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Bellefleurs〜ベルフルール◆新宿・西新宿の美容総合サロン◆

自己紹介します!! “ミチコができるまで”

2019.04.19 07:14

ブログ2時間かかる。っていうと、

どれほどPC作業が苦手かお分りでしょうw

22年も美容や人に関わることだけしてきました。

強みが何かを知る暇もなくw

ただ猪突猛進に好きなことに邁進してきました。

どなたかに関わることが好き、

その方が最高の笑顔になる瞬間が描けてしまった時には

もう私の中で勝手に始まってしまってるのでwww

そのあとは全力ですw

だから、PC作業はお願いしてやっていただいてきました。

全部手書きw

原稿も、シナリオも、表計算雛形も、popもチケットも

全部手書き!

あとはお願い!!

そうやってアナログに生きてきたから

昨今の皆さまのご活躍をSNSで拝見するたび

自信喪失しておりましたw

みんなすごいなーーー

私ミジンコ

って思っちゃう。


担当さんから『自己紹介入れてくださいO(≧∇≦)O』

て言われて5日経過。

自分を打ち出すのが上手な方たちがたくさんいて、

そういう方たちとは肩を並べられない


私は本当はのんびりだから人より頑張る必要があって

人より遅いから過剰に急いでいるw

だから最新の情報に目をくれる隙間がなくて

自分をつまらないヒトだと子供の頃から思ってました。


流行りとかわからないし興味が持てなくて、

みんながサンリオにハマってる時に私は可愛いものが分からず筆箱は

来来キョンシーズとムーミンだった笑笑

(あ、30年前ですw)

しかも人生が濃すぎていつも自己紹介の加減がわからないwww

長いことヒトシオ。許してね(^^;)

興味があったら見てみてください。

多動珍獣の生き方です笑


ピアニストになりたい


と1年言い続けて4歳からピアノを始め、

最初の先生から期待していただけてご紹介され

某音短大ピアノ科の由布子先生のご自宅レッスンが

人生の中心で幼少期を過ごしました。

幸せなことに小学生から象牙のグランドピアノで

レッスンさせていただいていたけど

その頃から楽譜が読めない多動珍獣でw

ほとんど交流せずピアノと絵なら静かに座ってる。

けど、すぐ飽きるw


先生はいつも最初に画用紙と色鉛筆を用意してくださり、

弾いてくれる次の課題曲を聴いたイメージを

絵で描くことから練習は始まりました。


もしこの小さな手がスクスク育って由布子先生くらい大きくなってたら

ピアノを辞めなかったかもしれません。

『美知子ちゃんにお知らせがあります、
美知子ちゃんの手はもう大きくはならないのよ』

14歳で絶望しました。

貯めたお小遣いで買いためた憧れの曲たちは

黒鍵に4本指が乗らないと弾けない譜面ばかり。


その曲たちが弾けるようになるためにいつも6冊も課題曲を持たされて

そこに辿り着くことだけが人生の希望でした。

なのに先生は今のままでもピアニストになったらいいってい言う。

もう何を見ても聞いてもやる気が起きない

(今思えば座って本を読めないミチコは楽典が

まるで手付かずだったので

どのみち音大は行けなかったかも知れないwww)


ピアノしかないのに。

私にはピアノしかないのに。

ピアノは唯一自分の価値を測れるものになってしまっていました。


人と関われなくて高校に行くのも気が重かった。

逃避で『ウィーンに行く』と騒いだら高校教師の叔父に

『お前は家を一軒売る覚悟があるのか』と問われ即撃沈。w

そのあと、空虚感の中、ピアノを続けることにも

もはや倦怠感しかなかった時に

(甘いよねwそりゃ無理だわと今なら思うw)

目に飛び込んだのは

カンボジアの戦争孤児の衝撃の画像でした。


蝿がたかることもそれどころではなく

泣き疲れて泣くのもやめたのでしょう、

顔がこけてただ遠くを見る子供を見たとき

『お母さん、私戦争レポーターになる』

我が家は大騒ぎでしたw

一度言い始めると聞かないからです。


学校は嫌いじゃなかったけど、

お勉強はじっとしてられないから嫌いでしたw

だけどその為に進路を変えて音大から

国際関係学部志望に切り替えたのは高3の9月。

由布子先生は嘆いて下さり担任の名倉先生

(なぜかいつも必死に構ってくださった)は大慌て。


国際関係学部のハシリだったミッション系大学の推薦には

パイプがないと面接で言われて落とされ

(オトナの事情をここで知る。学生にそれを言う世の世知辛さもここで知るww)

その後受験で本志望に補欠合格で、

そこじゃなければ働くか、

とにかく東京に来てしまえば何とかカンボジアに繋がるだろうと

思っていたけど、合格していた大妻に決めたのは

『頼むから普通の女の子として短大だけでも行ってくれ』

と始めて父が泣いたので、

さすがの多動珍獣もイケナイ事をしている気になったから素直に従ってみた。

それが運命の分かれ道でした。

最終決定が3月27日、だったから、家がないw


大妻の寮に入寮。

その時私の髪型はスパイラルw

(PUFFYで流行ったのだよ?)

