道徳教育論-理論と実践-(5)
横浜市立大学非常勤講師 鈴木 豊
4、幸福(幸せ)と道徳について
人間は、生きている中で「幸せ、幸福になりたい」という願望を誰もがもつ。
ヒルティというスイス人は、「人間はだれ一人として幸福を求めないものはない。ただ、幸福の内容はどんなものか、またいったいこの世で幸福は見出せるかどうかという点で、人々の考えが一致しないだけである。」と述べている。
彼の書いた「幸福論(注2)」という著書の中で、「幸福」について、次のように述べている。
「人類が幸福を求めるこれらの道は、外的なものには、富、名誉、生の享楽一般、健康、文化、科学、芸術などがあり、内的なものには、やましくない良心、徳、仕事、隣人愛、偉大な思想と事業にたずさわる生活などがある。」と述べている。
人間は生活の中で、こうした多岐にわたる内容において目標を持ち、目標が達成できた時に、心が満たされ、満足し、「幸せ」「幸福」を感じるのである。
しかし、目標が満たされないときには、心が不満足であり、「苦しみ」を伴うのである。
人は、目標や夢を実現させるために「努力」という道徳的価値を尊び、目標が達成できるまで努力を続ける。目標が達成出来るまで、絶対に諦めない。
「根性」という言葉は、こうした心根を表現した言葉である。
しかし現実には、努力しても努力しても、個人の努力では叶えられないこと柄がたくさんある。
人の願い目標の大きさ、現実の自分との差、そのギャップが大きければ大きいほど、人の苦しみや辛さは、比例して大きなものとなるのである。
幸福という喜び、達成感、充実感という感情の対極には、苦しみや悲しみ、不満足、絶望感という感情がある。
目標を達成したときに生じる達成感や充実感という感情は、その過程における努力とつらさ苦しさが、大きければ大きいほど、逆に達成出来た時の喜び、達成感、充実感という感情も、比例して大きなものとなる。
学校現場では、子ども達に自身への自信を持たせ、自尊感情を育成する取り組みを重視している。
具体的な取組としては、部活動や自然教室、体育祭、文化祭、学校行事である。
そうした取り組みを通して、子どもたちの自身への自信を育て、自尊感情を高めるために行事の「ねらい」を具体的に定め、計画した行事等がさかんに行われるのである。
子どもたち側からも、行事における目標を立てさせ、目標を達成するために計画し、事前準備が行われる。
準備期間における子どもたちの取り組みが、大きければ大きいほど、努力の大きさが、目標を達成した時の喜びの大きさ、充実感、達成感の大きさとなるのである。
ひいては、子どもが自身への自信を深め、自尊感情を高めるのである。
行事への準備期間、行事内で、いろいろな人間関係での問題が生じるのであるが、そうした問題や失敗もまた、子どもが成長するための糧なのである。
子どもは、失敗や挫折を乗り越えていく中で、人間関係や成功への足掛かりを学ぶのである。行事における失敗や挫折もまた、貴重な豊かな体験でもある。
しかし、人の人生にはどんなに努力しても達成不可能な、人間の計らいをはるかに超えた出来事も生じるのである。
それまで努力してきた自己の願いや望みが一瞬で絶たれ、人間の力では、どうすることもできない、人間の力をはるかに超えた問題や壁が生じることが起きるのである。
例えば、仏教の教えに四苦というものがある。「生老病死」という人間が誰でもがいつか抱える、四つの苦しみである。
「生まれる苦しみ」、「老いる苦しみ」、「病気の苦しみ」、そして「死ぬ苦しみ」である。
これらは、いずれもが、人間の計らいをはるかに超えたものである。
「死」というものは、誰もが最も避けたいものである。
しかし、いつか必ず死という現実が、突如として自分の前に立ちはだかるのである。
それをもたらす病気に、癌がある。
医者から死の宣告をされるが、誰もが死を受け入れられず、「生きたい」という強い願いを抱くのだが、癌との戦いは多くの場合、どんなに努力しても、その努力は実を結ばないのである。
これほど願望と現実のギャップが大きなものはない。
苦しみの大きさは、ギャップの大きさに比例して大きなものである。
末期癌の場合、最近お医者さんの多くは患者さんに死の宣告である、「余命宣告」を行う。余命を充実していきるための配慮でもある。
「あなたの命は、あと半年です」、抗がん剤を使わなければ、「あと三ヶ月です」。
私の妻の実体験である。
13年前、妻は私と一緒の席で、お医者さんから、余命半年という告知を受けた。
自分の死が現実化すると人は、はじめに虚脱現象が襲い、次に絶望や怒り、そして苦しみ悲しみという感情を抱くと説明される。
では、末期癌患者さん達は苦しみ悲しみの感情の中で亡くなっていくのかといえば、
そうとも言い切れない。
周囲の人たちへ感謝し、笑みをたたえながら亡くなられるかたもいる。
死を受け入れられた人とは、生きたいというという願いがなくなり、願いと現実とのギャップが無くなるのではなく、一日一日の命に感謝できる境地に達した人なのです。
人は、死によって肉体の命は終わるのですが、死後の世界の中に「生きる」確信を得たのかもしれません。ソクラテスは魂の不滅を述べています。
死者を出しているご家族の人たちにとっては、亡くなった方は無になるのではなく、いつも心の中に一緒に生きているのです。
私の心の中にも、いつでも亡くなった妻がおります。
道徳教育は、自己の生き方在り方である訳ですが、人や社会との関わりにおける「生き方在り方」について考えることと共に、「祖先や先人たち」、亡くなった多くの方たちや仏様、神様との関わりにおける「生き方在り方」について考えることも、道徳教育にとっては、とても重要だと思います。
(注2) 幸福論(第一部)(第二部)(第三部) ヒルティ著 草間平作訳 青638、3
岩波文庫 (株)岩波書店 1993年 第73刷発行