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彩ふ文芸部

【読書コラム】ひらいて-愛と恋のハイブリッドシステム 執筆者:KJ

2019.06.02 05:15

こんにちは!今回も彩ふ読書会(2019年5月東京)で課題本となっていた本について、コラムを書かせていただきます。お題となる作品は綿矢りささんの「ひらいて」。いつものように、ネタバレも気にせず書いていきますので、未読の方はご注意願います。

なお今回のコラムでは、わかりやすさのため、人間の感情としての「愛」は括弧付きで、人物としての愛は括弧なしで表記します(引用は除く)。文脈で分かる部分も多いとは思いますが、読む際はご留意いただければと思います。


断絶された愛と恋

さて、綿矢さんの本の中でもなかなか強烈な作品である「ひらいて」ですが、今回は自分の中で気になった以下の文章を軸に考えていきたいと思います。


その文章が出てくる場面は、愛と美雪が初めて関係を持った後、愛がテスト中にそのことについて悶々と考えているシーンです。


「愛は、唾棄すべきもの。踏みつけて、にじるもの。ぬれた使い古しの雑巾を嗅ぐように、恐る恐る顔を近づけるもの。鰯のうす黒いはらわた、道路に濡れるぎらついた七色のガソリン、野外のベンチにうすく積もった、ざらざらした黒いほこり。


恋は、とがった赤い舌の先、おもいきり掴む茨の葉、野草でこしらえた王冠、頭を垂れたうす緑色の発芽。休日の朝の起き抜けに布団の中で聞く外で遊ぶ子どもの笑い声、ガードレールのひしゃげた茶色い傷、ハムスターを手のひらに乗せたときに伝わる、暖かい腹と脈打つ小さな心臓」(*1、124ページ)


初めて読んだ時は特に気になりませんでしたが、これを書くにあたり読み直す中でこの文章が強く印象に残りました。すなわち、「愛」と「恋」の対立の構図です。


この文章からも分かる通り、「愛」とは非常に醜く、汚い感情として描かれます。動物的で肉欲に溢れた感情である「愛」。登場人物としての愛が、この「愛」という感情の象徴として配置されていることは間違いないでしょう。


愛は情動的な性格で、後先考えない行動が目立ちます。美貌により人を誘惑しようとし、他人への思いやりはあまり感じられず、誰かを自分のものにすることに執着します。


また、物語の中で出てくる折り鶴というアイテムも同様に「愛」を象徴している存在として描かれているように思いました。教室で、愛が裸でたとえを待っているシーンで不自然に登場する折り鶴。 丁寧に折り込まれた紙細工である折り鶴は、丁寧に管理された愛の体のラインと重なります。


美貌によってたとえを自分のものにしようとするシーンで折り鶴が出てくること、そして、たとえに対してはその美貌が無力だと思い知るシーンで折り鶴が押しつぶされてしまうことを考慮すると、折り鶴という存在が愛の分身として描かれていると考えてもそこまでおかしな話ではないでしょう。これだけだと少し納得いかないかもしれませんが、後でもう少し詳しく言及するので一旦この話はここで置いておきます。


一方、「愛」と対になって描かれている「恋」とはどのようなものでしょうか?

先に引用した文章を見てみると、暖かく自己犠牲的な価値観であると言えると思います。茨の葉を掴む行為や、ひしゃげたガードレールは誰かのために自分が傷つくことを厭わないという強さを感じますし、それ以外の文章からも暖く、牧歌的な印象を受けます。端的にいうと、慈悲深さや思いやりを「恋」と呼んでいると言っていいでしょう。


愛が「愛」を象徴すると考えると、たとえと美雪がこの「恋」の象徴として描かれていると考えるのが自然でしょう。長期間の交際を続けていながら、キスすらしていないということがそれを最もわかりやすく示していると言えます。他人を独占しようとする愛と対照的に、この二人はお互いを尊重し、支え合う関係です。情動的な「愛」に対して、「恋」は理性的だと言えるかもしれません。


この「恋」を象徴するアイテムは言うまでもなく聖書です。そもそも、上述したような慈悲深さという感情はキリスト教的な家族愛の概念そのものですし、美雪がたとえとの関係を「きょうだいに似た感覚」(*1、81ページ)と表現していることからもそれは読み取れます。


今回のコラムでは、この『「愛」と「恋」』という視点でこの作品を見ていきたいと思います。これまでみてきた通り、この二つの対立こそが、愛とたとえがどうやっても分かり合えず、美雪が一時的に愛に対して心を閉ざしてしまった理由です。


愛と恋の和解

さて、いきなりですがこの『「愛」と「恋」』という視点で、物語の結末を見てみましょう。紆余曲折があったものの、最終的に愛はたとえや美雪と和解するができます。言うまでもなく、これは「愛」と「恋」の和解です。