玄関を入って最初に目に入ったのは


『恥を知れ』

の大きな書!!!

 あ、私のこと?と思いましたw

そんなものは知りません

とも思っていましたw


カンボジアに行くことを密かに諦めてなかったので

厳しい寮の規則の隙間を縫ってアルバイトに明け暮れ

自立したくて勝手にアパートを借りw

おっと、ここまででお気づきでしょうが、

私は美容を志したことがそれまでなかったのです


国際関係学部に編入するかカンボジアに行ってしまうか、とにかく稼がねば!

と沢山のアルバイトを掛け持ちする中で出会った先輩から

私のアトピー全開のお顔


を気にかけてくださりご紹介いただいたのが

私が育った総合美容と化粧品開発の会社でした。


病院で綺麗にならない人がたくさん来ていた、

20畳ほどの明るいリビングに沢山の女子と

ワンピースの制服を着たステキなお姉さんたちが

楽しそうにしていてものすごい活気。

なんだここ

平日の昼間からワンサカ人がいる空間に

斜に構えて生きていた多動珍獣には居心地の悪いこと満点でしたw


でも次に衝撃だったのは、

その日担当してくれた方が皮膚科の先生よりも

肌のことも体内の仕組みも代謝や栄養も詳しかったこと。

私はこの人体というマニアックな世界に
一目惚れしてしまいました。

美容は興味ない、人の体に触りたいとは思わない、女子が苦手、超疑い深い

私は、自分の肌がとにかく綺麗になればいいと

始めた肌質改善と体質改善で仕組みを知りたくて

美容理論講座に出るためだけにアルバイトを始めw


当時まだパラベンも使用される市販化粧品や

活性酸素や界面活性剤のことは世間ではそんなに知らされておらず、

同じようにとんでもない肌のトラブルに悩む方にたくさん出会い、

完全無添加やアトピーの権威である
丹羽先生の開発された商品など取り扱い

用意された理論研修はかなり専門性が高く

“本物”だなと思うものばかり


同じ悩みをどうにかしたくて

すぐにお客様をおもてなしする側になりました。


(今では当たり前になった化粧品の影響や美容健康知識、

世の中であるある大辞典なる番組が大ヒットして

これらが伝えられ始めたのはこの数年後でした。

本当はもっとはやく知っていたら救われた人が沢山いたでしょう。)


とはいえ施術は猛練習を要し、知識は厳しい試験があり、

デビューするまでは徹夜で練習したこともしばしば。

自分の体や顔で理論が本当か試したり


そうやって学ぶうちに

私のお顔は半年、

身体は1年半で真っ白な肌を取り戻しました。


そして決定的な出来事。

目以外のお顔中が真っ赤に腫れて

笑っただけで膿みが出てしまうYちゃんが

出会って間もないのにご契約なされる瞬間、

私は怖かったんです。
責任が取れないかもしれない


『Yちゃん!今日決めなくていいんだよ!もう少し考えたら?!』


そんなお肌を集中的に改善するのに、

身体の中も外も毎日ケアが必要で1年の改善のお見積もりは

21歳の女の子が支払うのには高額すぎました。

(私はそれ以上かかったけどw)


その瞬間Yちゃんはニッコリ笑って何の不安もない笑顔で

『私みっちゃんを信じてるから大丈夫!!』
ドキっとしました。超ショックでした。

人に関わらずに1人の世界で過ごしてきたから、

信じないし信じてもらわなくていいと思っていました。

私はこの時のことを思い出すと今も涙が出ます。


彼女のおかげで

私は『人と生きている』ことを知りました。


この時もうカンボジアのことを思い出すこともなく

必死で毎日Yちゃんと共にいました。

身体が離れていても心は共に

そんな体験。

日に日にお肌と一緒にキラキラ綺麗になる

Yちゃんのことが自分のことより嬉しかった。

メイクや眉の切り方を教えて、

髪型のイラストを書いて美容室を紹介して、

洋服を選んで、

そうして一緒に楽しく日々を過ごし、

綺麗になったYちゃんは

人生で初めて出来た彼と23歳で結婚しました。

『みっちゃんありがとう、みっちゃんのおかげだよ』

それが最後でした。


嬉しいのに寂しくてしかたありませんでした。

そしてこのYちゃんとの体験が私の生きる道を決めました。

 “誰かの人生のキッカケになりたい”

