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風(ルン)⑤

2019.06.02 08:51

https://ameblo.jp/djvarahi/entry-12446225309.html    より

さて、段々と本題になっていきますが、

懺悔行やその他教わっている方や、甘露を使用されている方は障害は気にする必要はなく、また灌頂も諸仏より与えられるので問題なく進められるでしょう。

逆にまだの方は、世俗の中でギャップが生じていきます。

それがないのなら、どのような物でも釣り変え置き換えでしかない

ただのごまかしでしかないわけです。

逆に言えば、癒しと言うものは本当はどこにもありません。

ただすり替えごまかしを癒しと言う一つの形にしてしまいますが、

それに寄って俗に戻り渡ろうとするわけです。

辛い思いや悲しい思いをし、神秘性に出会えて変われたなど多くありますが、その為ではないんですね。

本質を知り覚醒、覚者となれと言う意味でそのような困難や気付きが示されるとされて来たわけですね。

そうでなければ(群れたりご都合主義の宗教などは論外ですが、)どの様な神仏にも、そして自然にも反する行為なんですね。

自然万物は、共存を望まない人間の勝手な見解は放置。

けれども死と言うエゴの存続が途絶えたとたん、万物は受け入れてくれるでしょう。

本当の純真性万物に触れたのなら、だれもがそこに向かい始めようと思います。

自然とそこが居場所であり変える所と知っているんですね。

しかしエゴ(自我)はそうはさせません。

当然ですね。

エゴは存続できないことを恐れます。

自分や他の死を恐れ悲しむのもその為ですが、

単純にこれだけで見ても分かると思います。

ここに気付き始めると、無意識であっても神秘的なものなどに惹かれたり、霊的なものに惹かれたりしてしまうんですね。

けれども良くも悪くも断片的なものしかなく、幻と言うエゴが見せるリアルの現実に引き戻されてしまう。

それが繰り返されることで、その境目が見えたり感じられたりするんですね。

それを垣間見た時には、リアルも神秘性もみな鮮明でありながらぼやけた鮮明さとなり知ろうが知るまいが、何一つ真実は無く、どのような物も教えも(一般的な)何の役にも立たないことを実感していきどちらに寄ることもできない、けれども幻であるのに実感する現実は容赦なく展開する。

誰に言おうが聞こうが知るものも気づくものもいない。

分かっていそうな人がいても術がない。

そんな狭間がギャップとして感じ取られるようになるんですね。

ヨーガや心霊、宗教など山ほどあっても知るもの、超えた者がいない。

論理的にそれらしく言うところでさえ、引用に手を加えているだけであったり 私見が多いので見当違いなものが多い。

道と言いながら、あれこれ繋ぎ合わせているので、どこにも出口がないわけなんですね。

なのにゴールだけ大きく見せて期待させる。

気付かない、感じないものにいくら説こうが実感していないわけですから必要性を感じないわけです。

占いなども展開や先を知ることは出来ますが、元を知ること、狭間を知ることは出来ない。

制度が上がるにつれて運が良ければそのことに気がつく。

けれでも多くは時が経ちすぎてしまって作りあげた形を変えられなかったり、もう終わりが近かったりとなるんですね。

どの分野であろうがどの行であろうが、あれこれと付帯することをメインにしたりこだわってしまいますが、結局のところはそんなものはどうでもよい。

もちろん極論ですが、どうでもよい。

なぜならどの行もどの分野も結局は心の完成なんすね。

今の企業の多くを見ても、心の無いものが多いでしょう。

そのような者にこだわっていれば、利益も復興も間に合わない。

人は慣れたり、評価し、不満が多い、安い、便利、対応も万全が当たり前など。

送り出すもの対策するものはそれではいけないというのが本音でしょう。

それに流されるスピードは速くなる一方で、追いつくのが精いっぱい。、とり残されるのが必至でしょう。

ここではあまり書くことは出来ませんが、

これから始まる訓練にも出てくるチャクラやルートなど、

世間ではヨーガ的に言われているものが当たり前のようにそうだと思い込んでいますが、ここでははっきり言いましょう。

本当のルート、チャクラを説いている方、正しく図になっているものは一つもありません。

これはヨーガに限らず瑜伽でも同様です。

一つの理由としては、単に継承していない。

初歩以前の概要で示されたものをすべてだと思っている。

文献等に示されたものを論理的、私見的に認識してしまった。

衰退後にそのように思い込み繋ぎ合わせ、一般的な気功や霊的のような概念が入り繋ぎ合わされたり

実習にて肉体的感覚の錯覚などで、商業ベースと合わさって拡散したんですね。

確かにヨーギーなど正しく得た方は居られます。

しかし、通常は、行者の試練なので、大まかな概要以外は名称すら教えないのが普通なんですね。

公表している方もいますが、勝手に行っている場合もある。

課題を課しやらせる。

苦悩や葛藤の末行者は自ら穢れを払う。

この穢れがあるのがチャクラと言う場所で、それを運ぶのがルートです。

お分かりになるでしょう。

ヨーガや求道される方が圧倒的に多い現代に於いて、自称や団体など除いてどれほど偉人聖人はいるでしょうか?

能力があるという方は多くいますが、なぜ団体を作るのか?

なぜ黙って行わずに二元的行動しかできないのか?

世は乱れるばかりでしょう。

力があるなら、救えるのなら黙ってやるというのが古代から言われていることです。

評価や認知させる必要はないとされてきているんですね。

行者たちは自己陶酔で酔いしれ平穏を堪能しどこに慈愛があるのか?