美雪やたとえとの一連のいざこざの中で、愛は「愛」とは違う、思いやりの重要さを理解します。母親が読む聖書に涙するシーンでの愛の独白は、まさにそれを物語っています。


「“なにも心配することはない。あなたは生きているだけで美しい”と丁寧に言い聞かせてくれる存在を渇望し、信じきりたいと望んでいる。


自分もだれかのそんな存在になりたい。その人が苦しんでいれば、さりげなく、でも迷わずに手を差し伸べて、一緒に静かに涙を流せるようになりたい。呼びかけ、囁きかけ、髪を指で梳いて眠りにつかせる。


ささやかなつながりを、いつもいつも求めている」(*1、173ページ)


あれだけ自分のことしか考えなかった愛が、誰かに対して寄り添えるような存在になりたいと望むこの描写は、愛が「恋」という感情を理解したシーンであると言えるでしょう。


このように、愛はたとえと美雪の感情に歩み寄ったわけですが、それは決して一方的なものではなく、美雪とたとえも同じように愛の感情に歩み寄りを見せています。


美雪と愛がたとえの家に行くシーン、美雪はたとえにこう話しています。


「私たち、長く付き合ってきたけど、いつもどこか距離があったね。でも距離を埋めようとせずに、お互いの悩みを持ち寄って慰め合うことで、見て見ないふりをしていたね。これからはお互い、心をひらきましょう。


ねえ、私、ずっとあなたに触れてほしかった。その気持ちを、私は愛ちゃんに教えてもらったの」(*1、167ページ)


この言葉は明らかに美雪の「愛」への歩み寄りです(括弧付きであることに注意)。「恋」の関係であったたとえに対して、「愛」を持ち込もうとしたのがこの台詞だと言えるでしょう。愛との肉体関係を通して、自分の中の情動的な部分に気づいたということは、愛が「恋」を理解したのと同様に、美雪も「愛」を理解したと言えるのだと思います。


たとえに関してはもうちょっと微妙な表現なので、少しわかりにくいかもしれません。ポイントは折り鶴であり、最後の最後に出てくる、愛とたとえの、一見すると意味不明な会話です。


「おまえも一緒に来い。どうにかして、連れて行ってやる」(*1、178ページ)

ーーーーー中略

「ありがとう。でも鶴をもう、折っていなくて」

「折れ」(*1、179ページ)


たとえが一緒に来いと言うのはギリギリわからなくはないですが、それに対する愛の返答はちょっと意味がわかりません。しかし、折り鶴が「愛」の象徴であることを思い出すと、この会話の内容が見えてきます。


これも微妙な表現ですが、後半、愛が学校に行くシーンで気になる表現があります。


「制服も一応毎日着ていくけれど、もう身体には合っていない」(*1、153ページ)


何気ない描写ではありますが、あれだけ自分の体のラインにこだわりをもっていた愛が、制服が合わなくなるほど体型が変わるというのは、美雪やたとえとのいざこざで自分の美貌を維持しようという試みを放棄したことを意味します。


これが、「鶴をもう、折っていなくて」という言葉の意味です。相手の欲望に訴えて他人を自分のものにしようとする「愛」によるアプローチをやめたという、愛の遠回しな訴えだったわけです。


そして、その訴えに対するたとえの「折れ」という言葉こそが「愛」への歩み寄りです。美雪ほど明示的ではないものの、「愛」の感情に理解を示し、認めたうえで「それを止める必要はない」という意味で「折れ」と言い放ったのだと推測できます。


このように、「ひらいて」という小説は「愛」と「恋」がゆるく理解しあうというところで決着します。一見すると、自分本位な愛が他人に対して心を開くという意味で「ひらいて」というタイトルのようにも見えますが、「愛」と「恋」とがそれぞれ開き合う、というのがこのタイトルの意味であるのようにも思えます。


愛と恋のハイブリットシステム

さて、ここまで長々と「愛」と「恋」について言及し、一応の決着はつきました。しかし、これで本当に万事丸くおさまったのでしょうか?


僕が引っかかったのは、主要人物三人の中では一番しっかりしていると思われる美雪の以下の台詞です。場面としては、美雪がたとえに、愛から「愛」を教わったと言った直後です。


「愛ちゃんも、たとえ君のこと心配しているよ。たとえ君のことを愛している。愛ちゃんにむかっても、ひらいてあげて」(*1、167ページ)


たとえの親が乱入してきて、この後の話はうやむやになってしまうわけですが、かなり違和感のある表現ではないでしょうか?そしてその後に、たとえは愛に対して「お前も一緒に来い」というわけです。


美雪の言葉の真意ははっきりはわかりませんし、たとえがどこに連れて行くつもりだったのかもわかりませんが(東京?)、このあたりから暗示される帰結にはやや不気味なものを感じます。もし、愛がこの二人について行ったとしたら、三人の関係はどのようなものになったのでしょうか?


