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特別の教科「道徳」指導案

道徳教育論-理論と実践-(11)

2019.06.02 03:42

                      横浜市立大学非常勤講師 鈴木 豊

Ⅱ部 学校における道徳教育

1、原体験を道徳教育に活かす

(1)原体験とは何か

 原体験という用語そのものの意味は多様である。幼児期における、五感を通した体験だけに意味を限定したものから、その人の思想や信条を方向付けた体験として幼児期だけに限定しない場合もある。

しかし、いずれにおける解釈においても共通している部分は「今の自分が形成される上で、基となっている体験である」。

 「原体験を道徳教育に活かす会」における「原体験の定義」では、「自分の生き方を方向付けるような体験」としている。

 人は一生の中で、生き方を方向付けるような体験を何回かする。

そうした「原体験」は、一生を通じて一回だけの普遍的なものとは言い切れない。

したがって、「原体験を道徳教育に活かす会」は、原体験の時期を幼少期だけに限定していない。

青年期以降においても「生き方、思想、心情を方向付けるような体験」をする場合もあるからである。

「原体験を道徳教育に活かす会」では、「自分の生き方を方向付けるような体験」、言い換えれば、「原体験」を道徳教育に生かす取組を続けている。

しかし、その取組は学校現場においてすでに部分的には行われている。

「平和教育」において広島で原爆を自ら被爆された語り部さんの体験談を聞いたり、「人権教育」において部落差別の実態について自らの体験談を聞いたりする等の学習である。 あるいは学年や学校集会の時において、自らの体験に根ざした「講話」という学習が昔から行われている。

 「原体験を道徳教育に生かす会」では、「原体験」を「講話」という形態だけでなく、「原体験による道徳授業」という形での指導方法に取り組んでいる。

「原体験を道徳教育に生かす会」では、「原体験による道徳授業」を複数回、中学校で実施し、その成果を日本道徳教育学会等で発表している。

 道徳授業において「原体験をどのように活用するのか」という点については、多様な活用が考えられるが、いずれの場合においても意義を見いだすのである。

道徳授業で扱う場合には、まず自らの原体験に含まれる道徳的価値を考え、当てはまる徳目を調べ、内容項目を決め、読み物資料化としての活用方法から導入段階、あるいは終末段階での活用等が主に行われている。

(2)原体験を活かした道徳授業の意義

 原体験を道徳授業に生かす教育を創始した上憲治の述べている「原体験の意義」を紹介する。

 「原体験の道徳教育」は、伝えがたい道徳的価値を心に響く一つの手段として提案するものである。道徳の時間は、学習指導要領の内容や価値と指導案の形式によって作成された指導案によって行われるが、これに必要なのはそのエンジンである。

 現代の道徳の時間の経営においてはこの力が十分でないことが課題ではないかと考えられる。道徳教育の内容は価値という他教科とは違う特質である。

 価値は定義できないとか、価値表現は何もいっていないというように、価値は科学的概念のように伝えられないとされている。

道徳的価値を伝えるためには道徳教育独自の教授法が求められるのである。

 原体験の道徳教育は、そうした道徳的価値のもつ特性を総合的に伝えることができる有効なものであると考えられる。」

「原体験と宗教」

ブログではいくつかの宗教的な体験が掲載されています。

それらが宗教的であるか否かについては、宗教が何であるかを論じなければなりません。

いわゆる我々が言うところの宗教と西欧のみならず日本人以外の諸国民のいうそれとは

どうも一緒にはしがたいようです。

それがどう違うのかについては別の機会に譲るとして

ここでは我々日本人の宗教性ということにしておきます。

日本人の宗教性については 「日本の曖昧力」呉善花 PHP新書 が参考になります。

原体験には宗教性に関わるものがあります。私はそれを神秘的体験に入れてみました。

しかし宗教性には神秘的分類には入らないものもあります。

気持ちの中で起こる体験も重要なのです。それを神秘的体験というのは該当しないようにも思います。

それ以上に霊妙な体験です。もっともそれこそ神秘的体験であるともいえます。

その際はその体験は現実に足のついたもので、非日常的な異世界的体験ではないということです。

聖も俗合わせ含めた総合的・網羅的位置にいるわけです。

初めてそこで善と悪、罪と救いが融合されるところと思います。

日本人の宗教性はそんな世界に胡座しているのではないかと思います。

あるいはそこに胡座することを求めているのが日本人の道ではないでしょうか。」 (上)

