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特別の教科「道徳」指導案

道徳教育論-理論と実践-(8)

2019.06.02 03:30

                         横浜市立大学非常勤 鈴木 豊

7.日本における道徳教育の歴史

(1)江戸時代の道徳

 江戸時代の教育を「道徳」という視点から考察する。

江戸時代は、武士中心の身分制度が確立していた時代である。支配階級の武士と庶民である農・工・商人という上下の身分が確立していた。

幕府は武士を支配階級とする体制秩序を維持するため、孔子が唱えた道徳・教理を体系化した教えである儒教を武士教育の基盤とした。そこで、武士の子弟に儒教教育を徹底して行った。

孔子は戦国時代にあって、武力によって他者を支配しようとした覇道を批判し、君子の徳によって政治を行う王道を主張した。支配者が徳をもって庶民を支配する仁道政治と君臣における人間関係である忠義が重んじられた。

儒教で重要とされる書物は、「四書五経」である。四書とは、「大学」「中庸」「論語」「孟子」であり、五経とは「易経」「書経」「詩経」「春秋」である。その中において、「論語」は日常の実践倫理を述べているものであるが、道徳教育に特に深くかかわるものである。

儒教(朱子学)における道徳には、五常(五徳)といわれる5つの徳目(仁:相手を思いやり愛すること・義:利欲にとらわれず恩に報いること・礼:相手に敬意をもって接すること・智:善悪を判断する知恵・信(=誠):嘘をつかない、言葉と行動の一致)を重んじた。

5つの徳をもって五輪(父子・君臣・夫婦・兄弟・友達)と呼ばれる5つの人間関係における道徳律が重視された。(父子の親:父と子の間は親愛の情でむすばれなくてはならない・君臣の義:君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない・夫婦の別:夫には夫の役割、妻には妻の役割がありそれぞれ異なる・長幼の序:年少者は年長者を敬い従わなければならない・朋友の信:友は互いに信頼の情でむすばれなくてはならない)

江戸時代の教育は、武士の子どもと庶民の子どもとで区別されていたが、当時の道徳は、主君に対する「忠」と、親に対する「孝」という儒教思想が重んじられていた。

仏教、神道といった日本古来より続く宗教もまた、当時の日本人の道徳思想に大きな影響を与えていた。

 「子どもは時代の映像であり、社会の反映である」という言葉があるが、江戸時代の武士社会では、儒教が大きな役割を果たしており、武士における最大の道徳は主君に対する忠義であり、主君に対してひたすら奉公の誠を尽くすことが求められた。

 また、封建体制は家族における家制度を土台として構築され、家父長制は庶民階級にも色濃く浸透していた。

子どもは、一人の人格をもった独立した人間ではなく、「家」の一構成員であり、家長である父親を頂点とした個々の家は、家族という社会を構成する最小の集団であり、縦型社会を構成する小集団であった。

 子どもは、「子供」という漢字が示すように、「子は親に供する存在」であり子は親の従属者であった。子どもは親に対して無限の従順と孝行を尽くすことが要求された。子どもの結婚相手は、家の繁栄のための手段として用いられ父親が決めた。

家族内においても上下の主従関係が固定化されていた。

男尊女卑の観念が浸透していた。夫は主人であり妻は従者であった。

夫婦が離婚する場合、夫側から妻を離縁することは容易で、離縁状といわれる「三行半」という書状だけで成立した。しかし妻側から夫と離縁することは難しく通称、縁切り寺と呼ばれた駆け込み寺へ逃げ込み、2~3年の修行を積むと離婚が成立した。