我々が抱くこの違和感こそが、今回のコラムの論点です。


この違和感の正体を探るため、一旦「愛」と「恋」との関係をもう一度考えてみましょう。動物的で野性的な「愛」と理性的で慈悲深い「恋」という言葉の関係です。


捉え方は人それぞれあるかと思いますが、基本的には、野性的な「愛」を人間的な「恋」が抑えているという関係にある、と考える人が多いと思います。心理学で使われる「イド」と「エゴ」という言葉を使うと理解しやすい人もいるかもしれません。


つまり、衝動的で後先を考えない「愛」は先天的な感情であり、その衝動を抑えて慈悲深く理性的に振る舞おうとする「恋」は後天的な感情であるというわけです。これまでの議論では便宜的に対になる関係と書いていましたが、実際のところは横の関係ではなく縦の関係として理解されることが多いのではないでしょうか。


「愛」を野性的、「恋」を人間的と表現していることにも注目したいところです。表現しているのはこの文章を書いているお前じゃないかと突っ込まれそうですが、ここまで読んでいて特に違和感を抱かなかったのであれば根底にある思想は同じです。


すなわち、「愛」とは本能的で動物一般にある感情・衝動であるのに対し、「恋」は動物の中でも優れた人間だけが持っている感情である、という思想です。だからこそ、冒頭で引用した文章のなかで、「愛」は理性的でなく醜いものであるもののように描かれているのだと思います。


確かに、異性を自分のものにしたい(もっと露骨に言えば交尾をしたい)という感情である「愛」は単に遺伝子を残せば良いという非常に動物的な感情であるように見えますし、それを超えた理性ともいえる「恋」は、「愛」とは一線を画した感情であると考えられます。


すでに、なんとなく察しのついた方もいるかもしれませんが、ここで議論したいのは「本当にそうなのか?」ということです。つまり、「愛」を「恋」が抑えつけるという構図は本当に正しいのだろうかという疑問です。


ここで僕が参照したいのは、ダーウィンの進化論です。ご存知の方も多いと思いますが、進化論の原則は自然淘汰です。つまり、生物の進化は特定の方向に進むというわけではなく、突然変異によってランダムに発生した特性のうち環境に適していたものが生き残る事によってなされる、というものです。


日本人にとってはそこまで違和感のある説ではありませんし、特に抵抗なく受け入れている人が多いと思いますが、この進化論は各種の宗教に大きな衝撃を与えました。多くの宗教(特に一神教)では、神が人間を創造したという前提を持っているので、今の人間がランダムな変異の結果であるという説は受け入れがたいものだったというわけです。


宗教と進化論の詳細な話をするのは今回のコラムの主旨から大きく外れるので割愛しますが、人間を含めた生物は特定の価値観にむかって進化してきたわけではなく、あくまでも無作為に発生した特徴のうち自然に適合したものが生き残ってきたというのは重要な事です。もう少しわかりやすくいうと、進化とは何か望ましい方向に向かって行われてきたわけではなく、色々な特徴のうち遺伝子を残すのに成功したものが残るプロセスである、という事です。誤解を恐れずにいうと、正義が勝つのではなく、勝ったものが正義である、という言葉と同じ構造です。


そのような観点から、人間が「恋」という慈悲深さを獲得した過程を考察してみましょう。


とても身も蓋もない言い方になりますが、慈悲深さが人間に備わっているのは、遺伝子を残すのに都合が良かったからでしかありません。言い換えると、一見すると「利他的」で美しく見える行動や感情も、それが自らの遺伝子を残すという「利己的」な結果につながるから存在するにすぎないというわけです。


例えば、自分の集団が外敵に襲われたというケースを考えてみましょう。その場合、自分のことだけを考える人間ばかりだった集団より、自己を犠牲にしてでも集団を守るという「慈悲深い」人が多い集団のほうが、集団全体として生存確率が高く、遺伝子が次の世代に残る可能性が高いでしょう。


このように、慈悲深い性質を持った人間がここまで生存してきたというだけの話であり、それ以上でも以下でもありません。慈悲深さは遺伝子を残す戦略(戦略という言葉はやや不適切だと思いますが)の一つに過ぎず、そこに美しいとか素晴らしいという価値観は本来的にないのです。そう考えると「恋」が素晴らしいという感覚は幻想でしかないということがわかります。つまり「恋」を素晴らしいと思う人間達が生き残ってきた、ただそれだけです。