 私は、「原体験を生かした道徳教育」の強みは、道徳的価値というものを「観念」や「概念」といった、知的な部分だけで道徳授業を作り上げるのではなく「生き方を方向付けた自らの体験」に根ざした、道徳授業であるという点に強みがあると考えている。

 一例をあげると、集会等において教師が生徒達に説話をする場合に、生徒の心を揺さぶることができる先生の説話と、そうでない先生がいる。その相違は何であるのか、それを一言でいえば「話し方の上手・下手さ」ではない。

 話し手の「思いの強さ」であり、それは「体験に根差した」説話なのである。

それが、上がいうところの「エンジン」なのである。

「原体験を生かした道徳授業」の有効性については、実証がなくとも現場の教師は、説諭の場面を通して経験的に感じている事実である。

 原体験の道徳授業は、一人の教師において年間1回程度であろう。

22の内容項目すべて「原体験を生かした道徳授業」として行うことはできない。

 一部分に限られた道徳授業の「エンジン」なのである。

しかし「原体験を道徳教育に生かす会」では、教職課程で学ぶ未来の先生たちに対して、「原体験を活かした道徳授業」を習得していただきたいと願っている。

 理由は二つある。一つは「生徒のため」である。

 これからの社会で人生を生きていく生徒たちへ、先輩たちの原体験を伝え、先輩が原体験から受けた思いや考えを、生徒の生き方への参考と出来る点である。

 二つ目は、「先生自身のため」である。中学校の先生は教科専門をもつ。

教科の専門家として長い教員生活を送るうえで、貴重な財産となるものは、「得意とする授業を持つことである。それは「十八番の授業」として表現される。

 得意とする分野の授業が「十八番の授業」と重なる教師は多い。

原体験は、生徒へ伝えるべき強い思いのある授業となる。

中学校は、「教科専門制」であるが、教科と共に「道徳科専門」でなければならない。

したがって中学校教員は、道徳科担当の自覚と、道徳授業における「十八番の授業」をもつことは、教員としての財産となろう。

 

(3)原体験を基にした道徳指導計画の取り組みについて

 原体験を生かした道徳授業の指導計画の流れの概要を箇条書きで示す。

(「自ら学ぶ道徳教育」保育出版社、上憲治執筆箇所より)

① 自分(教師)自身の原体験を見つめてみよう(特別の教科 道徳の構想)

・ 原体験の記憶は自分の心の深いところにあり、気持ちを揺さぶるものである。

・ 原体験は自分をどのように形成しているかを考えてみよう。

・ 原体験は肯定的に生かそう。否定的な気持ちなら切り替えて前向きに捉え直そう。

② 自分の原体験は何をもたらしているのか?(テーマへの取り組み)

・ 子どもたちに何を伝えたいのか、何が伝えられるのかを考えよう。

・ それは指導要領のどの部分にあたるかを特定しよう。

③ 原体験を書いてみよう(子どもたちの状況把握)

・ 原体験の時の気持ちを書こうとするより、状況を書いて表そう。

・ 独りよがりではなく、子どもたちにわかるように書こう。

④ 原体験と資料(資料の検討)

・ 自分の原体験を資料化する(自作資料)か、原体験に近い資料を探すかしよう。

・ 資料内容は子どもたちと共有できるものかを考えよう。

⑤ 原体験を使った指導(指導過程の組み立て)

・ ねらいを明確にし、きちんと伝える工夫をしよう。

・ 子どもたちに起こると予想される気持ち、考え方を多面的・多角的な広がりで捉えたり、深まりとして構想しよう。

・ 子ども達の考え方の広がりや深まりを、授業の中でどのように看取るのか(評価するのか)、取り組みを考えてみよう。

⑥ 考え方の広がりや深まりを授業から捉え、その授業での子どもたちの成長を看取ろう (評価しよう)

