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「千の風になって」の誤解

2019.06.02 08:47

https://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/e3b8e723f83e6d99c57f112a25f10e3e   より

千の風になって』

   

 私のお墓の前で 

 泣かないでください

 そこに私はいません 

 眠ってなんかいません

 千の風に

 千の風になって

 あの大きな空を

 吹き渡っています

 秋には光になって 

 畑にふりそそぐ

 冬にはダイヤのように 

 きらめく雪になる

 朝は鳥になって 

 あなたを目覚めさせる

 夜は星になって 

 あなたを見守る

 私のお墓の前で 

 泣かないで下さい

 そこに私はいません 

 死んでなんかいません

 千の風に

 千の風になって

 あの大きな空を

 吹き渡っています

 千の風に

 千の風になって

 あの大きな空を

 吹き渡っています

 あの大きな空を

 吹き渡っています

アメリカで話題となった『Do not stand at my grave and weep』に、小説家の新井満氏が訳詩を手がけ、自ら作曲して話題となった。原詩の作者は不明だそうで、アメリカ女性Mary Fryeが友人のMargaret Schwarzkopfのために書いた詩がもとになっているともいわれている。

また、この歌はナチスドイツから逃げてきた亡命者がナチスドイツに残してきた母の訃報を知り悲しむ親友のために慰める為に作ったという説もあるようだ。9.11同時多発テロの犠牲者追悼式でも唱えられ、またJR福知山線事故など様々な犠牲者の遺族を慰める曲として社会現象にもなった。

そして、今、この曲が一人歩きして宗教界、特に仏教界に一つの波紋を投げかけている。実は、私のところにも、年初からこの曲の歌詞には亡くなった人が「私はお墓にいません」とありますが、と問われる人があった。

中外日報5月8日付社説「千の風の曲が宗教界に響く時」には、「死者は墓にいないで風になっているというのだから、葬儀の脱宗教化と、どう結びつくであろうか」とある。

また、ある宗派の研究機関の問題提起として「仏教が弘まっているはずの日本で『千の風になって』が注目されているのは仏教の教えが理解されていない、支持されていないということでしょうか」とも記されている。

短いコメントなので、その真意が計りかねるのだが、日本仏教として、お墓と亡くなった人とがどうあると考えるのかがはっきり示されていないように感じる。もしくは、はっきりと言えないのだろうか、または理論と認識が相違しているのであろうかとも思える。

それぞれに宗派によっても考え方が違い、それぞれ僧侶も考え、思いが違うのではないか。そこには、宗派の教えばかりを重んじ、本来しっかり学ぶべき仏教教理の根本が理解されていない今の日本仏教の現状を露呈しているようにも感じる。

丁度、先週開かれた國分寺仏教懇話会でこの話題が話し合われた。石仏の取り扱いに触れたときに、この「『千の風になって』の歌詞にあるように、亡くなった人はお墓にはいないのですから」と言うと、一人の方から「お墓に亡くなった人は居ないんですか」と問われた。

これまでにも懇話会では、お墓の話をしてきているので、皆さん理解されているだろうと思っていたが、ことはそう簡単ではないとこの時了解した。小さいときから、亡くなった人に会いに行こうとか、お墓に参って静かにお眠り下さいと思ってきた思いはそう簡単には払拭されないということだろう。

また昨日、近くの知人が来てこんなことを言われた。「これまでお墓参りして馬鹿を見たわ、『千の風になって』で、お墓に私はいませんって歌っているのに」と。川柳でもこの手の笑い話があるそうだ。お墓に亡くなった人がいないのだから、墓参りをしないいい口実ができたというものらしい。

はたして、このような理解でよいのであろうか。千の風に歌われているから、お墓に亡くなった人がいないのだから、お墓にも参る必要もない。実に現代的な割り切り方とも言えようか。まず、歌にうたわれているから、何事も正しいと思ってしまうことは、余りにも短絡的過ぎよう。

また、お墓に亡くなった人がいないとして、だから墓参りは必要ないというのも、いかがなものか。それでは、ここで、はっきりと仏教的にどのように解釈すべきかを述べてみよう。まず、亡くなった人はお墓にいるとはどのようなことか。

お墓に亡くなった人の心がおられるということは、仏教では生きとし生けるものは死後六道に輪廻転生するとしているのに、転生できずにこの世に未練を残したままとどまっていることだと言えよう。亡くなった人は、49日後に来世に行かれているのだから、お墓にはいない。

私たちは、この身体が自分だと思いこんでいる。だから、亡くなった人もその遺骨がその人だと思ってしまう。私たちはこの身体をもらって、生きているだけで、身体は寿命を終えたら、脱ぎ捨てて、来世に行かねばならない。

どこへ行くかはその人の一生の行いによってもたらされる亡くなった瞬間の心に応じたところと言われている。だからこそ、私たちは仏教の教えを学び間違いのない生き方をしなくてはいけない。

では、お墓にいるからお参りが必要で、いないなら墓参りは必要ないのであろうか。お墓とは、亡くなった人に仏塔建立の功徳をささげ、その功徳を回向するために建立するのである。

だから、亡くなった人がいなくても、足繁く墓に参り灯明線香花を供えて荘厳し、その功徳を来世に赴いた故人に、前世の家族として回向してあげることは大事なことであろう。

また、亡くなった人が、風になったり、雪になったりする歌詞に反響があったことで、あたかもアミニズム(自然精霊崇拝)が支持されたごとくに解する人もあるようだ。

しかし、あくまでその部分は、突然家族を亡くし心傷ついた人が、亡くなった家族は身近にいてくれるのだと思うことで、心を癒すための設定程度に理解したらよろしいのではないか。

この曲に心癒され、身近な人の死から、人が生きるということ、死ぬということをしっかりと捉え、豊かに生きていくための一つのステップだととらえればよいのではないか。

歌詞の一つ一つにこだわり、そこから現代に生きる私たちの宗教観を問うこともなかろう。それよりも、この話題から、きちんと人の生き死にについて、それがどのようなことか、ではいかに生きるべきかと語ることが先決なのではないか。