繰り返しになりますが、我々が人間性と呼ぶ慈悲深さは、あくまでも自らの遺伝子を残すのに都合がいいという理由で備わっているにすぎません。そういう意味では、一見素晴らしいものに見える「恋」の感情は、野性的な「愛」の感情と同じくらい動物的だといえるでしょう。念のため確認しておきます、ここではそれが道徳的に「良い」とか「悪い」とかという議論をするつもりはありません。ただ、進化論をベースに慈悲深さを考察すると、このような帰結になるというだけです。


さて、「愛」も「恋」もあくまでも動物的なものであるならば、すでに議論した「愛」と「恋」の関係は破綻します。すなわち、「愛」を抑圧するのが「恋」であるという上下関係は成り立たず、この二つは並列する人間の二つの感情にすぎないということです。「愛」と「恋」とはやはり横の関係であり、二つの欲望が綱引きをしているイメージを持つとわかりやすいかもしれません。


これが今回のサブタイトルである「愛と恋のハイブリッドシステム」という言葉の意味です。


「愛」と「恋」の両立の不可能性

さて、問題はこの二つの感情の両立の難しさです。人間の感情はこの矛盾に近い葛藤を本質的に抱えており、恋愛が難しく、多くの人が恋愛を人生の大きなテーマの一つとして悩み続けるのはこの辺りが理由なのだと思います。


前提として、「愛」は他者と排他的な関係になること要求します。恋愛関係になる際に多く人が行う告白という儀式や、結婚という制度の本質はその排他性です。自分はパートナー以外とは特別な関係を持たないし、パートナーも自分以外には特別な関係を持たないという約束が「愛」には必要になります。


一方で「恋」は相手を慈悲深く思いやるという感情です。お互いのことを信頼し、相手の気持ちや行動を縛り付けることなく、それを尊重するのが「恋」という感情です。一見すると「愛」よりも素晴らしい感情のようにも見えますが、その本質が遺伝子を残すことであるということはすでに述べた通りです。


ここに「愛」と「恋」との齟齬が生じます。イメージしやすい「束縛」という言葉を使うとわかりやすいと思いますが、束縛しつつ相手の意見を尊重することはできないわけです。


パートナーが、万人を愛する思いやりのある人間であってほしいという思う人も、自分以外の人と特別な関係になることを許容できる人は少ないでしょう。また、パートナーの意見を尊重すると言う人も、他の人を好きになるという行動を尊重することは難しいのです。


だからこそ、我々はたとえに愛を「愛」するように諭す美雪の言葉に強烈な違和感を感じるのだと思います。「愛」と「恋」は本質的な矛盾を抱えており、この二つの感情を併せ持つ人間の対人感情もまた矛盾したものだということです。


有名なイギリス作家ジョージ・オーウェルの作品に「動物農場」という小説があります。この小説は恋愛とは何の関係もない小説ではありますが、ちょっと面白い表現があり、それが今回の議論と通じるものがあるので紹介したいと思います。


「すべての動物は平等である。だが一部の動物は他よりもっと平等である。」


これは、平等な社会を目指していたのにも関わらず、支配階級が特権を振りかざした結果、格差が生まれてしまうという共産国家の矛盾を風刺した文章です。こうして文章にするとナンセンス極まりなく、「何をバカなことを」と思ってしまいますが、こと恋愛においてはこれと同じような矛盾をパートナーに要求していると言えます。つまり…


「あなたの感情は等しく尊重します。でも、私のことを(僕のことを)愛するという感情は他よりもっと尊重します。」


まあ、つまりそういうことです。ある意味でこれが本当の意味での恋愛の成就の不可能性だと言ってもいいでしょう。我々は本質的に両立不可能なことを求めてしまうものなので、それを追求してもその感情が完全に満たされることはありません。だからこそ、その中でどのように折り合いをつけるかを考えなければならないわけです。


結び

今回は綿矢りささんの「ひらいて」を読んで感じたことを書いてみました。この小説は読んでいて非常に面白く、揺れ動く人間の感情や行動を描き切るのはさすが芥川賞作家だなと思いました。


文庫版の光浦さんの解説にもあるように、一見むちゃくちゃで破天荒な愛の行動ではありますが、それは多かれ少なかれ誰でも心のうちに持っている感情なのだと思います。見ていてイライラするけど共感してしまう愛の感情、そんな矛盾について考えて書いたのが今回のコラムです。


いつものことですが、この文章はあくまでも僕の個人的な解釈であり、小説の捉え方は読者の数だけあると思います。このコラムが何かしら考えるきっかけになったり、感じるところがあれば幸いです。

それでは、また!


*1 ページ数は全て新潮文庫版のものになります。

綿矢りさ『ひらいて』(新潮文庫、2015)


参考文献

スティーヴン・ジェイ・グールド『ダーウィン以来 − 進化論への招待』(早川書房、1995)

ジャレド・ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』(草思社文庫、2013)

ジョージ・オーウェル『動物農場[新訳版]』(早川書房、2017)