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「千の風になって」の死後観

2019.06.02 11:23

https://morfo.at.webry.info/201501/article_1.html  より

【「千の風になって」の死後観】

秋川雅史が歌った「千の風になって」の死後観について考察します。

この詩には現代的な死後観が現れていると思うので、以下、伝統的な死後観との比較を私見により分析してみます。

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「千の風になって」の死後観は、簡単に言えば、死者は、自然の生命力の象徴である風となり、また、様々な自然になって生き続けるというものでしょう。

これはキリスト教的な死後観(墓の中で最後の審判を待つ)とか、仏教的な死後観(浄土かどこかに転生している)と異なります。

この詩はアメリカで作られたものなので、ネイティヴアメリカンの世界観に影響を受けたアニミズム的なものだとも言われています。

しかし、一般にアニミズムは自然(や自然の背後)に魂を見ますが、死者(の魂)が自然や自然の魂になるのではありません。

一般的に「先祖信仰」では、死者は「他界」(冥界やそれに近い場所とされた山など)に赴き、個性を落としながら徐々に普遍的な霊魂としての「祖霊」となります。

祖霊は地縁(ムラ)や血縁(イエ)に結びついた存在で、子孫を見守り、穀物の生育を助け、定期的にムラやイエに戻ります。

そして、やがて子孫として生まれ変わるとされることもあります。

自然に宿ることはあっても自然そのものにはなりません。

では、「千の風になって」には先祖信仰の要素はどれほどあるでしょうか?

「千の風になって」は1932年にアメリカの女性のメアリー・フライによって書かれた詩です。

アメリカではこの「オリジナル版」とは別に「普及版」が知られていて、秋川雅史が歌うのは普及版をもとにした「新井満訳」であり、それぞれの死後観にほんの少し違いがあります。

普及版および新井満訳では、死者が「光になって畑にふりそそぐ」という一節があり、死者の魂が穀物の生育を助けるという先祖信仰の特徴を示していますが、オリジナル版ではこの部分は「おだやかにふりそそぐ雨になり、稔り豊かな畑となる」となっていて、死者自身が自然の創造性に一体化しています。

また、新井満訳には「夜は星になってあなたを見守る」という一節があり、死者の魂が残された親族を見守るという先祖信仰の特徴を示していますが、オリジナル版および普及版では「夜は星の輝きになる」となっていて、そのような観念があるかどうかは解釈しだいです。

このように、オリジナル版から普及版、新井満訳と変化するにしたがって先祖信仰の観念が復活していて、新井満訳には日本の先祖信仰の観念が現れているのでしょう。

しかし、新井満訳においても従来の「祖霊」の観念は希薄ですし、「他界」の観念も見出せません。

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「千の風になって」の世界観にあるのは、「人間」と「自然」だけであって、「祖霊」や「他界」はありません。

古来からの伝統的な世界観では、人間や自然の「死と再生の基盤」となる世界、「豊穣の源泉」として他界を想定していました。

人間や自然がある日常世界を「意識」にたとえるなら、祖霊や他界は「意識」を生み出す「潜在意識」に対応する世界です。

人は日常的な世界の「創造力」には限界があると感じてきました。

日常世界は基本的に形として目に見える、言葉で認識できる世界として作られています。

しかし、自然や人間の心や体の中にある創造力は、合理的な意識によって目に見える形で捉えることが難しく、ただ、潜在意識によって象徴的、直感的、直観的に捉えることしかできません。

創造力そのものには、形がなく、計量化できず、概念的に把握しにくいからです。

そのため、そういった創造力の働く世界として、日常世界とは別の「他界」が想像され、人の心に内在する潜在意識的な創造力・想像力を、日常的な人間の人格とは異なる「祖霊」として想像したのでしょう。

例えば「鶴の恩返し」の物語で、鶴が機を織ることは他界の創造力を表します。

機織をしているところを見ようとしたために、鶴が飛び去ってしまった、というのは、自然の創造力を合理的認識で捉えようとすると失われてしまうことを表しています。

創造力をこのように象徴的な物語で潜在意識で認識するのが人間の心です。

神道的・先祖信仰的な「常世の祖霊」も、仏教的な「浄土のホトケ」も、故人を生前の自我として見るのではなく、故人が普遍性をもった霊魂や意識に変化していった存在と見るという点は同じです。

そこに故人の救いを見出すことができますし、故人とのコミュニケーションに創造性を見出すことができます。

しかし、伝統的な文化で霊魂が普遍化していくと考えるのは、死後に限ったことではありません。

日本では成人式、結婚式、還暦くらいしか通過儀礼(イニシエーション)の習慣は残っていませんが、アボリジニーや西アフリカなど、古い伝統を残す文化では、人生の中で死ぬまで何度もの通過儀礼を行います。