女性は、こうした手立てでしか離縁することができなかった。

北鎌倉にある東慶寺は、江戸時代縁切り寺と呼ばれ、離縁を望む女性が駆け込んだ寺である。

兄弟であっても兄は長であり弟は幼という立場にあり、そこには「長幼の序」という先輩後輩の間の礼があった。

子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむという、儒教の教えが社会に浸透していた。

江戸時代は徳川将軍を実質的頂点とした封建的な身分社会であり、支配階級であった武士と農工商人等庶民階級の子どもとでは、学習する教育機関も異なっていた。

 武士は各藩が、武士の子どもの教育を目的として設立されていた藩学校へ通い、庶民の子どもは寺子屋と呼ばれた塾に通った。

藩学校においては儒教を中心に、支配者階級としての教養と、常に戦いに備えた剣術等の訓練が行われ、文武両道教育が行われていた。

武士の男の子には、極めて鍛錬的な教育が行われ、家庭においても礼儀作法や言葉づかい、日常生活におけるふるまい等々、厳しい「しつけ」が親や祖父母からなされた。

 全国の藩に設置されていた藩学校は、幕府の学問所を模した形で作られ、各藩士の教育を目的として設置されていた。

幕末維新期における全国の藩学校の数は、二七〇校ほどに及んでいたと文部省編「学制百年史」に記載されている。

 藩校の教育内容は、一般的には儒学を中心として国学や歴史、習字、作文等であり礼儀を課していた藩もあった。

儒教の中でも、特に論語を重要視した明治期の大実業家である、渋沢栄一は「論語」について彼の著書「論語講義」(渋沢栄一著、講談社学術文庫)の「論語総説」の中で、次のように述べている。

「儒教を奉ずるにしても、大学もあり中庸もあるにこれを捨て、独り論語を選んで遵法するは、何ぞやといわるる人もあらん。余が論語を選択して一生恪循かくじゅん すべき規準となしたるは、大学はその開巻第一に名言するがごとく治国平天下の道を説くを主眼とし、修身斉家よりもむしろ政治に関する教誨きょうかいを重しとしている。中庸はさらに一層高い見地に立って「中和を致し、天地位くらいす。万物育す」などの悠遠なる説があって、哲学に近く、修身斉家の道には遠ざかりおるがごとし。しかるに論語に至っては、一言一句ことごとくこれ日常処世上の実際に応用し得る教えである。朝にこれを聞き夕べにこれを実行し得る底ていの道を説いている。これ余が孔夫子の儒教を遵奉するに当り学・庸に拠らず、特に論語を選び拳拳服膺けんけんふくようして、終生あえてあるいはこれにもとらざらんことを期する所以である。余は論語の教訓を守ってゆけば、人はよく身を修め家を斉ととのえ、安穏あんのん無事に世を渡って往けるものと確信するのである。」

と述べている。論語学而がくじ篇へん十六章のうち、第一章を引用する。

(渋沢栄一「論語」の読み方 “人生の算盤”は孔子に学べ 竹内均編・解説 三笠書房 p18・19)

「子し曰いわく、学びて時にこれを習う。また説よろこばしからずや。

朋とも遠方より来たるあり。また楽しからずや。

人知らずして慍いきどおらず。また君子ならずや。

この項は人の処世上最も大切な教訓であるので、これを「論語」の冒頭に掲げている。

三文節に分かれ、互いに関係がないように見えるが、密接に関連している。

「学びて時にこれを習う。また説ばしからずや」とは、学問をして、それを日常生活の中でいつも自分のものとして復習練習すれば、その学んだものはすべて自分の知識となり、物我一体の境地に達する。これが知行ちこう合一ごういつである。よろこばしいことだ。

「朋遠方より来たるあり」とは同学同志の友が、近くの者だけでなく、遠い地方の人までも、自分を訪ねて来て、ともに切磋琢磨すればますます進歩する。また自分が学び得たものを友に伝え、その友はさらにこれを他に伝え、転々として善を多数の人に及ぼすことができれば、これまた楽しいことではないか。

自分の学問が成就し、立派になったのに世間が認めてくれないこともあるが、人をうらまず、天がとがめず、ひたすらにその道を楽しむのは、徳の完成した君子にしてはじめてできることである。これが「人知らずして慍いきどおらず。また君子ならずや」の意味である。

私は今日まで「論語」のこの教訓を肝に銘じてきた。自分の尽くすべきことを尽くしてさえすれば、たとえそのことが人に知られず、世間に受け入れられようが入れられまいが、いっこうに気にせず、けっして、慍いきどおるとか立腹するとかいうことはせずにきたつもりである。いまの若い人ははたしてどんな感想を抱くだろうか。

「論語」の教訓は簡単にこれを紙上で論評したり、またはこれを尊い教訓だとしながらも生かさずに放っておいて、敬遠主義をとり、得手勝手をいう人が多いように思われる。これは私が大いに残念に思っているところである。