⑦ 同様に、子どもの考え方の広がりや深まりを資料として積み重ね、子どもの成長の様 子を把握して、子どもの道徳的価値理解の深まりを評価しよう(学期での道徳性への子 どもの見取り・評価)

【教師自身の原体験を見つめてみよう】(参考事例)

 はじめに、私自身の原体験をお話しします。

私の原体験は、私の妻が亡くなったことについてです。

 私の妻は、13年前にガンで亡くなりました。私の父も母も、すでに亡くなっていますが精神的に受けたショックの大きさは両親の時とは、比べものにならないほど大きなものでした。私は、当初無気力観に陥り、放心した中で、妻との思い出が幾度となくよみがえり、その都度涙が流れてきました。

 寝付けないような状態を過ごしていく中でも、少しずつ時間は流れていきました。

学校が始まり、教員としての忙しい日々の中でも、妻がいないことへのさみしさや、苦しさは、私の心を覆い尽くし、街角を行き交う家族連れや、テレビや新聞などに映し出される夫婦の姿を見ることが、とても辛く感じ、出来るだけ見ることを避けていました。

 心の苦しみを無くすために、精神内科やカウンセリング、グループワークと、色々な所に通ったりしていました。それでも、毎日が不安定な気持ちでした。

辛さや、苦しみをどうにかして消し去れないのか、元の状態にもどりたい。

毎日、心の中で「助けて」という叫び声をあげていました。

 そんな辛さ、寂しさという思いを抱いたまま、何年も生活していました。

妻が亡くなって10年近くの時間が過ぎた頃から、ようやく心の整理ができるようになりました。

 ようやく当時のことを、冷静に振り返り、わかってきたことがあります。

それは、「亡くなった人への思い、やさみしさ、苦しみは一生消すことはできない」、ということでした。

 それは、そうした死者への思いは消し去る物では無く「死者と共に生きていく」、ということでした。

「妻への思いは、消し去ろうとするのではなく、心と共に生きていく気づき」、というものでした。

 そうした心の整理ができてくると、私は、私の命が終わる最後の一瞬まで、「妻のように一生懸命に生きることが出来るだろうか」という思いと、妻のように、最後まで一生懸命に生きなければいけない、という思いでした。

私は私が、人として命を与えられた意味のようなものを感じていました。

では、

「私の原体験」を、教員当時、私が担任をしていた学級で出していた学級通信に、私の原体験の話を、「私の記憶に残る出来事」という題名で紹介した文章です。

 私の命が終わるとき、私の人生を振り返って最悪のできごとは、きっと妻の死だったと私は思います。今でも夢であってほしいと願う記憶ですが、何日たっても現実に打ちのめされてしまいます。

 妻と一緒に生活できた25年間は本当に幸せでした。妻がいるだけで、私は満足感と安心感がありました。ただほんの少し、こんなに幸せ過ぎて良いのだろうか?

という、かすかな不安がありました。

 4人の子どもも成長し、末娘も高校に入学しました。ようやく子育ての忙しさから少しずつ手が離れ、家族みんなで休日を過ごすスタイルから、夫婦だけで休日を過ごす割合が少しずつ増えてきました。

 当時私は、老後は妻と二人で北海道で余生を送ることを夢見ていました。一歳下の妻も少しずつ50歳に近づく年になり、老後に備え二人で健康を兼ねたハイキングを始めていた時期でもありました。土曜日か日曜日、どちらかの半日は夫婦二人で朝からリュックを背負い鎌倉や湘南方面を中心にハイキングにでかけていました。

 ハイキングの後は、二人で外食のお店を見ながら、気ままな昼食をすませ、のんびりと帰宅する生活でした。二人で日帰りの旅行ツアーにも良く出かけました。独身時代のデートのように、週末は二人で出歩いていました。