そして卒業がある。

必ず。


お客様の結果が創れるプランナーになりたい。


22歳を迎える年、覚悟してライセンス昇格するために、技術知識はもちろん、

リーダーシップトレーニングという過酷なトレーニングも、

“もっともっと”

とチャレンジしてきました。

人生を変えるきっかけになる体験を

 “絶対体験”

と言うそうです。


自分もお客様も、スタッフも仲間も

出会う人たちと幸せになりたい一心で

多動珍獣は壁に頭を強打しながら

(のような体験w)


様々な体験の中、沢山の出会いに育まれ

チャレンジしてきました。

『自分ができなかったら人には伝えられない』

だけど人と生きたいのに関わり方がわからない

多動珍獣ミチコw


人との関わりの中、本気になればなるほど壊していく。


22年の中でこれが底だろうと思う挫折とどん底は3度ありました。

それでも

ビジョンがあるから

乗り越えるために

専門のトレーナーについて

 “直面トレーニング”12年(笑)

深く傷ついて

諦めそうになる時

その度に思い出すのはお客様の笑顔

そして Yちゃんのこと


そうやって何度でも何度でも立ち直って、

また前を見て進んできました。

七転び八起き

私のこの人生の座右の銘

 ~全てはその笑顔のために~


いつしか

どなたかの人生が輝き始める

人生の転機をそばで支えられる人になりたい

そんな風に思うようになりました。


今も思い出す、子供の頃、毎日コツコツ

人と関わるのが苦手な幼少時

どんなに感情が乱されることがあっても

ピアノの練習があったから救われた

自分と神様は見てるから

正直でいよう

そしてそれを支えてくれたのは遠い存在だけど大好きな

ドアを開けると『はーい!!』って真っ正面で迎えてくれる

由布子先生の底抜けの笑顔と

 “本物”に触れた体験。
『本物になりたい』


その思いでこの10年を乗り越えてきました。

キネスティックセラピーとの出逢いはあの頃のピアノと同じ

この10年私を皆さんの笑顔に導いてくれる最高のプレゼントでした。

一度は破門されw

それでも頭を下げに行きwww

またも夜な夜な練習。鍛錬あるのみ。

40分で足りない、もっと上手になりたい、もっとラクにしてあげられたら、、、

気付けば、キネセラが好きになってました。


この20年私の美容人生を育んでくださった沢山のお客様と

私の可能性だけを信じ関わって下さった4人の師と、

私のところに来てくれた過去全てのスタッフたちに

心からの感謝を込めて

この21年を卒業し

私は40歳を迎え2018年

私の美容人生をより多くの方のお役に立つために

また1人、これからの20年に新たなスタートを切っています。

一般的なエステシャンとはだいぶ違う多動珍獣ですがw

なのでお越しくださって

びっくりするおっちょこちょい

があるかもしれないのですが(ごめんなさい(ーー;))

@コスメサロンを通じて

ご覧下さる皆様に出会える日を心待ちにしております。


西新宿にポツリとある隠れ家みたいなサロンです。

良かったらキネスティックセラピーにも私にも、

未だ見ぬご自身の今よりちょっとステキな姿にも

ぜひ会いにいらしてください(*^ω^*)


《皆様へメッセージ》

22年の美容人生の中でたくさんのお客様の人生に触れてまいりました。

“外見の美、内面の健康、心の豊かさ”を兼ね揃えてこそ本当の“美しさ”と三面美容を唱えプランナー担当制の環境の中で育ってまいりました。

時に喜び、共に悲しみ、また時にお叱りを受け、そしてまた最高の笑顔に辿り着くたび、“もっともっと”とたくさんのことを学んで参りました。そして「本物になりたい」と強く願い、お客様と共に歩むことに邁進してまいりました。

この22年の美容人生で関わらせて頂いたお客様の数は延べ1万人を超えました。

尚まだ未熟ですがお客様方に育んで頂いたこの人生をまた1人でも多くの方のお役に立つことに使っていきたいと強く思います。