、あなたは2」などと、生徒の道徳性を数字で評価したらどうであろうか。
成績評定に「あなたの道徳性は5段階中の2」などという評定を実施した場合、人権の問題として取り上げられることも考えられよう。
また、道徳性というものは科学的に測定できうるのか、という問題もあろう。
文部科学省は道徳科の評価においては、「数値による評価は行わない」としている。
したがって道徳科の成績においては、「数字による評定は行わない」が、「評価」は行うのである。
具体的には、道徳科における道徳性の評価について、文科省は次のように示した。
「道徳科の授業における考え方の深まりや広がりに注目し、道徳性にかかる良さに焦点をあてながら文章記述で行う」こと、と学習指導要領に示された。
道徳という教科において、評価は行うのであるが教科の性質上、数字による評定はなじまないとしたのである。
過去において道徳の評価が数字によって評定されなかったか、といえばそうではない。
大東亜戦争以前の日本の尋常小学校や中学校において道徳は、修身と呼ばれる教科であったが、修身科において評定は「優良可」の3段階で行っていた。これは数字による評定である。
修身科の評定においては、日頃の操行や行動の様子も含めた形で評価し、各教科の中でも最も重視された教科であった。
現行に於いては、児童生徒の道徳性に関わる学習状況を、数字を用いて評定することは個人の人格や人間性に深く係わる評価であることも踏まえると、好ましくないとsだれている訳である。
しかし、道徳科における学習である以上は、学習成果や学びの程度について適切に評価しなければならない。
道徳授業における学習成果や個々の児童生徒の学びの程度について、如何に妥当性客観性をもって評価するか。文章を用いて評価するとしても、どのような観点から、どのような方法で、どのように評価するのか。基準や規準を明確に示すことはできるのか、等々こうした幾多の問題が残っているのである。
道徳科における評価については、現状まだしっかりと確立されていないといえよう。
今後の道徳教育の発展や充実のためには、道徳科における学びの程度を、客観性や妥当性をもって、如何に適切に評価することができるのか、等の改善が求められる。
道徳科の評価がしっかりと確立できていない現状であるにも拘わらず、今なぜ教科に格上げになったのか、その答えの一つが、日本の社会が学校での道徳教育の充実を強く求めたからである。逆に考えると、日本の学校内に道徳的問題が生じているからである。
その問題が、「いじめ」である。
いじめの対応については、当初の社会の認識は「学校と家庭で解決すべき問題である」という認識だった。
しかし、いじめ問題は学校内で解決できないことも多くあり、いじめによる自殺者を何人も出すに至った。そこから、いじめの問題は学校と家庭の力だけでは解決できない問題であると、認識したのである。
いじめの問題は文部科学省の管轄する問題から、日本の政府が直接管轄する問題として取り上げられたのである。
そして政府の出した対応策、それが「道徳の教科化」ということだったのである。
今の日本社会で起きている道徳的問題は、「いじめ」だけではない。
「インターネットによる問題」から「規範意識の低下」、「犯罪の低年齢化と凶悪化」等々、広範囲におよぶ。
道徳に関わる問題は、大人社会でも同様に多発し、政治家の汚職問題から差別発言、倫理的問題、パワハラ、セクハラ、ストーカー事件等々道徳の低下を示すニュースが流れ続けている。
人の生命に関わる道徳的問題では、延命措置の問題から中絶、受精といった医療倫理の問題、その他に大企業による談合等の職業倫理の問題もある。
談合事件などには、企業の利益優先主義の考え方が根底にある訳であるが、民間企業では、本来「儲けること」が最優先に求められる訳であり、赤字は許されないのである。
赤字は企業の倒産を意味するわけだが、だから儲けるためには何をしても良いのか、消費者を騙したり、うそをついても利益を上げれば良いのか、等々そうした道徳的問題が存在する。
しかし、そうした道徳的問題もまた本講義で扱う内容ではなく、本講義の問題は、学校の道徳教育の考察にある。
教職課程に在籍する学生が中学校の教壇に立った時に、「道徳科の授業」を自信をもって実践する力を身に付けること。
「道徳科」に関わる職務能力を養成すること、そうした点に主眼をおいている。
したがって本講義の後半において「道徳授業の指導案つくり」を行い、講義終末においては、各学生が作成した道徳指導案に基づいて道徳科授業として、「模擬授業」を各自が行う。授業評価等を互いに評価仕合う活動を通して道徳教育における実践力を身に付けてく。