 お正月に、当時我が家にホームステイしていたロシア人の母子と私達夫婦で、山梨県の善光寺に日帰り初詣ツアーに参加しました。

 帰宅した後で、長年病気一つしない妻が「今年は体のメンテナンスの年にしよう」、と言ったことを覚えています。

 私はその時は、何の気にもとめていませんでしたが、相当具合が悪かったのだと、後から思いました。

 お正月が終わる頃、妻は肩の下あたりのリンパ腺が腫れました。

体調が悪いのは風邪のせいだと妻も私も思い込んでいました。

 近くの町医者に診察に行くと「風邪だと思いますが念のためにリンパ腺の組織をとって検査に回しましょう」とお医者さんが言われました。

 1~2週間の後、お医者さんから、「検査の結果、たちの悪い組織が検出されましたので、戸塚の共立病院に行ってください」と告げられました。

 数日後から、共立病院での検査が始まりました。

共立病院から帰って来た夜、妻の病気はただの風邪だと思い込んでいた私に、

妻は、「私ガンになっちゃった」と言うやいなや、暗い寝室のベッドの中に入り、泣いていました。

ガンが分かってから以降、妻が涙を流したのはこれが、最初で最後でした。

 妻から癌という言葉を聞き、私の頭の中は真っ白の状態でした。

妻に、「大丈夫、僕がいつも横にいるから」と抱きしめてあげることが精一杯でした。

病院のレントゲンで、体中くまなく調べましたが、ガンは見つかりませんでした。

体のどこからガン細胞が、リンパ腺に転移したのか、結局共立病院では分かりませんでした。

「ガンに間違いないのですが、どこが原因のガン(原発)なのかわからない」という説明でした。

「ガンセンターへ言って下さい」、ということで、今度は横浜市内の二俣川にある県立ガンセンターへ夫婦で出かけました。

 県立ガンセンターでの検査が始まりました。3月一杯、いろいろな診療科で、何回もの検査が続きました。部局をたらいまわしにされ、最終的には「ペット」、と呼ばれる検査を受けることになりました。

ペットという検査は、発光する物質を含んだ薬を血管内に投与した後で、体をレントゲン写真で撮影すると、ガン細胞だけが光って見える検査の名称でした。

 レントゲン写真で映しだされた妻の肺は、夜の星々のように、小さな光があちこちに確認されました。

妻のがんは小胞性の肺がんでした。それもすでに全身にガンは転移していました。

末期がんと呼ばれるものでした。

最初にかかった循環器科で見つからなかったガンは、ペットと呼ばれる画像検査で肺に発見され、原発であることが確認されました。

ガンセンターの呼吸器科の先生から、私たち夫婦は呼ばれました。

 担当医の先生は、大変高飛車な印象の方でした。

「病名は肺がんです。全身に転移していますので、もうこの段階では手術や放射線治療はできません。抗がん剤を使った化学治療を行っても、余命は1年半ぐらいです。抗がん剤治療を行わなければ、3か月か半年でしょう。すぐに入院して下さい。」と淡々と話をされました。

