風(ルン)番外
https://ameblo.jp/djvarahi/entry-12446432545.html より
少し別な話をしてみます。
一般的に気、オーラアドと言われるものがありますが、
これは行者であっても間違えて捉えている方が非常に多くいます。
それだけ都合よく変えられたものが主流になってしまったということなのですが、気とはなんでしょうか?
特別な力? 誰もが持っているエネルギー? 神秘的な、不思議なものなのでしょうか?
これはどれも正解とも言えるかもしれませんが、間違い、認識不足なんですね。
おそらく今ではこれを伝えられる方はいないかもしれません。
力やエネルギーと言うのはある意味では正しいのですが、あまりにも広い意味がありすぎて、どうとでもとれてしまうんですね。
よくわからないから神秘的、霊的のようにもなり、どうとでもなるんですね。
この世のすべては振動によって形として受け取ることができ、見ることも触れることもできていますが、その振動が止めば、死や崩壊、消滅などと言われます。
振動することで、質量に応じた熱や現象なども現れるわけです。
何かを食べて消化する過程で熱が発せられる。
運動などをして体温が上がり汗や熱気などが出る。
寒いと体がシバリング(全身の筋肉の小刻み(1分間に最大約200〜250回)な不随意運動(震え)によって、熱を産生させる生理的反応である。 シバリングは、安静時に比べて最大で6倍の熱を産生できる)をおこす。
そうして体を守るわけですが、マントラの旋律やわれわれの意識や考えも 気 と言うわけです。
それに色がある、こういう色ならああだこうだと言いますが、単純に、生起が弱いなら暗い色、活発なら黄色など雰囲気や考え言動行動でもだれにでもイメージは付くでしょう。
もしもいやな思いや後ろめたい思いがあれば、気分が乗らなかったり何をやっても楽しむことは出来ないでしょう。
逆に順調で素直に感謝できているのなら、いろいろ見たり触れあうことが楽しいでしょう。
このように気分は思いと連動していることが分かると思いますが、
想いや考え出来事で左右されて、かもしだしているものは気とは言いません。
緊張すれば汗が出たり、取り巻く環境によって反応して現れる雰囲気や その人物を取り巻いて、感じられる光や音、匂い、気配などが見れるという場合もあります。
その様にかもし出されているものなどを気と分類しているのが世間ですが、それが見えようが、感じられようが、気ではないんですね。
それらが30年以上かけて様々な言われ方や見られ方をされて、今に至り、色分けや表や訓練法なるものまでできてしまったわけです。
もともと気と言うのは、仙道と禅から出たものです。
易経が主ですが、それ以前にミラレパの瑜伽を伝えた一門があり
それから派生した仙道の一派がありましたが、残念ながら定着せずに今では完全に途絶えてしまいました。
部分的には崑崙や峨眉の方に残されていました。
私が始めたころ両派の老師と、かろうじて残っていたある老師に受け入れてもらえ教えていただくことができましたが、
基本的には五元素(四元素)を気と訳されたわけです。
ここで、気と言う字に注目してみましょう。
気とは旧字で、氣と書きますが、米と〆の違いですが、
乄(しめ)は、文字のひとつで、和製漢字で、戦後統治下閉じ込めるなどの意味からこれに変わったとされています。
また、
米 は末広がりや八輻輪の意味があり、仏教より伝わった易によるので八輻輪(法輪、輪宝)の意を持つ。
また米には「五元素の均衡と恩恵を最大に受けている唯一の神仏の祝福のもの」と言う意味があり、太陽の種族のたどった道(地域)のみに稲作の習慣が残り伝えられ、その子孫であり、意思を受け継いでいるという意味から米になったという説などがあります。
また、トーラスと言う円環、輪環は、円周を回転して得られる回転面で、ドーナツ型をしていますが、自然界・自然物には、トーラス構造になっているものが多く、磁石の磁場のようなもので、また、地球自体も大きな磁石になっているので、トーラス構造の磁場が存在します。
大気の流れ、海流、台風の構造など、自然物はトーラス構造になっています。
輪廻やカルマ法則などもそれに符合しますが、
人間にもトーラス構造の磁場が存在しており、
もっと大きな視点でみれば、太陽系もトーラス構造であり、銀河系もトーラス構造になっています。
毎日の習慣や時間、繰り返されることも円の動き、働きとなるでしょう。
太極拳のように、途切れることなく角の無い動きなどは、動きによって逆らわず、拒むことなくめぐらすという事ですね。
しかしわれわれは、思考や言葉、心の状態や好みや嫌悪で途切れ、ムラだらけなんですね。
言うなら、何をどうしようが、専門であろうが、そのどこかに必ず二元的に偏っている。