通過儀礼では、潜在意識の世界を体験し、潜在意識とのつながりを深めて、徐々に人格を普遍的な方向に深めていきます。

つまり、生きている人間が定期的な通過儀礼によって人格を深めていく過程と、死後の霊魂が定期的な供養儀礼(法事)によって徐々に個人性を落として普遍的な祖霊になる過程とは、つながった一つの過程なのです。

死も通過儀礼の一つであって特別なものではありません。

伝統的な文化では、生・死・再生という大きなライフサイクルの中で、魂は普遍性(潜在意識)と個別性(意識)の間を往復すると考えるのです。

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自分にとって愛する人、親密な人は、自分自身の心の一部になっています。

ですから、人が亡くなっても、残された人の心の中に、その人は存在し続けます。

しかし、残された人は、亡くなった人との直接的なコミュニケーションができなくなるので、残された人は自分自身の心の一部を失う危険に立会います。

実は、供養やグリーフケアの本質は、自分自身の心の一部である故人とのつながりを失うことなく、それを成長させることなのではないでしょうか?

人が故人を思い出し、心の中でコミュニケーションをする時、故人は生前と同じ自我、人格を持った存在でしょうか?

故人の自我の背後に隠れていた、潜在意識的なより広い人格の可能性の部分とコミュニケーションをするならば、故人とのコミュニケーションを、そして自分自身を成長させることができます。

伝統的な文化が、人が生きている間も、死後も、より普遍的な方向に成長すると考えていることの意味がここにあります。

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合理的な意識が優位な現代では、「祖霊」や「他界」を信じることはできないので、「千の風になって」の世界観では、人間の心の内在的な創造力は、「自然」=「死者の魂」の中に想定されています。

古代人にとって「他界」は日常的な人格や自然の「死と再生」の基盤でしたが、現代人にとっては「自然」は日常的な人格や体の「癒し」の基盤となっています。

では、その自然は、人間にとって未知の「大自然(奥山の自然)」なのでしょうか、それとも人間が手入れした「半自然(里山)」なのでしょうか、それとも単なる「庭」なのでしょうか? 

故人が死後もマンションのような墓地の中に住み続け、血縁関係の中に位置づけられると考えるなら、故人とのコミュニケーションは窮屈な日常生活の範囲にとどまってしまいます。

それに対して、死後の魂を自然の中に見ることは、コミュニケーションを社会的な関係から解放し、「癒し」となります。

現代人にとって「自然」とは何なのでしょうか?

古代人は、目に見える身近な「自然」の創造力に限界を感じ、その基盤としての「他界」を想定しました。

同じように「個人的な霊魂」の創造力に限界を感じ、その基盤としての「祖霊」を見ました。

しかし、現代人はこのような日常に対する非日常としてはっきりと区分けされた「他界」や「祖霊」を信じることはできません。

資本主義の世界では、「他界」にあった非日常性、新奇性を商品化して日常に中に取り込んでいくので、日常と非日常の境は曖昧となって、「他界」の観念も他の商品と同様なものに陳腐化されてしまいます。

つまり、資本主義社会での実質的な「他界」は「商品世界」、具体的には、繁華街やTV、そしてインターネットや携帯の世界となります。

だからこそ、かつてのauのCMは、「他界」の物語である「鶴の恩返し」をテーマとし、携帯の利用者は鶴の機織を待つことなく、「いきなり」携帯にアクセスすればよいと訴えました。

そしてその後のCMでは、携帯を「庭」だと宣言しました。

「千の風になって」が志向するのは、そんな人為的な非日常性である「商品世界」=「庭」ではないような、「自然」です。

社会関係や資本主義の商品が形作る世界に疲れた人が最後の砦にしている「自然」です。

つまり、「千の風」の「自然」が携帯の「庭」と違う点に宗教的な救いがあるはずですし、逆に言えば、「庭」が「自然」に近づくことにも救いがあります。

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「千の風になって」に見られるような現代的な死後観においては、具体的に、供養はいかなる形になるでしょうか。

死者が自然として生きているなら、死者を「他界」に送るという従来の葬儀の宗教的意味は失われます。

同様に、死者に立派な祖霊になってもらうことを願う神道的な供養の意味も、転生した死者の環境改善を願う仏教的な供養の意味も失われます、というか、これらはずっと以前からもうありません。

仏壇、位牌、墓は、死者が生活空間から離れた他界にいるという前提で、死者とコミュニケーションをするための媒介的な装置です。

伝統的な文化では、創造的な世界との関係が「他界→墓→位牌」、あるいは「他界→お寺→仏壇」という形で構造化されてきました。 

しかし、身近な自然の中で死者と触れられるなら、それらの意味は失われます。

一方、死者を自然に還す散骨や樹木葬、死者との距離を縮める手元供養は需要が増えるでしょう。

ひょっとしたら、風の中にいる死者とコミュニケーションするために遺骨を風鈴にしたり、自然の生命を身近に感じるために鉢の中に散骨して観葉植物を育てるなどの供養方法が、今後は考えられるかもしれません。