 妻は以前から「もし私がガンにかかったら、抗ガン剤治療は絶対に受けない。免疫療法で治すんだ」と言っていました。

 妻はお医者さんの話を聞き終わると「私は抗がん剤治療はしません」、「免疫療法で直したいと思います」、とはっきりと答えました。

 お医者さんは「私の治療方針通りにしていただけないのなら、この病院では、面倒を見ることはできません。お帰りください」、と言われました。

私たち夫婦が立ち上がり、診療室から退席しようとすると、「旦那さん、ちょっと残ってください」といわれ、私だけ残りました。

お医者さんは、「あなたたちは何を考えているんだ。旦那さんは、それでいいんですか?ステージ4の状態なんですよ」、と言われました。

 私は、「妻が言う通りにさせてあげたいと思っています。妻が言うのなら、私もそれでけっこうです」、と答え、二人でガンセンターを後にしました。

 妻は、「お医者さんに私の命の長さを決めさせない。私は私の方法でガンを直す」、と沈んだ様子もなく、力強く答えてくれました。

妻はその日から「ゲルソン療法」、と呼ばれる食事療法と針治療を平行しての療養を、実行していきました。

落ち着いている妻よりも、私の方がドキドキしていたのかもしれません。

私は妻に、「私の知っているホスピス医に連絡をとるから、万が一のときはお願いしないか」、と話を持ちかけました。

妻はすぐに同意してくれました。

 ガンにかかる前から妻は、抗ガン剤治療を嫌っていました。

治療しても、苦しんだあげくに完治しないケースが多いからだと思います。

妻と私は、医者にあきれられながらも、ガンセンターでの治療を拒否しました。

 私や妻は、ガンという病気を直すことをあきらめていたわけではありません。

絶対に治る、絶対に治すと2人とも、論拠のない確信をしていました。

 妻は、針治療や食事療法といった免疫療法を選択した訳です。

私は万が一のために、ホスピス医である小澤先生とすぐに連絡をとりました。

小澤先生は即答で承諾してくれ、妻は小澤先生の勤務する病院で診察を受けました。

 小澤先生は、妻の治療方針に沿って、できる限り援助してくれることを約束してくれました。

妻は、その日から小澤先生の勤務する横浜甦生病院に外来患者としてかかることになりました。

妻は初めて小澤先生に会った時以来、心から小澤先生に信頼を寄せていました。

 私の親友の母親も、当時やはり肺ガンにかかっており、その病院で治療薬として使用していた薬を、私に進めてくれました。その薬は、ガン細胞への栄養補給を断つことを目的とした薬でした。

まだ正式に、認可された薬ではありませんでした。小澤先生に相談すると、すぐに承諾してくれました。

「イレッサ」と呼ばれるガン治療薬を、5月から使用してみることになりました。

そのため妻は、1ヶ月近く大部屋の病室に入院しました。

 病院は、夜8時が見舞の門限でした。

毎日私は見舞いに病院に行きました。

学校を7時過ぎに出て、夜8時の門限まで病院にいました。

妻は病室に着いた私の顔を見ると、必ず片手をあげて「ニコッと笑顔を見せて」くれました。

 門限の夜8時ちょうどに着いて、妻の笑顔を見ると、そのまま帰ることもありました。そんな入院生活の中で、妻は1日だけ、私が来なかった日があったと、文句を私に言ったことがありました。

私の記憶では、その日妻は、熟睡していました。妻の寝顔をずっと横で見ていました。門限の8時に、そのまま家に帰った日がありました。

「良く寝ていたから帰ったんだよ」、と妻に言うと、妻はとてもがっかりした顔をしたのを、今でも覚えています。

妻は、私を待っているうちに、つい、寝てしまったようです。

妻は、私に起こしてもらいたかったようでした。

 数日後、妻が病室で診断結果を報告してくれました。

「イレッサが効き、肺がきれいになってきた」という、すごく嬉しい報告でした。

肺ガンが治ってきていました。

妻も私も、心からホットしていました。

 ただ、少し気になったのは、共立病院で検査を受けた時期から、毎日妻の頭痛が続いていることでした。

しかし、甦生病院のレントゲンで、頭に異常はありませんでした。

色々な頭痛薬が妻に試されました。

吐き気が続き、食欲が落ちていきました。

 退院後、夏休みに入りました。

私たちは、小田原にある頭痛専門病院に車で行きました。

そこでの検査でも、異常は見つかりませんでした。

「しつこい偏頭痛だと」、私も妻も思っていました。

 食欲はその後も落ち続け、体重は日に日に減っていきました。

頭痛や吐き気、食欲不振に悩まされながらも、妻は夏休みの間に、

私たち家族が2年間暮らした上越の地で、知り合った友人たちや、自宅で開業していた、お店の仲間たちと、そして、私たち家族と妻の弟一家も含めて、3回にわたって1泊の温泉旅行に出かけていました。

 私は、ガンが完治しなくても60歳まで生きられれば、その後も、がんが直らなくとも、がんと一緒に長生きできるような思いで生活していました。

 9月23日の朝、突然妻は、自宅ベッドの横でけいれんを起こして倒れました。

けいれんを起こして倒れている妻を、私は慌てて抱きかかえて、階段をのぼり救急車を呼び、甦生病院を指定して向かってもらいました。

当日は休日でした。

甦生病院の宿直医は妻を診察みると、「こんな重体の患者さんはみられないので、他の病院に行って下さい」、と診察を拒まれてしまいました。

 私は慌てて、「この病院のお医者さんである、小澤先生に見て頂いている者です。小澤先生とすぐに連絡をとって下さい。その上で、他の病院に行けというのなら従います」、と答えました。