どんなパワーだろうが神秘性であろうが、自分自身がムラだらけであれば、それらは ただの思い込みや独善的な見解だけで
穢れであり、自然に逆らい続け反しているということになってしまうんですね。
それをいくら論理的に読み解き理解を深めても偏りは変わらない。
私たちは常にトーラスの循環の中で反している部分と逆らえない部分の二面性の中で自我によって振り回されているわけです。
通常目にすることはできないが、自然界ではあたりまえで、トーラスの影響を受けているわけです。
ルンもプラーナもみなこれに沿って巡るが、知るもの得たものは今ではいないでしょう。
これもわからずにヨーガや瑜伽、気だプラーナだ、このルートに云々と言う無駄な事を思い込み僅かしかない時間を無駄にして
しまっているんですね。
その雑味を出して狂わせるのが三毒、五毒です。
それを法則に法り ルンとして、プラーナとして、逆らえることも無く運んでいるわけです。
如何に本質を知り空性に座らせるか、それにより偏りは消える。
そうして浄化に入る。
偏った身体論や技法、宗教論やエネルギーごっこではどうにもなりません。
偏っているからこそ反発もまた現れてしまうんですね。
仮想や信じる信じないで行っている段階では身体論や技法、宗教論やエネルギー論は偏見であり、独善に陥っているという事なんですね。
既に備わり形成されてしまっている元素に対し、二元的アプローチや思い込みでは何も変わりません。
だからこそ元に戻そうという働きであり法則が働く。
それが困難苦難などです。
しかしそれにも反しようとしてしまうのが我々なんですね。
それを神仏やエネルギーに置き換えても変わりません。
それで変わったのは、人知を超えた何かにたいし、自分をさらけ出し向き合ったことと、耐えた結果で無意識にでも気づいた何かがあったからなんですね。
それが一度でもあったのなら、理由やつじつま合わせの何かを探し、覆ってはいけないんですね。
覆ってしまえばそれ以上に大変なことになるか、ほかの誰かがそうなることになるんですね。
気とは本来は、餼と書きます。 气
餼は贈り物、食料や糧、自然や大地からの恵み、生贄などの意味になりますが、その片方を取り、気になりましたが、これもまた元来は、炁と書くんですね。
火に 气と書き、しっかりと熟成させ蒸気が上がるようにしっかりと上げる。(水昇火降の意味?)
これには精神と言う意味があり、精神、心(本質)を上げる(高潔)。と言う意味なので、完成された唯一のクンダリニーやミラレパの瑜伽、途絶えた仙道に於いてはこの字を使い示されていました。
文献、聖典などは、いくら頭で理解しても通用しません。
一文字一文字、一つの漢字でも重要な意味を持たせているんですね。
これができるのはサンスクリットや漢字ぐらいでしかできないのですが、それでも漢字ではサンスクリットの一割も意味は含まないんですね。
これも今まで教えてきましたが、残念ながらできた方は一人もいませんでした。
神秘的世界と言うものは、確かに自由でここちもよく一見よいものです。
けれども心地よいがために堕落しても気がつかない。
好きと思うのは都合がよいからなんですね。
自分の何がそう思い感じているのか?
本当の自分が感じているわけではないんですね。
カルトやオカルト、ご都合主義では何一つ果たすことは出来ません。
神仏や聖賢たちが、商業ペースやニーズに合うものを わざわざこじつけをしながらも なぜ説く必要があったのか?
真実の神仏や聖賢たちであれば 無知な衆生を喜ばすような都合のよいものを遺し伝えることはしないのは容易にわかりますね。
無駄に時間を費やすことなく、的確に求めていただきたいと思います。
原初の意識に起源はない。
その門は閉ざされることはない。
それは、いかなる言葉によっても到達されることはない。
それは、詭弁によって論証されることはない。
よって、人はそれを作り上げようとするべきではない。
それをありのままの境地の領域でくつろがせなさい。
ミラレパ
神仏だ神秘性と言うのなら、信仰も礼拝もいらぬ。
どこまでも純粋であり、高潔で孤高であれ。
そこからでしか慈愛は生じることはない。
高潔あると思っているのなら、ただの慢でしかない。
慈悲慈愛と思うのは自己満足の情でしかない。
寄れば人恋しいという自らのすり替えでしかない。
帰って衆生を苦しめることになるのである。
神仏は高潔なものにのみ応える。
祖師は私たちにそれを示し我らを導く。
迷ったのならすがらず迷え、
それこそが祝福なのだ。
怖れや悲しみ、それに応える何かは、そこに留まらせ目を背かせる
定着の罠なのだ。
神仏はそのようなことはすることはない。
そのために教えと行うことを遺されたのだ。
グル チャトゥル