大きな落とし穴なんですね。

人の多いところはどこであろうと穢れが多い。

中途半端な行者ではすぐに影響を受けてしまう。

喜び怒り、憂いや楽しみでも嫌悪でも、かすかにでも心(エゴや三毒)は引っ張られてしまうんですね。

影響されないほど超えた者でなければ、釈迦のようにはできません。

分かっているからこそ関わらないようにし、崇拝させようとする。

慣れてしまい停滞するか下がっていても気がつかないんですね。

そればかりか弟子に囲まれ保てている気になるものが多い。

それでグルにでもなったつもりになってしまうんですね。

それでも気がつけないんです。

寝ているものに周りが声を書けたり何かを言えば、寝ているのに夢などでつじつまを合わせるように展開します。

それは、おかれている状況で錯覚して行ったり思い込んでしまう例えと言えます。

そのような世界がこのリアルと言う世界なんですね。

もちろんそれが悪いというわけではありません。

どの段階でもそういう試練があるんですね。

何かを得れば、どんなものでも人は慢が必ず動きます。

展開しても当たり前の現実の日常のため、それが悪いものと思う方はいません。

その繰り返しで進むことで、悪意も害意も無く、都合が悪いわけでもなければ気がつきにくくなるんです。

最初に三毒などの浄化をしっかり行っていなければ、チャクラやルート、覚醒などはあり得ないんですね。

捕らわれ分かったつもりでも捕らわれたまま識別し浄化できたと思ってしまう。

覚醒を謳う方たちを見れば一目瞭然です。

一見活動的に見えても、事業展開や書籍販売、教室展開で無作為に集わせる。

やり方しかないからですね。

そういう意味での活動性は熱性が強いという証で内に込めていない。

ヨーガ的医学も無く、それらの理解も浅いため、みなに同じことを教えてしまう。

これがどれほど取り返しのつかないリスクがあるのかを知りもしない。

等価交換の原則で行っているので、あとは自己責任のようなところしかない。

法や教え、やり方も人によってみな違います。

通常示されているチャクラなどの図ですが、

プラーナ、またはルンは特定のルートはありません。

と言うよりは、それぞれの穢れで道は違います。

アーサナ呼吸法だけでその穢れは除けません。

もしも穢れがなかった場合にはちがうんですね。

そのために、ヨーガの方の図では留まるところを簡易的にしめしたわけです。

今のように動物化している多くの人たちは、性の乱れや犯罪が多い、被害者であろうが加害者であろうが同様で、そのような場合には、いわゆるスヴァジスターナチャクラに多く穢れやカルマがあるという事。

そこにプラーナは真っ先に行き留まり膨れ上がりますよと言う意味なんですね。

そのために必要な教えや課題が必要ですよ。

と言っているわけです。

これをプラーナヤーマやアーサナなど行って、さほど穢れていなければ通るでしょうが、穢れは穢れ、癖として定着しているんですね。

もちろん休むことなく何十年何百年続けられたのなら浄化されることもあるでしょう。

日常で、それ由来の行動行為や考えで何を導き出そうが

穢れはまた穢れをため込むんですね。

それが三毒や五毒なんですね。

覚醒もその反応が大きくなったときに錯覚するんですね。

本当に覚醒したのなら、静寂や歓喜しかありません。

外に向けたくて仕方ないのは覚醒とは反対だという事なんですね。

そうして性、食、思考は一度で善の徳(幸運)を失います。

楽や快楽由来の事はみなそうですね。

劣化し安易短絡になるのはそのためです。

自分はこの程度ですよと言っているようなものになってしまうんですね。

品がないというのはそういう事なんですね。

しかしそれよりもっと悪いのは、刹那の苛立ち怒りです。

思考やエゴは巧みで以下に引きとどめようかといつも模索して三毒と連携しているんですね。

なので、チャクラやルートは厳密にこだわる理由はありません。

エネルギー即ち、高い清い意思、精神が正しく送り込まれれば、ほっといても視覚化できるようになります。

スシュムナー

ピンガラー

イダー

と基本的にはこのように言われますが、実はそんな単純なものではありません。

もしもイメージしたそのようなものが、ああなったこうなったと感じているのなら、ただのリアルな幻です。

教えているものもほとんどいないでしょう。

これだけでも容易に見分けがつきますが、当然左右逆の方もいます。

また熱性体質だとどうしてもピンガラの方が優勢となり、活動的、行動的、落ち着きや安定できずに外に求めてしまう。

このような人がヨーガだなんだと勝手に行っていれば、心臓が悪くなったり癌などになるのは当たり前なんですね。

当然勢いで安易短絡無謀にもなる。

それがよく見えたり、あこがれてしまうのも、自分が同様であるから同じものの展開や

違うように映る形がよく見えてしまうんですね。

この段階でも不変でないことがわかるでしょう。

肝心なものは何も学んでいないという事なんですね。

なので文面だけで示すにはあまりにも枠が狭いんです。

あくまでも下地作りと考えて、準備を整えていただきたいと思います。

進まれているようなら、いくらでもお教えしていますが、

励まれている方であれば、声でも文字でもそれは現れます。

一般、求道にかかわらずお伝えできる機会も設けますので、活かしていただきたいと思います。

世間で知ることは決して出来ないものを惜しむことなくお伝えしますが、何もしない方には何の役にも立ちません。

真似事身勝手に手を貸すことは出来ませんので、

ごまかすこと、思い込むことなどしっかり分け、行っていただきたいと思いますね。