 小澤先生との連絡がすぐにとれ、緊急入院をすることになりました。

 数日後に、妻は病室で意識を取り戻した。

ほっと、私は胸をなでおろしました。

妻は2人部屋に入院していました。

2人部屋なのですが、もうひとつのベッドは空いていました。

 私は、その日から、毎日学校帰りに病院に寄る日課が再び始まりました。

何日か経過した日、小澤先生が甦生病院を辞められたことを知りました。

ホスピス病棟の責任者であったのですが、訪問看護医になり自分の医院を近くで開業するということでした。

 妻の引き継ぎを受けた新しい担当医は、小澤先生とは違い、優しさや暖かさはなく、淡々と病状を説明する人でした。

その担当医から、私や家族が呼ばれ、妻の余命は、あと1ヶ月程度という宣告を受けました。

 私や私の子どもたち、妻の弟も同席していましたが、話を聞き終わったあと、病院の駐車場で私は何も考えることができず、ただ夜空を眺めながら、涙していたことを覚えています。ただ、茫然と立ち尽くしていました。

そんな中で、すぐに学校を休もうという考えが頭をよぎりました。

私は教員になって以来、それまで、自分の子どもの出産日も、子どもの入学式や卒業式も、授業参観も、体育祭や文化祭といった行事にも、一切出席しませんでした。

いつも妻一人だけの出席でした。

理由は、私が勤務している生徒優先が理由でした。

教え子優先は、私の仕事へのこだわりでした。

私は学校を1日も仕事を休んだことがありませんでした。そして、その時は、受験を控えている3年生の担任を受け持っていました。

 この時は、翌朝すぐに学校に電話を入れ、その日から学校を休む旨のお願いを、校長先生に伝え、休職の手続きをとりました。

その日から、私は妻のベッドの横の、空きベッドに寝泊まりしながらの、妻の看病が始まりました。

二人部屋で、しかも妻の隣のベッドがちょうど空いていたのは、良いことの始まりをつげる前兆のように感じていました。

 空きベッドに寝泊まりしながら、看病を続けていた日々、先々の不安というよりも、私は、今こうして妻と一緒に生活している、一時の幸せを感じていました。

その当時に、こんな出来事がありました。

 食器洗い用に買ったスポンジに、私が「鈴木」と名前を書いて洗面所に置いておきました。そのスポンジを見た妻が、珍しく私を怒ったことがありました。

「どうして名前を書いたの。名前を書いたら他の人が使えないでしょ」と、いつもの妻らしく、周りの人たちへの気遣いでした。

 10月に入ると、妻の病状はますます悪化していきました。

モルヒネによる痛み止め治療が開始されました。

脳に転移していたガンは、意識障害を引き起こし、残尿感や痴呆の表情が、妻を襲うようになってきていました。

 数日後に私は担当医に呼ばれ、これ以上治療しても、改善の見込みがないということ、治療中止は退院することでもある、ということも告げられました。

もしくは、他の病院に移るか、この病院内にある、ホスピス病棟に移るか、「どちらかを選択してください」、ということでした。

 私は、同じ病院内のホスピス病棟に移ることを決め、妻に伝えました。

ホスピス病棟内の病室の入り口には、入院患者の名札は一切かけてありませんでした。

理由は、他の患者さん達との交流をしないようにです。

死が身近にある患者さん達同士の交流は、死という悲しみもまた、身近であるからでした。

11月に入ると、妻は寝たきりの状態になってきていました。

話をすることが、できなくなってきていました。

1日の中で、眠っている時間が、だんだん長くなっていきました。

 妻と、話しをすることができていた頃は、妻はとても自宅に帰りたがっていました。

妻が信頼していた小澤先生の退職理由は、自宅で死を迎える人のための、在宅診療所を開業したことでした。

 再び、妻の信頼していた小澤先生にお願いして、自宅に戻って、家族で妻の看病をすることについて、家族で話し合いました。

 数日後、家族の総意で在宅看病に切り替え、妻は退院をしました。

退院の日、朝から妻はめずらしく、一時も眠らず、とても嬉しそうな表情で起きていました。

午後になって、ようやく退院手続きが終わり、私の車で退院することになりました。