孔子の教訓は、二千四百年前でも二千五百年後の今日でもかわらず実行できる、わかりやすい教えである。墨子の〈兼愛けんあい説〉、楊子の〈自愛説〉や老子・荘子の〈無為説〉などは、いかにもおもしろく感じられ、たしかに真理を含んでいるに違いないが、さてこれを実行しようとすれば、どこかに差し支えを生じて行き詰まるが、孔子の教えは一方にかたよらず万人が納得して実行できるものである。」

有力な藩においては幕末期、藩校において蘭学や英学、西洋数学、欄医学、航海術、洋式の砲術や錬兵を課す藩校も現れ、江戸や長崎の学問所へ師弟を留学させる藩もあった。

 武家の一般的な女子教育は、八代将軍松平定信の言葉通り、「女はすべて文盲なるをよしとす・・・・・・学問などいらぬもの」、女性の学問の必要性を全く認めていなかった。

 女性蔑視の風潮は明治時代になっても、色濃く影を落としていた。

しかし、士族階級の女子は「無筆文盲」は許されず、各家庭で四書(儒教の経典である大学・中庸・論語・孟子)、あるいはそれ以上の学問を学ぶ女子もいた。

 武家の女子は服従、忍従の精神を養うために「粗末に育てることが良い」、と考えられていた。従って食事において、男の子にはおいしいところを、女の子には切れ端を、というように、余り物や屑をあてがわれることに日頃から慣れるように、しつけられていた。

また、女の子の行為や言動においても、男の子のように親から配慮されることはなく、取り合わないことも多かった。女は男よりも一段劣る存在であるという、差別意識が色濃く浸透していた。

 庶民の子どもの教育機関であった寺子屋は、明治期における近代小学校の基盤となった。明治期の日本の近代化を、短時間で成し遂げられた背景には、寺子屋が国民教育の基盤を作ってきた意義はとても大きい。

寺子屋の施設を小学校として再利用した学校もあった。

寺子屋の誕生は、江戸時代の商業の発達を背景にしていた。

特に商人は、読み書きそろばんといった日用的に教育の必要性に迫られていた。

また、ある程度の年齢に達した子どもは丁稚奉公に出されていた。

こうした庶民からの必要性、要望によって寺子屋が設立されていったのである。

幕末には全国で数万になっていたと推定されている。(文科省学制百年史)

寺子屋はその言葉が示すように、その始まりは、寺で子供を教える塾として、寺院内で行われていた。

もともと寺院では、後継者となる僧侶の教育が行われているが、僧侶ではない俗人や子弟の教育も行われていた。

その後、庶民の子供たちに読み書きやそろばんを教える目的で、寺子屋が急速に発展し、寺子屋という名称で、庶民の教育機関として確立していったのである。

一部の寺子屋の施設は、明治時代に入ると政府が発布した学制により、学校としてそのまま活用された。

寺子屋という教育機関の設置は、幕府によってなされた訳ではなく、庶民の要望という、民間から自然発生的に成立した点は、特筆されるところである。

 寺子屋で教える先生は師匠と呼ばれ、初期の頃には神官や医者、僧侶が多かった。

その後、特に江戸末期には浪士が自己の生計の糧として開設されるものが多くなった。

こうして、庶民や武士が経営する寺子屋の数が急速に増えていったのである。

一般的には庶民経営の寺子屋が多かったが、僧侶経営の寺子屋や武士経営の寺子屋も混在していた。

 寺子屋に入学することは、「寺入り」と呼ばれた。

寺入りの時期は特に決められていなかったが、早い者で5歳、普通は男女とも6歳が多く、9歳を過ぎると遅過ぎるようであった。

卒業はなく寺子屋を辞める年齢は、男子の方が少し早く、11歳から13歳頃までに多くの者が退学し、女子は12歳から14歳頃に退学していた。

 寺子屋の教育は、男女共学の単級指導で行われていた。

儒教の教えである「男女七歳にして席を同じうせず」が守られ、男女の席は分かれていた。長机が教室に並べて置かれ、一人の師匠が30~40人の寺子を教えていた。

大きな寺子屋では、200~300人の寺子を教えていた。(唐澤富太郎著作集1児童教育史(上))