学習指導案とは、学校教育現場で用いる学習指導計画のことで、教員は誰もが何回も何十回も作成する授業プランである。
大学には、シラバスと呼ばれる年間教育プランがあるが、年間計画に基づいてさらに具体的な各時間における授業計画が、学習指導案である。
学習指導案は一面、演劇における脚本に用途が似ているが、学習指導案と脚本との大きな相違点としては、脚本が演技のすべてを決められていることに対して、授業案はそうではない点である。
演劇は役者から観客への一方向のベクトルとして組み立てられるが、授業は先生と生徒の双方向からのベクトルの交流によって組立てるものだからである。
教科学習に比べると、道徳の授業はさらに計画案通りに展開しないことが多い。
それは、道徳の「問い」質問に対応する正解というものが、一つの解答だではなく、正解そのもののない、生徒の考え方を発表することに起因する。
したがって、道徳授業の指導案では他教科の場合とは異なり、正解というものがなく、生徒の予想される考え方を想定しながら、「問い」である発問や授業の構成を組み立てていく。この作業は現場の熟練した教師にとっても骨の折れるものである。
教師は道徳の学習指導案を作成する際に、予想される生徒の考えを想定しながら「問い」を作成する訳であるが、勿論イエスかノーか、という単純な問いではなく、そう判断するの生徒の考えを想定しながら、問いを構成し、最終的には授業のねらいを達成するための授業として構想するのである。
諸君たちが指導案作成に入る前の段階で、参考資料として実際学校の授業で使用した指導案や教師によるモデル授業等を、本講義内において提示する予定です。諸君が指導案作成や授業実践に向けて取り組む際の参考にしていただきたい。
道徳の授業は、現場で何年も経験を積んだベテラン教師でも不安を感じるものである。
理由のひとつに、道徳授業の実践不足があろう。
従前、道徳の時間は学活に流用されたり、ビデオを見せて終わった、という例がたくさん報告されていた。
それは、教員の問題だけではなく学校経営にも問題がある訳だが、道徳の授業のスポイルという状況が、現状の授業力の低下という後遺症を生む結果につながっている。
しかし、道徳時間の教科化の流れの中でこの後遺症も徐々に解消されるであろう。
従前の現場教員には、専門教科におけるプロ意識はあるが、道徳教育については専門外という言い訳的意識が蔓延し、自ら進んで勉強しようとする意欲に欠けていた。
例えば、学習指導要領「道徳編」をまったく読んだことがない教員や、道徳教育の「内容」を全く知らない教員がいたり、大学の「道徳教育論」の講義の中でも、学習指導要録をまったく学習することなく教員になった者が多くいたのである。
現職の教員であっても、「道徳」についての知識がまったくない教員に対して、「道徳の時間」には、文部省が示している学習内容があるということから、説明していた記憶がある。
教員を対象とした道徳研修会の中で、私は道徳教育の内容について次のような説明をしていた。
「私は理科の教員です。私が中学校の理科の授業を行う場合に、理科の授業を個人の恣意的な内容だけを行ったり、科学的な内容という理由だけで「授業を行って良いのか」といえば、そうではない。中学1年時に教える学習内容、2年時、3年時に教える学習内容について、細かく学習指導要領に書かれています。つまり中学校の理科授業で教える学習内容は、文部科学省によって定まっており、学習指導要領に書かれています。
教科とまったく同様で「道徳の時間」の学習内容についても、学習指導要領に書かれています。
「学習指導要領」には、「法律としての効力」がある訳ですから、文部科学省から告示されると、文部科学省の管轄下にある「学校」は、学習指導要領の内容の遵守義務があります。
内容に反する行為は、公務員の義務違反であり、当然分限処分の対象である訳です。
公立学校においては、学習指導要領から逸脱することは許されないのです。」
等々の内容を伝えていた記憶がある。
学習指導要領は、学校の教育内容だけでなく学校運営上の規定等、教育活動での事柄すべてを網羅する形で細かく示されており、日本の義務教育を理解する上では、必要不可欠なものである。
したがって、本講義においても「中学校学習指導要領解説 道徳編」を用いて、日本の学校教育における道徳教育についての理解を深め、道徳科授業の理論と学習指導要領に則った道徳授業力の育成を図るものである。