玄関口に着けた私の車を、たくさんの看護婦さんたちが横に並び、見送ってくれました。

看護婦さん達を見つめ、嬉しそうな妻の笑顔が思い出されます。

自宅前に車が到着すると、近所の人たちが退院した妻を温かく迎えてくれました。

もう夕方でしたが、妻はまだ起きていて、とても嬉しそうでした。

 しかし、自宅に帰った次の日からは、妻は寝たきりで、寝返りもできない状況になっていました。

 毎日、少しの食事もとることはできず、スプーンで水や流動食を、妻が目覚めたときに、状態を起こし、口から少しずつ流し入れる状態でした。

妻が目を覚ましている短い時間に、少しでも多くの水分や栄養物を、口から補給するのですが、妻が目覚める時間は、日ごとに不規則となり、徹夜状態の日々でした。

 毎日、看護婦さんが自宅へ来てくれました。訪れるたびに点滴をするのですが、点滴する腕や足は細くなりすぎていて、血管は萎縮し、点滴事態が難しい状況になってきていました。

時には、手のひらから点滴がうたれました。

 私は、毎朝、看護婦さんに点滴をお願いするか、しないかで、思い悩みました。

妻がかわいそうで、看護婦さんが点滴の針を刺す場面は、見られませんでした。

妻の細い手足の、一部分だけが、紫色に充血し、無数にある注射の跡を見るたびに、悲しくなりました。

 そのような日々の中で、すでに話す力を失っていた妻が、突然、私たちに聞き取れる音量のうわごとを言ったことがありました。

「がんばるぞ」という声と、少し間をおいて、「がっかり」と、みなが聞き取れるうわごとでした。

「がんばるぞ」と言う声を聞いたときには、「きっと、一生懸命に生きようと頑張っている妻の思いを考えると」、思わず私は、声を上げて泣いていました。

 妻の容態は、その時期から、一日一日、さらに悪化の一途をたどっていきました。

足も手も動かすことができなくなっていました。

それでも私は、奇跡が起こることを信じて疑いませんでした。

「奇跡が起きて、妻は絶対に良くなる」、そう思いこんでいました。

 毎日来てもらっている看護婦さんには、妻の手や足を動かしてもらったり、車いすに乗せていただき、部屋の外のベランダまで動かしていただき、外の景色を一目でも妻に見せてあげたくて、しつこくお願いしていました。

妻は1日の大半を眠っているようになっていました。

わずかに目をあける短い時間に、すぐにベッドの上体をおこしては、口から水分や薬、流動食を少しでも多く飲んでもらおうと、必死になっていました。

 しかし、目を開けても、だんだんと、何も受け付けなくなってきていました。

11月26日の午前中、妻の診察を終えた小澤先生から、「妻の命はここ数日」、という話しを告げられました。

そして妻の容態については、「自分の体に残っているエネルギーを、すべて使い尽くすために、体温が上昇し、体のエネルギーをすべて使い果たすと、体温は下がってきます。そして、眠るように息を引き取るでしょう」、それが小澤先生の説明でした。

 妻の容態は、小澤先生の言われたとおり、それから、38度を超える体温が続き、息づかいが荒くなっていきました。

26日の夕方から、家族全員が妻のベッドの周りに座り、みんなで妻を見守りました。

翌日、夜が明け、あたりが明るくなってきたころ、家族全員、不眠不休で妻を見守っていたこともあって、全員がウトウトしている状態でした。

静寂を壊すように、長女が突然、「お母さんの息づかいが穏やかになっているよ」、という声をあげました。

その声で、家族全員の目が覚め、再び妻を、みんなで見守りました。

また、静寂が始まりました。

妻の顔をみんなで見つめていた、そのわずかな時間の後でした。

妻の呼吸が、穏やかに止まるのがわかりました。

午前6時30分でした。

 平成18年11月27日、午前6時30分、妻は毎日働いていた、自分の家の仕事部屋で、家族みんなに看取られながら、静かに眠るように息を引き取りました。

私の愛する妻、鈴木紀子(49歳)、死因は肺ガンでした。

【原体験を読み物資料化した例】

「 流しびな 」 加藤一雄作より

 旧暦の三月三日桃の節句がくると、千代川では今年も流しびなが行われた。心身のけがれを紙びなに移し、健康と幸せを祈って川に流す風習が、この地方では古くからつづいている。

