道徳教育論-理論と実践-(4)
横浜市立大学非常勤講師 鈴木 豊
3、道徳性の基盤をなす内面的な原理、「良心」と日本人の恥の文化について
道徳を、個人の内面的な規範意識の原理として捉えたものに「良心」というものがある。
「良心」という心は、自身の内面において、悪を規制する道徳律である。
この良心と同様に、日本人の心には悪を規制する道徳律として、「恥」という文化があることが認められている。
日本人の「恥の文化」ということを、はじめに述べた人は、アメリカの文化人類学者ルース、ベネディクトである。
彼女は太平洋戦争後、アメリカによる日本統治を円滑に行うために、合衆国政府から日本人の精神構造を分析することを目的として、派遣された心理学者である。
日本人の精神性について、歴史上はじめて外国人の視点から学術的に分析した人である。
「菊と刀」という彼女の著書(注1)の中で、彼女の分析結果が述べられている。
そこには、日本人の行動様式には「恥をかかない」とか、「恥をかかせる」という言葉に代表されるように、日本人は常に周りの人や、他人を意識する心が強く存在していて、常に周りの人と自分との比較において、自身を守ろうとする心が働いていることを指摘している。
その心の現れが、「恥をかかない」ように行動するという、日本人の傾向性をもたらしていると指摘した。
この傾向性からベネジクトは、日本人には「恥の道徳律が内面化している」と述べ、
それが日本人の文化を特徴づけている、と語っている。
日本人に対して、アメリカ人やヨーロッパ人の文化の特徴は、「恥の文化」に対して、「罪の文化」であると述べている。
「罪の文化」の特徴は、キリスト教を根幹とする思想から生じていると指摘し、神が定めたキリスト教の教え、戒律を破ることによって生じる罪悪感が、常に心を支配している。こうした心の傾向性を「罪の文化」であると、述べている。
これらの文化によって生じる心の在り方は、「良心」と同じように、人間の行為を内面から規制する規範意識であり、それも道徳なのである。
つまり、日本人は無意識に、周りの人が私をどう評価するかを考える傾向性がある。
ルース、ベネディクトが指摘した、「恥の文化」に代表される日本人のこうした傾向性をユーモラスに語った逸話がある。
その逸話とは、「沈没直前の船の甲板から、乗客が海面へ飛び込むとする場面の話」で
ある。
船上の甲板から、海面まで何メートルもの高さがある。海に跳び込むのには、ちょっと
した勇気が必要である。
勇気を振り絞って海に跳び込むとき、西洋の人たちは「名誉とかプライド」ということを
強く意識した言動を発して、海へ跳び込む人が多い。
それに対して日本人は、「周りの人は、みんな飛び込んだぞ」と言うと、すぐに飛び込
むというのである。
この逸話は、日本人は周りの人を意識して、自分が臆病者と言われないための意識が働いた行動である。
現代の日本人にも、周りの人と同じような服装、同じような振る舞い、周りの人との、違いを嫌う傾向が見られるのである。
こうした、日本人が人との違いをできるだけ避けようとする、傾向性の本質を、日本人の「恥の文化」に照らして考えると、理解できよう。
ルース、ベネディクトが指摘する日本人の「恥の文化」は、日本人の道徳律であり、そのことは同様に、国民性によって道徳律には異なる部分があることが理解できる。
道徳は人としての生き方であり、在り方である。
自分が行為を行う前のプロセスにある、決心、決意といった、自己の意志を決定する段階で、「善悪を判断する理性」の働きによって正しい行為を認識していたとしても、エゴイズムによる内面葛藤が生じるのである。エゴイズムに打ち勝つためには、良心という自律的な規範、道徳律の形成が重要であり、それが道徳教育の中核をなすものでもある。
「道徳教育」とは、「エゴイズムとニヒリズムからの脱却を図る教育である」とは、私の恩師である朝倉哲夫先生の言葉であるた。
ニヒリズムとは「虚無主義」と呼ばれ、世の中や社会のすべてのものに価値を見いだすことなく「すべてのものに意味がない」といった、すべてのものの価値を否定する考え方を指す用語である。
道徳は内面的な、より良い道徳的価値規範の確立を目指す教育であることを考えると、朝倉先生が言わるように、人間の心に宿るエゴイズムやニヒリズムからの脱却と、良心の形成ということが、道徳教育の目ざすものであろう。
引用・参考文献
(注1) 定訳 菊と刀 日本文化の型〈全〉 ルース・ベネディクト 長谷川松治訳
現代教養文庫500 (株)社会思想社 1994年 初版第97刷発行