 寺子屋の教育内容は、あくまでも実用的な読み書きそろばんを教えるものであったが、町人からの要望で、帳簿の記入から手紙や書簡、計算なども教える寺子屋もあった。

寺子屋は、「手習い所」と呼ばれ、師匠は「手習い師匠」と言われるほどに、習字を中心とした教育が行われていた。

 寺子屋における師匠と寺子の関係は厳しい反面で、情愛にあふれる関係であった。

次のような体験談がある。(注)

「手習ひの最中余所見(よそみ)をしたりすると、お師匠さんの棒が頭上へ来ようといふので、其の棒は長いもので、突端に紙布で包んだ球が付いて居た。お師匠さんは高い所から見張つて居て、怠ける子供の頭を此の棒で一寸軽く打つのである。お師匠さんには優しい人もあり、やかましい人もあり、殊にやかましかつたのは雷師匠といふ名で、其の雷名は近所に轟いたもので、お弟子の子供達を戦慄せしめたものである。私も心正堂といふ雷師匠の処へ暫らく通学した事がある。

一、二度直して貰(もら)つてなお拙劣(せつれつ)な字を書くと、煙管(キセル)でゴツンとやられる。これが子供心になかなかこはかつた。又余り怠けたり、喧嘩などすると鞭で打たれたり、重いのになると机を高く積み重ねゆらゆらする上に乗せられ、左手に火をつけた線香右手に水を満たした茶碗を持たすというやうな、滑稽味の多い処罰にあふものもあつた。

又留置をお留めといつて、遊び盛りの子供にはなかなか辛かつた」、という体験談もあ

る。

この留め置きでは時間外に拘留される者もあり、留め置きにされた者は、近所の者がも

らい下げに行くとか、あるいは師匠の妻女がわびを入れて許されるということが、常で

あった。

罰は、「食止」といって昼食をさせないとか、教室や便所を掃除させるなどもあった。

最も重い罰には、破門、すなわち退学があった。

こうした、寺子屋では厳しい体罰が子供に科されていたのであるが、師匠は子供の親

から尊信され、子弟教育のすべてを託されていた。

時には子供が、鞭で打たれて血を流すことがあっても、親は感謝の意を表していた。

 善行のあった者には賞が贈られていた。欠席の少ない者や清書の優秀な者、通読の優秀

な者などには、褒賞として筆墨や清書双紙、幼年の者にはお菓子、賞状を与え名前を教

室に張り出す等が行われていた。

また年中行事として、寺子たちのレクリエーションも兼ねた七夕祭や五節句、天神講、

文殊講などが行われていた。

わらべうたの「通りゃんせ」の歌詞(注)でうたわれているように、天神さまを祀る

天神信仰と寺子屋との結びつきは深く、寺子屋ばかりでなく藩学校でも孔子と共に天神

像が祭られ、広く尊崇された。

寺子たちは寺入りの時には、「祀り奉る天満宮」と唱え、誓いを行い、悪いことをし

たときには、天神様の前で謝らせられるという具合であった。(唐澤富太郎著作集1児童教育史(上))

(注)引用・参考文献

唐澤富太郎著作集第1巻 「児童教育史」 -児童の生活と教育-(上)

平成4年初版発行 著者 唐澤富太郎 発行 (株)ぎょうせい

文部省編「日本教育史資料」

「通りゃんせ」の歌詞:通りゃんせ通りゃんせ

ここはどこの細道じゃ

           天神様の細道じゃ

           ちっと通して下しゃんせ

           御用のないもの通しゃせぬ

           この子の七つのお祝いにお札を納めにまいります

           行きはよいよい帰りはこわい

           こわいながらも通りゃんせ通りゃんせ

「儒教とは何か」 著者:加地伸行 発行所:中央公論社

1993年8版

「論語」 2007年第16刷 訳注者:金谷治 発行所:岩波書店

「(新訳)大学・中庸 自分を磨いて人生を切りひらくための百言」

2013年第1版第3刷 編訳者:守屋洋 発行所:(株)PHP研究所

渋沢栄一「論語」の読み方 渋沢栄一著 竹内均編・解説 三笠書房