 美しく着かざった少女たちが、川の岸辺からつぎつぎにひなを流している。そこから少し離れたところで、葉子もわら細工の円盤の形をした舟に死んだ娘の名前を書いた紙びなとひしもちをのせ、桃の花を一輪そえて川に流した。そして両手を合わせると静かに目をとじた。

 今から十年前、未熟児として生まれた下の娘は、病院の保育器の中で十六時間生きただけで、朝方、もえつきたろうそくのようにかぼそい命をとじた。看護婦がその子の口に紅をさし、毛布でくるんでつれてきてくれたときのことを思いだすと、葉子の胸はいまでもいたむ。それから毎年この日がくると、葉子は故郷のM町に帰り、娘の死後の冥福を祈って紙びなを流すことにしていた。

 M町もあれからずいぶんとかわった。県庁のあるT市から車で一時間ほどの山深い小さな町であったが、いまではけっこうにぎやかな商店街もでき、人々の服装や生活様式も都会とあまりかわらないものになった。

 それでもこの町には、この流しびなのようなそぼくで美しい風習がまだ残っていることに、葉子はほっとするような安らぎをおぼえるのだった。

 流しびなのおこなわれる千代川の川辺は、むかしと変わらずアシの葉が風にそよぎ、ヨモギやハコベが群生していた。一面の緑の中に川面が白く光り、せせらぎの音はおそい北国の春の歌をかなでていた。

 今、葉子の手からはなれた紙びなをのせた舟は、さざ波にもてあそばれてゆらゆらと川下に流れていく。

ほんの少しこの世の空気をすっただけで死んでしまった娘のことを思いながら、波間に見えかくれする紙びなのゆくえを目で追っていると、とつぜん対岸の土手のほうでなにやら大声でさけぶ声がした。それと同時に、川に向っていくつもの小石が飛んできて、水面に水しぶきがあがった。そのうちの一つが流しびなに落ち、むざんにも紙びなが散乱した。少女たちが悲鳴をあげた。

「やったあ!見ろ、あたったぞ。」

三人の中学生が、大声でわめきながら石を投げていた。

葉子の顔から血がひいた。その中に大助の姿を見たからである。大助は葉子の妹の息子だった。葉子はきのう町へ買い物に出かけたとき、たまたま大助がゲームセンターで仲間たちとゲームにむちゅうになっているのを見て、なんとなく気になっていたのだ。

 大助は今日、数学の宿題をやってこなかったことでしかられ、そのうえ服装のことでも先生からきびしい注意を受けたので、くさくさしていた。胸の中の重いつかえを、なにかで発散させたかった。放課後、大助は友達をさそって、流しびなでにぎわう千代川にやってきた。川辺のあちこちに晴れ着姿の幸せそうな親子づれが目につくと、なぜかむしょうに腹がたった。そこで思わず石を拾うと、友だちをけしかけて流しびな目がけて投げつけたのである。

「大助、やめなさい!」と葉子がいおうとした瞬間、大助の投げた石が葉子の流しびなにあたった。色あざやかな梅鉢模様の着物を着たかわいらしい女びなが大きくはじけ、ひらひらと水面に落ちていった。

「なにするの!こんなむごいことをー」

 するどい声に大助ははっとした。川向こうの女の人たちの中におばの葉子がいることに、今はじめて気がついた。

 大助は、葉子が毎年流しびなのために帰郷してくることを知っていた。そしてその流しびなが、死んだ娘のために流されることも知っていた。それなのに、よりによってその葉子の流しびなに石をあてるなんて。

だがくやんでももうおそい。

 水面にただよう女びなは、やがて首のところで二つにちぎれ、はなればなれになって流されていく。自分のやったことがいかにむごいことだったかを見せつけられる思いで、大助はいたたまれなくなった。

 友だちの前で「おばさん、ごめんなさい。」ともいいにくい。あとは、ごまかすしかなかった。「うへー」とおどけたかっこうをすると、大助は土手をかけだした。

 葉子はなんともやりきれない気持ちで、そのうしろ姿を見送っていた。