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人との共生

2023.03.24 01:44

『共生』この言葉を大切にしています。調べてみたら、

1一緒に生きていくこと

2異種の生物が相手の足りない点を補いながら生活する現象

『自然との共生』というブログテーマも以前に書いており、
私にとって,特別な言葉です。

『共生』

《きょうせい》とパソコンに打ち込んでも、《共生》とはすぐに出てきません。
なじみのない言葉なのかもしれないです。

一緒に生きていくということは、言葉だけ聞くと簡単そうですが、
共に長年生きていこうと誓った夫婦でも難しいことだったりもします。

共生に必要な最初の一歩であり最大の難関は、相手を認めることだと思っています。

一緒に生きるということは、相手を認めることで、それは、相手の凸凹や最終的には、自分の凸凹を見つめることになり、2番目の異種の生物が相手の足りない点を補いながら生活する現象というのに近づいていくのだろうとおもいます。

相手を認めるというのは、相手の凸凹を認めることであり、自分の凸凹と向き合う瞬間でもあります。

私は、この凸凹が違う人に出会うのが好きです。
特に子供は凸凹が大きくて、見ていてうれしくなります。どんどん大きくしてほしい。
自分も凸凹しているからかもしれません。そういう大きい凸凹に親近感が湧きます。

ぴったりと合ったときの幸せや凸凹から生まれるパワーはすごいです。
この子がいてくれてよかった。強くそう思う瞬間です。大人でもそうです。

認めるのが難しい人もいます。だけど、なんとか認めたいと思い、
その人を知っていくうちに、あーそうだったんだと気が付くときがあります。

その瞬間に自分の中の凸凹も変化するような気がします。
いらないものが剥がれるような感覚。私一人では何もできないけど、この人となら何でもできると思う瞬間でもあります。

なので、凸凹した人が大好きです。


だけど一般的には、どうやらそうではないらしい。
できるだけデコボコがなく、何でも一人でこなせる人がいいらしい。

確かに、今まで自分が正しいと思っていたことを相手はしなかったとして、しかも、思いもよらない方法をとったとして、それを認めるのは難しいと思うこともあると思います。

自分と反対の意見を持っている人も。認めるのが難しい人です。


そんな時、どうしますか?

共生とタイプを打つと、矯正とでます。
共生することより、矯正することの方が、一般的なのでしょうか?

『矯正』

1 欠点・悪習などを正常な状態に直すこと。

正常ってなんでしょう?欠点や悪習ってなんですか?

例えば、背骨矯正なんかがありますよね。曲がってるから直しましょう。
でも、正常な状態ってなんでしょうか?

一人で立って歩けなかったら、それは、矯正して歩けるようになった方がいいかもしれません。でも、本当にそうでしょうか?共生してだれかが支えてあげる方法もあるように思います。

相談会をしていると、その人の内側の声のようなものが聞こえます。一人でいる寂しさから症状が出ていることもあります。本当はもっと誰かに助けて欲しいんだろうな。あるいは、助けてあげたいんだろうな。だけど、便利になった社会では、それはかないません。
その気持ちまで矯正しないといけないのでしょうか?

現代では、一人で生きることが政府によって推奨されています。自助努力。自立。
一人一人が一人として生きている。他に迷惑かけない。

そんな社会が人々が幸せに生きる社会なのでしょうか?助け合って、迷惑かけあって、一緒に生きる日々こそ幸せではないでしょうか?
問題があったっていいですよね。その人を認めることができれば。

私も相談会で自律という言葉を使いますが、それは自律です。自分を律すること。内面の話です。自立では決してないです。

そして、最近は、『強制』という字が出てくるようになりました。

『強制』

1,力ずくで、または権力によってさせること。無理じい。

この3つが全く同じ言葉というのが興味深いですね。
共生したい思いは、だれにもあるのかもと思うのです。
だけど、できなくて、『矯正』になり、最後には『強制』になります。

たとえば、仕事場の相手・家族・友達の足りない所が気になるときってあります。
「もうすこし、こうしてくれたらいいのに。」

それは、相手を知り、共生していくチャンスです。だけど、そこに深く向き合わず、手軽に何とかしたいと思ってしまった場合は、相手をなんとか『矯正』しようとするでしょう。
「私に合わせてこうして。」

そして、最後には『強制』してませんか?

「こうしなさい!」

相手には相手の価値観があります。理解できない場合もあると思います。
凸と凸で分かり合えない相手だっているとおもうんです。それでいいと思います。

何でもかんでも相手の言いなりになったらいいということではないのです。

共生とは、ともに生きることなので、相手を認めればいいだけなのです。
受け入れる必要はありません。


では、相手を認めるとはどういうことでしょう?

それは、相手の意見を自分が理解しようとすることです。
その時は、意見だけではなく、その人自身も知ろうとする必要があると思います。

さらに相手の事を知っていくと、自分が気になる問題というのは、自分の中にあることが多いです。相手を知ることで同時に自分を知っていくことになります。
その過程は、痛みを伴う場合もあります。自分にこんな面があったなんてとショックを受けることもあると思います。

だけど、それに出会うことで、こだわりを消すことができて、人との共生への大きな一歩になります。とはいえ、こんな大変なことするくらいなら、相手に矯正してもらうよう、強制したほうがいいに決まってるのかも。

でも、本当にそう思いますか?

共生は、がんばってするものではありません。
共生したいと思ったら、自然に流れていくものだと思います。

相手を「強制」したり、「矯正」することはやめて、「共生」したいと思っています。


様々な考えの人がいてよくて、これが絶対正しいと思っているわけではないです。

ただ、私は、共生を大切にしたい。すべてが共生した社会や地球を作っていきたいと思っています。



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